古代史探訪

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応神天皇の時、秦氏一族が渡来

 15代応神天皇の時代(4世紀末から5世紀初め)に、「弓月君(ゆづきのきみ)」が120県(あがた)の人民(1万人以上)を率いて大陸から渡ってきた。新撰姓氏録によると融通王(弓月君)は秦始皇帝(BC259年-BC210年)の五世孫となっているが、秦始皇帝の650年後に5世では計算が合わない。
 650年間では30世代以上が必要になるので時代が全く合わない。弓月君の遠い先祖が秦始皇帝だというのでしょうかねぇ・・・
 この渡来した弓月君の大集団が秦氏一族と考えられる。

 秦氏は日本に来ると豊前国を拠点として、摂津国、河内国(大阪府寝屋川市太秦)、大和国、山背国葛野郡太秦、山背国紀伊郡(伏見)などに拡がり、土木・金属工芸・機織・養蚕などに従事した。
 当初から天皇家に協力し、大和朝廷に関わった。 応神天皇時代から急に古墳が巨大化したのは秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。
 また、山背国では秦氏と鴨氏は密接に繋がっている。

 秦氏は日本書紀によると百済から来たとあるが、新羅経由で日本に来たというのが一般説である。新羅は中国大陸からの逃亡民(秦人)で構成されており、弓月君の渡来時期は列島では神功皇后と15代応神天皇の時代である。
 中国北部では3世紀末から5世紀半ばにかけて匈奴など北方遊牧民族が定住して、多くの国が並立し「五胡十六国(東晋十六国)時代」となる。
 五胡とは匈奴、鮮卑、羯、氐(てい)、羌(きょう)の諸族で、その中のチベット系の前秦(氐、351年-394年)が秦を名乗り、華北を手中に入れた。前秦は高句麗と新羅を朝貢国としており、前秦は弓月君の国であった可能性がある。前秦が衰えると、やがて後秦(羌、384年-417年)が強大になっていく。

 弓月君は紀元前3世紀の秦始皇帝の子孫ではなく、紀元4世紀の前秦(チベット系の氐)の子孫でしょう。前秦の初代皇帝は苻健(ふけん、317年~355年)ですから、400年頃に列島に渡来した弓月君は前秦の皇帝苻健の三世孫か4世孫に当たるかもしれません。
 華北では五胡十六国時代に仏教が拡がりましたが、秦氏の秦河勝が603年に京都最古の寺・広隆寺を太秦に建立して氏寺としています。

 天皇家を援助した秦氏一族は、仏教以外にユダヤ教的でもあり、原始キリスト教(景教)的でもあったという説があります。 秦氏が関わった宗教的な建物や習慣に、ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ文化、新約聖書的な教理が知られています。
 そういえば、旧約聖書の天地創造の書き出しと、古事記・日本書紀の天地開闢の書き出しは良く似ていると思います。日ユ同祖論には賛成できませんがね。
 神社の仕組みがユダヤ教の幕屋(神殿)と良く似ているとも云われます。

 3、4世紀当時の西アジア(アフガニスタン、キルギス)に弓月国が存在したので、佐伯好郎氏はこれが弓月君の出身地だという。

 十字架上のイエス・キリストの頭の上に、ラテン語の頭文字で「INRI」と書かれている。 これは「インリ」、「イナリ」、「稲荷」となって秦氏の稲荷神は霊験あらたかで日本全国に広がったと云われます。
 秦氏と関係が深い寺社は、松尾大社(大山咋神、秦氏の氏神)、伏見稲荷大社(宇迦之御魂大神)、木嶋坐天照御魂神社(天御中主命)、大避神社(大避大神=秦河勝、兵庫県赤穂市)、広隆寺(本尊は聖徳太子=上宮王院本尊)などがあります。

 50代桓武天皇の平安遷都(794年)には秦氏の所有地、財力、技術、宗教がサポートの中心となりました。

 秦氏の著名人としては聖徳太子のブレーンだった秦河勝(6世紀半ば~7世紀半ば)、現在雅楽演奏で活躍している東儀秀樹氏がいる。薩摩の島津氏 対馬の宗氏、土佐の長曽我部氏も秦氏の子孫であるという。
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by enki-eden | 2014-06-29 00:10

日吉大社(ひよしたいしゃ)④

東本宮の境内
   山王神使いの神猿(まさる、魔去る)説明板
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   東本宮拝殿右手前に樹下(じゅげ)神社拝殿
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   東本宮拝殿左手前に樹下神社本殿(祭神は鴨玉依姫神=大山咋神の妃神)
   牛尾山山頂の三宮神社(鴨玉依姫神荒魂)の里宮として創建された。
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 樹下神社の拝殿と本殿が東西に分かれて向かい合っており、その間を通り東本宮拝殿に向かう構図になっている。正面が東本宮拝殿、右が樹下神社拝殿、左が樹下神社本殿です。
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   内御子社(祭神は猿田彦神)
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   内御子社の右に日吉雄梛(おなぎ)の木
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 内御子社の後ろに悪王子(あしおうじ)社、祠はない。「悪」は「悪い」という意味ではなく、「神威が凄まじい」という意味で、一般的には素戔嗚神の事ですが、ここでは猿田彦神かも・・・
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   東本宮本殿横に亀井霊水
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   新物忌神社、祭神は天知迦流水姫神(大歳神の妃神)
   大歳神と天知迦流水姫神の子が大山咋神です。
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   東本宮の神紋は双葉葵。 その葵が育てられています。
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   日吉雌梛(めなぎ)
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   多羅葉(たらよう)の木
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   大物忌神社(祭神は大歳神=大山咋神の父神)
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   稲荷社(祭神は宇賀之御魂神)
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   二宮竈殿社(祭神は奥津彦神、奥津姫神)
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 この石段を登って行くと八王子山(牛尾山、381m)山頂に着き、山頂近くに磐座の金大巌(こがねのおおいわ)があり、これが最も原始の信仰対象か。 金大巌は朝日に当たると赤く輝き「朝日に輝く金大巌」と言われる。
 磐座の両脇に奥宮として牛尾宮(祭神は大山咋神荒魂)と三宮(祭神は鴨玉依姫神荒魂)が鎮座。
 山王祭では二基の神輿が山頂から下ってくる。
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   牛尾山は急峻なために石段の右に牛尾宮遥拝所がある。
   比叡山(848m)を大比叡(大物主)、牛尾山を小比叡(大山咋)という。
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   石段の左に三宮遥拝所がある。
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   神輿収蔵庫に山王神輿が7基(重要文化財)
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                    *****
 6月30日は夏越の祓(なごしのはらえ)です。旧暦の6月末に半年分の罪・穢れを落とす行事で、新暦になった現在でも6月30日頃に全国の神社で執り行われています。
 2013年1月30日(水)投稿の記事「大祓い」をご参照ください。

 サッカーのワールドカップ・ブラジル大会、グループCの日本はコロンビア戦で1:4で敗れグループリーグ敗退が決まりました。 残念! 
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by enki-eden | 2014-06-26 00:11

日吉大社(ひよしたいしゃ)③

東本宮
     東本宮ご朱印
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     日吉三橋の二宮橋
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   東本宮参道、右の祠が八柱の神、左が氏神神社。奥に立派な楼門が見えます。
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     八柱の神(5男3女の八王子神で誓約の神)
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     氏神神社(祭神は鴨建角身命、琴御館宇志麿)
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     氏永社(社家先祖神、生源寺家)
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     東本宮参道の「猿の霊石」。猿がしゃがみこんでいるような形の岩です。
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   巌滝社(祭神は市岐島姫神、滝津島姫神)と磐座(夢妙幢岩)
   滝津島姫神は湍津島姫神のことです。
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     須賀社(祭神は素戔嗚神奇魂)
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     そして楼門です。
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     東本宮拝殿
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   東本宮本殿(祭神は大山咋神、旧称・二ノ宮、小比叡)、神紋は二葉葵。
   牛尾山山頂の牛尾神社の里宮として西暦300年頃に創建された。
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by enki-eden | 2014-06-23 00:10

日吉大社(ひよしたいしゃ)②

日吉大社西本宮の境内
     参拝マップ
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 惣社(そうじゃ)、山王21社の神々を合わせ祀る。平将門(桓武天皇五世、東国の独立を宣言して新皇を自称、朝敵となる。940年没)の調伏を祈願した。
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 日吉大社の神使いは神猿(まさる)さんです(魔が去る、勝る)。 社務所前に2匹のお猿さんが飼われています。豊臣秀吉の幼名は日吉丸で、あだ名はであったので、当社には親近感があったのでしょう。織田信長の1571年比叡山焼き討ちにより日吉大社も焼失しましたが、その後豊臣秀吉は日吉大社の復興に力を入れました。多くの社殿は江戸時代初期に再建されました。
     社務所前の猿
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     楼門の少し手前に霊石の祇園石(牛頭天王が宿る磐座)
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     祇園石の隣に山王霊石(大威徳石)
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     霊石の向こうには大宮川が流れている。
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 楼門の右手前に猿柿。神使いの真猿さんが好んで食べる渋柿で樹齢500年、柿の原種といわれる。
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   西本宮の右に大宮竈殿社(祭神は奥津彦神と奥津姫神)、その後ろに包丁塚。
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   宇佐宮拝殿、二人の巫女さんが舞いの練習をしています。
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   宇佐宮本殿(祭神は田心姫神、旧称・聖真子 しょうしんし)、神紋は橘。
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 左は宇佐竈殿社(祭神は奥津彦神と奥津姫神)、右は気比社(祭神は14代仲哀天皇)
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     白山姫神社拝殿
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   白山姫神社本殿(祭神は白山姫神、加賀国一宮の白山比咩神社からの勧請)、
   神紋は二本杉。
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   本殿横に滝が大きな音と水しぶきをあげて落ちています。
   大宮川から水を引いて境内に張り巡らせています。
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   本殿横に石垣で囲まれた霊石。大宮川から引いた水が境内を流れています。
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 左から剣宮社(瓊瓊杵尊)、小白山社(大己貴神)、八坂社(素戔嗚神)、
 北野社(菅原道真公)
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by enki-eden | 2014-06-20 00:08

日吉大社(ひよしたいしゃ)①

 山王総本宮で、日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮。
 平安京の表鬼門鎮座、方除・厄除の大社。入苑協賛料は一人300円です。
 滋賀県大津市坂本5-1-1  電話:077-578-0009  駐車場あります。

 祭神: 西本宮  大己貴神(おおなむちのかみ)、 神紋は牡丹。
 東本宮  大山咋神(おおやまくいのかみ)、 神紋は双葉葵、牛尾宮(奥宮)の里宮。
 大山咋神は比叡山の「山の神」で、松尾大社にも祀られている。

 西本宮と東本宮の本殿は国宝になっており、桧皮葺き、日吉(ひえ)造りで屋根の後部に特徴がある。楼門、境内社殿、7基の神輿、大宮川に架かる石橋など多くの重要文化財がある。

 創建: 10代崇神天皇7年(西暦300年頃)

 4月に「山王祭」(湖国三大祭)、7月に「みたらし祭」、11月に「もみじ祭」が行われます。
 3,000本のモミジ・カエデの名所で、11月にはライトアップがあります。
 境内は非常に広く、12万坪以上あります。



    日吉大社パンフレットと参拝券
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 東本宮の大山咋神は亦の名を山末之大主神といい、比叡山(日枝の山)東麓に鎮座する当社本来の神様です(西暦300年頃創建)。背後の八王子山(通称牛尾山、381m)が神体山。
 近江京遷都(667年)の翌年に38代天智天皇は近江京守護のために、大和三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)から大己貴神を勧請し、西本宮の祭神として鎮座。以降、本来の大山咋神よりも大己貴神が上位となり、大己貴神を祭神とする西本宮が「大宮」と称されるようになる。

 50代桓武天皇の平安遷都(794年)により、日吉大社が京の鬼門になることから、魔除け・災難除けの神として敬われた。また、最澄が比叡山に延暦寺を開いたことにより、日吉大社が天台宗延暦寺の守護神となり山王権現(さんのうごんげん)と呼ばれるようになった。やがて、天台宗と山王権現の信仰が全国に広がっていった。
 山王権現の「権」は「仮の」という意味で、権現は「仮の姿に替えて現れたもの」です。権禰宜(ごんねぎ)は禰宜の補佐役、権殿(ごんでん)は仮殿です。

西本宮
 一の鳥居、扁額は日吉神社。 明治以降は日吉神社(ひえじんじゃ)と称していたが、
大戦後は日吉大社(ひよしたいしゃ)と称する。
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      二の鳥居(扁額は日吉大社)と社号標(山王総本宮 日吉大社)
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 二の鳥居を過ぎて山麓に向かって上り坂になっており、振り返ると琵琶湖が見えます。
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     三の鳥居、後方の山が牛尾山(八王子山)です。
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 更に登ると有名な山王鳥居(合掌鳥居)です。山王鳥居は神仏習合の信仰を表す形になっている。境内には紅葉が3,000本もあり、11月は紅葉の名所として賑います。
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       日吉三橋の大宮橋
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       日吉三橋の走井橋
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 走井祓殿社(はしりいはらえどのしゃ)、祓戸大神の四神の三番目は一般的には「気吹戸主」ですが、ここでは「気吹戸姫」になっています。
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        手水舎
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        西本宮楼門
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   楼門の軒下の四隅に木像の猿(棟持ち猿)が彫刻されている。
   日吉大社の神使いは神猿(まさる)さんです(魔が去る、勝る)。
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        西本宮拝殿
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     西本宮本殿(祭神は大己貴神、旧称・大比叡)
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 本殿を背後から望むと屋根が独特の形をしています。
 床下には明治の神仏分離まで本地仏を安置していた「下殿」と呼ばれる部屋が設けられていた。 北野天満宮や八坂神社も同形式で、神仏習合の信仰形態です。
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     本殿横のご神木
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by enki-eden | 2014-06-17 00:10

ヨーロッパの夏至祭と冬至祭

 6月21日(土)は夏至です。日照時間の少ない北欧では夏至祭が盛んです。広場の真ん中に立てられた柱(夏至柱)の周りで歌ったり踊ったり、たき火を焚いてその上を飛び越えたりして夏至祭をします。若い男女の縁結びや占いもあります。その影響か10ヵ月後の翌年4月から5月に出産数が多いというスウェーデンの統計があります。
 古代の日本の歌垣に似ていますね。柱の周りを男女が踊って回るのも伊弉諾・伊弉冉の国産み神話と似ています。
 キリスト教が布教される前からある夏至祭がキリスト教の洗礼者ヨハネの祝日となりました。
 古代日本でも日照時間の長い夏至は特別視されています。2013年6月16日(日)投稿の「太陽信仰における夏至」をご参照ください。

 一方、今年の12月22日(月)は冬至です。古代ローマ帝国では太陽神ミトラを信仰するミトラス教が広範囲で信仰されており、冬至で死んだ太陽が翌日から復活するのを祝うお祭りが12月25日に行われていました。この祭りは毎年死と復活を繰り返す「不滅の太陽の誕生日」のお祝いです。
 そのローマ帝国にキリスト教が布教されて、313年に公認されミトラス教に取って代わるようになります。そして、それまで行われていた12月25日の太陽の誕生祭をキリスト教会は「イエス・キリストの聖誕祭」に切り替えました。太陽の誕生日をクリスマス(キリストの誕生日)に替えたのです。
                    *****

 夏至の日は一年で昼の時間が一番長く、冬至の日は一年で昼の時間が一番短い。
 しかし、夏至の日に日の出が一番早く、日の入りが一番遅い訳ではありません。また、冬至の日に日の出が一番遅く、日の入りが一番早い訳ではありません。
 日の出が一番早い日は夏至の1週間ほど前で、日の入りが一番遅い日は夏至の1週間ほど後です。日の出が一番遅い日は冬至の2週間ほど後で、日の入りが一番早い日は冬至の2週間ほど前です。
 これは地軸が23.4度傾いていることと、地球の公転軌道が真円ではなく楕円だから時間がずれるのです。

 それと、ジューン・ブライド(June bride、6月の花嫁)という言葉があります。6月に結婚すると生涯幸せになるという言い伝えです。その理由は色々な説がありますが、ローマ神話のジュピター(Jupiter)の妻ジュノー(Juno)は結婚を司り、守護する月が6月のため英語の6月がJuneになったと言われています。
 しかし私には若い男女の縁結びが6月の夏至祭で行われる事と関係があるように見えるのですがねぇ・・・
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by enki-eden | 2014-06-14 00:06

伊勢斎宮

 斎宮は斎王(さいおう)あるいは斎皇女(いつきのみこ)とも呼ばれますが、斎王の住む宮も斎宮と呼ばれます。斎王は伊勢神宮に奉仕する内親王か女王であり、未婚の皇族の中から亀卜により選ばれました。
 京都の上賀茂神社・下鴨神社でも52代嵯峨天皇(786年~842年)が有智子内親王を斎王としたことから始まりました。現代では葵祭の斎王代として一般の未婚女性から選ばれます。

 紫式部(970年頃~1030年頃)の源氏物語にも第九帖の葵(あおい)と第十帖の賢木(榊、さかき)の巻に伊勢斎王の話があり、現実味のある物語になっています。源氏物語に影響を与えた平安初期の伊勢物語にも伊勢斎王が出てきます。69段「君や来し」です。
   君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現(うつつ)か 寝てかさめてか

 伊勢物語は9世紀後半から10世紀後半にかけて、複数の作者による長期間の合作と見られますが、作者の一人が在原業平(825年~880年)もしくは業平の子孫ではないかと考えられます。そして一人の男の愛情物語が一貫して展開されています。
 紫式部は伊勢物語の影響を受けて、11世紀初め頃に源氏物語の光源氏を描いたのでしょう。

 伊勢斎宮は11代垂仁天皇の時代(4世紀初め)に伊勢国多気郡に始まります。斎王は斎宮の神殿で天照大神に奉仕していました。斎宮に職員は数百名もおり、大規模な祭祀場でした。
 伊勢神宮が斎宮から現在地に遷され建立されたのは、40代天武天皇の時代か41代持統天皇の時代(7世紀終わり頃)だと考えられます。斎宮は遷ることなく多気郡に留まりました。
 斎宮から伊勢神宮までは直線でも14kmですから、斎王が神宮にお参りする実際の行程は20km近いでしょうか。斎王は斎宮で毎日禊と祈りの奉仕をし、年に3回(6月、9月、12月)神宮まで赴き神事を執り行いました。
 鎌倉時代後期の武士社会になると斎王制度も途絶えてしまいます。

 伊勢斎宮は北緯34度32分にあり、「太陽の道」「太陽信仰」の起点です。
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     斎宮跡

     赤のアイコンが斎宮、黄が伊勢神宮内宮、青が外宮


 北緯34度32分の「太陽の道」が伊勢斎宮、三輪山、纏向を通るのに対して、伊勢神宮は外宮が北緯34度29分、内宮が34度27分に位置しています。これは伊勢神宮を建立した天武天皇・持統天皇の飛鳥宮が34度28分にあったことと関係していると考えられます。自分達の宮の真東に神宮を建立したのです。
 持統天皇(女帝)は天照大神の再現として意識していたと考えられます。持統天皇の和風諡号は高天原広野姫天皇です。

 斎宮歴史博物館
 三重県多気郡明和町竹川503  電話:0596-52-3800  
 埋蔵文化財センター的な博物館で、伊勢斎宮跡に建設されました。博物館の説明では、
 国史跡「斎宮跡」は、古代から中世にかけて設置された斎宮(斎王の居住した宮殿と、役所・斎宮寮)を中心とする遺跡です。松阪市と伊勢市にはさまれた多気郡明和町に所在し、その規模は、東西約2km、南北約700mに及び、約137ヘクタールもの広大な面積を有します。
 昭和45年(1970年)に始まった発掘調査によって、「幻の宮」とされてきた斎宮の解明が進んでいます。そして、国史跡に指定された昭和54年(1979年)以降は、調査だけでなく、史跡斎宮跡を守り伝えるために、史跡を整備し活用していくことも重要な課題となっています。

 斎宮寮復元の模型が明和町の斎宮跡にあり、テレビ報道で見ることができました。やがて実物大の斎宮寮復元も実施されるのでしょう。

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by enki-eden | 2014-06-12 00:08

天孫神社(てんそんじんじゃ)

 近江国四宮(四宮さん、四宮大明神)、
 一宮は建部大社、二宮は日吉大社、三宮は多賀大社。
 滋賀県大津市京町3-3-36  電話 077-522-3593
 表門の道向かいに有料駐車場がありますが、参拝者は無料です。
 祭神  彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
      大名牟遅命(おおなむちのみこと)
      国常立命(くにとこたちのみこと)
      帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと、14代仲哀天皇)
 創建  西暦782年(50代桓武天皇の時代)



 50代桓武天皇が近江大津宮に行幸の際、琵琶湖南部鎮護の神として彦火火出見命を勧請したことに始まる。
 神社の由緒によると、「808年(大同3年)に51代平城天皇(へいぜいてんのう)が近江に行幸の際、当社を仮の御所として禊祓いされた。
 1586年(天正14年)、豊臣秀吉が坂本城を廃し大津城築城の際に、その余材をもって当社を修復された記録がある。当社が大津城下の鎮護神、産土神となった。
 また当社は日吉山王の信仰と深い関わりがあり、山王祭には当社と日吉大社の間に大榊の神事がある。4月3日の夜8時40分頃、当社より日吉大社に多数が赴き、日吉の大榊(おおさかき)を持ち帰り(日吉榊奉迎祭)、これを「しんの御榊」として拝殿に祀る。山王本祭の4月14日に、この大榊を再び日吉大社に返す神事(大榊還御)で、この大榊が帰って山王七基の神輿が唐崎に神幸するのである。」とあります。

 10月第2日曜日に大津祭が執り行われ、前日に宵宮があります。滋賀県無形民俗文化財に指定されており、13基の曳山(ひきやま、山車)が「コンチキチン」のお囃子と共に市内を巡行します。豪華な「見送り幕」と「からくり仕掛け」が見ものです。曳山は東北から九州まで多くの神社で行われているので、曳山の数は全国で数万に及ぶようです。
 見物人ではなく、祭りに参加している人は幸せだなと羨ましく思います。日本三大曳山祭は京都の祇園祭、岐阜県高山市の飛騨高山祭、埼玉県秩父市の秩父夜祭ですが、滋賀県長浜市の長浜曳山祭を加えることもあるようです。しかし、私個人としては博多祇園山笠も加えて欲しいなと思います。
 大津祭は日吉大社の山王祭、建部大社の祭礼とともに大津三大祭となっています。また、山王祭、長浜曳山祭とともに湖国三大祭ともなっています。
 天孫神社の境内は大きくないですが桜の木が多いですから、春の参拝も良いでしょうね。

     表門鳥居と社号標、扁額の形がユニークですね。
     境内は桜の木が生い茂っています。
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     由緒
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     手水舎
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     通用門、滋賀宮司さんの表札が見えます。
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     舞殿前、桜の木で覆われています。
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     舞殿右横から奥の拝殿を望む
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     拝殿
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     拝殿内に曳山の写真がかかっています。
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     本殿、回廊が本殿の周りを巡っているので本殿裏からもお参りできます。
     本殿裏へ行ける神社では、私は必ず本殿裏からもお参りしています。
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     拝殿左横に天満宮(菅原道真)
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     拝殿右横に日若宮
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     その右に立派な社務所
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     八幡神社
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     稲荷神社(倉稲魂命)
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     輻輳神社(ふくそうじんじゃ)
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by enki-eden | 2014-06-09 00:12

万葉集「防人(さきもり)の歌」

 663年、「白村江の戦い」で唐・新羅軍に大敗し1万人の兵を失った大和朝廷が、侵略されるのを防ぐために九州などに防人を置き、都を飛鳥から近江に遷した。
 日本書紀の38代天智天皇3年(664年、実際に天皇職に就いたのは668年)に、「対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽(すすみ、烽火台)をおいた。また筑紫に大堤(おおつつみ)を築いて水を貯えた。これを水城(みずき)と名づけた。」とあります。
 水城は大宰府を守る関門で、福岡県大野城市から太宰府市にかけて現在でも存在している。真っ直ぐの水濠と土塁で長さは1.2kmあった。道路建設のため一部欠けているが、水城跡として特別史跡になっている。現在の地名も太宰府市水城である。
     青の矢印が水城、赤が大宰府跡、黄が太宰府天満宮
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 大和朝廷は665年には北九州から瀬戸内にかけて山城を築かせた。667年に都を近江に遷し、翌年に中大兄皇子は即位して38代天智天皇となった。

 東国から徴兵した防人が船で大宰府に送られ、防人司(さきもりのつかさ)の管轄下に入りました。防人は各地の砦に配置され、軍事訓練と耕作に従事しました。東国各地から集められた防人の人数は約2,300人ほどで、年季は3年以上です。8世紀中頃には地元の九州で徴兵されますが、10世紀頃になると防人は消滅していきます
 防人が遠方の東国から集められたのは、西日本の兵が白村江で1万人も戦死したことと、大和朝廷が武力の強い東国の勢力を弱めようという狙いがあったと考えられます。しかし、これぐらいのことでは東国の力は衰えなかったのではないでしょうか。優秀な人材は温存されたのかもしれません。東国の武力は後代の関東武士に引き継がれていますからね。後々明治維新まで続く関東と関西の長い勢力争いにも繋がっていくのでしょう。

 日本書記・古事記など正史とされるものは、大和朝廷側に立った歴史です。万葉集の防人歌は、出征による別れを悲しむ歌が中心ですから、徴兵した朝廷を恨む気持ちが背景にあるでしょう。
 万葉集は全20巻、4,516首の歌集です。その中で防人歌は13、14、20巻にあります。防人歌は大伴家持(やかもち、718年頃~785年)が兵部少輔だった755年に防人の歌を集め、84首を万葉集に選びました。
 家持の長歌・短歌などは473首が万葉集に収められており、全体の一割を超えています。万葉集18巻の大伴家持の長歌から一部を採った「海行かば」は戦前に軍歌の歌詞として採用され、第二国歌とも言われました。
   海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)  山行かば 草生(くさむ)す屍
   大君の 辺(へ)にこそ死なめ  かへりみはせじ
 これは、大伴氏と佐伯氏の間に伝わっていた戦闘歌謡でした。大伴氏の伝統を背負った家持の氏族意識の一端が伺えますね。

 大伴氏は神武天皇の時代から皇室に仕えましたが、大伴金村(5世紀から6世紀半ば)の外交失策から勢力が衰え始め、蘇我氏の台頭もあり、蘇我氏の後の藤原氏の時代(8世紀)になると大伴氏は政治の中心から外れてしまいます。それはちょうど大伴家持が生きた時代です。家持は朝廷に仕えながらも、敗者の心が分かる立場でした。
 藤原不比等(659年~720年)が中心となり正史の古事記(712年)、日本書紀(720年)を編纂させたのに対して、大伴家持は敗者の側の歴史をそれとなく残せないかという思いもあって、万葉集に歴史をからめ、歌集の編纂作業をしたのではないでしょうか。防人の歌の採用にはそのような配慮があると考えます。ですから万葉集の歌の文学的な理解に加え、歴史的な背景を見るのが必要ではないかと思います。

 防人の歌は出征する防人が妻・子ども・恋人・父母などを歌ったものです。
   立ち鴨の 立ちの騒きに 相見てし 妹が心は 忘れせぬかも (4354)
    あわただしく出征させられて、急いで別れた彼女の心が忘れられない。

   ひな曇り 碓日の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも (4407)
    まだ碓氷峠を越えたばかりなのに、彼女が恋しい。

   韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして (4401)
    母親もいない子なのに、取り付いて泣く子を置いてきてしまった。

   家にして 恋ひつつあらずは 汝が佩ける 大刀になりても 斎ひてしかも (4347)
    父親が出征する息子の刀になって守ってやりたいと願っている。
    見送る父が歌ったもの。

   海原に 霞たなびき 鶴が音の 悲しき宵は 国辺し思ほゆ (4399)
    大伴家持も防人の気持ちになって歌いました。
    鶴の鳴き声が悲しく聞こえる夜は、とりわけ故郷が思い出されることだ。

 2013年6月9日(日)投稿の「古事記・日本書紀・万葉集」も併せてご参照くださいませ。

 梅原 猛氏が「日本の詩人の伝統は、政治的敗残者と、愛の実行者ですね。在原業平(ありわらのなりひら、825年~880年)もやっぱり政治的敗残者で、追放されて関東をさまよう。」と云っています。
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by enki-eden | 2014-06-06 00:06

近江神宮

 滋賀県大津市神宮町1番1号   電:077-522-3725  無料駐車場あります。
 祭神 38代天智天皇(天命開別天皇、あめみことひらかすわけのすめらみこと)
 創建 昭和15年11月7日(天智天皇の近江宮跡に建立)



 近江神宮の説明によりますと、「天智天皇を祀る近江神宮は、天智天皇の古都、近江大津宮跡に鎮座する神社です。琵琶湖西岸の山裾に位置しています。境内は約6万坪で、社殿は近江造り・昭和造りといわれ、昭和の神社建築の代表として登録文化財となっています。開運・みちびきの神、産業文化学問の神として崇敬が深く、また漏刻(水時計)・百人一首かるた・流鏑馬(やぶさめ)で知られ、境内に時計館・宝物館があり、漏刻・日時計なども設けられています。」
 「天智天皇は漏刻(水時計)をお造りになり、社会生活の基本である時報を始められたことはよく知られています。6月10日の時の記念日は近江朝廷で時報が開始された日を記念して大正9年に制定されたもので、毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、賑々しく漏刻祭が斎行されています。境内には時計館・宝物館が設けられ、和時計をはじめ各種の古時計などを展示しています。また境内に設置された水時計や日時計は、時計業界からの献納によるものです。」
 「このほか小倉百人一首第一番の天智天皇の御製、秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ は広く国民に親しまれ、歌かるたの祖神としても仰がれています。近江神宮ではかるた祭も行われています。」

     一の鳥居と社号標
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     鳥居横に「かるた」の看板、境内には歌碑がたくさんあります。
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     長い上り坂の表参道
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     二の鳥居
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     手水舎
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     由緒、読みにくい。
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     石段を登ると立派な楼門
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     楼門を入り、振りかえる。
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     楼門の横に時計館・宝物館、手前に赤と白の日時計。
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     古代の火時計(FIRE CLOCK)
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  漏刻(水時計)
  中大兄皇子の漏刻については、3月13日(木)投稿の飛鳥水落遺跡をご参照ください。
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     奥に神座殿(かみくらでん、かぐらでん)
     結婚式、ご祈祷のほか、かるた祭など一部の祭典が行われる。
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     更に石段を登り立派な外拝殿に
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     外拝殿前の大理石製狛犬
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     外拝殿の奥には内拝殿、祭典や祈祷が行われる。
     本殿はその奥です。
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    本殿の千木と鰹木が見える。
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 栖松遙拝殿(せいしょうようはいでん)
 かつて高松宮家の邸内社・御霊殿として有栖川宮家以来の御霊を祀っていた建物が、高松宮家廃止にともない、平成18年近江神宮に移築されました。遙拝式はここで行われています。
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 天智天皇山科陵(やましなのみささぎ)
 京都市山科区(やましなく)御陵上御廟野町(みささぎかみごびょうのちょう)
 上円下方(八角)墳

   赤のアイコンが近江神宮、黄が天智天皇山科陵

   天智天皇陵


 38代天智天皇は626年に誕生、672年に崩御。平安末期の「扶桑略記」に、天智天皇が山科の里まで遠乗りに出かけたまま帰ってこない。沓だけが見つかったのでそこを山陵としたとあります。
 大海人皇子(おおあまのみこ、後の40代天武天皇)に暗殺されたという説がありますが、日本書紀には天智天皇は近江宮で病死したとあります。
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by enki-eden | 2014-06-03 00:10