古代史探訪

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<   2014年 11月 ( 9 )   > この月の画像一覧

西宮神社(兵庫県西宮市)①

「西宮のえべっさん」、えびす宮総本社、国道43号線に面している。
えびす宮は全国に3,500社ほどある。
兵庫県西宮市社家町1-17  電0798-33-0321  無料駐車場あります。
祭神 第一殿(東) 蛭児大神(えびす大神)
    第二殿(中) 天照大御神と大国主大神
    第三殿(西) 須佐之男大神

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   西宮神社ご朱印
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 西宮のえびす様は、西宮市鳴尾の浜の漁師が神戸の和田岬のあたりで出現された御神像を御神託により当地に祀ったのが起源と言われる。
 当地は西国街道の宿場町としても開け、市の神、商売繁盛の神様として西宮郷の銘酒と共に繁栄していった。
 特に1月10日の「十日えびす大祭」と開門神事福男選びは毎年テレビ報道でも有名です。

   国道43号線からの入り口、神門と長い築地塀(国指定重要有形文化財)。
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 神門を入って左に沖恵美須神社(おきえびすじんじゃ、通称あらえびすさん)の拝殿と
 本殿。 えびす大神の荒御魂。
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  南宮神社(豊玉姫神、市杵島姫神、大山咋神、葉山姫神)
  西宮市大社町の廣田神社の境外摂社。廣田神社については2013年5月18日投稿
  の記事をご参照ください。
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 東の表入り口の鳥居と社号標。表大門(赤門)は国指定重要文化財。桃山期の建築。
 1月10日午前6時開門神事で福男が選ばれる。
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 表大門横に梅宮神社(うめのみやじんじゃ、酒解神 さかとけかみ)、醸造繁栄。
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   児社(このやしろ、児尊 このみこと)、幼児の健康を守る神。南宮神社の末社。
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   参道
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   境内案内図と福男の解説。
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   六英堂は明治天皇行幸所で旧岩倉具視邸。
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   祈祷殿と左横に神馬(しんめ)
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   手水舎
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   庭津火神社
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   祓所
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   社務所
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   拝殿と本殿(本殿は国宝で、三連春日造)
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by enki-eden | 2014-11-30 00:15

八坂神社(兵庫県美方郡香美町香住区)

兵庫県美方郡(みかたぐん)香美町香住区一日市(ひといち)   無料駐車場あります。
祭神 須佐之男命、櫛稲田姫命(八坂刀売命)。
    神社調書には大国主命をも記す。

 八坂刀売命を櫛稲田姫命の別名としているが、八坂刀売神は大国主命の子・建御名方神の妃神で諏訪固有の神だから、何かの混乱があると考えられる。
 大国主命と八坂刀売命も祭神として祀っているということでしょうかね。



   車で行く途中、JR香住駅の前を通りました。駅前に当地名産のカニの爪が。
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   昼食は香住ガニ(紅ズワイガニ)をいただきました。
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   八坂神社が鎮座の天王山の岡見公園から香住海岸を望む。
   山陰海岸は世界ジオパークに認定されている。
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   遊覧船かすみ丸に乗ると楽しいですよ。前回は乗りましたが今回はパス。
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   神社入り口の両部鳥居と社号標、右の燈篭に「天壌」、左に「無窮」と彫られている。
   春には八重桜が美しいそうです。
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   参道、長い階段が続く。右の狛犬(阿像)は「玉持ち」で神紋の祇園木瓜、
   左の狛犬(吽像)は「子持ち」で三つ巴が彫られている。
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 参道途中に境内社の愛宕神社が鎮座。全国にある愛宕神社の総本社は京都市右京区の愛宕神社で、火伏せ、防火の神様。
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 参道の両側に還暦を迎えた氏子が寄進した灯篭が並んでいる。形は伊勢神宮の参道に並ぶ灯篭とよく似ている。
 灯篭の上部には神紋の祇園木瓜か三つ巴。下部にカゴメ紋(ダビデの星)が彫られているのも伊勢神宮参道の灯篭と似ている。
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   更に階段を昇ると拝殿が見えてくる。
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 拝殿前の右の石柱に「素戔嗚尊が出雲の簸川で獲得した天叢雲剣(草薙剣)を三種の神寶とした」と記されている。
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 左の石柱には「素戔嗚尊が須賀(島根県安来市)に宮を建て、新婚の住まいとした。そして初めて八雲国の歌を詠んだ」と記されている。
   八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を
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   拝殿
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   本殿
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   神社由緒
   兵庫県姫路市の廣峯神社から牛頭天王(素戔嗚尊)を勧請したようだ。
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   社庫
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  境内社の護国神社、灯篭の紋は伊勢神宮参道灯篭と同じく16弁菊花紋とカゴメ紋。
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   五社明神、祭神は小田井明神(国作大己貴命)、出石明神(天日槍命)、
   粟鹿大明神(彦火々出見命)、絹巻大明神(天衣織女命)、養父大明神(倉稲魂命)。
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   稲荷神社
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   境内社、社名が分からない。右は天満神社か、左は伊弉諾尊を祀る神社か?
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   社務所、拝殿建て替えにより古い拝殿を利用している。
   ご朱印をお願いしようと思ったが、お留守であった。
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   帰途、道の駅「ようか但馬蔵(たじまのくら)」で休憩。
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               *****

神功皇后と蒲鉾(かまぼこ)
 昔は魚肉を塩ずりして木や竹の棒に塗り、そのまま焼いて「蒲の穂」のようにした食品を「蒲鉾」と云った。「蒲穂子」が「かまぼこ」になったと云います。現在の焼きちくわによく似ていたと考えられます。

 神功皇后が神戸市の生田神社で、魚肉のすり身を「鉾」の先に塗り、焼いて食べたのがおこりであるという伝承がある。実際はもっと昔の縄文時代からの食品ではないでしょうか。
 東南アジアにも蒲鉾に似た食品があり、作り方も似ていることから東南アジアからのルーツも考えられます。

 蒲は止血作用、鎮痛作用があり、火傷・切り傷に効く。大国主神(大黒様)と稲羽の素兎(しろうさぎ)の話の中に、ワニを騙し皮をむかれて泣いている兎に大国主神が「川の水で身を洗い、水辺の蒲の花(蒲黄)を敷いて、その上を寝転がれば必ず直る」と云った。兎の傷は本当に癒えたのでした。
 文部省唱歌の「大黒さま」の3番
   大黒さまの 云うとおり きれいな水に 身を洗い 
   蒲の穂綿に くるまれば うさぎはもとの 白うさぎ

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by enki-eden | 2014-11-26 09:34

高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)

 高天原の三柱の神(造化の三神)は天御中主尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊で、次に二柱の神が現れた。可美葦牙彦舅(うましあしかびひこじ)尊と天常立(あめのとこたち)尊で、五柱の神を別天津神(ことあまつかみ)と云う。
 五柱の神は独神(ひとりがみ)で、私見による時代はBC1世紀と考えられる。神話と歴史を混ぜるなと言われる方々にはご容赦願いますね。私は神話を古代人なりの歴史だと捉え、現代人が理解できるように復元を試みているのです。

 天照大神と共に高天原(たかまのはら)と葦原中国(あしはらのなかつくに)を支配した高皇産霊尊(高木神)は2世紀から3世紀前半に活躍した神だから、別天津神の高皇産霊尊と名は同じでも別の神です。同じ血統かもしれません。私見では、高皇産霊尊は素戔嗚尊と同じ西暦140年頃の出生と見ています。

 次の地図の赤い囲いは私見による高皇産霊尊の版図ですが、高天原は朝倉市の山沿いでしょうか。
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高皇産霊神を祀る神社
 春日神社(福岡県田川市宮尾町6‐13)、この地は饒速日尊降臨伝承地。
 祭神 豊櫛弓削遠祖高魂産霊命(とよくしゆげのとうそたかみむすびのみこと)他
     物部氏との関係も深い。

 高木神社(福岡県嘉麻市小野谷1580番) 
 祭神 高御産巣日神。
 神武天皇が東遷時(西暦204年頃)ここに高皇産霊神を祀った。高木神社は多く、
 福岡県嘉麻市、福岡県田川郡、福岡県朝倉市、福岡県久留米市、福岡県筑紫野市など
 に30社ほど鎮座している。 
 神武天皇は大和に来ても高皇産霊神を祀っている。

 高良大社(福岡県久留米市御井町1番地) 式内社・名神大社で筑後国一宮
 主祭神の高良玉垂命は元の祭神・高木神に取って代わったと云われる。

 日本書紀によると、高皇産霊尊の子は1,500人程と云うが、思兼命(信濃国阿智氏の祖)、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ、天忍穂耳命妃)、天忍日命(大伴氏の祖)、三穂津姫(大国主命妃)、天太玉命(忌部氏の祖)、天活玉命(倭久連等祖)、天明玉命(伊弉諾尊の子とも云う)、少彦名命(神皇産霊神の子とも云う)などがいる。
 その中で天太玉命・天活玉命・天明玉命は饒速日命と共に185年頃に大和へ東遷している。思兼命の子・天表春命と天下春命、天活玉命の子・天三降命、少彦名命の子・少彦根命も随伴している。
 高皇産霊尊と饒速日尊は関係が深い。

 高皇産霊尊は高天原の主(あるじ)で政治力、軍事力、経済力が強かった。祭祀は天照大神が司り、政治は高皇産霊尊が執り行った。
 天照大神と素戔嗚尊の子・天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の娘・栲幡千千姫命を娶って、瓊瓊杵(ににぎ)尊を産んだ。それで高皇産霊尊は皇祖となった。後代に大和で葛城氏、物部氏、蘇我氏、藤原氏などが娘を皇室に嫁がせて権力を握ったやり方です。
 記紀による系図では次のようになっています。
 図をクリックしてからプラスマークをクリックすると拡大します。
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 私見では、神武天皇(西暦180年頃出生)は素戔嗚や高皇産霊の孫の世代だと考えています。

 本来の皇祖は素戔嗚尊ですが、高天原を追い出され、天津神から国津神に変えられてしまいました。2世紀終わりの倭国大乱の責任を取って、倭王の伊弉諾尊は淡路島に隠遁してしまう。倭国大乱は、倭王の伊弉諾尊に対して出雲の製鉄王の伊弉冉尊と素戔嗚尊が対抗した争いだったのでしょうか。
 大己貴神(おおなむちのかみ、大国主命)の支配する葦原中国は200年頃、高皇産霊尊に国譲りを強制される。倭国は高皇産霊尊が政治を司り、天照大神が祭祀を司ることになる。これは卑弥呼が倭国の女王に就任した頃(西暦201年頃)の北部九州の情勢です。

 私見ですが、天照大神は卑弥呼と臺與の集合体で、高皇産霊尊も2代から3代の集合体だと見ています。そして2代目女王の臺與は270年頃にミマキイリヒコ(10代崇神天皇)と共に大和へ東遷したのではないでしょうか。

 高皇産霊尊は天孫降臨、饒速日東遷(185年頃)、神武天皇東遷(204年頃開始)にも力を入れた。これ以降は(老齢のため)天忍穂耳尊を高木神として2代目高皇産霊尊に就任させたと考えられる。
 英彦山(ひこさん、1,199m)に英彦山神宮(福岡県田川郡添田町大字英彦山1)が鎮座。主神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)です。

 高皇産霊尊由来の神社名や地名に高(たか)、鷹(たか)がよく使われている。「鷹羽の紋」も使われる。たかとり(高取、鷹取)、たかす(高須、高巣、高祖、高住、鷹須、鷹巣、鷹栖)、たかみ(高見、鷹見)、ひたか(日高)などたくさんあります。

 地名の大分県日田市も日高・日鷹が由来かもしれない。日田市日高町のダンワラ古墳出土とされる金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう、後漢製、国の重要文化財)は鉄鏡に金メッキと宝飾を施し「長宜子孫」銘入りで、漢や魏では皇帝だけが所持していた。倭国では高天原の主が所持していたのでしょうか。
 日田市は大分県であるが、方言は福岡県・熊本県に近いようです。久留米とは筑後川の水運で繋がっていた。

 高皇産霊尊は宮中八神殿の第二殿で大御巫(おおみかんなぎ)によって奉斎されていたが、現在の八神は宮中三殿の向かって右の「神殿」に天神地祇と共に祀られている。天照大神(八咫鏡)は中央の「賢所、かしこどころ」に祀られており、向かって左は「皇霊殿」です。
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 高皇産霊尊は皇室の最高神であったが、7世紀後半から8世紀初め(40代天武天皇、41代持統天皇の時代)に天照大神が最高神となり、持統天皇(高天原広野姫天皇)は自らを天照大神に重ね合わせていく。

 高皇産霊尊の子孫は葛城氏、紀氏、大伴氏、忌部氏、賀茂氏など多くの豪族に分かれ、それぞれ系図が整っている。現在までで約1,900年間、85代前後になります。
 我が家にも家系図がありますが、最初に記されている人は西暦1,600年頃の出生で、私の孫の出生まで400年間に16代です。豪族系図の五分の一の期間・世代しかありません。
 系図や伝承は間違いも多いですが、85代も先祖を遡れる家系はすごいものです。
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by enki-eden | 2014-11-23 00:10

角刺神社と飯豊天皇陵

角刺神社(つのさしじんじゃ)
 奈良県葛城市忍海(おしみ)322
 祭神 飯豊青命
 駐車場はないので隣の葛城市歴史博物館を利用、 電0745-64-1414

   赤のアイコンが角刺神社、青が飯豊天皇陵


     葛城市歴史博物館
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 角刺神社は、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った忍海角刺宮跡です。日本書紀によると、「飯豊青皇女は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海角刺宮で政治を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしぬみいいとよのあおのみこと)と名乗った」と記されている。

 池田末則著「大和古代地名辞典」によると、「角はツヌ→ツルで葛と同じ、刺はサシ(城)で、角刺は葛城と同義」とある。
 私見ですが、「角刺」は「大和湖に(角のように)細く突き出した岬(刺)」ではないかなと考えています。古代の大和には大きな湖があった。菅原進著「随想アイヌ語地名考」によると、アイヌ語でエサシ(江刺、江差)は岬。
 「刺国」は「岬のある国」ということが正しければ、筑紫の刺国(津屋崎付近)には海に突き出した岬がある。大国主命の母は刺国若比売、大国主命は刺国に隣接した宗像国の王。

  角刺神社入り口の社号標、奥に見えるのは神仏習合時代の神宮寺の忍海寺。
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   由緒書き
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   鳥居と拝殿
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   手水舎
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   拝殿と大きなイチイガシの神木。
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   本殿
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   末吉大明神(すえよしだいみょうじん)、稲荷系か。
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飯豊天皇埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)
 (北花内大塚古墳)
 奈良県葛城市北花内(きたはなうち)、90mの前方後円墳、角刺神社の北西900m。
 駐車場は無いので、道向かいの健康福祉センター(電0745-69-9900)を利用。
 私が訪問した時はイベントがあったのか駐車場は満車、しかたなく路駐。

     飯豊天皇埴口丘陵
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by enki-eden | 2014-11-19 00:08

飯豊天皇(いいとよてんのう)

 456年に21代雄略天皇によって葛城円(つぶら)が滅ぼされた。雄略天皇が479年に崩御、次の22代清寧天皇(せいねいてんのう、435年頃-484年))には跡継ぎがなかったが、播磨国司の来目部小楯(くめべのおだて)が17代履中天皇の孫である二人の葛城系皇子を播磨国で見つけ出す。
 清寧天皇が484年に崩御したが二人の皇子、億計(オケ)王と弘計(ヲケ)王は皇位につこうとしなかった。

 臨時に天皇職を執り行ったのが飯豊皇女(いいとよあおのひめみこ、420年頃-484年)で、履中天皇の皇女(葛城系)であった。「旗の」「柳の」は葛城山にかかる枕詞。
 飯豊皇女の別名は海皇女(おおみのひめみこ)という。海皇女は飯豊皇女の姪(435年頃出生)ともいわれている。名前が紛らわしいので混乱が多いと思われる。
 或いは二人で協力して、政治と祭祀を分担して天皇職を執り行ったのでしょうか。

 飯豊青皇女は記紀には天皇と記されていないし、歴代天皇にも入っていないが、はっきりと天皇と記す「扶桑略記」や「本朝皇胤紹運録」などがあるので中継ぎの摂政だったのかもしれない。
 飯豊青皇女は億計(オケ)王と弘計(ヲケ)王の叔母であるが、日本書紀には飯豊皇女は億計王と弘計王の姉か妹と記されている。
  系図(AとBが混乱して伝わっている)、図をクリックしてプラスマークをクリックすると
  拡大します。
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 「いいとよ」はフクロウの古語で智恵の象徴。アイヌ語では「いいとよ」は「先の尖った三角形の山」であるが、葛城山は尖っていないのでアイヌ語由来ではないでしょうね。

 飯豊天皇(飯豊青皇女)は本拠地「葛城の忍海」(おしぬみ、おしみ)の角刺宮(つのさしのみや)で政治を行った。相当立派な宮だったのでしょう、詠まれた歌があります。
   倭辺(やまとへ)に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮
(大和のあたりで見ておきたいものは、忍海の地の高木にある立派な角刺宮である。)

 日本書紀の清寧天皇記に、(482年頃)『天皇は飯豊皇女の兄弟の億計(オケ)を皇太子とし、弘計(ヲケ)を皇子とした。飯豊皇女は角刺宮で男と交合(まぐわい)をされたが、「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ」と云われた。』とあります。
 話の流れからすると、清寧天皇には皇嗣(こうし、跡継ぎ)がなかったので、飯豊皇女の二人の兄弟を皇太子と皇子にした。そして飯豊皇女は角刺宮で清寧天皇と交合したが、良くなかったので以後男を避けた、と考えられます。

 飯豊天皇は執務1年弱で崩御、ヲケ王が23代顕宗天皇として485年に河内飛鳥(大阪府羽曳野市)で即位した。この地は元々蘇我氏の本拠地のあったところで、石川が流れている。蘇我氏は大和の飛鳥に移住した。
 487年に顕宗天皇崩御の後、兄のオケ王が24代仁賢天皇として488年に石上(天理市)で即位した。
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by enki-eden | 2014-11-15 00:13

唐古・鍵考古学ミュージアム

奈良県磯城郡田原本町阪手233-1  電0744-34-7100  無料駐車場あります。
秋季企画展「弥生遺産、唐古・鍵遺跡の木製品」が公開されています。

   赤のアイコンが唐古・鍵ミュージアム、黄が唐古・鍵遺跡、青が纏向遺跡



   大型建物跡から柱の出土状況(パンフレット)
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   唐古・鍵遺跡の中央部に古墳時代の前方後円墳があったが現在は消滅している。
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 国史跡の唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町)は弥生時代を代表する日本最大級の多重環濠集落跡で、42万㎡の集落は様々な物づくりを行っていた拠点です。各地との交易の市も開かれていた。
 2棟の大型建物跡や青銅器鋳造工房跡が発見され、出土した絵画土器に多層式楼閣が描かれており、楼閣が唐古池の横に復元されている。銅鐸や木製品も盛んに製作・供給された。
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 唐古・鍵ミュージアムはこの遺跡の出土品を中心に展示しています。
 1999年の発掘で見つかった弥生時代中期の大形建物跡(6.8m×11.6m)の柱も展示されている。独立棟持柱(むなもちばしら)を含め19本の柱で構成されていたようで、神殿かもしれない。
 見つかった柱はケヤキ材で直径60cm、長さ145cm弱が残っている。下の方に柱運搬用の目渡穴(めどあな)が開いており、目渡穴には巻きつけた縄の一部が残っていた。
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     大型建物と周辺の様子を模型にして展示。
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     絵画土器により楼閣の存在が判明。
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 田原本町教育委員会の2003年の発掘では、BC2世紀頃(弥生中期)の遺跡西地区中枢部に建てられた大型建物跡(6m×13.7m)から20本の柱と3本の間柱が見つかり、柱の直径は最大のもので80cmもある。
 弥生時代の柱としては最大級で、柱材は全てケヤキです。保存処理で薬剤を柱に浸透させるのに7年を要した。この大型建物は南東向きで独立棟持柱はなかった。

 巨大な平城宮大極殿の柱の直径が75cmだから、弥生時代の大型建物に80cmの太さは充分すぎるでしょうね。

   出土人骨から弥生人を復元。
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 環濠を掘るための木製の鋤。唐古・鍵遺跡は低地にあるため土中の水分が多く、乾燥に弱い木製品が良好な状態で残っている。
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   環濠に並べられた土器、上の左から広口壷、長頸壷、台付無頸壷と蓋、
   下の左から器台、器台、高坏。
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   弥生人の生活用具
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   鉤状木製品、用途は不明。
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   糸魚川市姫川産出の翡翠の勾玉
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   勾玉が入っていた褐鉄鉱容器
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   水差し形土器、取っ手が付いているので片手で持てる。
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   銅鐸の鋳型、唐古・鍵では鋳型はあるが銅鐸は見つかっていない。
   銅鐸の製作地(平地)と埋納地(山の斜面)は別である。
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 弥生時代中期から後期の青銅器を鋳造する道具。左上が鞴(ふいご)の風を炉に送る土製の送風管(管径6cm)。数本の管をつないで曲がった先端を炉に入れるので先端が高熱により変色している。
 その下の二つの土器が取瓶(とりべ)で、溶けた青銅を鋳型に注ぐための器です。左は高さ22.4cm、口径28.5cm。右は高さ26.1cm。
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   炉に送風管を2本取り付けて鞴から送風する図。
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 唐古・鍵遺跡が弥生時代後期に一旦は縮小減退する。同じように天理市・桜井市・橿原市・御所市など大和盆地の他の遺跡も減退する。

 私見ですが、185年頃に饒速日が大部隊で大和にやってきて中心地が纏向(桜井市、旧磯城郡纏向村)に集約されたと考えています。纏向遺跡(2世紀末から4世紀半ばまで)は政治・祭祀・生産・大きな市(いち)が中心で居住地がほとんどないので、住居は纏向の南部、南西部などの周辺地域に広がっていたと考えられる。
 遺跡出土の弥生土器は西暦180年から210年頃のものとされている。

 ところが、10代崇神天皇の古墳時代(3世紀後半)になると唐古・鍵に再び集落が復活する。これは古墳時代に全国から大和へと人口流入が続き、唐古・鍵が再度復活したと考えています。
 纏向を本拠地にした10代崇神・11代垂仁・12代景行天皇の時代(3世紀末から4世紀半ば)は、弥生時代から古墳時代への突入であり、大和朝廷の画期的前進です。

   古墳時代の牛形埴輪(6世紀前半)、明治30年出土、国の重要文化財。
   田原本町の羽子田1号墳(30mの前方後円墳)から出土。
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   田原本町の笹鉾山2号墳出土の「馬と馬曳きの埴輪」
   6世紀前半、直径19.5mの円墳。
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by enki-eden | 2014-11-12 11:19

長屋王と吉備内親王

長屋王(ながやおう、ながやのおおきみ)
 684年(?)出生、729年没。父は40代天武天皇の皇子・高市皇子(たけちのみこ、654-696年)、母は38代天智天皇の皇女・御名部皇女(みなべのひめみこ)。
 高市皇子は672年の壬申の乱で全軍を統帥し勝利へと導いた。41代持統天皇の時に太政大臣になった。
長屋王の正室は従姉妹の吉備内親王で、吉備内親王の父は草壁皇子(岡宮天皇)、母は43代元明天皇(女帝)。
 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 長屋王は奈良時代初期に活躍した皇親政治家で、720年に藤原不比等が亡くなると、721年に右大臣になり、724年に45代聖武天皇の即位に合わせて左大臣になった。有力な皇位継承候補者であった。

 しかし、不比等の子である武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の四兄弟と対立が激しくなり、729年に謀反の讒言により、長屋王は自殺させられた。妃の吉備内親王と4人の子も死に追いやられた。(長屋王の変)

 藤原不比等の次女・長娥子も長屋王の妃となったが罪には問われず、長屋王と吉備内親王及びその子が狙われた。長屋王の変は藤原氏による陰謀であった。
 これで藤原氏の独裁政治が始まったが、737年に天然痘により藤原四兄弟は全員死亡。無実の長屋王が怨霊となって祟ったと云われた。
 長屋王夫婦は生駒山の麓(奈良県生駒郡平群町)に葬られた。

 平城京の東南地区(奈良市二条大路南)に奈良そごう百貨店建設予定地の発掘調査で、1988年に40,000点の木簡が発見され、長屋王の広大な邸宅跡(約18,000坪)の一部と分かった。研究者や地元民は史跡として保存する運動を起こしたが、奈良そごうは予定通り建設された。その後、2000年にそごう百貨店は倒産、地元の人は長屋王の祟りだと噂した。

   長屋王邸宅跡



 旧そごう百貨店の水島広雄元会長が今年7月に102才で死去。水島氏は1958年に日本興業銀行からそごうの副社長に就任。4年後に社長になり、強いリーダーシップと拡大経営で成功した。しかし拡大経営が裏目となって日本のバブル崩壊により倒産。民事再生法の適用で再建統合し、現在は復活営業している。
 企業能力以上の設備投資や拡大経営は倒産の危険性が高くなり、よくあるパターンである。
 奈良そごうの後は、イトーヨーカドー奈良店になっているが業績は良好です。

長屋王墓
 奈良県生駒郡平群町梨本、宮内庁管理、 駐車場はないので路上駐車。
 直径15m、高さ1.5mの円墳で、周囲は方形の生垣で囲まれている。王墓の下には6世紀前半に築造された前方後円墳が埋まっている。
 3月20日に墓前で正辰祭が行われる。
     長屋王墓
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    横には長屋王御陵公園があり、説明板も。
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吉備内親王墓
 奈良県生駒郡平群町梨本、長屋王墓北西150m、宮内庁管理、駐車場なし。
 直径20m、高さ2mの円墳、周囲は方形に生垣で囲まれている。
     赤のアイコンが長屋王墓、黄が吉備内親王墓


    吉備内親王墓
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    岡宮天皇とあるのは吉備内親王の父・草壁皇子のことです。
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by enki-eden | 2014-11-09 17:30

難波宮、大津宮から飛鳥宮へ

橿原考古学研究所付属博物館の秋季特別展「飛鳥宮と難波宮・大津宮」が開催されています。
   秋季特別展パンフレット
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   橿原考古学研究所付属博物館、後ろの山は畝傍山です。
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 難波宮は15代応神天皇の大隅宮(おおすみのみや)、16代仁徳天皇の高津宮(たかつのみや)、29代欽明天皇の祝津宮(はふりつのみや)、36代孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや、652年)、45代聖武天皇の難波宮(734年)がある。
 孝徳天皇以降は現在の大阪城の南に難波宮が置かれたと考えられており、国の史跡として指定され難波宮史跡公園となっている。



 近江大津宮は663年の「白村江の戦い」の後、667年3月に中大兄皇子は都を飛鳥から近江(滋賀県)へ遷都する。そして翌年1月に38代天智天皇として即位した。
 遷都の理由は諸説あるが、白村江の戦いで敗戦したので唐・新羅軍の攻撃に備えたと考えられる。671年に天智天皇が崩御、672年の「壬申の乱」で大海人皇子(おおあまのみこ)が勝利、都を飛鳥に戻す。

40代天武天皇がおい求めた宮殿・飛鳥宮
 大海人皇子は673年に40代天武天皇として即位、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、奈良県明日香村岡)を造営した。



   飛鳥浄御原宮(赤丸)、左に流れているのは飛鳥川。
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 天武天皇は皇親政治を進め、684年に「八色の姓」(やくさのかばね)を定め、685年に冠位四十八階を制定した。天皇一極集中の専制主義であったので批判・不満も鬱積した。

 天武天皇が686年に崩御、41代持統天皇(天武天皇の皇后)が政策を引き継いだ。
 飛鳥浄御原宮で律令国家の基礎が築かれ、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう、689年)が公布された。大宝律令(701年)、古事記(712年)、日本書紀(720年)もここで編纂が始まったと考えられる。

 天智天皇が禁止した「お祓い」の民間風俗が701年(大宝元年)の大宝律令で正式な国家行事として制定され、「夏越の大祓」と「年越の大祓」となった。
 大祓は現在でも宮中、全国の神社で続いている。6月末頃と12月末頃に全国の神社で「茅の輪潜り」(ちのわくぐり)が行われる。
 「大祓」については、2013年6月24日投稿の記事をご覧ください。

 天武・持統天皇の時代は飛鳥時代(592年-710年)の中でも白鳳文化が栄え、政治・経済・社会・文化・宗教などの基本が形作られ、国威が大いに高揚した時代である。勿論、唐に朝貢などせず大国ぶりを装い武装強化にも力を入れた。
 国家神道が整えられたのもこの時期で、伊勢神宮を特別視して整備拡大、式年遷宮を始めた。式年遷宮は現在でも続いている。
 皇祖も高皇産霊尊から天照大神へと変遷していく。

 天武天皇は藤原京(橿原市)造営に取り掛かったが完成を見ずに崩御、持統天皇が694年に遷都した。天武・持統天皇陵は藤原京の中心軸を南に延長した所に造られた。上の地図でご確認ください。
 43代元明天皇は710年に平城京(奈良市)に遷都して飛鳥時代から奈良時代へと移っていく。

 飛鳥浄御原宮のエビノコ郭は「大極殿」だと考えられている。大極殿は天武天皇が初めて造った殿舎で、国家の大事を執り行う重要な殿舎である。飛鳥浄御原宮は律令国家の礎を築いた場所であった。
   常設展の飛鳥浄御原宮模型、右手前が大極殿。
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 特別展の展示品は写真撮影ができないので残念です。

                    *****
 夜空を見上げると「冬の大三角」が輝いています。オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンです。
 中でもオリオン座は古代から世界的に注目されている星座で、オリオン座の三ツ星を地上に表現したのがエジプト、ギザの三大ピラミッドだという説があります。ナイル川が天の川です。学会では認められていませんがね。
 日本の古代でも海人族たちがオリオン座を見て夜の時間や方向を確認したのでしょう。神社の祭神が三柱になっているのが多いのもオリオン座の三ツ星に因むのでしょうか。住吉三神、綿津見三神、宗像三女神、高天原の造化三神などです。
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   ギザのピラミッド(クフ王、カフラー王、メンカウラー王)
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by enki-eden | 2014-11-06 00:10

平群神社(へぐりじんじゃ、奈良県生駒郡)

大和国平群郡に鎮座
奈良県生駒郡平群町西宮617  無料駐車場あります。
祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ)
創建 神功皇后の時代(4世紀半ば)

 平群氏の祖・武内宿禰が神功皇后とともに新羅出征前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。その後、平群氏が祖神の武内宿禰と平群木菟宿禰(つくのすくね)を祀ったのであろう。
 五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰を集め今日に至る。

 この地は弥生時代の集落遺跡があった丘陵地帯で、平群氏の本拠地であった。平群の谷は、西は生駒山、東は矢田丘陵に囲まれた山間の小平野で、竜田川が南へ流れて大和川に注ぐ。
 平群の地名は、池田末則著「古代地名紀行」によると、『平群は古代大和西北部の郡名。ヘグリの「ヘ」は「辺」または「方」を意味し、一定の場所・処ではなくて、中心から離れた端に近い処を指した。平群の「群」は「郡」すなわちクニ(国)の意でもある。平群は隅の郡(くに)を表した古代地名である。』とあります。
 志賀剛著「神名の語源辞典」には、「平群の谷は長い丸太をへぎ取った丸木舟に似ている。へぎる→へぐり。」とあります。



    平群氏の本拠地
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    平群神社由緒
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 葛城円(かつらぎのつぶら)大臣が456年に21代雄略天皇に滅ぼされてからは、平群木菟宿禰の子の平群真鳥(まとり)が大臣となり全盛期を迎えた。
    武内宿禰―葛城襲津彦―玉田宿禰―葛城円

 西暦498年に24代仁賢天皇が崩御すると、平群真鳥大臣や子の鮪(しび)が国政を専横したので大伴金村連に討たれ、平群氏は衰退する。大伴金村連は25代武烈天皇を擁立して大連となる。
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 平群氏系図
   武内宿禰―平群木菟宿禰(征新羅将軍)―平群真鳥(まとり、498年没)―
   平群鮪(しび、498年没)―根咋―(  )―神手―宇志―子首(こびと)―
   豊麻呂(讃岐守、753年没)―広成(遣唐使、武蔵守、753年没)

 大伴金村大連は25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇、28代宣化天皇、29代欽明天皇に仕えたが、欽明天皇の時(540年)に失脚、大伴氏は衰退する。

 536年に28代宣化天皇が蘇我稲目を大臣にして蘇我氏が強大になっていく。蘇我稲目大臣の子の蘇我馬子大臣が587年に丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋大連を滅ぼし、蘇我氏の全盛期を築く。その蘇我氏も645年の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我蝦夷・入鹿の親子が滅び藤原氏の時代に移っていく。
   武内宿禰6代目の蘇我稲目―蘇我馬子―蘇我蝦夷―蘇我入鹿

 このように天皇家を支えた古代の有力豪族は200年程の間に次々と弱体化され、天皇家と藤原氏による独裁政治が続くことになる。41代持統天皇と藤原不比等は皇室の祖を豪族たちの祖とは違う天照大神に求め、皇室の孤高を強調。公地公民制により豪族の領地・領民を奪い、国造を廃止し郡司とした。701年に大宝律令を制定、天皇家の一極集中は完成した。
 持統天皇の次の歌(万葉集)は勝利宣言である。
   春すぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山

 福岡市香椎宮の社家武内家の系図に武内宿禰が壱岐直真根子の娘・豊子媛と結ばれて子をなしたと記されているようです。壱岐真根子は武内宿禰によく似た姿で、武内宿禰の身代わりになって自刃したと日本書紀に記されている。
 自刃した壱岐直真根子は佐賀県武雄市若木町川古(かわご)に埋葬されたという。そこには真根子を祀る伏尺神社(ふしじんじゃ)が創建された。壱岐直真根子は天児屋根命の12代目だという。

 香椎宮社家の武内家は平群木菟宿禰の12代目・大膳紀宿禰(おおかしわできのすくね)が初代になっている。
 大膳紀宿禰の6代目武内武宣が、武内宿禰の旧屋敷跡一角に大膳紀宿禰を祀る高倍神社(こうべじんじゃ)を建立し、現在香椎宮の末社になっている。近くには「不老水」の湧水があり、名の通りこの水を飲むと長生きできるようです。武内家はこの不老水のお蔭で長生きし、初代以降100才以上の長寿者が6名もおられるそうです。

 平群氏の大和での本拠地は大和国の中心部から離れ、山間の狭いところです。大和にやってくる前の平群氏の本拠地は、伊都国の東端か奴国の西端にある狭い場所でした。室見川が早良平野(さわらへいや)を南から北へ流れる中流域の山に挟まれた地域で、筑前国早良郡の南西部です。
 3世紀の伊都国と奴国の境界線がはっきりしないが、早良平野は伊都国の一大率が置かれた所という説もある。それだと室見川か樋井川が境界線になるのでしょうかね。

 新撰姓氏録によると、「河内国 皇別 早良臣 平群朝臣同祖 武内宿禰男平群都久宿禰之後也」とある。

 和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう、10世紀前半)によると、「筑前国早良郡」には毘伊(ひい)、能解(のけ)、額田(ぬかだ)、早良(さわら)、平群(へぐり、福岡市西区羽根戸から金武付近)、田部(たべ)、曽我(蘇我)の7郷があったと記されている。

 ここでも平群氏などは大山祇神を祀っていたのでしょうか。現在でも付近に大山祇神社が二社鎮座している。飯盛山の飯盛神社は早良郡総社だったようです。高皇産霊神の子・天太玉命が伊弉冊尊を祀った。中宮には五十猛神が祀られている。

 五十猛神は白日別神(筑紫の神)、筑紫の国魂といわれている。白木神社(西浦、草場、糸島市王丸)、潤(うるう)神社(糸島市潤)、五十猛神社(金武)などに祀られている。紀の国(和歌山県)一宮の伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)にも祀られている。和歌山県には地名に伊都郡がある。五十猛尊(160年頃-220年頃)は伊都国王だったのでしょう。配下に魏志倭人伝に記載の一大率も置いた。

 大和の平群神社は近世には興福寺の影響下に入り、「春日大明神」と呼ばれていた。また現在の社務所の位置に神宮寺として西宮蜜寺があったが、明治政府の神仏分離令により西隣に移り来迎寺となっている。

   鳥居と社号標、階段の上に割拝殿。
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   社務所
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   拝殿
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   拝殿から下を望む、江戸時代製の燈篭が多い。
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   本殿
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   本殿の左に境内社(天照大神)
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   拝殿に掲げられた昔の平群村(へぐりむら)の写真。
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   現在の平群町を望む。
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   神社の西へ歩いて直ぐの西宮古墳(平群谷を代表する古墳)
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   西宮古墳の横に平群中央公園があり、イチョウの木が少し黄色くなってきた。
   この日は9月12日です。
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by enki-eden | 2014-11-03 00:15