古代史探訪

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粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ、兵庫県たつの市)

 兵庫県たつの市龍野町日山463(揖保川中流沿いに鎮座)、 電話 0791-62-0789
 駐車場ありますが、道路と入り口が狭い。
 宍粟市の揖保川上流沿いの伊和神社、神戸市垂水区の海神社とともに播磨三大社。
 祭神 天照国照彦火明命(穂赤熟命)
 地元の通称は、りゅうざじんじゃ(粒座神社、龍座神社)。

 創建 594年(推古天皇の時代)に的場山(まとばさん、394m)の上に天津津祀神社(あまつつしじんじゃ)を創建。1441年に兵火により焼失、揖西町小神に遷座(現在は境外社・前宮・古宮神社となっている)。もとの鎮座地・的場山の天津津祀神社は同じく境外社・元宮・奥宮となっている。
 蜂須賀小六(1526年-1586年)が播磨龍野城主の時に、小神から現在の日山(白鷺山)の麓に遷座し、次の城主の福島正則(1561年-1624年)が社殿を造営したとあります。
 海部氏・尾張氏の祖・天照国照彦火明命の「天照」は通常「あまてる」と読み、「あまてらす」と読むのは珍しい。


 播磨国風土記では、火明命は大汝命(大国主命)の子で、大汝命と仲が悪かったと記されています。私見ですが、火明命の生年は140年頃、大国主命は160年頃と見ています。古代、当地に住む火明命系と大汝命系の人々の仲が悪く、大汝命系の方が勢力が強かったことの表現かもしれません。

 由緒によりますと、33代推古天皇の時代に伊福部連駁田彦(いふきべのむらじふじたひこ)という長者がいた。天火明命の使いが現れ、一粒の稲種を授かる。これが実って一万倍になった。それ以来天火明命を氏神として祀り、郡を粒(いいぼ)と呼ぶことになった。
 粒(いいぼ)の地名伝承は、播磨国風土記には葦原志挙乎命(大国主命)と天日槍命が争った時の米粒の話になっています。いづれにしても粒(いいぼ)は米が元になる地名伝承です。播磨国揖保郡(いぼぐん、いいぼのこおり)、揖保川(いぼがわ)の名は粒(いいぼ)からきています。

   一の鳥居(扁額は粒坐天照神社)と社号標(式内粒坐社)、奥に二の鳥居
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     二の鳥居(扁額は粒坐社)から随身門を望む
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     随身門、杉はご神木、立派な石垣が続く。
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     右手にも新しい鳥居、その奥の鳥居は摂社・菅原神社の鳥居。
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     拝殿の前に絵馬殿
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     拝殿
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は5本)
     本殿左手に小さな湧水舎がありますが、水は流れてきませんでした。
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     厳島神社(市杵島姫命、須佐之男命の姫君)が本殿に向かって左手に。
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   西五社(西は本殿に向かって左、灯篭の宝珠の部分が矛になっています)、
   住吉神社、愛宕神社、恵美須神社、秋葉神社、稲荷神社。
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   西二社、右が琴平神社で大物主神、左が瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)で
   手置帆負命(たおきほおいのみこと、讃岐忌部氏の祖)。
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   東三社(東は本殿に向かって右)、稲荷神社二社(倉稲魂命)、
   薬司神社(少名毘古那命、大名持命)
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     大神宮(東三社の右手、天照大神、天津児屋根命、品陀和気命)
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     大神宮の右手に菅原神社と紅白の梅
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      菅原神社の右手の急な階段を登る。
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     瑜伽神社(ゆうがじんじゃ、手置帆負命)、急な階段のため途中で一服。
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by enki-eden | 2014-03-31 00:07

賀茂神社(兵庫県たつの市)

播磨国室社、平安の薫り
 美しい播磨灘に面して鎮座。平安時代に京都の上賀茂神社の直系御厨(みくりや)になりました。
 兵庫県たつの市御津町室津75   電話 079-324-0034  駐車場あります。
 祭神 賀茂別雷命、建速須佐之男命、菅原道真命
 摂社 片岡社(賀茂建角身命)、太田社(意富多多泥子命)、
     椙尾社(天照大神・豊受大神)、貴布祢社(高龗神)、
     若宮社(玉依日子命)、摂社は本殿左右に鎮座。

 
 室津港は古代から瀬戸内航路の重要な拠点港として栄えました。
 1826年にシーボルトが当社を訪れています。



 次の地図の青いマークが駐車場ですが、私は車を友君橋下駐車場(赤いマーク、無料)に停め、町並みを楽しみながら800mほど歩きました。
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   友君橋から見る室津港と、向かいの岡に賀茂神社が鎮座しています。
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    室津港の道沿いに小さな金刀比羅社
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     室津港
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     情緒あふれる室津の町並み
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     入り口の鳥居(急な階段を登っていく)
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     案内板
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     白鬚社(猿田毘古神、道祖神と云われ航海安全・農耕と長寿の神)
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     参道のソテツ
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     梶田社(瀬織津姫神)
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     神門(四脚門)
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     恵美酒社(辞代主神、ことしろぬしのかみ)
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     拝殿は境内をはさんで本殿と対面する「とび拝殿」です。
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本殿、摂社、権殿は桧皮葺流れ造りで、唐門、東回廊、西回廊を含め全て国重要文化財。本殿の右に片岡・太田社と椙尾社、左に貴布祢・若宮社と権殿の5社殿が鎮座しているが、椙尾社(榲尾社)にだけ水平切りの千木と鰹木が3本あります。
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     賀茂の愛の榊(連理の榊、夫婦の絆・良縁)
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   御祖社(玉依日売命、別雷命の母神)と
   後ろに河合社(伊可古夜姫神、玉依日売命の母神)
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     八幡社(品陀和気命)
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 大きな板石。宮司さんに由来を尋ねましたが、「村にあった石をここまで運んだようですが、由来は伝わっていません。こんな急な岡にどうやって運んだのだろう。」とのご返事でした。後ろは参籠所。
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     大宮社(賀茂建角身命、少名毘古那命)
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     境内からは漁船が帰港するのが見えます。後ろは播磨灘。
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     岡の下の巨石
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    帰りに「道の駅みつ」で休憩
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     竜山石とそっくりですから、このあたりの地層も凝灰岩でしょうか。
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 9km沖合いの家島から採石して、古くは大阪城、現代では関空、中部国際空港、神戸空港に運んで、基礎工事に使っています。遠方に見えるのが家島諸島です。
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by enki-eden | 2014-03-28 00:10

平野八幡神社(神戸市西区)

 厄除のお宮
 兵庫県神戸市西区平野町慶明184  電話078-961-4778 無料駐車場あります。
 祭神 誉田別尊(15代応神天皇)、玉依姫命、気長足姫命(神功皇后)、
     足仲彦尊(14代仲哀天皇)、大鷦鷯尊(16代仁徳天皇)

 8世紀に宇佐八幡宮より勧請されました。社殿は西南西を向いており、地図で調べると宇佐八幡宮の方向です。この方向は、「夏至の日の出」の反対方向でもあります。夏至については、2013年6月16日(日)投稿の「太陽信仰における夏至」をご覧ください。


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     田中川に架かる太鼓橋と鳥居
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   鳥居と社号標の間は国道175号線が走っているので、国道下のトンネルを通る。
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     社号標
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     注連柱(天壌無窮、厄除八幡宮)と楼門(左大神、右大神)
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     説明板と能舞台
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     手水舎の龍
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     拝殿
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     本殿、千木は外切り、鰹木は5本です。
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     拝殿と本殿、右の赤瓦の建物は蔵。
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     左が能舞台、中央が社務所、右が手水舎。
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   境内社、向かって右から春日四柱大神、伊弉諾大神、天照皇大御神、
   加具都智大神、猿田彦大神。
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     末社・稲荷大神、拝殿に向かって右脇。
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     末社・蛭子大神、拝殿に向かって左脇。
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     東からの入り口
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     太鼓蔵
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 八幡宮由緒の概略
 当宮は西暦680年、天武天皇の8年9月15日、豊前国宇佐八幡宮より勧請されたるものにして、祭神は玉依姫命、足仲彦尊、誉田別尊、気長足姫命、大鷦鷯尊の五柱であります。
 848年に社殿を再建した記録があり、以来幾度か修復再建が繰り返され、現在の社殿は明治29年5月再建され、瓦葺であったが老朽化が甚だしく、昭和60年9月拝殿を、61年本殿を修復、銅板葺としたものである。
 当宮は徳川将軍より御朱印(1647年)、高9石を下され、明石藩主松平兵部大輔殿以来萬延元年正月まで引き続いて216年御朱印領として栄えた。
 現在建造物の主なものは、本殿銅葺流造6坪、拝殿銅葺入母屋造16坪2合5勺、門守3坪、能舞60坪、付属として昔は橋掛り楽屋等があった。
 尚、内陣には武内宿禰命、武速素戔嗚命を祭り、境内神社は右から春日大神、伊弉諾大神、天照皇大御神、加具都智大神、猿田彦大神があり、末社として稲荷大神、蛭子大神がある。


 平野八幡神社は駐車場への道が狭いですが、心が休まるいい神社ですよ。

 祭神の武内宿禰の年令は数百才という説があります。5代の天皇に仕え、天皇の崩御が100才以上ですから、武内宿禰は数百才生きたことになるというものです。当時は春分と秋分でそれぞれ1年の区切りになりますから、100才といっても50才です。21代雄略天皇の時に暦が是正されるまで春秋年が使われています。
 武内宿禰は当時としては天寿を全うしたと思いますが、70才余りだったと考えています。西暦310年頃に生まれ、380年代に亡くなったと見ています。
 武内宿禰は12代景行天皇(285年頃生誕)から16代仁徳天皇(380年頃生誕)まで5代の天皇に仕えたと記されています。13代成務天皇(310年頃生誕)と同じ日に生まれたとされていますので、景行天皇、成務天皇、14代仲哀天皇(320年頃生誕)、神功皇后(330年頃生誕)、15代応神天皇(363年生誕)まではしっかりと仕えたことでしょう。
 仁徳天皇が生まれた頃にも生存していた可能性はありますが、武内宿禰はその頃は70才ぐらいですから、常に天皇に仕えることは無理かもしれません。仁徳天皇には6男の葛城襲津彦が代理として仕えたことでしょう。襲津彦は皇室から「武内宿禰代行」として処遇されたのではないでしょうか。
 襲津彦は娘の磐之媛を仁徳天皇の皇后にしています。磐之媛は嫉妬深くて仁徳天皇は閉口したようですがね。

 応神天皇の時代に葛城襲津彦や平群木菟宿禰の助けで弓月君(融通王)が渡来し、その後河内に巨大古墳が築かれますが、弓月君一族の土木技術のお陰でしょう。
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by enki-eden | 2014-03-25 00:05

御厨神社(みくりやじんじゃ、兵庫県明石市)

 兵庫県明石市二見町東二見1323  電話 078-942-3461 無料駐車場あります。
 祭神 15代応神天皇(誉田別尊)、菅原道真、素戔嗚命(牛頭天王)
 
 江戸時代の地誌、播磨鑑(はりまかがみ)には「天満宮」とあり、「左・天満天神(菅原道真)、中・八幡宮(応神天皇と神功皇后)、右・牛頭天王を三社相殿に祀る」とある。

 梅(二見梅林、ふたみばいりん、約300本)と桜の名所です。

 社伝によりますと、神功皇后の西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、土地の者が食物を奉った所という。その故事により御厨(神饌を調進する所)の名が起こった。御厨は鎌倉時代には全国で500ケ所以上もあったといわれ、荘園のようなものです。
 9世紀後半に八幡宮を勧請、901年に菅原道真が大宰府へ行く途中に二見の仮寝の岡(700m南東)に上陸したことにより、10世紀後半に天満宮を勧請した。現在は君貢神社(きみつぎじんじゃ、伊弉諾尊)として残っている。そして11世紀半ばに「卯の花の森」(現在の御厨神社)に遷宮して鎮座しています。
 ここでも「神功皇后と卯」が繋がっていますね。祇園祭が7月10日、11日に執り行われます。



     一の鳥居と二の鳥居、左に駐車場があります。
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     二の鳥居と随身門
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     菅公仮寝の松
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     割拝殿
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     拝殿の絵馬
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 幣殿内、土地柄から海運関係者の尊崇が厚く、船の模型や絵馬が奉納されている。
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     後方に本殿、千木は垂直切り、鰹木は5本です。
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     本殿の彫刻
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 境内社
 右から金刀比羅神社(大物主命)、秋葉神社(武甕槌命)、由加神社(手置帆負命)
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   霊牛神社、牛の像があります。菅公と牛はつきものですね。
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   京極稲荷神社(宇迦能魂命、大山祇命)
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境内社は他に、高良神社(武内宿禰、大年神)、朝日神社(天照大神)、夕日神社(豊受大神)があります。

    梅林
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     砲弾か?
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     忠魂碑
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 神功皇后と卯
 大阪市住吉区の住吉大社の創建が辛卯年(391年?)の卯月卯日で、神使いがウサギになっています。手水舎は龍ではなくウサギです。境内には翡翠の撫で兎があります。
 大阪府豊中市若竹町の若宮住吉神社の創建は1615年の卯年で、瓦製の兎像が安置されています。
 神戸市東灘区の住吉神社の塀の上に瓦製の飛び跳ねる兎像と拝殿の欄間に兎の彫刻があります。
 明石市魚住町の住吉神社の創建が464年4月(卯月)の初卯日で、創建を祝う「卯の花祭」があります。手水舎は同じくウサギです。

 住吉神社の縁起がウサギに集中しているのは何故でしょうか。創建月日は卯年、卯月、卯日などに合わせて竣工したのでしょう。後付けかもしれませんけどね。
 やはり卯年、卯月でなければならない元の伝承があるのでしょうね。例えば神功皇后が卯年生まれであれば331年ですし、卯年に崩御であれば391年になりますが・・・
 私見ですが、神功皇后の生年は330年頃、崩御年は389年と見ています。

 宇佐神宮に神功皇后が三之御殿に祀られたのは、823年の卯年です。宇佐とウサギ(宇佐岐)も関係がありそうですね。御伽噺の「因幡の素兎」も宇佐、稲葉川、和珥氏(鰐)、大国主と宗像三女神について暗示しているようです。

 兵庫県加古川市八幡町上西条の八幡神社では応神天皇(八幡神)の誕生を祝う初卯祭(はつうさい)が執り行われます。応神天皇は立春後、最初の卯の日に生まれたとの伝承です。
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by enki-eden | 2014-03-22 00:08

長尾神社(奈良県葛城市、春分秋分の太陽の道)

 奈良県葛城市長尾471  電話 0745-48-3018  車は境内に停めます。
 祭神 天照大神、豊受大神(伊勢神宮と同じ)
     水光姫(みひかひめ)命、白雲別(しらくもわけ)命(水光姫命の父神)
 創建は平安時代初期(8世紀末)と考えられます。

 祭神の水光姫命は記紀に「光った体に尾があった」と記されています。日本書紀によりますと、「神武天皇が東征の途中、吉野で井戸の中から出てきた人に遇った。その人は体が光って尻尾があった。名を井光(いひか)といった。吉野の首部(おびと)の先祖である。」とあります。
 社伝によると、祭神は白蛇の姿で降臨した水光姫命です。別名は豊御富(とよみほ、とよみとみ)です。

 一の鳥居から二の鳥居まで東西に長尾神社の参道が続いています。社殿は真東の三輪山・大神神社を向いて、長尾の森に鎮座しています。また真東の伊勢には伊勢神宮が鎮座しているので長尾神社は古から篤い信仰を得ています。
 春分と秋分には太陽が大神神社の三輪山から昇り、長尾神社の二上山に沈みます。
 蛇の頭が大神神社で尾が長尾神社と言われています。蛇の胴体は、大和高田市の石園座多久虫玉神社(いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ、竜王宮)です。
 奈良県磯城郡田原本町の多神社も三輪山の真西にあり、三輪山を遥拝する神社です。多神社については、昨年4月14日(日)投稿の「多神社」をご覧ください。

   赤のアイコンが長尾神社、青が多神社、黄が大神神社


 神社の北緯は、東から伊勢斎宮跡(34度32分)、大神神社(34度31分)、多神社(34度32分)、竜王宮(34度30分)、長尾神社(34度30分)で、何れも北緯34度32分ほどで東西に並んでいます。奈良盆地の北緯34度32分の地では、春分・秋分の日に朝日が三輪山から昇り、二上山に沈みます。

 長尾神社は葛下郡(かつげぐん)の総社で、40代天武天皇が672年の壬申の乱で勝利したことで葛下郡一郡を当社に献じられました。葛下郡は葛城下郡(かつらぎのしものこおり)と呼ばれていました。
 神社周辺には、難波と大和を結ぶ竹内街道、長尾付近から三輪山の南までの横大路、堺市と長尾を結ぶ長尾街道が走っており、交通の要衝になっています。

 立派な鳥居は両部鳥居になっています。笠木の上に屋根がついて、扁額にも立派な屋根や装飾がついています。この形の鳥居は北播(ほくばん、北部播磨)の神社でよく見かけます。昨年10月3日(木)投稿の荒田神社(兵庫県多可郡)をご覧ください。奈良の神社では珍しい鳥居ですね。
 灯篭の前にある二つの岩の上に蛙の彫刻があって、「撫で蛙」として親しまれています。
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   振り返ると一の鳥居が真東に見えます。
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     手水舎の龍(柄杓は竹製です)
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     由緒
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     遥拝所
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     拝殿
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     本殿
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     摂社の厳島神社(市杵島姫命)
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     絵馬殿
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 御陰井跡。陰陽石でしょうか、後ろには神籬(ひもろぎ)があり、周りは注連縄で囲われています。白蛇を封じた井戸があったようです。
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     社殿の後ろは鬱蒼とした森です。
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 春分と秋分については、2013年9月12日(木)投稿の「春分と秋分の太陽信仰」をご覧ください。春分の日は今年も去年と同じく3月21日(金)です。

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by enki-eden | 2014-03-19 00:08

明日香村埋蔵文化財展示室

 古代文化の香り豊な郷・明日香村
 奈良県高市郡明日香村飛鳥112  電話0744-54-5600
 甘樫丘の東向かいにあります。 「あすか夢の楽市」(地元の産物販売)が隣にあり、どちらも旧飛鳥小学校の校舎を利用しています。
 明日香村文化財課が発掘調査を行ってきた遺跡の出土品を中心に展示、入場料は無料、駐車場も無料です。駐車場の南には水落遺跡(みずおちいせき)があります。


     展示室入り口
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 牽牛子塚(けんごしづか)古墳は明日香村大字越にある7世紀中頃の古墳で、別名は御前塚、あさがお塚(牽牛子は朝顔の漢名)とも呼ばれています。
 被葬者は37代斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ、36代孝徳天皇皇后)と考えられています。宮内庁治定の斉明天皇陵は2.5km南西の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)になっています。宮内庁は一旦決まったことは変更しません。


 墳丘は八角形で石敷きと砂利敷きを含むと長さ32mほど、高さ約4.5mで、版築による三段築成になっています。また、三角柱状に削った白色凝灰岩の切り石やその破片が数百個以上出土しており、これらの切り石はピラミッド状に積み上げて墳丘斜面を装飾していたらしく、その総数は約7,200個に及ぶと推定されています。
 石材は15km北西の二上山西麓の凝灰岩を使用しています。
 西暦587年に物部守屋が滅ぼされ、物部氏が関わって300年続いた定型式前方後円墳は新たに築造されなくなり、皇族の陵墓は八角墳となりました。

      牽牛子塚古墳復元模型(八角形)
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 牽牛子塚古墳石槨の写真パネル。巨石をくり抜いた横口式石槨が南側を向き、中央に間仕切りの壁があります。左右に長さ2mの墓室があり、壁は漆喰が塗られていた。
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     牽牛子塚古墳石槨模型
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     牽牛子塚古墳石槨名称図
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 牽牛子塚古墳の凝灰岩の内扉(閉塞石、高さ約112cm、幅約147cm、厚さ約62cm)(外扉は安山岩系の石材を用い、高さ約240cm、幅約269cm、厚さ約63cmの大きさであった。)
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 キトラ古墳は明日香村南西部の阿部山に7世紀末頃に築かれた2段築成の円墳で、石室内に壁画があります。当時の明日香は「飛ぶ鳥の明日香」と言われたように湿地帯で、「キトラ」は「北浦」が訛ったものと考えられます。
 被葬者は諸説ありますが、私見では天武天皇の皇子・高市皇子(696年没、暗殺か)の可能性を考えています。同じような壁画のある高松塚古墳の被葬者は天武天皇の皇子・弓削皇子(699年没、暗殺か)ではないかと見ています。高松塚古墳はキトラ古墳の北1.2kmにあります。
   キトラ古墳の石槨模型(実物大、飛鳥時代)
   星座、玄武、青龍、朱雀、白虎、十二支が描かれています。
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    キトラ古墳天井石の星座
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    高松塚古墳
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    日本書紀の写本
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    これ以外にも多くの展示物があります。
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by enki-eden | 2014-03-16 00:16

飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)

 奈良県高市郡明日香村飛鳥(甘樫丘のすぐ東に位置する。)
 赤のアイコンが水落遺跡、黄が飛鳥資料館


 
 飛鳥は飛鳥時代(592年から710年、33代推古天皇から43代元明天皇)の日本の政治・経済・文化の中心でした。
 飛鳥の水落遺跡は特異な基壇を持つ大形の正方形建物遺構(水時計建物)です。基壇は1辺22.5mで4辺に石敷き溝がある。石敷き溝の底は石を並べ、方台側の縁には自然石を17度の傾斜で敷いている。基壇内には木樋暗渠、銅管、漆塗木箱などがある。
 基壇内に飛鳥川から導水して基壇上へ人力で汲み上げる装置があり、中国の元・明・清代の漏刻の受水槽と同様に黒漆塗りの木箱の痕跡が検出されている。

 これらの遺構は660年、37代斉明天皇(594年-661年)6年の時、中大兄皇子が作ったと伝えられる「漏刻」台の跡と考えられている。 日本書紀の斉明天皇6年5月に「皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻(水時計)をつくり、人民に時を知らせるようにされた。」と記されています。
 基壇の中に二階建ての建物(4間四方総柱の時計塔)の地下に木樋や銅管を使って水時計を動かす水を取り込んでいます。一階に水時計、二階に時を知らせる鐘があったと考えられています。
 出土した土器から650年~660年代の間に造営され廃絶したと推定されている。中大兄皇子は白村江の敗戦後、667年に都を近江に遷し、翌年38代天智天皇となりました。そして671年、飛鳥から近江に移設した水時計により、鐘や太鼓で時を知らせました。
     水落遺跡の説明板
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    四間四方総柱の建物跡
    南から、後方の建物は明日香村埋蔵文化財展示室。
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    北から
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    南から溝の石敷きを見る
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    建物北の柱跡
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    のどかな明日香村の東方向を望む。
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 ここから50m東の石神遺跡から須弥山(しゅみせん)、道祖神(どうそしん)の石造物、水路などが出土。水落遺跡と関連があると考えられている。
 須弥山石作製については、日本書紀の推古天皇20年5月、斉明天皇の3年7月に記述があります。

 須弥山石(飛鳥資料館展示)、高さ2.3mの3段の石であるが、下段と中段の中のくり抜きが繋がらないため、間にもう一段あったと考えられている。噴水装置になっている。
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    飛鳥資料館前庭の須弥山石レプリカ、4段で復元。
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 石人像(飛鳥資料館展示)、高さ1.7m、7世紀の製作。噴水になっており、石人像は胡人と見られる。
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       飛鳥資料館前庭の石人像レプリカ
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by enki-eden | 2014-03-13 00:12

水のまつり

 人間の生活には水が欠かせませんが、古代では現代のような水道がありません。村の近くに井戸や湧き水があれば良いですが、無ければそれぞれの家で水がめに雨水を溜めていたと考えられます。それでは水量が足りませんので近くの川から村まで水を引いていました。そのままの水は不純物がたくさん含まれていますので、導水溝の途中に何ヶ所も水を溜める槽(そう)を設けて不純物を沈殿させていました。槽からは木製の樋(ひ)や土管で導水していました。
 この導水施設は地域の王(豪族、村長)が管理し、安全に給水できるように「水のまつり」が行われていたようです。
 奈良県御所市南郷大東(なんごうおおひがし)遺跡は、幅6mほどで深さ1.2mほどの小川を石積みでせきとめて水を溜め、そこから木樋で小屋に導水して水の祭りをしていました。小屋の周りは柵で囲まれ、導水木樋の両側に人々が集まって笛や太鼓を鳴らしながら、神を鎮める祈りを捧げます。
 小屋周辺から木刀・弓・盾・琴・サルノコシカケ・桃の種などの祭祀用具や多量の「焼けた木片」があり、祭りは夜に行われたことが分かっています。
       御所市南郷大東遺跡


 5世紀(古墳時代中期)の奈良県御所市南郷大東(なんごうおおひがし)遺跡の「水のまつり」模型。奈良県橿原考古学研究所付属博物館展示
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 この「水のまつり」と関連があるのかどうか分かりませんが、奈良東大寺二月堂の修二会(しゅにえ、お水取り)は今の時期に執り行われています。旧暦の二月に行われていたために、「二月堂」「修二会」と呼ばれています。夜に松明を燃やして祈りがささげられ、松明から落ちる火の粉が無病息災に効果があると信じられています。若狭井から水を汲んで本尊に供えられます。
 古代の「水のまつり」でも夜に火を焚いて行われていました。私には共通の由来があるように見えます

 大物主神は倭迹迹日百襲姫のところに夜だけやってきます。日本書紀に倭迹迹日百襲姫の箸墓古墳は「昼は人が造り、夜は神が造った」とあります。
 現在でも、伊勢神宮や出雲大社の重要儀式は夜に神官が松明を持って執り行います。奈良県天理市の石上神宮の「鎮魂祭」も夜に執り行われます。
 夜は神の時空なのでしょうね。それに対し、昼は人間の時空です。

 飛鳥の37代斉明天皇(35代皇極天皇が重祚)は38代天智天皇の母親ですが、飛鳥に現存する石造物の多くは、斉明天皇が造らせたものです。
 奈良県の酒船石(さかふねいし)遺跡で2000年に発見された亀形石造物(亀石)が有名ですが、これは飛鳥時代の国家による大掛かりな「水のまつり」の遺構だと考えられています。40代天武天皇と41代持統天皇の時代です。
 導水施設は、浄らかな水を祭祀場まで運ぶ施設として近畿各地で見つかっています。
       酒船石


 斉明天皇は更に運河を造らせ、「狂心の渠 たぶれごころのみぞ」と非難されました。
 そして、660年に新羅に滅ぼされた百済を再興するために、斉明天皇が自ら九州に出陣し指揮をとります。しかし、661年に病により九州の朝倉橘広庭宮で崩御。
 明日香村牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は発掘調査で斉明天皇陵の可能性が高まっています。
       牽牛子塚古墳


 その後、663年に中大兄皇子(天智天皇)が白村江で10,000人の兵を失って大敗し、日本は国家防衛のために大宰府・大野城・水城を築く。更に天智天皇は都を飛鳥から近江に移して守りを固めます。
                           *****

 古代から人々は水の神様を敬って祀りました。罔象女神(みつはのめのかみ)、龗神(おかみのかみ)、水の分配を司る水分り(みくまり)の神、瀬織津姫神、家の井戸や水汲み場の水神様などです。神使いは龍が一般的で、神社の手水舎には龍が多いですね。
 そして、夏は水害・水難や伝染病の発生しやすい時期ですから、水神の霊を鎮めて、厄払いの祭りが行われます。京都八坂神社の祇園祭は7月の1ヵ月間行われますが、869年に疫病が流行したので災いを払うために神に祈ったのが始まりです。荒ぶる神・素戔嗚命の怒りを鎮め、悪霊を払い除ける祭りです。霊験新たかな素戔嗚命に祈り、災難から逃れようという願いが、水神祭と重なって全国の素戔嗚系の神社に広まったと考えられます。
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by enki-eden | 2014-03-10 00:03

酒船石

 奈良県高市郡明日香村大字岡   
  奈良県立万葉文化館に駐車できます。  電話 0744-54-1850
     酒船石遺跡
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 酒船石遺跡の説明板によりますと、『この石垣は平成4年に発見された。この丘は版築状に3mほど盛り土された人口の丘陵で、石垣は明日香産の花崗岩を地覆石状に並べて基礎とし、その上に天理市から奈良市にかけて分布する凝灰岩質細粒砂岩の切石を積み上げて築かれていた。現在、倒壊していた石垣の一部を復元して公開している。
 酒船石遺跡は、日本書紀斉明天皇条の「宮の東の山に石を累ねて垣とす」、「石の山丘を作る」という記事に該当する遺跡である可能性が高い。
 石垣が数段にわたって丘陵を取り巻く状況が確認されている。』とあります。
  
     酒船石遺跡から階段と坂を登ると丘の頂です。
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   その丘の上に酒船石があります。周囲は竹林です。
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 酒船石の少し東に水の湧く場所があって、そこから酒船石に水を引いていたようです。酒船石から土管や木樋で水を流して丘陵の下にある亀形石造物まで導水する。ここで国家による大規模な水のまつりが行われたと考えられています。37代斉明天皇の時代(7世紀中頃)です。
 
 亀形石造物から飛鳥池工房遺跡まで石敷きや石段が続いていることから、飛鳥池工房まで導水して水を溜める。そこには金属精錬の工房があり、その水は金や銀などの金属精錬に必要なきれいな水でした。時代は7世紀後半から8世紀初め、40代天武天皇・41代持統天皇の頃です。工房の場所は飛鳥浄御原宮の北東です。

 和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう、708年、43代元明天皇の時代)より前の貨幣である富本銭(ふほんせん)をこの工房で造っていたことも分かっています。銅銭鋳造には金や銀ほどの清水は必要なかったそうです。富本銭は最初の貨幣ですが流通しなかった可能性があります。流通貨幣の最初はやはり和同開珎でしょうか。
 工房では、これ以外にも鉄製品、ガラス・水晶・琥珀などの玉類加工、更に漆器や瓦まで生産していました。


 酒船石遺跡から見た亀形石造物。酒船石から流された水は丘陵の下の亀形石造物に注ぎます。
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  ここでは国家主催の大規模な「水の祭り」が行われていたことでしょう。
  亀形石造物のパネル(明日香村埋蔵文化財展示室の展示パネル)
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飛鳥池工房遺跡は奈良県立万葉文化館の中にあります。大変立派な文化施設でした。
     工房遺跡の復元展示。
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                    *****
 ちょっと一息しましょう。
 和泉式部
 
平安時代中期(978年頃頃~1030年頃)
 越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれる。和泉守・橘道貞の妻となり、和泉国に入る。娘の小式部内侍は母親譲りの歌才を発揮した。
 令泉天皇の第三皇子・為尊親王と熱愛、1002年に為尊親王の死後、その弟・第四皇子帥宮(そちのみや)敦道親王と熱愛。親王は和泉式部を邸宅に迎え入れ、正妃は家出。一子を儲けたが早世。
 一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。藤原保昌と再婚して丹後に移る。

   くらきより くらき道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月
      1025年に娘の小式部が亡くなった時に詠んだ歌

   五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
       当時は袖に香をたいていた。「昔の人」は「昔の恋人」

   あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
         小倉百人一首

 戒名は誠心院専意法尼
 伝和泉式部の墓は全国にたくさんあるが、京都の誠心院(戒名と同じ)に立派な塔と歌碑がある。
 当時は、男は40才を過ぎると老人、女は30半ばになると下葉紅葉といわれた。
  女の盛りなるは 十四五六歳二十三四とか 
  三十四五にしなりぬれば 紅葉の下葉に異ならず


 遍歴の多い和泉式部は藤原道長に「浮かれ女 うかれめ」と冷やかされ、和歌で反論しました。
     越えもせむ 越さずもあらむ 逢坂の 関もりならぬ 人なとがめそ
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by enki-eden | 2014-03-07 00:06

箸墓古墳

 奈良県の桜井市立埋蔵文化財センターが開館25周年だそうです。それを記念して「箸墓再考プロジェクト」として関連イベントを行っています。
 その一環として特別展「HASHIHAKA 始まりの前方後円墳」(2014年1月16日~3月23日)が桜井市立埋蔵文化財センターで開催されています。
 (桜井市大字芝58-2、電話0744-42-6005)
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 休館日は毎週月曜日と火曜日です。特別展をはじめ、シンポジウム、遺跡ウォーク、フォトコンテスト、体験講座などのイベントを通じて、箸墓古墳について再び考えを深める機会にしたいという企画です。

 埋蔵文化財センターの道向かいには大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居(高さ32.2m)があります。信号機の向こうの山が三輪山(467.1m)です。麓に大神神社が鎮座しています。
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   赤のアイコンが埋蔵文化財センター、青が箸墓古墳、黄が三輪山、紫が大神神社


     南側からの航空写真パネル
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 3世紀から4世紀頃の箸墓古墳周辺模型です。箸墓古墳は一番下の大きな古墳、上(北)の方に纏向遺跡があります。当時の大和は相当の湿地帯だったと考えられています。
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   箸墓古墳前方部北斜面と周壕・外堤の土層断面を北東から見た写真と説明パネル
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   前方部北側の葺き石を北から見た写真と説明パネル
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    後円部南東の渡土堤写真パネル
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    渡土堤断面土層の剥ぎ取り、葺き石もあります。
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    北の断面土層
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     周壕から出土の木製輪鐙(4世紀初め)と説明パネル
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     西側の前方部から見た写真と模型を組み合わせたパネル
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    箸墓古墳以外の遺跡の出土物もたくさん展示されています。
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    桜井市大福遺跡出土の刳抜式木棺
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   銅鐸の出土状況と銅鐸の終焉についての説明。
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                         *****

深川の雪
 浮世絵師、喜多川歌麿の肉筆画の大作「深川の雪」が発見されました。1800年代初め頃の作で、縦200cmほど、横350cmほどもある掛け軸です。4月から6月まで神奈川県箱根町の岡田美術館で公開されます。
 他に「品川の月」と「吉原の花」もあり、雪、月、花の三部作です。品川の月は1788年頃の作で縦147cm、横318.6cm、吉原の花は1791年頃の作で縦203.8cm、横274.9cm、月と花はどちらもアメリカの美術館が所蔵しています。
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by enki-eden | 2014-03-04 00:05