古代史探訪

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葛木坐火雷神社(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ、笛吹神社)

奈良県葛城市笛吹448  電 0745-62-5024  無料駐車場あります。
旧大和国忍海郡(おしみぐん)総社、火の神様と笛・音楽の神様。
1889年の町村制で忍海郡忍海村発足。
1897年に合併して南葛城郡となる。(南葛城郡忍海村笛吹字神山)
1956年に北葛城郡新庄町に編入。
2004年に合併で葛城市となる。(葛城市笛吹

祭神  火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)
    宮中大膳職(だいぜんしき、饗膳の食事を掌る)で祀る神。
    天香山命(あめのかぐやまのみこと、笛吹連の祖神、石凝姥命ともいう)
    神社の由緒では、天香山命の亦の名を石凝姥(いしこりどめ)命とするが
    混乱しているのでしょう。
    石凝姥は鏡作連(かがみつくりのむらじ)の祖神。
    天香山命の子孫に和泉国や尾張国の石作連(やざこむらじ)がいるが、
    名前を取り違えたか。
相殿  天津彦火火瓊瓊杵命(あまつひこほほににぎのみこと)、
     大日孁貴命(おおひるめむちのみこと、天照大神)
     高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
     伊古比都幣命(いこひつべのみこと)
創建  3世紀頃



 相殿の伊古比都幣命は当社の2km北東の葛城市林堂311の為志神社(いしじんじゃ)の祭神であったが、明治39年の勅令社寺合併令により、式内大社葛木坐火雷神社に合祀された。為志神社の地元の人々は廃社の後も石碑を立てて崇敬を続け、昭和57年に為志神社が再興復社された。

 神社の由緒によると、『当社の祭祀を代々受け継いできた持田家(現宮司で85代目)の先祖・笛吹連(ふえふきのむらじ)の祖・櫂子(かじし、かじこ)は火明命の後にして、崇神天皇の10年建埴安彦を討ちて功あり、天皇より天磐笛(あめのいわぶえ)を賞賜せられ、笛吹連の名を命ぜられる。
 明神大社に列せられ、国の大事には必ず勅使が参向され幣帛を捧げられた。』とある。

 火雷大神を祀る火雷神社と笛吹連の祖神・天香山命を祀る笛吹神社の二社は、別の神社であったが合祀されたようだ。

 天香山命の子孫・笛吹連が代々この地に住み、祖先神を祀り、この土地を笛吹と称えた。そのため地元では笛吹神社として親しまれている。
 火雷大神は火を扱う職業や消防関係の人々の崇敬を集めている。天香山命は笛・フルート・尺八など楽器上達を願う人々の崇敬が多く、奉納演奏をする人も多い。

   鳥居前に栗が実っている。(9月12日)
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   入り口の鳥居と社号標、右の大木はイチイガシ。
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イチイガシ(奈良県指定天然記念物)
 奈良盆地周辺の扇状地にはイチイガシが茂っていたが、現在は少なくなっている。当社は海抜170mの扇状地にあり、南向き斜面はイチイガシ林としての保存状態が良好である。後継樹の育成にも力を入れている。
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    境内案内板
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   階段には燈篭がたくさん並ぶ。
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   神社由緒
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   境内社の春日神社、稲荷神社、熊野神社。
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   階段を昇り振り返る。
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  階段を昇った広庭に大砲がある。
  大砲は日露戦争後の明治42年6月に政府より奉献された。
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   境内社の空室神社、浅間神社、森本神社。
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   更に階段を昇ると拝殿に。
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   絵馬
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   本殿
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  笛吹神社古墳(奈良県指定史跡)
   本殿後方に円形墳があり、花崗岩を積んだ横穴式石室の玄室に石棺を置く。
   凝灰岩の石棺の蓋石は突起が大きい。
   神域の神山には80基ほどの笛吹神社古墳群がある。
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by enki-eden | 2014-10-30 00:19

尾張氏の本拠地、葛城高尾張

 尾張氏の遠祖である天香語山命・天牟良雲命・天背男命などは、饒速日尊の東遷(185年頃)に従って筑紫から大和にやってきた。
 尾張氏の大和での本拠地は高尾張で、現在の奈良県西部である葛城市の高台(葛城山の麓)です。日本書紀神武天皇記に「高尾張邑に土蜘蛛がいたので殺害し葛城邑に改めた」とある。
 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、尾張(ヲハリ)の尾は「丘」、張(ハリ)は「墾(はる)」で開墾した所。尾張氏は大和にやってきて葛城山の麓の高台を開墾して居住しました。
 水田の向こうは湖(大和湖)の岸辺で、東部対岸の大市や海柘榴市(つばいち)などに舟で往来していた。

 天香語山命(生年155年頃)はやがて東海地方に移り、尾張国の基礎を造るが、13代成務天皇の頃(4世紀前半)、大和の尾張氏は東海地方に移って尾張国を拡げた。大和葛城に残った一部の人々もいた。山城国や河内国に移った人々もいる。
 葛城市の南部には葛木坐火雷神社(かつらぎにいますほのいかづちじんじゃ)、通称笛吹神社(ふえふきじんじゃ)が鎮座する(奈良県葛城市笛吹448)。
   赤い囲いが葛城高尾張、下の方の白い星マークが葛木坐火雷神社。
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 葛木坐火雷神社の元の祭神は火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)で、笛吹神社の元の祭神は天香山命です。現在は両神社が合祀されて祭神は火雷大神と天香山命です。
 1874年(明治7年)、笛吹神社の末社であった火雷社を笛吹神社に合祀し、社名を葛木坐火雷神社に改め郷社とした。

 社伝によると、平安時代に葛木坐火雷神社の社勢が衰え、当地にあった笛吹神社の末社になった。笛吹神社は、当地を拠点とした笛吹連(尾張氏の一族)によって祀られた神社で、本殿の背後に古墳がある。その古墳の主を祀る為の神社だったようです。古墳の主は尾張氏の一族でしょう。
 神域である周囲の神山に80基ほどの笛吹神社古墳群があるが、その中に笛吹連の祖・櫂子(かじし、かじこ)の墳墓や、櫂子の父・建多乎利命の墳墓があると考えられる。神社の神域だから発掘できないようです。火雷大神系と尾張氏系の両方の墳墓があるのかもしれない。

 海部氏の系図には建田勢命(高天彦、7代孝霊天皇に仕える、妃は葛木高田姫)の兄弟は、建宇那比命と宇那比姫がいる。
   海部氏系図の一部(人名横の数字は私見による生年です)
   図をクリックしてプラスマークを押すと拡大します。
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 海部氏と同族の尾張氏の系図では建田背命(建田勢命)の弟に建多乎利命も記されており、笛吹連(ふえふきのむらじ)等の先祖になっている。
   尾張氏系図の一部
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 笛吹神社の宮司家である持田家の系図も海部氏や尾張氏系図と同じく、祖神を天火明命として6世孫(7代目)に建多乎利命の名が記される。建多乎利命の子である櫂子(かじし、かじこ)の子孫が持田氏で、現宮司は85代目。
 祭神の天香山命は祖神天火明命の子神であり、饒速日尊に従って大和に東遷、この周辺を高尾張として本拠地にした。
 また、尾張氏は葛城氏の女性を多く妃としているので、尾張氏と葛城氏は密接な関係にある。また天皇家とも密接に繋がっている。
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by enki-eden | 2014-10-27 00:13

八宮神社と六宮神社(神戸市)

兵庫県神戸市中央区楠町3丁目4-13 電078-341-6920  無料駐車場1台あります。
生田裔神八社の六宮(ろくのみや)神社と八宮(はちのみや)神社が合祀されている。
六宮神社祭神 天津彦根命、応神天皇。
八宮神社祭神 熊野杼樟日(くまのくすひ)命、素戔嗚尊。
創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)



 神功皇后が新羅遠征よりの帰途、生田神社の裔神八柱の神(港神戸守護神 厄除八社)を八カ所に奉斎した。八社で生田神社を取り囲んでいる。
 当社はその内の六宮と八宮を合祀している。両神社とも現在地とは別の地に鎮座していたが、明治20年に八宮神社が南200mの地から当地に遷座、明治42年に六宮神社が西300mの地から当地に遷座し八宮神社に合祀された。
 本殿は東向きになっており、本殿北側(向かって右側)に六宮神社、南側(左側)に八宮神社が鎮座している。
 坂本臣が当地(旧矢田郡坂本村)に住んでいたので当社の祭祀を司った。坂本臣は新撰姓氏録によると「摂津国 皇別 紀朝臣同祖 彦太忍信命孫武内宿禰命之後也」とあり、武内宿禰の子・紀角宿禰(紀氏)の後裔になる。
 武内宿禰の子孫が神功皇后由来の神社を祀るのはよくあります。

 私は神社には車で行きますが、今回は電車で。 JR神戸駅前。
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 「摂州神戸海岸繁栄図」
 駅地下街に大きな浮世絵。 浮世絵師の長谷川小信(このぶ)の描いた木版手ずりの開化錦絵をもとにした。 開港当初の神戸港の外国船をテーマにした文明開化期の風物。
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    途中に湊川神社が鎮座。
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    そして神戸地方裁判所。
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    神社の正面入り口(東)、社号標は八宮神社となっている。
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    拝殿
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    本殿
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    境内社の白髭稲荷神社(白髭大神)
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    北側入り口の鳥居、扁額も社号標も八宮神社となっている。 
    地下鉄大倉山駅の東2番出入口が近い。
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by enki-eden | 2014-10-24 00:06

一宮神社(神戸市)

神戸市中央区山本通1丁目3-5  電078-221-1281 無料駐車場あります。
 旧摂津国八部郡(やたべぐん)北野村鎮守。
 JR三ノ宮駅と北野異人館の中間に鎮座。
祭神 田心姫命(たごりひめ、大国主命の妃)、別名 多紀理姫命・沖津島姫命。
     天照大神と素戔嗚尊の誓約により最初に生まれた姫神。
     沖ノ島の宗像大社沖津宮から勧請したと伝えられる。
創建 神功皇后時代(4世紀半ば)



 生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)の神社で、生田神社を囲むように八社(一宮から八宮)が取り巻いている。当社はその中の一宮神社で、交通安全、厄除け、生成発展、縁結びの守護神。

 摂津国一宮は大阪市住吉区の住吉大社であるが、当社の社名は摂津国の一宮ではなく、生田裔神八社の一番目の神社という意味になっている。
 八社を順番に参拝することを「港神戸守護神の厄除け八社巡り」という。

     一の鳥居
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     二の鳥居
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 鳥居の横に大きな槙の木、「主婦の店ダイエー中内功社長が献木」と記されている。
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     しゃれた宮司宅?
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   手水舎、元大和郡山(やまとこおりやま)城主・本多忠直公の門を移築した。
   本多家の「立ち葵紋」と本多の「本」が刻まれた瓦が使われている。
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     蛇口は龍ではなく亀
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   手を洗って階段を昇る、燈篭の宝珠の部分は矛になっている。
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 階段横に梛(なぎ)の木。葉は縦に裂きにくいので「縁結びの木」といわれる。また、「凪ぎ」に通じることから漁師や船頭の信仰も篤い。神社の境内に植えられることが多い。
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     拝殿
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     本殿の後ろから
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 拝殿左に末社の伊久波(いくは)神社(伊久波大神=伊久波戸田宿禰命)。 
 伊久波は矢で射る「的」のこと。 的(いくは)氏は軍事で仕える氏族で葛城氏の一族。
 16代仁徳天皇に高麗が鉄の的と盾を献上した時、葛城氏の一族の盾宿禰が献上の的を射通したので的(伊久波)戸田宿禰の名を賜った。子孫がこの地に住み、先祖の伊久波戸田宿禰を祀ったといわれる。
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     空襲で焼けた神木の松
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     末社の熊高稲荷神社(宇迦之御魂大神)
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 石の彫刻「陽として依然輝く」、1995年の阪神淡路大震災で倒壊した当神社の鳥居・玉垣などに再び命を吹き込む願いで製作された。 彫刻の右は枝垂れ桜。
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 当社の後ろの山は堂徳山(どうとくさん)、山に据えられた装置は電飾で、夜になると「KOBE」「北前船(正面)」「北前船(横向き)」の電飾が20分毎に変わる。
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 この電飾の麓に神戸北野異人館があり、うろこの家、風見鶏の館、英国館、シュウエケ邸など神戸の観光地になっている。
    赤のアイコンが電飾、青が一宮神社、黄が北野異人館街

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by enki-eden | 2014-10-21 00:08

大日女尊神社(おおひるめのみことじんじゃ、神戸市)

地元では「大日さん」、神戸市東灘区西岡本4丁目8-6  無料駐車場あります。
祭神 大日女尊(天照大神)、
    素戔嗚命、若年神、大山祇神、金山彦神。

境内に本山(もとやま)西地域福祉センターがある。(電078-412-8513)



 当地には古くから大日如来を本尊とする両部神道の大日堂があったが、明治の神仏分離令により本尊を村内の寺院へ遷し、大日女尊神社を設けた。

     鳥居
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 境内の水神宮社(水波ノ女神)跡地の石碑。
 江戸時代には神社西の住吉川の急流を利用して油絞りや精米の水車が80基ほどもあった。従業員は1,000人以上もいたといわれる。水神宮社は水車業者の厚い信仰を得ていた。
 手前の臼は当時使用していたものでしょうか。
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     社務所、ざくろの実ができている。
     ざくろの手前は愛子内親王ご生誕記念の紅梅。
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      手水舎
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      由緒
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      境内の椋の木、右は大日堂。
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      拝殿
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      本殿
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    大日堂、阪神淡路大震災で倒壊したが直ぐに再建された。
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by enki-eden | 2014-10-18 00:23

弓弦羽神社(ゆづるはじんじゃ、神戸市)

神戸市東灘区御影郡家2丁目9-27   電078-851-2800  無料駐車場あります。
祭神 根本熊野三所大神
     (伊弉册尊、いざなみのみこと、熊野那智大社)
     (事解之男命、ことさかのおのみこと、熊野本宮大社)
     (速玉之男命、はやたまのおのみこと、熊野速玉大社)
配祀 天照皇大御神、素佐男尊

由緒
 神功皇后新羅遠征より帰還の時、長門国豊浦より摂津国難波浦に向かう途中、忍熊王(おしくまのみこ)が兵を挙げたので、皇后自ら当地で弓矢甲冑を納めて熊野大神を斎奉し祈念したところ、戦いに大勝し、諸々の願い事が叶った。
 この故事により、神社背後の山を弓弦羽嶽(弓矢)とも六甲山(甲冑)ともいう。又、神功皇后が澤の井に姿を写した故事により地名は御影(みかげ)となった。澤の井は阪神電車御影駅近くの高架下にあるが、霊泉として今でも地元の人が水を汲んでいる。
 8世紀末に弓弦羽の森を神領地と定め、849年に神祠を造営して熊野大神を祀った。厄除開運・家内安全・諸願成就・交通安全守護・恋愛成就の宮となっている。



 フィギュアスケートの羽生結弦選手や女子サッカーのINAC神戸の選手が参拝したので有名になり、多くのスポーツ選手やファンが訪れる。
 東日本大震災の4ヵ月後、2011年7月に羽生選手が母親と共に参拝に訪れ、「世界のトップになれますように・・・そして、東北の光となれるように!」と絵馬を納めた。その後、羽生選手の願掛けは見事に成就した。強い願いを持って勝負に挑戦する姿は美しく感動的ですね。

      入り口の鳥居
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      左に樹齢350年の椋の木(むくのき、神戸市天然記念物)
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      右に樹齢250年の大楠
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      春の参道は桜のアーケード、秋は紅葉。
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   手水舎の蛇口は龍ではなく3本足の八咫烏(やたがらす)。センサーで水が出る。
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      手水舎の横に犬の水飲み場。
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   立派な社務所、屋根の上に神社のシンボル八咫烏、八咫烏は熊野大神のお使い。
   左の白く丸いのはおみくじを結んでいる。サッカーボールをイメージしているのかな。
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      初宮詣の記念に子どもの健康・発展を祈念して足型の銘板を奉納。
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      八咫烏とサッカーボールの説明
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      力石
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     拝殿前の紅枝垂れ桜
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      拝殿
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      本殿
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     御影石(花崗岩)のサッカーボール
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 当社の氏子には灘五郷の酒造会社もあり、神社の南1.5kmには白鶴酒造、菊正宗酒造、剣菱酒造などがある。私もよく購入するお酒です。常温のコップ酒で飲みますよ。
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      末社の十二社
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      松尾社(大山咋命、中津島姫命)、酒造安全保護。
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      境内奥の森に樹齢450年の大楠が見える。
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      遥拝所
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     明治天皇御製
       日の本の 国の光の そびゆくも 神の御稜威に よりてなりけり
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     境内に古い狛犬が残っている。
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by enki-eden | 2014-10-15 00:10

綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)

兵庫県神戸市東灘区(ひがしなだく)御影(みかげ)1丁目22-25
御影の天神さま、 電078-841-1150   無料駐車場あります。
祭神 菅原道真大神(学問・受験合格の守護神、845年-903年)
    別雷大神(わけいかづちのおおかみ、厄除・方除の守護神)
    倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ、商売繁盛・家内安全の守護神)
神紋は梅紋、境内には道真公が愛した梅の木が約100本植えられている。

   東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな



 由緒は、天道根命が別雷大神と天穂日命を御影山手の天神山にお祀りしたことに始まり、聖徳太子が四天王寺建立のために良質の御影石(花崗岩)を採掘し、倉稲魂大神を合祀した。当地の旧地名は御影町石屋。
 菅原道真公が別雷大神をまつる天神社に2度参拝した御縁で道真公をお祀りしている。一度目は道真公が886年に讃岐守として任地に赴く途中に参拝、二度目は901年に左遷されて大宰府に赴く途中に参拝した。

 綱敷の由来は、道真公が太宰権帥に左遷され大宰府に赴く途中に当地で休息した時に、里人が石の上に綱を巻いて敷物とした故事にちなむもの。神戸市須磨区の綱敷天満神社にも同じような故事が残っている。

 13世紀初めに道真公の9世の孫、菅原善輝公が天神山より少し南の現在地に社を建立し、三神を天神山より遷し祀った。

     赤い鳥居と社号標
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     鳥居の横に1995年の阪神淡路大震災で倒壊した大鳥居の神額を保存。
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     菅原道真公の神使いは「牛」、誕生の845年は丑(うし)年、誕生日も丑の日。
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     白龍大神、2匹の白蛇が宝珠を守っている。
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 1月8日の綱打祭で行われる「綱打神事(つなうちしんじ)」は、厄除開運・無病息災を祈願する特殊神事として名高い。綱打神事の赤い注連柱。
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     拝殿
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     拝殿と本殿を横から望む。
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     後方から望む。
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     伊勢神宮遥拝所
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     八色雷神社(やぐさいかづちじんじゃ、別雷大神)、厄除・方除。
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     牛神
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     梅の木に囲まれて合格祈願の絵馬、中央は筆でしょうね。
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     松尾社(大山咋命、金山彦命、住吉神)
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     草壁稲荷社
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     稲荷社の奥に生垣に囲まれた祠。水神さんらしい。
     神社の西を石屋川が流れている。
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by enki-eden | 2014-10-12 00:09

神功皇后の年代

 前回は神功皇后由来の敏馬神社(みぬめじんじゃ、神戸市)を訪ねたので、今回は神功皇后の活躍年代について考えてみようと思います。
 日本書紀の神功皇后紀に魏志倭人伝を引用して卑弥呼と臺與の事績が記されているので、日本書紀は神功皇后を卑弥呼として記しているとか、神功皇后は架空の人物だという説がありますが、どうなっているのか調べてみましょう。

 38代天智天皇の死後、672年の「壬申の乱」を制した大海人皇子が翌年に40代天武天皇となり、皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、13才で結婚、41代持統天皇)と共にそれまでの日本とは違う質の高い政治・経済・社会・文化を築き上げた。天武天皇は飛鳥浄御原宮を造営し白鳳文化が華咲いた。飛鳥浄御原令の制定、更に持統天皇が694年に藤原京を造営。
   藤原宮跡から耳成山を望む。
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 710年に43代元明天皇(女帝)による平城京遷都など国家意識が極度に高揚された時期であった。日本は東アジアの中心国家であるという誇りがみなぎっていた。
   平城宮跡
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 しかも皇祖神を天照大神とし、持統天皇はその生まれ変わりとしての自覚を持っていた。藤原京の真東の伊勢に伊勢神宮内宮を整備拡大した。持統天皇の和風諡号は高天原広野姫天皇となっている。
 そのような時代背景の中で古事記が編纂され712年に成立、日本書紀が720年に成立したので、卑弥呼が239年に中国の魏に朝貢して冊封(さくほう)体制に入り、親魏倭王として従属国家になっていたというのは、どうしても認められないことであった。
 しかし事実は隠せないから、暗示してあいまいにする必要がある。そこで活動時期が卑弥呼より120年後となる神功皇后の記事の中に、年代基準を変えて卑弥呼の事績の一部を魏志倭人伝から引用したのだと考えます。
 卑弥呼の基準年は日本書紀の神功皇后年に200年をプラス、神功皇后の基準年は神功皇后年に320年をプラスしています。両者の活動時期が120年違うからです。

 日本書紀に記されている神功皇后の年代を確認してみたいと思います。日本書紀の記述順序に従って表を作りました。表をクリックして、更にプラスマークをクリックすると拡大します。
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 表の一番上の囲いで、神功皇后の摂政元年(辛巳)は神功皇后の生年(辛巳 321年)と考えています。卑弥呼の女王即位元年(辛巳、201年)も表しているのでしょう。
 14代仲哀天皇崩御を庚辰(380年)、神功皇后の摂政元年を辛巳(381年)とするのでは前後の流れに合わない。古事記では仲哀天皇崩御は壬戌(362年)になっており、神功皇后摂政元年は翌年の癸亥(363年)だと考えられます。

 神功皇后年の元年から13年までは362年出生の誉田別皇子(15代応神天皇)の年齢を表しています。13才で成人式(元服)をしたようです。現代の成人式は20才ですが、古代の成人式は11才から15才の間に行われ、結婚も家と家の政略結婚で、成人式の頃(10代前半)に行われた。
 次の3行の囲いは倭王卑弥呼の事績年代です。
 その次の囲いは神功皇后の事績年代です。
 その次は倭王臺與の西晋への朝貢年です。
 最後が神功皇后の崩御年です。

 神功皇后年は元年から69年まで連続した年月のように記されていますが、囲いによって時代も人物も違うので年代基準を変えています。しかし、日本書紀は4ヶ所に太歳(干支の辛巳、己未、壬午、己丑)を記しているので年代の特定ができるようになっています。しかも中国と百済の記事も併記しているので更に年代の確認ができるようになっています。
 日本書紀の筆法(暗号)は難しいですが、1,300年も後の我々に理解できることもたくさんあります。
    神功皇后陵(五社神古墳 ごさしこふん、奈良市山陵町宮ノ谷)
    全長275mの前方後円墳、佐紀盾列古墳群の中で最大、4世紀後半に築造。
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 古墳時代も中期に入り、応神天皇陵が河内に巨大古墳として出現するようになります。15代応神天皇陵(403年崩御)は425m、16代仁徳天皇陵(427年崩御)は486m、17代履中天皇陵(432年崩御)は360mなどです。
    応神天皇陵(誉田御廟山古墳、大阪府羽曳野市誉田6丁目)


   応神天皇系図
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 以上のように日本書紀は卑弥呼と臺與の事績の一部を神功皇后の記事に挟んで、倭王卑弥呼と臺與の存在を小さくし、あいまいに記した。
 同じように卑弥呼と臺與の各地の伝承も大和朝廷(持統天皇と藤原不比等)により、神功皇后伝承に変更させられた可能性が高い。持統天皇は691年に豪族18氏の系図や石上神宮、大神神社の古文書を提出させ没収している。
 私見ですが、神功皇后伝承には3世紀の卑弥呼と臺與の伝承及び4世紀の神功皇后の伝承が混在しているのではないか。

 神功皇后と常に行動を共にしている武内宿禰についても、2世紀・3世紀の素戔嗚・五十猛・饒速日の伝承を4世紀の武内宿禰の伝承に混在させているのではないか。

 次の表は武内宿禰の系図です。一般的な系図は、彦太忍信命―家主忍男武雄心命―武内宿禰ですが、私見では彦太忍信命―(   ?   )―家主忍男武雄心命―武内宿禰と考えていました。
 ところが紀氏系図や寛永諸家系図伝などによると彦太忍信命―家主忍男命―武雄心命―武内宿禰となっているのがあるので少し修正しました。図をクリックしてから、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 系図によると当時の中心豪族の多くが武内宿禰の子孫として纏められている。しかし紀氏の裏系図では、紀氏の祖神で初代紀伊国造の天道根の妃は素戔嗚の娘であるという。
 素戔嗚の娘で五十猛と共に紀の国へ行ったのは大屋津姫と抓津姫である。大屋津姫は天香語山の妃になっているので、天道根の妃になったのは抓津姫でしょうか。古代は今のように一夫一妻制ではなく複数制ですから断定はできませんがね。
 天道根は饒速日東遷(私見では185年)に従ったと先代旧事本紀に記されており、和歌山市の日前宮境内に天道根神社があります。天道根は神武東遷(私見では204年に東遷開始)にも協力して紀伊国造に任ぜられた。
 日前宮については2013年2月1日投稿の「日前宮」をご参照ください。

 紀氏だけでなく葛城氏、蘇我氏なども素戔嗚と繋がっているようだ。素戔嗚・五十猛・饒速日の出雲系は天皇家に先んじて栄えているので、その事績・伝承をあいまいにするために武内宿禰に習合させられたのか? 武内宿禰の先祖も素戔嗚・五十猛・饒速日に繋がっている。
 有力豪族の本拠地も筑紫と大和の両方にある。紀氏であれば肥前国基肄郡と紀伊国。武内宿禰の誕生地も佐賀県武雄市の武雄神社と和歌山市松原の武内神社がある。墳墓は複数あってもいいが誕生地は一ヶ所なので、どちらかが間違っているか別人でしょう。
 今後充分に調べて日本書紀や伝承の元を明らかにしたいと考えています。

 葛城氏、平群氏、物部氏、蘇我氏など有力豪族は5世紀から7世紀の間に失脚し弱体化する。天皇家は8世紀に唯一絶対の孤高の存在となった。そして日本書紀は41代持統天皇(645年‐702年)で終わる。次の万葉歌は持統天皇の勝利宣言です。(巻1-29)
   春過ぎて 夏来たるらし 白栲(しろたへ)の 衣干したり 天の香具山

   藤原宮跡から天香具山を望む。
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by enki-eden | 2014-10-09 00:07

敏馬神社(みぬめじんじゃ、神戸市)

神戸市灘区(なだく)岩屋中町4丁目1-8  電078-861-2091 無料駐車場あります。
国道2号線沿いに鎮座。
祭神 素戔嗚命、天照皇大神、熊野坐大神
創建 神功皇后元年(4世紀半ば)
御神徳 航海守護、災厄解除
社紋 祇園木瓜(ぎおんもっこう、素戔嗚系の紋)

     ご朱印
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 神社の由緒書きによると、
 摂津風土記に「美奴売(みぬめ)とは神の名で、神功皇后が新羅へご出兵の時、神前松原(かんざきまつばら、大阪府豊中市)で神集いをされた処、能勢(のせ)の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神様が来られ、わが山にある杉の木を切り、船を造りて新羅へ行かれるなら、幸いするところありと教えられた。
 その通りなされると、大成功をおさめた。お還りの時、この地(神戸市灘区岩屋)で船が動かなくなったので、占い問うと神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した。」とある。
 これ当社の縁起にして、神功皇后摂政元年の御創建となる。また平安時代の延喜式(927年)の神名式に生田神社、長田神社と並び汶売神社(みぬめじんじゃ)が記載されている。

 「みぬめ」は弥都波能売神(みずはのめのかみ)の名より転じたもので、昔は美奴売・美奴面・汶売・見宿女・三犬女とも書いていた。しかし、1686年の文書には祭神が素戔嗚命を中心に天照皇大神、熊野坐大神の三柱に変わっている。
 社殿は1945年の空襲で焼失したが、1961年までに再建を完了した。

 万葉集に敏馬(みぬめ)を詠んだ多くの歌があるので、この地が神戸最初の港であったと考えられる。
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  珠藻(たまも)刈る 敏馬をすぎて 夏草の 野島の埼に 舟近づきぬ
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    妹(いも)とこし 敏馬の埼を 還るさに 独(ひとり)して見れば 涕(なみだ)くましも
                                   大伴旅人(万葉集)
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     国道2号線に面した鳥居
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     立派な燈篭、社紋の祇園木瓜が描かれている。回船業者が奉納。
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     階段の上に拝殿が見える。
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     境内左に手水舎
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  手水舎の奥に閼伽井(あかい、弥都波能売神)、閼伽は梵語で水の意。
  神仏混合の名残で清らかな水が湧く井戸。眼病に効く。
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     手水舎の左に立派な社務所。
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    境内右に白玉稲荷社(倉稲魂命、商売繁栄の神)
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     階段を昇ると拝殿へ
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     本殿
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     案内図(パンフレットより)
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     神社周辺古絵図、「摂津名所図会」より。
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     神社周辺古絵図、「武庫連山海陸古覧」より。
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     立派な手水舎
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     由緒
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境内末社
 松尾神社(まつのおじんじゃ、大山祇命、金山彦命、船玉神)
 舟玉神は酒造守護神で、灘は「灘の生一本」で有名な酒造業と江戸へ酒を運ぶ樽廻船業者が多かった。
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 后(きさい)の宮(神功皇后、当社創建の神)
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 水神社(弥都波能売神、敏馬神社の元の祭神)
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 奥の宮(伊弉諾尊、伊弉冉尊)、水神社の奥に祠が鎮座。
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     万葉歌碑
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by enki-eden | 2014-10-06 00:06

大阪湾岸の古墳

 9月27日に兵庫県西宮市の大手前大学で「大阪湾岸の古墳」と題して公開講座がありました。
 大学へ行く途中には夙川(しゅくがわ)が流れています。春は桜の名所です。
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     大手前大学
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    本館手前に5mほどの磐座が鎮座、日向天巨建岩と説明板がある。
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    奥には古墳もあり、宿禰の古墳。
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    神社も。このキャンパスは創立者藤井健造氏の邸宅だったそうです。
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 公開講座の講師は山口大学人文学部教授の田中晋作氏と古代学研究会代表の森岡秀人氏でした。

 田中教授は「百舌鳥・古市古墳群と5世紀の政権構造」と題して講演されました。古墳時代の各時期において最大規模をもつ前方後円墳は、大和盆地南東部(桜井市から天理市)→佐紀古墳群→百舌鳥・古市古墳群(河内・和泉)→淀川北岸→さらに大和盆地南部へと、築造場所が移動する。(白石太一郎説)
 特に百舌鳥・古市古墳群で見られる「大型主墳」に帰属する「陪塚」の出現や「小型主墳」の出現は、大型主墳への権力集中を示す構造上の飛躍として捉えることができる。つまり「中型古墳」が少ない理由は、大型古墳被葬者の配下に有力大物豪族がいないからで、従って首長の権限が大きいということです。これが古墳時代中期(5世紀)の応神天皇、仁徳天皇、履中天皇などの権力の特徴になります。
 そして、中央政権から周辺地域の協力豪族へ武器が供給されるが、時代によって供給地域・供給豪族が変更になるという現象は、時代によって中央と結びつく地域・豪族が変わっていくということになります。

 森岡代表は「西摂津の古墳文化―百舌鳥・古市古墳群の時代前後の首長動向―」と題して、西摂津(兵庫県南東部)の古墳・豪族の特徴について講演されました。特に凡河内氏(おうしこうちし)が摂津国・河内国・和泉国にわたる広い地域を勢力範囲にしていたことの解説がありました。
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by enki-eden | 2014-10-03 00:07