古代史探訪

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魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)

 「津の宮」、播磨国揖保郡鎮座、延喜式中臣印達神社の比定社の一つ。
 兵庫県姫路市網干(あぼし)区宮内193   電079-272-0664 
 境内に車を停められます。

 祭神: 中央御前に品陀和氣命(ほんだわけのみこと、15代応神天皇)、
      東御前に息長足比売命(神功皇后)、
      西御前に玉依比売命(初代神武天皇の母、海神)。



 神宝として九州製の広形銅矛(祭祀用)があります。播磨国風土記にも筑紫・因幡・出雲・但馬・讃岐などの話が記されているので各国と交易していたことが分かる。
 また、博多西新(にしじん)の住居跡には筑紫型、播磨型、朝鮮型があるので、人々が往来して交易をしていた。
 兵庫県の大中遺跡(加古郡播磨町大中)には筑紫系の方形住居跡がある。
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神社の由緒:
 神功皇后摂政3年(神社の説明では西暦202年となっているが、私見では365年)、神功皇后が新羅より御環幸のとき、当宇須伎津(うすきつ)の湊に船を泊められた際、神託を受け、この宇須伎津に小社を建立し玉依比売命をお祀りし、敷島宮(しきしまぐう)と号した。これが当社の起源となる。
 後に16代仁徳天皇(380年頃~427年頃)が紀角宿禰に命じ、15代応神天皇(362年~403年頃)と神功皇后(321年~389年)を当宇須伎津に合せ祀らせた。25代武烈天皇の時(在位498年頃~506年頃)、魚の砂吹き寄せ故事により、魚吹大神宮と号せられた。

 神社の説明によると、『神功皇后は仲哀天皇崩じて後、69年間にわたり摂政として御子応神天皇を助けられ、百才まで生きられたと伝えられている。
 このことから、延命長寿の神、厄除開運の神として信仰され、交通安全の神とも仰がれている。安産子育ての神としても信仰が厚い。』

 当社は12世紀の中世においては石清水八幡宮別宮の一つと数えられた。1650年にわたり当地方の産土神として信仰と伝統が受け継がれてきた。

 日本書紀による神功皇后年を分析、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 神功皇后系図
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 神社の説明によると、『魚吹(うすき)」の由来について、播磨国風土記には宇須伎津(うすきつ)と見え、本来、当地方は海べりの砂堆積地であった。神功皇后伝説と相交わり、魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地ができたと云い伝えられている。
 この伝承は、魚は人と置き換え、多くの人々が海を埋めて土地を開いていったと解するのが自然である。
 また、当地網干(あぼし)の地名も当社祭礼に漁民が一斉に休漁して、網を干して参詣したので網干と云うようになったと伝えられている。』

 武神祭(3月最終土曜日の鬼追い)は姫路市無形民俗重要文化財、秋季例祭風流(10月21日、22日)は兵庫県と姫路市の無形民俗文化財になっている。

   立派な楼門、兵庫県有形重要文化財。
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   手水舎、近づくと水が出る。
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   拝殿も立派です。
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   拝殿横に日露戦争の戦利品(大砲の弾)が据えられている。
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   拝殿と本殿を望む。
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   本殿、姫路市有形重要文化財。
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   本殿瑞垣内に武内神社(武内宿禰)の祠が鎮座。
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   楼門の右手に厳島神社(市寸嶋比売命)、
   水の女神、歌詠・音楽の神、才色兼備の神、福徳財宝の神。
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   鐘楼
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   社務所の前に江戸時代の三ノ宮卯之助が持ち上げた力石と像。
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   さざれ石(岐阜県春日村産出)
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   明治35年作、拝殿軒唐破風飾瓦。
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   立派な神輿
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   金刀比羅神社(大巳貴神)、縁結びの神、海上交通の守り神。
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   三神社(瓊瓊杵命、神日本磐余彦命、崇神天皇)
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   敷島神社(国常立尊、伊弉諾命、伊弉冉命、別雷神)、兵庫県有形重要文化財。
   別雷神(わけいかづちのかみ)は大山咋命の子で、山の神・川の神・雷の神。
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   松尾神社(まつのおじんじゃ、大山咋命と木花開耶比売命)
   大山咋命は大歳神の子、木花開耶比売命は大山祇神の子で瓊瓊杵命の妃。
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   放生池と征露記念碑
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by enki-eden | 2015-07-30 09:08

平原(ひらばる)王墓の埋葬方向

 福岡県糸島市有田の平原遺跡1号墓(平原王墓)の埋葬方向は、東方の日向峠(ひなたとうげ、246m)に向いている。

   赤のアイコンが平原遺跡、黄が日向峠


 この王墓から耳璫(じとう、イヤリング)が出土しているので、被葬者は女性(女王)とされる。築造時期は200年から250年の間と考えられ、弥生時代末期(卑弥呼の時代)の伊都国にある王墓です。
 豪華な副葬品からすると、この被葬者は女王か祭祀長(巫女)だったのでしょう。東方の日向峠に脚を向けて埋葬されていたので、日向峠から昇る朝日の光が股間に射して太陽と交合するイメージです。

 王墓の形状は14m×12mの四隅が丸い長方形の方形周溝墓で、中央に木棺が埋葬されていた。副葬品は銅鏡40枚、素環頭鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数。銅鏡の中に直径46.5cmの内行花文鏡が5枚あり、日本最大の銅鏡で八咫鏡と同じではないかと云われている。
 女王や巫女はこの大きな鏡を毎朝太陽に向けて祈っていたのでしょう。重さは約8kgもある。
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 2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。

 大和国では西暦200年前後に100m程の長さの纏向型前方後円墳が築造されているので、副葬品は伊都国の方が圧倒的に立派ですが、墳墓の規模は大和国が圧倒しています。

 そして、日向峠の立地は、大阪府南河内郡太子町の磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)から山道を通って奈良県葛城市へ通じる竹内街道(日本初の官道)の竹内峠(310m、二上山の南)に似ていると感じます。
 磯長谷古墳群にある皇族の陵墓は敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵、聖徳太子廟などです。大和国に住む皇族が山を西に越えた河内国に陵墓を造る。

   赤のアイコンが磯長谷古墳群、黄が竹内峠


 倭王を兼務する奴国の王族が山を西に越えた伊都国に墳墓を造る。そして竹内峠が二上山の南にあるように、日向峠は高祖山の南にある。

 平原王墓、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などは伊都国王族の墳墓と見られているが、奴国王族の墳墓であれば、竹内峠と日向峠は条件がよく似ています。
 三雲南小路遺跡の被葬者は天孫瓊瓊杵と妃の木花開耶姫という説がある。遺跡の90m東に細石神社(さざれいしじんじゃ)が鎮座。祭神は磐長姫命と木之花開耶姫命の姉妹で、神社は王墓の拝殿とも云われる。
 細石神社から見て、夏至の日の朝日は高祖山(416m)から昇ります。夕日は可也山(365m)に沈みます。三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡からもほぼ同じです。
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 同じようにして、平原遺跡から見て日向峠から日の出が昇る時期は何時かを調べることができます。
   日の出・日の入り
 地図上の平原遺跡をクリックし、年月日を入力、「計算」をクリックすると日の出、日の入り時間と方向が示されます。「2014年10月22日」を入力して調べると、日向峠が日の出の方向になります。平原遺跡の時代「200年10月22日」でも同じ結果です。
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 但し、現在の地軸の傾度は23.4度ですが、4万年の周期で21.5度から24.5度の間で地軸の傾度が動きます。そして2万年の周期で歳差運動(コマの首振り運動)が一周します。
 現在は日本の中央部から南十字星はみえませんが、西暦200年には大和国(奈良県)でも南十字星が見えたと云う。

 平原遺跡から見て日向峠から朝日が昇るのは現在では10月22日前後ですが、西暦200年から250年ではもう少し時期が遅かったでしょう。いづれにしても、この埋葬方法は太陽信仰と密接に繋がっています。被葬者については卑弥呼、豊玉姫、玉依姫、磐長姫などと云われます。

 平原王墓の説明YouTubeをご覧ください。ご当地意識が少し強いですが・・・
   YouTube
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by enki-eden | 2015-07-26 00:08

饒速日命(にぎはやひのみこと)

 古事記では邇藝速日命と記され、物部氏、石上氏、穂積氏、厚東氏、阿刀氏、熊野国造、三河国造などの祖神。弓削氏も関係が深く、物部守屋(587年没)の父は物部尾輿、母は弓削倭古の娘・阿佐姫で、物部守屋は物部弓削守屋(弓削大連)と称した。

 饒速日命は物部氏の祖神名や先代旧事本紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と記される。この長い神名は物部氏側が、天照国照彦天火明尊(海部氏・尾張氏の祖神)と櫛玉饒速日命(物部氏の祖神)を同一視して両氏の同族を強調して繋げたものと考えられる。
 海部氏や尾張氏側は同一視していない。

 両祖神は別神で、私見によると天火明命は西暦140年頃出生の海人族、饒速日命は素戔嗚の第5子で、165年頃出生の製鉄族・製銅族、子孫の物部氏は祭祀・軍事を司る。

 天火明命の子孫は天孫族、饒速日命の子孫は天神族で別神である。それにも関わらず、後世の物部氏が饒速日命を天火明命と同一神にする必要があった。
 7世紀末の大和朝廷(41代持統天皇と藤原不比等)によって皇祖は天照大神とされ、饒速日が天孫・皇孫ではなく天神とされたので、後世の物部氏(先代旧事本紀の編纂者)が饒速日命は天孫・皇孫であることを主張するために、饒速日を天照大神の孫として記した。

 記紀編纂の作業をしていた7世紀終わりの大和朝廷は41代持統天皇と藤原不比等の時代である。その記紀において、素戔嗚は高天原から追放され、天津神から国津神に落とされてしまった。饒速日(布留、大歳)は素戔嗚の子であるので天神とされ、新撰姓氏録でも天神とされた。

 9世紀後半に物部系により編纂されたと考えられる先代旧事本紀は記紀などの記録に合わせながら、それとなく修正・改定する意味合いを含んでいるようである。
 同じように807年に編纂された古語拾遺も斎部広成が忌部氏(斎部氏)の正当性を訴える要素を含んでいる。物部氏もこれに倣ったか。

 古事記では天火明は天孫・天忍穂耳の子と記しているが、先代旧事本紀は天火明と饒速日の名前を繋いで一神の名とし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日が天忍穂耳の子と記した。饒速日は天孫であると主張するための細工だと考えられる。
 先代旧事本紀は大歳(饒速日の実名)は素戔嗚の子と記している。
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 私見による系図は次の図です。
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 出雲国風土記には神須佐乃烏命の子が大歳神と記されている。
 多くの古代史研究者が素戔嗚、饒速日は7世紀末の大和朝廷によって抹殺された覇王であると主張している。大和朝廷は天照大神が皇祖で、持統天皇(和風諡号は高天原広野姫天皇)はその再来であると主張した。

 私見ですが、皇室の基盤を築いたのは素戔嗚を始め出雲族であり、素戔嗚が亡くなった西暦200年頃に後継者の大国主が高皇産霊から国譲りを強制された。

 饒速日(大歳)は性格が素戔嗚によく似ているところから、素戔嗚が最も信頼した息子である。素戔嗚は河内国や大和国の統治を若い饒速日(大歳)に託した。饒速日は瀬戸内の制海権を確保するための拠点を讃岐(香川県)と播磨(兵庫県)に置いた。兵庫県には大歳神を祀る神社が390社近くも鎮座している。これは大歳(饒速日)の神徳が大きかった証しです。
 
 瀬戸内海地方は降雨量が少ないので、大歳は讃岐国や播磨国で水田稲作や畑作のために溜め池を造るように指導した。だから兵庫県は溜め池が圧倒的に多く、日本で一番多い。二番目が広島県で、香川県は三番目に多い。
 その灌漑用の溜め池が本来の用途以外にも使われている。池に太陽光パネルが新設され始めた。溜め池が多いから、これからの増設が期待される。これも大歳神の御神徳でしょう。

 饒速日は西暦185年頃に東遷し、北部九州から大部隊で河内国と大和国へやってきたので大きな争いは起きなかったでしょう。東遷に従った人々の名は先代旧事本紀に載っているが、遠賀川と筑後川沿岸部の物部族と共に、安曇・海部・尾張・鴨・対馬・壱岐などの海人族、高皇産霊の子や孫も従っている。25軍団というから膨大な人数だった。
 東遷の目的は列島統一だと考えられるが、西暦180年代に勃発する大陸の戦乱と倭国大乱が東遷のきっかけになったのでしょう。大陸と近い筑紫(北部九州)ではなく、河内国・大和国を政治・経済・文化の中心地に選んだと考えられる。全国から波状的に人々が集まり人口が増え、大きな市も開かれ大発展していった。

 大和国の中心地は長髄彦(ながすねひこ)の唐古・鍵(磯城郡田原本町)であったが、饒速日は5km南東の纏向(桜井市)を都とした。この頃に不定形の纏向型前方後円墳が造られるが、3世紀後半の崇神天皇の時に定型的前方後円墳の箸墓古墳が完成して弥生時代から古墳時代に入っていく。
 纏向には10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇が宮を設ける。景行天皇が崩御する西暦350年頃に纏向は急速に衰える。

 饒速日は近畿地方だけでなく、東国(中部地方)・関東・北陸・東北まで開発を進めていく。その実行者の一人は天香語山(彦火火出見、155年頃出生)で、東国から北陸へと開拓を進め、越国の弥彦神社(やひこじんじゃ、いやひこじんじゃ、越後国一宮、新潟県西蒲原郡弥彦村)に祀られている。神社後方にある神体山の弥彦山頂に鎮座の「奥の宮」が天香語山と妻の熟穂屋姫(うましほやひめ)の神廟となっている。

 秋田県大仙市協和鏡下台の唐松神社に秋田物部文書と有名な饒速日肖像画がある。
 秋田物部文書によると、物部守屋が587年に蘇我氏によって滅ぼされたので、守屋の子・那加世(なかよ、3才)は物部家の家臣捕鳥男速(とっとりのおはや)に抱かれて東方に逃げ延び、秋田仙北郡(現、大仙市協和)の日殿山に入り「日の宮」(祭神は饒速日命)の神官になった。
 そして年を経て、その那加世の末裔が秋田の唐松林(大仙市協和町上淀川)に定住した。現在の唐松神社宮司家物部氏は、この那加世を初代として現在まで60代以上続いている。
 物部家では、代々の当主がこの文書を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたが、1984年に名誉宮司の物部長照氏がその一部を公表、しかし大部分は未公開のままである。
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by enki-eden | 2015-07-23 00:31

五十(いそ)は伊都

 10代祟神天皇(250年頃~318年頃)の和風諡号は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇と云う。
 皇后は9代開化天皇(245年頃~293年頃)の姪である御間城姫であるから、「御間城入彦」は大和の皇室に入り婿になったと云う意味があると考えられる。
 次の「五十」は「い」、「いそ」、「いと」で伊都国。
 「瓊殖(にえ)」の「瓊」は「玉」、「殖」は増えるだから、「瓊殖」は「国が栄える」と考えられる。
 「みまきいりひこいにえ」とは「大和の皇室に入った王。大和に来る前は、奴国の西の伊都国(五十国、磯国、怡土国)を栄えさせた王。」と考えられる。

 祟神天皇の大和での宮は磯城(しき)の瑞籬宮(みずかきのみや、奈良県桜井市金屋付近)と云う。
 磯城(しき)も本来は「いそき」でしょう。
 初代神武天皇(181年頃~234年頃)の皇后は媛蹈鞴五十鈴媛、別名・伊須気余理比売(いすけよりひめ)で、「伊須気」は「いそき」の訛りと考えられる。磯城依姫(いそきよりひめ、しきよりひめ)のことで、磯城邑の依姫です。
 その後も磯城氏から天皇家に皇后・妃が多く嫁いでいく。

 祟神天皇は皇女の豊鍬入姫に笠縫邑檜原神社で天照大神を祀らせた。皇女の渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に倭大国魂神を祀らせたが、体が悪くなり祀ることができなくなった。
 崇神天皇は7代孝霊天皇(230年頃~276年頃)の皇女・倭迹迹日百襲姫の神託により、大神神社(おおみわじんじゃ)で大田田根子に大物主神を祀らせた。また、倭大国魂神は大和神社(おおやまとじんじゃ、奈良県天理市)で市磯長尾市(いちしのながおち)に祀らせることになった。
 市磯長尾市は神武東遷の時に、瀬戸内海を水先案内した椎根津彦の子孫で倭氏(倭直)の祖。

 筑紫の天照大神を崇神天皇の皇女が祀ることができたが、大和の倭大国魂神と大物主神を祀ることはできなかった。これは祟神天皇が大和で生まれた天皇ではなく、筑紫からやってきて皇室に入った天皇だったからと考えられる。
 私見ですが、神託を預言した倭迹迹日百襲姫は270年頃に大和に東遷してきた臺與(235年頃~295年頃)だと考えています。

 私見による伊都国の範囲を赤い線で記してみました。
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by enki-eden | 2015-07-19 00:12

五十猛(いそたける、いたける)

 五十猛(西暦160年頃~220年頃)は対馬国・壱岐国・肥の国(佐賀県・長崎県)・伊都国・志摩国など北部九州の西半分を治めていたと考えられる。五十は磯で伊都国、猛は王、王子で、五十猛は「伊都国の王」と考えられる。伊都国は女王国(倭国)に属していた。

 後に五十猛は紀伊国(和歌山県、木の国)を治めた。和歌山県には伊都郡もある。那賀郡もあったが現在は「紀の川市」となっている。人々が伊都国や那賀国(奴国)から紀伊国へ移住して来たのでしょう。
 紀伊国一ノ宮の伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)も五十猛命(いたけるのみこと、伊太祁曽神)を祀っている。
 五十猛は素戔嗚の第2子で、別名は射楯神(いたてのかみ)とも云う。
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 島根県仁多郡奥出雲町大呂(おおろ)の鬼神神社(おにかみじんじゃ、祭神は五十猛命と素戔嗚命ほか)の裏山に五十猛の墳墓(長円墳に五十猛尊御陵地の石碑)がある。近くの仁多郡奥出雲町横田に伊賀多気神社(いがたけじんじゃ)が鎮座、祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。
 当地は玉鋼(たまはがね)の産地で、6km東南には船通山(せんつうざん、鳥上山1,142m)があり、斐伊川はここから流れている。
 鬼神神社の18km南には伊弉冉尊の墳墓と云われる比婆山(ひばやま、1,264m、広島県庄原市)がある。比婆は蹈鞴製鉄の「火場 ひば」のことであるとも云われる。
   赤のアイコンが鬼神神社、黄が船通山、青が比婆山。


 島根県大田市五十猛町(おおだし いそたけちょう)に五十猛神社(いそたけじんじゃ)が鎮座、地名にも神社名にもなっている。
 五十猛の名は日本書紀と先代旧事本紀に記述があるが、古事記と出雲国風土記には記されていない。古事記の大屋毘古神や木俣神と同じと云われることがある。

 記紀には出雲の斐伊川上流で素戔嗚が八岐大蛇を退治したと記されるが、出雲国風土記には記述がない。私見ですが、記紀に記されている「出雲」の地は島根県ではなく、北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)のことでしょう。
 北部九州の東半分は素戔嗚尊と高皇産霊神が治めた。東部の豊国(投馬国)は饒速日が治めたと考えられる。

 福岡県筑紫野市の筑紫神社(ちくしじんじゃ)の祭神「筑紫の神、筑紫の国魂」も五十猛という説がある。筑紫の国は白日別(しらひわけ)、五十猛は筑紫の国魂・白日別神。 神社の3.5km南西に基山(きざん、405m)がある。


 福岡市西区の白木神社、糸島市王丸の白木神社の祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。

 佐賀県杵島郡白石町辺田の稲佐山中腹に稲佐神社が鎮座、五十猛神・大屋津姫ほかを祀る。鳥居は私の大好きな、どっしりとした肥前鳥居です。三の鳥居は1,585年築造の古い鳥居で白石町の重要文化財です。
 佐賀県杵島郡の「杵島、きしま」の地名は五十猛(木の神)に由来する「木島」です。

 妻山神社(稲佐神社の北3km、佐賀県杵島郡白石町馬洗、しろいしちょうもうらい)に「木の神」の抓津姫(つまつひめ)と兄の抓津彦命(つまつひこ、五十猛命)が祀られている。当社も美しい肥前鳥居で白石町の重要文化財になっている。神社の西に杵島山(345m)と勇猛山(いみょうやま、259m)がある。
 杵島山は五十猛と妹の大屋津姫、抓津姫が木の種を蒔いたので名付けられ、勇猛山は五十猛のことです。
 杵島の地は12代景行天皇の熊襲討伐記によると狗奴国領であったことを示唆している。
   赤が稲佐神社、黄が妻山神社


 五十猛は素戔嗚の第2子ですが、五十猛が抓津彦と呼ばれていることは、素戔嗚の娘・抓津姫の婿だったのかもしれない。五十猛は海人族の要素が多い。天火明の孫に天村雲(天五多底、あめのいたて)があり、綿津見豊玉彦の孫に武位起(たけいたて)がいる。これが五十猛かもしれない。
 私見ですが、海人族の要素の多い五十猛が素戔嗚の娘の抓津姫を妻としたので、五十猛は素戔嗚の子となった可能性がある。或いは五十猛の父は素戔嗚で、母が櫛稲田姫ではなく伊都国の海人族だったのでしょうか。

 肥前国基肄郡(きいぐん、現・佐賀県三養基郡)の基肄も紀伊(木)でしょう。三養基郡基山町の荒穂神社(五十猛命)が元は基山山頂に鎮座していたので基山を神体山としている。


 五十猛は製鉄族の素戔嗚と櫛稲田姫の第2子となっているが、統治地域は北部九州の甕棺墓の出土地域に重なる。甕棺墓は江南の海人族(倭人)の墓である。イソタケルはイソ(磯)のタケル(武)と解釈すれば海人族の名になる。
 綿津見豊玉彦の孫に日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず)がいるが、「なぎさたけ」と「いそたける」は同じ意味になる。
 安曇氏の祖と云われる磯武良(いそのたける、いそたけら、安曇磯良)も五十猛と発音が同じ。

 五十猛の紀伊国統治地域は名草(なぐさ)郡であった。名草の由来は渚(なぎさ)なのか。郡名の由来について紀伊続風土記(1839年完成)に「ある説では渚の意味なり」と記されている。

 五十猛、大屋津姫、抓津姫が全国で木の種を蒔いた故事は、「鉄穴流し(かんなながし)」で大量の土砂を流して山が崩れ、採った砂鉄を「蹈鞴製鉄」で大量の木材を使用して禿山になってしまったのを修復する意味合いがあった。
 植樹により治山治水を行ったので五十猛は「木の神」、「林業の神」として信仰されている。

 素戔嗚、五十猛、饒速日(大歳)など素戔嗚系を祀る神社は全国で圧倒的に多い。素戔嗚系が全国を統治した結果の根強い信仰でしょう。
 しかし、記紀には素戔嗚系の立場が悪く、高天原から追放され天津神から国津神に落とされる。これは663年の「白村江の戦い」で唐と新羅に大敗し1万名もの死者が出たことと関係があるでしょう。記紀が成立したのはその50年後であるから、新羅と縁の深い素戔嗚系を落とし込む必要があった。
 白村江の戦いから150年後の810年になると52代嵯峨天皇が即位し、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」と讃えた。これで素戔嗚系の名誉は復活するが、事跡は消されたままで蘇らず、分からないことが多い。

 私見ですが、素戔嗚の代わりに皇祖とされた天照大神は一柱の神ではなく、41代持統天皇と藤原不比等により三柱の神が習合されたと考えています。
 最初の一柱は素戔嗚の姉とされる天照大神で、野椎神(のづちのかみ)の可能性がある。
 次の一柱は西暦179年頃出生で201年頃に女王となる卑弥呼が考えられる。卑弥呼が247年頃に亡くなる(天照大神が天の岩屋に隠れる)と、次の一柱は235年頃出生で248年に女王となる(天の岩屋から現れる)臺與が考えられる。
 この三柱の神を習合して天照大神として祀ったと私は考えています。そして持統天皇を天照大神の再来として位置づけた。和風諡号は高天原広野姫天皇です。
 神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
 次の図をクリックし、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 豊玉姫は豊玉彦の子ではなく、妻だという説がある。豊玉姫の夫は彦火火出見で天火明も彦火火出見。豊玉彦と天火明は同一人か。同じ人物でも部族によって呼び方が違った。それは実名ではなく美称だから見方によって色々な名で呼ばれた。
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by enki-eden | 2015-07-16 00:23

素戔嗚神社と今津神社(磐長神社)、(神戸市西区玉津町)

素戔嗚神社
 神戸市西区玉津町高津橋(こうづばし)558   駐車スペースあります。
 祭神: 素戔嗚命

   赤のアイコンが素戔嗚神社、黄が今津神社


    石の鳥居
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    拝殿
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    境内社
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    春日社(春日大神)
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    八幡宮
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    石の鳥居の右手に稲荷社
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   素戔嗚命の系図
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今津神社(磐長神社)
 神戸市西区玉津町今津364-55  駐車場なし。
 祭神: 大山祇神、磐長大神、木花開耶姫命、姫命。

 大山祇神(大山積神、別名:和多志大神、酒解神)は娘の磐長姫と木花咲耶姫を天孫瓊瓊杵尊に妃として差し出すが、瓊瓊杵は木花咲耶姫は美しいので娶り、彦火火出見命を産ませるが、磐長姫は醜いといって返した。それで大山祇神と磐長姫は怒る。

 大山積神を祀る伊予一宮・大山祇神社(愛媛県今治市大三島町)が全国の大山祇神社の総本社ですから、大山祇神の本拠地は瀬戸内海の大三島でしょうか。
 日本書紀には大山祇神の本拠地は薩摩半島の南端となっており、大三島を本拠地とする越智氏・河野氏が祖神の大山祇神を祀ったと考えられている。大山祇神社の注連縄は向かって左が本になっている。
 私見ですが、大山祇神の活動範囲は九州北部だと考えています。
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   石の鳥居と拝殿
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   拝殿の右手に稲荷社(末廣大明神)
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   拝殿の右と左の奥に祠
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 13世紀後半の弘安の役で、元軍は軍船4,400隻、兵14万で日本に襲撃してきた。越智氏と河野氏は三島水軍を率いて筑前大島に防衛軍を派遣した。元軍は集結が遅れたことと、台風により全軍の70%以上が失われ、上陸している元軍は日本軍により征討された。

 宮崎県西都市の西都原古墳群(311基)の中に大山祇陵がある。柄鏡式前方後円墳ですから、2世紀に活躍した大山祇神と時代が合いません。
 西都原古墳群の東に石貫(いしぬき)神社が鎮座、大山祇命を祀っている。

 西都原古墳群の中に木花咲耶姫の墳墓と云われる女狭穂塚(5世紀築造、180mの前方後円墳)と瓊瓊杵の墳墓と云われる男狭穂塚(5世紀前半築造、175mの帆立貝式前方後円墳)がある。宮内庁から陵墓参考地に指定されているが、どちらの古墳も時代が合いません。
 西都原古墳群は4世紀から7世紀にかけて築造された古墳群で、2世紀の大山祇神の時代ではない。

 一般的には、男狭穂塚は5世紀に当地を治めた諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)の墳墓、女狭穂塚は牛諸井の娘で16代仁徳天皇妃になった絶世の美女・髪長姫の墳墓と考えられています。
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by enki-eden | 2015-07-13 00:32

諏訪神社(諏訪山稲荷神社、神戸市中央区)

 諏訪のお稲荷さん、神戸市諏訪山(160m)中腹に鎮座。
 健康長寿、商売繁盛。
 神戸市中央区諏訪山町5-1  電078-221-3481  駐車場あります。
 祭神: 健御名方大神(たけみなかたのおおかみ)と比売神(ひめかみ)=諏訪明神
      宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)=諏訪山稲荷
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創建
 16代仁徳天皇(380年頃~427年頃)皇后の八田姫の離宮鎮護神として、信州諏訪大社より奉斎された。 八田姫は15代応神天皇と宮主宅媛(みやぬしやかひめ、和珥氏)の皇女で、仁徳天皇の皇后・磐之姫(葛城氏)が八田姫を天皇妃にするのを許さなかったが、仁徳天皇は磐之姫の不在の時を狙って八田姫を宮中に入れた。それを聞いた磐之姫は怒って宮中に帰らず、山城国に住んだ。
 和珥氏と葛城氏の勢力争いでしょうかね。仁徳天皇は八田姫を皇后としたが、子はいない。
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 1778年に御神託により、京都伏見稲荷大社から宇迦之御魂大神を当社に勧請されたので諏訪山稲荷神社とも云う。

 当社は生田神社と長田神社の中間に鎮座しているので、古くは中宮と呼ばれた。地名も摂津国八部郡(やたべぐん)中宮村。八部郡の名の由来は八田姫の御名代(みなしろ)八田部(やたべ)から名付けられたのでしょう。



 八田姫の陵墓は奈良市法華寺町のウワナベ古墳と云われる。2014年8月13日投稿の「こなべ古墳・うわなべ古墳」をご参照ください。

 坂上田村麻呂(758年~811年)が蝦夷退治に際して当社で必勝祈願した。
 源平合戦のときに源義経(1159年~1189年)が当社で戦勝を祈願し、1184年の「一の谷の戦い」で勝利した。義経軍は須磨浦公園背後の鉢伏山(246m)と鉄拐山(てっかいさん、236m)の間から70騎で攻め降りたようです。

 神戸市在住の外国人、殊に華僑の崇敬・参拝が多い。境内もそのような雰囲気がある。
 1874年(明治7年)にフランスの天文学者が来日して、当社横の諏訪山公園で金星の観測を行った「金星台」がある。金星が太陽と地球の間を通る現象(太陽面通過)を観測した。
 フランス隊とアメリカ隊は長崎でも観測し、メキシコ隊は横浜で観測した。

    鳥居と社号標
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    鳥居の脇に遥拝殿、急な参道を登れない方は、ここから遥拝できる。
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    参道の急な坂道を登り、ふり返る。このあたりの駐車は月極めの有料。
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    赤い二の鳥居、諏訪大明神の神額。
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    赤い三の鳥居から急な階段になっている。車はこの手前に停める。
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    更に赤い鳥居と石の鳥居が続く。
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    やっと上まで登ってきました。奥に見えるのは楼門と回廊。
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    後ろをふり返る。
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    手水舎
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    拝殿手前に赤い楼門と回廊
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 拝殿・幣殿は入母屋造り、本殿は流れ造り。
 拝殿前に香炉があるのは華僑が奉納したのでしょう。提灯も「東天閣」(中華料理店)
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 拝殿の右に高義稲荷神社(4社)
 口患大神(癌封じ)、高儀稲荷(火伏せ、商売繁盛)、猿田彦社(方よけ、交通安全)、
 咳療大神(ぜんそく・アレルギー)
 境外末社であったが、2004年の台風による被害で崩壊したため境内に遷座した。
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  高義稲荷神社の脇に五社稲荷社
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  高義稲荷神社の右に諏訪山稲荷神社、多くの摂社が祀られている。
  提灯は「ゴンチャロフ」でロシア人創業の菓子メーカーです。
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    榊丸大明神、光國大明神。
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   玉姫稲荷、別名「おさすりいなり」、あらゆる願望成就のお稲荷様。
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    小高い位置(奥の院)に多くの祠が点在している。
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   境内から三宮の町が望める。
     紀の海の 阿波へ流るる 月夜かな (俳人・医師 它谷 ?~1860年)
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by enki-eden | 2015-07-09 00:32

柳原天神社(やなぎはらてんじんじゃ)

 柳原の天神さん
 神戸市兵庫区東柳原町1-12  電078-651-1283  車を境内に停めました。
 祭神: 菅原道真公、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)、野見宿禰命。

 菅原道真(845年~903年)は、天穂日命の子孫の野見宿禰を先祖とする土師氏で、大和国菅原邑に住んでいたので菅原姓を許された。当社の祭神はこの三柱の神を祀る。

 901年(延喜元年)2月に菅原道真が大宰府へ左遷される途次、暴風雨を避けるために和田岬に一時避難上陸した。その時に道真が詠んだ歌、
     風さむみ 雪にまかへて 咲く花の 袖にぞ移れ 匂ふ梅が香

 彼の死後、大宰府安楽寺天満宮の菅公廟から分霊を受けて、縁のあった兵庫の地に祀った。
 鎌倉時代の僧・他阿(たあ、1237年~1319年)が当社の横に満福寺を建立。以後、明治維新まで寺の僧が神社に奉仕していたが、神仏分離令により柳原天神社として独立した。1945年に空襲で全焼するが1958年に再建。満福寺も隣接して現存している。
 神仏分離令により大宰府の安楽寺天満宮も仏教的なものは1週間で悉く売却・廃棄処分され、安楽寺は廃寺となり、天満宮は大宰府神社と称した。戦後は国の管理がなくなったので1947年(昭和22年)に社号を大宰府天満宮に改称した。



    神社の由緒
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    鳥居と社号標
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    拝殿と破風の牛の彫刻
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    拝殿前の夫婦いちょう
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    神使いの牛
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   右の祠が愛宕神社と三宝神社、左が白龍稲荷神社
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   七福神
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 柳原稲荷神社(天光稲荷神社、てんこういなりじんじゃ)
 天光さん
 神戸市兵庫区東柳原町1-8
 祭神: 宇賀魂命(うかのみたま)
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 元は現在地より北方500mに鎮座していたが、1945年3月の大空襲により全焼し、柳原天神社に隣接して遷座した。
 毎月一日には花柳界関係者などの参拝が続いているようです。
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by enki-eden | 2015-07-05 00:07

蛭子神社(ひるこじんじゃ、神戸市兵庫区)

 福の神、柳原のえべっさん。
 神戸市兵庫区西柳原町5-20  電078-651-0183  車は境内に停めました。
 祭神: 蛭子大神(ひるこのおおかみ、えびすさま)、大物主大神(だいこくさま)。

 毎年、1月9日から11日の「十日えびす大祭」では商売繁盛、家内安全、学業成就、漁業・海上安全を祈して約30万人から40万人の参拝者でにぎわう。

 日本書紀に、
 「伊弉諾尊と伊弉冉尊が天の柱を回り、女神が先に『なんと素晴らしい男でしょう』と云った。次に男神が『なんと素晴らしい乙女だろう』と云った。ついに夫婦の交わりをして、まず蛭子(ひるこ、不具の子)が生まれた。そこで葦船に乗せて流してやった。」と記されている。
 淡路島の対岸にある本州側には様々な漂着物が流れ着く。これが住民を潤し、日本書紀の蛭子の話と結びついて蛭子信仰、えびす信仰が生まれ、沿岸各地に蛭子神を祀るようになった。
 「えびす」を事代主神とする神社も多い。少彦名神とする神社もある。

 神社の由緒
 その昔、毎年8月22日に西宮神社の兵庫までの神幸の渡御が行われていた。往路は海上渡御、帰路は陸上還幸で、西宮内町(にしみやうちちょう)を通って西宮へ還られた。それで当時は西宮内町に社地があったが、後に現在の柳原に遷座し創建された。

   赤のアイコンが蛭子神社、黄が西宮内町。


 西宮神社(えびす宮総本社)の祭神は蛭児大神、天照大御神、大国主大神、須佐之男大神。
 和田神社の祭神は天御中主大神、市杵嶋姫大神、蛭子大神
 当社の祭神は蛭子大神と大物主大神。この三社は「えべっさん」で結ばれているようです。

 当社の社殿は昭和20年3月に空襲で焼失、昭和25年に復興。平成7年1月17日の阪神淡路大震災でも被害を受け、平成22年に新社殿完成。新社殿の構造は鉄筋コンクリートだが、屋根は木造銅板葺き、内装も木造になっている。
    道路側に看板
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    西国街道兵庫西惣門跡(西国街道から兵庫の町に入る西の玄関口)
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    赤い大鳥居、奥は本殿。
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     東の鳥居、手水舎、水神社。 雨乞い祈願のために水神社が創建された。
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     えびす像
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 神楽殿、十日えびす大祭では神楽、宵えびすには淡路浄瑠璃人形の「戎舞」が
奉納される。
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    拝殿(千鳥唐破風造)
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    本殿(流れ造)
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    末社の西本稲荷神社、
    初午詣でをすると農家は五穀豊穣、商家は商売繁盛のご利益がある。
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    神楽殿の左に社務所
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by enki-eden | 2015-07-01 00:11