古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

<   2015年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

事代主神

 事代主神は皇居の宮中三殿に祀られている。
 宮中三殿の中央は賢所(かしこどころ)で皇祖神天照大神(御霊代の八咫鏡で伊勢神宮のご神体の別御霊)を祀る。向かって左に皇霊殿(歴代天皇と皇族の御霊)、右に神殿(天神地祇)があり、皇室の祭祀が行われる。


d0287413_9571991.jpg

 「神殿」には天皇を守護する八神が祀られており、天神地祇の総ても共に祀られている。「八神」は神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神である。
 八神を祀る神殿を昔は「八神殿」としていたが、明治になって総ての天神地祇(八百万の神)も共に祀り、「神殿」となった。

 事代主神は辞代主神、八重事代主神、八重言代主神とも云う。託宣の神で、父は大国主神、母は神屋楯姫。
 事代主神が八尋熊鰐になって摂津の玉櫛姫(三島溝杭姫、鴨建角身命の娘)に通い、生まれた子は天日方奇日方命(三輪氏の祖)、姫蹈鞴五十鈴姫(初代神武天皇妃)、五十鈴依姫(2代綏靖天皇妃)。
 天日方奇日方命の娘が渟名底仲媛で3代安寧天皇妃となり、4代懿徳天皇を産む。

 出雲の国譲り(西暦200年頃)は大国主(160年頃出生)と沼河姫の子の建御名方が認めなかったので、建御名方は力づくで諏訪に封じ込められた。事代主が国譲りを承知したので、大国主も承諾した。
 出雲国風土記に建御名方の名はないが、大穴持命(大国主)と奴奈宣波比売(沼河姫)の子に御穂須須美命が記されているので、御穂須須美命が建御名方でしょうか。
 事代主神も母の神屋楯姫も出雲国風土記に記されていないので、出自は宗像か遠賀川地区でしょう。
 出雲の国譲りの「出雲」、「葦原の中つ国」は出雲国(島根県)ではなく、宗像国(筑前国宗像郡)から豊前国に至る出雲族支配地域のことかもしれない。

 大和国葛城では鴨族が事代主命を祀っている。奈良県御所市の鴨都波神社の祭神は積羽八重事代主命である。2012年12月19日の投稿記事をご覧ください。
 2014年12月20日投稿の「河俣神社」、2013年5月1日投稿の「長田神社」もご参照ください。

 島根県松江市美保関町の美保神社の祭神は三穂津姫命(左殿、高皇産霊神の娘で大国主神の妃)と事代主神(右殿)で、全国で事代主神を祀る神社の総本宮となっている。
 左殿は三穂津姫命なので千木は水平切り、右殿は事代主神なので垂直切りになっている。鰹木はどちらも3本です。これは男神・女神に関わらず出雲系神社の鰹木は出雲大社を始めとして3本が多いので、鰹木で性別は計れない。

 事代主神は釣りが好きだった。海人族なので釣りは趣味というよりも仕事だったのでしょう。漁業・海運の神である事代主神は「釣り好きのえびす神」であるが、「鳴り物」も好きだったので美保神社には楽器の奉納が多い。

 京都の八坂神社の境内社にも蛭子社(えびすしゃ、事代主神)があり、1月の蛭子社祭(祇園えびす)は大変な賑わいになります。

 また、事代主神は出雲の国譲りの後は美保関(島根県松江市)に引き篭もったが、朝に鶏が早く鳴きすぎて、あわてて船を漕ぎ出した事代主神は船の櫂を失い、足で漕いでいたところを鰐(ワニザメ)に噛まれて怪我をしたと云う伝承がある。
 それで事代主神は鶏が嫌いになったと云うが、朝寝坊だったので鶏の鳴き声がうるさかったのでしょう。

 熊の事代主がに足を噛まれると云うのは、古代人の言葉遊びだと思いますがねぇ・・・
 比良明神の猿田彦が比良夫貝に手を挟まれて溺れたというのも同じだと考えられます。現代でも大阪人は言葉遊びが好きですよ。関東人はあまり興味がなさそうです。
 言葉遊びは日本に限らず、シュメール、古代ギリシャ、ローマなど世界中にあったようです。ハワイやアフリカのスワヒリにまで。

 神仏習合の時代に金刀比羅宮(香川県仲多度郡琴平町)の大物主神とインドのクンピーラ神(金毘羅、こんぴら)が習合して航海安全の神・竜神として信仰された。
 クンピーラ神はガンジス川の鰐が神格化されたもので、鰐と云えば大物主神よりも事代主神の方が近いと思いますがねぇ。「ことひら」と「ことしろ」も発音が似ているし・・・

 えびすの神は七福神の一柱で右手に釣竿を持ち、左手に大きな鯛を抱えた姿がお馴染みですが、事代主神を祭神とする神社と蛭子命(ひるこのみこと)を祭神とする神社に分かれます。少彦名命を祭神とする神社もあります。

 海岸に流れ着く鯨やイルカなどの漂着物は多くの人々に利益をもたらすので、「寄り神」として信仰され、それを「えびす」と云った。
 そして日本書紀によると、「伊弉諾尊と伊弉冉尊の最初の子が蛭児(ひるこ)だったので、葦船に乗せて流した。次に淡洲(あわのしま、淡路島)を生んだ。」とあります。従って、淡路島から瀬戸内の本州側に流れ着く神を蛭子の神として祀った地域が多くあります。その代表が兵庫県西宮市の西宮神社です。
 全国的にも沿岸地域では寄り着く神が信仰され、えびすと蛭子が合わさってえびす信仰となっていった。
[PR]
by enki-eden | 2015-03-31 00:10

猿田彦命

 猿田彦命は白鬚(しらひげ)大明神として、航海安全、長寿、農耕の神として全国的に信仰されている。比良明神、岐神(ふなとがみ)、白日神とも言われる。
 猿田彦命の系図を見ると、猿田彦命と白日神が同一とは考えにくいですがねぇ・・・
 それとも麻須羅神は大歳神でしょうか。
 
d0287413_17131590.jpg

 佐太大神の母親は枳佐加比売ですが、父親が判らないので占い(誓約)をして決めた。誓約については2013年1月2日投稿の「盟酒、うけいざけ」をご参照ください。

 猿田彦を祀る神社は猿田彦神社(三重県伊勢市宇治浦田町)、椿大神社(三重県鈴鹿市山本町)、都波岐奈加等神社(三重県鈴鹿市一ノ宮)、伏見稲荷大社(京都市伏見区深草薮之内町)などがあり、全国各地に塞(さえ)の神・道祖神として祀られている。道祖神は猿田彦と妻の天鈿女が対になって石に刻まれることが多い。
 猿田彦神社の1.4km南に伊勢神宮内宮が鎮座しています。

 猿田彦は伊勢の海人族・宇治土公家が祖神として祀っていた太陽神である。現在でも宇治土公家は三重県伊勢市の猿田彦神社の宮司家として続いている。
 同じように鈴鹿市の椿大神社の山本宮司も猿田彦の子孫と称している。

 また、猿田毘古神は、出雲国風土記に登場する佐太大神であると考えられている。生まれたのは加賀の潜戸(くけど、松江市島根町加賀)という海岸の洞窟の中で、母は神魂神(出雲の祖神で伊弉奈彌命か)の娘の枳佐加比売です。
 その佐太大神を祀るのは島根県松江市鹿島町佐陀宮内に鎮座の出雲国二の宮・佐太神社(神在の社、かみありのやしろ)で、主祭神が佐太大神(猿田毘古大神)となっている。明治政府から祭神を猿田彦命と明示するように言われた時には拒否しているが、その後、政府に押し切られたのか同意した。
 神社の伝承にないということは、佐太大神と猿田毘古大神は別神かもしれない。
    赤のアイコンが佐太神社、黄が加賀の潜戸。


 日本書紀によると、出雲の国譲りが決まった時(西暦200年頃)に、大己貴神(おおあなむちのかみ)は岐神(ふなとのかみ、猿田彦神)を、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)の二神に勧め、「これが私に代わってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します。」と云って隠れたとある。
 猿田彦は大国主と少彦名を先導して各地を巡り、国土開発の協力をしていたが、国譲りの後は経津主神が猿田彦神(岐神)を先導役として、各地を巡り平定した。

 邇邇芸(ににぎ)命の天孫降臨の時、猿田毘古神が天の八衢(あめのやちまた)で待ち受けて、高天原と葦原中津国を照らしながら、天孫を日向へ先導した。

 日本書紀、古語拾遺や伊勢市の猿田彦神社由緒によると、猿田彦は岐(ふなど、くなど)神・塞の神と同神としている。更に中国から伝来した「道の神」である道祖神とも習合していった。
 黄泉比良坂(よもつひらさか)は、あの世とこの世の境界にある。猿田彦が比良明神と云われるのは、境界の神、塞の神であるからだと思われる。
 海人族に阿曇比羅夫、阿倍比羅夫がいるが、「比羅夫」は「比良」の「男」で、境界を塞ぐ海人だから、そう呼ばれたのでしょう。

 猿田彦は中世には庚申信仰とも結びついた。庚申信仰は中国の道教・陰陽道・仏教や日本の神道などの習合した信仰。
 猿田彦の「猿」と庚申の「申」が同じということ、また猿田彦が「幸神、さいのかみ、こうしん」と言われていた事から「こうしん」が同じということなどで習合されたのか。

 猿田彦大神を祀る三重県伊勢市の二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)では、『古来より、人々は当二見浦に詣で、夫婦岩の間から差し昇る「日の大神」と、夫婦岩の沖合700mの海中に鎮まる猿田彦大神縁りの霊石と伝えられる「興玉神石(おきたましんせき)」 を拝してまいりました。
 この伊勢の海清き渚より富士の山影を望み、その背から輝き昇る朝日、取り分け夏至の朝日を拝する神厳しさは筆舌に尽し難い感動を覚えます。』と伝えている。
 摂社に竜宮社(綿津見大神)があり、古来、伊勢神宮参拝の前に二見浦で禊を行うのが慣わしであった。

 猿田毘古神を祀る白鬚神社(しらひげじんじゃ)の総本社は、滋賀県高島市鵜川にあり、高島市には「鴨」という地名や鴨川も流れていて、鴨氏との関係が窺える。
 鵜川の隣りは「安曇川町、あどがわちょう」で、安曇氏とも関係がある。更に琵琶湖は息長氏の本拠地でもある。
 琵琶湖畔に鎮座する白鬚神社では、広島の厳島神社のように琵琶湖の中に赤い大きな両部鳥居が立っている。祭神は猿田彦大神で、この神社を本社とする白鬚神社は、全国各地で150社以上を数える。
 社伝によれば、11代垂仁天皇25年(4世紀前半)、倭比売命がこの地に来て社殿を創建とあり、その後、38代天智天皇(7世紀後半)の勅旨によって比良明神の神号を賜った。

 古事記によると、猿田彦神は伊勢国阿邪訶(あざか、阿坂村)の海(現:松阪港付近)で漁をしていた時、大きな比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。西暦230年頃でしょうか。
 大阿坂村と小阿坂村にはそれぞれ阿射加神社(あざかじんじゃ)が鎮座している。祭神は猿田彦神で、猿田彦神の3つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)の3座を祀り、本殿は3棟になっている。海人族は3を聖数とする。(住吉3神、綿津見3神、宗像3神など)
 比良明神の猿田彦が比良夫貝に手を挟まれて亡くなった。比良夫貝の話は本当でしょうか、それとも後付けの付会でしょうかねぇ。昔の人は言葉遊びが上手です。

 伊勢湾に面した当地は猿田彦の領地だったと思われる。4世紀初めに三重県多気郡明和町に伊勢の斎宮が設けられることになる。
   赤のアイコンが阿坂の海、黄が伊勢斎宮跡、青が伊勢神宮内宮。


 田彦神と八島士奴美神(清之湯山主三名狭漏彦八嶋野)の共通点は、狭漏(さろ)が猿に似ている。八島士奴美は八嶋(国土)を照らす神である。猿田彦は「上は高天原を照らし、下は葦原の中つ国を照らす神」である。

 佐太大神(猿田彦)の父親である麻須良神(ますらのかみ)は益荒神(ますらがみ、荒く猛々しい神)である。
「マシ」「マシラ」の古語であるので、佐太大神(田彦)の父親である麻須良神も猿。
 岐阜県瑞波市には明治30年まで爪(ましづめ)村があった。地名は変えない方が良いですねぇ。
 山ふかみ 苔のむしろの 上にゐて なに心なく 啼くましら(猿)かな   (山家集)
 心すむ 柴のかり屋の 寝覚めかな 月ふく風に ましら(猿)鳴くなり   (御室五十首)

[PR]
by enki-eden | 2015-03-28 00:09

九所御霊天神社(くしょごりょうてんじんじゃ、姫路市)

 「神屋天神社」  兵庫県姫路市大善町7  電079-284-0858
   無料駐車場ありますが、国道2号線からではなく、312号線から入ります。
 祭神 少彦名命(高皇産霊神の子、医薬・醸造の神)
     大山祇命、経津主命、菅原道真公、大物主命、猿田彦命、柿本人磨公、
     誉田別命(応神天皇)、大鷦鷯命(おおさざき、仁徳天皇)、以上9柱の神を祀る。

 創建  8世紀初め頃か

 1364年(貞治3年)、播磨国守護大名の赤松貞範が、播磨九所の松本天神社に市之郷御霊社を合祀し、「九所御霊天神社」と称するようになった。

 先日89才で亡くなられた人間国宝の落語家・3代目桂米朝(本名・中川清)の父と祖父が、昔は当社の宮司職であった。



   国道2号線から一の鳥居と社号標、奥に二の鳥居。
d0287413_1015223.jpg

d0287413_10152549.jpg

   説明板
d0287413_10153867.jpg

   神門の神額は両部額になっている。
d0287413_10155017.jpg

   遥拝壇
d0287413_1016319.jpg

   拝殿
d0287413_10161482.jpg

d0287413_10162460.jpg

   本殿。祭神は全て男神であるが、千木と鰹木は女神形式になっている。
d0287413_10164397.jpg

   境内社の八幡社(伊弉諾大神、天照大御神、大己貴神、猿田彦神、
          誉田別神、豊受大神、奥津彦神、奥津姫神、埴山姫神)
d0287413_10175112.jpg

d0287413_1018193.jpg

   大年社(大年神)
d0287413_10181235.jpg

稲荷社(加茂居稲荷神、白髭稲荷神、秀高稲荷神、蒼稲魂神、畑稲荷神、福富稲荷神)
d0287413_10183147.jpg

   厳島社(弁天社、市杵島姫神)
d0287413_1018429.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-03-24 00:08

壇場山古墳(だんじょうざんこふん)

 姫路市御国野町国分寺林堂
 壇場山古墳は全長約143mの前方後円墳で、後円部径83m、前方部幅約87m、5世紀前半築造、兵庫県第2位の大きさである。この時期は河内国で皇族の巨大古墳が出現し、各国の首長も大きな古墳を築造するようになる。
 兵庫県の前方後円墳で大きさが1位は神戸市垂水区の五色塚古墳、3位は篠山市東本荘の雲部(くもべ)車塚古墳です。

 壇場山古墳には葺石と埴輪が確認されており、くびれ部に造り出しがある。周濠西の外側には周庭帯がある。後円部頂上に組合せ式の長持型石棺の蓋部分が少し露出しているので石室はないようだ。石棺の石材は7.5km南東の竜山石である。

 壇場山古墳東側の民家の中に陪塚の林堂東塚古墳(第1陪塚、小円墳)と南西部に櫛之堂古墳(第2陪塚、20mの円墳)がある。
 北側には5世紀半ば築造の1辺約60mの大型方墳・山之越古墳(第3陪塚)があり、周濠、組合せ式の長持型石棺、葺石、埴輪、鏡、刀剣、玉類が出土した。
 これらの古墳は国の史跡に指定されている。周辺には更に7基ほどの古墳があったが、工場や住宅の建設で現在は消滅している。
 赤のアイコンが壇場山古墳、黄が山之越古墳、青が櫛之堂古墳、紫が林堂東塚古墳。

d0287413_8453710.jpg

 「壇場山」の名は神功皇后(321年-389年)が新羅遠征途中に当地へ立ち寄り、壇を築いて戦勝祈願をしたという伝承があるが、実際に祈願したのは当地ではなく麻生山(あそうさん)か宮山ではないでしょうか。
 神功皇后が麻生山(172m、別名小富士山)に登って、大己貴命に戦勝を祈り、事の始まりを告げるために3本の矢を放ったと云われる。
 宮山(高さ91m)の山腹には印鐸神社(祭神:神功皇后・大己貴命・武内大神)が鎮座、山裾には太神宮が鎮座する。国王神社、春日神社も鎮座している。
   赤のアイコンが壇場山古墳、黄が麻生山(小富士山)、青が宮山。


 壇場山古墳の被葬者は5世紀前半に亡くなった安倍氏系の針間国造だと考えられる。針間国造は12代景行天皇の皇子・稲背入彦(いなせいりひこ)命の孫・伊許自別(いこじわけ)命を初代とする。
 方墳の山之越古墳の被葬者はその子孫であると考えられる。8世紀半ばになると直ぐ近くに国分寺が建てられた。現在でも地名は「国分寺」である。

    前方部裾に「史跡壇場山古墳」の標識
d0287413_8565252.jpg

    後円部頂上に石棺の蓋が見える。
d0287413_8572176.jpg

d0287413_857401.jpg

    石棺近くから前方部を望む。
d0287413_8575513.jpg

d0287413_858926.jpg

    周濠部
d0287413_8582224.jpg

    櫛之堂古墳(20mの円墳、第2陪塚)、後方は壇場山古墳の後円部。
d0287413_8583556.jpg

d0287413_85847100.jpg

    山之越古墳(1辺約60mの大型方墳、第3古墳)
d0287413_8585891.jpg

d0287413_8591221.jpg

d0287413_901761.jpg

    頂上に石棺の蓋が露出している。
d0287413_903014.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-03-20 00:10

大年神社(姫路市東延末)

 兵庫県姫路市東延末(ひがしのぶすえ)町1丁目128
      電079-225-1792   駐車スペースあります。
 祭神 大年大神、若年大神、君田大神(大山咋神)。

 延末の南の字古宮に鎮座していたのを、1723年(享保8年)に現在の社地に遷座した。当時その傍らに黍田社(きびたしゃ、大山咋神)があり、共に合祀して大年神社と称す。



   鳥居の扁額は両部額。
d0287413_10295397.jpg

d0287413_1030849.jpg

    拝殿
d0287413_10302059.jpg

d0287413_10303026.jpg

    本殿、ユニークなデザイン。
d0287413_10304089.jpg

d0287413_10305134.jpg

    境内社の天満宮(菅原道真公)
d0287413_1031068.jpg

d0287413_10311043.jpg


  大年神(大歳神)系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_10263639.jpg

 大年(大歳)と饒速日(にぎはやひ)は同一人物で素戔嗚の子とする説があるが、先代旧事本紀によると正哉吾勝々速日天押穂耳尊(天忍穂耳)の子が天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(饒速日)と天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(瓊瓊杵)になっている。
 私は今のところ次の系図を念頭に置いており、大歳と饒速日は同一と見ているが、同一のようにも見え、別のようにも見えます。
 兵庫県には大歳神社(大年神社)が非常に多く390社ほどあり、非常に重要な神様になっている。
d0287413_10271169.jpg

  
 饒速日命(にぎはやひのみこと)
 古事記では邇藝速日命と記され、物部氏、石上氏、穂積氏、厚東氏、金子氏、熊野直などの祖神。
 饒速日命(邇藝速日命)は、物部氏の祖神名や先代旧事本紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と記される。この長い神名は物部氏側が、天火明命(海部氏・尾張氏の祖神)と饒速日命(物部氏の祖神)を同一視して両氏の同族を強調して繋げた神名と考えられる。

 海部氏や尾張氏側は同一視していない。両祖神は別神で、私見によると天火明命は140年頃出生の海人族、饒速日命は165年頃出生の製鉄族・製銅族で、子孫の物部氏は祭祀・軍事を司る。

 天火明命の子孫は天孫族、饒速日命の子孫は天神族で別神である。記紀において饒速日が天孫ではなく天神とされたので、天孫であることを主張するために、先代旧事本紀の作者(物部氏系)は饒速日を天照大神の孫として記したのかもしれない。

 記紀の成立した8世紀の大和朝廷は41代持統天皇と藤原不比等の時代である。記紀において素戔嗚は高天原から追放され、天津神から国津神に落とされてしまった。饒速日は素戔嗚の子であるので天神となる。
 9世紀後半に物部氏系により編纂されたと考えられる先代旧事本紀は記紀の記録をそれとなく修正・改定する意味合いを含んでいるようである。
 同じように807年に編纂された古語拾遺も斎部広成が忌部氏(斎部氏)の正当性を訴える要素を含んでいる。物部氏もこれに倣ったか。

 先代旧事本紀は天忍穂耳の子の系図では饒速日を記しており、素戔嗚の子の系図では饒速日の代わりに大年を記している。つまり饒速日と大年(大歳)を同一視しているのである。
                       *****

 テレビ番組ですが、BSジャパンの毎週土曜日昼12時から30分間「神社百景 GRACE of JAPAN」を私は見ています。
 前回と前々回は福岡市東区の香椎宮で、権禰宜の木下英大氏のお話でした。木下家は武内宿禰の子孫のようです。1,700年も先祖を辿れるのはすごいことです。
 次回は埼玉県川越市の川越氷川神社と三芳野神社です。
 全国の有名な神社をプロのカメラマンが撮影した美しい映像はさすがですねぇ。
[PR]
by enki-eden | 2015-03-16 00:22

生矢神社(いくやじんじゃ、姫路市)

 兵庫県姫路市手柄91  電079-297-6749  無料駐車場あります。
 祭神 大国主命、須世理姫命(素戔嗚命の娘、大国主命の妃)。
 ご利益は諸願成就、商売繁盛、五穀豊穣、良縁祈願、病気平癒など。

 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の際(362年)に、麻生山(あそうさん、172m、別名小富士山)に登り、戦勝を大己貴命に祈った。事の始まりを告げるために放った3本の矢の2本目がこの地に落ちたと云う伝承により、平清盛(1118年-1181年)が大己貴命を生矢大明神としてお祀りした。

 麻生山は当初大己貴命に因んで醜男山(しこおやま)と云われていたが、神功皇后伝承後は麻生山と変わった。麻生山麓には麻生八幡宮(仲哀天皇、神功皇后、応神天皇)、住吉神社、大歳神社、大年神社、祖道神社、光大寺八幡宮(品陀別命=応神天皇)など神社が多い。

 祭神の大国主命(160年頃-220年頃)は出雲国を本拠地として、北部九州の宗像国及び周辺国(葦原中津国)の王であったが、200年頃に高皇産霊尊から国譲りを強制され出雲国に戻った。子の事代主命は国譲りを受け入れたので子孫は大和国で主要豪族となった。国譲りに反対した建御名方命(たけみなかた、母は越の沼河比売)は追放され諏訪へ逃れたとされており、諏訪大社に祀られている。
 須世理姫命(165年頃出生)の母は佐美良比売で祓戸神(はらえどのかみ)の速佐須良姫とも云われる。

   赤のアイコンが生矢神社、黄が麻生山。


   南の入り口の社号標と奥に鳥居。
d0287413_1351146.jpg

 東の入り口、右の石柱に神紋の「丸に並び矢」、左に「丸に三本杉」が刻まれている。
d0287413_13512389.jpg

   手水舎
d0287413_13513494.jpg

鳥居と後ろの階段を昇ると拝殿へ。灯篭の宝珠部分は剣(矛?)になっている。
d0287413_13514425.jpg

拝殿、注連縄の向きが反対になっている。祭神が大国主命だから出雲大社と同じか。
d0287413_13515316.jpg

 絵馬が多い。両部額に「手柄山三和社」と記されている。背後の手柄山は元は三和山(三輪山)とも云われ、当社も三和山社(三輪山社)とも云われた。
d0287413_1352946.jpg

   拝殿内
d0287413_13521932.jpg

   本殿
d0287413_13522868.jpg

境内社は右に狭井社(天細女命、あめのうずめ)と
老翁社(おきなしゃ、太魂命)。左は若宮社(菅原道真公)
d0287413_135336.jpg

 右に荒魂社(あらたましゃ、奥津彦命)と左に稲荷社(稲荷大明神)。
 奥津彦命は竈の神で、大歳神と天知迦流美豆比売の第一子。
d0287413_13533570.jpg

 系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_13544680.jpg

d0287413_1355297.jpg

   社務所
d0287413_13535976.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-03-12 00:16

白國神社(しらくにじんじゃ、姫路市)

 兵庫県姫路市白国5丁目15-1  電079-224-1380  無料駐車場あります。
 播磨国四の宮、安産と育児の神様。 旧地名は播磨国飾磨郡(しかまぐん)。
 祭神 
  神吾田津比売命(木花咲耶媛、このはなさくやひめ、大山祇神の娘、瓊瓊杵尊の妃)、
  稲背入彦命(いなせいりひこ、12代景行天皇の皇子、母は五十河媛)、
  阿曾武命(あそたける、稲背入彦命の孫、白国氏の祖)。
 創建 4世紀半ばに神吾田津比売命を祀った。

 神社の伝承
 4世紀前半、12代景行天皇の皇子・稲背入彦皇子(針間国造・針間別の祖)が、大和から当地・白国へ下向され、白国に宮殿を構えて針間地方を統治した。
 孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産時に大変苦しみ、命は白幣を庫谷山の峰に立て神吾田津比売命を祀り、一心に安産を祈願したところ、女神が忽然と現れ「私が神吾田津比売である。汝の祈りは天に通じている。私が永くこの地に留まり婦人を守護し安産させましよう」と告げ、白幣が高く舞い上がり、白幣と共にお隠れになった。阿曾武命が館へ帰ると高富媛が無事男児を出産した。
 その神徳を感謝し、庫谷山の麓に神吾田津比売命を祀ったのが、白國神社の創立である。

 日本書紀によると、景行天皇の皇子と皇女は全部で80人いた。日本武尊・稚足彦(わかたらしひこ、13代成務天皇)・五百城入彦(いおきいりひこ)以外は、皆それぞれ国や郡に封ぜられて各国に赴き、別王(わけのみこ)と云われた。
 播磨別(わけ)、水沼別、火国別など諸国の別(わけ)というのは別王(わけのみこ)の子孫である。
 景行天皇の和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)と云う。

 白國神社の宮司家白国氏は阿曾武命から明治時代の75代目まで続いた。当初は佐伯直を賜り、佐伯氏と称していたが白国氏に改めたようである。
 白國神社の700m東南の白国2丁目に佐伯神社が鎮座。祭神は阿良津命(阿曾武命の子)で稲背入彦命の曾孫にあたる。

 白國神社の社殿は東南東向きで、冬至の日の出方向を指しているように見える。地点の緯度・経度・標高・年月日により日の出・日の入りの方向と時間が計算できる。
 古代では世界的に冬至の翌日を新年とする場合が多かった。



   入り口の社号標と神門
d0287413_17525153.jpg

   神紋は三つ葉葵
d0287413_1753686.jpg

   鳥居から拝殿を望む。
d0287413_17531923.jpg

   由緒
d0287413_17533227.jpg

   手水舎
d0287413_17534538.jpg

 池鯉鮒社(ちりうしゃ、三穂津姫神)、三穂津姫は高皇産霊尊の娘で大国主命の妃。
 農耕作業の安全を祈るためのマムシ除けの神様。近年は学問、縁結びなど総ての願い事を叶えてくださる。
d0287413_17541293.jpg

    拝殿
d0287413_17542370.jpg

  拝殿右手前に安産祈願の撫で犬。戌は安産の象徴。
  鎮座西暦217年と記されているので、実際より120年古く捉えられている。
d0287413_17545311.jpg

   右は山森稲荷社、左は八幡社(誉田別神=応神天皇)。
d0287413_1755399.jpg

   八幡社は白國神社の旧本殿を昭和10年に移築した。
d0287413_17551948.jpg

d0287413_17553192.jpg

     本殿
d0287413_17554310.jpg

d0287413_17555598.jpg

   本殿背後に後拝所が設けられている。
   備えられた箱に手を入れて、中のものを触ってから子宝・子授けの祈願をする。
   箱の中には御影石製の立派な男根像が鎮座。
d0287413_17561559.jpg

 当社は播磨国四の宮である。
 播磨国総社は姫路市の射楯兵主神社(2014年8月23日の投稿をご覧ください)、
 一の宮は宍粟市の伊和神社(2013年4月27日の投稿をご覧ください)、
 二の宮は多可郡の荒田神社(2013年10月3日の投稿をご覧ください)、
 三の宮は加西市の住吉神社、五の宮は姫路市の高岳神社。
[PR]
by enki-eden | 2015-03-09 00:16

廣峯神社(ひろみねじんじゃ、姫路市)②

 別称広峯牛頭天王
 兵庫県姫路市広嶺山52   電079-288-4777   駐車場完備。
 祭神  正殿に素戔嗚尊、五十猛命、
      左殿(向かって右)に奇稲田媛命(くしいなだひめ)、
        足摩乳命(あしなずち、晩生の稲)、
        手摩乳命(てなずち、早稲)(奇稲田媛命の親神)、
      右殿に18柱の神(宗像三女神、天忍穂耳命、天穂日命ほか)。

 創建は10代崇神天皇時(3世紀後半)、広峰山(ひろみねさん、260m)背後の白幣山(はくへいさん)に素戔嗚尊と五十猛尊が祀られた。
 45代聖武天皇(701年-756年)時に右大臣吉備真備(695年-775年)により白幣山に社殿が造営された。
 平安時代の972年に白幣山から直ぐ南の広峰山(広嶺山)へ遷座して大造営され、白幣山の跡地には吉備真備公を祀る社殿が建てられた。

境内社
   大鳥居と随神門の中間(徒歩5分)に天祖父(あまさい)神社が鎮座。
   祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神。
d0287413_19115980.jpg

   天祖父神社の左に夫婦石(子宝・安産)
d0287413_19122095.jpg

   夫婦石の左に宮中三殿遥拝所
d0287413_19123315.jpg

   廣峯神社拝殿の左に地養社(蘇民将来、病気除け)
d0287413_19124759.jpg

   蛭子社(蛭子命)
d0287413_1913191.jpg

   拝殿前の休憩展望台の案内図
d0287413_19131374.jpg

   拝殿の右手前に天然記念物で霊木の千年松(息吹木、いぶき)
d0287413_19132777.jpg

   軍殿八幡社(応神天皇と神功皇后)
d0287413_1914354.jpg

   本殿の奥に稲荷社(倉稲魂命)と天神社(菅原道真)
d0287413_19141580.jpg

   右は熊野権現社(菊理姫命、速玉男命、瀬織津姫命)、
   左は冠者殿社(かしゃでんしゃ、神皇産霊神、高皇産霊神、木花咲哉姫神)
d0287413_19143237.jpg

   大鬼社(おおおにしゃ、伊弉諾尊)
d0287413_191444100.jpg

   右は庚申社(猿田彦命と天細女命)、左は山王権現社(金山毘古神)
d0287413_19253367.jpg

   廣峯神社の300m奥の白幣山に荒神社と吉備神社が鎮座。
   荒神社(素戔嗚尊の荒御魂)
d0287413_1915661.jpg

   吉備神社(吉備真備公)
d0287413_19153562.jpg

d0287413_19154656.jpg

d0287413_1915566.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-03-05 00:08

廣峯神社(ひろみねじんじゃ、姫路市)①

別称広峯牛頭天王
兵庫県姫路市広嶺山52   電079-288-4777   駐車場完備。
祭神  正殿に素戔嗚尊、五十猛命、
     左殿(向かって右)に奇稲田媛命(くしいなだひめ)、
       足摩乳命(あしなずち、晩生の稲)、
       手摩乳命(てなずち、早稲)(奇稲田媛命の親神)。
     右殿に18柱の神(宗像三女神、天忍穂耳命、天穂日命ほか)。

 創建は10代崇神天皇時(3世紀後半)、広峰山(ひろみねさん、260m)背後の白幣山(はくへいさん)に素戔嗚尊と五十猛尊が祀られた。
 45代聖武天皇(701年-756年)時に右大臣吉備真備(695年-775年)により白幣山に社殿が造営された。
 平安時代の972年に白幣山から直ぐ南の広峰山(広嶺山)へ遷座して大造営され、白幣山の跡地には吉備真備公を祀る社殿が建てられた。


d0287413_1035574.jpg

d0287413_10232418.jpg


 全国にある牛頭天王の総本宮であるが、京都の八坂神社も牛頭天王総本宮を主張している。
 旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社、天平の昔から名の見える古社である。境内の休憩展望台からは、姫路市街地、播磨灘を一望できる。

 牛頭天王に対する信仰は、御霊信仰の影響により、疫病や災厄を免れようとするもので、八坂神社の「祇園信仰」が有名であるが、当社においては主として稲作の豊饒を祈願した内容の信仰となった。これを「広峯信仰」と呼び、当社は古くから農業の神として崇拝された。

 876年(貞観時代)に廣峯神社から平安京の観慶寺祇園感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)を分祠した。
 1223年(貞応2年)の文書にも「祇園本社播磨国広峯社」とある。それで廣峯神社は祇園社(牛頭天王社)の元宮・総本社とも言われているが、八坂神社とは今なお本社争いが続いている。

 また、廣峯神社から京都八坂神社へ祭神を分祠する際に通過して休憩したと伝えられる神戸の祇園神社や大阪の難波八阪神社、京都の岡崎神社などのような祭神の遷座の旧跡も存在する。三重の尾鷲神社などにも分祠している。

     大鳥居(鳥居の右下が駐車場)
d0287413_10182380.jpg

 鳥居から徒歩10分で入り口へ。社号標と石柱、階段の上は随神門。
 石柱は左に「神聖之霊域」とあり、右に「吾心清清為」とある。これは素戔嗚尊が斐伊川で八岐大蛇を退治し、奇稲田姫と結婚して出雲の須賀に宮を建て、「わが心清清し」と云ったことによる。
d0287413_10175063.jpg

     随神門(元禄年間に築造、姫路市重要有形文化財)
d0287413_10184443.jpg

     随神門から拝殿を望む。
d0287413_1018597.jpg

     拝殿、国の重要文化財、本瓦葺。1626年に姫路城主本多忠政が再建。
d0287413_10192598.jpg

     本殿の正殿(素戔嗚尊、五十猛尊)
d0287413_1020336.jpg

     本殿の左殿(奇稲田媛命、足摩乳命、手摩乳命)
d0287413_10201774.jpg

     本殿の右殿(素戔嗚尊の八王子神など18柱の神)
d0287413_10203097.jpg

 本殿を後ろから望む。千木は外切り、鰹木は7本の男神形式で国の重要文化財。出雲神系神社の千木は男神と女神の形式を違えることはほとんどない。
 桁行11間で神社本殿としては最大、桧皮葺。1444年(文安元年)の再建。
d0287413_10205543.jpg

d0287413_1022767.jpg

    本殿背面の九星の飾り穴。自分の守護神の穴に祈願する。
d0287413_1021166.jpg

    展望台から姫路市街とその向こうの播磨灘を望む。
d0287413_10213666.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-03-01 10:39