古代史探訪

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5代孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇、みまつひこかえしねのすめらみこと)

 孝昭天皇の母は息石耳(おきそみみ)命の娘で天豊津媛命。
 宮を掖上(わきがみ)の池心宮(いけごころのみや、奈良県御所市池之内)に移した。
 (推定256年頃)
 地名の掖上は「わき」が「若」、「かみ」は「神」で、「若神」の事といわれています。
 初期の大和王朝は葛城王朝と云われ、葛城氏・尾張氏・海部氏などと関係が深い。
 日本書紀によると、孝昭天皇の皇后は世襲足媛(よそたらしひめ、尾張氏)、子は天足彦国押人命(和珥氏・春日氏の先祖)と日本足彦国押人天皇(6代孝安天皇)になっています。
 私見による孝昭天皇の生年推定は215年頃、崩御年推定は268年頃。筑紫では卑弥呼と臺與の邪馬台国の時代です。

   赤のアイコンが掖上の宮、黄が孝昭天皇陵(鴨都波神社の350m南)。


     孝昭天皇陵(奈良県御所市三室字博多山)
     掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのかみのみささぎ)
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       孝昭天皇陵遥拝所
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      陵墓の東南中腹に孝照宮(孝昭天皇神社)が鎮座
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      二の鳥居
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      二の鳥居を振り返る
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      拝殿
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      本殿
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      桜が咲き始めました。(3月27日撮影)
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      山の下から孝照宮を望む
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by enki-eden | 2014-04-30 00:14

鴨山口神社(奈良県御所市)

 大和国葛上郡(かつじょうぐん、かつらぎのかみのこおり)の式内社。
 14社ある大和の山口神社の本社。
 奈良県御所市(ごせし)大字櫛羅(くじら)字大湊2428  電話 0745-62-5386
 駐車場はありませんが境内に停めました。
 地名が大湊ですから、古代には大和湖の大きな船着場があったのでしょう。

 祭神 大山祇命   相殿に大日霎貴命、御霊大神、天御中主尊

 「山口」は「山の登り口」で、「山口の神」は「皇居建造用の木材を切り出す山に坐す神」です。当社は葛城山の麓に鎮座し、祭神の大山祇神は山の神霊で、農耕に必要な雨を神に祈ることから祀られたものです。境内は大きくありませんが、趣のある格式高い神社です。
 本殿に安置の大霎貴命座像(56cm)と御霊大神座像(50cm、女神)の二体は一木造彩色像で、国の重要文化財(国宝)です。入り口の鳥居横に「国寶安置」の石碑があります。
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 神社の創建は不詳ですが、710年以前(藤原京時代)と考えられています。以前の鎮座地は当神社北西の岸野山ですが、山崩れにより現在の地に遷座しました。
 鎮座地の地名「櫛羅」の由来は諸説ありますが、吉田茂樹著「奈良・京都地名辞典」によると、「くしうら(櫛占)」の意で、古代より櫛で占うことが知られており、櫛占師の住地に由来するとあります。



   「葛城の道」のパンフレット、鴨山口神社は右端中央あたり(櫛羅)に見えます。
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       入り口の右に大木とお地蔵さん。
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       神社の説明板
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       入り口の鳥居、奥は社務所。
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       手水舎の龍
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       境内二の鳥居と拝殿
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       拝殿内の絵馬
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       社務所から拝殿に回廊が続く。
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       拝殿側面に「左官岩」・鶴松図。
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       拝殿右の大きな灯篭
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       本殿
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       稲荷神社(倉稲魂命、桜木社)
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       天照皇大神宮(天照大神)
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       椿山神社(宇賀能御魂命)
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       春日神社(天児屋根命)
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       八幡神社(右・誉田別命)と金刀比羅神社(左・大己貴命)
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       神武天皇遥拝所
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       明治天皇遥拝所
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       二本杉
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       天満神社(菅原道真公)
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                         *****
 京都の上賀茂神社摂社の賀茂山口神社の祭神は御歳神です。今年1月10日(金)投稿の「上賀茂神社③」に次の写真を載せています。
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by enki-eden | 2014-04-27 00:07

葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)

 奈良県御所市東持田269  電話 0745-27-2013  無料駐車場あります。
 祭神: 御歳神   相殿: 大歳神、高照姫命
 創建から1,600年以上の歴史のある式内大社。

 御所市(ごせし)の地名由来は諸説ありますが、地名研究家の池田末則著「奈良の地名由来辞典」によると、「大和地方の方言では、川をコ・ゴ・ゴウと発音する。御所は葛城川の川瀬(ごせ=川の瀬)に立地する。」とあります。御所市と葛城市は葛城氏の本拠地でした。
 同じように、曽我川の川瀬(こせ)にあるのは巨瀬(こせ)・古瀬(こせ)です。巨勢氏の本拠地は大和国高市郡巨勢郷(現在は奈良県御所市古瀬)です。
     古代大和の道
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     赤のアイコンが葛木御歳神社、黄が橿原神宮

 葛城山・金剛山の東の地、縄文・弥生時代から栄えた地、葛城氏・鴨氏の神聖な本拠地です。製鉄跡もあり、紀ノ川を通じて交通の要衝でもありました。
 葛木御歳神社は弥生時代から鴨氏に祀られ、全国の御歳神社・大歳神社の総本社。高鴨神社を高鴨社、葛木御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社という。
 高鴨神社については2013年3月12日(火)の投稿を、鴨都波神社については2012年12月19日(水)の投稿をご覧ください。

 当社は本殿背後の御年山(230m)を神体山とする。当初社殿は神明造りであったが、当地一帯は平安時代に春日大社・興福寺の荘園となり、現在の本殿は春日大社の第一殿を江戸時代に移築した。従って、御歳神は女神であるが本殿は春日大社の男神の造りになっています。社殿は北向きに建っています。
 御歳神は穀物を司る神様です。「古語拾遺」によると、昔、大地主神(おおとこぬしのかみ)が田を開いたとき、百姓に牛の肉をふるまったことに御歳の神が大変怒り、いなごをその田に放って稲を枯れさせたので、白猪や白馬、白鶏を奉納して神の怒りを鎮めました。
 農耕の神様ですから、種をまき、大事に育て、実りの喜びを分かち合う人にご神徳があります。
 また、御歳神は「歳の初め」にお祀りされる神様ですから、新しい事を始める時にお参りすると、豊かな実りを授けて下さいます。独立起業を計画している方、転職を考えている方、結婚して幸せな家庭を築きたい方などです。

 社殿が山の中央を避けて建てられているのは、巫女奉仕をした斎宮のしきたりにならったものだそうです。
 宮司の東川氏の「東」を「う」と読むのは、東は卯の方向だからでしょう。
     一の鳥居、背後の神奈備山は御歳山。社殿は神体山の中央を避けて建てられて
     います。
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 一の鳥居を入って後ろを振り返ると、後方正面に葛城山と左に金剛山が見えます。山裾の高台を古代にはそれぞれ高尾張、高鴨と呼んでいたのでしょう。
 一の鳥居を良く見ると、柱の上端に珍しく台輪(だいわ)がついています。台輪は肥前鳥居では一般的です。鳥居の形については、2013年9月24日(火)の投稿をご覧ください。
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 手水舎は手製の竹で水を引き、龍のイメージでしょうか竹の口から2本のひげ(枝)が出ています。
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     手水舎の横に二の鳥居
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     階段を登る
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     狛犬
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     舞台形式の拝殿と右にご神木。
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     ご神木の後方に境内社、右から一言主命神社、稚日女命神社、
     天稚彦命神社、事代主命神社。
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     拝殿の左の境内社、右から天照皇大神神社、神皇産霊命神社、
     高皇産命神社、味鋤高彦根命神社。
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     本殿、一間社春日造、千木は外切りの男神造りです。
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     拝殿左の境内社の奥に遥拝所があります。狐の置物があります。
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     由緒
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     英霊殿
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     中鴨社ですから、駐車場横の休憩所は「中鴨さろん」となっています。
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 大歳神も御歳神も物部氏の先祖ですが、なぜ鴨氏が祀るのでしょうか? 御歳神は神武天皇の皇后になりますが、その後離れて鴨氏と結びついて鴨の地にやってきたのでしょうか? 文献はありませんが、もしそうであれば、私には御歳神の相手は阿治志貴高日子根命(味鋤高彦根命)のように見えるのですが・・・このようなことは古代では普通にあったように思います。橿原と鴨の地は10kmほど離れているだけです。
 御歳神の父は大歳神(饒速日命)、母は香用比売(かぐよひめ、かよひめ、少彦名命の娘)、御歳神の兄は大香山戸臣神です。
     御歳神の系図
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by enki-eden | 2014-04-23 23:45

天火明命と綿津見豊玉彦は同一人物か?

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  図をクリックして、右下の+を押すと拡大します。
  この系図は、上が尾張氏・海部氏・倭氏で、祖神は天火明命です。
 下が安曇氏・倭氏・尾張氏・海部氏などで、祖神は綿津見豊玉彦です。
  従って、祖神は天火明命と呼ばれたり、綿津見豊玉彦と呼ばれたりしたが、どちらも同じ人物だということかもしれません。私見ですが、どちらも生年は西暦140年頃と見ています。素戔嗚も同じ頃です。
 上と下の系図に共通する名は太字にしています。古代の豪族は姻戚や同盟によって同族となり、関係を深めていきました。
  天照国照彦天火明櫛玉饒速日命という名は、尾張氏・海部氏の祖である天火明と物部氏の祖である饒速日という別人を一人の名で表して同族意識を高めていったのだと考えられます。
 これに対して、天火明と綿津見豊玉彦は、同じ人物を部族によって呼び名が違う場合なのかもしれません。古代の人名は実名ではなく、美化した形容詞で表現していますので、同じ人物を見方により表現方法が違う場合があると、私はそのように考えています。素戔嗚や大国主などは多くの名で呼ばれています。逆に多くの人物の事跡を一人に集約したり、多くの人物を同じ名で呼ぶ場合もあります。これは現代でも同じ人物が襲名して名前の変わることがよくあります。明治時代までは立場が変われば名前を変えることもありました。
 天火明命と綿津見豊玉彦の関係について、今後追跡していきたいと考えています。
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by enki-eden | 2014-04-20 00:20

楚辞

 詩の様式としての楚辞は六言ないし七言で謡われ、元は民謡であり、その源流は巫の歌にあると言われている。中国北方の文学に対して非常に感情が強く出ており、音律を整えるためのものである兮(ケイ)の字が入ることが特徴。「ケイ」は文章としての意味は無い。(ウィキペディアより)

 楚辞は南方にある揚子江(長江)流域の楚国の韻文を代表する詩情に富んだ詩です。
 楚漢戦争(BC206年-BC202年、項羽と劉邦の戦い)において、漢王の劉邦により垓下に追い詰められ、自らの破滅を悟った楚王の項羽は愛人の虞美人に詩を詠みました。
   力拔山兮(ケイ)氣蓋世 (力は山を抜き、気は世を覆う)
   時不利兮(ケイ)騅不逝 (時利あらずして馬逝かず)
   騅不逝兮(ケイ)可奈何 (馬逝かざるを如何せん)
   虞兮(ケイ)虞兮(ケイ)奈若何 (虞や虞や汝を如何せん)

 揚子江(長江)周辺から日本列島に逃れてきた江南人(弥生人)は、渡来した順番では呉人、越人、楚人だと考えています。人数的には呉人が圧倒的に多く、越人と楚人は少数です。呉人と越人は文字をほとんど使いませんが、楚人は漢字に似た楚文字を使います。湖北省荊門市郭店村にある楚の墳墓(BC3世紀からBC4世紀頃)から竹の板に楚文字で書かれた竹簡(郭店楚簡)が大量に出土しています。
 楚文字は丸みのある右上がりの文字で、日本でもこの楚簡を研究している機関があります。東京大学、早稲田大学、大阪大学、大東文化大学などです。書道ジャーナル研究所や多くの機関も研究を発表しています。また、楚では青銅製の貨幣も使われていました。

 呉・越・楚などの江南人は、北方黄河流域(中原)の漢族とは人種も文化も違います。移動手段も違い南船北馬です。
 呉王夫差はBC473年に越王勾践に敗れ自決、呉は滅亡し、呉人は山東半島南の徐州方面に逃亡。楚の威王熊商はBC334年に越王無彊を破り、越を滅ぼす。越人は主に南方インドシナ半島に逃亡するが、北方の徐州方面に逃亡してきた越人が呉人を追いやり、呉人は満州、朝鮮半島南部、九州、中国、四国に逃走しました。
 楚はBC223年に秦に敗れ、BC221年に秦始皇帝が全国を統一。秦の租税や役務が厳しすぎて越人の一部は朝鮮半島西部、九州、四国に逃亡。漢人や楚人の一部もインドシナ半島、台湾、朝鮮半島東部、九州、中国、四国に逃亡。BC206年に秦王朝が滅びると、楚王の項羽と漢王の劉邦が争い、楚漢戦争が始まる。劉邦が勝利し前漢時代となる。
 江南人どうしの戦争と、漢族からの攻撃を受けて、江南人は大陸南方やインドシナ半島、台湾、日本列島、朝鮮半島などに逃亡しました。黄河系の漢族も戦乱から逃れて日本列島にも来ています。
 このようにBC4世紀からBC2世紀にかけて、江南人や漢人が波状的に日本列島にやってきて弥生時代が始まります。BC4世紀に弥生時代が始まりますが、縄文時代のBC5世紀には北部九州や吉備など一部の地域で稲作が始まり、江南人が交易のために来たり、住み着いたりしています。この時代を早期弥生時代という説があります。
 そして、弥生人により列島の広範囲に小国家が分立するのはBC2世紀からBC1世紀頃です。これが大きく纏まっていくのは弥生後期の2世紀になります。3世紀になると中央集権体制が成立し、3世紀後半に古墳時代へと入っていきます。

 日本列島でのY-DNAによる分布は、楚系(O1a)が1.6%、越系(O2a)が1.4%、呉系(O2b)が28.5%、黄河系(O3)が19%で全体の半分を占めます。縄文系(D)は40%、その他の北方系と南方系(C)などが10%弱です。

 日本列島では人数の少ない楚人ですが、中国地方(吉備・出雲)には多いのです。そして楚人は文化程度も高く、武力も強い。従って周辺地域への影響力は大きいものがあります。楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。私は吉備のキは呉の国姓・姫(き)、ビは楚の国姓・羋(び)ではないかと見ています。各地にある熊野・熊・球磨・隅などの地名由来は楚王名の熊ではないかと考えています。人名でも出雲風土記に記された素戔嗚命の名が、伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命となっています。
 島根県松江市八雲町熊野熊野大社(出雲国一宮)の祭神は伊邪那伎日真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(素戔嗚命)です。拝殿や随神門の注連縄は通常とは逆で、向かって左が元になっています。神体山の熊野山(天狗山)に素戔嗚命が埋葬されたという伝承があります。2012年12月17日(月)投稿の「注連縄の向きが逆の神社」をご参照ください。

 楚辞の兮(ケイ)が日本語の中に入っているのではないでしょうか。文語体に兮(ケイ)と思われるものがあります。文章の最後の「けり」です。「けりをつける」という「けり」です。「けり」は「兮(ケイ)」が語源ではないでしょうか。
 奈良時代、平安時代の歌の最後に「けり」がよく使われましたが、日本書紀にもあります。豊玉姫と彦火火出見尊の贈答歌(挙歌、あげうた)の一首に「けり」が使われています。
  阿軻娜磨廼 比訶利播阿利登 比鄧播伊珮耐 企弭我譽贈比志 多輔妬勾阿利計利
     赤玉の 光はありと 人は言えど 君が装いし 貴くありけり

 口語体はどうでしょうか。語尾に「~けん」、「~けー」、「~け」というのが兮(ケイ)ではないかと思います。方言として使われているのは西日本の中国・山陰、四国、九州です。
 「~けん」、「~けー」、「~け」のどれを使うかは地域によって違いますし、イントネーションも少し違う気がします。土佐弁では「~けん」より「~き」が多いですね。「~き」も「~けん」の変形でしょう。「~き」は強く耳に響きます。意志の強さというのでしょうか。土佐の人にはそんな意識はないでしょうけどね。私は坂本龍馬が好きですから土佐弁も好きです。日本酒も土佐鶴を飲んだりしています。

 但し、この兮(ケイ)の説は私が言っているだけで同調者はいません。しかし面白い見方ではないかと思いブログに載せてしまいました。更に推測を膨らませると、楚人の大元は素戔嗚ではないでしょうか。素戔嗚の子の饒速日が出羽の鳥海山に降臨したという伝承があります。
 鳥海山は山形県と秋田県にある2,236mの火山で、出羽富士・秋田富士・鳥見山ともいいます。秋田物部氏が存在し、東北のY-DNAは楚人(O1a)の比率が全国平均よりも多いのです。
 秋田県大仙市(旧・仙北郡協和町)に唐松神社が鎮座、饒速日の肖像画が有名です。境内の天日宮に饒速日命が祀られています。物部守屋が587年に蘇我氏に滅ぼされると、守屋の子の那加世が秋田に逃げて唐松神社の神官になり、その子孫は現在まで宮司家となっています。那加世が持参した物部文書が神社に所蔵されています。当社は神功皇后とも深い関係があり、祭神は軻具突命、息気長足姫命、豊宇気姫命、高皇霊命、神皇霊命です。
                          *****

 素戔嗚、素戔嗚の第2子・五十猛、第5子・饒速日の後裔物部氏の血を引いている武内宿禰の系図です。図をクリックして、+を押すと大きく表示されます。
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by enki-eden | 2014-04-18 00:10

神武天皇社(御所市柏原)

 奈良県御所市(ごせし)柏原字屋舗  水平社博物館(0745-62-2288)の東隣
 祭神: 神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇)
 境内社: 火産霊社、厳島社
 境外摂社: 嗛間神社(ほほまじんじゃ、ホンダワラの宮、祭神は吾平津媛)
          神武天皇社の南50m。

 
 神武天皇妃の吾平津媛は東遷せずに日向に残ったと云われますが、一緒に来てこの地に住んだとも云われます。
 吾平津媛は「さわりの神」と称され、伝承によると、神武天皇が大和を平定した後、三輪の大物主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命を皇后に迎えたために、吾平津媛はやむなくこの地に侘び住まいしたと伝えられています。 その怨念が夫婦の縁を呪うと云われ、当地では昔から嫁入りの行列はこの神社の前を通ってはならないとされていた。

 神武天皇が東遷して大和で最初に住んだのは御所市柏原の当地でしょうか。その後、媛蹈鞴五十鈴媛を皇后として、4km北東の橿原に移って大君として即位したか。

 神武天皇は御所市柏原で即位したという説もあります。畝傍山がある橿原市は江戸時代には「橿原」という地名はなかったようです。明治政府によって橿原神宮が1890年(明治23年)に創建されました。
 橿原市は、1956年(昭和31年)2月11日に高市郡八木町、今井町、畝傍町、鴨公村、真菅村、磯城郡耳成村が合併し橿原市となりました。
 昔は、御所市から橿原市に流れてくる曾我川の水で禊(みそぎ)が行われていたようです。
     赤のアイコンが神武天皇社、黄が橿原神宮。


 神武天皇社の北にある本馬山(143m)は、神武天皇が国見をしたといわれています。日本書紀の神武天皇31年4月1日、天皇は腋上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘に登られ、国のかたちを見ていわれるのに、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれども、蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」と。これによって始めて秋津洲(あきつしま)の名ができた。
 「ほほ」は火の穂、波の穂の「ほ」と同じで、「まほろば」の「まほ」も同じ。「ほほまの丘」は美しい丘という意味です。現在は本馬山と云うが、頂上にハライタ山という土壇があり、吾平津媛を祀った跡だと伝えられています。本馬山の西の麓には本馬村があります。

 1736年の大和誌には、「橿原宮、柏原村にあり」と記し、本居宣長も1772年の「菅笠日記」に「畝傍山の近くに橿原という地名はなく、1里あまり西南にあることを里人から聞いた」と記している。
     神武天皇社入り口の鳥居と拝殿、後方の山は本馬山
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     拝殿
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     境内西に王城院と地蔵堂があります。
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     境外摂社の嗛間神社、吾平津媛が住んでいたといわれる。
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    嗛間神社前の町並みは趣があります。
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     本馬山
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 私見になりますが、初代神武天皇の生年は西暦180年頃、筑紫から大和への東遷開始は204年頃、大和での即位は211年頃、崩御は245年頃と見ています。ほぼ、卑弥呼と同じ時代です。
 神武天皇よりも後の時代になりますが、大和における有力豪族の本拠地を次に示します。
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by enki-eden | 2014-04-15 00:15

磐余神社(いわれじんじゃ、橿原市)

 奈良県橿原市中曽司町   無料駐車場あります。
 真菅(ますが)の地に神武天皇を祀る古社
 祭神 神日本磐余比古命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇)


    入り口の鳥居
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    参道
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 曽我川の東側に鎮座する磐余神社は平成10年に鳥居や灯篭などが改修されたため境内は真新しい雰囲気です。また、桜の美しい神社です。
 曽我川には赤い欄干の「磐余橋」が架かっており、すぐ西には二上山が見えます。
 橿原市の旧真菅(ますが)村は、元々「宗我村」と呼ばれており、蘇我氏と縁の深い地域です。菅(すが)は須賀、蘇我のことでしょうか。

 入り口の鳥居をくぐってすぐ左手には、万葉歌碑が建っています。
                    (巻12-3087 詠み人不詳)
真菅(ますが)よし 宗我(そが)の河原に鳴く千鳥 間無しわが背子 わが戀(こ)ふらくは
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     神籬(ひもろぎ)
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     拝殿
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 手水舎、右手に蛙の石像があります。葛城市の長尾神社の鳥居前にも蛙がありました。
 蛙は猿田彦神の神使いらしいですが、両神社とも猿田彦とは関係ありません。
 「無事帰る」「若返る」などと縁起をかついだのでしょうか。
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     絵馬
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     拝殿から本殿を望む(朱塗りの春日造)
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は2本です。木像の御神像を安置。)
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     拝殿左に絵馬殿があります。
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     本殿後方に境内社
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     その奥に如来堂(善光寺堂)
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     更に奥へ、本殿の北西に厳島神社(市杵島姫命)。周りは池になっています。
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 神社の創建時期ははっきりしませんが、狭野火火見彦命(神武天皇)を祭神とする古社で、古くから中曽司、松塚、土庫の3つの村の郷社として祀られてきました。
 200m北に小さな岩神社が鎮座しており、祭神は同じく神武天皇です。
 私見ですが、神武天皇の生年は180年頃、筑紫から大和へ東遷開始は204年頃、橿原での即位は211年頃、崩御年は245年頃と見ています。ほぼ卑弥呼が生きた時代です。
 橿原で即位して、三輪山(467m)の8km東の鳥見山(735m、奈良県宇陀市榛原)に高皇産霊尊を祀りました。
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by enki-eden | 2014-04-12 00:11

飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)

 奈良県高市郡明日香村飛鳥707番地1  電話 0744-54-2071 駐車場あります。
 祭神: 八重事代主神
     飛鳥神奈備三日女神(あすかのかんなびみひめのかみ、事代主神の妹神)
     大物主神
     高皇産霊神
 神紋: 亀甲左三つ巴。出雲系の神社は亀甲紋を使います。



 神社の由緒によりますと、「旧事本記に大己貴神(大物主神)が高津宮命を娶り一男一女を儲け、その子事代主神を飛鳥社の神奈備に坐せて」とあり、また「出雲国造神賀詞には、賀夜奈流美命(飛鳥神奈備三日女神)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とある。
 10代崇神天皇から神主の太比古命(事代主神から7代目の当主)が大神朝臣飛鳥直(おおみわのあそんあすかのあたい)姓を賜って以来、飛鳥家が87代に亘りお護りしている神社です。現在の宮司が87代目の飛鳥弘文氏です。社務所の右横に玄関があり、「飛鳥」と表札が掛かっています
       由緒
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     社務所の注連縄と銅鐸の右に「飛鳥」の表札が掛かる玄関。
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 2001年4月吉野の丹生川上神社上社が大滝ダムの建設に伴い遷座するに際し、同社の本殿と拝殿を当地に移築し再建しました。飛鳥の神奈備の鳥形山に鎮座しています。

 当社には2月第一日曜日に神楽殿で執り行われる独特の祭り「おんだ祭」があります。五穀豊穣と子孫繁栄を祈りますが、氏子による夫婦和合のリアルな性表現の演技があります。一願成就のお守りも性表現の絵があり、魔除けの珍々鈴とストラップも男性のシンボルを象っています。
 陰陽魔除けのお守りは片面に女性のシンボルが彫られ、もう片面には男性のシンボルが彫られています。千円の盃の裏は女性のシンボルが象られています。お土産として大変喜ばれているそうです。
 神社では陰陽石などを見かけることがありますが、当社にもたくさんあります。これほど陰陽に徹している神社は珍しいと思います。
     駐車場横の手水舎、柄杓は竹製です。
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     おんだ祭の案内板
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     社号標
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     一の鳥居手前に飛鳥井があります。
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     一の鳥居(扁額は飛鳥社)
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     社務所の前に願掛けの絵馬を結ぶ「むすびの木」
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     社務所受付に魔除けの「ちんちん鈴」(700円)が並んでいます。
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     祓戸社(瀬織津比咩神・速開津比咩神・気吹戸主神・速佐須良比咩神)
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     階段を登ると4柱の神を祀る神社が見えてきます。
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     拝殿の前に、「おんだ祭」が斎行される神楽殿と向こうに西良殿
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     拝殿
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   拝殿から本殿を望む
   本殿を見ようと前に進むと警戒音が鳴ったので後ろに下がりました。
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は5本)
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     陰陽石(右が陽で、左が陰です)、境内のあちこちに並んでいます。
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     この階段を登ると境内社が鎮座しています。
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     白髭神社(お稲荷さんのようですが、猿田彦神を祀っています)
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     八十萬神社(やそよろずのかみのやしろ)
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     八幡神社
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   右に八坂神社(災難除け)と左に金毘羅神社(福の神)、その間に陰陽石。
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     奥の社、元伊勢として天照大神と豊受大神を祀る。
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     「奥の社」の奥に、「奥の大石」(御皇産霊神)
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     飛鳥山口神社(大山津見乃神、久久乃知之神、猿田彦乃神)
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by enki-eden | 2014-04-09 00:12

天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)

 奈良県橿原市南浦町772   駐車場はありません。
 祭神: 天照大神




     西側から天香久山(152m)の南麓を望む。
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   神社は天香久山の南麓に鎮座、小さな鳥居をくぐると鬱蒼とした参道を進みます。
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     すぐに拝殿前に着きます。
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     拝殿横の説明書
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 拝殿内に天岩屋から出てきた天照大神の絵馬がかかっています。常世の長鳴き鶏も描かれています。伊勢神宮でも奈良県天理市の石上神宮でも鶏が放し飼いにされています。
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     拝殿の後ろの天香久山は竹が密集しています。
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     拝殿の後ろに三つ鳥居
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     竹やぶの中に4つの岩があり、ご神体となっています。
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 本殿はなく天照大神が隠れた天岩屋・天岩戸という磐座がご神体です。日の神が隠れたことによって世の中は真っ暗になりました。神々が相談して、岩戸を開けて天照大神を外へ連れ出すと、世の中がもと通り明るくなりました。

 魏志倭人伝の卑弥呼(親魏倭王・金印紫綬)と臺與が記紀の天照大神であるという説があります。私もその説を採用していますが、歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる方にはご容赦願いますね。
 天照大神が天岩屋に入るまでが卑弥呼、再び出てきたのが臺與という仮説です。
 西暦247年に日食が起きています。卑弥呼はこの時に亡くなったか殺されたのでしょう。そして卑弥呼の後継者の男王が即位します。しかし、再び世の中が乱れて倭国の乱が続き、男王が失脚します。この男王とは大夫・難升米でしょうか。難升米は238年に魏から率善中郎将として銀印青綬を受け、246年に黄幢と詔書を受けています。
 248年に再び日食が発生、やがて日食が終わると世の中が明るくなって臺與が即位し、秩序が回復されました。これは大和での出来事ではなく、筑紫での卑弥呼と臺與(天照大神)の出来事です。
 記紀の成立した8世紀の日本は国家意識と民族意識が非常に高揚した時代ですから、皇室の先祖である卑弥呼と臺與が中国に朝貢したことには触れずに、二人の女王の事跡を天照大神に集約したと考えられます。そして卑弥呼と臺與については、日本書紀第九巻の気長足姫尊(神功皇后)の巻に年代を入れて紹介する形にしています。

 天岩戸神社の境内には毎年新竹が7本生える代わりに、古い7本の竹が枯れると言われています。この枯れた竹に触れると腹痛になるとも言われています。

 天香久山は「天から降ってきた」という伝承があり、古代から神聖視されている山です。多くの詩が詠まれていますが、鴨君足人(かものきみ たるひと、たりひと)の長歌(万葉集巻3・257)があります。

  天降(あも)りつく 天の香具山 かすみ立つ 春に至れば 松風に 
  池波立ちて さくらばな 木(こ)の暗茂(くれしげ)に 沖辺(へ)には 
  鴨妻呼ばひ 辺津方(へつかた)に あぢ群(むら)騒き ももしきの 
  大宮人の 退(まか)り出て 遊ぶ船には 梶棹(かぢさほ)も 
  なくて寂しも 漕ぐ人なしに


    天から降ってきた神の香具山は、霞が立ち、春になると松風に池の波が立ち、
    桜が木陰を暗くするほど咲き乱れ、沖では鴨が妻を呼び、
    岸辺ではあじがもが鳴き騒ぎ、
    むかし大宮人が漕いだ船は今では棹も梶もなくなっていて寂しい、漕ぐ人もなく。

 古代の奈良盆地は中央に大和湖があり、周辺は湿地帯でした。鴨やカモメ、サギなど水鳥が飛び交う環境でしたので現代とはかなり違います。「飛ぶ鳥の明日香」から「飛鳥」を「あすか」と読むようになりました。古代の明日香は湿地帯で水鳥が飛び交っていました。

 天岩戸神社は宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸、そして徳島県美馬郡つるぎ町にもあります。その他、岩戸神社や岩戸社なども全国にあります。

                    *****    
     我が家の近くの桜も満開になりました。
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by enki-eden | 2014-04-06 00:16

中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ、なかじんいんたつじんじゃ、たつの市)

 兵庫県たつの市揖保町中臣(なかじん)1360  揖保川東沿いに鎮座、駐車場なし。
 播磨国揖保郡で中臣氏が祀る射楯神。
 祭神  五十猛神(いたけるのかみ、射楯神 いたて)、
 阿波遅(あわじ)神社を合祀、祭神は大鹿島命と大香山戸臣命。
 創建  770年(49代光仁天皇の時代)
  
 祭神の五十猛神は素戔嗚尊と櫛稲田姫の第二子で、私見ですが西暦160年頃の出生。
 阿波遅神社祭神の大鹿島命は中臣氏の祖神・天児屋根命の10代目とされている。
 大香山戸臣命は大歳神(饒速日)と香用比売の子神で妹に御歳神がいる。
 


 神仏習合によって、背後の山上にあった十二所権現の木像を合祀、蔵王権現と呼ばれていたが、明治になって元の社名に戻した。(明治10年10月10日)
 播磨国風土記に天日槍と葦原志挙乎(あしはらのしこお、大国主)の国占伝承の「粒丘、いいぼおか」が当地であるといわれている。境内に石碑があります。現在は中臣山(ちゅうじんやま)と呼ばれています。
     入り口の鳥居と社号標から長い道路が続く。
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     参道の灯篭の宝珠の部分が矛になっているのもが多い。
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     厳島神社(市杵島姫命、いぼ神さん)。「いぼ」は「揖保」からの連想か。
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     由緒
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     絵馬殿
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     拝殿と手前に「粒丘」の石碑。
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 粒丘石碑。「粒丘は中臣山の古称にして、そのいわれは播磨国風土記に有り」
 後ろには新しい扁額と錆びた大砲の弾のようなものがあります。
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     立派な拝殿
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     薬司神社(少彦名命)
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     本殿
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     本殿横に「粒坐天照神社」の石碑
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     右は木種神社(こだねじんじゃ、素戔嗚尊)、左は天満宮(菅原道真)
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by enki-eden | 2014-04-03 00:10