古代史探訪

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高天原(たかまのはら、たかまがはら)

 「高天原」は、古事記、日本書紀、神道の祝詞(のりと)の中に、天津神(あまつかみ)が住む聖なる場所として記されている。
 高天原に住む天津神は、別天津神(ことあまつかみ)、神世7代、天照大神、素戔嗚などである。その他にも瓊瓊杵神、天火明神、大山祇神、高龗神(たかおかみのかみ)、武御雷神、住吉三神、宗像三女神、豊玉姫神など多くの神々が記されている。

 高天原に対して、人間世界は「葦原中国、あしはらのなかつくに」、死後の世界は「常世、黄泉の国、根の国、底の国」などと記されている。
 天津神(天神、てんじん)に対して、人間世界の神は国津神(地祇、ちぎ)として記されている。天津神は高天原から人間世界(葦原中国)に天降ってきて、世の中を治める。

禊祓詞(みそぎはらえのことば)
 高天原に神留まり坐す(かむづまります) 神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の
 命(みこと)以(も)ちて 皇御祖(すめみおや)神伊邪那岐命(かむいざなぎのみこと)
 筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に
 御禊祓へ(みそぎはらえ)給ふ時に 生坐せる(あれませる)祓戸(はらえど)の
 大神等(おおかみたち) 諸の(もろもろの)枉事(まがごと) 罪穢れ(つみけがれ)を
 祓へ給へ清め給へと申(まを)す事の由(よし)を 天つ神 国つ神 八百萬神等共に
 (やおよろづのかみたちともに) 天の班馬(あめのふちこま)の耳(みみ)振り立てて
 聞し食せ(きこしめせ)と 恐み恐み(かしこみかしこみ) 白す(まをす)


 次の表は私見による神世の一覧表である。赤い字の出雲の神は国津神である。表をクリックしてからプラスマークをクリックすると拡大します。
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 記紀においては、素戔嗚は高天原から追放されて根の国(出雲)に追いやられ国津神となった。これは記紀の成立した8世紀の大和朝廷の都合によるものでしょう。全国の神社の多くは素戔嗚とその子孫を祀っており、当時の朝廷の思惑通りにはなっていない。
 しかも皇室の創始者は素戔嗚尊なのです。9世紀になると52代嵯峨天皇は「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」と讃えた。

 葦原中国(列島の多くの地域)を治めていた国津神の大国主は、西暦200年頃に天津神に国譲りを強制され出雲に隠れた。400年ほど続いた銅鐸による祭祀は無くなり、西暦200年頃から250年頃に銅鐸は埋納された。銅鐸の出土数は約500個だから、製作総数は4,000個前後あるかもしれない。
 3世紀になると、銅鐸による祭祀に代わって、倭国(北部九州の約29ヶ国)で行われていた三種の神器による祭祀が広まることになる。

 大和国には全国から人々が集まり、多様な文化が融合していた。弥生墳丘墓は各地の特色を取り入れ、様々な形態をしていた。
 やがて吉備の大型墳丘墓や特殊器台と特殊壷、出雲の四隅突出型方墳の葺き石、筑紫の豪華な副葬品、各地の土器などの影響を受けて、纏向型前方後円墳が大和国に出現するようになる。大和国を中心にして東北から九州までの地域が習合されてきた。
 3世紀後半になると大和朝廷の成立、纏向型から定形型前方後円墳に発展して箸墓古墳(280m)が築造され、古墳時代へと入っていく。

 高天原は神話の天上の世界であるとか、具体的な地上の世界であるとか云われるが、どこにあったのでしょうか。地上説では各地に候補地が挙げられている。
 私見ですが、天照大神(卑弥呼と臺與)は奴国王兼倭国王で、高天原は奴国王の宮と倭国王の宮の両方にあったと見ています。
 奴国王の宮は博多湾に近い山沿い地域(福岡市東区)ではないでしょうか。倭国王の宮は福岡県朝倉郡筑前町から朝倉市の山沿いではないでしょうか。小石原川が「天の安川(夜須川)」でしょう。
 小石原川と佐田川の間には国史跡の平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)があり、紀元前1世紀(弥生時代中期)から4世紀(古墳時代)の集落跡です。私は筑後川流域の筑紫平野が魏志倭人伝の云う邪馬台国だと考えています。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「筑紫(つくし、ちくし)」の語源は「美しい」とあります。そして筑後川流域にある久留米市の「くるめ」は、「クルマ(車)の訛。筑後川が曲がりくねって車の半輪のごとき地形になっている。」とあります。

 筑後川は半輪のように曲がりながら流れているが、地図をよく見ると筑後川に注ぐ支流の川が円形に流れているところが数ヶ所ある。あまりにきれいな円形なので人工的なものでしょうか。
 筑後川流域にはクリーク(灌漑用の人口水路)が張り巡らされている。阿蘇山北側平野部も良く似た状態になっている。クリークは碁盤の目のように直線的だから、筑後川支流の川の円形は自然な形でしょうかねぇ。 それとも人工の堀川でしょうか。下の写真地図には「古川」と記されている。環濠集落跡かもしれない。8.5km西には吉野ヶ里遺跡があります。
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 下の写真地図は吉野ヶ里遺跡から7.5km南の田手川です。
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 しかし、環濠集落跡という予測は外れました。筑後川は暴れ川、筑紫次郎、一夜川というぐらいだから、氾濫が多かった。江戸時代末に筑後川直線化工事(ショートカット)で改修され、大きく蛇行する流域は工事で整備された。上の写真地図の古川は元の筑後川だったのでしょう。
 円形地域の長門石町は元々は筑後川の南側にあったので所属は佐賀県(肥前国)ではなく、福岡県久留米市(筑後国)になっている。久留米市側から見ると川向こうになってしまった。逆に佐賀県三養基郡みやき町が久留米市に入り込んでいる地域は2ヶ所ある。

 久留米市には豊比咩を祀る神社が4社あります。豊比咩は女王臺與のことでしょうか。神功皇后の妹という説もあり、高良玉垂命の妃とも云われます。
 豊姫神社、久留米市北野町大城(おおき)、豊玉姫と伝わる。
 赤司八幡宮(元・止誉比咩神社)、久留米市北野町赤司(あかじ)。
 豊比咩神社、久留米市上津(かみつ)町の天満宮の境内社。
 豊比咩神社、久留米市御井町の高良山内に鎮座していたが、高良大社の本殿と共に焼失。現在は高良大社に豊比咩大神として合祀されている。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「高良玉垂神は筑後川の支流によって造られた川原を開拓した川原神。カハハラ→カハラ→カラ→カウラとなり、カウラに高良の字をあてた。玉垂は魂垂で、高い丘の上にあるから。」とあります。

 福岡県田川郡香春町の香春神社(かわらじんじゃ)の香春も川原でしょうか。祭神は辛国息長大姫大目命、忍骨命と共に豊比売命も祀られています。

 葛城氏の祖神は高皇産霊神で、九州での本拠地は佐賀県鳥栖市周辺。葛城氏は大和に東遷して初代神武天皇から9代開化天皇までの葛城王朝を鴨氏、尾張氏と共に支えた。神武天皇は大和で高皇産霊神を祀った。
 10代崇神天皇は天照大神を祀り、物部氏と結託する。その後、葛城氏は一時衰えるが、4世紀に武内宿禰が葛城氏を再興する。「宿禰」の語源は「神名の語源辞典」によると、「大兄(おおえ)に対して少兄(すくなえ)がつまったもの」とあります。

 奈良県御所市高天の高天彦(たかまひこ)神社の祭神は高皇産霊尊です。高天彦の名の由来は高天原の主神ということでしょうか。神社のある台地は高天原(たかまがはら)と呼ばれていた。大和にも高天原が存在する。背後の金剛山は高天山(たかまやま)と呼ばれていた。

 高皇産霊神には子が1,500人いたそうですが、これは話が大きすぎるでしょう。多くの女性が自分の子の父親は高皇産霊神だと主張したと思います。それだけ高皇産霊神の権力と財力が偉大であったということでしょう。
 大国主命の子が108人というのは妥当な話だと思います。現代でも一夫多妻制の国で100人以上の子がいる豪族が現存しますからね。
 2013年1月2日投稿の「うけい酒・父親を占いで探す」をご参照ください。
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by enki-eden | 2014-08-29 00:16

射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ、兵庫県姫路市)②

播磨国総社、播磨国総鎮守の神社。
兵庫県姫路市総社本町190  電079-224-1111  駐車場は有料です。

境内社
     播磨国総明神
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     東播磨八郡の神々
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     西播磨八郡の神々
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   十二社合殿(一の宮、二の宮、日岡社、角社、手置帆負社、彦狭知社、
   秋葉社、羽黒社、道祖社、鞍屋社、柿本社、東照宮)
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   青銅製の鐘(播州飾東郡国衙惣社推鐘)、戦国大名の赤松義村が寄進。
   高さ115.6cm、口径68.8cm、口縁部の厚み8cm。
   江戸時代には姫路城下の人々に時を告げた。
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     住吉社(住吉三神と神功皇后)と恵美酒社(蛭児神)
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     摂社の琴平社(大物主神)
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     末社の鹿嶋神社(建御雷之神)
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     末社の神明社(天照皇大神、豊受大神)
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     末社の戸隠社(手力雄命)
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     鬼石
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     末社の稲荷神社(千早稲荷大神、総社稲荷大神、藤井稲荷大神)
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     摂社の案内社八幡宮、神使いの鳩が向かい合って八の字を模っている。
     祭神は猿田彦大神と誉田別大神。
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     末社の粟嶋神社(少彦名命)
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     長壁神社(おさかべじんじゃ、姫路城の守護神)
     祭神は姫路刑部大神(ひめじおさかべのおおかみ)と富姫神(とみひめのかみ)
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     摂社の姫道天神社(菅原道真公)
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     厳嶋社(市杵島姫命)と弁天池
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by enki-eden | 2014-08-26 00:22

射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ、兵庫県姫路市)①

播磨国総社、播磨国総鎮守の神社。
兵庫県姫路市総社本町190  電079-224-1111  駐車場は有料です。
祭神 射楯大神(いたてのおおかみ、五十猛尊)
    兵主大神(ひょうずのおおかみ、大国主命・伊和大神)



由緒 
 大和時代に射楯大神が飾磨郡因達里(姫路市新在家本町、姫路城の北西)に祀られており、欽明天皇25年(564年)に兵主大神が飾磨郡伊和里水尾山(姫路市山野井町、姫路城のすぐ西)に祀られる。
 787年に坂上田村麻呂が兵主大神を現在地の北方500m(姫路城の東)に遷座する。891年に射楯大神を合わせ祀ることになり、射楯兵主神社(式内社)と号す。
 1181年に播磨国16郡の明神174座を合祀し、播磨国総社と称する。
 1506年に赤松義村から「銅鐘」が寄進される。赤松義村は播磨の戦国大名で、播磨・備前・美作の3国を支配した。1968年に姫路市の重要文化財に指定されている。
 1581年羽柴秀吉が姫路城築城に際し、当社は現在地に遷座する。
 姫路城の城主からも「姫路城鎮護の社」として崇敬された。江戸時代には惣社伊和大明神と称していた。
 1945年に空襲で焼失、1965年に大復興、2006年に総社御門が復興した。

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播磨国
 7世紀に成立。大化改新後に針間国、明石国、針間鴨国の三国が統合されて播磨国となった。国府は現在の姫路市本町(射楯兵主神社の北隣りで、現在は姫路郵便局)にあったので射楯兵主神社が播磨国総社となった。
 播磨国一宮は兵庫県宍粟市の伊和神社である。
 播磨国風土記の原本は失われたが、三条西家に伝来した古写本があり、平安中期のもの。国宝となっており、奈良県の天理大学附属天理図書館が所蔵する。

     総社御門(楼門)と神使いの「みみづく」
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       社号標
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   総社御門の3階に上がると、国宝で世界文化遺産の姫路城が見える。
   姫路城修理工事が始まって5年ほど経つが、完成は2015年春の予定。
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 南参道の明神鳥居扁額(県指定重要有形文化財)。この形は滋賀県大津市の天孫神社で見たことがある。 2014年6月9日投稿の「天孫神社」をご覧ください。
 安芸の宮島に鎮座の厳島神社海上大鳥居の扁額も同じ形です。
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   総社御門の2階では20年に1度斎行される「三つ山大祭」のひな形を見物できます。
   実物の20分の1の大きさです。
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   三つ山祭礼図屏風の複製品
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       神社案内図(図の左側が北になる)
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       南門から入って振り返る。
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       神門
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       撫でみみづく(みみづくは射楯兵主神社の神使い)
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       手水舎
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       神馬と五葉の松
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       人形納め所
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    拝殿。左後ろに姫路郵便局が少しだけ見えるが、播磨国庁のあった所。
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       本殿
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       社務所
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       車祓所
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       長壁門
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       神輿殿
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       絵馬
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by enki-eden | 2014-08-23 00:22

忌部(斎部、いんべ)氏

 魏志倭人伝や後漢書倭伝によると、3世紀の倭国の輸出品は、生口(奴隷)、翡翠、真珠、倭錦、水銀朱などがある。

 日本の水銀産地は中央構造線の周辺にあり、大きな水銀鉱山は丹生鉱山(三重県多気郡多気町)と、大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)で、縄文時代から水銀朱の採掘が行なわれていた。
 阿波国(徳島県)那賀郡の水井(すいい)水銀鉱山も重要な産地であった。当地の水銀朱は鉄素材と交換されたので、阿波国では鍛冶遺構が多く、鉄器の出土量も他地域より多い。筑紫国の豪族は朝鮮との交易によって入手した鉄素材を阿波国の水銀朱と交換していた。

 淡路国(淡路島)は明治時代から兵庫県に編入されているが、それ以前は阿波国(徳島県)と共に徳島藩に属していた。淡路は古代から阿波との繋がりが深い。
 兵庫県淡路市黒谷の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)と阿波国の鍛冶工房群は、水銀朱を瀬戸内海航路の交易品として筑紫から鉄素材を購入していた。

 五斗長垣内遺跡が西暦200年頃で終わると、鉄器が少なかった大和では鉄器の使用が急に増えてくる。そして古墳時代に入り大規模な古墳が築造されるようになる。これは五斗長垣内遺跡の大規模鍛冶工房の職人たちが大和に移住したのが原因ではないかと云われている。
 私見ですが、西暦185年頃に饒速日が大部隊を率いて筑紫から大和に東遷する途中に、五斗長垣内遺跡の大規模鍛冶工房の職人たちも一緒に連れて行ったのではないでしょうか。

 徳島県鳴門市大麻町萩原で発見された萩原一号墓(220年頃)と二号墓(200年頃)の埋葬施設の造り方は「石囲い木槨の積み石墓」で、奈良県桜井市のホケノ山古墳(250年頃)とよく似ている。
 萩原一号墓と二号墓の築造時期は五斗長垣内遺跡の住民が消える時期で、阿波国那賀郡の水銀朱生産が終わる時期になる。
     
     鳴門市大麻町萩原


 萩原墳墓を築造した一族が大和に移住して、ホケノ山古墳の築造に関わったのでしょう。
     ホケノ山古墳
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   桜井市ホケノ山古墳と箸墓古墳


 奈良県橿原市忌部町(いんべちょう)にある天太玉命(あめのふとだまのみこと)神社の祭神の天太玉命は高皇産霊神の子で忌部氏の祖神です。弥生時代末期から古墳時代初期の阿波(徳島県)忌部の生業は辰砂を朱の粉末にして交易を行なう事であった。

 忌部氏は大和朝廷では中臣氏と並んで宮中の祭祀を執り行っていた。そして阿波忌部の伝統を引き継ぎ水銀朱の生産にも携わっていた。忌部氏の本拠地は天太玉命神社の鎮座する大和国高市郡忌部(現在は奈良県橿原市忌部町)です。
 忌部氏は近くの蘇我氏と共に行動していたからなのか、7世紀中頃になると忌部氏が中臣氏の大きな勢力により排除され、中臣氏だけが朝廷の祭祀を司るようになり、忌部氏は玉造りを主たる生業とするようになった。

 忌部氏は平安時代の803年には名を斎部(いんべ)に改め、忌部氏の衰退を嘆いた斎部広成が807年に、祖先の経歴を編纂して「古語拾遺」を著し、51代平城天皇に奉った。

     橿原市忌部町天太玉命神社


 萩原1号墓とホケノ山古墳の出土品はどちらも画文帯同向式神獣鏡が副葬されている。この鏡は3世紀の初め頃、楽浪郡を支配していた公孫氏から入手した楽浪鏡という。
 画文帯神獣鏡は三国時代の呉の鏡で、新しい形式の画文帯神獣鏡は楽浪郡と倭国でしか出土しないから、楽浪郡に移った呉の職人が造ったと考えられる。倭国にも来たかもしれない。

 公孫氏が楽浪郡を支配しているため倭国は魏と交易できず公孫氏と交易しており、画文帯神獣鏡が輸入された。卑弥呼も画文帯神獣鏡を使ったでしょうか。
 呉は魏に対抗するために遼東半島と朝鮮を支配する公孫氏と手を組んだ。公孫氏は魏と呉を天秤に掛けて同盟を結んでいた。236年に公孫淵は魏に反旗を翻して燕王を称することになるが、238年に魏の司馬懿に滅ぼされてしまう。これを見て即座に、卑弥呼は魏に朝貢する。

 天理市柳本町の黒塚古墳(3世紀末)では木棺の中に一つだけ置かれた鏡が画文帯神獣鏡で、33面の三角縁神獣鏡は棺の外に置かれていた。
 萩原1号墓、ホケノ山古墳、黒塚古墳には画文帯神獣鏡が被葬者の重要な鏡として用いられている。黒塚古墳の被葬者は、私の現在の仮説では筑紫から大和に東遷した臺與と崇神天皇に従った邪馬台国の大夫で率善中郎将・難升米の墓の可能性を考えています。古墳の軸線が筑紫の方角に向いているように見えます。出土物のU字形鉄製品が黄幢の部品という説があります。
 黒塚古墳については、2012年12月25日投稿の記事をご覧ください。

     黒塚古墳


 阿波忌部氏の本拠地は阿波国麻植郡(おえぐん)忌部郷、麻の栽培・紡績を生業とする。祖神は天日鷲命。後に阿波の忌部氏は黒潮に乗って安房(あわ、千葉県房総半島)にも進出する。
 讃岐忌部氏の本拠地は讃岐国(香川県)、祖神は手置帆負命(たおきほおいのみこと)。上棟式の祭神。矛竿を朝廷に納める。
 紀伊忌部氏の本拠地は紀伊国名草郡(和歌山県)、生業は林業と建築。祖神は彦狭知命(ひこさしりのみこと)。上棟式の祭神。
 伊勢忌部氏の本拠地は伊勢国員弁郡(いなべぐん、三重県)、祖神は天目一箇命。
 筑紫忌部氏の祖神も天目一箇命。古語拾遺によると天目一箇命は天津彦根命の子。
 出雲忌部氏の本拠地は出雲国(松江市東忌部町、西忌部町)、生業は玉造り。祖神は櫛明玉命。
 織田信長も忌部氏の後裔になるようです。

 萩原2号墓では内行花文鏡が出土している。伊都国平原王墓(200年頃)で巨大な内行花文鏡5面が出土しているが、この時期の筑紫で権威ある鏡は内行花文鏡でしょう。
 故・森浩一氏の学説によると、3世紀初めに内行花文鏡を中心とする大型鏡を多数副葬するという風習は筑紫のみにあったものが、3世紀末には大和に伝わってくる。平原遺跡の超大型の内行花文鏡は50年後に大和に出現する。
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by enki-eden | 2014-08-20 00:25

七宮神社(しちのみやじんじゃ、神戸市)

 兵庫県神戸市兵庫区七宮町2丁目3-21 電078-671-3338 無料駐車場あります。
 祭神 大己貴命
 相殿 大日霊貴命、天児屋根命

 創建は、神功皇后が新羅遠征の帰途、生田神社の裔神八柱の神を八ヶ所に奉斎、7番目に兵庫津に大己貴命を祀ったと云われる。12世紀半ばに平清盛の兵庫津整備に際し、産土神として社殿を整備拡充した。
 兵庫の津を管理していた北風家が会下山(えげやま、神戸市兵庫区会下山町)の邸宅で祖神の天児屋根命を祀っていたが、七宮神社に合祀した。
 北風家は明治時代に66代目で途絶えた兵庫県の旧家で、兵庫廻船問屋として北前船や兵庫津の発展に貢献した大富豪であった。先祖の家系は3世紀の皇族由来で、4世紀には神功皇后の新羅遠征に従い功績を残した。神功皇后から鎧を賜り、兵庫津などの管理を一任される。
 北風家は身分に関わらず人を非常に大切にしたが、南北朝時代にできた家訓は現代人にも必要な教えだと思います。家訓の一部を現代語で。
   『境遇に耐え、人を増やし、財産も増やして、時を待ち、再び公に奉仕せよ。
   人が増えても、わが人と思うな。財産が増えても、わが財産と思うな。
   それは全て公に奉仕する為にそなたたちに一時預けられているものである。』



     由緒
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 神社の東の道路。地名が神社由来の七宮町になっており、横断歩道にも七宮歩道橋とあります。神社の北は国道2号線と阪神高速3号神戸線が走っています。
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 神戸市中央区の生田神社を守るように取り囲む八社を「生田裔神八社、いくたえいしんはちしゃ」と呼び、一宮から八宮まであります。当社は七宮です。
 生田神社については2013年4月17日(水)の投稿を、三宮神社については2013年4月20日(土)の投稿をご覧ください。
     神社の説明板には「港神戸守護神 厄除八社」と記されています。
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     南からの入り口、鳥居と社号標。
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     東からの入り口、注連柱と社号標
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 平安遷都は奈良時代の寺院による政治への干渉を避けることが目的の一つでしたが、それから400年経った平家全盛の時代にも寺院勢力の圧力が強く、貴族社会も閉鎖的・保守的で政治・経済・社会は膠着状態にあった。
 平清盛(1118年-1181年)は1180年6月に国の制度改革のため、また宋との貿易拡大のために摂津国福原(神戸市兵庫区)に遷都を実行。清盛は福原遷都と共に守護神として当社を尊崇した。
 しかし、清盛の強引で横暴な進め方により寺院・貴族勢力の反発を受け、また武士階級の全国的な内乱状態が発生、清盛は11月末に京都に帰還、福原遷都は失敗となる。
 清盛は翌年に高熱で病死。1185年の壇ノ浦の戦いで平家は敗北し、鎌倉幕府の武士社会に移行することになる。

 当社は1945年に戦災で焼失、1995年の阪神淡路大震災でも被害を受けたが、2001年に再建された。
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     手水舎
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     再建された立派な社務所
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     拝殿前の狛犬
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     兵庫大神宮とあります。
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 拝殿前のイカリ。廻船問屋の象徴、港神戸の象徴です。
 六甲山系の碇山(いかりやま)にはイカリの電飾があり、東隣の市章山の神戸市章と共に神戸のランドマークとなっている。
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     拝殿
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     拝殿内、港神戸らしく操舵輪が見えます。
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     本殿、千木は外切り、鰹木は5本。
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by enki-eden | 2014-08-17 00:11

都塚古墳(みやこづかこふん、奈良県明日香村)

 奈良県高市郡明日香村阪田
 奈良県明日香村教育委員会と関西大学は都塚古墳の調査結果を発表した。
 都塚古墳は6世紀後半に築造の方墳で一辺が40m余り。直径が10cm~30cmの石を階段状に積み上げた箇所が見つかった。墳丘が階段状に垂直に石積みされたピラミッド型の可能性が高い。段築は5段以上あり、1段の高さは30~60cm。
 元旦の朝に、この古墳で金の鶏が鳴いたという話があったので金鶏塚ともいう。



 一帯は蘇我氏の本拠地で、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(7世紀前半、方墳)の南東400mに都塚古墳がある。方墳は蘇我氏の墳墓形式で、都塚古墳の被葬者は蘇我稲目(570年没)か、蘇我氏の配下にあった渡来人の東漢(やまとのあや)氏かと云われている。高句麗(高麗、こま)にこのような形の墳墓があるようですが、5世紀には廃れた模様。5世紀に大和に来た渡来人でしょうか。
 私見ですが、蘇我氏が方墳を築くのは、587年に物部守屋を滅ぼし前方後円墳を廃止してからのことで、都塚古墳の被葬者は570年に亡くなった蘇我稲目や近親者ではなく、配下にあった高句麗系渡来人の首長の可能性が高いと思います。蘇我稲目の墳墓は見瀬丸山古墳(318mの前方後円墳)だと私は見ています。

 蘇我稲目の妃の名が不明で葛城系とも云われるが、日本書紀の欽明天皇23年に、大将軍大伴連狭手彦が数万の兵をもって高麗を討った。狭手彦は戦利品を天皇に奉り、蘇我稲目にも戦利品と美女二人を贈った。稲目は二人を妻(め)として軽の曲殿に住まわせたとあるので、稲目には高麗人の妻もいたことになります。この二人が都塚古墳に埋葬された可能性があるのでは・・・
 稲目の父の名は高麗、祖父は韓子、曽祖父は満智で高句麗から帰化したという説もあります。
     蘇我氏系図、クリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 高句麗からの渡来人は5世紀頃から王族を含め大集団で渡来し、山背・大和・紀伊・東海・関東地方に住み着き、墓は積み石塚である。高句麗は668年に滅亡。

 昭和42年に都塚古墳の横穴式石室が発掘調査され、家形石棺と土器、鉄製品が出土している。もう一つ木棺があったと考えられる。
 今回は古墳を覆っている土の部分の調査で、全体像が判明することになる。
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by enki-eden | 2014-08-14 23:25

コナベ古墳、ウワナベ古墳

 奈良市法華寺町(平城宮跡の北)の前方後円墳で、コナベ古墳は全長204m、高さ20m、築造は5世紀前半。ウワナベ古墳は全長205m、高さ20m、築造は5世紀中頃。
 北西隣に16代仁徳天皇皇后の磐之姫陵(ヒシアゲ古墳、佐紀町)がある。全長219m、高さ16m、5世紀中頃築造で古墳時代中期の前方後円墳です。
    右がウワナベ古墳、左がコナベ古墳、左上が磐之姫陵


 地名研究家の池田末則編「奈良の地名由来辞典」によると、コナミとウワナリは古語で、コナミは「先妻、年老いた妻」、ウワナリは「次妻、若い妻」である。先妻は次妻にやきもちを焼くので、女の嫉妬をウワナリネタミ(次妻嫉妬)ともいった。

 16代仁徳天皇皇后の磐之姫(葛城氏)は大変嫉妬深かったが、磐之姫陵に隣接してコナベ古墳とウワナベ古墳があるのは意味ありげですね。ウワナリの漢字は嫐です。
 この3基の古墳は佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の東部に属し、磐之姫は16代仁徳天皇の皇后ですから、コナベ古墳もウワナリ古墳も仁徳天皇か応神天皇に関係する人物の陵墓でしょう。コナベ古墳の周りには倍塚が10基あります。
 磐之姫が亡くなると仁徳天皇の皇后になったのは、応神天皇の皇女・八田皇女(和珥氏)、妃になったのは応神天皇の皇女・菟道稚郎女皇女(和珥氏)、諸県君牛諸井の娘・日向髪長媛、吉備海部直の娘・黒日売です。
 コナベ古墳は菟道稚郎女皇女の陵墓、ウワナベ古墳は八田皇女の陵墓という説があります。当時の葛城氏と和珥氏の勢力争いが、「磐之姫の嫉妬」の話として間接的に表現されたのでしょうかねぇ・・・
   葛城氏の系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大表示されます。
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 古事記には、大国主と妃の須勢理毘売の「神語り歌」のところで、「須勢理毘売命は、いたくウワナリネタミ(嫉妬)したまいき。」とあります。

 歌舞伎十八番の一つに嫐(うわなり)があります。日本古来の「うわなりうち(後妻打ち)」という風習があって、夫が後妻と結婚するときに、先妻が後妻の家を襲う風習を劇にしたものです。

 天理市石上町に前方後円墳のウワナリ塚古墳があり、全長110m、高さ16m、古墳時代後期の6世紀に築造。西隣に石上大塚古墳(コナミ)がある。全長107m、高さ14m。物部氏族長の先妻と次妻の古墳でしょう。夫婦の墓という説もあります。
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 現代では一夫一婦制ですが、古代では多妻制でしたから、妻同士の争いがあったようです。魏志倭人伝には「国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、訴訟少なし。」とありますが、表現がオーバーかもしれませんね。
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by enki-eden | 2014-08-13 00:16

難波神社(なんばじんじゃ、大阪市)

 大阪市中央区博労町4-1-3  電 06-6251-8000  無料駐車場あります。
 祭神 仁徳天皇
 配祀 素戔嗚尊
 創建 18代反正天皇(はんぜいてんのう、5世紀前半)が父の16代仁徳天皇を祀る。
 摂津国総社

       神紋は花菖蒲
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 反正天皇が河内国丹比(たじひ、大阪府松原市)に柴籬宮(しばがきのみや)を造った時に、同地に父の仁徳天皇を祀った。反正天皇の即位年は、私見ですが433年頃と見ています。
 当社は943年に摂津国平野(大阪市天王寺区)に遷った。1597年に現在地に移転。
 1945年の空襲で焼失し、1974年に再建された。

 古代から続く祭典に玉の緒祭(2月節分祭、鎮魂祭 たましずめまつり)があります。魂に見立てた玉を五色の紐で結び、魂を一つ処に落ち着かせることを祈念する神事。

 境内は広くないが、東西南北に鳥居がある。広くないとはいえ、御堂筋に面した大阪の一等地に千坪以上の境内です。
      南の鳥居
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   この日は7月第二土曜で、恒例の産直野菜などが境内で販売されていました。
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      由緒
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      手水舎
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     手水舎の後ろに庭園があり、6月頃に神紋になっている花菖蒲が咲く。
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     楠のご神木、樹齢400年以上、高さ12m、大阪市指定保存樹第1号。
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       拝殿
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       本殿
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      東(御堂筋側)の鳥居と社号標
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 鳥居の右横に「稲荷社文楽座跡」の石碑。
 植村文楽軒が当社の境内で人形浄瑠璃小屋を開いたので、文楽発祥の地と云われる。
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      鳥居の左横に祭神名の石碑
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     東の鳥居を入ると左に末社の十四柱相殿神社、
     右の祭神は水波能女大神、春日四柱大神、猿田彦大神、迦具土大神、
     中央の祭神は豊受姫大神、天照皇大神、応神天皇、
     左の祭神は豊臣秀吉公、菅原道真公、楠正成公、徳川家康公。
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      北の鳥居、本殿の背後が少し見える。
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      西の鳥居
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      西の鳥居を入ると、末社の金刀比羅神社(大物主大神)。
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       摂社の博労稲荷神社
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by enki-eden | 2014-08-10 00:22

宇宙全体がひとつの生命体なのではないか

 「宇宙全体がひとつの生命体なのではないか」というのは天外伺朗氏(てんげしろう、ペンネーム)の言葉です。
 実名は土井利忠氏(1942年生、兵庫県出身)で、工学博士、技術者・経営者、東京工大電子工学科卒業です。
 ペンネームではスピリチュアル関連や企業の人員管理をテーマに著書を執筆しています。

 私は天外伺朗氏の活動の中で、スピリチュアル関連に興味を持っています。工学博士でスピリチュアルに深い造詣があるということに意味があります。
 天外氏(土井氏)は2000年にアメリカインディアンの長老より「聖なるパイプ」を授与され、「長老」になりました。
 私は「神と物理学」について長年研究してきました。10年ほど前ですが、株式投資で知り合った故・増田正美氏(理学博士)にその内容について話したところ、「プロの物理学者は神を扱いません。」と云われました。これは日本の科学者の一般的な立場です。
 日本の科学者で「神と物理学」に深い認識をしている人は少ないですが、欧米の物理学者には多いです。私はアメリカのリサ・ランドール博士の著書「ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」を数年前に読みました。分厚い本で難解でしたが、異次元は存在するという非常に興味深い理論物理学の内容でした。これはまもなく実証されるでしょう。

 天外伺朗氏の多くの著書の内、私は数冊を読みましたが、共感できるところが多いです。天外氏の他にも池内了氏、桜井邦朋氏、安斎育郎氏などがおられます。

 天外氏は瞑想や輪廻転生についても述べています。以下は天外氏の言葉です。
                    *****
 「瞑想法」を極めると、「あの世」に蓄積されている全宇宙のあらゆる知識や知恵に自由にアクセス可能になる。
 科学の発達と共に「精神」と「物質」は全く別のものとして取り扱われるようになったが、21世紀の科学は再び「精神」と「物質」を一元的に捉えることになるだろう。
 瞑想が深くなると、脳の中で「脳内麻薬物質」が分泌され、宇宙の神秘にまで触れることができるようになる。
 理論物理学者のデビッド・ボームは、「あの世(暗在系)ではこの世(明在系)の全ての物質・精神・時間・空間などが全体としてたたみ込まれており、分離不可能である。」と言っている。物質も精神もエネルギーとして暗在系にたたみ込まれている。
 これは数学的には直交変換とか積分変換と呼ばれている手法である。
 あの世とこの世の関係は、例えばテレビ電波とテレビ画像の関係に似ている。また、般若心経の「色即是空、空即是色」のようなものである。
 プランクスケール(10のマイナス33乗cm)以下の寸法では「時間」も「空間」も存在しないので、そこに「あの世」がたたみ込まれている可能性がある。
 量子力学によれば粒子は波動としての性質をもっている。その周波数は寸法が小さいほど高くなる。エネルギーは周波数に比例するので小さな粒子ほどエネルギーが高い。
 「空」には莫大なエネルギーが秘められている。プランクスケールを最小の波長として1立方センチメートルの中の空間エネルギーを計算すると、現在知られている宇宙の全物質のもつ総エネルギーよりはるかに大きい。
 自然界の4つの力は「重力」、「電磁力」、「強い力」、「弱い力」であるが、これに5番目の力「気力」を加えてはどうか。瞑想も大事である。

輪廻転生について
 ひとつの魂が輪廻転生するというよりは、過去のあらゆる人の人生が記録されているサブ・プランクスケール領域にアクセスできれば、過去を述べることができる。
 この世の全ては、全体的にあの世にたたみ込まれている。宇宙の主体は、目に見えるこの世ではなく、無意識の壮大なネットワークとしてのあの世である。あの世には時間も空間もないので、あの世に人格化した神が存在するのではなく、あの世そのものが神である。宇宙は全体としてひとつの生命体である。
                    *****

 「昆虫記」で有名なフランスの生物学者、ジャン・アンリ・ファーブルの墓石に刻まれた言葉です。「死は終りではない。さらに高貴な生への入口である。」
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by enki-eden | 2014-08-07 00:10

浜宮天神社(はまのみやてんじんじゃ、加古川市)②

 兵庫県加古川市尾上町(おのえちょう)口里(くちり)770
 電話 079-424-6908  無料駐車場あります。
 祭神 菅原道真公、大国主命、少彦名命。

     浜宮天神社入り口、奥に見えるのは御旅神社。
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     一の鳥居(天満宮)、松林の中を長い参道が続く。
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       二の鳥居
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       神門と社号標(浜宮天神社)
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       由緒
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       説明板
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       神門の右手に舞殿。
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       手水舎と水神さん
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       注連柱と拝殿、梅は菅公の象徴。
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   道真公の誕生日と死亡日が丑の日だったので、菅公の神使いは牛です。
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       拝殿内
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       菅公の霊松2代目
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       霊松の根元に木魂社(こだましゃ)
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       本殿(千木は垂直切り、鰹木は5本)
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       境内社の祇園社(素戔嗚尊)
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       戎神社(事代主神)
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       春日神社(天児屋根命)
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       神輿殿
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       神明社(大霊貴命)
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       琴平社(大物主神)
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       八幡神社(品陀別命)
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       稲荷神社(宇迦之御魂神)
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       住吉神社(底筒男命)
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       鹿児之濱松3代目
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by enki-eden | 2014-08-04 00:07