古代史探訪

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孝霊神社(廬戸神社 いおとじんじゃ)

 奈良県磯城郡田原本町黒田262   駐車場ありません。
 祭神: 孝霊天皇、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、稚武彦命ほか。

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 孝霊天皇陵は片丘馬坂陵(奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目)

   赤のアイコンが孝霊神社、黄が孝霊天皇陵


 7代孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇、おおやまとねこひこふとに)が奈良県磯城郡田原本町黒田に廬戸宮(いおとのみや)を設けた。孝霊神社の350m北西の法楽寺(聖徳太子開基)に孝霊天皇黒田廬戸宮跡の石碑がある。
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 孝霊神社はかつては法楽寺の鎮守社であった。神社前の道路は聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ通った太子道と呼ばれる。

 それまでの天皇の宮が奈良盆地南部にあったものを孝霊天皇が奈良盆地中央部に設けたことで、大和周辺部の支配や吉備国・出雲国・伯耆国・因幡国・讃岐国の平定など積極的に拡大政策をとることになった。
 日本書紀によると、孝霊天皇の皇后は細媛命で磯城県主大目の娘、皇子は大日本根子彦国牽(8代孝元天皇)となっている。妃の倭国香媛(絚某姉、はえいろね)は倭迹迹日百襲姫、彦五十狭芹彦、倭迹迹稚屋姫を産んだ。倭国香媛の妹の絚某弟(はえいろど)も妃となり彦狭島、稚武彦(吉備臣の先祖)を産んだ。

 皇子の彦五十狭芹彦(吉備津彦)は桃太郎伝説の主人公で、皇女の倭迹迹日百襲姫は邪馬台国の2代目女王臺與との伝説があります。
 桃太郎(吉備津彦)に従ったのは、犬(犬飼部)、猿(猿飼部)、雉(鳥飼部)で、桃太郎は桃から生まれますが、この大和の地は桃(山桃)の産地でした。彦五十狭芹彦(吉備津彦)や倭迹迹日百襲姫は黒田の地で生まれたのでしょう。
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 桃は鬼や悪霊をやっつける木で、伊弉諾尊が黄泉国から逃げる時に、追いかけてくる鬼に桃の実を投げつけて退散させる話があります。
 纏向遺跡出土の建物跡から2,765個の桃の種が見つかっていますが、これが倭迹迹日百襲姫の神殿だったのでしょうか。祀りには桃の実が重要であったと思われます。百襲姫の百(もも)は桃かもしれませんね。

 私見ですが、孝霊天皇の生年は230年頃、倭迹迹日百襲姫の生年は245年頃、邪馬台国2代目女王臺與の生年は235年頃と見ています。
 魏志倭人伝によると、「卑弥呼の親族の13才の臺與が王となり、国が治まった。正始8年(西暦248年)に倭国に派遣された帯方郡の塞曹掾史張政は檄文をもって臺與を諭した。」とあります。臺與は248年に13才ですから、生年は235年と判断できます。
 臺與は倭迹迹日百襲姫とほぼ同じ世代の女王です。

 臺與が270年頃に筑紫から大和に東遷してきて倭迹迹日百襲姫になったのか、あるいは別人なのか、箸墓古墳や西殿塚古墳を発掘すれば分かるかもしれませんが、発掘は不可能ですね。
 卑弥呼は筑紫で生まれ(175年頃)、筑紫で亡くなった(247年頃)と思いますが、臺與は筑紫で生まれ(235年)、270年頃に大和に東遷し、大和で亡くなった(295年頃)と私は見ています。それであれば臺與の陵墓は箸墓古墳か西殿塚古墳でしょう。

    孝霊神社入り口の鳥居、前の道が太子道。
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     拝殿
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     本殿
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黒田大塚古墳
 奈良県磯城郡田原本町黒田寺垣内   駐車できます。
 古墳時代後期(6世紀)の前方後円墳、元の全長は86m。
 周壕は埋められています。
     写真の左が後円部、右が前方部
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     前方部から後円部を望む
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     説明板
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by enki-eden | 2014-05-31 00:10

西殿塚古墳(にしとのづかこふん)

 西殿塚古墳は3世紀末築造というニュースがありました。
 所在地は奈良県天理市中山町で、これまでも築造時期は古墳時代前期(3世紀後半から4世紀初め)の前方後円墳とされていました。全長は234mで、宮内庁では26代継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)衾田陵(ふすまだりょう)としています。
 手白香皇女は24代仁賢天皇の皇女で継体天皇の皇后ですから、5世紀中頃から6世紀前半の皇族です。西殿塚古墳の築造時期とは全く時代が合いません。
 西殿塚古墳は円筒埴輪や墳丘の形態からも、3世紀後半に築造の箸墓古墳に続いて造られたと考えられています。箸墓古墳と同じ特殊器台が後円部に並んでいます。傾斜地のため、東側(右側)が3段築成、西側が4段築成になっており、その上に石の方形壇が積まれて5段築成になっています。



 そして、手白香皇女衾田陵は天理市萱生(かよう)町西山の西山塚古墳だという説が有力です。西殿塚古墳のすぐ北にあり、全長114mで周壕のある前方後円墳です。埴輪の形態から築造時期は古墳時代後期の6世紀前半と見られています。前方部が北向きになっており、後円部はミカン畑になっています。くびれ部には住宅が建っています。発掘もされずに普通の小山扱いですね。

       赤のアイコンが西山塚古墳

 
 手白香皇女衾田陵が西山塚古墳であれば、西殿塚古墳は誰の陵墓でしょうか。10代崇神天皇陵の北1.4kmにあり、築造時期も3世紀の大型古墳ですから崇神天皇関係でしょうね。
 臺與が筑紫から大和に東遷してきたのであれば、箸墓古墳か西殿塚古墳に埋葬されたと思いますが、残念ながら文献がありません。臺與が卑弥呼の遺骨を大和に運んで箸墓古墳に埋葬し(270年頃)、自身は箸墓古墳の前方部か西殿塚古墳に埋葬された(295年頃)と考えることもできますが、推測の域を出ません。
 崇神天皇陵の西隣の黒塚古墳から出土のU字形鉄製品は、邪馬台国の難升米が247年に魏から受けた黄幢の部品であるという説があります。その他、黄幢の部品と思われる棒状の鉄製品や絹の繊維も見つかっています。2012年12月25日(火)投稿の「黒塚古墳」をご参照ください。
 西殿塚古墳は臺與の墓であるという説が新聞にも紹介されています。文献資料が無くても、状況判断でその可能性が高いと考えられます。今後の発掘成果が楽しみです。

 箸墓古墳(3世紀中頃から後半築造、全長280m)には後円部の頂上に大量の丸石を積んだ分厚い円壇があり、埋葬施設を覆う施設と見られていますが、西殿塚古墳にも前方部と後円部に大量の石を積んだ方形壇があります。前方部の方形壇は1辺22m、高さ2.2mの石積みです。後円部の方形壇は1辺35m、高さ2.6mの石積みです。土壇ではなく石積みの壇は大王墓としても珍しい形態です。箸墓古墳と西殿塚古墳の両古墳には繋がりがあるでしょう。大きさは少し違いますが、形態も築造時期もよく似た古墳です。
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 上の写真地図は、大和神社(おおやまとじんじゃ)東方の古墳で大和古墳群(おおやまとこふんぐん)と呼ばれる40基ほどの古墳群の中の萱生(かよう)古墳群の一部です。
地図の中で西山塚古墳(114m)だけが築造時期6世紀前半ですから、位置的にはこれが手白香皇女衾田陵だと考えられています。
 その他の古墳は築造時期が古墳時代初期の3世紀後半から4世紀前半です。
 東殿塚古墳は全長139mの前方後円墳。
 下池山古墳は全長120mの前方後方墳で、37.6cmの大型国産内行花文鏡が出土しました。46.5cmの超大型鏡が出土した伊都国の平原王墓より100年ほど後の古墳です。下池山古墳の花文鏡には絹布が付着していたことから、絹の袋に包まれていたと考えられています。そして乾漆製の箱に入れられていました。相当身分の高い人物の墓でしょう。
 中山大塚古墳は全長130mの出現期前方後円墳で箸墓古墳に次ぐ最古級の古墳です。

 次の写真は下池山古墳出土のコウヤマキ刳り抜き式割竹形木棺で、ほぼ原型のまま出土しました。(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館展示)
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   出土時の写真パネル(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館展示)
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   下池山古墳出土の大型内行花文鏡(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館展示)
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 大和における鏡造りの職人は筑紫から東遷して、奈良県磯城郡田原本町に住んでいました。鏡作連等祖(かがみつくりのむらじたちのおや)は天糠戸命(あめのぬかと)です。2013年4月11日(木)投稿の「鏡作坐天照御魂神社」をご覧ください。
            *****
 八幡宮の総本宮、宇佐神宮の権宮司(世襲家の到津克子さん)を神社本庁が免職し、宇佐神宮は到津さんを解雇しました。宮司継承問題の対立が原因。

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by enki-eden | 2014-05-28 00:07

宣化天皇(武小広国押盾天皇、たけおひろくにおしたてのすめらみこと)

 28代宣化天皇(467年頃~539年)は、26代継体天皇(450年頃~531年)と尾張の目子媛(めのこひめ)の第二皇子・檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)です。
 27代安閑天皇(あんかんてんのう、466年頃~536年)の実弟ですが、安閑天皇に後嗣ぎがなかったので、536年に高齢(69才位)で即位しました。
 現在の奈良県高市郡明日香村檜前(現:於美阿志神社、檜隈寺跡)に宮を設け、大伴金村大連と物部麁鹿火大連(?~536年)を従来どおりに大連とし、新たに蘇我稲目宿禰を大臣に、阿倍大麻呂臣を大夫(まえつきみ)としました。蘇我稲目(506年頃~570年)が大臣になったことにより、その後の馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏が大発展していきます。

 尾張目子媛の「尾張」の語源ですが、志賀 剛著「神名の語源辞典」によりますと、「尾は丘」、「張(はり)は墾(はる)で開墾した所」で「尾張は開墾して切り開いた丘」とあります。
 そう言えば大和の高鴨、高尾張もそのような地形になっています。33代推古天皇(554年~628年)の小墾田宮(おはりだのみや、小治田宮)もあります。
 私見ですが、原(はら)も墾(はる)が語源でしょう。はる(墾る)→はら(原)となったのでしょう。九州の原(はる、ばる)も「墾る」だと思います。違う説もありますがね。「奈良」は「平らに均す(ならす)」が語源だという説があります。

 宣化天皇は24代仁賢天皇の皇女・橘仲媛(489年~?)を皇后にしました。宣化天皇の皇女・石姫は29代欽明天皇(宣化天皇の異母弟、509年?~571年)の皇后となり、他の皇女も全て欽明天皇の妃になっています。
 宣化天皇は536年に那の津(博多)に官家(みやけ)を建て、筑紫国・肥国・豊国の三国の屯倉(みやけ)から穀物を集め、非常に備えて民の命を守らせる。この年、物部麁鹿火大連が亡くなる。
 537年に新羅が任那と百済に害を加えるので、宣化天皇は大伴金村大連の子・狭手彦に助けさせた。しかし、任那は562年(29代欽明天皇の時代)に新羅に滅ぼされる。欽明天皇の任那奪還の夢は遂に実現しなかった。
 蘇我氏の台頭により大伴氏の勢力が衰退し始め、大伴金村大連の任那政策失敗で大伴氏は衰退した。大伴家持(718年頃~785年)の時代になると、万葉集や小倉百人一首で敗者の立場をも採り上げた。

宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)
 奈良県橿原市鳥屋町にある前方後円墳で、全長138m、径83m、高さ18mの二段築成。土器の年代から5世紀末~6世紀初めの築造と推定されています。宣化天皇は539年崩御ですから時代が少しだけずれていると考えられます。造り出しと盾形周濠があり、周濠の東側は灌漑用の鳥屋池と繋がっています。
 ミサンザイとは御陵(みささぎ)が訛ったもので、ミサンザイと呼ばれる古墳は他にもあるため地名を付けて呼んでいます。
 日本書紀に539年崩御、身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかのえのみささぎ)に葬ったとあり、先に崩じていた皇后・橘仲媛を合葬しています。

 蘇我氏の領地は明日香と桧前(ひのくま、檜隈)で、当地には蘇我氏と関係の深い28代宣化天皇陵、29代欽明天皇陵、見瀬丸山古墳があります。大伴氏の領域が蘇我氏に侵食されたのかもしれません。
 宣化天皇陵のすぐ南に桝山古墳(10代祟神天皇の第三皇子・倭彦命)があり、大規模な方墳ですが幕末に前方後円墳に改修されてしまいました。西隣は新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群があり、600基以上の墳墓群になっています。
 欽明天皇については2013年2月28日(木)投稿の記事をご覧ください。私見ですが、欽明天皇陵の少し北にある見瀬丸山古墳は蘇我稲目の墓と見ています。
 緑の矢印が宣化天皇の宮(於美阿志神社)、オレンジが欽明天皇陵、赤が見瀬丸山古墳、ピンクが倭彦命墓、白が宣化天皇陵、黄が新沢千塚古墳群
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   宣化天皇陵から後ろを振り返ると畝傍山が近くに見えます。
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   宣化天皇陵
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   東のほうは灌漑用の鳥屋池とつながっています。
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   西の周壕から望む。
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   南の後円部
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   後円部の南東側は土手が接近して水が枯れていた。
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 蘇我氏と聖徳太子(574年‐622年)が587年に物部守屋を滅ぼし、6世紀末からは蘇我氏の大発展期となります。
 二上山の西斜面下の磯長(しなが)谷(現:大阪府南河内郡太子町)は、古くから大和と河内を結ぶ主要な街道だった竹内道がここを通っている。本来、当地は葛城氏の支配下にあったが、456年に葛城円(つぶら)が21代雄略天皇により滅ぼされると、5世紀終わりごろに渡来人が住み着き耕地の開発を進める。
 6世紀になると、宣化天皇が蘇我稲目を大臣に重用し、磯長谷は勢力をのばした蘇我氏の領地となった。そして蘇我馬子・蝦夷・入鹿の時代に、磯長谷には天皇の墳墓が築造され「王家の谷」と呼ばれるようになる。
 30代敏達天皇(538年?~585年)は磯長谷にある母・石姫の前方後円墳に合葬されるが、31代用明天皇(540年?~587年)からは、物部氏が推し進めてきた前方後円墳を廃し、蘇我氏の埋葬形態である方墳に埋葬された。これにより300年ほど続いた古墳時代が終焉し、蘇我系の33代推古天皇から飛鳥時代へと変遷していく。
 聖徳太子は妃とともに、磯長谷にある母親の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女(622年没)の円墳に追葬され、方墳ではない。それに続いて推古天皇(628年崩御)が方墳に埋葬された。645年に蘇我氏が滅び、36代孝徳天皇(596年~654年)が当地の最後の被葬者となった。

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by enki-eden | 2014-05-25 00:12

橿原市博物館

 奈良県橿原市川西町858-1   電話0744-27-9681  無料駐車場あります。
 橿原市には縄文時代から連綿と人々が住みつき、新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群、藤原宮をはじめ優れた歴史遺産が数多く残されています。
 当博物館の前身は橿原市千塚資料館で、改装して今年の4月1日に「歴史に憩う橿原市博物館」として開館されました。隣接する新沢千塚古墳群を中心として、縄文時代から江戸時代までの遺跡出土資料の展示をしています。



     博物館入り口と入場券
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     1階の資料整理室が外から見学できる。
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 2階の展示室入り口の壁に菖蒲池古墳の墳丘版築(はんちく)。飛鳥時代には寺院の土塀や一部の古墳で版築が使われました。土を突き棒で突き固めながら積み上げていく土木工法です。
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     縄文時代の生活風景
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     弥生時代の収穫の様子
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     弥生土器に家や鳥の線刻画が見えます
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 博物館の周辺は新沢千塚古墳群になっています。4世紀から6世紀までの200年間に600基ほどの古墳が造られました。この地は大伴氏の領域だったので、被葬者は大伴氏、同族の久米氏、佐伯氏も含まれているでしょう。
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 新沢千塚古墳126号墳、古墳時代の5世紀後半。東西22m、南北16m、高さ1.5mの長方形墳。パンフレット中央の赤いマークが126号墳。
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    126号墳棺内出土の金製歩揺(上着につけるスパンコールのようなもの)
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     棺内出土のガラス皿、ガラス碗。(レプリカ)
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     棺外から出土の火熨斗(ひのし、アイロン)(レプリカ)
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      古墳築造の様子
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    藤原京時代(8世紀初め)、天香具山から藤原宮を望むCG(奈良産業大学)。
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      藤原京復元図
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     廃材を利用した藤原京の井戸枠
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 井戸には土器を沈めています。「水の祭祀」と同じように「井戸の祭祀」が行われていました。供献土器による井戸祭祀ですが、これは弥生時代から行われていました。井戸を神聖視する信仰で、この精神は水神さんとして現代にも引き継がれています。
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 当博物館の開館記念企画展では「里ひらく」と題して特別展が開かれています。京奈和道の建設に伴う発掘調査で発見された遺跡をまとめたものです。この展示は写真撮影できません。
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 展示遺跡は新堂遺跡(橿原市)、川西根成柿遺跡(大和高田市・橿原市)、観音寺本馬遺跡(橿原市・御所市)、玉手遺跡・秋津遺跡・中西遺跡(御所市)です。
     展示遺跡(パンフレットより)
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by enki-eden | 2014-05-22 00:03

箸墓古墳の明治9年撮影写真

 1876年(明治9年)撮影の箸墓古墳の写真が宮内庁書陵部より発表されました。当時は墳丘に木が少なく、本来の姿が良く分かります。地元の人々が薪などを採る里山(入会地)として利用していたので、木や下草を刈り込んでいました。
 4段築造の墳丘の後円部に直径45m、高さ5mの石の円壇が円錐状に構築され、後円部は5段のようになっており、後円部の高さは30mになります。この円壇は埋葬部を覆う巨大な施設で箸墓古墳に限定の構造です。
 日本書紀によると箸墓古墳の被葬者は7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫ですが、皇女の陵墓を天皇陵より数倍も大きく凌ぐ画期的な構造にしたのでしょうか。箸墓古墳築造以降、弥生時代から古墳時代へと移っていきます。

 私見ですが、倭迹迹日百襲姫は皇女となっていますが、邪馬台国2代目女王の臺與ではないかと考えています。臺與は266年に西晋に朝貢して以来、大陸の戦乱により交易が困難になり、しかも列島の中心地が筑紫から大和に移ったことにより、270年頃に大挙して大和に東遷してきたと見ています。
 臺與が東遷したのであれば、卑弥呼から引き継いだ「親魏倭王」金印も大事に運び、大和の聖地である三輪山に埋納したことでしょう。卑弥呼の遺骸も分骨して運び、箸墓古墳に埋葬したのでしょうか。
 但し、これは状況判断によるもので、文献資料がないので困っています。
 臺與の生没年は235年頃から295年頃と見ています。倭迹迹日百襲姫の生没年は245年頃から295年頃と見ています。両者は同一人物か同世代だと考えています。
     
     現在の箸墓古墳

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by enki-eden | 2014-05-19 10:41

桝山古墳と新沢千塚古墳群

桝山古墳(ますやまこふん)
 奈良県橿原市北越智町
 10代祟神天皇の第三皇子・倭彦命(やまとひこ、11代垂仁天皇の弟)の陵墓。
 28代宣化天皇陵(鳥屋ミサンザイ古墳)の500m南で、県立橿原高校の隣です。



 出土埴輪は5世紀前半のもので、3段築成の方墳(96m×90m)ですが、江戸末期に前方後円墳に改修されました。方墳としては最大規模ですが、被葬者が倭彦であれば4世紀前半か中頃に亡くなった皇子ですから、5世紀前半の古墳では時代が合いません。
 後円部が本来の陵墓で、元は方墳でした。

 倭彦命が亡くなったので身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂邑、現在の橿原市鳥屋町付近)に葬った。このとき近習の者を集めて、全員を生きたまま陵のめぐりに埋め立てたが、何日経っても死なず、昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき、犬や鳥が集まって食べた。11代垂仁天皇は心を痛め今後は殉死を止めるようにと言われた。
 その後、垂仁天皇の皇后日葉酢媛が亡くなられたので、野見宿禰の進言で生きた人の替わりに埴輪を陵墓に立てることをきまりとした。
 日葉酢媛陵については、2013年4月8日(月)投稿の「神功皇后陵」をご覧ください。
     桝山古墳(崇神天皇皇子倭彦命墓)
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新沢千塚(にいざわせんづか)古墳群
 奈良県橿原市鳥屋町、北越智町、川西町にかけて存在し、日本を代表する大古墳群です。1976年に国の史跡に指定されました。
 畝傍山の南西方面にあり、東西約2km、南北約2kmの低い丘陵上に、前方後円墳、方墳や径10~15mの円墳など約600基の群集墳が存在しています。


 国の史跡指定地には380基の古墳が集まっており、遊歩道のある史跡公園となっています。すぐ東の方には蘇我稲目を大臣にした28代宣化天皇陵もあります。
 4世紀末頃から墳墓が造られ、5世紀半ばから6世紀末までの古墳時代後期にたくさん造られた。この古墳群の埋葬氏族は諸説あり、大伴氏という説、蘇我氏かその配下の東漢(やまとのあや)氏という説などがありますが、この地は大伴氏の本拠地です。
 大伴氏の祖神は高皇産霊尊の子・天忍日命で、大和での本拠地は磯城と磐余ですから、新沢千塚古墳群は大伴氏の墳墓群だと考えられます。同族の久米氏や佐伯氏も含まれているでしょう。大伴氏は河内国と和泉国にも拠点がありました。

 古墳はぎゅうぎゅうに集まって造られており、前方後円形・前方後方形・帆立貝形・方形の比較的大きい古墳を中心として、小円墳や方墳が集まっている。
 126号墳は5世紀後半築造で、大量の装飾品の中に火熨斗(ひのし、古代のアイロン)の出土や、西域からもたらされた希少なローマンガラス製品の出土がありました。火熨斗はもう一例、大阪府柏原市の「高井田横穴群」からも1点出土しています。
 500号墳は粘土槨をもつ前方後円墳で古墳時代前期の副葬品が出土しています。
     新沢千塚古墳群写真パネル(奈良県立橿原考古学研究所付属博物館展示)
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    109号墳出土の画文帯神獣鏡(5世紀、橿原考古学研究所付属博物館展示)
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    県道133号線からの入り口に標識。
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    橿原市教育委員会の説明板。
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    史跡 新沢千塚古墳群
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   126号墳
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   後方に見えるのは畝傍山。
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     126号墳から畝傍山を望む
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     二上山を望む
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 次回は新沢千塚古墳群の東端にある橿原市博物館に行って展示物を見ます。4月1日に改装オープンしました。
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by enki-eden | 2014-05-18 00:09

牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)

 奈良県橿原市見瀬町718(大和国高市郡)、近鉄吉野線岡寺駅の近くに鎮座。
 地名の見瀬は牟佐(身狭)の転訛。 400m北東に見瀬丸山古墳がある。
 祭神: 高皇産霊命、孝元天皇
 牟佐坐神社には駐車場がないので、神社北の道路に停めました。

 橿原考古学研究所付属博物館で春季特別展「弥生時代の墓-死者の世界-」を見てから2.5km南の牟佐坐神社へ行きました。私は兵庫県明石市に住んでいますが、奈良までは車で1時間半ほどです。この日(5月8日)は渋滞が無くいつもより早く着きました。
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   赤のアイコンが橿原考古学研究所付属博物館、黄が牟佐坐神社。


 神社の由来によると、境内は8代孝元天皇の宮跡とされ、20代安康天皇の時代(5世紀中頃)に牟佐村の村主青(すぐり、あお)がここに生雷神(雷公)を祀った。江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。

 帰化人であり史部(ふひとべ)の青は三国時代の呉王孫権(西暦182年~252年)の子孫とされており、21代雄略天皇の時(5世紀後半)に呉(くれ=中国南朝の宋)との外交に従事しています。孫権は「碧眼で髭が赤紫色だった」という伝承がありますが、これが村主青の名の由来でしょうか。

 当社は享保の頃(18世紀初め)に菅原道真公を祭神としたが、明治になると天津神である高皇産霊命を奉祀し今日に至っている。

     社号標が道路の角に建っています。
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   8代孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはらのみや)址の石碑が右に見えます。
   その向こうに近鉄吉野線が走っており、すぐ左に岡寺駅があります。
   踏切を渡って高取川に架かる天神大橋を通ると一の鳥居です。
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     鳥居の左奥に柿本人麻呂の歌碑があります。
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 これは柿本人麻呂が妻(愛人)の死後に慟哭して詠んだ長歌です。軽(かる)は、近鉄岡寺駅前から東にかけての大軽町とよばれるところで、古代には「軽の市」という市場が設けられ賑わっていた。その軽に柿本人麻呂の愛人が住んでおり、愛人の死後にこの歌を詠みました。
 全文を見ましょう。石碑は後半の赤い部分を記しています。

 天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の道は 吾妹子(わぎもこ)が 里にしあれば ねもころに
 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さね葛
 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵(いはかきふち)の こもりのみ
 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖の藻の
 靡(なび)きし妹は もみじ葉の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使の言へば
 梓弓(あずさゆみ) 音に聞きて 言はむすべ  為(せ)むすべ知らに 音のみを
 聞きてあり得ねば 
我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 吾妹子が
 止まず出で見し 軽の市に 吾が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の
 声も聞こえず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ
 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる        万葉集巻2‐207

     小高い丘の階段を登ると二の鳥居
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                     神木か、神籬か
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     拝殿
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   拝殿横の説明板は見えにくいですが、飛鳥坐神社の飛鳥宮司が兼任しています。
   飛鳥坐神社については、4月9日(水)投稿の記事をご覧ください。
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     塀が高く本殿は見えにくいです。
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     後ろに回ると二棟が並んでいます。
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                    *****

 当社の近くにある見瀬丸山古墳は6世紀後半に築造され、被葬者は29代欽明天皇と堅塩媛(欽明天皇妃、蘇我稲目の娘)の陵墓であるとの説があります。全長318mの前方後円墳で大和国(奈良県)では最大規模です。欽明天皇は571年の崩御ですが、宮内庁は欽明天皇陵を梅山古墳(140m)に治定しています。
 私見ですが、6世紀後半に大和国で最大規模の古墳を築けるのは天皇家よりも威勢の良かった蘇我馬子だと見ています。馬子の父の稲目は570年に亡くなっています。欽明天皇崩御の前年です。
 私は見瀬丸山古墳の被葬者は蘇我稲目だと見ています。もう一人の被葬者は稲目の妻でしょうか。あるいは稲目の娘で馬子の妹の堅塩媛かもしれません。堅塩媛は欽明天皇妃となり、31代用明天皇や33代推古天皇などを産んでいます。

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by enki-eden | 2014-05-15 00:15

8代孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇、おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)

 日本書紀によると孝元天皇の母は、細姫(ほそひめ)命で磯城県主(しきのあがたぬし)大目の女(むすめ)です。古事記では十市県主祖大目の女、細媛(くわしひめ)命となっています。
 磯城氏は初期天皇家に多くの妃を出しており、製鉄・辰砂関係の豪族で、大国主命・事代主命系です。本拠地は大和三輪山麓です。
 孝元天皇は宮を軽(かる)の地に定め、境原宮(さかいはらのみや)という。軽は奈良県橿原市大軽(おおかる)町付近で、古代には交通の要衝で「軽の市」がありました。境原宮跡に牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)が建てられたという伝承があります。
   赤のアイコンが牟佐坐神社、青が見瀬丸山古墳、黄が孝元天皇陵


 孝元天皇は7代孝霊天皇を片丘馬坂陵(かたおかうまさかのみささぎ、奈良県王寺町)に葬った。この頃には天皇家は大和盆地だけではなく、畿内周辺から吉備国東部までを治めていたと考えられます。

 孝元天皇の皇后は物部氏の欝色謎(うつしこめ)命で、欝色雄命(穂積臣の先祖)の妹です。天皇の第一子は大彦命。大彦は10代崇神天皇の北陸将軍となり、日本書紀には子孫は阿倍臣・膳臣(かしわでのおみ)・阿閉臣(あへのおみ)・狭狭城山君(ささきのやまのきみ)・筑紫国造・越国造・伊賀臣だと記されています。
 私見ですが、大彦の墳墓は桜井茶臼山古墳だと考えています。大彦の子の建沼河別(たけぬなかわわけ)命は東海将軍となり、墳墓はメスリ山古墳だと考えています。

 孝元天皇の第二子は9代開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇、わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)、第三子は倭迹迹姫(やまとととひめ)命。

 孝元天皇の妃には皇后の欝色謎命の姪である伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、その子は彦太忍信(ひこふつおしのまこと)命です。この頃に物部氏の勢力は大きく進展することになります。彦太忍信命の孫または曾孫が武内宿禰(たけしうちのすくね)です。武内宿禰は13代成務天皇と同じ日に生まれたとありますから、私見では西暦310年頃の出生です。

 武内宿禰の「内」は地名で大和国有智郡です。宇智郡は大和国の南西の端にあり紀伊国に接しており、内臣(うちのおみ)の出身地です。大和国宇智郡に宇智神社(現在の地名は奈良県五條市今井4-6-12)が鎮座しています。また、神社の400m北には宇智野保育所があり、900m北東には五條市立宇智小学校もあります。近くには宇智川が流れ、吉野川に注いでいます。
 武内宿禰の異母弟・味師内宿禰(うましうちのすくね)は山代内臣(やましろのうちのおみ)の祖で、京都府八幡市の内(うち)神社に祀られている。
 物部氏の欝色謎は古事記では内色許売(うつしこめ)と記されていますから、内(うち、うつ)は物部の部族名になったのでしょう。越智(おち)も物部大小市(もののべのおおおち、饒速日の9世孫、成務天皇に仕える)が祖です。

 更に孝元天皇の妃があり、河内青玉繫の女(かわちのあおたまかけのむすめ)埴安媛(はにやすひめ)で、武埴安彦(たけはにやすひこ)命を生んだとあります。武埴安彦は謀反の罪で滅ぼされました。

 孝元天皇の御陵は奈良県橿原市石川町にある剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)で、剣池は後の15代応神天皇の時代(120年後)に灌漑用に造った。現在は石川池と呼び、同じく灌漑用の池になっています。拝所は階段を登った上にあります。
 私見ですが孝元天皇の生年は230年頃、崩御年は283年頃と見ています。
 御陵は中山塚1~3号墳と呼ばれ、小さな前方後円墳1基、円墳2基の3古墳が一括されて陵とされています。


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 次回は孝元天皇境原宮伝承地の牟佐坐神社へ参拝しましょう。
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by enki-eden | 2014-05-12 00:12

懿徳天皇(いとくてんのう)

 4代懿徳天皇(大日本彦耜友天皇、おおやまとひこすきとものすめらみこと)
 母は渟名底仲媛命(事代主神の孫・鴨王の娘)。鴨王は事代主の子・天日方奇日方か?
 私見ですが、懿徳天皇の生年は西暦205年頃、崩御年は256年頃と見ています。

 懿徳天皇は3代安寧(あんねい)天皇を畝傍山の南の御蔭井上陵(みほとのいのえのみささぎ、橿原市吉田町)に葬った。都を軽(かる)の地に移した。これを曲峡宮(まがりおのみや、奈良県橿原市白橿町か?)という。皇后は天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)で息石耳命(おきそみみのみこと、懿徳天皇の兄)の娘。
 懿徳天皇は畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまさごのたにのかみのみささぎ、橿原市西尻池町、マナゴ山)に葬られた。すぐ近くに3代安寧天皇陵と安寧天皇神社があります。
 初代神武天皇、2代綏靖天皇、3代安寧天皇、4代懿徳天皇までの天皇陵は畝傍山の麓にあります。  5代孝昭天皇陵と6代孝安天皇陵は御所市、7代孝霊天皇陵は北葛城郡王寺町、8代孝元天皇陵は畝傍山の南東2kmに戻ってきて、9代開化天皇陵は奈良盆地北方の奈良市です。天皇陵の位置の変化によって、天皇家が9代をかけて奈良盆地の中で勢力を拡げていった様子が分かります。
   懿徳天皇陵


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   懿徳天皇陵は橿原神宮の西口の鳥居横を通って行きます。
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   懿徳天皇陵、松が美しい。
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   後方の山は畝傍山
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by enki-eden | 2014-05-09 00:09

3代安寧天皇(あんねいてんのう)

 磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
 日本書紀によりますと、安寧天皇は2代綏靖天皇の嫡子で、母は五十鈴依姫命(事代主神の次女)、皇后は渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ、事代主神の孫、鴨王の娘)命となっています。
 安寧天皇は2代綏靖天皇を大和の桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのうえのみささぎ)に葬った。場所は初代神武天皇陵のすぐ北です。
 安寧天皇は宮を片塩の浮孔宮(うきあなのみや)に移した。場所については諸説ありますが、私見では大和高田市片塩町です。片塩町の周辺には浮孔駅(駅の旧地名は浮孔村)や浮孔小学校などがあります。片塩町鎮座の石園座多久虫玉神社(いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ)に片塩浮孔宮跡の石碑があります。


 安寧天皇の皇子は息石耳(おきそみみ)命と4代懿徳天皇(いとくてんのう)という。後に磯城津彦命が生まれ、猪使連(いつかいのむらじ)の始祖となる。
 懿徳天皇は安寧天皇を畝傍山西南御蔭井上陵(うねびやまのひつじさるのみほとのいのえのみささぎ)に葬った。現在の奈良県橿原市吉田町。

     安寧天皇陵(御蔭井上陵)、地元ではアネイ山という。
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   赤のアイコンが安寧天皇陵、黄が神武天皇陵、青が綏靖天皇陵


 安寧天皇神社(元はアネイ山にあったようですが、近くの現在地に遷座)
 奈良県橿原市吉田町257
 祭神は磯城津彦玉手看命(安寧天皇)、配祀は豊受姫命。
 赤のアイコンが安寧天皇神社、黄が安寧天皇陵


       鬱蒼とした遠景
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       鳥居
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       階段を登ると拝殿
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       扁額
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       本殿
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       豊受姫命本殿
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       境内社
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                    *****

 先日のテレビ番組で、タレント兼フィギュアスケート選手の本田望結(ほんだ みゆ、9才)が「ロシア武者修行」と題してモスクワで皇帝エフゲニー・プルシェンコからスケートのレッスンを受けていました。
 有能なタレントだけあってプルシェンコの言葉をすぐに理解して実行できる、そんな一面を見ました。表現力が足りないと指摘され、プルシェンコの模範を見た後は効果抜群の演技をしました。
 それからプルシェンコのもう一つのアドバイスは、「タレントとフィギュアは両立できるほど甘くはないよ」というものでした。彼女は将来どちらを選ぶのでしょうか・・・
 本田望結は翌日にプルシェンコの新居に招待され、超豪華な邸宅にびっくりしました。家は3軒あるらしいですが、お手伝いさんが8人もいるそうです。そんなプルシェンコも子どもの頃は大変貧乏だったと語っていました。

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by enki-eden | 2014-05-06 00:06