古代史探訪

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阿宗神社(あそうじんじゃ、たつの市)

兵庫県たつの市誉田町広山492  電0791-62-1839  無料駐車場あります。
播磨国揖保郡鎮座、車は神社の西から入ります。

祭神 神功皇后、応神天皇、玉依姫命、
   息長日子王(神功皇后の弟、針間阿宗君の祖、吉備品遅君の祖)。
創建 29代欽明天皇の時代(6世紀後半)に、国司大伴狭手彦が宇佐八幡宮から
   岡ノ峯(立岡山)に勧請し、岡ノ峯八幡宮と称した。
    
 1189年に現在地広山に遷座し、弘山八幡宮と称していた。
 1336年に新田義貞(源義貞、1300年頃-1338年)が足利尊氏(1305年-1358年)討伐のために当社に本営を置いたことがある。このような事情で寺社は戦乱に巻き込まれやすいのでしょう。1541年と1572年に兵火により社殿焼失。1574年に復興。
 江戸時代の神仏習合時には天台宗斑鳩寺(いかるがでら、兵庫県揖保郡太子町)が当社の別当寺であった。
 明治時代に阿宗神社と改称、1874年に郷社、1881年に懸社に昇格。

 赤のアイコンが阿宗神社、青が立岡山、黄が斑鳩寺。



 元宮の祭神は息長日子王(阿宗君の祖)、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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   神門(1827年再建)と社号標
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   拝殿、立派な屋根瓦。
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   本殿(棟札によると1574年復興の本殿)
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   拝殿右手前に真心舞楽殿
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   拝殿左手前に奉納灯篭。
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 社殿奥に境内社。摂社は高良神社(武内宿禰)で他は末社。
 天満宮、伊勢皇大神宮、春日社、高良神社、金刀比羅社、建速神社、元宮社、
 稲荷社が並んで鎮座。
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by enki-eden | 2015-10-28 00:27

日岡八幡神社と列祖神社(佐用郡佐用町)

日岡八幡神社
兵庫県佐用郡佐用町乃井野(のいの)1051  電0790-79-3090 
駐車スペースあります。

祭神 仲哀天皇(右)、神功皇后(左)、応神天皇(中央)。
創建 1053年に山城国石清水八幡宮から勧請した。
当地佐用郡三日月は石清水八幡宮の荘園・船曳庄であった。



 当社は石清水八幡宮の別宮として祀られ、広大な社領、多くの末社、社家77人の大社であったが、豊臣秀吉による荘園制度廃止、社領の削減、氏子の縮小などで衰退した。
 1624年に、神社西方にある山林の開墾山焼きの延焼により、社殿、古文書が全焼したが、1656年に神殿(本殿)を再建した。これが現在の神殿である。
 1874年に郷社となり、1940年に県社に昇格したが、終戦後は社格が廃止となった。

 1697年に美作国(みまさかのくに)津山藩森家が改易のため、播磨国明石藩主松平直明(徳川家康の曾孫、1656年~1721年)が津山藩を受け取り、津山松平家が創設された。
 そのため津山藩分家の森対馬守長俊(ながとし、1649年~1735年)が当地・乃井野に移封して、播磨国三日月藩初代藩主となった。
 長俊は居城(陣屋)を当社境内に設けたので当社を特別に信仰し、多くの寄進・修復に力を注いだ。長俊は長男に家督を譲って隠居し、江戸で病死した。享年87才。

 当地は江戸時代に三日月藩の領地で、藩主の先祖・森忠政(1570年~1634年)は森蘭丸(1565年~1582年)の弟です。
 明治以降は佐用郡三日月村から三日月町になり、2005年の合併で佐用郡佐用町に変更され、三日月の名は消えました。
 出雲街道を進んでいくと、前方の三方里山(さんぼりさん)裾の三日月小学校の上に三日月マークが見えてきました。当地のランドマークなのでしょう。夜には三日月の電飾が点き、流れ星も点くようです。手前の川は千種川支流の角亀川です。
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   鳥居と社号標
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   参道の長い階段の途中に高良神社(武内宿禰)が鎮座。
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   随身門から拝殿を望む。
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   随身門の神額「八幡宮」の八は鳩が向き合って八の字を模っています。
   鳩は八幡神の神使いです。
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   拝殿
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   神殿(本殿、佐用町指定文化財)
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   拝殿右前に力石、重さ50貫(187.5kg)
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   拝殿左の社務所の瓦も立派です。
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   大きな神木
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 当社の東に三日月藩・乃井野陣屋(三日月陣屋、森家1万5千石の陣屋)が復元され、乃井野陣屋館として開館している。平日は閉館。
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列祖神社(れっそじんじゃ)
  日岡八幡神社に隣接し、三日月藩主森家の祖先を祀る。
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  鳥居の右に清水の石碑、「播磨十水 落葉乃清水」。
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    拝殿
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    本殿
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    説明板
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    庭園跡
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 三日月藩の藩校・廣業館跡、580名の生徒がいた。校舎の一部を当社境内に移設した。藩校・廣業館は現在の三日月小学校の基となる。
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by enki-eden | 2015-10-23 00:07

佐用都比売神社(さよつひめじんじゃ、兵庫県佐用郡)

播磨国佐用郡鎮座、佐用姫さん、式内社。
兵庫県佐用郡佐用町本位田甲(ほんいでんこう)261  電0790-82-2022
無料駐車場あります。

祭神 市杵嶋姫命(狭依毘売命、さよりひめのみこと)、
   相殿に素戔嗚大神、大国主大神、八幡大神、春日大神。

 明治の終わり頃に、荒神社、大己貴神社、八幡神社、妙見神社を合祀、郷社になる。
 大正時代(1924年)に県社に昇格。
 農業、商業、武術、安産、縁結び、鎮火、交通安全、厄除けの神様。

 佐用郡は出雲街道と因幡街道の交わる位置にあり、交通の要衝です。町の8割が山林で、山間の盆地に町が点在している。



 佐用郡の地名由来は播磨風土記讃容郡(さよのこおり)の条によると、『讃容郡と云う所以は、出雲国から来た大神(伊和大神)と妹神(玉津日女命)が当地の領有を競った時、玉津日女命が鹿を捕えてその腹を割いて、血に稲の種をまいたところ、一夜で苗が生えたので、それを田に植えつけた。
 大神は、「汝妹は五月夜(さよ)に植えつるかも」と言って、去って行った。故に、五月夜郡(さよのこおり)と云う。また、妹神を賛用都比売命(さよつひめのみこと)と名付けた。』とあります。

 佐用姫伝承は全国にあり、肥前松浦の小夜姫伝承が大元でしょうか。大和壷坂の小夜姫伝承もあります。肥前松浦の海人族が移住して行った各地に伝承を残したのでしょう。
   万代(よろずよ)に 語り継げとし この岳に
     領巾振らしけむ 松浦佐用姫     (万葉集 5-873)


 佐用町は中国山地の南麓で、砂鉄を産した。西隣は岡山県美作市(みまさかし)で、吉備国を備前国・備中国・備後国に分解した後、最後に大和朝廷が美作国を直轄した。鉄資源を確保するためと強大な吉備国の弱体化が目的である。
 吉備国は枕詞が「真金吹く(まがねふく)」というくらいに蹈鞴製鉄の盛んな国であった。

 佐用郡も3世紀後半からは針間国に属しているが、それまでは吉備国に属しており、鉄資源が豊富だったので、製鉄族の素戔嗚、金山彦、磐筒男を祀る神社が多い。また、八幡神社、吾勝神社(天忍穂耳)、琴平神社(大物主)も多い。
 秦河勝を祀る神社もある。秦河勝が30km南の大避神社で祀られているのは、千種川周辺を開拓したからである。佐用町は千種川の上流地域である。
 大避神社については、2012年12月29日の「大避神社 坂越の船まつり」をご参照ください。

 尼子氏の家臣である山中鹿之助(1545年~1578年暗殺)が当地に来た時、尼子家再興を祈念して石灯篭を奉建した。
 宮本武蔵(1584年~1645年)が諸国修行に出かける時、当社に木刀二振りを捧げ、17日間参籠してその武運を祈願して出立した。

 鎌倉幕府執権北條時頼(1227年~1263年)の奉納歌
   何所とも 知らで道にぞ やみぬべき はれまも見えぬ 佐用の朝霧

   鳥居と社号標
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   境内案内図
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   鳥居の左手に塩川神社(速佐須良比売命)
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   当社は播磨風土記、続日本後紀に記載された神社。
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   参道右に佐用姫稲荷神社(豊受大神)が鎮座。当社の森は大木が多い。
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   拝殿(佐用姫大明神宮)
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   拝殿左前に「開眼の梅」が植樹されている。
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   拝殿内
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   本殿(1701年に再建)
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   本殿右に天満神社(菅原道真公)・三寶荒神社(火と竈の神様)
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   奥の院、伯母宮神社(片宮神社、天照皇大神)
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   本殿左に若宮神社(高皇魂命)
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   水神社(彌都波能売命、みつはのめのみこと)
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   佐用町は「ひまわりの町」として親しまれている。
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   10kmほど北に兵庫県立大学「西はりま天文台」があります。
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by enki-eden | 2015-10-19 00:01

額田王(ぬかたのおおきみ)

 飛鳥時代の歌人で生没年は不詳であるが、630年頃出生、690年頃没と考えられる。
 父の鏡王(かがみのおう)は28代宣化天皇の曾孫と云われる。鏡王は近江国野洲郡鏡里の豪族で鏡神社(滋賀県蒲生郡竜王町鏡)の神官であった。鏡神社の祭神は天日槍尊、天津彦根命、天目一箇神。神社の2km南に鏡山(385m)がある。
 天日槍が日鏡をこの地に納めたことから「鏡」の地名が生まれた。1174年源義経(1159年~1189年)は鏡神社で元服して源氏の再興と武運長久を祈願したと云う。



 額田王の出生地は大和国平群郡額田郷(奈良県大和郡山市額田部)と云われるので、母が額田郷の人か。母は33代推古天皇(額田部皇女)の孫の山背姫王とも云われる。大和郡山市額田部(北町、寺町、南町)は佐保川が大和川に合流する地域にある。



 33代推古天皇(554年~628年)の幼名は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で、幼少期は額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)に養育されたと云われる。額田部氏は天津彦根命の後裔で天津彦根命の子は天御影命(天目一箇命と同神か)。
 大和川の200m北にある大和郡山市額田部北町826には推古神社(祭神は推古天皇)が鎮座。神社は推古神社古墳の上に鎮座しており、古墳は6世紀の築造、全長約41mの前方後円墳で前方部を東に向けている。被葬者は額田部湯坐連でしょうか。
 周辺には額田部古墳群があり、額田部狐塚古墳(50mの前方後円墳、6世紀前半)も有名です。神社の西100mの大和郡山市額田部寺町36に額安寺(かくあんじ、額田寺、熊凝寺)があり、額田部氏の氏寺であったと考えられる。

 推古天皇16年(608年)に隋の大使裴世清を海石榴市(つばいち)において出迎えたのは、儀式用騎馬隊75頭を率いた外交官・額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらぶ)であった。

 額田王は大海人皇子(40代天武天皇、631年?~686年)の妃となり、十市皇女(653年~678年)を産む。その後38代天智天皇(626年~672年)の妃となる。
 天智天皇皇后の倭姫王は額田王であるという説がある。倭姫王の父は古人大兄皇子で、父は645年に中大兄皇子(天智天皇)に謀反罪で滅ぼされた。
 倭姫王は生没年不詳で母も不祥、子女は無し。万葉集に歌が4首収められている。

 十市皇女は天智天皇の第一皇子・大友皇子(648年~672年)の妃となり、葛野王(かどののおおきみ、669年~706年)を産む。
 672年に天智天皇が崩御したが、大海人皇子が狩りに誘って暗殺したか? その後すぐに壬申の乱が勃発、大友皇子は大海人皇子に敗れ、近江で自決する。妃の十市皇女も678年に急死する。
 大友皇子は明治3年に39代弘文天皇として諡号を贈られた。

額田王の歌 万葉集1-8
熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
 661年、百済からの援軍要請に応え出兵の途中、伊予国熟田津から船出する時の歌。

万葉集1-18
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなば 隠さふべしや
 667年の近江宮遷都で、大和を去るときの歌。

 37代斉明天皇(594年~661年)が658年に紀温泉(きのゆ、白浜温泉)に行幸された時に、額田王が同行して詠んだ歌(万葉集1-9)があります。読み方も定まっていない難しい歌ですが、斉明天皇は最愛の孫・建王(たけるのみこ)を8才で亡くし、悲しみを癒すために紀温泉に行幸した。
 その時に斉明天皇の甥の有間皇子(640年~658年)が謀反の罪により捕らえられ、紀温泉に護送されてきて、中大兄皇子が命じて絞首刑とした事件があった。
万葉集1-9
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
  なごまりし 七星(北斗七星)は行け 吾が背子が
   射立てせりけむ 五つ星(射つ星、カシオペア)がもと

 満天の星空に(莫囂圓隣之)、紀温泉からあの世に行った有間皇子が北斗七星に乗って、五つ星(カシオペア、弓の形をしている)の矢を放ったので、また新しい世の中に変わるでしょう(莫囂圓隣之)。
 世の中は山あり谷ありで、幸不幸は隣りあわせで巡りくる(莫囂圓隣之)。

  北斗七星とカシオペアの冬の空
 
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 大相兄を北斗星とし、可新をつ星(カシオペア)と解釈すれば、両星座は北極星を間に挟んで対極になって回転しているので、そのようにして時代は次々に移り変わっていくという意味なのでしょうか。
 そして、全く別の解釈をすると、大海人皇子と中大兄皇子が北斗七星とカシオペアになって、争っている。或いは、額田王(北極星)を巡って取り合っていると言っているのかもしれない。この歌は読み方さえも未解読なので、意味は更に分かりにくい。

 万葉集を編纂した大伴家持(718年~785年)が、記紀に記されていない事柄を歴史的な意図を持って選んだのでしょう。7世紀の歴史の背景を詳しく調べる必要がある。7世紀から8世紀にかけての皇室では、争い、乙巳の変(645年)、壬申の乱(672年)、暗殺、絞首刑、自決が非常に多かった。

 額田王についての評価は「万葉の代表的な女流歌人にて、容姿うるわしき才女なり」などと云われます。「才女」として異論はありませんし、「容姿うるわしき」も多分そうだろうと思っていますが、実際はどうだったのでしょうか・・・
 同じく飛鳥時代の万葉歌人である鏡女王は額田王の姉ではないかと考えられている。

 梅澤恵美子著「額田王の謎」をご紹介します。梅澤氏は「万葉集を歴史書として捉える事が必要で、額田王が残した歌を詳細に分析していくと、権力者によって抹殺されていった者たちの怨嗟の声が込められていることが分かる」と述べています。
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 額田王の墓は、天武・持統天皇陵の直ぐ東の小山に葛野王が造ったと云われる。赤のアイコンが天武・持統天皇陵、黄が額田王墳墓と云われる。


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by enki-eden | 2015-10-14 00:39

藤原宮の南北線

 京都大学名誉教授であった故・岸俊男氏(1920年~1987年)は、藤原宮の中軸線の南延長線上に天武・持統天皇陵がぴったり収まると主張。岸氏は奈良県立橿原考古学研究所の所長も務めた。

 この説を受け、藤原宮と天武・持統天皇陵を結ぶ線は「聖なるライン」と呼ばれてきた。藤原宮の中心は東経135度48分25秒、北緯34度30分にある。この南北ラインに関係する古墳は北から順に、
 菖蒲池古墳、   東経135度48分28秒、北緯34度28分22秒、
 天武・持統天皇陵、東経135度48分27秒、北緯34度28分8秒、
 中尾山古墳、   東経135度48分21秒、
 高松塚古墳、   東経135度48分23秒、北緯34度27分44秒、
 文武天皇陵、   東経135度48分25秒、
 キトラ古墳、   東経135度48分18秒、北緯34度27分、
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 これに、束明神古墳とマルコ山古墳を加える学者もいる。京都橘女子大学教授の猪熊兼勝氏は天武・持統天皇陵、中尾山古墳(文武天皇陵か)、高松塚古墳(弓削皇子か刑部皇子か)、文武天皇陵、キトラ古墳(高市皇子か)、束明神古墳(草壁皇子か)、マルコ山古墳の7陵墓を北斗七星の形に築造したと主張。
 無理をすれば北斗七星に見えないこともないが・・・
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 上記各古墳の被葬者は40代天武天皇の皇子や孫と見られる。菖蒲池古墳は築造が7世紀中頃で、694年の藤原宮よりも古いので、偶然この位置にあると考えられる。菖蒲池古墳は皇族ではなく蘇我氏系の墳墓か。
 藤原宮は天武天皇が計画・造営したが、完成を見る前の686年に崩御。天武天皇は藤原宮の真南に自身の陵墓築造を指定したと考えられる。皇后の41代持統天皇(702年崩御)は天武天皇陵に合葬された。

 そして、上記以外に藤原宮と東経がぴったり合う天皇陵がある。38代天智天皇陵である。天智天皇陵は京都市山科区御陵上御廟野町にあり、東経135度48分25秒、北緯34度60分。藤原宮の真北55kmほどである。
 天智天皇は671年崩御で、天武天皇は天智天皇陵の真南に藤原宮の築造を計画したと考えられる。7世紀の天文学と測地学の技術で55km離れた地の正確な位置取りができたのは、天文学的に精緻を誇るエジプト・ギザの大ピラミッドの方位誤差に匹敵する高精度になっている。
 正確に天智天皇陵の真南に藤原宮は築造された。

 天智天皇陵の真北にある「鏡の山」は標高220mで、山頂から南を望むと高い山が無いので大和盆地の南部まで見通すことができると云う。大和三山も見える、そのような立地に天智天皇陵を築いたのかもしれない。

額田王が天智天皇陵で詠んだ挽歌(万葉集2-155)
やすみしし わご大君の かしこきや 御陵(みはか)仕ふる 山科の 鏡の山に
夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと哭(ね)のみを 泣きつつありてや
百磯城(ももしき)の 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ

   赤のアイコンが天智天皇陵、黄が藤原宮


 古代では陰陽五行説などによる「方位」が非常に重要視され、現代では考えられないくらいに緻密に計算して行動に移している。現代でも方位の考え方が少しは残っています。
 日本では中国式の南北方向よりも東西方向に関心が強い。

 箸墓古墳の東経は135度50分、北緯34度32分、三輪山は東経135度52分、北緯34度32分です。 この真東の伊勢国に天照大神を祀る斎宮が11代垂仁天皇の時代(4世紀前半)に始まる。
 この斎宮跡は三重県多気郡明和町にあり、東経136度37分、北緯34度32分で、箸墓古墳や三輪山の真東70kmに位置する。

 天武天皇の飛鳥浄御原宮は東経135度49分、北緯34度28分、藤原宮は東経135度48分、北緯34度29分で、持統天皇はこの真東85kmの伊勢神宮を整備拡張した。内宮は北緯34度27分、外宮は北緯34度29分です。
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 日本の方位の関心事は太陽信仰による東西方向ですが、11代垂仁天皇の皇女倭姫が天照大神の御魂である八咫鏡を携え近畿地方を放浪して最後に伊勢に落ち着いたが、この放浪は八咫鏡による結界を張るための旅だったのでしょう。この結界を元伊勢結界といいます。

 東西軸だけではなく、天智天皇陵を通る南北の座標軸も重視されていた。都の設定や天皇陵などの立地はこのような座標軸に基づき築造されたようです。
 そして、太陽信仰による東西軸以外にも、重要な東西の座標軸があったようです。この南北、東西の座標軸により大和・河内・摂津・山城の広範囲における結界が張られていたと考えられます。

 縄文時代の環状列石は聖域の結界表現だと考えられます。
 弥生時代には結界に銅鐸、鉾、剣の埋納があります。
 古墳時代の崇神天皇陵(北緯34度33分27秒)、応神天皇陵(北緯34度33分45秒)、仁徳天皇陵(北緯34度33分50秒)を結ぶ東西座標軸は強力な結界を表しています。

 また、摂津国難波宮、生駒山(生駒大社)、垂仁天皇陵、奈良春日山(春日大社)を結ぶ東西線も強力で、これらの南北線と東西線を基に六芒星(カゴメ)や陰陽五行思想の五芒星が描かれたと考えられる。

 天武天皇は本格的に結界を取り入れて飛鳥浄御原宮を造営、次に藤原京を企画した。儒教の周礼に従って10坊10条の5.4km四方の藤原京を計画したと考えられる。周礼に従い、内裏は藤原京の北辺ではなく、ほぼ中央に位置する。中央の朱雀大路が天智天皇陵に繋がる。平城京も平安京も内裏は中央ではなく北辺に位置する。
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 藤原京を護る四神は、東の青龍、西の白虎、北の玄武、南の朱雀である。四神はキトラ古墳の壁画にも描かれている。
 5.4km四方の京域の中に収まる耳成山、天香具山、畝傍山の大和三山も重要な結界になる。そして天武天皇は陰陽寮、占星台を興し、陰陽師を育成した。
 その後、平城京、長岡京、平安京も結界により都を何重にも護る思想が取り入れられた。秦氏の影響も大きい。

 2013年12月20日投稿の「京都の結界」をご参照ください。
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by enki-eden | 2015-10-10 00:29

王墓の埴輪(池田古墳)

 池田古墳は兵庫県朝来市(あさごし)和田山町平野にあり、兵庫県指定史跡の大型前方後円墳で、5世紀初頭の築造と考えられています。墳丘長約136mで但馬(たじま)地区最大の規模で、兵庫県では4番目です。
 池田古墳をテーマにした特別展「王墓の埴輪―池田古墳のすべて―」が兵庫県立考古博物館で10月3日から12月6日まで開催されています。
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 メインホール展示ケースに「武人埴輪」が展示されています。兵庫県下で初めて埴輪窯が見つかった加古川市野口町の坂元遺跡より出土した。
 窯は傾斜角度が10度ほど、長さ5.8m、最大幅2.4m、残存の高さ1.1m。窯の中からは、この武人埴輪、石見型と呼ばれる盾の形をした埴輪の耳や角の破片、人物埴輪の腕の破片、盾を持つ人物埴輪、馬形埴輪などが見つかっている。
 窯の時期は6世紀前半から中期頃(古墳時代末期)で、坂元遺跡からはこの時期の埴輪を持つ古墳が見つかっており、この窯もこれらの古墳の埴輪を焼いていたと考えられる。
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 10月3日(土)には名誉館長の石野博信氏の講演がありました。「ヤマト王権と但馬」と題しての講演ですが、開口一番「但馬国からやって来ました石野です。水鳥の精です。」と挨拶されて場内の雰囲気が盛り上がります。
 小学生向けにホールで古墳の芝居をしていましたが、その時に使っていた「水鳥のかんむり」を石野先生が借りて頭に被っておられました。会場は大笑い!

 講演が終わって、特別展示場に入りました。入場料は520円、65才以上の高齢者は半額です。古墳が大型化する古墳時代中期、現在の兵庫県朝来市(あさごし)に築造された池田古墳は日本海側で最大の前方後円墳です。
 展示の説明によると、「本展覧会では池田古墳の埴輪を一堂に紹介し、ヤマト王権中枢部の埴輪との比較や日本海側地域の埴輪との共通性などを探ります。」とあります。
 出土物は家形埴輪、水鳥形埴輪、壺形埴輪、円筒埴輪など多様な多くの埴輪が出土しました。
 主な展示品は、池田古墳出土埴輪(当館蔵)、巣山古墳出土水鳥形埴輪(奈良県広陵町蔵)、津堂城山古墳出土水鳥形埴輪レプリカ(大阪府立近つ飛鳥博物館蔵)です。
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 池田古墳の出現。但馬南部(朝来市)は大和朝廷と深く関係していたが、但馬北部(豊岡市)は但馬色を強く残した。私見ですが、但馬(たじま)の地名は福岡県宗像市田島(たしま)が元だと考えています。宗像海人族(祖神は大国主命)の移動でしょうか。
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 朝来市池田古墳の水鳥形埴輪(当館蔵)、古墳時代中期(1,600年前の王墓)。
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 奈良県広陵町の巣山古墳出土の水鳥形埴輪と柵形埴輪。水鳥は死者の魂を運ぶとされる。
 古墳時代中期(4世紀末から5世紀初め)築造、全長約220mの前方後円墳。
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 大阪府藤井寺市にある古市古墳群の津堂城山古墳出土の水鳥形埴輪。
 墳丘長208mの前方後円墳、19代允恭天皇陵とされる。
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 朝来市和田山町の「城の山古墳」出土の三角縁波文帯三神三獣鏡、重要文化財。
 古墳時代前期(4世紀後半)築造の径約36mの円墳。
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 朝来市和田山町の向山古墳群で見つかった1,700年ほど前の女性リーダーの人骨。石の部屋に埋葬され、鏡などが供えられていた。石の部屋と顔は赤く塗られていた。
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 朝来市和田山町にある茶すり山古墳出土の盾の復元品。古墳時代中期(5世紀前半)。
 径約90mの大型円墳で、近畿地方最大の円墳、ヤマト朝廷と強く結ばれた王墓。
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 篠山市の雲部車塚古墳(5世紀の前方後円墳)の石室復元。
 雲部車塚古墳については、5月24日投稿の「雲部車塚古墳」をご参照ください。
 朱で真っ赤な石室の壁に刀や槍が金具で固定されている。九州の古墳の石室にも壁石の出っ張りがあって刀を掛けた古墳がある。出土状況では刀などは地面に落ちている。
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 古墳時代船の復元。
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 縦の板が抜けないように栓で留めている。
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 船の板に刻まれた古墳時代の船団。1隻の船が先導し、後ろには大型船を小型船が守るように取り巻いている。現代の空母艦隊と同じ編隊になっている。
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 加西市亀山古墳出土の横矧板鋲留短甲の復元品。古墳時代中期の円墳(径約50m)。
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 兵庫県神戸市西区の玉津田中遺跡出土の女性とみられる人骨で、「子どもといっしょの弥生女性人骨」。隣には小さな子どもの棺があったので親子と考えられる。弥生時代中期、2,100年ほど前。
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 玉津田中遺跡出土の九州製銅剣で殺害された人骨。腰の部分に青銅製の剣先が残っていた。
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 銅鐸祭祀
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 弥生時代中期の複製銅鐸。右は神戸市桜ヶ丘5号銅鐸、左は豊岡市気比(けひ)3号銅鐸。
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 兵庫県立考古博物館は大中遺跡に隣接しています。
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by enki-eden | 2015-10-06 00:47

熊野神社(神戸市中央区)

神戸市中央区中山手通7丁目28-30  電078-341-1812
宇治野山と呼ばれていた丘に鎮座する山手熊野神社、旧・村社。
神戸市立・山の手小学校の南に鎮座。

祭神 伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみ)。



 神社の由緒
 遠い昔、宇治物部族が熊野神社を創建した。
 平清盛(1118年~1181年)の福原遷都の際、遷都造営役の五条大納言藤原邦綱(1122年~1181年)が1180年に再建したと云う。この時、藤原邦綱は神社近くに「宇治新亭」と呼ばれる邸宅を建て、81代安徳天皇(1178年-1185年)も一泊されたことがある。
 宇治野山は摂津国八部郡(やたべぐん)宇治郷(うじのごう)にあり、近くの宇治川(宇治野川)と宇治川公園に宇治の名が残っている。

 当地の「宇治」の地名は、15代応神天皇の皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の御名代の宇治部氏が物部系であるので宇治物部を称し、当地に住んでいたので地名が「宇治郷」になったと云う。
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 山城国宇治(京都府宇治市)の地名は、山城国風土記逸文によると、菟道稚郎子が菟道宮(うじのみや)を営んだ地だから「宇治」になったと云う。

 鳥居と社号標
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 二の鳥居と拝殿
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 拝殿と奥に熊高稲荷神社
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 本殿
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 熊高稲荷神社
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 本殿左に日露戦争戦利兵器の砲弾奉納、陸軍大臣寺内正毅(てらうち まさたけ)。
 寺内正毅(1852年~1919年)は周防国山口出身で、陸軍大臣、外務大臣、大蔵大臣や総理大臣を歴任し、ビリケン宰相と云われた。
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 当社祭神の伊弉諾尊は、倭王兼7代目奴国王で、西暦125年頃に出生。
 後漢では西暦184年に張角による黄巾の乱が勃発、全国で群雄割拠の戦乱となり後漢が衰退した。倭国は後漢との交易ができなくなり、倭王・伊弉諾の信用は失墜、倭国乱により伊弉諾は淡路島に隠遁して当地(淡路市多賀の一宮・伊弉諾神宮)で亡くなった。

 初代の奴国王は国常立尊(くにのとこたち)で、西暦元年に出生したので奴国王の歴史は偶然にも西暦元年と重なる。8月24日投稿の「日本書紀の神武天皇年」をご参照ください。
 国常立尊は、西暦57年に後漢の光武帝が印綬を授けた「漢委奴国王」だと考えられる。神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
 この神世7代は紀元1世紀から2世紀の神話(古代人の表現方法による歴史)です。

 記紀には神世7代以前の紀元前1世紀の神話も述べられており、五柱の神(別天神、ことあまつかみ)が記されています。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、神皇産霊神(かみむすひのかみ)、可美葦牙彦舅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)の五柱です。
 揚子江(長江)流域から山東半島を経て、紀元前4世紀頃に北部九州にやってきた呉人が奴国などを形づくっていったと考えられる。
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by enki-eden | 2015-10-02 00:35