古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

<   2015年 05月 ( 10 )   > この月の画像一覧

佐々婆神社(ささばじんじゃ、篠山市)

 兵庫県篠山市畑宮376   電 079-552-2418   駐車スペースあります。
 丹波国多紀郡(篠山市)に鎮座。 元は神奈備山の八百里(やおり)山の麓にあり。
 3km南に高城山(460m、丹波富士)
   赤のアイコンが佐々婆神社、黄が八百里山、紫が高城山(丹波富士)


 祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、
     天宇受女命、素戔嗚命、志夫美宿禰、応神天皇、後鳥羽天皇、
     天満大神、春日大神、住吉大神ほか。
 創建 7代孝霊天皇の勅命により建立(3世紀半ば)

 日置宮司に伺うと、江戸時代の社名は「正八幡宮」、「楽々庭明神(ささばみょうじん)」と称していたが、大正時代に現社名に変更したと云う。

 10代崇神天皇の時代(3世紀末)に丹波国を治めた日子坐(ひこいます)王の第3子の志夫美宿禰(しぶみのすくね)一族を奉斎した。志夫美宿禰は佐々君(ささのきみ)の祖神。
 1339年に82代後鳥羽天皇(1180年~1239年)の分霊を隠岐から迎え合祀した。
 10月の例祭(はた祭り)は流鏑馬も復活し、神輿・山車・太鼓みこしなど大賑わいである。
d0287413_9254494.jpg

   鳥居と社号標、神額には佐佐婆神社と丹波太神宮の二社名が記されている。
d0287413_926860.jpg

d0287413_9262451.jpg

   拝殿
d0287413_9263840.jpg

d0287413_9265058.jpg

   元の社名の神額「正八幡宮」が見える。
d0287413_927628.jpg

   本殿
d0287413_9272318.jpg

   本殿左に丹波太神宮(天照皇大神)の幣殿。
d0287413_9273925.jpg

d0287413_9275344.jpg

d0287413_9281318.jpg

   稲荷社、多くの神様を祀っている。
   稲荷大神、厳島姫大神、大山祇大神、松尾大神、金刀比羅大神、火産霊大神、
   火之迦具土大神、奥津彦大神、奥津姫大神、月夜見大神、八衢彦大神、
   八衢姫大神、久那斗大神、御年皇神、天之水分大神、風之御柱大神、
   大土御祖大神、大国主大神、恵美主大神、諏訪大神、大地主大神、
   天照皇大神宮、豊受大神宮、伊弉諾大神、伊弉冉大神
d0287413_930876.jpg

  82代後鳥羽天皇(1180年~1239年)の宝塔(供養塔)。
  後鳥羽天皇が隠岐国で崩御、霊代を当社相殿に祀り、宝塔に冠と装束を埋蔵した。
d0287413_9302359.jpg

 社務所に楽々庭神社(ささばじんじゃ)の扁額。
 日置宮司に伺うと、廃寺になった別当寺の願成就寺の建物(築300年)を社務所にしたと云う。神仏習合時代の別当寺や神宮寺は明治の神仏分離令により廃止された。
d0287413_9303659.jpg

d0287413_9304981.jpg

   1.4km北西に元の鎮座地である八百里(やおり)山を望む。
d0287413_931320.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-05-31 00:18

春日神社(篠山市黒岡)

 兵庫県篠山市黒岡75  電079-552-0074  「おかすがさん」、
 篠山城の北700mに鎮座。
 駐車場はあるが閉まっていたので向かいのスーパーに停めました。

 祭神 武甕槌(たけみかつち)命、経津主(ふつぬし)命、天児屋根(あめのこやね)命、
     比売大神(天照大神)。
 武甕槌命と経津主命は西暦200年頃に「出雲の国譲り」を実行した武神、
 天児屋根命は藤原氏の祖神で、天照大神を天の岩戸から導き出した。

 創建 
 当地の日置荘は藤原氏が領有していたので、876年に摂政・藤原基経(836年~891年)が藤原氏の氏神である春日大社から黒岡村南の宮山(篠山)に分祀した。1609年、篠山城築城のために現在地に遷座した。



 篠山は京都との繋がりが深く、10月中旬に秋の祭礼で巡行する鉾山(ちんちき山)は京都の八坂神社祇園祭の山鉾を模して造られた。
   赤が篠山市、黄が京都市。

 京都から篠山へは約60kmで、国道372号線(篠山街道、デカンショ街道)が通っている。

   南入り口の赤鳥居と社号標
d0287413_23305525.jpg

   随身門
d0287413_2331957.jpg

   随身門左大臣藤原時平(871年~909年)
d0287413_233119100.jpg

   随身門右大臣菅原道真(845年~903年)
d0287413_23313038.jpg

   説明板
d0287413_23314067.jpg

   東入り口の鳥居と社号標、社殿は東向きに建てられている。
d0287413_23315136.jpg

d0287413_2332195.jpg

   境内南に絵馬堂
d0287413_23321110.jpg

d0287413_23322135.jpg

d0287413_23325380.jpg

d0287413_2333285.jpg

d0287413_23331298.jpg

   境内東に能舞台(国の重要文化財)、
   正月の翁奉納、4月上旬の篠山春日能と秋の丹波夜能が催される。
d0287413_23332661.jpg

d0287413_23334174.jpg

d0287413_23335418.jpg

d0287413_23353864.jpg

    拝殿
d0287413_2336697.jpg

d0287413_23361832.jpg

d0287413_23363559.jpg

d0287413_23364872.jpg

d0287413_2337065.jpg

    本殿
d0287413_23371448.jpg

d0287413_23372585.jpg

    境内北に社務所
d0287413_23373798.jpg

d0287413_23374719.jpg

 本殿右に境内社、右は水分神社、その奥は稲荷神社、一番奥の鳥居が皇大神宮。
d0287413_233815.jpg

    拝殿左に能楽殿完成記念の翁の像
d0287413_23381476.jpg

   本殿左に境内社、右が八幡神社、その左が日吉神社、一番左が八坂神社。
d0287413_23385863.jpg

   境内南に天満神社(元の本殿を譲り受ける)
d0287413_2339863.jpg

    春日神社には鹿、横の階段を登ると愛宕神社へ。
d0287413_23392170.jpg

d0287413_23393417.jpg

d0287413_23394795.jpg

   昼食は近くの「特産館 ささやま」で丹波篠山牛のごちそう。
   3月だったので店内入り口に雛人形が飾られていた。
d0287413_23395636.jpg

 8月15日と16日は「丹波篠山デカンショ祭り」が篠山城跡三の丸広場で開催される。2日間で2万人以上が集まる。
   ♪ デカンショ デカンショで 半年暮らす あとの半年 寝て暮らす
     ヨーイ ヨーイ デッカンショ ♪

[PR]
by enki-eden | 2015-05-27 00:20

雲部車塚古墳(くもべくるまづかこふん、篠山市)

 兵庫県篠山市東本荘車塚     駐車スペースあります。
 5世紀初め築造の前方後円墳。東に前方部、西に後円部で、主軸はほぼ東西に向いている。南北に陪塚があり車の両輪のようになっているので車塚と云う。

 被葬者は、彦坐王と息長水依比売の子で丹波道主命と云われ、宮内庁の陵墓参考地になっているが、丹波道主命は4世紀前半か中頃に亡くなっているので時代が合わない。
 古墳の考古学的な築造年代判定について、例えば4世紀中頃から5世紀中頃というように幅をもたせれば被葬者は丹波道主命だと考えられますが、5世紀初めと判定すれば丹波道主命ではなく、その子孫が被葬者ではないかと考えてしまいます。




 墳丘全長140m、後円部径80m、高さ12m、前方部幅89m、盾型の周濠を備え兵庫県で3位の大きさ。1位は神戸市垂水区の五色塚古墳(194m)、2位は姫路市御国野町の壇上山古墳(143m)。
 北陪塚は径30mの円墳で、南陪塚(姫塚)は1辺25mの方墳。他にも陪塚が数基あったようですが今は消滅しています。

 1896年の地元調査では竪穴式石室に長持形石棺、墳丘に葺石、埴輪があった。石室に入った青年が戻ってくると、朱で体中真っ赤に染まっていたそうです。
 鎧(5領)、兜(4領)、刀剣(42本)、鉾(2本)、鉄鏃(107個)など多くの副葬品が出土した。この騒ぎで篠山警察署長が駆けつけ、元通りに埋め戻されたので石棺は開けられなかった。一部の出土品は京都大学博物館に保管されている。
 1900年に陪塚と共に陵墓参考地に指定されたが被葬者については比定されていない。

 被葬者は大和朝廷と密接に繋がった丹波篠山の国造(国の御奴)だと考えられ、10代崇神天皇(250年頃~318年頃)の四道将軍である丹波道主命が相応しい。丹波道主命は9代開化天皇の孫になるので出生は280年頃、死亡は340年頃でしょうか。
 丹波道主命の娘の日葉酢媛が11代垂仁天皇(270年頃~330年頃)の皇后になったのを初めとして、多くの娘が垂仁天皇の妃となった。容姿が悪いと云って返された娘もいる。日葉酢媛は12代景行天皇(285年頃~350年頃)の母となる。

 3世紀から皇室と丹波国は経済的・軍事的に重要な関係になり、丹波国から多くの天皇妃が出現した。同時に皇室は近江国の息長氏とも連携が深まっていく。
 また丹波国は奈良や京都から山陰の因幡国・伯耆国・出雲国へ行く街道上にあり、立地的にも重要な位置を占めていた。

 篠山市は標高200mほどで、東西16km、南北4kmの篠山盆地にあります。盆地の中央は湖だったが排水して湖はなくなった。篠山の民謡デカンショ節は色々な歌詞があるが、「丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底」と歌われる。

 古墳の東にある小山に登ってみるが、急斜面の獣道で年寄りには大変だった。
 しかし景色は良かった。古墳の前方部からの景色で、周濠の左に南陪塚が見える。
d0287413_19234664.jpg

   西の後円部、左に見えるのは北陪塚。
d0287413_19241858.jpg

   後円部側に篠山市教育委員会の説明板と宮内庁の看板が設置されている。
d0287413_19243328.jpg

d0287413_19244741.jpg

   後円部南から前方部を望む
d0287413_19245930.jpg

   後円部北から前方部を望む
d0287413_19251263.jpg

   北陪塚(30mの円墳)を西から望む
d0287413_19252585.jpg

   北方から陪塚と主墳を望む
d0287413_1926461.jpg

   南方から後円部を望む
d0287413_19261968.jpg

   南陪塚(姫塚、1辺25mの方墳)
d0287413_19263141.jpg

 復元した雲部車塚古墳の石室・石棺と武人、兵庫県立考古博物館展示。朱で染まった石室の壁に武器が金具で固定され、石室の床には淡路産の白い小石が敷かれていた。
d0287413_19265468.jpg

d0287413_19271972.jpg

 雲部車塚古墳の西に飯塚古墳(40mの円墳)があるが、竹林の小山で鬱蒼としている。
 これも陪塚でしょうか。
d0287413_19273438.jpg

                         ***
 先日、運転免許更新の前段階の「高齢者講習」を受けてきました。70才以上の人が免許更新するには前もって自動車学校で高齢者講習を受けておかなければなりません。
 講習時間は3時間で運転適正検査や実車運転による指導もあります。講習手数料は5,600円でした。免許更新時には高齢者講習終了証明書を持参します。
 75才以上になると更に認知機能を検査する「講習予備検査」を受け、その結果に基づいた「高齢者講習」を受けることになります。
 高齢者の事故が多いですから、やむを得ない制度ですね。神社、古墳、博物館へ行くには車が便利ですので、安全運転で楽しくやっていきます。
[PR]
by enki-eden | 2015-05-24 00:15

奴国から倭国へ

 今回は私見が多いですから、歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる方にはご容赦願いますね。

 魏志倭人伝の云う倭国は対馬・壱岐・松浦・志摩・伊都・奴・投馬・邪馬台など九州北部の29カ国です。
 西暦57年に「奴国王」が後漢に朝貢して金印紫綬を受け、「貿易に関して」倭国を代表するようになった。 107年には「奴国王」帥升が後漢に「倭王」と認められ、貿易だけでなく政治的にも29ヶ国の倭国を統括するようになった。
 しかし後漢では、184年に太平道の教祖・張角らが農民反乱を起こし黄巾の乱が勃発、群雄割拠して後漢が衰退、220年に魏、221年に蜀、222年に呉が起こり三国時代に移っていく。

 倭王兼7代目奴国王の伊弉諾(125年頃出生)は博多湾から唐津に至る海人族を纏めていた。この地域には甕棺墓の江南人(呉人が中心)が多く住み着いた。紀元前4世紀頃から波状的にやってきて、縄文時代から弥生時代へと移ることになる。

 2世紀後半から大陸の戦乱で倭国は後漢と貿易ができない状態となり、後漢の後ろ盾がなくなった奴国王の倭国統率力が低下した。海人族で奴国王兼倭王の伊弉諾は権威失墜、製鉄王の伊弉冉とも争いが発生し184年頃に倭国乱となる。伊弉諾は淡路島に隠遁し、伊弉諾神宮の地で亡くなる。

 伊弉諾の子の綿津見豊玉彦または他の有力王族が倭国(九州北部)の王として立ち上がるが、諸国の反発を受け頓挫し、倭国乱は治まらない。
 201年頃に倭国は再び奴国中心の纏まりを発揮して、奴国王族の卑弥呼(179年~247年頃)が女王に就任。後漢に代わって邪馬台国と投馬国が後ろ盾となり、両国が実質的に倭国を主導する。

 狗奴国(火の国)と邪馬台国は領土紛争や有明海の制海権などで争っていた。この争いは稲作地の争奪、有明海の漁業・海洋交易航路の覇権争いなどであった。

 九州北部を含む全国に影響力を発揮していた素戔嗚が200年頃に亡くなると、末娘・須世理姫の婿である大国主(160年頃~220年頃)が後継者となる。しかし、高皇産霊の強引な圧力により葦原中津国(北部九州の出雲族支配地)の国譲りを強制され、大国主は出雲国(島根県)に戻る。

 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_1065584.jpg

 大陸では黄巾の乱に乗じて、後漢の地方官だった公孫度が2世紀末に遼東地方で政権を築いた。後漢も次の魏も公孫度政権があった為、遼東以東を絶域として、東夷諸国との交易を行えなかった。
 公孫氏は山東半島と楽浪郡にも勢力を伸ばし、204年には公孫度の子公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置、韓を勢力下に置いた。

 236年、公孫淵は魏に反旗を翻し、燕王と称した。しかし238年、魏の司馬懿(179年~251年)の討伐を受け、国都襄平に包囲され、一族ともに滅ぼされた。司馬懿は卑弥呼と同じ時代を生きた。
 新撰姓氏録には、「左京、諸藩、漢、常世連、燕国王公孫淵之後也」、「河内国、諸藩、漢、常世連、燕国王公孫淵之後也」と記されている。渡来人の常世連(とこよのむらじ)は公孫淵の子孫であると主張した。大阪府八尾市神宮寺に常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)が鎮座、常世氏が祖神を祀った。

 3世紀初め、倭国は公孫と交易を行っていたが、公孫が魏に滅ぼされると、卑弥呼は直ちに239年に魏に朝貢し、親魏倭王の金印紫綬を受ける。248年に臺與が卑弥呼の後を継いで女王となる。
 265年に魏が滅び、臺與が266年に晋に朝貢するのを最後に朝貢貿易は途絶える。大陸は内乱と北方民族の侵入により動揺が続いた。

 素戔嗚の第5子・饒速日は185年頃に大和国へ大挙して移住、204年頃に東遷を開始した神武(180年頃~245年頃)も大和国へやってきた。その後も大和国には全国から人々が集まり、政治・経済・文化の中心地となっていった。
 臺與は270年頃(7代孝霊天皇の時代)に大和国へ移住したのか。或いは東遷せずに筑紫国で亡くなったのか。大和国に移住したのであれば臺與が祭祀を司り、10代祟神天皇(250年頃~318年)に全国を支配させたのであろう。

 大陸は戦乱状態で、300年には八王の乱、304年には五胡十六国の乱、国の興亡を繰り返し、貿易は成り立たなかった。倭王讃(16代仁徳天皇か)が413年に東晋に朝貢するまで交易は行われなかった。
                          ***

 記紀では邪馬台国、卑弥呼などについては直接的には触れていない。しかし、神功皇后の記事の中に魏志倭人伝について簡単に触れている。
 なぜ記紀に直接的に書けないのか? それは記紀成立の時期と大きく関わっている。663年に唐と新羅連合軍との白村江の戦いで倭人は1万名も戦死して大敗した。目指した百済復興は不可能となり、百済王族は大和国に亡命した。ここに強烈な反新羅感情が生まれた。記紀の成立はその50年から60年後のことである。従って記紀には反新羅思想が充満している。

 皇室の先祖のことは神話の中に暗号として事実が盛り込まれている。更に、4世紀の神功皇后(321年~389年)の行動に3世紀の邪馬台国の記事を多く含ませている。
 12代景行天皇(285年頃~350年頃)の筑紫巡幸の記事でも、狗奴国は大牟田を中心として肥前と肥後が領域であったと暗号で書いている。(高さ970丈のクヌギ、杵島山から阿蘇山に木の陰が届く。)
 そして、記紀の成立した8世紀の国家意識は非常に旺盛で、中華思想の中国に朝貢した過去の実績を快く思わなかった。日本こそが中心の国家であると考えた。
                              ***

 淡路島の南あわじ市松帆地区で初期の小型銅鐸が7点発見されました。
d0287413_1094210.jpg

 紀元前3世紀から紀元前2世紀の銅鐸7個と青銅の舌(ぜつ、振り子)3本が発見された。高さは20cmから31.8cmで初期の音を聞く銅鐸。重さは1kgから2kg。7個のうち6個は3組の「入れ子」になっており、良好な状態であった。単独の1個は壊れていた。「松帆銅鐸」と名付けられ、島根県の加茂岩倉遺跡出土の銅鐸と似たものがある。
 発見されたのは玉砂利製造販売会社の工場の砂置き場で、松帆地区の農地などから砂利を採取している。銅鐸は丘の傾斜地から発見されることが多いが、今回は平地からの発見です。
 兵庫県の銅鐸出土数はこれで68個になるが、その内21個が淡路島からの出土。松帆地区は淡路島の西南の海岸沿いに立地する。
 2013年9月3日投稿の「淡路国の考古学」をご参照ください。
[PR]
by enki-eden | 2015-05-21 00:04

八岐大蛇(やまたのおろち)

 八岐大蛇(やまたのおろち)の話は出雲国風土記には記されていないが、「大穴持命(大国主命)、越の八口を平らげ賜ひて還り坐す」との記述がある。八口の口(くち)は蛇のことであるから、この伝承から八岐大蛇の話に展開していったのでしょうか。
 出雲の斐伊川周辺には八岐大蛇伝承があり、神楽にもなっている。これは記紀に影響を受けた後付けによる伝承なのか・・・
 そして、出雲国風土記に記されている神須佐乃烏命(素盞嗚尊、140年頃~200年頃)は、記紀に記されているような荒々しい神ではない。これも8世紀の記紀の編者によって一方的に決め付けられた性質なのか。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_15591396.jpg


 日本書紀によると、高天原を追放されて出雲国へ帰った素戔嗚は、簸の川(ひのかわ)の上流の鳥上(とりかみ)の山に降り立った。そこには脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)の夫婦がいて、娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)が八岐大蛇に呑まれるのを恐れて悲しんでいた。
 そこで素戔嗚は奇稲田姫を妻としてもらい、奇稲田姫を爪櫛(つまぐし)に変えて髪に挿した。そして脚摩乳と手摩乳に酒を用意させて八岐大蛇が来るのを待った。
 案の定、八岐大蛇がやってきた。酒を見つけると八つの頭を八つの桶に入れて酒を飲んだ。八岐大蛇が寝込んだところを素戔嗚は十握の剣(蛇の麁正、おろちのあらまさ)でズタズタに斬った。
 尾を斬る時に剣の刃が少し欠けた。尾を割いてみると剣が出てきた。これが天の叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙の剣)である。この剣は天つ神に献上して三種の神器の一つになり、尾張の熱田神宮のご神体になっている。
 そして素戔嗚は奇稲田姫との新婚の住まいを探して出雲の須賀に宮を建てた(現:須我神社、島根県雲南市大東町須賀260)。 その時に素戔嗚が詠んだ歌、
     八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 八岐大蛇は「川の氾濫」を古代人なりに表現したものでしょう。八岐大蛇は多くの支流を集めた川(龍)で、毎年氾濫により被害をもたらす。八岐大蛇が毎年娘をさらうのは、村の娘が生贄(人身御供、人柱)にされ氾濫を鎮める祈祷が行われたと考えられる。
 氾濫などの自然災害があると、古代人は神に生贄を捧げて被害を避けようとした。12代景行天皇の皇子の日本武尊が東国遠征の際(4世紀前半)、相模の海で暴風が起こり、船が沈みそうになった。つき従ってきた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投げて嵐を鎮めた。
 八岐大蛇の退治は川の治水工事のことで、素戔嗚が治水工事に取り掛かり、工事が成功したことを表現している。

 八岐大蛇の現場は出雲国ではなく、伯耆国、吉備国、安芸国などとも云われるが、九州筑豊平野の遠賀川(おんががわ)沿いにも素戔嗚尊と八岐大蛇に関する伝承が残っている。
 素戔嗚が八岐大蛇を退治した簸の川(ひのかわ)とは出雲の斐伊川ではなく、福岡県宗像地方東端の六ヶ岳(むつがたけ、338.9m)の麓を流れる犬鳴川か遠賀川でしょうか。
 天照大神と素戔嗚の誓約(うけい)により生まれた宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵島姫)が六ヶ岳に降臨したとの伝承があり、麓の六嶽神社(むつがたけじんじゃ、福岡県鞍手郡鞍手町室木)に「三女神、三柱様」として祀られている。三女神はここから宗像へ移り住んだと云われ、宗像大社(福岡県宗像市)の祭神となっている。
 また、六ヶ岳に天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、天照大神の孫)の御陵があるとも云う。

 素戔嗚が八岐大蛇を斬った時に遠賀川が血のように赤く染まったという伝承がある。これは蹈鞴製鉄による鉄穴流し(かんなながし)のことでしょう。
 中国地方では山砂鉄を原料として鉄穴流しで鉄を採掘していた。美作国(みまさかのくに、岡山県北部)の鉄穴流しのため旭川の川床が土砂で埋まって高くなり、洪水の危険性が高くなったので川の整備が行われた。この整備(治水工事)が記紀で云う八岐大蛇退治です。
 岡山県西部の高梁川も3年に1度は洪水を引き起こす暴れ川だった。九州の筑後川も筑紫次郎と云われる暴れ川だったので、その原因の一つが鉄穴流しだったのかもしれない。太郎は利根川で坂東太郎、三郎は吉野川で四国三郎です。

   鉄穴流し
d0287413_1613150.jpg

 鉄穴流しは砂鉄を多く含む山を崩して土砂を水路に落とし、それを下流に流すことで比重の軽い土砂と重い砂鉄を分離する。
 鉄穴流しの水路は砂鉄の採掘場から蹈鞴場まで長さは500mから数㎞もあります。蹈鞴場近くでは、流れてきた水を撹拌して軽い土砂を分離させて更に砂鉄の比率を高めた。
 この鉄穴流しが全国的に行われていたが、昭和45年成立の水質汚濁防止法により鉄穴流しは禁止された。禁止されてから45年になるが、現在でも大雨の後の山崩れや地すべりなどの災害があり、その内の幾つかは土砂採掘と鉄穴流しの後遺症かと思われる。

 記紀の出雲神話では出雲国(島根県)の地名・神名・人名が使われているが、神話の現場は島根県ではなく北部九州にある出雲族支配地(葦原中津国)を指しているように感じます。

 高皇産霊(140年頃出生)は西暦185年頃に饒速日(165年頃出生)を大部隊で大和国に東遷させた。西暦200年頃に素戔嗚が亡くなると、高皇産霊は後継者の大国主(160年頃出生)に葦原中津国(北部九州の出雲族支配地)の国譲りを武力で強制した。
 高皇産霊は国譲りの後に引き続き、彦火火出見(初代神武天皇、180年頃出生)にも東遷させ、大和朝廷の基礎造りを行った。
 これで倭国(北部九州の29ヶ国)は高皇産霊の支配下に入り、高皇産霊亡き後の後継者は天孫族の天忍穂耳が継ぐ。その次は天忍穂耳の子・瓊瓊杵が執行する。祭祀については201年頃に即位した卑弥呼(179年~247年頃)と、248年頃に即位した臺與(235年頃~295年頃)が執り行った。
 邪馬台国(筑後川周辺)と投馬国(豊国、福岡県東部と大分県)が倭国を統治した。

 出雲族は天孫族に武力で国を奪われ、その子孫が今でも存在しているようです。興味のある方は次の書籍を図書館などでご覧ください。ネット販売でも購入できますが値段は高いです。
 吉田大洋著 「謎の出雲帝国」、副題「天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り」
 1980年徳間書店
 内容に同調できない部分もありますから、その部分は飛ばし読みでいいと思います。勝者が書いた記紀とは違う敗者の歴史が理解できるのではないでしょうか。
 インターネットで要約をブログしている人もいるので、「謎の出雲帝国」で検索できます。
[PR]
by enki-eden | 2015-05-18 00:22

日吉神社(ひよしじんじゃ、神崎郡神河町)

 兵庫県神崎郡神河町(かみかわちょう)比延(ひえ)245
 祭神 大汝命(大己貴命)、小比古尼命(少彦名命)、大山咋命。

 播磨国風土記によると、大汝命と小比古尼命が「埴土(粘土)を担いで行くのと、糞を我慢して行くのと、どちらが先まで我慢できるか」という我慢比べをした。
 大汝命は糞を我慢する方を選び、小比古尼命は埴土を担ぐ方を選んだ。数日後、大汝命は我慢できないと云ってその場で用を足してしまった。
 大汝命が用を足した時に、笹の枝を弾き上げて衣が汚れてしまった。それで当地を波自加村(はじかのむら)と呼ぶようになった。
 小比古尼命も疲れたと云って埴土を岡に放り出した。それで当地を埴岡と呼ぶようになった。この埴土と糞は岩となった。

 埴岡に日吉神社が建立され、本殿の裏には小比古尼命が担いでいた埴土が岩に変わったものがあるらしいが・・・確認できなかった。
 神社の南東の初鹿野山(はしかのやま、507.8m、市川町澤の東)の名は播磨国風土記の波自加村に由来しており、大汝命が糞をして衣が汚れた所と云われている。
 波自加が初鹿野になったのは、15代応神天皇(362年-403年)が当地へ狩猟に来たとき初めて鹿が見つかったことによると云われている。

   赤のアイコンが日吉神社、黄が初鹿野山、青が大歳神社


d0287413_844429.jpg

     両部鳥居と社号標、播磨北部の神社の鳥居はこの形が多い。
d0287413_845246.jpg

     拝殿
d0287413_8452425.jpg

     本殿
d0287413_845384.jpg

d0287413_8455385.jpg

d0287413_84664.jpg

    境内末社、右から恵美須神社(事代主神)、稲荷神社(宇迦之魂神)、
    摂社の大年神社(大年神)。
d0287413_8463421.jpg

d0287413_8465766.jpg

    子どもの頃が懐かしい井戸が残っている。背後の山は鬱蒼とした林。
d0287413_8471069.jpg

 日吉神社のとんぼ道中(秋季例大祭、10月第3土・日)
 神河町の説明によると、
 「祭りの担ぎ手の弁当を長持ちで屋台の後ろから運んでいましたが、秋祭りを盛り上げようと、花嫁に扮した男性を長持ちに乗せて道中するようになりました。担ぎ手も色々な化粧をして沿道の見物者を楽しませてくれます。
 近年では、とんぼ道中をカメラにおさめようと県内外から多くのカメラマンが朝早くから押し寄せ、日吉神社の秋祭りには欠かせないものとなっています。」

1.2km南に大歳神社(大歳神)が鎮座している。 播磨には大歳神社(大年神社)が多い。
神崎郡神河町野村179
d0287413_8482749.jpg

d0287413_8483791.jpg

d0287413_8484739.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-05-15 08:52

熊野神社(神崎郡福崎町)

 兵庫県神崎郡福崎町西田原1539  電0790-22-0586  無料駐車場あります。
 祭神 伊邪那美命、速玉之男命(はやたまのお)、事解之男命(ことさかのお)、
     事代主命(境内社の恵美須神社を本殿に合祀した)

   鳥居
d0287413_15572782.jpg

   浄舞(じょうまい)の説明板。 やはり猿田彦が登場する。
d0287413_15574114.jpg

d0287413_15575521.jpg

 説明板にある「銀の馬車道」は生野鉱山道のことで、明治9年に造られた全長約50kmの馬車道。朝来市の生野鉱山(生野銀山)と姫路市の飾磨港を結ぶ道路で、採掘された銀や銅の鉱物を輸送するために生野街道を整備したもの。
 鉄道の開通(播但線)に伴って鉱物の馬車輸送はなくなった。
   赤のアイコンが熊野神社、黄が飾磨港、青が生野鉱山


     神社の由緒
d0287413_15583054.jpg

     手水舎の屋根にイセエビが。祭神の事代主命が「えびす」だからでしょうか。
d0287413_15584167.jpg

     拝殿
d0287413_15585366.jpg

d0287413_155953.jpg

d0287413_15592484.jpg

d0287413_15593344.jpg

 絵馬、神功皇后(321年-389年)と武内宿禰(310年頃-390年頃)。 絵や像は必ず神功皇后が若者で武内宿禰が老人として描かれているが、二人の年令差は10年ほどです。これは武内宿禰の長寿伝承に基づく表現方法で、300才前後の長寿と云われている。
 そして、絵馬の武具や刀は平安時代の姿で描かれています。
d0287413_1602078.jpg

 絵馬、天照大神が天の岩戸から出てくる場面です。常世の長鳴き鳥も描かれている。
d0287413_1603141.jpg

     右横から幣殿(祝詞舎)と本殿
d0287413_1611413.jpg

     左横から幣殿(祝詞舎)と本殿
d0287413_161251.jpg

     八雲神社(大国主神)
d0287413_1613844.jpg

 賽神社(さいじんじゃ)、祭神は八衢(やちまた)比古神、久那斗神、八衢比売神。
 八衢比古神と八衢比売神は厄除けの神、久那斗神は悪神を避ける神で、都の西北(戌亥)に祀られた。当社でも境内の西北に祀られている。
 大阪天満宮でも大将軍社(八衢比古神、八衢比売神、久那斗神、於富加牟津見神)が境内の西北に祀られ、西北が最も重要な位置づけになっている。
d0287413_1615123.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-05-11 00:15

北野天満宮(天満神社、神崎郡福崎町)

 兵庫県神崎郡福崎町西田原813-3   車は「辻川界隈駐車場」に停めます。
 祭神 菅原道真公



     山裾をぐるっと回って行きました。
d0287413_921974.jpg

d0287413_9212655.jpg

d0287413_921381.jpg

d0287413_9215067.jpg

     拝殿
d0287413_9221212.jpg

d0287413_9222377.jpg

     本殿
d0287413_9223625.jpg

d0287413_9225075.jpg

  帰りは鈴の森神社から北野天満宮への参道(学問成就の道)を通り、途中の展望台で一服。
d0287413_9232377.jpg

d0287413_9233458.jpg

               *****
 古代史研究の合間に、エルヴィス・プレスリーやポール・アンカの歌を良く聴いています。
 神戸駅の南にプレスリーの銅像があります。
d0287413_9241473.jpg

 日本の歌では、1974年から活躍している「アルフィー」の「まもなく2番線に・・・」、「恋人達のペイブメント」、「星空のディスタンス」などを聴いていると、50年以上前の学生時代を思い出します。
 「ハイ・ファイ・セット」の「卒業写真」や「森田公一とトップギャラン」の「青春時代」も好きでしたが、今では「青春時代」の替え歌の「年金時代」を歌ったりして笑っています。

ネパールの震災被災者に「助け合いの精神」、日本と同様に大きな略奪や暴動見られず。
 カトマンズで医療支援活動に携わる陸上自衛隊の佐藤裕己・2等陸曹(34)は、東日本大震災でも被災者の巡回診療をした経験があり、「被災されたネパール人は、日本人の被災者と同じように結構、表情が明るくて気持ちのよい対応をされる。こちらが逆に元気を分けてもらっている。」
[PR]
by enki-eden | 2015-05-08 00:15

鈴の森神社(神崎郡福崎町)

 兵庫県神崎郡福崎町西田原辻川  駐車場は「辻川界隈駐車場」を利用する。
 祭神 彦火瓊瓊杵命、天児屋根命、太玉命、大山積命。

 駐車場横の池に河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)がいますよ。
d0287413_9444372.jpg

d0287413_9445754.jpg

d0287413_94584.jpg

 福崎町出身で民俗学者の柳田國男(1875年-1962年)が子どもの頃、鈴の森神社でよく遊んだと云う。その関係で学業成就・合格祈願のご利益で参詣する人が多い。また、安産の神様としても信仰されている。
 直ぐ近くの北野天満宮への山道は「学問成就の道」として参道になっている。春は桜の咲く美しい参道になる。
 神社に隣接して柳田國男の生家が移築保存されている。



   鳥居と社号標
d0287413_9481333.jpg

   福崎町観光協会の説明板
d0287413_9482765.jpg

   階段を登ると拝殿へ。 秋に参拝すると紅葉が美しいようです。
d0287413_9483897.jpg

d0287413_9485215.jpg

   拝殿前に「ヤマモモの木」、樹齢約1,000年で福崎町指定の天然記念物。
d0287413_949448.jpg

d0287413_9491735.jpg

   本殿
d0287413_9494016.jpg

   本殿左に恵美酒神社(えびすじんじゃ、商売繁盛)
d0287413_9495374.jpg

d0287413_950373.jpg

   愛宕神社(火伏せの神様)
d0287413_9501538.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-05-05 00:24

柳田國男の生家

 兵庫県神崎郡福崎町西田原1038-12   車は「辻川界隈駐車場」に停める。

 柳田國男(1875年-1962年)は田原村辻川(神崎郡福崎町西田原辻川)で儒医・松岡操の六男として生まれ、1901年に柳田家の養嗣子となる。
 民俗学者・作家で著作は多く、今も出版されている。 1907年に島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始めた。 1910年に東北地方の民話を収録した「遠野物語」を発表。 続いて「遠野物語拾遺」を発表。
 1924年に慶應義塾大学文学部講師として民話の講義を行った。国内外で様々な要職に就いたが、1951年には國學院大學教授になり、神道に関する講義を行った。同年、文化勲章受賞。



 駐車場横の池に架かる橋は柳田國男の思い出深い巌橋を移設したものです。
d0287413_11264470.jpg

d0287413_11265816.jpg

d0287413_1127119.jpg

   柳田國男(旧姓松岡)の像と歌碑
d0287413_11272781.jpg

d0287413_11274182.jpg

d0287413_11275564.jpg

   生家は兵庫県指定文化財になっている。
d0287413_1128945.jpg

d0287413_11281912.jpg

d0287413_11283141.jpg

d0287413_11284196.jpg

d0287413_11285471.jpg

 説明板によると、
 柳田國男は1875年に医師であり国学者である松岡操の六男としてこの家で生まれた。当時ここには國男等の両親と長兄鼎(かなえ)夫婦、國男、弟の静雄と輝夫(映丘)の7人が住んでいた。
 家の狭さゆえ鼎の若い妻は離別して実家に帰ってしまった。家族は國男の母の実家がある加西市北条町へ移り、次に千葉県布佐へ移住することになる。
 柳田國男の民俗学への研究の底には常にこの家・この土地(辻川)があった。何かの風習について考える時、國男はいつもこの家・この土地のことを思い浮かべ比べてみた。彼の思索はそこから発展していった。「この家・この土地」が柳田民俗学の出発点とも原点とも云われる理由である。
 この家は昭和47年に顕彰会が譲り受け当時の姿に復元したものである。西側にある鈴の森神社は國男らの氏神様。深い思い出の場所である。高麗狗も大きなヤマモモの木も当時の姿をそのまま残している。

 生家の東に神崎郡歴史民俗資料館がある。(兵庫県神崎郡福崎町西田原1038-12、電0790-22-5699、 入場無料。)
 この建物は明治19年(1886年)、神東・神西(じんとうじんざい)郡役所として神東郡西田原村辻川(今の神崎郡福崎町西田原辻川)に建設されたものである。
 大正15年(1926年)に廃止されるまで郡役所として使用された。その後は兵庫県の地方出先機関の事務所などに用いられていたが、老朽化により取り壊しの方針が決まったが保存運動により福崎町に譲渡され、現在地に移築復元し資料館として開館した。昭和62年(1987年)に兵庫県重要文化財の指定を受けた。
d0287413_11293474.jpg

   資料館の前に組合せ式家形石棺の展示
d0287413_11295123.jpg

d0287413_1130421.jpg

   入り口に柳田國男と兄弟の写真
d0287413_11301777.jpg

   弥生時代の合蓋壷棺(手前)と合蓋甕棺
d0287413_11303069.jpg

   縄綯機(なわないき)。私が子どもの頃、母の実家にもありました。
d0287413_11304266.jpg

   ムシロ機(むしろばた)
d0287413_11305310.jpg

   柳田國男の机、1921年から1962年まで40年間愛用した。
d0287413_1131658.jpg

   衣冠束帯姿の柳田國男
d0287413_11313541.jpg

 資料館の隣りには福崎町立柳田國男・松岡家記念館がある。電0790-22-1000、入場無料。
d0287413_11314766.jpg

   記念館から福崎の町を望む。
d0287413_11315996.jpg

[PR]
by enki-eden | 2015-05-01 00:18