古代史探訪

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清水神社(明石市)

明治以前は王子権現宮
  21代雄略天皇の迫害を逃れてきた二人の王子(後の23代顕宗天皇と24代仁賢天皇)
  を祀る宗賢神社。
兵庫県明石市魚住町清水886  明石市の西端  無料駐車場あります。
祭神 顕宗天皇(23代)、仁賢天皇(24代)、大己貴命。
創建 1656年(江戸時代初期)
明石市材木町の岩屋神社が宮司を兼任。



 古くからこの地に祀られていた帝釈天と明石王子村から勧請した王子権現(宗賢神社の顕宗天皇と仁賢天皇)を江戸初期に合わせ祀り、村の守り神とした。
 王子村は現在の明石市北王子町で、逃亡中の二王子の世話をしたので王子村と云われ、今でも明石川沿いに宗賢神社が鎮座している。

    北王子町の宗賢神社


 清水神社の周囲には他にも宗賢神社が鎮座しており、住吉神社と大歳神社もたくさん鎮座している。明治44年(1911年)に元清水神社を合祀した。
 地名の清水は水質の良いことが由来で、農業が盛んな土地です。江戸時代に新田が開発されたようで、1639年の鳥羽新田に始まり、松陰新田、大蔵谷、清水新田など次々に拡大され感慨事業も行われた。清水神社の北部は今でも水田が広がっている。

 清水神社では6月下旬の日曜日に農業神事「おくわはん」が執り行われる。田植えが終わると、農家の氏子代表4名が羽織袴姿で神社に集まり、桑の木製の小さな鍬「おくわはん」と金色の御幣を持って田植えの終わった水田を回り、北3kmにある弁天池にクワを浸したあと、般若心経を唱えながら戻る。豊作を祈る伝統的な行事で、250年以上も続いており、明石市の無形民俗文化財に指定されている。

     入り口の鳥居
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 久しぶりに見た左が元の注連縄。 豪族の墓があるのでしょうか?
 2012年12月17日投稿の「注連縄の向きが逆の神社」をご参照ください。
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     神門
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     説明板
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     拝殿
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     拝殿から後ろを振り返る。
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     右の本殿、大己貴命。
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     左の本殿、顕宗天皇と仁賢天皇。
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  境内社の神明神社(戎大神宮、天満天神宮、天照皇大神、豊受大神、秋葉神社、
               庚申青面金剛、愛宕神宮、廣嶺祇園牛頭天王)
  庚申青面金剛は帝釈天と深い関係がある。神道系では猿田彦と結びつく。
  行者堂とも関係があると思われる。
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     稲荷社
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     金刀比羅宮
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     行者堂
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     結構森深い境内でした。
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by enki-eden | 2014-09-30 00:16

伊弉冊神社(いざなみじんじゃ、兵庫県明石市)

兵庫県明石市岬町19-8   078-911-3931  境内に駐車できます。
  周辺は漁師町で、「さなぎさん」と呼ばれている。
祭神 伊弉冊大神、相殿に素左之男大神。
創建 10代崇神天皇6年(300年頃)

 延喜式神名帳には、明石郡岩屋の土産神、伊知都比売神社となっている。現在、同名の神社はなく、明石市大蔵本町の稲爪神社、稲爪浜恵比須神社、明石市材木町の岩屋神社などが論社(式内社の後裔)となっている。
 1945年6月の戦災にて、社殿、社務所一切の建物を焼失し、1962年に社殿が再建された。

 伊弉冊尊は記紀神話において伊弉諾(いざなぎ)尊と結婚し、国生みと神生みを行った。軻遇突智(かぐつち)神を産む時に火傷で亡くなったが、黄泉の国で伊弉諾尊と争い絶縁した。
 「軻遇突智(かぐつち)神を産む時に火傷で亡くなった」というのは、出雲製鉄族の伊弉冉尊が蹈鞴製鉄の工程中に火傷をして亡くなったと考えられます。
 軻遇突智神は火の神で、全国の愛宕神社や秋葉神社などで祀られている。

 当社では伊弉冉尊と同じ出雲製鉄族の素戔嗚尊も合祀されている。



       入り口の注連柱と社号標
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       参道
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       手水舎
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       拝殿
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       狛犬
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       拝殿内、神紋は橘。
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       拝殿と本殿、千木は外切り、鰹木は5本、男神の形になっている。
       素左之男大神の社殿形式で二柱の神を合祀したのか?
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       拝殿の左に大きな社号標と神木の三本松
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     ご神木の奥に福徳三宝荒神社
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by enki-eden | 2014-09-26 00:12

伊弉諾神社と若宮神社(兵庫県明石市)

伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ)
兵庫県明石市大観町17-15   神紋は橘。
祭神 伊弉諾大神
創建 1858年

   赤のアイコンが伊弉諾神社、黄が若宮神社



 1995年の阪神淡路大震災で倒壊し、翌年に再建された。
 伊弉諾尊は記紀神話において、神世7代の7代目で伊弉冉(いざなみ)尊と共に創造活動を行ったが、黄泉の国で対立して争い絶縁する。
 この伊弉諾尊と伊弉冉尊の争いが魏志倭人伝の云う倭国大乱でしょうか。倭国大乱は西暦180年頃と見ています。奴国王兼倭王の伊弉諾尊と出雲製鉄族の伊弉冉尊の同盟が崩れて、180年頃に戦争になったとも言えます。
 次の表をクリックしてからプラスマークをクリックすると拡大します。
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 倭国大乱で伊弉諾尊は失脚して淡路島の多賀の幽宮(かくりのみや)に隠遁して185年頃に亡くなる。幽宮は淡路一宮の伊弉諾神宮となっている。伊弉諾神宮については2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。
 伊弉冉尊は広島県庄原市と島根県仁多郡奥出雲町の境の比婆山(ひばやま、1264m)に葬られる。「比婆」は蹈鞴製鉄の「火場」とつながりがあるでしょう。

      入り口の鳥居
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      社号標と手水舎
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      拝殿
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      拝殿の後ろから
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      拝殿の右に白現大明神と地輪大明神
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若宮神社
兵庫県明石市大観町14-11   神紋は橘。
祭神  八幡武大神(はちまんたけるのおおかみ、神功皇后か)、
    天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、
    天児屋根命(あめのこやねのみこと)。

     鳥居と拝殿
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     拝殿の右に豊国大明神(豊臣秀吉)と猿田彦大神
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     拝殿の左に榎木龍王
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by enki-eden | 2014-09-23 00:02

菊花紋

 皇室の16弁菊花紋は、後鳥羽上皇が執権北条義時追討の院宣を下した承久の乱(1221年)の時に用いて定着したとされている。後鳥羽上皇は菊の紋を自らの紋として、紋を入れた刀を出陣する武士に下賜して勝利を鼓舞した。
 しかし朝廷軍は幕府軍に敗れ、多くの皇族が配流(はいる)された。後鳥羽上皇は隠岐に流され1239年に当地で崩御、皇室の権威は大きく低下して鎌倉幕府の武家政治が確立することになる。

 菊花紋は後の天皇も採用し定着していったが、菊花紋の起源は後鳥羽上皇より遥かに古い。
 菊の紋の名前からすると日本独自の紋に感じるが、メソポタミアで世界最古の都市文明を築いたシュメールの王の紋で、古代オリエントの多くの王家で使用された。
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 そして「菊の紋」ではなく「太陽の紋」だと考えられる。神武天皇の東征の途中で兄の五瀬命が戦死した。神武天皇は「自分は日神(ひのかみ)の子孫であるのに、日に向かって敵を討つのは天道に逆らっている。太陽を負い、日神の威光をかりて敵に襲いかかるのがよいだろう。」と言った。オリエントの菊花紋の由来も太陽である。

 日本の神話には太陽(日)を名前に使っている例は多い。
 彦明命(天照御魂神)、饒速、天忍天照大神、天穂、天鷲、対馬の天神、天方奇方、天矛などがあり、名前の最後に「子」「女」は多くのマレビトに使われている。後に国名自体も本になった。

 イスラエルの首都エルサレムに神殿を築いたのは3,000年前のソロモン王だが、神殿は何度も侵略を受けては再建された。現在残されたヘロデ門に16菊花紋がくっきりと彫られている。
 神社とユダヤ教の幕屋の構造は共通性がよく云われている。
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 アッシリアのアッシュールバニパル2世(BC7世紀)の彫刻には手首のバンドに菊花紋が彫られている。(大英博物館蔵)

 アッシリアを滅ぼした新バビロニアの都バビロンの遺跡(メソポタミア、イラク)には、2,600年前にネブカドネザル2世が建設したイシュタル門があり、王族の菊花紋がきれいに描かれている。   
  復元されたイシュタル門の像、ライオンの下に菊花紋が描かれている。
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 エジプトにも菊花紋がある。3,300年前のツタンカーメン王墓から青銅器製菊花紋が出土。
 3,000年前のプセンネス1世の墓に納められていた金の皿はきれいなロータス(ハスの花)の形。ハスは太陽の出ている時間にだけ花が開くので太陽の象徴、創造と再生の象徴。
     ロータスの皿
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 菊の紋は人の往来と共に交易品の中にも紋に関わる商品があったと考えられる。オリエントから倭国にまで渡来したマレビトがいたのか・・・
 素戔嗚の先祖がオリエント(ペルシャのスーサ)から来たという説もありますがねぇ・・・
 菊花紋は後鳥羽上皇独自の紋でオリエンタルの紋とは偶然の一致という説まである。

 現在菊花紋を使用しているのは日本の皇室と一部の神社などである。菊花紋を基にして変形された菊水などの家紋は今も存在する。

 ユダヤ教のシナゴーグ(教会)の祭壇にも菊花紋とダビデの星が飾られている。
 伊勢神宮内宮に向かう道路両側に燈篭がたくさん並んでいるが、燈篭の上部には菊花紋、少し下にはカゴメ紋(ダビデの星)が彫られている。私も20年前に伊勢まで確認に行きました。
 神社のお神輿の形はユダヤの「契約の箱」とよく似ている。
 神社とユダヤ教の神官の正装もよく似ている。
                    *****

 9月23日(火)は秋分の日です。 2013年9月12日投稿の「春分と秋分の太陽信仰」をご参照ください。
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by enki-eden | 2014-09-19 00:16

林神社(兵庫県明石市)

兵庫県明石市宮の上5-1  電 078-922-0150 無料駐車場あります。
祭神  少童海神(わたつみのかみ)、
     彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命(1005年に合祀)。
     御崎大神(みさきのおおかみ)
       境内社の船上御崎神社に祀られていたが、林神社と共に戦災で全焼。
       戦後の再建で合祀された。
創建 13代成務天皇の時代(4世紀半ば)

 社伝によると、少童海神が浜辺の大きな赤石の上に顕現し人々が信仰していたところ、成務天皇8年に赤石が海中に没したため、翌年に海上の安全を見守れる丘に神社を創建し少童海神を祀ったのが始まり。赤石は今では沖合い200mの海中にあるようです。

 当社は播磨灘を見下ろす丘の上に鎮座。明石海峡を往来する船の航海安全と明石港の豊漁を守る古社。



     入り口の鳥居と参道
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     参道左に濱鷹稲荷大明神
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     八禮大明神
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     階段を昇り、振り返る。
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  階段を昇ると、拝殿が見えてきます。神社の保育園児が拝殿前で朝礼をしています。
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     階段を昇り、境内を振り返る。
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     手水舎、近づくと水が出ます。
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     忠魂慰霊塔
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     拝殿前の園児
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     由緒
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     狛犬
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     拝殿内
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     本殿、千木は外切り、鰹木は5本。
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     社務所
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     社務所の横に「林神社保育園」
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     境内社、右から猿田彦社、男左磁社(おさじしゃ)、龍田社。
     男左磁は5世紀に刺し網で魚を取る海人であった。
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by enki-eden | 2014-09-16 00:15

惣社神社(伊川谷惣社 いかわだにそうしゃ、神戸市西区)

兵庫県神戸市西区池上5丁目16-2  電 078-974-9677  無料駐車場あります。
 以前の地名は神戸市西区伊川谷町上脇。
祭神 大己貴尊、素戔嗚尊、経津主尊、武甕槌尊
創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)



 社伝によると、神功皇后が新羅遠征からの帰途(西暦363年)、当地に大己貴尊を祀ったのが始まり。一時衰退したが1071年(平安時代中期)に再建された。
 瀬戸内海一帯には神功皇后由来の神社が多く、創建理由がよく似ている。
 延喜式神名帳の播磨国明石郡の物部神社に比定される。
 当社は1995年の阪神淡路大震災により被害を受けたが、2004年に再建改修された。

 一般的に惣社(総社)は国府のある所に鎮座するが、当社は伊川谷町の総氏神になっている。
 15代応神天皇の時(4世紀末)に都弥自足尼(つみじのすくね)が明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)の国造(くにのみやつこ)になったが、645年の大化改新以降に明石国・針間国(加古川以西)・針間鴨国(加古川の上流・中流域)の三ヶ国が播磨国として再編されたので、明石国は明石郡となった。その後も明石国造家が明石郡司をつとめた。
 現在でも播磨(播州、ばんしゅう)を東播(とうばん、明石国)、西播(せいばん、針間国)、北播(ほくばん、針間鴨国)という区切りを使うことがある。

 兵庫県最大の前方後円墳の五色塚古墳(4世紀末から5世紀頃)は明石国造の墳墓と考えられる。2013年3月6日投稿の「五色塚古墳」をご参照ください。
 26代継体天皇の時代(6世紀前半)に物部系の明石国造が明石国の神々を当社に集めて祀った。それで、後に当社は惣社と呼ばれるようになった。
 現存する播磨国風土記写本には「総説」、「明石郡」、「賀古郡の一部」、「赤穂郡」を欠いている。

 当社の東には宮ノ谷古墳群、西には鬼神山古墳群(4世紀)があった。当地伊川谷は早くから開墾され、紀元前3世紀頃から水田稲作が始まった。
 また播磨国には大歳神社が密集しており、地図を広げると大歳神社の多さに驚きます。兵庫県全体では大歳神社が400社近くあるそうです。饒速日(大歳)が西暦185年頃に北部九州の遠賀川から大部隊で東遷し、大和まで行く途中に播磨国に滞在した時の徳が大きかったのでしょう。
 饒速日東遷の結果、列島の中心地は筑紫から大和に遷り、やがて大和朝廷が出現しました。現代の私でも饒速日の大ファンです。

     入り口の鳥居
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     西の方にゴルフ練習場が見えます。
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     すぐ西隣には伊川谷中学校があります。
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     手水舎
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     惣社復興事業記念碑
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  拝殿と社務所、境内中央には土俵があり、奉納相撲が行われるようです。
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     拝殿
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     狛犬
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     本殿
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     境内社には拝殿左の階段を登ります。
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     本殿左の境内社、左から山神社、歳徳社、稲荷社。
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     本殿背後の虎の彫刻、背後からも参拝します。
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本殿右の境内社、左から稲荷社、猿田彦社、荒神社、八幡社。
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     境内社から拝殿と本殿を望む
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忠魂碑、陸軍大将男爵田中義一書。垣が大砲の弾を模っています。伊川谷町から出征し、日清戦争・日露戦争・日華事変・第二次世界大戦での戦没者の忠魂碑です。
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     境内の東は鬱蒼とした竹林です。
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     境内の道向かいに女神・淡嶋大明神。
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     遥か南方に明石海峡大橋がうっすらと見えます。
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by enki-eden | 2014-09-13 00:16

八咫鏡(やたのかがみ)

 ウィキペディアによると、咫(あた)は円周の単位で、1咫は8寸(0.8尺)である。直径1尺の円の円周を4咫(3.2尺)としていた。後漢の尺は約23cm。
 従って、八咫鏡は直径2尺(約46cm)の鏡になる。
 円周率は3.14159・・・であるが、古代日本の円周率は3.2だったようですね。

 手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さを咫としており、これは尺の元々の定義と同じである。記紀には、八咫鏡、八咫烏(やたがらす)など「八咫」という長さが登場してくる。
 咫(あた)は尺(さか)とも言う。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、「尺」の字があてられているが本来は咫(あた)である。

 福岡県糸島市有田の平原(ひらばる)遺跡1号墓(長方形の周溝墓)出土の超大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡、5面、国宝)は直径46.5cm、重さ約8kgの国産鏡で、これは正しく八咫鏡です。西暦200年頃に築造の1号墓(女王の墓、又は巫女の墓)から出土した。
 木棺は頭部を西に脚部を東の方向に埋葬され、朝日が射し込んでくる日向峠(ひなたとうげ)を向いている。「伊都国の女王又は巫女」と「日の神」との交合をイメージしているのでしょう。
 この特大鏡には内行花文帯(八個の弧形)と八葉の模様があるが、文字や図柄は描かれておらず素朴な鏡である。3世紀末から4世紀に大和国で大量に鋳造された三角縁神獣鏡(直径約20cm)の派手な文様とは大きく違っている。
 平原遺跡については2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。

   平原遺跡


   平原遺跡1号墓出土の内行花文鏡(伊都国歴史博物館)
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 伊勢神宮の御神体である八咫鏡も平原遺跡の超大型内行花文鏡とほぼ同じ大きさ、形状と考えられるが、明治天皇天覧後は誰も見ていないことになっている。
 八咫鏡は天照大神が神霊を込めて瓊瓊杵(ににぎ)命に授け、草薙剣(天叢雲剣)と八尺瓊勾玉と共に三種の神器として祀られた。

 10代崇神天皇が3世紀末に天照大神(八咫鏡)を磯城の瑞籬宮(みずかきのみや、奈良県桜井市金屋)に祀ったが災いが起こり、八咫鏡は外に出され各地を転遷し、最終的に海人族の地である伊勢に奉安された。 草薙剣は尾張(名古屋)の熱田神宮の御神体として祀られている。伊勢も尾張も海人族尾張氏の本拠地である。
     伊勢神宮


 大和国で大物主神(三輪山の磐座)を祀る出雲族や、倭大国魂(やまとおおくにたま)神を祀る地元民が、天照大神(八咫鏡)を祀る崇神天皇に反発した結果を、記紀は「災いが起こった」と表現しているのでしょう。90年前に国譲りをさせられた出雲族(大国主)の子孫の反発かもしれない。

 崇神天皇は八咫鏡を皇女の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命に託し笠縫邑(かさぬいむら)に祀った。倭大国魂神を皇女の渟名城入姫(ぬなきいりひめ)命に預けて祀らせたが、渟名城入姫は髪が落ち、体が痩せてお祀りする事ができなかった。
 そこで崇神天皇は大物主神の子孫の大田田根子に大物主神を祀らせ、倭大国魂神の子孫の市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祀らせることによって天下が治まった。

 天照大神は崇神天皇の皇女が祀ることができたが、倭大国魂神は皇女が祀ることができなかったということは、崇神天皇一族は地元大和国出身ではなく、天照大神の海人族出身(筑紫)で、3世紀後半に大和へ東遷して物部氏の支持を受け、大王になったと考えられる。
 ただし、皇室のシステムはそのまま継承され、崇神天皇は皇族の御間城姫に入り婿の形をとった。
 ただ、記紀には10代崇神天皇は9代開化天皇の皇子となっているので、引き続き研究する必要があります。

 崇神天皇の和風諡号は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇で、皇子の名は活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)尊、彦五十狭茅(ひこいさち)命、五十日鶴彦(いかつるひこ)命などがいる。「五十」を「い」と読んでいるが、本来は「いそ=磯」である。
 つまり、崇神天皇一族は筑紫の磯国(伊都国、筑前国怡土郡)出身だと考えられないでしょうか。伊都国出身者には五十迹手(いとて)や五十猛(いたける、いそたける)も存在する。

 崇神天皇から400年後(7世紀末)、天照大神は40代天武天皇と41代持統天皇によって復活し、皇祖神となった。宮中では三種の神器の複製品(レプリカ)が祀られ、皇位のしるしとなった。

 現在、皇居の賢所(かしこどころ)に奉安されている神鏡は八咫鏡の複製品(レプリカ)だが、天皇の儀式に使われるので大きさは半分程になっているようだ。天皇でもこの神鏡を直接見ることができない。草薙剣の形代(かたしろ、複製品)と八尺瓊勾玉は皇居吹上御所に安置されている。
 皇居は何度か火災にあっているので、三種の神器は傷んでしまい11世紀に新たに鋳造された。1185年に81代安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだこともある。このとき神鏡と八尺瓊勾玉は回収されたが、剣は見つからなかったので新たに造られた。

 安徳天皇を祀る赤間神宮(山口県下関市)に神鏡が奉鎮されているという。拝殿横に「八咫鏡奉鎮」の石碑がある。

 皇居賢所の神鏡については、明治時代に第一次伊藤内閣の文部大臣の森有礼(1847-1889年)が皇居の神鏡を見て、「神鏡にはヘブライ文字が記されていた」という伝承がある。
 青山学院ヘブライ語学者の左近義弼(よしすけ、1865-1944年)が宮中に呼ばれ、神鏡の文様を見て、ヘブライ語で「我は有りて在るものなり」と記されているという伝承がある。
 この伝承は最早確認できないし、日ユ同祖論には賛成できないが、私は皇室と神社はイスラエルやオリエントの影響を受けていると考えています。
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by enki-eden | 2014-09-10 00:10

鹿嶋神社(兵庫県高砂市)

一願成就、合格祈願の神様、通称鹿嶋さん。
兵庫県高砂市阿弥陀町地徳279  電079-447-4676  無料駐車場あります。
祭神 武甕槌命(たけみかつちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)
創建 45代聖武天皇による勅願(8世紀前半)
春は桜、秋は紅葉の名所。



     大鳥居、高さ26mの鉄骨チタンパネル張り、1998年完成。
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     二の鳥居(国威宣揚、武運長久)
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     三の鳥居
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     鹿嶋神社縁起
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     四の鳥居とたくさんの燈篭。
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     手水舎は鹿
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     祈祷殿と社務所
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     階段を昇ると割拝殿。
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     狛犬の説明
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     本殿
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     本殿の右
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  本殿の後ろは願掛けの絵馬と千羽鶴がいっぱい。御堂廻りで願掛けをする。
  「六根清浄(ろっこんしょうじょう)なれば願い事成就せざるはなし」
  本殿裏を回って竹の棒を置く、これを年の数だけ繰り返す願掛け。
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     本殿の左
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     境内社の戎社
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     出雲社
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     三宝荒神社(衣食住の三つの宝を授ける守り神)
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   八秀稲荷社(八秀稲荷大神)
   高御位山(たかみくらやま、304m)登山口にもなっている。
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     (稲荷)福成大神、鹿島大神、(稲荷)當勝大神
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  高御位山(たかみくらやま)登山の案内、登山口は25ヶ所ほどもある中の一つ。
  高御位山で大国主命が即位した。別名は播磨富士。
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by enki-eden | 2014-09-06 00:15

高砂神社(たかさごじんじゃ、兵庫県高砂市)

兵庫県高砂市高砂町東宮町(ひがしみやまち)190 
電079-442-0160  境内に駐車できます。
祭神 大己貴命、 配祀 素戔嗚命、奇稲田姫命。
能・謡曲の「高砂」の舞台の一つ。
創建 神功皇后の時代(4世紀半ば、363年頃)

神社の由緒
 神功皇后が外征のとき、大己貴命の神助を得て敵を平らげられた。帰国の途中、この地に船を寄せられ、国家鎮護のため、大己貴命を祀られたのが高砂神社の始まりです。
 その後、天禄年間(970年~972年)国内に疫病が流行し、庶民が苦しんでいた時、神託によって素盞嗚命と奇稲田姫命を合わせ祀ったところ、疫病がたちまち治まったので、庶民は喜んでお礼参りをした。「高砂牛頭天王、祇園社、ぎおんさん」と呼ばれるようになった。
 文禄元年(1592年)豊臣秀吉は朝鮮出兵のとき、この神社に参拝し戦勝を祈願したと伝えられる。



     入り口の鳥居と神門、燈篭の宝珠の部分が矛になっている。
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     高砂城跡石碑、一時高砂城として使われた。
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     東宮駐駕所(明治42年、後の大正天皇)
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     高砂神社略記
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     境内案内図
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     古い手水舎も残されており、龍ではなく鯉。現在は使われていない。
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     拝殿と社号標。宝珠の形の電飾が見える。
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     本殿、灯篭は宝珠の部分が矛になっている。
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     和魂神社(高砂町出身の英霊)
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     琴平神社(大物主命)
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     秋葉神社(軻遇突智命)と猿田彦神社
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     粟嶋神社(少彦名命)
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     神木の「いぶき」、後ろは能舞台の神遊殿。
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     明治天皇遥拝所
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     霊松殿、三代目「相生の松」の霊木。
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     五代目相生松
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     尉姥神社(じょううばじんじゃ、伊弉諾尊と伊弉冊尊)
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     住吉神社(住吉三神)
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     神明神社(天照皇太神、八幡皇太神、春日大明神)
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     稲荷神社(倉稲魂命)
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                    *****
古墳時代の人骨の歯石
 宮崎県都城市菓子野町の地下式横穴墓から出土した古墳時代男性人骨の歯石から食物の痕跡が確認された。
 歯石から検出されたデンプン粒を調べたところ、アズキやオオバユリを食べていた可能性があることが分かった。
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by enki-eden | 2014-09-02 00:17