古代史探訪

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厳島神社(神戸市兵庫区)

 兵庫弁財天(お洒落弁天、平清盛ゆかりの兵庫七弁天の一つ)
 神戸市兵庫区永沢町4-4-21  電078-575-8724  駐車スペースあります。
 祭神: 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)



神社の由緒
 当神社はおよそ800年前の治承4年(1180年、80代高倉天皇)に平清盛公(1118年-1181年)によって福原遷都、兵庫築港の行われた時、兵庫の町や港の発展と住民の繁栄を祈願し、平家一門の氏神として深く崇敬している安芸国の厳島神社を此の所に勧請した。
 俗に弁天さまとも云われ、福徳円満、長寿無量の福の神様として七福神の一つに数えられ、或いは弁舌・音楽・芸能・海上交通安全の守護神として厚く信仰されています。
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 毎年5月16日に例大祭・神幸祭が弁天祭(べんてんまつり)として執り行われ、子ども神輿も出るようです。

    赤い両部鳥居と社号標
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    厳島神社には池に橋が架かっていることが多い。
    この池には「放生池」の名がついている。
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    橋を渡ると手水舎
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    拝殿、注連縄は向かって左が本になっている。
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    神額、伊勢神宮大宮司坊城俊良(1893年~1966年)謹書。
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    本殿
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 本殿左に淡島神社、注連縄は向かって左が本になっている。
 祭神は少彦名命・大己貴命・息長足姫命(神功皇后)。
 淡島さま(少彦名命)は医薬の祖神、婦人の守り神、身体健勝、無病息災、病気平癒、子授安産。
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    絵馬
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    立派な灯篭
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    境内北東に白萩稲荷社、若永稲荷社。注連縄は左が本になっている。
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    本殿右に針塚、2月8日に針供養が執り行われる。
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    退筆塚(筆塚)
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    社務所、注連縄の本が左になっている。
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  社務所に蘇民将来。家内安全・無病息災のお守りで素戔嗚と関係が深い。
  蘇民将来子孫家、七難即滅、七福即生と書かれている。
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 神社の背後に胞衣塚(えなづか)がある。胞衣は胎盤やへその緒で、屋敷の隅に埋めることが多く、縄文時代から胞衣信仰は続いている。
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 天照大神の胞衣は恵那山の山頂に埋められたという伝承があり、山麓に恵那神社がある。場所は岐阜県中津川市ですから、この伝承は後付の付会でしょう。

 福岡県糟屋郡宇美町鎮座の宇美八幡宮(応神天皇御降誕地)の奥宮「御胞衣ヶ浦(えながうら)」に15代応神天皇(362年~403年)の胞衣を納めたと云う。

 26代継体天皇(450年頃~531年)の胞衣塚は滋賀県高島市安曇川町三尾里にある。安曇川駅の南800mほどの23号線沿い民家の裏にある。道路に小さな表示も出ている。
 高島市周辺が継体天皇一族の支配地だったのでしょう。安曇川駅の2km北西の安曇川町田中に継体天皇の父の彦主人王(ひこうしのおおきみ)御陵がある。

 菅原道真(845年~903年)の胞衣塚は京都市南区吉祥院政所町の吉祥院天満宮にある。吉祥院天満宮は北野天満宮より早く934年創建と云われる。菅原家は吉祥天を信仰し自邸内に吉祥院を祀っていた。道真はこの地に誕生したと云われ、境内に胞衣塚がある。

 牛若丸(源義経、1159年~1189年)の胞衣塚は京都市北区紫竹(しちく)牛若町(うしわかちょう)の畑の中にある。この地は父義朝(1123年~1160年)の別邸があり、母常盤御前(1138年~1180年)が住み、牛若丸はここで生まれた。

 119代光格天皇(1771年~1840年)の胞衣塚は京都市上京区荒神口通寺町の護浄院(清荒神)境内にある。
 120代仁孝天皇(1800年~1846年)の胞衣塚は京都市右京区西院の春日神社境内にある。
 121代孝明天皇(1831年~1867年)の胞衣塚は京都市東山区五条橋東の若宮八幡宮境内にある。
 122代明治天皇(1852年~1912年)の胞衣塚は京都市左京区吉田神楽岡町の吉田神社の斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)の東側にある。
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by enki-eden | 2015-06-27 00:06

四宮神社(よのみやじんじゃ、神戸市中央区)

 神戸市中央区中山手通5丁目2-13  電078-382-0438  駐車場なし。
 祭神: 市杵島姫命(通称 四宮弁財天)
      福の神で、厄除開運、文学芸能、弁舌、財宝神、水の神としても知られている。

 旧・八部郡(やたべぐん)花熊村(花隈村)の氏神で、花隈村は高級料亭の集まる花街であった。



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   赤い鳥居と社号標
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   拝殿
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   拝殿右手前に弁財天巳神社(弁財天巳大神)。
   市杵島姫命に仕え、お護りしている白蛇を祀っている。
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   八幡神社、祭神は誉田別尊(15代応神天皇、362年~403年)。
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   拝殿右奥に稲荷社(武富稲荷大明神、三義稲荷大明神、白嶽稲荷大明神)
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 弁財天芸能塚。弁財天崇敬会が1985年に建立、扇千景さんが名誉会長らしい。
当社は芸能関係者の崇敬が高く、毎年4月初旬に芸能塚祭が執り行われる。
      諸人よ わが道つとめ 花ひらく 恵みあたえん 智恵と宝を
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 港神戸守護神厄除八社(みなとこうべしゅごしんやくよけはちしゃ)の案内板。
当社は生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)の四宮である。神功皇后(321年~389年)が新羅遠征の帰途、生田神社を取り囲むように八ヶ所に裔神を祀り、当社を「四の御前の神」と名付けられた。
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図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 社務所、1995年の阪神淡路大震災で社務所が半壊したので、1997年に社務所を含む神社会館(1階から3階)が新築され、上階はマンション(4階から14階)になっている。
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by enki-eden | 2015-06-24 00:03

生田神社兵庫宮御旅所(ひょうごのみやおたびしょ)

 天照皇大神宮社(てんしょうこうたいじんぐうしゃ)
 神戸市兵庫区大開通6-4-8  電078-575-6294  駐車スペースあります。
 祭神: 天照大御神



 生田神社の氏子地域は神戸市中央区と兵庫区の広域にわたっているので、毎年4月15日の例祭に合わせて神幸祭(お渡り行列)が執り行われる。神幸祭の歴史は古く、1652年の記録が残っており、それより古くから行われていたようです。

 神幸祭では御神体を奉戴した神輿が巡幸の途中に御旅所で休憩する。御旅所の位置は一定していなかったが、兵庫地区氏子から水木通5丁目に社地の奉納があり、1898年に社殿が建設された。1899年に本社の生田神社から天照皇大神宮社を奉還し神社として整った。御旅所は天照皇大神宮社として兵庫地区の守護神となっている。
 当社の西の通りは御旅筋、商店街は御旅筋商店街、東隣りは御旅公園になっています。

 1945年の空襲で社殿が焼失したが、1952年に現在地に遷座・復興した。
 1995年の阪神淡路大震災で鳥居、灯篭、手水舎、社務所などが倒壊し、拝殿が傾いたが1年ほどで再建された。本社の生田神社も全壊したが、1年半ほどで見事に復興した。

 日本は災害が多いですが、日本人の底力はすごいですね。2011年の東日本大震災の後、楽天イーグルスの嶋捕手のスピーチが今でも思い出され感動します。
   東北の皆さん! 絶対に乗り越えましょうこの時を。絶対に勝ち抜きましょうこの時を。
   今この時を乗り越えた先には、もっと強い自分と未来が待っているはずです。
   絶対に見せましょう、東北の底力を!

 ネパール大震災で被災している人々も忍耐力と前向きの姿で助け合って立ち向かっているようです。日本と同じで大きな暴動や略奪はありません。
 私も1995年の阪神淡路大震災で家が全壊して大変でしたが、皆様に助けていただきました。

    赤い鳥居と社号標
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    手水舎
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    拝殿
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    本殿
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    拝殿右に神使稲荷神社
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    拝殿左に社務所(わかひるめ会館)
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by enki-eden | 2015-06-21 00:24

弥生時代と長江文明(江南文明)

弥生時代
 江南人(長江流域の呉・越・楚の人々)が列島に渡来してきた。江南人は目が細く、鼻は低く、体毛は薄く、縄文人とは大きく違う。
 江南人の渡来により、本格的に水田稲作の農耕生活開始。江南の水田に生える雑草や昆虫も稲と一緒にやってきた。
 江南人は道教的な庶民宗教や思想を広めた。縄文人と江南人が交わり弥生人となって弥生時代の幕開け。

江南人
 中国春秋時代の呉・越・楚の人々。長江(揚子江)の中下流域に住んでいた。民族的・文化的に漢民族とは異なり、倭人と呼ばれていた。
 黄河流域の漢民族が麦の畑作と牧畜で、漢字を使っていたのに対し、江南人は水田稲作、養蚕、漁労、交易で、呉と越は文字をあまり使わなかった。
 1993年に楚文字で書かれた竹簡が大量に発見された。楚の貨幣は貝の形をした青銅貨で独自の文化・経済を形成していた。楚の埋葬は漢と違って頭を南向きに安置する。

 江南人の海洋民がインドネシア、マレー、沖縄、九州、吉備など各地に進出して交易を行っていた。日本には3、000年以上前から交易に来ていた。従って縄文時代末期には江南文化が徐々に広がり出しており、稲作も一部行われていた。

 呉は太湖や揚子江(長江)を挟んで越と対立し、抗争を繰り返していた。呉も越も大型船の建造と外洋航海に優れ、青銅器・鉄器を使用していた。呉王夫差がBC473年に越王勾践に敗北し、呉は滅亡した。越に滅ぼされた呉人は江南を追われ、北上して山東省徐州へ逃れる。

 越は浙江省紹興(会稽)に都を置き広大な版図をもった。良渚文化圏とほぼ重なり、河姆渡遺跡もこの中に含まれる。越は北に接する呉と抗争を繰り返し、これを破り揚子江(長江)下流域の覇者となったが、越王無彊はBC334年に中流域の大国・楚の威王熊商に敗れ、越人は滅亡した。
 越人は南下してベトナムや雲南に逃れ、北上したグループは山東省徐州の呉人を追い出す。呉人と一部の越人は朝鮮半島南部、九州、山陰などにやってきた。

 楚は大きな版図をもった広域国家で、稲作農業を中心に製銅・製鉄・漆器・紡績などが発達していたが、戦国末期に秦と死闘の末、BC223年に敗れた。
 楚人は各地に逃れ、一部の海洋民は日本列島にやってきた。楚の国姓は羋(び)で、王族は熊(ゆう)氏である。列島にやってきた楚人は地名・人名に「熊」や「隅」を使ったと考えられる。素戔嗚尊の「熊野」も楚人由来か。

 このように江南人はBC5世紀からBC2世紀の間に波状的に渡来し列島全土に広がっていったので、縄文時代から弥生時代に移っていく。
 江南人は高度の文化と有力な水軍を保有している。阿曇氏、海部氏、尾張氏、和邇氏、宗像氏などの水軍となって山陰方面や瀬戸内方面、朝鮮にも進出して交易をした。やがて畿内にもやってきて盛んに交易をしていた。
 海洋民は鉄を独占する事で農民を支配したので、交易路と製鉄技術を重視した。

 江南人にとって江南に似ている日本の気候は住み易く、急速に日本中に広がって行った。今は梅雨の時期ですが、天気図を見ると良く分かるように、梅雨前線が長江から日本列島に長く拡がり、前線下に水田稲作に適した気候をもたらしている。特に有明海から筑後川沿い、瀬戸内海沿いなどは江南人の好む気候・地形であった。
 そして江南人は水田稲作以外に、高床式住居、千木、鰹木、竹馬、下駄、歌垣、鵜飼等をもたらした。
 また、租税を取ると云う仕組みや、国家創設や政治を行うシステムをもたらし、弥生時代が始まった。

 江南人は銅剣と銅鏡の二種の神器による祭祀をしており、銅剣は幅広、銅鏡は大型であった。これに八尺瓊勾玉が加わり三種の神器として弥生時代後期から古墳時代に全国に拡がっていった。三種の神器は現代の皇室にまで連綿と引き継がれている。

 江南人だけでなく、秦始皇帝の過酷な税と労役に耐えられない漢族も朝鮮半島や日本列島に逃れてきた。
                           ***

 6月22日(月)は夏至です。2013年6月16日投稿の「太陽信仰における夏至」、
2014年6月14日投稿の「ヨーロッパの夏至祭と冬至祭」をご参照ください。
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by enki-eden | 2015-06-18 00:15

弥生人のルーツ

 揚子江(長江)内陸部の中流域に「黄河文明」より早く「長江文明」が出現した。彭頭山(ほうとうざん)遺跡や城背渓文化が9,000年前から8,000年前にかけて出現、発達した稲作文化の環濠集落であった。
 その後、大渓(たいけい)文化(6,500年前~5,300年前)が出現、住居地を長江沿いから平野部に移し、灌漑農法による大規模農業を実施。手工業・交易・軍事などに従事する人々が表れた。
 大渓文化を引き継いだ長江中流域の屈家嶺(くつかれい)文化(5,500年前から4,500年前)では分業化が進み、町・都市・城壁都市・国家が成立。玉類、絹織物などが生産された。

 長江下流域には河姆渡(かぼと)文化が7,500年前から5,300年前まで存在した。河姆渡で水田稲作をし、海や長江で魚を捕る稲作・漁労民であった。
 動物の飼育や狩猟、養蚕、機織、漆、土器生産なども行っていた。食人習慣があったようだ。母系社会で高床式住居、倉などを建てた。

 6,000年前には河姆渡の南に馬家浜(ばかほう)文化が出現し、河姆渡文化を発展させて灌漑工事を進め、5,000年前まで続いた。
 馬家浜文化の後継として良渚(りょうしょ)文化が5,400年前に出現、父系社会で都市国家を造った。自然崇拝、太陽信仰、祖先信仰で政教一致。遺跡からは玉器や絹の出土がある。4,200年前に滅んだのは長江の洪水が原因か、または気候寒冷化による北方民の南下か。

 長江文明の民(江南人)のY染色体ハプログループはO2が中心で、黄河文明の民(漢人)のO3とは文化的、民族的に異なる。

 4,200年前に起こった気候の寒冷化によって、北方の黄河流域から漢族が南下してきた。彼らは畑作・牧畜民であり、長江中流域の民を雲南省や貴州省の山岳地帯やインドシナ半島にまで追いやった。これは現代のチワン族や苗(ミャオ)族など少数民族の先祖である。

 長江文明より遅れて発生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作・牧畜の階級社会で、近隣地域を侵略して支配地を拡げていった。
 一方、長江の稲作・漁労民は自然の恵みの中で争いの少ない文明を築いていたので、侵略に長けた北方民に対して長江の民は敗れ、奥地に逃亡した。

 漢族の南下によって雲南省・貴州省などの奥地に逃亡した長江中流域の民の子孫と見られる苗(みゃお) 族の村は日本の弥生時代とよく似た風俗である。苗族は味噌、醤油、なれ寿司などを作り、漆や絹を使っている。川魚を捕り、鵜飼いも行なわれている。
 長江中流域の民はインドシナ半島にまで逃れる人々もあった。下流域の民はベトナムや台湾、日本に逃れてきた人々もある。

 江南人の列島への渡来で最も古いのは6,000年ほど前の縄文時代で、岡山県の朝寝鼻貝塚(あさねばなかいづか)や彦崎貝塚に稲のプラントオパールが大量に見つかっており、稲作が行われていたことが分かる。
 有明海周辺や吉備には4,000年前から3,000年前に江南人が住み着いたと考えられる。
 佐賀県唐津市の菜畑遺跡の水田跡は2,600年前である。彼らは稲作と太陽信仰の民であった。

 縄文遺跡の水田遺構、プラントオパール分析、縄文土器の米粒圧痕、炭化米などにより、縄文時代から稲作が行われていたことが分かる。
 やはり、縄文時代の稲作関連遺跡は九州と岡山県に多いが、大阪府、兵庫県、山梨県、新潟県、青森県にも存在する。縄文時代でも海岸や川沿いに舟で移動し、列島広範囲に交易が行われていた。

 長江流域の民は江南人、或いは倭人とも呼ばれ、後に呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)が建国される。
 江南人(倭人)は稲作や青銅器で栄えたが、春秋戦国時代に呉越の戦争(BC473年)、楚越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、BC5世紀からBC2世紀に渡って波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に逃亡してきたので、縄文時代が終わり弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となった。
 江南人(倭人)が列島に多くの国を造ったので倭国と呼び、住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が多く、開口部を上にして埋められた。
 長江中流域から出現した「楚」はこの風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だったことがある。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。

 日本の銅鐸は弥生時代のBC3世紀から紀元3世紀まで祭祀に使用され、弥生時代末期に消滅した。銅鐸は丘の傾斜地の浅い所に埋納されている。
 この銅鐸と銅鐃の共通性から判断すると、弥生人の中でも楚人が銅鐸を全国に広めて祭祀に使った可能性が高い。楚人の代表は素戔嗚(西暦140年頃~200年頃)系・出雲系で、銅鐸祭祀の末期に活躍した。

 銅鐸祭祀が消えたのは、西暦200年頃の「素戔嗚の死」と「出雲の国譲り」が関係していると考えられる。楚人は強くて文化程度も高かったが、Y染色体ハプログループの分析によると、列島での楚人(O1a)の人口比は3%強で人数が少なかった。越人(O2a)は1%強で最も少なく、呉人(O2b)は33%ほどもあり大勢力であった。呉人は奴国の中心勢力だと考えられる。晋書、梁書などに「倭は自ら呉の太伯の後という」とある。
 黄河系の漢人(O3)は15%と意外に多い。秦の始皇帝の圧制を避け、列島に来た漢人は存在するが、江南人のY染色体ハプログループに含まれるO3もある。
 3世紀後半になると、銅鐸に替わって三種の神器が祭祀に使われ、弥生時代から古墳時代に突入、三種の神器は現代の皇室にまで連綿と継承されている。
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by enki-eden | 2015-06-14 00:19

川内多々奴比神社(かわちたたぬいじんじゃ、篠山市)

 兵庫県篠山市下板井74  電079-593-0500 無料駐車場ありますが入り口が狭い。
 丹波国多紀郡鎮座、旧郷社で別名「一の宮」という延喜式内社。
 祭神: 天照皇大御神、建速素戔嗚命。

 10代崇神天皇の時代(西暦300年頃)、四道将軍・丹波道主命が当地で戦勝を祈願した。当地・川内郷の豪族は楯縫氏で、朝廷に仕え、祖神(彦狭知命、ひこさしりのみこと)を祀っていた。
 「狭知、さしり」は「度量知、さししり」で物の大きさを量ること。設計士ですね。
 社名の川内は川内郷、多々奴比(たたぬい)は楯縫(たてぬい)の事です。

 神社の手前、舞鶴若狭自動車道の高架下に高速道建設で壊された古墳跡があるが、楯縫氏の古墳だったのでしょう。発掘調査で石ヤジリなどが多数出土したが、出雲産の石と同じだったので、楯縫氏の先祖は出雲から丹波に移住してきた事が分かる。

 出雲国に楯縫郡楯縫郷(島根県出雲市)があった。この地で出雲大社の神事用に楯を作っていた。楯縫氏は出雲国から丹波国へやってきて、祖神の彦狭知命を祀った。次に但馬国に移動していった。
 但馬国の楯縫神社は兵庫県豊岡市日高町(但馬国気多郡、けたぐん)、養父市建屋(やぶしたきのや、但馬国養父郡)に鎮座している。祭神は彦狭知命。



     神社の縁起
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     石の鳥居、左が駐車場。
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     階段を登った所に神木のイチョウ(垂乳根のぎんなん)、手前は杉。
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     拝殿
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     摂津守源頼光の駒止めの樫(2代目)
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     本殿
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     拝殿横に大きな椿
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     本殿横の階段を登ると愛宕社(あたごしゃ、防火の神様)
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     愛宕社から本殿を望む
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by enki-eden | 2015-06-11 00:07

波々伯部神社(ほうかべじんじゃ、篠山市)

「丹波の祇園さん」
兵庫県篠山市宮ノ前3-2  電 079-556-3382  駐車スペースあります。
祭神: 素戔嗚尊

創建 680年発祥とも云われるが、1098年に京都の八坂神社から勧請し、
   神仏習合時代は素戔嗚尊、薬師如来、牛頭天王を祀っていた。



 波々伯部の集落は、古代の朝廷で亀卜に使う「ハハカ」の木を献上する部民が居住していたから「波々伯部」の地名となった。1098年に波々伯部村の有力農民13名が、25町8反の田地を京都の八坂神社に寄進した。それで波々伯部村は祇園社領となった。

 波々伯部神社はデカンショ街道(篠山街道、国道372号)沿いに鎮座しており、鎌倉時代から波々伯部氏との関係が深い。神紋は波々伯部氏と同じ「対い鶴(むかいづる)」である。
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 8月の例祭(祇園祭)は素戔嗚尊が大歳神社(大歳大神)まで御旅に出かける伝統行事。例祭の「おやま行事」は国選択無形民俗文化財となっており、「操り人形(デコノボウ)」が兵庫県指定有形民俗文化財になっている。

   青銅の鳥居(篠山市指定文化財)と社号標
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   案内板
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   杉の大木が多い。
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   拝殿
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   本殿
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 境内東に境内社、右から天満神社、秋葉神社、春日社、蛭子社と稲荷社。
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 境内西の社務所と杉の大木(幹周り6.7m、高さ45m)、奥には護摩堂がある。
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by enki-eden | 2015-06-07 00:18

大賣神社(おおひるめじんじゃ、篠山市)

 兵庫県篠山市寺内356   電079-552-1096  駐車スペースあります。
 丹波国多紀郡に鎮座、篠山城の北2km。
 祭神 大宮賣命(おおみやのめのみこと)、
     素戔嗚尊、大歳命、応神天皇、武甕槌命、大山主命、経津主命、
     天児屋根命、姫大神ほか。

 創建 
  11代垂仁天皇の時代(4世紀前半)に、皇女が天磐船で当地にやってきて、榊を植え、
  注連縄を張り木を曲げて神籬を立て、大日霊命(天照大神)を祀る。
  50代桓武天皇の時代(西暦800年前後)に社殿を造営。



 当地の旧住所は城北村寺内字昼目谷となっている。大日霊命(おおひるめ、天照大神)の名に因む地名になっている。

   社号標、山裾に鳥居が見える。
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   案内板
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   拝殿
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   本殿
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   本殿右にある階段の上の左右に小さな狛犬(市指定文化財)が鎮座。
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   右の石碑は山の神、赤い屋根の祠は右から八坂神社、天満神社、厳島神社。
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   手前に大きな礎石
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   本殿左に琴平神社
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   笠鷺稲荷神社(宇賀魂命、大己貴命)、家内安全、商売繁盛、「おできの神様」。
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   神社西方の山々。境内では鶯が鳴き、畑ではひばりが鳴いていました。(3月末)
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by enki-eden | 2015-06-04 00:07