古代史探訪

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ユダヤ人のY染色体遺伝子

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の祖であるアブラハム(4,000年ほど前の人)はメソポタミア(現イラク)の遊牧民(ヘブル)であった。
 アブラハムの家族はメソポタミアのウルを出発し、ヨルダン川西岸(カナン)に移住した。
 アブラハムの墓はヨルダン川西岸地区のヘブロンにあり聖地となっているが、当地はイスラエルとパレスティナの紛争が絶えない。
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 モーゼ率いる出エジプトのユダヤ人は、紀元前1,000年頃にユダ族のダビデをイスラエル統一王国の王とする。紀元前922年に分裂してイスラエル王国(10族)とユダ王国(2族、ユダ族とベニヤミン族)に分かれる。
 紀元前722年にイスラエル王国はアッシリアのサルゴン王に滅ぼされ、放浪民となる。
 紀元前586年にユダ王国はバビロニアのネブカドネザル王に滅ぼされる。バビロン捕囚後、紀元前538年にイスラエルに戻るが、ローマ帝国時代の2世紀に独立戦争が失敗し神殿も破壊され、追放されて放浪民となる。
 以後、20世紀になるまでユダヤ人(ユダヤ教徒)は国家を持っていなかった。

 ユダヤ教徒の男子は生後8日目に割礼を受ける。日本の皇室の男子も生後8日目に割礼を受けると非公式に云われている。これは15代応神天皇の時代(在位390年~403年)に弓月君(秦氏)が渡来したことと関連性があるのかもしれない。
 秦氏の土木技術により5世紀の河内国に巨大な前方後円墳ができるようになった。秦氏の遺伝子がユダヤと結びつくのか調べる必要がある。
 日本の伝統文化、神道、皇室の儀式などにイスラエルの影響が大きい。日本語とヘブライ語の単語の共通性もかなり多い(3,000語ほど)。日本とイスラエルの共通性については、欧米人、イスラエル人の多くの研究者が述べている。
 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 イスラエルの祖ヤコブには12人の子がいるが、レビは祭司なので別、ヨセフは兄弟に騙されてエジプトに売られるがエジプトの宰相にまでなったので別とし、ヨセフの二人の子・マナセとエフライムを入れて、イスラエルの12支族が構成されている。

 中国の五胡十六国の時代に氐族(てい、チベット族)が351年に秦(前秦)を建国し、394年に滅んだ。羌族(きょう、チベット族)が384年に後秦を建国し、417年に滅んだ。
 このチベット族の末裔が列島に渡来した秦氏一族であるという説がある。イスラエルの調査機関アミシャブのDNA調査により、羌族は代表的なマナセ族の末裔である。イスラエルのマナセ族の末裔である秦氏の渡来で、縄文人のY染色体遺伝子D2に加えて、マナセ族の遺伝子のDが列島古代人に増えていった。マナセ族とエフライム族以外のイスラエルの民には遺伝子Dは存在しない。
 マナセ族とエフライム族は、ヨセフとアセナテのエジプト時代にY染色体遺伝子Dに挿入型突然変異をしたのか。秦氏の子孫と判明している人が多く存在するのでDNAを調べると出自が分かります。
 日本におけるイスラエルのDNA、文化、言語、神道、皇室への影響はありますが、「日ユ同祖論」には賛成できません。日本人には多くの系統が混在していますから。
 Y染色体遺伝子のD2は日本に存在し、チベットにはD1とD3が存在する。中近東には僅かしか存在しない。

 秦氏一族は渡来人のうちで最大の豪族であり、29代欽明天皇の時(6世紀中頃)に7053戸(3~4万人か)にも増え、大部族になったが先住民の中に溶け込んでしまった。
 2014年6月29日投稿の「応神天皇の時、秦氏一族が渡来」をご参照ください。
 紀元前3世紀の秦の徐福(じょふく)がイスラエルのヨセフ(ジョセフ)ではないかという説があるが、信じ難い。
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by enki-eden | 2015-04-27 00:10

大年神社(姫路市香寺町土師)

 兵庫県姫路市香寺町土師(こうでらちょうはぜ)736
 香寺高校の東、駐車スペースあります。
 祭神 大年神(五穀豊穣の神)
 兵庫県には大年神社(大歳神社)は390社近くあり、神徳の高い神様です。



   大年神の系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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      鳥居と社号標
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     階段を登ると皿池の真ん中に参道があり、途中には太鼓橋がある。
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      皿池を過ぎて振り返る。
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      更に参道が続く。
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      説明板
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      杉林に囲まれた参道に多くの灯篭が連なる。
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      拝殿
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      拝殿と本殿
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      本殿
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     姫路市教育委員会による土師獅子舞(はぜししまい)の説明。
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      天満社(菅原道真公、学問の神)
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      西の公園横からも参道が続く。
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 香寺町の地名は、昭和29年に呂村と中村が合併して香寺町になった。この香寺地域は市川の豊かで美しい流れの恩恵を受け、縄文時代から人々が暮らしていた。弥生時代には更に人口が増えたと考えられ遺跡も多い。古墳時代になると多くの古墳が築造された。
 当地に土師(はじ)氏が住み着き、古墳や埴輪、土師器(はじき)を造ったので地名の土師(はぜ)になったのでしょう。関西では「はせ」、「はぜ」と読むことがある。
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by enki-eden | 2015-04-24 00:14

正八幡神社(しょうはちまんじんじゃ、姫路市)

 兵庫県姫路市船津町2989  電079-232-4480  境内に駐車できます。
 船津の八幡さん
 祭神 中殿 比咩大神(ひめおおかみ、多紀理姫命・市杵島姫命・多岐津姫命の
               宗像三女神)
     東殿 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后、321年-389年)
     西殿 誉田別命(ほんだわけのみこと、15代応神天皇、362年-403年)
 神徳 厄除け、安産、教育、交通安全等。
 ご神木 ケヤキ(樹齢約700年)ほか
 龍王舞(ジョマイジョとも云う)は姫路市指定重要無形民俗文化財となっている。

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 神社の由緒
 姫路市の北東部に位置する船津町宮脇の地に鎮座する当社は市川を15kmほど遡った船着場があったところに接している。このあたりは古来より交通の要所として栄えてきた。
 弥生式土器が多く出土することから、この地域一帯に人々が住むようになった歴史は古い。
 安土桃山時代には船津郷と的場北条郷12ヶ村の総氏神として広大な社領を有し最も隆盛であった。この時期に行われた龍王舞が400年以上にわたって引き継がれている。
 当社の創建は745年とも876年とも伝えられており、平安末期ごろに船津郷の鎮守となった。現在の社殿は明治22年に再建され南向きであるが、以前の社殿は西向きであった。
 神社には鎌倉期の神像や鬼面、室町以降の棟札や多数の絵馬などが残されており、境内には大ケヤキをはじめ5本の保存樹がある。
 10月の秋例大祭には神輿渡御の後に6基の祭り屋台が境内に集まり、龍王舞や獅子舞の奉納がある。

鳥居と社号標、扁額も社号標も「播磨 正八幡三社」となっている。
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     姫路市教育委員会案内板
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     神社の説明板
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 二の鳥居、扁額は「正八幡神社」となっている。右横には保存樹のシャシャンボがある。
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     右奥に護国神社
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     随神門
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     社務所と手水舎、手水舎の屋根には神使いの鳩。
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     拝殿
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   八幡神の神使いである鳩が向かい合って八の字を模っている。
   スリッパを履いて拝殿に入る。強い霊感を受けました。
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 絵馬、天照大神が天の岩戸から出る所。3世紀半ばの出来事ですが服装は平安時代です。
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 龍王舞(じょまいじょ)の絵馬とポスター。舞人は天狗の面をつけ鳥兜を被り、胸に三つ巴紋のついた赤い衣裳に緑色の襷(たすき)で、長い鉾を持つ。神社の祭りには猿田彦(天狗)がよく登場する。
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 拝殿の右にご神木のケヤキ。古代ではケヤキは槻(つき)と呼ばれ、約束を固める聖なる木であった。
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     幣殿と本殿
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 本殿東に旧社殿跡、745年に播磨国司が宇佐八幡神を勧請した。当時西向きに建立されたのは豊前国一之宮・宇佐神宮の方を向いていたのでしょうか。台の上に神籠石が置かれている。
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     若宮神社(若年神、大歳神の孫)
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     琴平神社(大物主神)
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     稲荷神社(倉稲魂神)
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     神社西方の播磨の山々を望む。
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     諏訪神社(建御名方神)
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     日吉神社(大山咋神)
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by enki-eden | 2015-04-21 00:05

斎槻岳(ゆづきがたけ)

 ケヤキはニレ科ケヤキ属の落葉樹で、成長が早く20mから25mほどの高さまで成長し、40mの大木になるものもある。日本原産で街路樹としてもよく見かけられる。
 ケヤキの古名は槻(つき)である。ケヤキは堅く強いので槻(つき)の語源は強木(つよき)だという説がある。槻の木は弓の材料に使われ、槻弓(つきゆみ)と云われていた。
 大阪府高槻市の「市民の木」はケヤキ(槻)になっています。

 また、古代には槻(つき)は神聖な木とされたので、「斎槻(ゆつき)」と云われ、天皇の宮には神聖な槻の木を植えることが多かった。31代用明天皇の宮は池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と名づけられているので、磐余池の近くに槻の木が植えられた宮だったのでしょう。

 人々が集まる市にも槻を初めとして椿や橘を植えていた。中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会ったのは、飛鳥寺の西の「槻の木の広場」での蹴鞠の最中であった。
 36代孝徳天皇は645年に大槻の木の下に群臣を集めて盟約をさせた。乙巳の変で滅ぼされた蘇我蝦夷・入鹿のような尊大な言動を禁じ、大槻の木の下で群臣に忠誠心を誓わせた。

   ケヤキ、まだ新芽の出始めです。桜の散った後には八重のサトザクラが満開です。
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 槻(つき)の語源は唾木(つき)と考えることもできるのではないか。古代では約束を固めるために唾を使った。唾木だから約束を固める神聖な木ということです。
 唾木(つき)は「つばき」とも読めるので古代では椿も神聖な木と考えられ、神社や市ではよく植えられていた。現代でも神社のご神木に大きな椿が見受けられる。
 古代の大きな市である海柘榴市(つばいち)は三輪山の南西にあり、三輪山の椿を市に植えたので椿市(つばきいち)と云われ、それが「つばいち、海柘榴市」となった。

 大和国三輪山(467m)の近くに、古代では弓月ヶ嶽(ゆつきがたけ、斎槻岳)と呼ばれる峰があった。応神天皇の頃に渡来してきた弓月君とは関係ないでしょう。
 柿本人麻呂の歌が残っている。
   あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が嶽に 雲立ち渡る (万葉集1088)

 弓月ヶ嶽の比定地は不詳だが、竜王山(586m)、穴師山(409m)、巻向山(567m)が考えられている。穴師坐兵主神社の社伝によると、『元の鎮座地は弓月ヶ嶽の頂上近くであったが、応仁の乱で社殿が焼失したために穴師大兵主神社へ合祀された。纏向坐若御魂神社も共に合祀された。
 弓月ヶ嶽頂上近くの台地は「げしのおおだいら、夏至の大平」と呼ばれていた。箸墓古墳から見て弓月ヶ嶽に日が昇る時を夏至として稲の生育祭がこの台地で行われていた。』




 箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫、3世紀末)の軸線(下の図の白い線)は夏至の日の出方向を向いている。
 10代崇神天皇陵(4世紀初め)の軸線(赤い線)は冬至の日の出方向を向いている。
 纏向遺跡の大型建物跡(神殿、3世紀)の軸線(青い線)は赤と白の線の交点を通る。
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 この交点付近が弓月ヶ嶽(斎槻岳、穴師山)と呼ばれていたのでしょう。穴師山は三輪山の真北1,200mにあるが、三輪山に匹敵する神聖な山だったのでしょうか。
 纏向遺跡の大型建物跡も斎槻岳(穴師山)を仰いでいるので、3世紀の初期天皇家は三輪山と共に斎槻岳(穴師山)を聖なる山として信仰していたと考えられる。
 三輪山が春分・秋分の日の出の山、斎槻岳が夏至の日の出の山として信仰されたのでしょう。
     纏向遺跡大型建物
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 崇神天皇陵(318年頃崩御)が冬至の日の出方向を向いているのは、その方向に斎槻岳があるからなのか。穴師山が斎槻岳(弓月ヶ嶽)と云われるのは槻の木(ケヤキ)が生い茂った神聖な山だったのでしょう。そして大和の山は、なだらかな形が多いが、斎槻岳は三角に尖っているので日の出を確認しやすいこともあるでしょう。
 当地周辺は古代の蹈鞴製鉄が盛んなところでしたが、現在ではみかん畑が多いです。
   万葉集 3126 作者不明
   巻向の 穴師の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつぞ来し

     穴師山(斎槻岳)は中央の三角の山、右の山裾は三輪山。
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 饒速日(西暦165年頃-225年頃)が西暦185年頃に大和国にやってきて、都の中心を唐古・鍵から纏向に移した。都市計画により公共建物・神殿・祭祀場・工房・水路を建設し、居住区は纏向の外側西南方面や南方面に集約した。
 12代景行天皇が350年頃に崩御すると、纏向は急速に都市の機能を終える。やがて5世紀になると河内国に都と巨大古墳が造られることになる。

 箸墓古墳の軸線の延長線上に桜井市笠という地名があり、笠縫邑の候補地の一つです。10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命が天照大神を皇居の外で祀った笠縫邑が当地であると云う。
 現在は日本三大荒神社の一つである笠山荒神社(かまどの神様)が鎮座している。
   赤のアイコンが箸墓古墳、黄が桜井市笠


 2013年6月16日(日)投稿の「太陽信仰における夏至」をご参照ください。
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by enki-eden | 2015-04-18 00:08

小野王塚古墳(兵庫県小野市)

 兵庫県小野市王子町宮山、兵庫県指定史跡。
 小野市役所の北隣りにあり、道路と市役所の駐車場に囲まれている。
 加古川左岸の中位段丘上に位置し、周囲に王子古墳群もあったが開発により消滅してしまった。
 近くの熊野神社の所有、管理になっている。




 5世紀中頃築造の径45m、高さ約7mの円墳で、周囲は幅8m、深さ1mの周濠で囲まれているが空堀になっている。当地の首長墓だと考えられている。
 築造の5世紀中頃は古墳時代中期で、河内国では皇族の巨大前方後円墳が造られていた。
 竪穴式石室は長さ4.8m、幅1.1m、高さ0.8mで、石室から割竹形木棺跡、国産鏡、三輪玉(大刀の柄に綴じ付ける装飾品)、甲冑、鉄製武器などが出土した。
 木棺には鎹(かすがい)が使用されていた。鎹は材木と材木をつなぐ大型の釘。ことわざに「子はカスガイ」と云いますね。
      かすがい
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   南の市役所側から
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   東側から
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   周濠(空堀になっている)
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 墳頂に「王塚」の石碑、金井元彦氏(1903年-1991年)の揮毫。金井氏は青森県知事、兵庫県知事、参議院議員、兵庫県名誉顧問を務めた。
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   墳頂から裾を望む。
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   墳頂から小野市西方の山々を望む。
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 北600mの敷地町に5世紀前半頃築造の敷地王塚古墳がある。径47mの円墳で粘土槨に割竹形木棺があり、7面の青銅鏡が出土した。小野王塚古墳の被葬者の前の首長でしょう。
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by enki-eden | 2015-04-15 00:04

熊野神社(兵庫県小野市)

 兵庫県小野市王子町801  電 0794-62-4988  無料駐車場あります。
 小野王塚古墳の所有、管理をしている。小野市役所の西隣りに鎮座。社殿は西向き。
 祭神  伊弉冉命(いざなみのみこと、大目之庄の祖神)、
      速玉男命(はやたまおのみこと、武神)、
      事解男命(こととけおのみこと、文神)。

   赤のアイコンが熊野神社、黄が小野王塚古墳


 日本書紀の一書(第十)によると、黄泉の国へ行った伊弉冉尊を追いかけた伊弉諾尊に、伊弉冉尊は「私を見ないでください」と云ったが、伊弉諾尊は見てしまった。
 そこで、「縁を切りましょう」、「お前には負けない」などと喧嘩別れになった。その時に吐いた唾から生まれた神を速玉之男(はやたまのお)という。次に掃き払って生まれた神を泉津事解之男(よもつことさかのお)という。
 古代では約束(この場合は離縁)を固めるために唾を使ったようです。世界でも唾の威力は共通で、新約聖書マルコによる福音書八章にイエスが盲人の目を治す場面があります。イエスが盲人の両目に唾をつけ、イエスの両手を目の上に当てるとはっきり見えるようになった。
 現代の欧米でも友人と約束をする時に、両者が手に唾をつけて握手をすると約束が固められる。

 神社の由緒説明
 『当社は元「大目大明神」と称し、伊邪那美命を鎮め祀り「大目之庄の祖神」とし、毎年春秋の二季祭事を奉祀した。後世大目之庄が大部之庄(おおべのしょう)と改められ、当社も「大部大明神」と改称した。
 その後、紀州熊野神社神主穂積宿祢の末裔の鈴木氏が当地に来て速玉男命、事解男命の二柱を合祀し熊野大明神として斎泰せられたが、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により熊野権現社として呼ばれるようになった。
 1672年、領主・一柳家が小野に移城以来、垂井の庄の神明神社、住吉神社と共に三氏神として一柳家祈願所に列せられた。』
 本地垂迹説とは、神仏習合の時代に、神々は仏が化身して現れた権現であるという説。例えば天照大神は大日如来、市杵島姫は弁才天、素戔嗚は牛頭天王、大国主は大黒天など。

 播磨国は源氏にとって重要な地域であったので、源頼朝(1147年-1199年)の「命の恩人」である御家人・梶原景時(1140年-1200年)を守護に任命していた。国には守護を、荘園には地頭を置いた。
 源平合戦において梶原景時は源義経(1159年-1189年)と作戦上の対立が深まり頼朝に讒言し、義経は1189年に奥州で討たれる。
 鎌倉幕府が1192年に開かれると、1193年には赤松則景を播磨国の守護にした。1199年に頼朝が亡くなると、梶原景時は御家人との対立から戦闘になり、1200年に景時一族は滅ぼされた。

 このような戦乱の背景の中で、大部荘(おおべのしょう、兵庫県小野市の中心部)は奈良東大寺の荘園であったが、1192年に東大寺領荘園としての境界線が確定した。
 しかし、荘園が年貢を納めなかったり、一揆の発生、楠正成一族の悪党乱入事件、争乱・内乱などが頻発した。東大寺からの使者(神人、しんじん)も度々荘園にやってきて農民を困らせたので、抗議をした。武士社会の中世は混乱していたようです。
 加古川を下り瀬戸内海を航行して年貢を運ぶ水運業者が海賊で、争いが起きたこともある。運送料も年貢の20%を超えて高かった。

 足利尊氏(1305年-1358年)が1335年に兵を挙げると、守護の赤松氏は味方し、1336年に室町幕府(足利幕府)が成立した。赤松氏は勢力を伸ばして播磨国・備前国・美作(みまさか)国の三国の守護にまで成長した。
 鎌倉時代に較べ、室町時代では守護の権限が拡大し守護大名となっていった。
 1441年には守護大名の赤松満祐(みつすけ、1391年-1441年)は6代将軍足利義教(1394年-1441年)を殺害する。赤松氏は討伐軍に敗れ没落して、山名宗全(やまなそうぜん、1404年-1473年)が但馬国・備後国・安芸国・伊賀国に加え播磨国の守護大名に就く。山名氏は一族で10国の守護大名を務めた。

 小野市の特産品は「そろばん」、「金物」、「木工工芸品」。

    一の鳥居
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    二の鳥居
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   宮崎仲蔵翁の像、1856年出生。
   大部村長として40余年間勤めた。熊野神社の財源の基礎をつくる。
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    参道の灯篭
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  神門と鐘楼、境内で焼却炉が使われていたので煙が立ち込めている。
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手水舎
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    拝殿
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    本殿
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    若照稲荷神社
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    速玉稲荷神社
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by enki-eden | 2015-04-12 00:12

佐保神社(加東市)

 播磨国賀茂郡鎮座、式内の坂合神社。
 兵庫県加東市社(やしろ)777  電0795-42-0406  無料駐車場あります。
 賀茂郡第一の大社と云われ、「社」の地名は当社の門前町として発展したことによる。
 祭神 天児屋根命(中殿)、天照大神(東殿)、大己貴命(西殿)。
     (三社大明神、佐保大明神)
 神紋 三階菱

 創建 
 針間鴨国の鎌倉峯(加西市河内町)に佐保大神が天降ったので、11代垂仁天皇の時代(4世紀前半)に祠を創建。
 針間鴨国造の子孫である阿部三郎太夫が神託により、722年(養老6年)に鎌倉峯から10km南東の現在地に遷座した。
 針間鴨国は7世紀に播磨国賀茂郡となる。後に加西郡と加東郡に分かれる。1967年に加西郡は加西市、2006年に加東郡は加東市になる。

 鎌倉時代には尼将軍の北条政子が当社を崇敬し本殿や鳥居を建立。その後、戦乱や火災で焼失したものを1564年に再建。現在の社殿は1747年に再建されている。



     境内配置図
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     随神門(豊岩間戸命、櫛岩間戸命)と社号標
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     由緒
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     能舞台
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     拝殿
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      拝殿の屋根には神紋の三階菱、シャチホコ、珍しく鶏も。
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     拝殿と本殿
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      本殿に「坂合神社 佐保大明神」の神額
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   拝殿右に若宮社、神額には「先宮」とある。祭神は猿田彦神、三郎大夫。
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     その右に天満宮(菅原道真公)
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   本殿左に明神社、寺院形式で神仏習合時代の名残でしょう。
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     左奥に恵比須社(事代主命)
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   右から諏訪社(建御名方命)、八幡社(誉田別命)、金比羅社(大物主神)、
   神明社(大日霊女貴命)
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   右から愛宕神明社(火軻具突知命)、神明社が2社(大日霊女貴命)、
   秋葉神社(火軻具突知命)
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     能舞台左に鐘楼と稲荷社(倉稲魂命)
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by enki-eden | 2015-04-09 00:08

住吉神社(加西市北条町)

 播磨国三の宮、 住吉酒見神社とも云う。
 兵庫県加西市北条町北条1318  電 0790-42-0423  無料駐車場あります。
 当地は京都と出雲を結ぶ街道の要衝として栄えた。

 祭神 酒見神(地元豪族の祖先神)、
     底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后(住吉四神)、
 大歳神と八幡神(黒駒村の大歳神と西上野村の八幡神を明治時代に合祀)。

 創建 
 12代景行天皇の時代(4世紀前半)に古代の針間鴨国(後の播磨国賀茂郡)の黒駒村に創建された。
 7世紀の大化の改新後、国郡制度により針間国(西部)、針間鴨国(北部)、赤石国(明石国・東部)の三国が統合されて播磨国(12郡の大国)となった。
 針間鴨国は播磨国賀茂郡と多可郡になり、それまでの国造(くにのみやつこ、国御奴)は郡司となった。後に賀茂郡が加東郡と加西郡に分割されたので、当社の鎮座地は加西郡黒駒村となった。
 717年(養老元年、44代元正天皇の時代)に現在地に遷座。
   赤のアイコンが住吉神社、黄が元の鎮座地黒駒村。


 当地は摂津国一宮の住吉大社の神領であった。当社は「住吉大社神代記」に記された「住吉大神の宮九箇処」の一社。明治時代に住吉酒見神社から住吉神社に改名した。
 東に隣接して酒見寺(さがみでら、さがみじ)がある。745年に住吉酒見神社に参詣した行基に神託があり、45代聖武天皇に奏上して酒見寺を建立した。神仏習合の時代は一体だったのでしょう。

   鳥居と社号標、左右に随神門。灯篭の宝珠部分は矛か剣の形。
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 拝殿前に勅使塚(ちょくしづか)がある。
 4月の節句祭りで行われる「龍王舞」や「鶏合わせ」の神事はここで行われる。
 1153年(仁平3年)の旱魃のとき76代近衛天皇の勅願により播磨六山(書写、増位、八徳、妙徳、法華、蓬莱)の僧が集まり、大般若経を読んで雨乞いをすると、たちまち雨が降り、それ以後は毎年勅使を迎えての恒例行事になった。勅使塚はその記念塚。
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    拝殿(本殿の3棟それぞれに拝礼するようになっている。)
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   奉納絵馬(楠正成と正行)
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   左から拝殿、幣殿、住吉造の本社三殿(中本殿、東本殿、西本殿)。
   玉垣も含め国の登録有形文化財となっている。
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   東本殿
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   西本殿
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   幣殿の背後に西本殿と中本殿。
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   拝殿右にさざれ石
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 「なぎの木」、「凪ぎ」に通じることから海上交通安全、平和の木、家内安全などの信仰対象として神社境内で時々見かけます。
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   本殿裏には小さな祠があり、奥には稲荷社が鎮座。
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   神社の北は加西市立北条小学校。境界には柵がない。
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   小学校との間にもう1社稲荷神社が鎮座。
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拝殿の西に粟島神社(祭神は少彦名命か、少彦名命は粟島から常世国へ戻った。)
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   白髭神社(祭神は猿田彦命か)
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    東隣りの酒見寺へは小さな橋で繋がっている。
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 橋の下は小さな池で中の島に祠が鎮座。市杵島姫神社かと直感したが酒見寺の弁天堂であった。神仏習合時に市杵島姫命は弁財天と同一視されていた。
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    酒見寺は神仏習合時に住吉酒見神社の神宮寺であった。
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by enki-eden | 2015-04-06 00:15

玉丘史跡公園(兵庫県加西市)

 兵庫県加西市玉丘町76   無料駐車場完備。



     玉丘史跡公園案内図
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 玉丘古墳群には12基の古墳があり、次の図の1.玉丘古墳、2.玉丘古墳陪塚1号墳、
 3.玉丘古墳陪塚2号墳、4.クワンス塚古墳、5.壇塔山古墳、6.芳ヶ端下古墳、
 7.実盛塚古墳、8.笹塚古墳、9.マンジュウ古墳、10.逆古墳、11.北山古墳、
 12.亀山古墳である。
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 この中で玉丘史跡公園内にあるのは1から7までの7基と、佐谷町から史跡公園に移築復元した愛染古墳が1基あります。

 史跡公園の中心墳墓である玉丘古墳は前方後円墳で全長109m、後円部径63m、高さ9m、前方部幅58m、周濠の幅20m、3段築成になっている。播磨国風土記賀毛郡の記述によると被葬者は根比女(ねひめ)と記されている。
 兵庫県で6番目の大きさで、円筒埴輪が巡らされていた。被葬者は針間鴨国造の許麻(こま)と考えられる。
 築造時期は5世紀前半となっているが、根比女が被葬者であれば5世紀後半なので、根比女が父・許麻の立派な前方後円墳に合葬されたのでしょう。
   


     玉丘古墳前方部から
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     後円部から
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     陪塚第1号墳(20mの円墳、5世紀築造)
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     陪塚第2号墳(1辺24mの方墳、5世紀前半築造)
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 クワンス塚古墳(35mの円墳、5世紀前半築造)
 副葬品には、三角板革綴じ短甲・剣・直刀・鉾等の武具、斧等の農工具が出土。
 造出し部からは、鶏形埴輪等の形象埴輪、土器類の他に杵形・突起付棒形・棒形・円盤形・籠目形等の土製品が出土している。
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     壇塔山古墳(17mの円墳、5世紀前半築造)と芳ヶ端下古墳
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     実盛塚古墳(さねもりづかこふん、21mの円墳、5世紀築造)
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     愛染古墳、18mの円墳で7世紀中頃の築造。組合せ式の家形石棺がある。
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     園内にヤギの「草次郎」が飼育されている。
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 播磨国風土記に、前方後円墳である玉丘古墳のいわれとして根日女伝説が記されている。それは、根日女と二人の皇子との出会いの物語。
 後に23代顕宗天皇(487年崩御)と24代仁賢天皇(498年崩御)に即位する事となる意奚(おけ)、袁奚(をけ)の2皇子が、皇位継承争いで父の磐坂市辺押磐(いわさかのいちのべのおしわ、17代履中天皇の皇子)を21代雄略天皇に殺害された。2皇子は都から逃れ、播磨国に名前を変え身分を隠し、密やかに移り住んでいた時、根日女と出会った。

 玉丘史跡公園の解説によると、
 『根日女は、播磨国賀茂郡(加西市・加東市・小野市)を治める許麻(こま)の娘で、神秘的な美しさと巫女としての不思議な力を持っていたと言われています。たちまち兄弟2人共々の心に、根日女に対する恋が芽生え愛として育まれていきますが、仲がよかった兄弟は互いに譲り合ってしまい、どちらとも結婚しないままでした。
 やがて、二皇子は都に帰る事となり、根日女への愛を心の支えに、大和を平定し帝につきました。しかし、二人の安否を気遣う心労から病の床に伏していた根日女は、この地で息を引き取ってしまうのです。
 それを知った天皇と皇子は嘆き悲しみ、根日女のために賀毛の里に墓を築き手厚く葬りました。当時、表面を美しい玉石でおおわれたその墓は、今も玉丘古墳として残っています。』

 播磨国には12の郡があった。賀茂郡・多可郡・美嚢郡は北播(ほくばん、北播磨)、明石郡・加古郡・印南郡は東播(とうばん、東播磨)、他の6郡は西播(せいばん、西播磨)と呼ばれる。西播の内、飾磨郡と神崎郡は中播(ちゅうばん、中播磨)と云うこともある。
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 賀茂郡(賀毛郡)には12の里があった。715年頃から「里」は「郷」に変わるが、播磨国風土記には「里」と記されているので、播磨国風土記が715年以前に朝廷に提出されたと考えられている。

 このように播磨国風土記が編纂1300 年を迎えることから、加西市では、播磨国風土記に登場する根日女伝説の舞台である玉丘史跡公園において、「加西市播磨国風土記1300 年祭」を開催します。
 2015年5月4日(月・祝)14:55から15:35まで野村萬斎ほか出演の新作狂言「根日女」が上演されます。15:45から17:00までは梅原猛の新作創作能「針間(はりま)」が上演されます。
 5月5日(火・祝)10:00から17:00まで「体験イベント」や「はりまグルメフェア」など盛りだくさんです。
 加西市WEBサイトをご覧ください。当日の公園駐車場は利用できないようです。市役所などの駐車場から無料シャトルバスが出ます。
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by enki-eden | 2015-04-03 00:09