古代史探訪

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銅鐸から前方後円墳へ

 弥生時代の紀元前200年頃から紀元200年頃までの400年ほどの間、銅鐸祭祀が出雲を中心として全国に広がっていった。
   兵庫県立考古博物館の展示
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 出雲族が銅鐸祭祀の中心にいたが、紀元200年頃に銅鐸が各地で埋納されて消えてしまった。

 2世紀終わりの倭国大乱に引き続き、西暦200年頃に素戔嗚が亡くなると、大国主(出雲族)は天照大神と高皇産霊に諸国の支配権を奪われ(出雲の国譲り)、銅鐸祭祀も禁止された。
 大和には神武(181年~248年頃)が派遣され、大和を治めていた出雲系の饒速日(165年頃~225年頃)は国譲りに従うことになる。
 歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。

 出雲の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡から銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が出土し、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡からは銅鐸39個が出土し、総重量は350kgもある。
 その出土物の中で、12個の銅鐸の吊り手中央部と344本の銅剣の根元には、埋納前にタガネの様な工具で刻んだ×印がついている。
 この×印は製作時の模様ではなく、製作後にタガネなどで刻んでいるので、埋納が出雲国譲り(西暦200年頃)以降であるならば、銅鐸等を埋める時に付けた怨念の印かもしれない。
 紀元前の前期に製作された小型の銅鐸は大型銅鐸に替えるために、全国的に紀元前後に埋納されている。

 その後、3世紀後半の10代祟神天皇の時代になり、全長280mの定型形前方後円墳である箸墓古墳が大和の纏向(まきむく)に築造され、弥生時代が終わり古墳時代に移っていく。
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 6月14日投稿の「弥生人のルーツ」でも記述しましたが、
 『長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が多く、開口部を上にして埋められた。
 長江中流域から出現した「楚」はこの風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だったことがある。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。

 日本の銅鐸は弥生時代のBC3世紀から紀元3世紀まで祭祀に使用され、弥生時代末期に消滅した。銅鐸は丘の傾斜地の浅い所に埋納されている。
 この銅鐸と銅鐃の共通性から判断すると、弥生人の中でも楚人が銅鐸を全国に広めて祭祀に使った可能性が高い。楚人の代表は出雲系の素戔嗚(西暦140年頃~200年頃)で、銅鐸祭祀の末期に活躍した。

 銅鐸祭祀が消えたのは、西暦200年頃の「素戔嗚の死」と「出雲の国譲り」が関係していると考えられる。楚人は強くて文化程度も高かったが、Y染色体ハプログループの分析によると、列島での楚人(O1a)の人口比は3%強で人数が少なかった。越人(O2a)は1%強で最も少なく、呉人(O2b)は33%ほどもあり大勢力であった。呉人は奴国の中心勢力だと考えられる。晋書、梁書などに「倭は自ら呉の太伯の後という」とある。
 3世紀後半になると、銅鐸に替わって三種の神器が祭祀に使われ、弥生時代から古墳時代に突入、三種の神器は現代の皇室にまで連綿と継承されている。』

 銅鐸が埋納されて消滅したことと、その50年から60年後に定型形前方後円墳が出現したこととは密接に関係があるのではないか。

 前方後円墳は全国の豪族の支持と協力を受けて広まっていったが、出雲族の物部氏がその政策の中心であった。崇神天皇は物部氏と結託して全国制覇を目指し、中央集権国家の基盤を造ったのである。
 物部氏は弥生時代の祭祀の象徴である銅鐸の形を前方後円墳の形に留めながら、新しい古墳時代を築いていった。弥生墳丘墓である纏向型前方後円墳を上手く改良して、銅鐸の形を定型形前方後円墳に再現した。
  銅鐸と前方後円墳を並べると、共通性が理解できるのでは?
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 祟神天皇は物部氏と密接に繋がり、各豪族とも連携して全国を制覇する。この時代に文化・宗教や国の形が大きく変遷していった原因は、臺與(とよ、235年頃~295年頃)と祟神天皇(250年頃~318年)が全国制覇のために、270年頃に筑紫から大和へやってきたからだと私は考えています。
 臺與は朝廷の祭祀長、巫女を務め、纏向の大型神殿で神託を預言した。
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 崇神天皇は9代開化天皇(250年頃~303年頃)の養子になり皇太子となったと考えられる。崇神が10代天皇になると、宮殿に天照大神を祀ったために諸豪族と争いになったので、宮殿内で祀るのを止めざるを得なかった。

 記紀には女王(臺與)の東遷記述はないし、祟神天皇は最初から大和にいたとしているが、銅鐸の消滅の後、50年か60年経って崇神天皇の時代に前方後円墳と筑紫の三種の神器が全国に広がっていく。特にこの時期の銅鏡は三角縁神獣鏡が大量に流通し、これまでに500枚以上が出土している。
 そして、587年に物部守屋が蘇我氏に滅ぼされると、前方後円墳の築造は終わり、古墳時代から飛鳥時代に入っていく。
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by enki-eden | 2015-08-31 00:36

卑弥呼と臺與(とよ)

 卑弥呼(179年~247年)について魏志倭人伝は、
 『その国は、本来は男子を王としていたが、70~80年すると倭国に争乱が起き、何年も攻防戦が続いたので、一人の女子を共立して王とした。名は卑弥呼という。鬼道(きどう)に従事し、人々の心をよくとらえた。
 卑弥呼はかなり高齢で夫が無く、男弟が国を治める補佐をしていた。王となってからは見かけた者はほとんどいない。侍女が千人ほどいる。
 男子が一人いて、飲食物を運んだり言葉を取り次ぐために出入りしていた。宮室や楼観には城柵が厳重に設けられ、常に兵士が武器を持って警護していた。』
と記す。
 魏志倭人伝を含む「三国志」は西晋の官吏である陳寿(233年~297年)が記した。陳寿は臺與(235年頃~295年頃)と同じ時代を生きた。

 西暦107年に後漢に朝貢した奴国王は、「倭王帥升」として認められた。それ以来、奴国王は倭国(北部九州の30ヵ国ほど)の王を兼ねるようになった。その70~80年後の倭王兼奴国王は、伊弉諾(西暦125年頃出生、185年頃没)であった。
 後漢の西暦184年に太平道の教祖・張角による黄巾の乱(184年~192年)が勃発、後漢の崩壊は決定的になった。倭国は戦乱の大陸と交易ができなくなってしまって、後漢の後ろ盾がなくなり、伊弉諾の権威は失墜、倭国戦乱となる。伊弉諾は淡路島に隠遁して亡くなる。
 倭国が共立した奴国王族の卑弥呼が201年頃に倭王兼奴国王となり、戦乱は治まった。

 卑弥呼は奴国(博多湾周辺の呉人の国)の生まれで、奴国の王族であった。私見ですが、記紀に記す天照大神は野椎神、卑弥呼、臺與の三女神を習合した姿で表現している。
 臺與は豊国(投馬国=福岡県東部、大分県、山口県西部)出身で、倭国の重要豪族であった。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 福岡市東区志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ、しかかい)神社の祭神は綿津見三神で、古代より阿曇氏(安曇氏)が祀っており、現代でも阿曇氏の子孫が祭祀を執り行っている。
 宮司は阿曇氏が代々務めてきたが、2009年に宮司の阿曇磯和氏(58)が亡くなり、今は太宰府天満宮宮司の西高辻信良(にしたかつじ のぶよし)氏が代務者として志賀海神社を守っている。
 志賀海神社の20km南に鎮座する太宰府天満宮の境内に志賀社(重要文化財)が鎮座、祭神は志賀海神社と同じ綿津見三神です。志賀海神社と太宰府天満宮は大変強い繋がりで結ばれている。

 西暦57年に奴国王が後漢の光武帝から受けた「漢委奴国王」金印が志賀島から出土した。奴国王の後継者である卑弥呼は、西暦239年に魏の皇帝より「親魏倭王」の金印を受けたので、「漢委奴国王」金印を綿津見神のもとに返納することとし、聖地である志賀島に埋納した。
     赤のアイコンが志賀海神社、黄が金印公園、青が太宰府天満宮。


 奴国の宮殿は福岡市東区の香椎宮か、後方の山麓にあったと考えられる。当地は周囲を海と山に囲まれ天然の要塞になっている。
 台与は卑弥呼の死後、北部九州諸国によって共立された。台与は博多湾周辺から遷都をして、豊国の周防・長門(山口県)に都を定めたと考えられる。

 倭国は素戔嗚没後の西暦200年頃に「出雲の国譲り」により北部九州の出雲族支配地併合に成功した。204年頃に神武(181年~248年頃)が東遷を開始、211年頃に大和国橿原(奈良県橿原市)で即位した。初代神武天皇から9代開化天皇まで、211年頃から303年頃の90年間をかけて9代の大王(天皇)で近畿地方を制圧した。
 その結果、紀元前3世紀から出雲族が中心になって全国で執り行っていた銅鐸祭祀は3世紀に廃止され、三種の神器による祭祀に替わった。

 三国時代は魏(220年~265年)、蜀(221年~263年)、呉(222年~280年)の短い時代であった。263年に蜀は魏に滅ぼされ、265年に魏の元帝が司馬炎(236年~290年)に帝位を奪われ魏が滅亡、司馬炎は晋(西晋)を興す。
 280年に呉の烏程公が晋に滅ぼされ、晋王の司馬炎が天下を統一して武帝を称し、洛陽に都する。天下は統一されたが、内乱と北方民族の侵入により戦乱は続いた。
 臺與は266年に晋に朝貢するのを最後に戦乱の大陸と交易できなくなる。

 大陸と交易できなくなった倭国の臺與は九州に本拠地を置く必要がなくなり、大和国を本拠地にして全国を制覇する為に大和に東遷した可能性が高い。「出雲の国譲り」を全国支配に拡大するためです。
 臺與は崇神(251年頃~318年頃)を連れて271年頃に大和に東遷、臺與は皇室の祭祀を務めたと考えられる。この時、臺與は卑弥呼の亡骸を筑紫から大和に運んだと考えられる。そして280年頃に箸墓古墳(280m)が完成、卑弥呼の亡骸を埋葬したか。臺與は295年頃に亡くなり、同じく箸墓古墳に埋葬されたか。
     箸墓古墳の夏至の日の出
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 日の出方向を調べるのは日の出・日の入りのサイトが便利ですよ。

 宮内庁の調査によると、箸墓古墳の後円部頂上には径40mの円壇、前方部頂上には一辺60mの方形壇があり、大量のこぶし大の丸石で厚さ2mの石積みになっている。石積みの下部は板石で覆われており、積み石塚となっている。この大量の石積みのために箸墓古墳は盗掘されていない模様。
 後円部には円筒埴輪、前方部には大型の特殊壷が置かれていた。石室は両方の石積みの下にあると考えられる。
 最初の定形型前方後円墳である画期的な箸墓古墳の築造により、弥生時代から古墳時代へと移っていくことになる。
     箸墓古墳と石積み
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 崇神は9代開化天皇(245年頃~303年頃)の養子になり、皇太子となる。304年頃に崇神は大和国の10代目大王(天皇)となり、物部氏と結託、全国制覇に邁進する。

 大和朝廷の朝鮮半島への軍事行動は、神功皇后(321年~389年)による362年の新羅遠征に始まる。この時期に列島がほぼ統一されたので海外に派兵できたと考えられる。
 素戔嗚没後の西暦200年頃、北部九州における「出雲の国譲り」に始まり、160年間ほどで全国制覇を成した。その中心勢力は呉人の奴国王族とそれに協力する北部九州海人系諸豪族であった。
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by enki-eden | 2015-08-27 00:22

日本書紀の神武天皇年

 神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇、実名は彦火火出見(ひこほほでみ)という。
 15才で立太子、これは成人式か。吾平津媛(あひらつひめ)を娶って、手研耳(たぎしみみ)を生んだ。

 「天孫が降臨してから179万2470余年になる」と日本書紀は記す。 記紀を編纂した8世紀の大和朝廷(41代持統天皇と藤原不比等)は天照大神を皇祖としているので、ここに云う天孫とは天照大神のことで、生年が179年で没年が247年だと云っている。
 これは間違いなく卑弥呼のことです。歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
 奴国王族の紀元と西暦は偶然に一致している。初代の奴国王は国常立(くにのとこたち)で、奴国元年(=西暦元年、辛酉年)生まれ、漢委奴国王だと考えられる。
 私見ですが、漢委奴国王の意味は「漢と委(倭)が交易するに際し、倭の代表、窓口は奴国王が務める」という意味です。奴国王は、そのための金印を西暦57年に後漢の光武帝から授かった。
 その後、西暦107年に後漢に朝貢した奴国王・角杙(つぬぐい)は、倭王帥升として政治的にも倭の代表となった。

 磐余彦(初代神武天皇)は45才の時、甲寅年(174年か234年)に筑紫から大和へ東征を始めた。神武紀の年令は春秋年採用で、春と秋に年をとるので45才は23才の時と考えられる。甲寅年も春秋年採用の当時では174年と234年の中間の204年(甲申)だと考えられる。
 従って、磐余彦の生年は204年から23年を引いて西暦181年(辛酉)になる。素戔嗚(すさのお)が200年頃に亡くなって大国主が後継者になると、高皇産霊(たかみむすひ)が北部九州の出雲族支配地を明け渡せと「出雲の国譲り」を強制した。
 これを全国に広げるのが高皇産霊の戦略で、204年に磐余彦を大和国に差し向けた。全国制覇がほぼ完了するのが14代仲哀天皇の頃で、神功皇后が362年に新羅へ軍を進めるまでになる。

 暦については、持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である「儀鳳暦」を試用するため、それまでの「元嘉暦」との並用を始め、5年後の文武天皇元年(697年)から元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなった。
 697年は記紀の編纂真っ最中で、記事の年代特定に混乱があったと考えられる。

 磐余彦は23才の時(204年)に「東の方に良い土地(大和国)があり、饒速日が天下った。大和国はこの国の中心地だから、私もそこに行って都をつくることにする。」と云って東征を始めた。
 私見では、饒速日(165年頃出生)の筑紫から大和への東遷は西暦185年頃で、纏向(まきむく)に都を置いた。

 磐余彦は204年に先ず筑紫の岡水門(おかのみなと、遠賀川河口、磐余彦の出生地)に行く。次に安芸(広島県安芸郡)へ行く。
 翌年の乙卯(175年か235年)に吉備(岡山県児島郡)へ行く。春秋年採用の当時では乙卯は175年と235年の中間の205年(乙酉)です。
 しばらく吉備に留まり、戊午年(178年か238年)に吉備から東に向かう。西暦208年(戊子)のことです。

 河内国日下村(くさかむら)に着いたが長髄彦(ながすねひこ)に阻まれ、兄の五瀬(いつせ)が負傷して亡くなる。熊野灘の方に遠回りし、兄の稲飯(いなひ)と三毛入野(みけいりの)の二人が怒りのため海に入って亡くなる。これは東征達成のための人身御供(ひとみごくう、神への生贄)でしょうか。
 磐余彦と手研耳の軍(大伴や久米)は熊野経由で大和に入って勝利する。

 翌年己未(179年か239年)に大和国橿原に都を造る。209年(己丑)のことです。
 翌年庚申(180年か240年)、事代主の娘・媛踏鞴五十鈴媛を正妃とする。210年(庚寅)のことです。
 翌年辛酉(181年か241年)、磐余彦(神武)は橿原で即位する。皇子・神八井と神渟名川耳が生まれた。211年(辛卯)のことです。神武天皇30才(数え年では31才)。

 31年(神武天皇30才の時)、国見をする。即位した211年のことです。ここの神武天皇年だけは春秋年ではなく、数え年の31才と一致している。
 甲子(184年か244年)、神武天皇は高皇産霊を鳥見山に祀る。214年(甲午)のことです。
 42年(神武天皇41才の時)、皇子・神渟名川耳が11才で立太子。222年のことです。
 76年(神武天皇在位37年、西暦248年)、神武天皇崩御。享年67才。崩御年は年令ではなく、在位年の76年(実際には37年)で記している。
 日本書紀には享年127才、古事記には137才と記されている。

 卑弥呼の生没年は179年~247年、初代神武天皇は181年~248年で二人は同じ時代を生きた。三国志の魏の武将・司馬懿(しばい)は179年~251年。
 三国志の著者である陳寿は233年~297年で、卑弥呼の後継者・臺與(とよ、235年頃~295年頃)と同じ時代を生きた。

 戦前の皇国史観では神武天皇即位を紀元前660年(辛酉年)とした。1940年に歴史学者の津田左右吉(1873年~1961年)が皇国史観に反対し、記紀神話を批判した。
 戦後の多くの歴史学者は津田左右吉に同調し、日本書紀・古事記は虚偽とする戦後史学が中心となった。日本の古代史は戦後史学により抹殺された。
 神村律子さんのホームページも参考になりますよ。 神村律子のホームページ

 このような時代背景の中で、考古学者の故・森浩一先生(1928年~2013年)は考古学資料と文献史料を総合することの重要さを成果として示した。考古学と文献学を総合して考えることは歴史研究の姿勢というべきだと主張。
 その頃の日本は(特に昭和30年代)、津田左右吉の影響で歴史を科学的に研究すべきということで、記紀神話を読むのは科学者として失格という風潮が生まれていた。
 そんな風潮の中で森先生は古墳の出土品を解明するために、日本書紀の記述が重要だと考えた。
 (森浩一著、日本神話の考古学、記紀の考古学)

 古代史の研究は、考古学・歴史学・記紀などの文献史料・神社の伝承・地域の伝承などを総合的に研究して解明すべきものと私は考えています。皇国史観にも戦後史学にもそれがありません。大きく偏った非常に不完全なものになっています。

 私見ですが、神功皇后年の分析は次の図をご覧ください。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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by enki-eden | 2015-08-24 00:24

泊神社(とまりじんじゃ、加古川市)

 兵庫県加古川市加古川町木村658  電079-422-4813 
 地元の人は木村神社と云う。車は神社の前の宮川(泊川)沿いに停める。
 古代にはここまで海岸が迫っていたのでしょう。
 祭神 天照大神、少彦名神(すくなひこなのかみ)、
    国懸大神(くにかかすのおおかみ)。

 地名の「木村」は、国懸大神を紀伊国から勧請したので「紀伊村」が「木村」になったと云う。春には桜の名所となる。



 宮本伊織は明石藩十万石小笠原家の家臣・田原貞次(1612年~1678年、田原久光の次男)で、当時明石に滞在していた宮本武蔵(1584年~1645年)に認められ武蔵の養子になったので、宮本伊織貞次と改名した。伊織は宮本武蔵の甥と云われる。伊織は豊前小倉に移封した小笠原家の筆頭家老にまで昇進した。
 田原家は泊神社の氏子で、伊織は小倉にいても氏神の荒廃を心配し、1653年に武蔵の供養のため兄弟4人と共に当神社の社殿を再建した。この時に棟札(むねふだ)を奉納した。

 石の鳥居が神社の少し西の道路脇に東向きに建っている。そして神門まで来ると北(左)を向いて神門に入る。また、本殿は出雲の大社造りではないが少し似ている。それであれば、本殿は南向きでも御神体は西向きに鎮座となるが・・・
 神社に質問すると、ご神体は南向きというご返事でした。
   赤のアイコンが神門、黄が石の鳥居。


   神門と社号標
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   神社の由緒
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   わがまち加古川
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   能舞台
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 拝殿、1979年に改築され鉄筋コンクリート製になっている。
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 本殿を東から望む、
 本殿・神楽殿・能舞台などが国の登録有形文化財に選定された。
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   西から望む
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   白竜稲荷神社
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 本殿裏の玉垣内に灯篭が2基、宮本伊織と田原正久(伊織の弟)の寄進による。
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   月読神社(月夜見命)
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   熊野神社(伊弉冉命、いざなみのみこと)
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   皇孫神社(瓊瓊杵命、ににぎのみこと)
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 日本媛神社(日本媛命、やまとひめのみこと、11代垂仁天皇の皇女・倭姫命か)
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   大池稲荷神社
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   日吉神社(国狭槌命、くにのさつちのみこと)
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   泊稲荷神社
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   住吉神社(表筒男命、うわつつのおのみこと)
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   種子神社(天種子命、あめのたねこのみこと、天児屋根命の孫)、
   後方に南北朝時代の「石弾城跡、いしはじきじょうあと」の標識。
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by enki-eden | 2015-08-20 09:32

曽根天満宮(高砂市)

 兵庫県高砂市曽根町2286  電079-447-0645  無料駐車場あります。
 祭神 菅原道真公、天穂日命(菅家祖神)、
    菅原公達命(きんだち、菅原淳茂、道真の四男)
 神徳 学業、智能、文芸、正直の神、冤罪・謗りを救う神。

 曽根天満宮の宮司は19代目曽根文省(ふみよし)氏です。社名と宮司名が同じですね。曽根天満宮の西を流れる川は天川(あまかわ)で、昔は両岸に塩田が営まれていた。川の水が砂などを運んできた海辺の扇状地・堆積地を磯根(いそね)→曽根と云う。

 神社の由緒
 60代醍醐天皇の御代(901年)、菅原道真公(845年~903年)は冤罪を蒙り、大宰府へ左遷された。その途次、伊保港に船を寄せ、当社の西6kmの日笠山に登り播磨灘の風光を眺めた。道真公は先祖の天穂日命に「我に罪なくば栄えよ」と祈念した。
 道真公は日笠山の小松を現社地に植えた。これが「霊松曽根の松(れいしょうそねのまつ)」で、1798年に枯死したが、その幹は現在も霊松殿に保存されている。2代目の松は1952年に枯死した。 現在は5代目の松になっている。

 後に道真公四男の菅原淳茂(あつしげ、878年~926年)が当地に至り、社を建てお祀りしたのが当社の創始と伝えられる。淳茂は父に連座して播磨国に左遷されたが、罪は赦され京に戻った。

 10月の秋祭りでは、4台の子供屋台に続いて11台の大人屋台の宮入りが始まる。各町の反り屋根型布団屋台が練り出し、豪快に練り競う祭りです。夜には屋台に電飾が灯され美しい。屋台は「やっさ」と呼ばれるらしい。子供屋台も上に乗るのは子供で捧げるのは大人です。屋台は豪華で担ぎ手も多い。
 拝殿内では4人の一ツ物と1人の行事が盃を交わす「一ツ物神事」が行われる。一ツ物とは男児が袖長の狩衣に山鳥の羽を立てた花笠を被り、化粧をして額に「八」の字を書く。宵宮は青年の肩車で宮入り、本宮は馬に乗って宮入りし、行事は烏帽子を被り白い狩衣を着る。拝殿内で一ツ物が行事と盃を交わす神事が執り行われる。
 一ツ物の神童には神が宿り(神の憑依)、神の意思を伝えるのに対し、行事はその聞き取り役である。一ツ物神事は兵庫県指定重要無形民俗文化財になっている。

   赤のアイコンが曽根天満宮、黄が日笠山。


   立派な神門
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   神門の左に手水舎と藤棚。
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   神門の右手に霊松殿。
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   霊松殿の横に心池(こころいけ)、霊松曽根の松が植えられていた。
   心池は「心」の形の池になっている。橋は竜山石製で市の指定文化財。
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   拝殿、大きな注連縄。注連縄は氏子青年会の手作り。
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   東から拝殿・幣殿・本殿を望む。
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   西から本殿を望む。
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 境内の梅林には150本の梅、3月の「梅まつり」には美しい梅の花でいっぱいになる。
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「ほうその神様」、当社最古の石像物で鎌倉時代末期に造られた。江戸時代中頃から難病や流行病の予防・治癒を祈願するようになった。特に疱瘡の神様として信仰を集めた。
 境内の東北にあるが、風化が相当進んでいる。
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   本殿背後に戎神社(えびすじんじゃ、商売繁盛)、祭神は事代主命。
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   塩竈神社(しおがまじんじゃ)、祭神は塩土翁(しおつちのおぢ)。
   塩田が早くから開けていた曽根では、塩田の神様として祀られた。
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   境内の西北に木下稲荷神社
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by enki-eden | 2015-08-17 00:10

荒井神社(高砂市)

 洗宮(あらいのみや)、地鎮・縁結びの神様。
 兵庫県高砂市荒井町千鳥2丁目23-12  電079-442-0658  
 車は境内に停められます。
 祭神 大己貴大神(だいこくさん)、恵美酒大神(事代主神、えべっさん)
 創建 629年(34代舒明天皇元年)、
    出雲氏族が大己貴大神を洗浜(荒井浜)に祀った。
 鎌倉時代に現在地に遷座した。1908年に荒井村字戎の恵美酒神社を合祀した。



 10月の秋祭りには播州仁輪加太鼓(ばんしゅうにわかだいこ)が注目されている。仁輪加とは「にわかに仕組んだ劇」という意味で、毎年異なる寸劇を演じながら郷土芸能として各町を披露して廻る。荒井青年会が継承しており、高砂市の指定文化財として登録されている。
 最近は全国的にお祭りや町興しが盛んですが、特に姫路市や高砂市の人々もお祭りが大好きですねぇ。圧倒されます。

   鳥居と社号標
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   神社の説明板
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   白兎(しろうさぎ)愛育園、祭神由来の名(因幡の白兎)になっている。
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   廣瀬正三氏(名誉宮司・初代保育園長)の銅像
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   東参道と社号標、奥は白兎愛育園と銅像。
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   神門、珍しい形です。
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「結びの松」、根元から男松と女松が出ている。
武者小路実篤(1885年~1976年)の石碑がある。「仲よき事は 美しきかな」
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   手水舎
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拝殿
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   本殿
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   本殿の北に玄武門
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   境内の東に遥拝所
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 美雄弥神社(みおやじんじゃ)、
 祭神は治幽大神(かくりよのおおかみ)、英霊神。
 荒井町出身戦没者240柱を祀る。旧御殿を移築した。高砂市指定文化財。
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   浜之神社(右)と幸神社(左)
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   浜之神社(大和神社)、祭神は大歳神、神徳は農業・塩田の守護神。
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   幸神社、祭神は猿田彦神、神徳は疱瘡・できもの・火(とんど)の守護神。
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   琴平神社、祭神は大物主神、神徳は醸造・航海の守護神。
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   社務所入り口の前に「だいこくさん」と「えべっさん」
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   社務所の前に磐座と「だいこくさん」
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          *****
 南あわじ市で出土した弥生時代前期から中期の「松帆銅鐸」から、「舌」や銅鐸本体をつるした「ひもの一部」が見つかった。
 舌の通し穴にひもが残っており、本体をつるす鈕(ちゅう)にひもの痕跡とひもの一部が残っていた。ひもを放射線炭素による年代測定をすれば、埋納年代が特定できる。
 奈良文化財研究所の難波洋三センター長は「銅鐸の謎を解き明かす非常に重要な資料で、奇跡的な大発見といえる。」と話す。
 ひもは舌に付いていた「組みひも」と、鈕に付いていた「よりひも」がある。
 難波洋三さんの2年前の講演について、2013年11月17日投稿の「摂津の弥生時代」をご参照ください。
   摂津の弥生時代
      
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by enki-eden | 2015-08-14 00:15

廣畑天満宮(ひろはたてんまんぐう、姫路市)

 学問の神様
 兵庫県姫路市広畑区北野町2-3  電079-236-0853  無料駐車場あります。
 祭神 天満大神(菅原道真公)、
    蛭子大神(事代主神)、春日大神(天児屋根命)。

創建 
 715年以前に祀られていた廣辻神社に始まる。現在、廣辻神社は廣畑天満宮の境内社になっている。
 1869年に京都の北野神社(現・北野天満宮)から勧請し、播磨国飾西郡(しきさいぐん)廣畑村の氏宮「天満社」として建立された。それで地名を北野町と云う。
 神社の東を流れる夢前川(ゆめさきがわ)沿いに祀られていた蛭子大神と天児屋根命を迎え合祀した。

「天満社」の創建以前は、廣畑村は夢前川東対岸の英賀神社(あがじんじゃ)を氏宮としていた。江戸末期1863年の英賀神社例祭日に廣畑村と英賀村の太鼓屋台が衝突し、騒動が起きた。
 廣畑村は領主からお咎めを受け、屋台を禁止された。それで廣畑村は英賀神社の氏子から離れて自らの氏宮を創建する計画を姫路藩庁に申請し許可されたので、社殿を建設し1869年(明治2年)に完成した。
 1939年に日本製鐵広畑製鐵所が当地の南方に建設され、鉄の町として発展していった。10月15日には秋祭りと広畑製鐵所創業記念祭が執り行われる。

   赤のアイコンが廣畑天満宮、黄が英賀神社、青が広畑製鐵所。


   南の鳥居、「廣畑天満宮」の神額は両部額。
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   手水舎
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   拝殿、「天満宮」の神額も両部額。
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   本殿
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 廣辻神社(廣辻大神)、西暦715年以前に霊泉「御水が池」の畔にお祀りしていた。901年に菅原道真公が大宰府へ向かう途中に当地へ上陸、人々は道真公の御人格に敬仰した。
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 廣辻八幡宮、祭神は品陀別命(応神天皇)、息長帯姫命(神功皇后)、比売神。
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   大年神社(寿福社)、祭神は大年神、香過槌神、猿田彦命。
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 右から、龍神社(倉稲魂神、水波能女神)、琴平神社(大物主神、伊和大神、品陀別命)厳島神社(市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命)、太古神社(射目崎神、いめさきのかみ)。
 射目崎(いめさき)は当社の東を流れる夢前(ゆめさき)川の語源になった。
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   司馬遼太郎文学碑、祖父・福田惣八が廣畑村の出身による。
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   忠魂碑(氏子の戦没者を祀る)
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by enki-eden | 2015-08-10 00:12

英賀神社(あがじんじゃ、姫路市)

 播磨国飾磨郡英賀(しかまぐんあが)の里に鎮座、国史見在社。
 兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町2丁目70  電079-239-6921 
 駐車スペースあります。
 祭神  英賀彦神(あがひこ、伊和大神の御子)、英賀姫神(妃神)、
      天満大神(菅原道真公、学問の神様、雷神)、
      八幡大神(誉田別尊、15代応神天皇、武神、海の神様)、
      春日大神(天児屋根命、藤原氏の氏神)。

 英賀(あが)の地名由来は祭神の英賀彦神による。
 祭神の菅原道真公(845年~903年)、誉田別尊(362年~403年)、天児屋根命(3世紀)は1443年に合祀し、当時の社名は英賀天満宮と称した。



 播磨国風土記の飾磨郡英賀里に記載があるので、創建は7世紀の飛鳥時代と考えられる。
 英賀彦神と英賀姫神の夫婦は伊和大神(いわのおおかみ)の播磨経営に当たり、当地を拠点として播磨灘沿岸地域を開拓し、英賀国を創り固めた。従って、英賀国主大神として祀り、夫婦和合、創業経営の神として信仰されている。
 伊和大神は播磨国一宮の伊和神社(宍粟市)の祭神です。伊和大神は大汝命、葦原志許乎命とも記されているので、大国主神と同一神と考えられていますが、私見では伊和大神は大国主神(160年頃出生)の4代ほど後の子孫で230年頃出生、針間国西部(3世紀当時は吉備国東部であった)を開拓統治したと考えています。

 7代孝霊天皇(230年頃出生)から12代景行天皇(285年頃出生)にかけて、強大な吉備国は大和朝廷に侵食され、東部を針間国に割譲されたと考えられます。

   鳥居と神門、神額は両部額になっている。
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   説明板
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   拝殿
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   本殿
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   遥拝所、各自の崇敬する全国各神社を遥拝する所。
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   手水舎
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 本殿右に神木の竹伯(なぎ)、根周り3.8m、高さ14.5m、樹齢千年以上の天然記念物であったが、50年ほど前に枯れて、現在は二世が育ちつつある。
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 神木の右には司馬遼太郎の歴史小説「播磨灘物語」の文学碑がある。黒田官兵衛の生涯を描いた。
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   末社の一宮社(大己貴神、素戔嗚神)、塩竈社(猿田彦神、塩椎神)、
   琴平社(大物主神、月夜見神)。
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   英賀城土塁跡
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   恵美須社(事代主大神、えべっさん)
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   厳島社(市杵島姫神)
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               *****
 先日の神戸新聞によると、神戸市中央区の生田神社正門にある二の鳥居が9月に引退する。木造で高さ7.5mの檜造り、もともとは1929年に伊勢神宮内宮の本殿の棟持柱(むなもちばしら)として設置された。
 それが内宮の宇治橋の鳥居になり、1975年には三重県亀山市に神宮への参道を示す鳥居として設置された。
 1995年の阪神淡路大震災で生田神社の石の鳥居が倒壊したので、復興のためにこの鳥居が三重県から生田神社に移設され、それから20年経った今回の引退となった。
 1929年の棟持柱から86年の歴史に幕が下りる。
 生田神社が神宮に再び鳥居を譲り受けたいと依頼したところ、認められた。すでに60年間使用された鳥居なので、神戸市で鳥居の内部に鉄骨や樹脂を入れる補強をし、表面を削って化粧直しをしている。9月の秋祭りに披露される予定。
 正門前の鳥居2013年4月撮影
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by enki-eden | 2015-08-06 06:49

高岳神社(たかおかじんじゃ、姫路市)

 播磨国五の宮の県社、蛤山(振袖山)の南側に鎮座。
 兵庫県姫路市西今宿8丁目5-8  電079-293-4121  無料駐車場あります。
 祭神 応神天皇、仲哀天皇、崇道天皇、事代主命、猿田彦神(当初の五柱の祭神)、
     (後に合祀)住吉大神、伊予親王、光明皇后、宇賀魂命、市杵島姫命、水分神。

 始め新在家村の高岡(八畳岩山、八丈岩山、173m)にあったが、八畳岩山は播磨国風土記の飾磨郡伊和里条には因達神山(いだてのかむやま)と記されている。因達神山に祀られていたのであれば、その当時の祭神は五十猛命でしょう。
 八畳岩山山頂の八畳ほどの岩場に「高岡神社舊蹟」の石碑があるようです。
 826年に現在の蛤山(126m)に遷座して社殿を築いた。飾磨郡(しかまぐん)安室村(やすむろむら)の総氏神。安室村は合併して姫路市になった。


   赤丸が高岳神社、東に八畳岩山、姫路城は南東にあります。
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 782年に征夷大将軍の坂上田村麻呂(758年~811年)が当社で武運を祈ったとあるので、場所は現在地ではなく八畳岩山になります。近衛将監(このえしょうげん、現場指揮官)職の坂上田村麻呂(25才)が武神の五十猛命に武運を祈念したのでしょう。

 昔、土地の人が振袖山の岩の上で蛤を拾い、福徳長寿の幸を得たので「蛤山」の「蛤岩」と云う。昔は平地の部分が海で、山の部分が島になっていたらしいので、嵐で海が荒れ、岩の上に蛤が打ち上げられたと考えることもできるが、土地の人が拾った蛤は、蛤に似た岩の欠片だったのかも・・・
 しかし、こんなことを云ってしまうと夢が無くなります。信心が大事ですね。当社の宝物に蛤の化石があるようです。

 車が上れるのかと思うほどの急な坂を上ると、神社の駐車場に到着。社殿はこの上に鎮座。
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   急な階段を登ると社殿が見えてきた。
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   階段途中の右手に金刀比羅宮(大物主神、安全の神様)が鎮座。
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 拝殿、注連縄が大きい。立派な神額、有馬良橘閣下御揮毫とある。
 有馬良橘(ありま りょうきつ、1861年~1944年)は海軍大将、明治天皇の侍従武官などを勤め、明治神宮宮司となった。
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   本殿
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 社殿右横の石碑は孟子の一節で、「自分の身も心も真に正しくなれば、必ず天下の人々も帰服するのだ」。
 その右に大砲の弾、播磨国西部の神社には日露戦争時の砲弾が多い。
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   社殿左の階段を登ってみると・・・
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   社殿背後に巨大な霊岩の蛤岩、福徳長寿の御利益。
   頂上のくぼみの水が潮の干満と共に満ち引きすると云われる。
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   霊岩の下方にも岩があり、全体が岩山になっている。
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by enki-eden | 2015-08-02 00:08