古代史探訪

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熊鰐(くまわに)

 日本書紀によると、14代仲哀天皇8年春1月4日(西暦360年頃)、仲哀天皇と神功皇后が穴門豊浦宮(下関市長府宮の内、忌宮神社、いみのみやじんじゃ)から筑紫に行幸した時、岡県主(おかのあがたぬし)の祖・熊鰐が大きな賢木(さかき)を根こそぎにして船の舳(へさき)に立て、上枝には白銅鏡をかけ、中枝には十握剣をかけ、下枝には八尺瓊をかけて、周芳(すわ)の沙麼(さば)の浦にお迎えした。
 熊鰐は御料の魚や塩をとる区域を天皇に献上した。六連島(むつれじま、山口県下関市)、藍島(あいのしま、北九州市小倉北区)などを献上したので、熊鰐は岡県主となる。

 熊鰐が仲哀天皇に献上した六連島と藍島は関門海峡の西に位置しているが、熊鰐の勢力地は周防灘周辺から響灘周辺に及んでいた。

 熊鰐は岡県主となるが、「岡」とは遠賀川(おんががわ)の「遠賀」のことです。現在でも福岡県遠賀郡岡垣町三吉に熊鰐の子孫で「熊鰐」姓の家が3世帯ある。熊鰐の93代目の方が当地で西円寺の住職をしておられる熊鰐薫修氏である。
   赤のアイコンが遠賀川、緑が藍島、紫が六連島、黄が穴門豊浦宮。


 仲哀天皇が穴門豊浦宮に滞在したのは、本州と九州が陸続きだったので穴門の地を開削して船を通行できるようにするのが目的だった可能性がある。そして、神功皇后が開削成就を祈願して、長府沖の満珠・干珠(まんじゅ・かんじゅ)二島に、干満如意の二玉を埋蔵した。二島は忌宮神社の飛び地境内になっている。
 実際に開削工事にあたったのは当地を領有する岡県主の祖・熊鰐一族だったでしょう。

 また、熊鰐の子孫は、豊山八幡神社(北九州市八幡東区春の町)と春日神社(北九州市八幡西区藤田)の宮司にもなっておられる。現在は「波多野」姓になっているが、両家に中世から伝わる古文書10通は波多野文書として市指定有形文化財になっている。

 熊鰐は帆柱山(488m、北九州市八幡東区)の大きな杉の木を切って、神功皇后の船の帆柱を造ったと伝えられる。八幡東区には「帆柱」の地名も残っており、帆柱稲荷神社も鎮座している。
 帆柱山の東の皿倉山(622m)に神功皇后が登って国見をしたという伝説から国見岩があり、この故事を詩人の野口雨情(1882年-1945年)が歌にした石碑もある。
   くきの海辺の船もよい 船も帆がなきゃ行かれない お供についた熊鰐が
   山で帆柱切りました その時切った帆柱は 帆柱山の杉でした
 地元の人は皿倉山を帆柱山とも云うらしいので、ややこしいですなぁ。

 彦火火出見(初代神武天皇)が西暦204年頃に筑紫から大和に東征を開始した。日本書紀によると、『日向(ひむか)より出発して筑紫国の宇佐に着くと、宇佐国造の祖・宇佐津彦と宇佐津姫の二人が宇佐の川のほとりに一柱騰宮(あしひとつあがりのみや、足一騰宮)を造って、おもてなしをした。そこから筑紫国の岡水門(おかのみなと)に着かれた。』とあります。
 彦火火出見は岡田宮(岡田神社、北九州市八幡西区岡田町)に詣で、高皇産霊神など天神地祇を祀り、この地に1年間滞在した。高皇産霊神については、2014年11月23日の投稿記事をご覧ください。

 岡田宮は熊鰐の祖神を祀る神社で、この地を「熊手」と号す。現在では黒崎熊手地区50余町の産土神と崇敬され、広く北九州圏一帯よりの参詣が多い。
 祭神は中殿(岡田宮)に神日本磐余彦命(神武天皇)、右殿(熊手宮)に大国主命、少彦名命、県主熊鰐命、左殿(八所宮)には八柱の神が祀られている。
 八所宮には高皇産霊神をはじめとして事代主神も祀られている。事代主は摂津国で「八尋熊鰐」に化けて玉櫛媛に通った。生まれた子は媛蹈鞴五十鈴媛で神武天皇の正妃となる。
   赤のアイコンが岡田宮、黄が春日神社、青が豊山八幡神社。


 熊鰐の勢力地は阿曇や宗像に近く、宗像氏は出雲の大国主を祖神とする。安曇と熊鰐の先祖は綿津見豊玉彦で海神だった。熊鰐、安曇、海部、宗像などは同族の海人族だったのでしょう。
 熊鰐の勢力地である遠賀川の上流には、鮭神社が鎮座。鎮座地は福岡県嘉穂郡嘉穂町大隈(おおくま)で、祭神は豊玉毘売命である。豊玉姫は綿津見豊玉彦の娘で出産の時に八尋熊鰐になっている。豊玉姫の孫が神武天皇となる。

 神功皇后新羅遠征(362年)の時、和珥氏の難波根子建振命が丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍した。建振熊命は丹波国造となり、15代応神天皇の時に海部(あまべ)の姓を与えられる。建振熊命は和珥氏であるが海部氏の系図にもはめ込まれている。

 また、筑紫の伊都県主(いとのあがたぬし)の祖・五十迹手(いとて)は仲哀天皇がおいでになるのを聞いて、大きな賢木を根こそぎにして、船の舳(へさき)に立て、上枝には八尺瓊をかけ、中枝には白銅鏡をかけ、下枝には十握剣をかけて、穴門の彦島にお迎えした。
 仲哀天皇と神功皇后は儺県(なのあがた、福岡市博多区)に着き、橿日宮(かしひのみや、香椎宮)に滞在した。
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by enki-eden | 2015-02-26 00:13

関門海峡は陸だったのか

 穴門・穴戸(あなと)は関門海峡のことであり7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半には長門国と改めた。関門海峡は元々陸続きであった。

 本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
 それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

 平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

 船島(ふなしま)の住所は山口県下関市大字彦島字船島となっている。巌流島と云った方が判りやすいでしょう。1612年、船島で宮本武蔵(1584年?-1645年)と決闘をした佐々木小次郎(1585年?-1612年)が「巌流」を名乗ったことから、船島は巌流島とも云われる。
   赤のアイコンが船島、黄が彦島。


 山口県下関市彦島迫町に鎮座の彦島八幡宮(祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇)の由緒説明によると、
 『古代は、関門海峡は門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴が開いていて外海と内海の潮が行き来していた。
 いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、「穴門、あなと」と呼んだ。日本書紀の仲哀記にも「穴門の国 引島」と記載されている。後に山口県の西半分を長門の国と云うようになりますが、それは、この「あなと」が「ながと」に訛ったのだと云われている。
 約千八百年前、九州に向われるため長府の豊浦宮を出発された仲哀天皇と神功皇后のお船が穴門にさしかかると、不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来たと云われている。このとき、海に落ちた下関と門司の間の山は、激しい急流に押し流されて西へ流れ一つの島になった。ちょうどそのありさまが、海峡を作るために山が引きさかれたように見えたので「引島、ひこしま(彦島)」と名づけたそうである。』とあります。

 「不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来た」というのは旧約聖書の出エジプト記に、モーゼ率いるユダヤの民が潮の引いた紅海を渡りきると、エジプトの追討軍が渡り始めたが、たちまち潮が溢れてエジプト兵が溺れるという記述を思い浮かべます。
 聖書の知識は6世紀にやってきた波斯人(ペルシャ人)によってもたらされたので、574年出生の聖徳太子の厩戸皇子(うまやどのみこ、キリストは馬屋で生まれた)の幼名が名付けられた。
 記紀の成立した8世紀には更にペルシャ人がやってきた。736年にやってきた李密医(翳)は光明皇后に仕えた。正倉院御物にペルシャ系文物が多い。
 ペルシャ商人によりキリスト教(景教)やゾロアスター教(マズダー教)も伝えられた。

 応神天皇の時、西暦400年前後に秦氏がやってきたが、秦氏はユダヤ系ペルシャ人だったかもしれない。 聖徳太子(574年-622年)に仕えた秦氏に秦河勝がいる。聖徳太子が亡くなると秦河勝は身の危険を避けるために、播州赤穂に逃れ当地の発展に尽くした。河勝は大避神社に祀られている。
 大避神社については2012年12月29日投稿の記事をご覧ください。

 関門海峡の話に戻ると、一説では「14代仲哀天皇は5年余りの歳月を掛けて、舟が通過できるように穴戸の開削工事を行った。」と云われている。
 仲哀天皇の父は日本武尊で、熊襲退治や東国遠征で活躍した英雄です。仲哀天皇もその血を引いているのか、熊襲退治に執念を燃やしている。軍事的に本州と九州の間の交通を便利にする必要があった。引き潮になると通行できない海では軍の機動性を発揮できない。
 関門海峡がいつでも航行できるようになって制海権を握ると、多くの豪族が仲哀天皇(320年頃-362年頃)・神功皇后(321年-389年)に靡くようになり、熊襲退治に専念できた。

 神功皇后系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 仲哀天皇・神功皇后の宮は「穴門豊浦宮」(下関市)と「香椎宮」(福岡市)である。
 豊浦宮は関門海峡を統制できる立地にある。当地には忌宮神社(いみのみやじんじゃ、祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇)が鎮座している。
 前の海には忌宮神社の飛び地境内である満珠島、干珠島があり、海峡の干満を管理するに相応しい。豊浦宮周辺は邪馬台国女王臺與(235年頃-295年頃)一族の本拠地であった可能性がある。

 1185年の長門国赤間関壇ノ浦(下関市)の海戦では、源氏側が満珠島・干珠島を拠点としたように軍事拠点に適している。平家がこの海戦に敗れて滅亡し、源頼朝(1147年-1199年)が1192年に征夷大将軍となり鎌倉幕府が成立した。
   赤のアイコン忌宮神社、黄が満珠島、緑が干珠島、紫が壇ノ浦。


 博多湾に面した香椎宮は北と東が山、西が海、南は多々良川で天然の要塞に相応しい。香椎宮近辺の山沿いの高台には奴国王兼邪馬台国女王卑弥呼(179年頃-247年頃)の宮があった可能性が非常に高い。


 神武天皇(180年頃-245年頃)が宇佐(大分県宇佐市)から岡水門(おかのみなと、福岡県遠賀郡芦屋町)へ行く際、日本書紀には難関の穴門(関門海峡)を通過したことは記されず、宇佐から岡水門へ陸行したような書き方になっている。
 岡水門から大和へ東征を始めた時も穴門の難関は記されず、安芸国・吉備国へ行ったと記されているだけである。
 これは神武天皇の東征開始当時(西暦204年頃)には穴門(関門海峡)を船では行けなかったことを物語っているのかもしれない。

 その後、12代景行天皇(285年頃出生)が熊襲退治に向かったが、関門海峡を航行した記録がない。南方経由で襲国(日向、宮崎県)から火国(熊本県)へ行っている。帰りも襲国から大和国へ戻っている。
 景行天皇の皇子・日本武尊(300年頃出生)も熊襲退治に向かったが、関門海峡を航行した記録がない。 当時は碩田国(おおきたのくに、大分県)か襲国から火国へ行ったのか。

 関門海峡の一番狭い所は壇ノ浦と和布刈(めかり)の間の「早鞆(はやとも)の瀬戸」で、約600mである。海峡の狭さ、潮流の速さ・方向、船舶の混雑により、現在でも関門海峡を通過する船舶は水先案内人の同乗が義務付けられている。それだけ難所ということで事故も発生し易い。
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by enki-eden | 2015-02-22 00:08

廣田神社(大阪市浪速区)

 大阪市浪速区日本橋西2丁目4-14  電06-6641-1771
 祭神 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神の荒魂)
 (つきさかきいつのみたまあめさかるむかつひめのみこと)
 今宮戎神社の直ぐ北に鎮座。



 天照大神の荒魂と祓戸神の瀬織津姫は同じ神という説がある。大阪市中央区の御霊神社の祭神は天照大神荒魂で瀬織津比売神と同じとされている。1月26日投稿の「御霊神社」をご覧ください。
 西宮の廣田神社の祭神も天照大神荒魂です。2013年5月18日の投稿をご覧ください。

 両方の廣田神社も創建の由来は、『神功皇后が新羅遠征の帰途、船が海中をぐるぐると廻り、進まなかったので、占いをたてたところ、天照大神から摂津国の廣田の杜に祀れとの神告があり、この廣田の地に天照大神の荒魂を祀った』とある。
 当社の江戸時代の境内は広大な森であったようだが、現在は小規模になっている。

   入り口の鳥居と社号標
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神使いは「アカエ」。 エイに願い事をすれば叶うという信仰は、神戸市長田区の長田神社にもあります。
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   手水舎
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   拝殿
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 大阪府神社庁が川端康成の短編小説集「掌の小説」より「一人の幸福」の一節を紹介しています。
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   本殿
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   祖霊社
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  摂社の赤土稲荷神社(赤土稲荷大神、米倉稲荷大神、楠稲荷大神)
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by enki-eden | 2015-02-18 00:09

今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)

大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10  電06-6643-0150
祭神 天照皇大神、事代主命(戎さま、えべっさん)、素戔嗚尊、月読尊、稚日女尊。
四天王寺西方の鎮護神で商売繁盛、満願成就、福徳円満。
1月例祭は9日「宵えびす」・10日「十日えびす」・11日「のこり福」。



 33代推古天皇の時代、593年に聖徳太子が四天王寺建立を開始したので、四天王寺西方の鎮護として祀られたのが始まりで、西暦600年頃に四天王寺の1.4km西に創建された。

 市場鎮護の社として崇敬され、大阪が商工業都市に発展するに伴ってその守護神として親しまれた。
 1月10日の例祭は十日戎と呼ばれ、江戸時代から大阪年中行事の一つに挙げられている。1月9・10・11日の3日間の例祭で約100万人の参詣者があり、大変な賑わいをみせる。 
 「商売繁盛で笹もって来い!!!」

 笹について神社の説明によると、『竹のもつ清浄さ、根強さ、節により苦難に耐え忍ぶ姿、冬も 青々とした葉を付け、更に竹林の生命の無限性、旺盛な繁殖力など、そこに強い生命力と神秘性を感じとり、神霊が宿るとさえ信じていました。
 こうした日本人の竹に対する感性が、色々な神事に笹が用いられることになり、竹取物語のかぐや姫が、竹から生まれるのも同様の信仰から基づいたものです。
 十日戎の笹も例外ではありません。常に青々とした葉をつけているところに、「いのち」を生み出し続け、「いのち」を常に甦らせている神秘性、その姿は、神道の信仰そのもので、神々のご神徳によって、日々「いのち」が甦り、生成発展している姿を象徴しています。』とあります。

 戎さま(事代主命)は、左脇に鯛を右手に釣竿を持っており、本来は漁業の守り神である。当社もかつては海岸沿いにあり、海の産物と里の産物が物々交換される「市」が開かれていた。
 その市の守り神として戎さまが祀られるようになった。福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても信仰されるようになった。

   三輪鳥居(三つ鳥居)
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   社務所
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   拝殿
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   本殿
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   本殿裏にも拝所があります。 私は神社に参拝すると裏からも拝みます。
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   拝殿右に摂社の大国社(大国主命)
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本殿後方に末社の稲荷社(宇賀御魂神)
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 「えびすの神」は、当社のように事代主命とする神社と、蛭児命とする神社の2系統がある。そして少彦名命とする神社もある。事代主命と蛭児命の両方を祀る神社もある。
 事代主命を「えびすの神」とする神社の総本社は島根県松江市の美保神社で、今宮戎神社も事代主命を祀る有名な戎神社です。
 蛭児命を「えびすの神」とする神社の総本社は兵庫県西宮市の西宮神社です。2014年11月30日と12月4日の投稿をご覧ください。

 祭神の稚日女尊は神戸市中央区の生田神社でも祀られています。2013年4月17日の投稿をご覧ください。
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by enki-eden | 2015-02-14 00:37

敷津松之宮(しきつまつのみや、大国主神社)

大阪市浪速区敷津西1丁目2-12   電06-6641-4353
地元では「木津の大国」さんと呼ばれている。
祭神 素戔嗚大神、大国主大神、
    八柱皇子神、奇稲田姫神、事代主神、少彦名神。
商売繁昌、縁結び、交通安全、浪速七福神。

地下鉄「大国町駅」すぐ北、国道25号線(四ツ橋筋)沿いに鎮座。

 神功皇后(西暦321年-389年)が新羅遠征からの帰途(西暦362年)、敷津の浜に松を3本植えて、松の下に素戔嗚尊(西暦140年頃出生)を祀り航海安全と海が荒れないように祈ったのが始まり。これにより松之宮と云われる。

 古くは祇園社、牛頭天王社などの社名があり、明治になると八坂神社と改称された。明治20年頃に現社名「敷津松之宮」になった。

     ご朱印
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   南の入り口、神額と社号標は「敷津松之宮」で正面に拝殿が見える。
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   国道から東の入り口、社号標は「大国主神社」で正面に大国社が見える。
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   手水舎
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   拝殿
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   拝殿内の額、「水滴穿石」(水したたりて石をうがつ)。 点滴穿石と同じ意。
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   本殿
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 摂社の「日出大国社」、1744年に神託があり出雲大社から大国主大神が勧請された。
 神使いは「ねずみ」で、右の「ねずみ」は米俵に足を掛け、左は打ち出の小槌を持つ。
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   楠稲荷社
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   白龍明神社
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   木津勘助の銅像
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by enki-eden | 2015-02-11 00:12

真脇遺跡(まわきいせき、石川県鳳珠郡能登町字真脇)

 縄文時代、6000年前から2300年前までの4000年に近い長期定住集落遺跡である。竪穴住居跡、彫刻柱、縄文土器、炉跡、土壙、環状大溝などが出土し、真脇遺跡公園として整備されている。
 採集・漁労の生活集落跡で多くの出土物があり、最古の土面も注目される。37,600㎡が国の史跡に指定され、出土物の内219点は国の重要文化財になっている。
 船は出土していないが船の櫂(かい)や遠隔地からの土器、玉が出土しており、各地との交易があった。大量のイルカの骨が出土しているのでイルカ漁が盛んであった。


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 中でも興味深いのは、直径50cmから100cmの太い栗材を縦に半分に割り、10本を半円状に並べた「環状木柱列」である。約2800年前の地層からの出土で、木の丸い方を円の内側に向けている。
 直径7.5m、6.2m、5.3mの3基が検出され、復元されている。この形式の木柱列は石川県金沢市(チカモリ遺跡)、新潟県糸魚川市(寺地遺跡)、富山市古沢(古沢A遺跡)、長野県原村(阿久遺跡)などがある。
 イギリスで4000年以上前にケルト人によって造られたストーンヘンジ(ストーンサークル、環状列石)に似ているのではないか。
 これらは太陽信仰と関係しているのか、日時計や暦なのか、定説には至っていない。

 真脇遺跡は入江(真脇湾)に面し、海岸から10mほど小高くなった丘陵地にある。盛り土による集団墓地も確認されている。約4500年前の地層から板敷き土壙墓が4基見つかっている。
 周辺には真脇遺跡縄文館(電 0768-62-4800)があり、出土物を見学できる。20年ほど前に天皇皇后両陛下が訪問された。
 そのほか、子どもたちが野外で楽しめる「加夢加夢ランド」があり、「真脇ポーレポーレ」(電 0768-62-4700)では食事、宿泊、真脇温泉などを利用できる。

 石川県能登町教育委員会は1月22日、真脇遺跡で「ほぞ状の突起」がある縄文時代晩期(約3000年前)の「角材」が見つかったと発表した。
 「ほぞ」が付いた木製品は縄文時代後期の遺跡で見つかることがあるが、いずれも木材は丸太で角材ではなかった。真脇集落の木材加工技術の進歩が窺がわれ、高い建築技術を持っていたことが分かる。
 角材は横たわった下半分がまだ土中に埋まっているが、全長は約91cm、幅約16cm、厚さ約7cm。片方の先端に長さ約10cm、幅約6cmの「ほぞ」を備えていた。別の木材の「ほぞ穴」に挿し込んで木材を組み合わせていたことが分かる。

 当時の住居は丸い材木を縄で縛って造る竪穴住居が主流であったので、この出土した木材は神殿などに使ったのでしょう。祭祀遺物も見つかっている。
 材質は腐食に強い針葉樹のアスナロで石川県・富山県では「アテ」と呼ぶ。変形やヒビを抑えるために木の芯を避けて切り出されていた。(芯去材、しんさりざい)
 鉄器のない縄文時代だから、鋭利な青銅器や石器で木材を加工したのでしょう。しかし、三内丸山遺跡や真脇遺跡の木製品の美しい仕上がり具合を見ると鉄器もあったのではないかと考えられる。少なくとも褐鉄鉱ならあったでしょう。
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by enki-eden | 2015-02-07 00:07

縄文時代のイメージ変化

 青森県青森市の縄文遺跡・三内丸山遺跡(さんないまるやま、特別史跡)では、1600年の長い期間に亘る縄文人の生活が続き、780棟を超える住居跡が発見された。
 5500年前から4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間に亘り定住生活が営まれていた。縄文時代は採取活動や獲物を追って移動生活をしていたと考えられていたが、縄文時代のイメージが大きく変わることになる。




 全体では370,000㎡以上の広大な土地に巨木を使った大型建物跡があり、最大のもので長さ32m、幅10mもある。
 10棟以上の大型竪穴住居跡、高床式倉庫などが発見され、貯蔵穴、道路跡、ストーンサークル、墓、盛り土などがあり、長期間の安定的で計画的な生活が営まれていたことが分かる。
 巨大な6本の栗の柱があるが、祭祀施設なのかランドマークだったのか用途がはっきりしない。

 栗(クリ)林の育成や胡桃(クルミ)、橡(トチ)、瓢箪・ごぼう・豆などの有用植物の栽培も行われていた。
 この三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石、岩手県久慈産の琥珀、秋田県産のアスファルト、新潟県姫川産の翡翠など遠隔地との交易を示す遺物も出土しており、安定した生活基盤を背景に、遠方地域との交流・交易が行われていた。
 また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、装身具、木器、骨角器なども出土している。

   三内丸山遺跡のパンフレット(板状土偶)
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 そして、岡山県内で相次いで明らかにされた縄文遺跡発掘調査や研究の成果は、さらに多くの情報を付け加えるものである。岡山県古代吉備文化財センターの河合 忍氏によると、

 『その重要な成果の1つは縄文時代にさかのぼるコメの存在であり、もう1つは列島規模の交流を具体的に物語る考古資料の存在である。
 コメについては、1992年に調査された岡山県南部の総社市南溝手遺跡の調査成果がまず挙げられる。ここでは縄文時代後期後葉(約3500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見された。ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。

 この籾痕土器のほかに、コメが作られていたことを示す証拠にはプラント・オパールがある。プラント・オパールは、コメやススキなどのイネ科植物の葉の細胞にできる植物珪酸体とよばれるガラス質細胞のことである。
 プラント・オパールは植物が枯れた後も半永久的に土壌に残るため、コメが存在していたかどうかを調べるためによく用いられる試料である。このプラント・オパールは800℃の熱にも耐えて残るため、土器の胎土に混入したものも調べることができる。

 土器の胎土中から検出されたイネのプラント・オパールについては、後世の混入の心配がなく、信頼性の高い資料である。最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の事例があり、このほかに縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
 (DNAの観点からも、縄文時代に江南人が稲などを交易品として吉備、有明海にやってきていた。吉備の人のDNAは縄文人の比率が全国の半分以下である。2012年12月31日の投稿「古代史とDNA」をご参照ください。)
 
 列島規模の交流については、多様な地域との交流を物語る遺物が出土した岡山県北部の奥津町久田堀ノ内遺跡の調査成果が注目される。
 出土物の中には、東北から北陸・関東・近畿・九州地方との関わりを示す約3000年前の土器や北九州産の可能性のある玉のほか、新潟県姫川産の翡翠、香川県産のサヌカイト、島根県隠岐島産の黒曜石などが含まれている。遺物の動きの背景には、人の動きが当然想定されるのであり、列島規模で活動した縄文人の姿が思い描かれる。

 この交流における移動手段についても、久田堀ノ内遺跡の事例は示唆に富んでいる。当遺跡では、続く弥生時代以降も日本海側の物資や情報が盛んに入ってくることが明らかになっていることから、交流ルートの1つは日本海-天神川-吉井川が、もう1つは後期の関東系の土器が久田堀ノ内遺跡のほか、吉井川を下った位置にある県南部の津島岡大遺跡からも出土していることやサヌカイトの分布状況などから、太平洋-瀬戸内海-吉井川がそれぞれ想定できる。
 このことから、縄文時代の長距離の交流は、舟を用いて海・河川を利用するものが主体的であったと考えられる。

 弥生時代になって本格的な水田稲作が伝わって、列島内に瞬く間に広がった背景には、縄文人がコメの有用性を熟知していたことに加え、こうした広域の交流が行われ、情報網というべきものが形成されていたことも一因としてあると考えられる。』と河合 忍氏は発表されている。
 河合氏所属の「古代吉備文化財センター」については、2013年9月6日の投稿をご覧ください。

 プラントオパールの調査により、江南の熱帯ジャポニカが縄文時代から列島に伝わり、その中心は瀬戸内海沿岸の吉備の国と九州の有明海周辺であった。弥生時代になって本格的に伝わった稲の種類も熱帯ジャポニカであった。
 日本人のDNAの調査によっても、吉備の国と有明海周辺が縄文時代から江南人のDNAを受けている結果が出ている。特に吉備では呉系と楚系及び漢系が多い。縄文系は全国平均の半分しかない。
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by enki-eden | 2015-02-03 11:13