古代史探訪

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伊香色雄命(いかがしこおのみこと)

 素戔嗚(すさのお)の第五子・饒速日(にぎはやひ)が西暦185年頃に九州から東遷して、「天の磐船」に乗って河上の哮が峰(たけるがみね)に天降った。そこは現在の大阪府交野(かたの)市と枚方(ひらかた)市で天野川が流れており、伊香色雄の子・多弁宿禰(たべのすくね)が天野川流域を開拓し、淀川と天野川の合流する地域を支配した。一族は肩野物部(かたのもののべ、交野市と枚方市)となった。
 肩野物部の神社は大阪府交野市私市(きさいち)に鎮座の磐船神社で、祭神は饒速日命、ご神体は饒速日の乗ってきた磐船です。磐船神社については、2013年1月14日(月)投稿の「磐船神社」をご覧ください。

 伊香色雄は肩野物部の祖で、天野川の南方の伊香賀(枚方市伊加賀)に住み、その地域を支配した。邸宅内に高龗神(たかおかみのかみ、水神・竜神)を祀った。系図を見ると伊香色雄は素戔嗚の8代目で、9代開化天皇と10代崇神天皇に仕えました。
素戔嗚―饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄

 現在の意賀美(おかみ)神社の地(大阪府枚方市枚方上之町1-12)は元の須加神社(素戔嗚尊)の地で、意賀美神社は近くの伊加賀村宮山に鎮座していたが、明治時代に宮山から現在地に遷座して素戔嗚尊を合祀した。当社は万年寺山に鎮座しており、万年寺山古墳も1904年に発見されました。主体部は粘土槨で青銅鏡8面と鉄刀が出土しました。築造年代は4世紀中頃で、伊香色雄の没年は4世紀前半ですから伊香色雄の墳墓かもしれませんね。
 枚方市史によると、「意賀美神社は9代開化天皇の頃、当地の豪族伊香我色雄命が淀川の水害排除と舟の航行安全を祈願して、その邸内に創建したのが始まり」とあり、淀川の水神(竜神)を祀ったのが最初と考えられる。
 伊香色雄の邸宅は、意賀美神社の元の鎮座地伊加賀村宮山(100m南)にあったと考えられます。

   赤のアイコンが意賀美神社、黄が磐船神社


 志賀 剛著「神名の語源辞典」によると、
 アイヌ語の「インカラウシュ」は「インカラ」=見る、「ウシュ」=場所で、
 「見晴らしの良い丘」と言う意味です。
 言葉の訛りは、インカラウシュ→イガラシ・イカラシ→イカナシ→イカマシ→
 イコマ・イクマ→イカガシ→イカガ→イカグ→カグなどです。
 伊香色雄の本拠地は大阪府枚方市伊加賀で、淀川を前にして「見晴らしの良い場所」になっています。
 「カグ」も「見晴らしの良い丘」であるなら、天火明の子・天香語山や奈良県橿原市の天香久山も見晴らしが良いという意味になるでしょう。天香久山の見晴らしの良さに関して、万葉集に34代舒明天皇の国見の歌があります。現在の天香久山は木々が生い茂って見晴らしは良くありませんがね。
   大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は
   煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は
 ここで「海原は かまめ(カモメ)立ち立つ」とあるのは、当時の奈良盆地は中央部が湖(大和湖)だったからです。

 また、「イカナシ」が「見晴らしの良い丘」であるなら、吉備の物部一族の磐梨(イワナシ)氏もそのような名づけ方なのでしょう。磐梨氏は現在は北九州市に移られています。磐梨氏については2013年10月18日投稿の「八幡神社(宗佐厄神八幡神社、兵庫県加古川市)」の最後に述べていますのでご参照ください。

 伊香色雄命の同母姉妹に伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、日本書紀と先代旧事本紀によると8代孝元天皇の妃となり、後に9代開化天皇の皇后となり、10代崇神天皇の母となる。ちょっと複雑ですがねぇ・・・
 私見ですが、崇神天皇は邪馬台国女王の臺與と共に西暦270年頃に筑紫から大和に東遷して天皇家に婿入りした可能性があります。これは状況判断だけで、裏付ける文献資料はありません。

 崇神天皇は開化天皇の兄・大彦の娘の御間城姫を皇后にします。
 伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)
 伊香色雄と伊香色謎の時代に物部氏は天皇家と密接に結託して大躍進することになります。

 10代崇神天皇の7年(300年頃)に物部氏の祖・伊香色雄命が大和三輪に大物主神を祀り、大田田根子を神主にします。また、布都大神(素戔嗚の父・布都及び剣)が宇摩志麻治(うましまじ、饒速日の子)の時代(3世紀初期)に宮中で祀られていましたが、伊香色雄がご神体を石上邑に遷し、石上大神として祀って物部氏の氏神となりました。(奈良県天理市布留町の石上神宮、いそのかみじんぐう)
 石上神宮については2013年7月13日(土)投稿の「石上神宮」をご覧ください。
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by enki-eden | 2014-07-29 00:19

阿閇神社(あえじんじゃ、兵庫県加古郡播磨町)

 兵庫県加古郡播磨町本荘4丁目11-21 電話079-435-2918 無料駐車場あり。
 旧・加古郡阿閇村、本荘城跡。
 祭神  底筒男命、中筒男命、表筒男命、気長足姫命(神功皇后)
 創建  奈良時代後期(8世紀)か。
   国重要文化財の住吉大社神代記(天平3年、731年)に阿閇社として記されている。



 加古川市の尾上神社の好崎宮司が当社を兼務。
 当地は播磨国風土記に「阿閇の津」と記され、昔から瀬戸内海交通の盛んな港であった。当社は海上守護神としての住吉大社から「子神」として御分霊を奉斎した。
 当地の阿閇荘は中世には住吉大社の荘園で、近辺には住吉神社が非常に多い。

 本殿は4棟が南北に並び、西向きに建てられている。形は違うが、住吉大社が西向きであることと関係あるのでしょう。神社の由緒によると、赤松氏の居城に向かって西向きに建立したとありますが・・・
 現在の本殿は1702年(元禄)の建立で一間社春日造り、桧皮葺きの4棟。

 当地出身のジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵、1837年-1897年)は航海中に紀伊半島沖で難破して漂流、1852年に南鳥島付近でアメリカ船のオークランド号に救助される。アメリカ各地に住みカトリックの洗礼を受け、アメリカ国民となる。
 一時帰国するが再度アメリカに渡り、1862年に再帰国。様々な事業を展開したが1897年に61才で死去。アメリカ国籍であったので東京青山の外人墓地に葬られた。

  入り口の鳥居と社号標。鳥居の柱は四角柱の住吉鳥居で南向き。
   柱には敬神尊王 寶祚無窮(ほうそむきゅう、皇位は永遠)と記されている。
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   二の鳥居、拝殿、本殿の一部を望む。西向きになっている。
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     二の鳥居と割拝殿、扁額は「阿閇社」。
     両部鳥居で柱上端に台輪(だいわ)が付いています。
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    本殿、県指定の文化財。 左(北)から一宮(表筒男命)、二宮(中筒男命)、
    三宮(底筒男命)、四宮(息長帯姫命)。
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     本殿背後から望む。
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  境内摂社の阿閇恵比須神社(事代主命、三穂須須美命)、島根県松江市美保関町の
  美保神社より昭和40年に勧請。
  日本の高度成長期に地元産業の発展・繁栄を祈り建造された。
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     拝殿
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     本殿
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by enki-eden | 2014-07-26 00:19

古代史とミトコンドリア(mitochondria)

 ミトコンドリアは生物の細胞に含まれる細胞内構造物の一つです。ミトコンドリアは、血液により細胞に運ばれてきた酸素でぶどう糖や脂肪を燃やし、二酸化炭素と水とエネルギーに分解する。生物はそのエネルギーを利用して体温を保ち運動をします。
 爬虫類(鳥類を含む)のミトコンドリアは哺乳類と違って特異な働きをします。非常に効率よくエネルギーを発生します。

 細胞核にあるDNAとは違い、ミトコンドリアは独自のDNAを持っています。ミトコンドリアDNAは本来のDNAと区別してmtDNAと表します。ミトコンドリアに核はなく、数千のmtDNAがミトコンドリア内に存在しています。

 生物がどのように進化したのかを調べるには、通常のDNAよりもmtDNAが便利です。mtDNAの塩基置換は通常のDNAより5~10倍早いとされています。人とチンパンジーのDNAを比べると、違いは1%ですが、mtDNAを比べると、違いは9%です。mtDNAの方が同じ期間内に塩基置換が多く行われているからです。DNAを調べても違いが少ないのに対し、mtDNAはDNAの5~10倍違いがあるため、比較しやすいのです
 そして一つの細胞の中にはmtDNAは数千コピーが存在しますが、DNAには一つだけです。DNAの場合は、細胞一つから一つのDNAしか抽出できません。

 父親のmtDNAは精子の核にあるのではなく、精子の鞭毛基部に付いており、卵子と精子が受精した後、鞭毛とmtDNAは排除されるので、mtDNAは母親のものだけが子供に伝わります(母系遺伝)。この特性により生物の進化を調べると、mtDNAの母親のみをたどることで一人の女性にたどり着くわけです。
 ミトコンドリアで祖先をたどると、アフリカ人が最初に分岐するグループであることが分かります。その祖先は約17万年前に生存していたアフリカの一人の女性に行き当たります。これをミトコンドリア・イブ(人類の母)と呼びます。
 アフリカの気候が乾燥化して、人類の「出アフリカ」が始まり世界中に広がっていきます。その時期は6万年前頃だと言われますが、今後の人骨出土状況によって時期はもっと古くなる可能性があります。

 ミトコンドリアは世界に80パターンのDNAがあり、日本人には16のパターンがあります。日本人のミトコンドリアハプログループは、
 D4が33%で中国西部系、D5が5%で中国南部系。
   日本人に一番多く長寿に関連する。
 Gは8%、北部・中央アジアから入ってきた。
 Aは7%で、北部・中央アジアから入ってきたグループ。北米にも渡った。
 M8a、Z、Cは3%で中国北部系。
 M10は1%、中央アジアから入ってきた。
 N9a、N9bは9%、北方アジア系。
 M7a、M7b、M7cは合計14%で、南方系で沖縄に多いが全国に広がった。
   M7aは日本にのみ存在する縄文系で、北に行くほど頻度が少なくなるが
   アイヌでは16%ある。
   M7bは華南、M7cはフィリピンに多く分布。
 B4が9%、B5が4%で東南アジアやポリネシアのグループ。縄文時代には入っていた。
 Fは6%で、東南アジアから日本に入ってきたグループ。
   アジア南部で分岐し、痩せ型で北方の気候には向かない。東南アジアでは
   最大のグループ。

 ミトコンドリアDNAの解析は、遺跡から発掘される古代人の骨からもできます。日本固有パターンは縄文人しかないので、縄文人と弥生人の混血で現在の日本人を形作っていることが分かります。
 縄文人も単一ではなく複合民族です。縄文人とその後の渡来人の遺伝子割合は1対2です。
 ミトコンドリアの分析でも、Y染色体の分析でも、人々の日本列島への移住は男女あるいは子供も含めて行われたことが分かります。縄文人、弥生人、その後の渡来人は男女両方の遺伝子があるからです。
                      *****
 ミトコンドリア(母系)ではなく細胞核のY染色体(父系)で見ると、アフリカからアラビア半島に渡り、インドから北部へ移ったのがチベット人のD1、D3グループです。同じDグループのD2グループは北部へ行かず、東南アジアから西南諸島沿いに北上して、3万年前に日本列島にやってきました。これが縄文人の主力です。
 これ以外にC1a1グループの沖縄港川人があり、C2aグループがシベリアから北海道・九州へ入り列島に定着しました。このDとCのグループが混ざって縄文人となりました。日本人のY染色体分布は統計によって数値が少し違いますが、Cが7%で、Dが40%ですから縄文系が47%になります。
 縄文系の割合が日本の平均より多い地域は、北海道が63%、関東が52%、沖縄が53%です。平均より少ないのは中国地方(吉備)の19%、四国の38%、九州の39%、中部地方(尾張)の41%です。
 Y染色体のDグループ(縄文系)はチベット以外には、中近東に少しあるだけです。日本人は世界の中でもマインドが独特なのは、この縄文系の影響が大きいと考えています。もちろん良い影響ですよ!
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by enki-eden | 2014-07-23 00:12

坐摩神社(いかすりじんじゃ、大阪市)②

     拝殿右の狛犬、大正6年に寺島弥兵衛が奉納と記されている。
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     境内の右(北)に境内社が並んでいます。
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     向かって右から相殿神社(住吉、猿田彦、天御中主、大歳など)
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     天満宮(菅原道真)
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     大国主神社(大国主、事代主、少彦名)
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     繊維神社(天羽槌雄、天棚機姫)
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     大江神社(神功皇后、応神天皇、武内宿禰)
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     神紋の鷺丸
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 さぎ草はラン科の多年草で、白鷺が羽を広げたような白い花を咲かせます。当社神紋の「鷺丸」にちなみ境内でご神花のさぎ草が約50鉢栽培されている。
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       絵馬
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   境内のアジサイ(約200株)、花の咲く5月から6月には参道に並びます。
   後方の左に見える社殿は本殿で、右奥の社殿は神官の禊所(みそぎしょ)。
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 西からの入り口には末社の陶器神社(大陶祇 おおすえつち、迦具突智 かぐつち)が鎮座、陶器問屋の守護神です。坐摩神社の夏季大祭では、陶器神社でも大祭が執り行われ、「大阪せともの祭」を催します。
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     扁額も陶器製です。
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     陶器神社の周囲には様々な陶器製・磁器製の燈篭などがあります。
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     加藤石、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったと伝わる。
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     陶器神社の右隣りに稲荷神社(宇賀御魂)
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 上方落語寄席発祥の地。江戸時代後期、当社の境内で上方落語の中興の祖である初代桂文治が初めて開いた寄席が上方落語の寄席興業の始まりとされている。
 現代でも当社ではジャズコンサート、茶会、音楽祭などが催されています。
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by enki-eden | 2014-07-20 00:12

坐摩神社(いかすりじんじゃ、大阪市)①

 通称 ざまじんじゃ、ざまさん
 摂津国一宮は住吉大社ですが、当社も中世に住吉大社の末社になったことがあるので、その関係からか中世以降当社も摂津国一宮を称しています。
 大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号 電 06-6251-4792 無料駐車場あります。
 社務所は大阪府神社庁を兼ねています。

 祭神 生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)、
     阿須波神(あすはのかみ)、波比岐神(はひきのかみ)、
 総称して坐摩大神(いかすりのおおかみ)という。
 初めの三神は井水の神で、次の二神は竈神。
 阿須波神は旅の守護神でもあり、東国から筑紫に向かう防人が無事を祈った。

 坐摩大神は初代神武天皇の時から宮中で祀られており、皇居の守護神でした。坐摩巫(いかすりのみかんなぎ)によって祀られた。今でも宮中三殿の神殿で座摩巫祭神(いかすりのみかんなぎのまつるかみ)五座として祀られています。
 大歳神と天知迦流美豆比売の子神に阿須波神と波比岐神があります。物部氏との繋がりがあるのでしょう。

 坐摩大神は京都の上賀茂神社の摂社・須波神社でも居住地を守る神として祀られています。須波神社については2014年1月10日(金)投稿の上賀茂神社③をご覧ください。

 神功皇后は新羅遠征(363年)から帰り、筑紫で誉田別皇子(15代応神天皇)を出産するが、その時に花を懸けて坐摩大神を奉斎したという。その由来により当社では4月に献花祭が執り行われます。
 当社の創建は神功皇后が新羅遠征の帰りに坐摩神を淀川河口の「渡辺」に祀ったといわれる。現在の地名は大阪市中央区石町(こくまち)2-15で、坐摩神社行宮(御旅所)になっている。大阪府立労働センターの東向かいです。
 大阪城築城の際に当社は現在地へ遷り、地名の「渡辺」も引き継がれた。当社の宮司職も渡邉紘一氏です。渡邉氏の祖神は天津彦根命で、先祖は都下国造(つげのくにのみやつこ)、元は凡河内国造(おおしこうちのくにのみやつこ)です。現在の渡邉宮司で58代目の宮司だそうです。
 坐摩巫(坐摩神に奉仕する巫女)は都下国造の7才以上の童女が奉斎し、結婚したときは別人に替えた。
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   青のアイコンが坐摩神社、赤が坐摩神社行宮


 節分に斎行される特殊神事の「鎮魂祭」は、石上神宮の物部神道に似ているように感じます。神社の説明によると、『人は常に霊魂が安定して居れば元気で病苦や災いからも免れることができますが、安定を失うと病気や、不健康な状態になり、魂が遊離すれば死に至ります。
 自らの魂を常に安定し、離れることのないように神様に祈願し、日々の生活の安らぎを求めるのが鎮魂祭の意義でもあります。
 儀式の中で鎮魂筥(ばこ)に水晶の玉を結び、振り動かす事によって、自らの魂をふるい起こして身体の中に静かに鎮めて安定せしめ、心の平安と心身の健康・寿命の長久を祈念いたします。』とあります。

     入り口の三つ鳥居(三輪鳥居)と社号標
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     三つ鳥居の後方(南)に社務所兼大阪府神社庁が見える。
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     由緒
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     夏祭りの案内
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     ご神徳と祭儀
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     入り口の狛犬(陶器製)
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     参道
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      手水舎、近づくと水が流れます。
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 明治天皇聖躅(せいちょく、足跡)、明治天皇は大阪に8度も行幸され、市内31ヵ所に聖躅の石碑が立てられたが、現在では21ヶ所が残っている。
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    拝殿、1945年の空襲で焼失し、1960年に鉄筋コンクリート造りで再建された。
    社殿は東向きに鎮座。
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      本殿
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 我が家の庭では先週から蝉が鳴き始めました。
 朝起きると簾に蝉がとまっていたのでパチリ! メスなので鳴きません。
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by enki-eden | 2014-07-17 00:11

尾上神社(おのえじんじゃ)②

 社殿の左に3代目の「片枝の松」、神功皇后を慕って全ての枝が東を向いている。
 松の左側が龍の頭と角、右側が胴体になっている。枝が全て東(右)向きに出ている。
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 国指定重要文化財「尾上の鐘」
 拝観は予約が必要。
 高さ123.5cm、口径73.5cm、厚さ約7cmの朝鮮鐘(ちょうせんがね)で、神功皇后が新羅から持ち帰った鐘だと伝えられているが、実際には11世紀初め頃の高麗時代の鋳造と考えられている。国内に現存する朝鮮鐘は42口あるそうです。
 国内で現存する最古の鐘は、京都妙心寺の戊戌(つちのえいぬ)年(698年)銘文入りの梵鐘。九州方面で製作され国宝になっている。

 尾上の鐘は中央部に如来像、その上に天蓋、左右に楽器が6つ、その外側左右に雲上の天女が装飾されているが、一時盗まれて海に沈み、潮流で表面がかなり磨り減っている。デザインが中国式でもなく、朝鮮式でもなく、日本式なので鋳造を高麗に特注したようです。
 鐘の上部にある筒が空洞になっており、音が下からも上からも響き、遠くまで音が届くようです。
 好崎宮司さんが収蔵庫を開けて熱心に説明してくださいました。「神社に鐘があるのは神仏習合の影響ですね?」と尋ねると、「神社独自の鐘で神仏習合とは関係ありません。」というご返事でした。
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  天狗、船のへさきに取り付けられていた。天狗は猿田彦で先導の神、船を先導する。
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 鐘を下から覗くと上部が丸く抜けている。そのため上からも音が響く。この鐘の音が聞こえる範囲の海は「響きの灘」と呼ばれている。
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     初代「尾上の松」の切り株。
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     7本竹
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     相生殿に3代目相生松
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      相生殿に尾上の鐘と天狗の昔の写真が掛かっている。
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by enki-eden | 2014-07-14 00:03

尾上神社(おのえじんじゃ)①

 兵庫県加古川市尾上町長田518   電 079-422-5676  無料駐車場あります。
 祭神 住吉大明神(底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姉命=神功皇后)
 創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)

     


   ご朱印
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 神社の由緒によると、神功皇后が三韓征伐の時、航海の無事を住吉大明神に感謝したことから建てられたという。国の重要文化財である「尾上の鐘」と、古くから歌に詠まれている「尾上の松」で有名になり、江戸時代には「播磨鑑(はりまかがみ)」や「播州名所巡覧図絵」にも紹介され、多くの人が訪れる観光スポットになっていた。
 私見ですが、神功皇后の新羅出兵は西暦363年です。同年帰国して誉田別皇子(ほむたわけのみこ、15代応神天皇)を筑紫で出産している。

   注連柱(しめばしら)が社号標になっている。(高砂尾上神社、高砂うたひの名所)
   奥に神門。
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     神門を入ると、右手に大村神社。
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     大村神社の隣に一本稲荷大神が鎮座。
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   神門を入り左手には尾上ノ松、次世代の尾上の松を玉垣の中に植樹している。
   後方は相生殿。
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     手水舎
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   境内右手に謡曲「高砂(たかさご)」に謡われた相生霊松(あいおいれいしょう)の
   「7代目尾上の松」がある。
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     立派な拝殿
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     拝殿内の額(天壌無窮)
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     拝殿内
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     神紋の揚羽蝶
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     拝殿の屋根
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     幣殿の屋根
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     本殿(千木は垂直切り、鰹木は3本)
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     境内右奥の入り口
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     拝殿右の石碑
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     社務所も立派です。
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by enki-eden | 2014-07-11 00:08

穂高神社の御船祭

 テレビ報道で穂高神社(ほたかじんじゃ)の御船祭(おふねまつり)が放映されました。
 穂高神社は長野県安曇野市穂高6079に鎮座、祭神は穂高見神、綿津見神、瓊瓊杵神などです。宮司は代々穂高氏が受け継いでいます。穂高氏は安曇氏の祖である穂高見神の子孫なのでしょう。

  

 安曇氏(阿曇氏)は筑前国糟屋郡阿曇郷を拠点として、博多湾の志賀島を聖地としていた。志賀島には志賀海神社が鎮座。宮司は現在でも阿曇氏ですが、阿曇磯和宮司が5年前に亡くなられてからは太宰府天満宮の西高辻信良宮司が宮司代務者を務めておられるようです。太宰府天満宮には境内社の志賀社があり、志賀海神社との繋がりは深い。
 将来は阿曇磯和氏の甥(磯和氏の妹・平澤憲子権禰宜のご子息)が志賀海神社の宮司を継がれるようです。平澤権禰宜もテレビの取材に応じておられました。

 安曇氏(阿曇氏)は全国に拡がり、地名も渥美半島(愛知県)、安曇野(長野県)、美濃国厚見郡(岐阜県)、熱海(静岡県)、安曇川(滋賀県)など多くの関連地があります。安曇氏が全国に移住していった原因は、「磐井の乱」で敗北した磐井側に味方していたためという説があります。
 26代継体天皇は527年に朝鮮南部に軍を進めようとするが、筑紫君磐井がこれに抵抗して戦いになったので、継体天皇は物部麁鹿火を将軍として派遣し、528年に筑後国御井郡で磐井を討った。磐井の子・葛子(くずこ)は糟屋の屯倉を朝廷に献上し死罪を免れた。

 安曇氏が全国に移り住んだ原因はともかくとして、筑紫から信濃安曇野に移った安曇氏は穂高神社を建立。穂高(ほたか)氏が代々宮司を務め祖神の穂高見神、綿津見神(穂高見神の父神)を祀った。
 穂高神社は山奥にあるが、例祭として「御船祭」が9月27日に執り行われる。これは海人族としての誇りと伝統を表し、663年に白村江で戦死した将軍安曇比羅夫を称え追悼したものです。
 氏子が大きな船を造り、穂高神社の拝殿の前で2隻が船体を激しくぶつけ合います。船の前部は男腹(おばら)と言い、後部を女腹(めばら)と言います。片方の船の男腹ともう片方の船の女腹をぶつけるのです。男腹と女腹をぶつけて子孫繁栄を祈る。白村江の海戦を表しているとも云います。
 穂高神社のサイトをご覧ください。 http://www.hotakajinja.com/

 長野県安曇野市や新潟県に海藻加工食品があります。原料は日本海で採れる「えごのり」です。安曇野市や新潟県ではエゴ(イゴ)と言います。佐渡ではイゴネリ(エゴネリ)と言います。見た目はコンニャクのようで、食べるとトコロテンに似ているそうです。値段は結構高いですよ。
 同じ材料で作る海藻加工食品が福岡市にもあります。「おきゅうと」と言います。この共通した食品も海人族の安曇氏の繋がりでしょうね。
 出光興産の創業者・出光佐三氏は福岡県宗像市の出身ですが、「おきゅうと」の味が忘れられずに東京まで取り寄せたそうです。
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by enki-eden | 2014-07-08 00:09

建部大社(たけべたいしゃ、滋賀県大津市)②

建部大社の境内社
     藤宮神社(布多遅比売命=日本武尊の妃)
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      若宮神社(建部稲依別命=日本武尊の子)
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      弓取神社(弟彦公=日本武尊の家臣)
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 箭取神社(せんとりじんじゃ、石占横立・田子之稲置・乳近之稲置=日本武尊の家臣)
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 大野神社(草野姫命、かやのひめ=縁結びの神)、建部大社遷座以前からの地主神。
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      ご神木
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      武富稲荷神社(稲倉魂命)
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     八柱神社(素戔嗚命の八柱の御子)(別の祭神説もあります)
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     神宮遥拝所、後ろの木の根は弥栄(いやさかえ)のご神木。 松根=商魂
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       宝物殿
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  蔵人頭神社(七掬脛命=料理の神)と行事神社(吉備臣武彦、大伴連武日=日本武尊の家臣)
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大政所神社(おおまんどころじんじゃ、播磨稲日大郎姫命 はりまのいなひのおおいらつめ=日本武尊の母)と聖宮神社(ひじりのみやじんじゃ、12代景行天皇=日本武尊の父)
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       願い石(ねがいいし)
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 大津三大祭の「船幸祭」は8月17日の夕方から夜にかけて執り行われます。日本武尊が船団を従え東国へ海路を進んだ故事に基づき、琵琶湖から流れる瀬田川の唐橋から4km下流の黒津浜まで往復の船渡御で、日本武尊の業績を称える神事です。
 7月と8月は全国の神社でお祭りが盛大に執り行われますね。楽しみです。
     船渡御出航のパネル
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 境外末社として檜山神社が直ぐ北の御旅山に鎮座。祭神は伊弉冉命、大山祇命、息長足姫命、武内宿禰、住吉大神。
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by enki-eden | 2014-07-05 00:11

建部大社(たけべたいしゃ、滋賀県大津市)①

滋賀県大津市神領(じんりょう)1-16-1 電 077-545-0038 無料駐車場あります。
近江国一宮、建部大明神、延喜式内名神大社。
瀬田唐橋(せたのからはし)の東600mに鎮座。名神高速瀬田西インター北へ550m。

祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)、幼名は小碓命(おうすのみこと)
   相殿に天明玉命(あまのあかるたまのみこと、伊弉諾尊の子、玉作連等祖)
     天明玉命は先代旧事本紀によると高皇産霊尊の子とあります。
   権殿に大己貴命(おおなむちのみこと、大和三輪の大神神社から勧請)
創建  12代景行天皇の時代(4世紀前半)

 日本書紀によると、12代景行天皇は皇子・日本武尊を遣わせて九州の熊襲を討った。このとき、日本武尊の年令は16才。日本武尊は11代垂仁天皇の皇女・両道入姫(ふたじのいりひめ)を妃とし、足仲彦(たらしなかつひこ、14代仲哀天皇)などが生まれた。
 古事記の表記は倭建命(やまとたけるのみこと)で、妃は意富多牟和気(淡海の安国造)の娘・布多遅能伊理毘売命とある。

 建部大社の由緒によると、日本武尊の妃であった近江安国造の娘・布多遅比売命が、子の稲依別王と共に住まわれた神崎郡建部の御名代の地に、日本武尊の神霊を建部大神として奉斎したのが当社の起源という。その後、675年に現在地に遷座して近江国一宮になったという。
   赤のアイコンが建部大社、黄が神崎郡建部


 日本書紀によると景行天皇は、更に東国の東夷、蝦夷を平らげるために日本武尊を征夷将軍とした。このとき、天皇は日本武尊を褒めて「形はわが子だが、本当は神人(かみ)である。天下も位もお前のもの同然である。」と言われた。
 日本武尊は東国と北陸を制圧し、尾張まで戻ってきて尾張氏の女・宮簀媛(みやずひめ)を娶った。そこで近江の五十葺山(いぶきやま、伊吹山)の荒ぶる神を征伐に行ったが体調が悪くなり、伊勢の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で亡くなった。時に年令30才。
 三重県亀山市田村町1409に能褒野神社と能褒野陵(前方後円墳、全長90m)がある。大阪府堺市西区には大鳥大社、大阪府羽曳野市と奈良県御所市に白鳥陵がある。
 景行天皇は日本武尊の死を悼み、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました。これが建部の起源です。
   赤のアイコンが伊吹山、黄が能褒野神社


 平安末期の平治の乱(1160年)で敗れた源頼朝が平家に捕らえられ、14才で伊豆に流される途中に建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をしました。見事に願いが叶ったことから日本武尊は武運の神として信仰を集めました。開運出世・必勝・厄除・災難除の神として崇敬されています。

     一の鳥居を振り返る
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     二の鳥居と由緒書き
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     社号標
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     神門と神紋
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     手水舎、人が近づくと水が出てスピーカーから音頭が流れる。
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     拝殿とご神木の三本杉(神紋になっている)
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     拝殿内
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     拝殿の狛犬
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     幻の千円札に日本武尊と建部大社が描かれている。
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     重要文化財の石燈篭(鎌倉時代)
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     昭和天皇お手植えの松
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     本殿拝所、前に「男みくじ」と「女みくじ」がある。
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  左が本殿、右が権殿。当社の権殿は「仮の社殿」ではなく大己貴命が祀られている。
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     本殿の後ろからも参拝することができます。自然の化石らしい。
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by enki-eden | 2014-07-02 00:07