古代史探訪

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沖ノ島の祭祀

 テレビで沖ノ島の祭祀についての報道がありましたので、興味を持って調べてみました。宗像大社は福岡県宗像市田島に辺津宮(三女、市杵島姫神)、大島に中津宮(次女、湍津姫神)、沖ノ島に沖津宮(長女、田心姫神)が鎮座しています。宗像神社、厳島神社ほか宗像三女神(宗像大神)を祀る神社の総本社です。弁財天・弁才天・弁天も市杵島姫神に同じとされているので関係が深い。
   赤のアイコンが辺津宮、黄が中津宮、緑が沖津宮


     宗像大社(福岡県のパンフレットから)
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 宗像大社・福岡県・宗像市・福津市などの資料によりますと、沖ノ島の祭祀は時代が進むにつれて次のように形態が変わっていきました。

1.岩上祭祀(がんじょうさいし)、4世紀後半から5世紀(古墳時代前期から中期)
  宗像から60km沖合いにある沖ノ島で、大和政権による祭祀は岩の上で行われました。大きな磐座は神が降臨し、神が宿ると考えられ、岩の上に小石を敷いて奉献品を置き、祈りました。奉献品は舶載鏡、国産鏡、石釧(いしくしろ)、武器、工具などで、古墳時代前期から中期の古墳の副葬品と似ています。
  祭祀者は東方に向かって礼拝していたようですから太陽信仰だと考えられます。

2.岩陰祭祀(いわかげさいし)、5世紀後半から7世紀(古墳時代中期から飛鳥時代)
  祭祀は岩陰で行われ、岩陰になっている土の上に奉献品を並べました。奉献品は銅鏡、装身具、武器、武具、工具、須恵器・土師器などで、古墳時代中期から後期の古墳の副葬品と似ています。中には、新羅製の金の指輪、馬具、鉄斧、ペルシャ製のカットグラスなど交易で得た品もあります。奉献品が豪華になってきました。

3.半岩陰・半露天祭祀(はんいわかげ・はんろてんさいし)
  7世紀後半から8世紀前半(飛鳥時代から奈良時代)
  祭祀場が岩陰とその前の露天にまで広がっていきます。奉献品は玉類、武器、工具、土器、金属性雛形祭祀品などで、岩陰とその前の露天に置かれました。舶載品は新羅系から中国系に変わります。これは660年に新羅が百済を滅ぼしたことと関係があるでしょう。
  古墳時代が終わったので、奉献品は宮廷祭祀の祭祀品・神宝などと共通してきます。

4.露天祭祀(ろてんさいし)、8世紀から10世紀初期(奈良時代中期から平安時代初期)
  これまでの祭祀はその都度場所を変えていましたが、ここからは同じ露天の場所に大型の祭壇を設けました。奉献品は国産品で、土器、人形、馬形、舟形、銭、八稜鏡などがあります。
  遣唐使は菅原道真の進言で894年に廃止されますので、国家の祭祀は終焉し、胸形氏(宗像氏、宗形氏)の祭祀に替わります。

 宗像氏の墓域は桜京古墳(宗像市、装飾のある前方後円墳)、東郷高塚古墳(宗像市、前方後円墳)、津屋崎古墳群(福津市)だと考えられています。しかし、宗像の「評」、その後の「郡」以前の古墳については宗像氏と断定はできないようです。
   桜京古墳、東郷高塚古墳、津屋崎古墳群(福岡県のパンフレットから)
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 宗像氏の祖神は大国主命で、大国主命と越の沼河姫の子に建御名方神(たけみなかたのかみ、諏訪大社の祭神)がいます。ムナカタとミナカタは深い関係があります。建御名方神は「宗像の神」という意味でしょうか。宗像(胸形)の語源は宗像の海人族が胸に刺青をしていたから胸形だという説があります。あるいは船に乗って宗像沖から宗像を見ると女性の胸の形をしているからという説も聞いたことがあります。
 志賀剛著「神名の語源辞典」によりますと、宗像(むなかた)の語源は水ナ潟(みなかた)で、玄界灘の海水が引いて平野となったからとあります。
 宗像大社東の釣川の奥深くまで入り江か潟だったのが、気候の変化で海水が引き、釣川が運んできた土砂が溜まり、小平野になったのかもしれませんね。

 大国主命と神屋楯姫の間に事代主命がいますが、事代主命の子孫は初期天皇家と密接に繋がっています。
 宗像氏の祖神が大国主命であるなら、宗像大社の祭神は大国主命のはずですが、実際には宗像三女神となっています。三女神のうちの多紀理毘売(田心姫、奥津島比売)は大国主命の妃になっており、子は阿治志貴高日子根と下照姫がいます。
 宗像大社辺津宮の本殿の千木(垂直切り)と鰹木(5本)は男神を表していますので、元々は大国主命が祭神だったかもしれません。本殿後方の第二宮(沖津宮の分霊)と第三宮(中津宮の分霊)は伊勢神宮から古殿の下付を受けたもので、千木が水平切りで鰹木は6本になっています。沖津宮と中津宮は千木が水平切りで鰹木は2本の女神形です。

 後漢書に記載の倭面土国が宗像周辺だという説があります。素戔嗚が王で、後継者が大国主だという説ですが、私は素戔嗚一族の領域は宗像を含め列島レベルの広範囲で、素戔嗚一族が皇室の基礎を築いたと考えています。

 沖ノ島の祭祀は大和朝廷の国家的な航海祭祀で、23の遺跡の神宝は8万点以上もあり、全て国宝になっています。ですから「海の正倉院」とも呼ばれており、神宝は宗像大社が所蔵しています。
 沖ノ島は島自体がご神体になっているので、通常は上陸できませんが、上陸するには宗像大社の承認が必要です。
 テレビ放送でも上陸前に全裸になって海に入り、禊(みそぎ)をしていました。伊弉諾尊が黄泉の国から帰って、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で禊をしたのもこんな光景だったのでしょう。
 沖津宮では宗像大社の神職1人が10日毎に交代で常駐してご奉仕されています。そして、沖ノ島では今でも女人禁制が守られています。また、かつては沖ノ島で見たことは話してはならないとも言われていました(お言わずさん)。
 今ではテレビ放送もされ、年に一度の沖津宮現地大祭では参拝の許可が出ています。但し、何万人もの申込者の中から250人ほどが選ばれますので、当選する確立は低いですね。上陸すれば沖ノ島の船着場の浜で禊をしますが、全裸でない人が数名いるようですよ。
 禊のあと、山の中腹にある沖津宮まで急な階段を400段ほども登って行くので、登山ですね。

 神功皇后の新羅遠征(西暦363年)には「松浦の君」と「胸肩の君」が軍団の長となっていますので、松浦の君が唐津から、胸肩の君が津屋崎か神湊から、両方の進軍があったと考えられます。
 神功皇后の新羅遠征に神威を示した宗像大神が、300年後の663年に百済救援のために出征した大和朝廷の水軍に神威を示していません。大和朝廷軍は白村江にて1万名の兵を失って、唐・新羅軍に大敗してしまいます。649年頃に宗像郡が建てられ、神郡(かみのこおり、しんぐん)として宗像社に寄進されていましたので、宗像神の祭祀は朝廷から特別に重視されていました。
 しかし、宗像大神に西海鎮護・航海守護の神徳がありながら、新羅出兵に沈黙しているのは中大兄皇子が宗像大神に祈願しなかったのでしょうか。中大兄皇子は宗像から沖ノ島経由ではなく、唐津から壱岐島経由で進軍したのでしょうか。水軍の指揮官は安曇比羅夫ですから、壱岐島経由で進軍したことでしょう。比羅夫は白村江で戦死しています。
 中大兄皇子(38代天智天皇)と違い、大海人皇子(おおあまのみこ、40代天武天皇)は宗像に関係があります。大海人皇子の妃に胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)がおり、高市皇子(たけちのみこ)を生んでいます。高市皇子は672年の「壬申の乱」の将軍です。

 兵庫県立考古博物館の館長、石野博信先生は「沖ノ島の祭祀は、単なる航海安全祈願ではなく、実態としては戦勝祈願ではなかったかと思われる。 日本で大きな古墳を造り始めてからたかだか百年しか経っていない、そういう時に朝鮮半島に軍隊を仕立てて出かけて行くという勢いを持ってきた。」と言われています。そう言えば、沖津宮現地大祭の参拝の時に神職が、日露戦争の日本海海戦の紹介をされるようですよ。

 4世紀の軍の派兵について、神功皇后、武内宿禰、葛城襲津彦などが関わった事が日本書紀に記されています。4世紀は中国の内乱で西晋が滅び、東晋が建国、北方には北魏が建国、5世紀には南北朝時代となっていきます。朝鮮半島では4世紀に高句麗が楽浪郡を滅ぼし南下、広開土王碑文には西暦391年に倭が高句麗に攻めてきたとあります。
 このように4世紀の東アジアは極めて緊張した情勢でしたので、宗像大社だけではなく宮地獄神社など北部九州の神社において航海守護に加え、戦勝祈願が行われたと考えられます。

宗像大社の「みあれ祭」、神の御生れ(みあれ)
 毎年10月1日の海上神幸「みあれ祭」は、辺津宮に宗像三女神が一堂に会して大祭を行います。辺津宮の市杵島姫神が沖ノ島沖津宮の田心姫神と筑前大島中津宮の湍津姫神を乗せた2隻の御座船をお出迎えする祭りです。
 数百隻のお供の船団と筑前大島港を出港し、神湊(こうのみなと)をめざして約15kmを1時間かけて海上パレードを行います。
     宗像大社のパンフレットから
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by enki-eden | 2014-02-26 00:05

奴国の紀元と西暦

 日本書紀の神武天皇の巻に、「天孫が降臨されてから、179万2,470余年になる。」とあります。私は神武天皇の生没年を西暦180年頃~245年頃と見ています。卑弥呼は175年頃~247年頃ですから2人とも同じ頃に生まれ、同じ頃に亡くなったと考えています。
 日本書紀の神武天皇の巻ですから、「179万2,470余年」という極端に長い年限は神武天皇の生没年を示唆していると見れば、「179万」が神武天皇の生年で西暦179年生まれ、「2,470余年」が崩御年で西暦247年か248年と考えられます。日本書紀には随所に「春秋の筆法」が使われており、異常な表記があれば「ここを注意しなさいよ!」という暗示だと考えられます。春秋の筆法については、2012年12月27日(木)投稿の「日本書紀の筆法」をご覧ください。

 日本書紀の神功皇后の巻に、魏志倭人伝の記事が記されています。「神功皇后39年、己未(景初3年、西暦239年)に倭女王は大夫難斗米(難升米)らを洛陽に遣わせた。43年(正始4年、243年)、大夫伊声者掖耶らを遣わせた。」(卑弥呼の記事)
 晋の起居注の記事も引用されており、「66年(泰初2年、西暦266年)、倭の女王が朝貢した。」(臺與の記事)

 神武天皇の年限が西暦と関係があるように見える事と、神功皇后年に200年を足すと西暦年になる事から、記紀成立の8世紀には日本に西暦の知識があったという説があります。

 西暦に関しては、西暦731年にイギリス教会史をキリスト紀元で著して以降、10世紀頃にヨーロッパの一部の国で西暦が使われ始め、ヨーロッパで一般化したのは15世紀頃であるという。西暦が国際社会でもっとも使われる年号となった理由は、キリスト教国であるヨーロッパ各国の世界進出により、非キリスト教国でも西暦が普及したからで、それは大航海時代(15世紀から17世紀)によるものです。(ウィキペディアより要約)

 従って、記紀成立の8世紀初めの日本に西暦の知識があったわけではありません。これは偶然に西暦の紀元と漢委奴国の紀元が一致しているからだと私は考えています。
 更に私見になりますが、初代の漢委奴国王は国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦57年に後漢に朝貢、漢委奴国王金印)で、国常立尊の出生年が漢委奴国の元年となったのではないか。
 その元年が偶然に西暦元年と一致したと私は見ています。4代目の漢委奴国王が角杙尊(つのくいのみこと)で、107年に後漢に朝貢、倭王を兼任して倭王帥升(すいしょう)となります。7代目の奴国王兼倭王は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で西暦125年頃の出生と見ています。(神世7代、かみよななよ)

 奴国から倭国へ、更に邪馬台国から大和朝廷へと王統は連綿と続き、神話の時代(弥生時代後期、1世紀から3世紀)から古墳時代(3世紀から6世紀)へと移っていったのではないでしょうか。連綿と続く王統であっても、皇室には別の系統が何度か入ってきます。その場合でも皇室のシムテムはそのまま継承され、王妃は皇室から出ていますので王統は守られたと考えられます。従って、神話の時代の年限もある程度正確に近い「当たらずと言えども遠からず」の年限推定が可能だと考えています。

 歴代天皇の中で、21代雄略天皇から暦がはっきりしてきますので、そこから逆算して初代神武天皇までの生没年概算を求めることができます。ただ、17代履中天皇からは同世代の兄弟や皇族で天皇職を継承していきますが、初代から16代までは全て親子による継承となっていますから、これは修正が必要です。
 天皇家に仕えた物部氏、葛城氏、和珥氏(和邇)、海部氏、尾張氏、紀伊氏、倭氏、三輪氏などの系譜には誰がどの天皇に仕えたかの記録が残っています。系譜をつき合わせることで、例えば初代神武天皇から10代崇神天皇までは5世代か6世代だと分かります。
 更に、それ以前の神話の時代(弥生時代後期、1世紀初めから3世紀中頃)の年限推定もある程度可能です。いつも言っていることですが、神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる方にはご容赦願いますね。

 日本書紀の神功皇后の巻では、魏志倭人伝と起居注の年代を神功皇后年に200年を足していますが、神功皇后自身の記事に関しては神功皇后年に320年(200年+120年)を足しています。120年の違いは卑弥呼と神功皇后の時代の差です。
 神功皇后49年西暦369年)に千熊長彦が新羅討伐に行った。神功皇后52年(372年)に百済が久氐を日本に派遣し、千熊長彦と共に七支刀を献上しました。現在七支刀は奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう)に所蔵されています。
 神功皇后55年(375年)に百済の肖古王(正しくは近肖古王、375年没)が亡くなった。
 神功皇后56年(376年)に百済の貴須(くるす)が王となる。百済では375年になっている。貴須王が神功皇后64年(384年)に亡くなる。百済でも384年になっている。
 神功皇后62年(382年)に葛城襲津彦が新羅を討つ。
 神功皇后65年(385年)に百済の枕流王(とむるおう)が亡くなる。
 神功皇后69年(389年)に神功皇后崩御。私見ですが、神功皇后の生年は330年頃と見ており、仲哀天皇より10年ほど若いです。

 神功皇后の活躍時期は卑弥呼と臺與の活躍時期とは100年前後の違いがありますが、神功皇后が筑紫に遠征した時に、必ず2人の女王(卑弥呼と臺與)の宮があった所に行って祈祷し、祠を造らせていると思います。
 日本書紀によりますと、「仲哀天皇が香椎宮で亡くなったので、神功皇后は斎宮(いわいのみや)を小山田邑に造らせた。そして自ら神主となり神託を伺い、神を祀った。」とあります。
 香椎宮の東3.3kmの福岡県糟屋郡久山町山田1863に若宮八幡宮が鎮座しており、裏山に古墳があるそうですが、斎宮はこの山田地区近辺でしょう。若宮八幡宮から2.8km北東の糟屋郡久山町猪野604に天照皇大神宮(通称は伊野皇大神宮)が鎮座。糟屋郡久山町は福岡平野のすぐ隣にあり、周りを山で囲まれていますから、奴国王の宮を造るには条件が良いと思います。卑弥呼の奴国での宮は、平野部の香椎宮から山沿いの久山町あたりにあったのではないでしょうか。
     赤のアイコンが香椎宮、黄が若宮八幡宮、青が伊野皇大神宮

 有名なブログ 「ひもろぎ逍遥」に「小山田斎宮」が載っています。小山田斎宮は古賀市にあることが分かりました。     http://lunabura.exblog.jp/i3

 卑弥呼の墳墓は奴国ではなく、伊都国に造られたと推測しています。奴国には大王墓に匹敵するような墳墓は今までのところ発見されていません。伊都国には、三雲南小路王墓、井原鑓溝王墓、原田大六氏で有名な平原王墓など多くの大王墓があります。奴国と伊都国は姉妹国家のような間柄だったのか、あるいは2世紀以前は合体していたのかもしれません。
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 また、神功皇后は新羅遠征の帰りに穴門(山口県下関市)の山田邑に住吉大神の荒魂(あらみたま)を祀ったとあります。下関市一の宮住吉1-11-1に鎮座の住吉神社(長門一宮)です。
 神功皇后は穴門に豊浦宮を造らせています。下関市大字豊浦村(とよらむら)として地名が残っています。  近くの下関市長府宮の内には忌宮神社(いみのみやじんじゃ、長門二宮、豊浦宮跡)が鎮座しています。
     赤のアイコンが住吉神社、黄が忌宮神社


 このあたりが臺與の宮があった所ではないかと私は考えています。臺與は266年に西晋に朝貢してからは、大陸内乱と列島の中心地域が筑紫から大和に移ったことで、270年頃に大挙して大和へ東遷したのではないかと考えています。その場合は狗奴国が筑紫を支配することになったでしょう。
 臺與は295年頃に大和で亡くなり、箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫)に葬られたのではと考えています。しかし、文献には臺與東遷の記述はありませんので、私見です。大和での今後の発掘報告に期待をしています。


 10代崇神天皇陵の向かいにある黒塚古墳の出土物に難升米の黄幢かもしれない出土物があります。正始8年(248年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、難升米に黄幢(軍旗)と詔書を手渡しています。「黒塚古墳」については、2012年12月25日(火)の投稿をご覧ください。
 文献資料や神社伝承と考古学などを綜合して古代史を考える必要があると私は考えています。

               *****
女子フィギュアスケート、浅田真央が世界中から賞賛!
 ショートプログラムで浅田真央の体が動かなくて、思いもかけない不調で皆が心配していました。私も気分が沈み、寝不足もあって落ち着きませんでした。
 ところが、フリーの演技で渾身のパフォーマンスを世界に発信できて、世界中から賞賛の温かいコメントが寄せられました。メダル以上の感動と涙を世界中に与えてくれましたよ! 私も家内も幸せな気分に戻りました。
 ロシアのプルシェンコは引退する予定ですが、4年後に体調が戻ればオリンピックに復活するかもしれませんね。プルシェンコはツイッターで浅田真央に「君は偉大だ! ありがとう! 君は真の戦士だ!」と英語で絶賛しています。
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by enki-eden | 2014-02-23 00:07

高津宮(こうづぐう、こうづのみや)

 大阪市中央区高津(こうづ)1丁目1-29 電:06-6762-1122 駐車場はありません。
 祭神  仁徳天皇(16代)
      仲哀天皇(14代)、応神天皇(15代)、神功皇后
      葦姫皇后、履中天皇(17代)

 浪速(なにわ 難波)の地を都(高津宮 たかつのみや)と定め大阪の基を築いた16代仁徳天皇を祀るのが高津宮です。都心の小高い丘に鎮座。
 仁徳天皇については2013年2月24日(日)投稿の「仁徳天皇」をご覧ください。
 日本書紀によると、『仁徳天皇が高殿に登って遥かに眺めると、人家の煙が見られない。いま自分が政について3年になるが、褒め称える声も起こらず、百姓が窮乏している。今後3年間は課税をやめる。』と言われました。
 神社の由緒によると、創建は56代清和天皇の866年の勅命によって、仁徳天皇旧都の遺跡を探索して社地を定め、社殿を築いてお祀りしたのが始まりです。以後浪速津の守護神として信仰され、その後700年を経た106代正親町天皇(おおぎまちてんのう)の1583年、豊臣秀吉の大阪城築城により、1.5km南西の現在地・比売古曽社に遷座しました。そして比売古曽社の下照比売命を地主神としました。

     
     赤のアイコンが高津宮、黄が道頓堀川、青が難波宮跡公園


 大阪市歌の1番
 『高津の宮の昔より 代々(よよ)の栄(さかえ)を重ね来て 
 民のかまどに立つ煙 賑い(にぎわい)まさる大阪市 賑いまさる大阪市』

 1945年3月の戦火を浴び神輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失しましたが、戦後の奉賛により1961年10月社殿が復興完成しました。

     表参道入り口の鳥居
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     由緒
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     参道。両脇は高津公園になっている。
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参道の梅の橋。江戸時代の橋の下は梅川が流れており、道頓堀川につながっていた。
当時の周辺は梅の名所だったが、現在は桜が美しく桜の名所になっています。夜桜も有名。
境内には70本以上の桜の木があり、4月には桜まつりが行われます。
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     献梅碑
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     手水舎
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     拝殿
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    立派な本殿(千木は垂直切り、鰹木は3本)
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 本殿左に摂社・比売古曽神社(下照姫命)、右奥に仁徳庭園入り口があります。
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    境内の西に相合坂(あいおいざか 縁結びの坂)
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     本殿右に高倉稲荷神社
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    高倉稲荷神社の右に安井稲荷神社(東側には梅林があります。)
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    安井稲荷神社の谷下に谷末社(三社)が鎮座。
    白菊社(草野姫命 かやのひめのみこと)、千年社(大市姫命)、常高社(大山祇命)
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    陰陽石
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by enki-eden | 2014-02-20 00:08

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)②

 生國魂神社は大阪市営地下鉄の谷町9丁目駅から歩いて4~5分もかかりませんが、途中にはラブホテルが並んでいます。お寺や幼稚園もあります。
 生國魂神社の巫女さんは美人ですよ。写真は撮りませんでしたが・・・撮れば良かったかな・・・
 境内社
   皇大神宮、祭神は天照皇大神で伊勢神宮内宮の御分霊。
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   住吉神社、祭神は底筒男神、中筒男神、表筒男神。
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      天満宮
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   鴫野神社(しぎのじんじゃ、市寸島比売・大宮賣神・淀姫神)とご神木
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 城方向(きたむき)八幡宮は大坂城鬼門鎮護の社で大坂城の方を向いて北向きに建てられています。祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足媛命(神功皇后)、玉依比売命。
 生国魂神社は元々大阪城の地に鎮座していたが当地に遷座しました。当時大坂城の大手門は生玉門と呼ばれていました。
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 家造祖(やづくりみおや)神社。家造りの祖神を祀り、建築業者から崇敬される。祭神は手置帆負神(たおきほおいのかみ)、彦狭知神(ひこさしりのかみ)。
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   浄瑠璃神社(近松門左衛門ら文楽関係者を祀る。芸能上達祈願。)
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 鞴(ふいご)神社。鉄鋼・金物の神、かまどの神として信仰される。天目一箇神(あめのまひとつのかみ)、石凝杼売神(いしこりどめのかみ)、香具土神(かぐつちのかみ)を祀る。
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 稲荷神社、祭神は倉稲御魂神(くらうかのみたまのかみ)。佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)からの分祀。祐徳稲荷神社をテレビ報道で見ましたが大変立派な神社でびっくりしました。
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   源九郎稲荷神社。奈良県吉野郡の源九郎稲荷神社の分祀。
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   精鎮(せいちん)社、事代主神(恵比須)、比咩大神(弁天)を祀る。
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   井原西鶴の像
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                 *****
オリンピックフィギュア男子で羽生結弦(はにゅう ゆづる)選手が金メダル!
 2月15日(土)深夜(早朝)0時半から5時まで男子フィギュアのテレビ放送を見ました。
 あまりの白熱振りに眠さも感じずに最後まで観戦。感動しましたよ!
 19才の羽生選手は仙台市出身で、東日本大震災で被災し各地を転々と移動して練習、今のコーチのブライアン・オーサーの指導でめきめき成長しました。
 東北高校と早稲田大学で荒川静香さんの後輩です。特にロシアのエフゲニー・プルシェンコ選手を尊敬しているようですが、プルシェンコ選手は今回の練習中に腰を痛めて棄権し、引退してしまいました。
 これからの男子フィギュアは羽生選手とカナダのパトリック・チャン選手が引っ張っていくことでしょう。
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by enki-eden | 2014-02-17 00:10

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)①

 大阪市天王寺区生玉町13-9  電:06-6771-0002  無料駐車場あります。
 祭神: 生島大神(いくしまのおおかみ)、足島大神(たるしまのおおかみ)
      相殿に大物主大神
 創建: 初代神武天皇の時代(3世紀初め)

   赤のアイコンが生國魂神社、黄が元宮(大阪城の一角)


 旧社格は官幣大社で難波大社(なにわのおおやしろ)ともいう。地元の人は生玉(いくたま)さんの通称で呼んでいます。地名も生玉町です。
 神社入り口に「難波大社 いくたまさん」と看板が出ています。
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 伝承によると、神武東征の時、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端に、日本列島そのものの神である生島大神と足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことに始まるという。大阪最古の日本総鎮守の神社です。後に大物主大神を相殿に祀る。
 社殿は現在の大阪城の一角にあったが、1580年の石山合戦により焼失。豊臣秀吉による大坂城築城に際して、1585年に3km南南西の現在地へ遷座、秀吉は300石の社領を寄進して社殿を造営した。
 本殿は「生国魂造り」と呼ばれ、本殿・幣殿の屋根が一つの流れ造り、しかも千鳥破風、すがり唐破風・千鳥破風の三破風を据えた独特の建築様式で、桃山文化の豪壮な造りを伝えたものとされています。1615年には大坂夏の陣の兵火にかかりましたが、徳川秀忠によって再建され、これまで通り300石の社領が寄進されました。
 1912年1月の大阪ミナミの大火により焼失し、翌年再建。1945年3月の第1回大阪大空襲により焼失し、4年後に再建されたが1950年9月のジェーン台風により倒壊。社殿が何度も消失したので、1956年に鉄筋コンクリート造り銅板葺きで再建された。本殿と幣殿はひとつの屋根で葺きおろしとなっています。

 生玉夏祭が7月11日~12日に行われます。大阪天満宮の天神祭、住吉大社の住吉祭(夏祭り)とともに大阪三大夏祭として知られています。
     表参道大鳥居と社号標
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       北門
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   拝殿は回廊で幣殿・本殿に結ばれている。
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     本殿(生国魂造)
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   生国魂神社お旅所跡(元宮跡、大阪城公園)
   大阪市中央区大阪城1−1   現在でも7月12日の夏祭り本宮で神輿が渡御する。
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     道路の向こうは大阪歴史博物館。右隣はNHK。
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     大阪府警察本部
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     現在のお旅所(行宮)は、大阪市中央区本町橋8‐5にあります。


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日岡神社の亥巳籠(いみごもり)
 兵庫県加古川市加古川町大野の日岡神社で2月9日(日)、安産祈願・無病息災の「亥巳籠」が始まりました。旧正月の明けた亥の日(2月9日)から巳の日(2月15日)までの1週間、日岡幾朗宮司らが本殿に籠もり、音を出すことを禁じて朝から祈祷します。拝殿の鈴も音が出ないように柱にくくられています。
 播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が12代景行天皇の子・日本武尊を出産するときに、人々が安産を祈り屋内に籠って静かに暮らしたという伝承による伝統行事です。やはり日本武尊は播磨稲日大郎姫の里で生まれたのですね。なぜ播磨国風土記には記載されていないのでしょうかねぇ。
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by enki-eden | 2014-02-14 00:07

厄神祭塚(神戸市須磨区)

 多井畑厄除八幡宮(たいのはたやくよけはちまんぐう)の丘頂上に鎮座の厄神さんです。
 通称は多井畑の厄神さん
 兵庫県神戸市須磨区多井畑字宮ノ脇1  電話 078-741-0827  駐車場あります。



 770年(神護景雲4年)に疫病が大流行したため、それを鎮めるために畿内10ヶ所に疫神を祭って疫神祓いを行わせたと続日本紀に記されており、古山陽道の播磨国と摂津国の境である当地に厄神が祀られました。日本最古の厄除けの地として伝えられています。
 その後、安元年間(1175~1177年)に石清水八幡宮(京都府八幡市男山、やわたしおとこやま)をこの地に勧請し、神社を創建しました。神紋は両八幡宮とも「橘」と「左三つ巴」です。
 本殿左横の階段を上ると、丘の上に厄神祭塚が鎮座。ひながた(ひとがた)に名前と数え年を書いて厄を流す霊場です。
 1月18~20日には、厄年のお祓いや疫病退散、病気平癒の祈願をする参拝者で大賑わいになります。屋台もたくさん並びます。
 小高い丘の上にある厄神塚は工事中でしたが、昨年末に完成しました。多井畑厄除八幡宮については昨年12月1日(日)投稿の記事をご覧ください。

    一の鳥居を過ぎると、「日本最古の厄除の霊地」と大きな看板があります。
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    拝殿
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   本殿前で厄除けのご祈禱中。提灯には神紋の橘と左三つ巴が描かれています。
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       神紋の橘
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 八幡神の神使いは鳩です。手水舎の石に鳩が二羽彫刻されており、八幡の八の字を描いていますが、本殿横の蔵にも鳩が二羽向かい合って、八幡の八の字を表しています。
 京都府八幡市の市章は、二羽の鳩が向かい合って八の字を描いています。
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本殿左横の階段を登ると、丘の上に厄神さんが鎮座しています。立派に新築されました。
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     由緒
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 厄神塚の拝殿に厄除けのひながたを水に流す石の槽があります。
 「厄災を祓ひ給ひ 清め給ふ」と記されています。
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 厄神塚、六角形の垣根に囲まれています。
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 垣根の中に土盛りがあります。
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 (ちょっと一服)
 熊本県八代市(やつしろし)豊原上町3011に鎮座のユニークな名称の神社があります。豊葦原神社(とよあしはらじんじゃ)で、通称は遥拝神社(ようはいじんじゃ)です。
 祭神は、国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、沙土煮尊、大戸之道尊、大苫邊尊、面足尊、惶根之尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照皇大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、彦火々出見尊、鵜草葺不合尊、建磐龍命、阿蘇津姫命、国造明神、相殿に仲哀天皇、応神天皇、神功皇后です。
 創建は758年ですから奈良時代の後期ですね。鳥居は素朴でどっしりと逞しい肥前鳥居ですよ。神社の横を球磨川が流れています。

 八代から肥薩線(ひさつせん)で球磨川沿いに52km山奥に入っていくと人吉(ひとよし)があります。先日、テレビ報道で人吉観光を見ましたが、温泉や川下りもいいですし、景色もいいですが焼酎もよさそうですね。米焼酎「金しろ」というブランドを紹介していましたので、次に焼酎を買うときは探してみます。播磨でも「金しろ」を売っているでしょうかね。
 やはり焼酎は九州ですね。今飲んでいるのも佐賀県産と奄美大島産です。
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by enki-eden | 2014-02-11 00:30

纏向遺跡(まきむくいせき)

 奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)で新たな建物跡を発見!
 


 纒向遺跡を調査中の桜井市教育委員会は2月6日、方向や中軸線をそろえて立ち並んでいた3世紀前半の建物跡3棟の東側で、新たに建物跡1棟を見つけたと発表した。方向、中軸線とも3棟と一致し、同市教委は建物群の一つと判断。「他にも建物が並んでいた可能性もある」と見ている。
 新たに建物跡が見つかったのは3棟から東に約36.5m離れた地点。方形の柱穴が10個(一辺40~60cm)見つかり、規模は東西3.4m、南北6.7mと小さく、柱材が一部残っていた。
 周辺ではこれまでに3~6世紀の建物や区画溝などの跡が発見され、市教委は「この場所で居館を何度も建て替えたのでは」としている。
 纒向遺跡は、関東から九州まで広範囲から搬入された土器などが出土し、古代国家形成期を探る鍵となる遺跡として国史跡に指定されている。
 発掘現場東端から3世紀後半~4世紀前半の南北方向の溝跡も出土した。
 市教委は、宮殿エリアには3世紀前半~6世紀初頭の約300年間に、少なくとも4時期の首長の宮殿施設が存在した可能性があるとしている。

 新聞では「卑弥呼の宮殿」と報道していますが、卑弥呼は筑紫から大和に来たことは無いと思います。私見ですが、邪馬台国2代目女王の臺與が266年以降、270年頃に大和へ東遷してきた可能性は高いと考えています。それが正しいのであれば、臺與は記紀に7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫として記され、箸墓古墳に葬られた可能性が高いと思います。
    纏向遺跡の範囲(これより北の天理市にまで広がっている可能性があります)
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       建物跡、赤い点線は柵列跡です。
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  桃の種が2,765個も出土しています。祭祀には桃が重要な役割を担っていました。
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 幅約2.5mの溝跡も出土しており、建物は柵で囲まれ、その外を溝が取り囲んでいたのでしょう。4世紀後半になると、溝が周壕に変わり、5世紀から6世紀になると石張りの周壕も見つかっています。
 また、桜井線のレールの下にも建物跡があると推定されていますが、発掘は出来ません。
 建物が東の方角を向いているのは、太陽信仰の表れと考えられます。
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by enki-eden | 2014-02-09 00:05

神本神社(こうのもとじんじゃ、神戸市西区)

 神戸市西区枝吉4丁目7-2   播磨吉田遺跡(弥生時代前期)の中腹に鎮座。
 祭神: 伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冊命(いざなみのみこと)、
      国常立命(くにのとこたちのみこと)、大日霊売命(おおひるめむちのみこと)
 創建: 1621年に神本大明神を祀る。



     入り口の鳥居(神本大明神)
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      由来記
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      境内社の稲荷神社(稲蒼魂命)
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      階段を登ると拝殿
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      拝殿
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は3本)
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     本殿右に天照皇大神(千木は水平切り、鰹木は6本)
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 その奥に4柱の神を祀る。左から大歳社(御年神、豊作の神)、天神社(菅原道真、学問の神)、猿田彦社(猿田彦命、先導役)、大神宮社(大日霊尊、へびの神)
 天照大神(大日霊売命、天照皇大神、大日霊尊)を二重、三重にお祀りしていますね。よくあることですが・・・
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by enki-eden | 2014-02-06 00:03

吉田郷土館(神戸市西区)

 神戸市西区枝吉4丁目7-1   電: 078-927-7815  無料駐車場あります。

     赤のアイコンが吉田郷土館、黄が吉田大塚古墳。


 1階の歴史資料展示室では、明石平野出土の弥生式土器などを展示しており、模型とパネルの展示も行っています。入り口ではマルチビデオによる解説もあります。

 吉田郷土館の説明では、『明石川流域の湿地帯であったこの地が、豊穣の大地に生まれ変わったのは、2000年以上前の弥生時代になってからのことです。広大な湿原が黄金の穂波に覆われる肥沃な耕地となり、人々は営々とこの地で農耕を営み、平和な農村のくらしを守り続けてきたのです。
 この地に誕生した最初の農村は、明石平野の西方を限る台地上の吉田と片山で、この二つの集落遺跡は近畿地方で最古の農耕村落址として広く知られています。その後、玉津田中遺跡をはじめ、新方遺跡(しんぽいせき)や池上口ノ池遺跡など、明石平野とその周辺に、次々と大規模な集落が成立し、その後の繁栄の基礎をつくったのです。』

       吉田郷土館
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       明石平野の遺跡(部分)
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       吉田郷土館に隣接して「遺跡の庭」が造られています。家形石棺
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       吉田大塚古墳の模型
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       吉田南遺跡の明石郡衙模型
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   郷土館の背後の台地は播磨吉田遺跡。
   戦国時代には枝吉城(えだよしじょう、しきつじょう)が築かれた。
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       播磨吉田遺跡・枝吉城址
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by enki-eden | 2014-02-03 00:09