古代史探訪

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天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)

 出雲国風土記の意宇郡(おうぐん)の国引き神話に八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が出てきます。出雲郡伊努郷の記事には、その子である赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)が記され、妻は秋鹿郡(あいかぐん)伊農郷の天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)です。
 八束水臣津野命の子には大穴持命(所造天下大神、大国主命)もいます。大穴持命と多紀理比売(宗像)との子は阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)と神門郡多伎郷の阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと、下照姫)です。
 阿遅須枳高日子命と楯縫郡の天御梶日女命(あめのみかじひめのみこと)の子は多伎都比古命です。
 以上を系図にすると次のようになります。一部私見も入っています。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 天照大神の荒御魂は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と云われ、神功皇后が筑紫の小山田邑の斎宮で祈った時に神がかりした。向津媛命は瀬織津姫(せおりつひめ)とも云われるが、天甕津日女命も同じ神かもしれません。
 天照大神の荒御魂は伊勢神宮内宮の別宮である荒祭宮(あらまつりのみや)の祭神(ご神体は鏡)です。
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 兵庫県西宮市の廣田神社も天照大神の荒御魂を祀る。2013年5月18日投稿の「廣田神社」をご参照ください。投稿当時は神功皇后の生没年を330年頃-389年頃としていますが、現在では321年-389年としています。
 今年の2月18日投稿の「廣田神社(大阪市浪速区)」もご参照ください。

 天甕津日女命と天御梶日女命も同じ神という説がある。「みかつひめ」、「みかじひめ」、「むかつひめ」は同じ神でしょうか。
 2世紀の出雲国と倭国(北部九州)は密接に繋がっていたのでしょう。しかし、西暦200年頃の「出雲の国譲り」により大国主は北部九州から追い出され出雲国に隠遁させられます。出雲族の怨霊を鎮めるために1,800年も経った現代でも宮中三殿の神殿で出雲の神も祀られている。
 2013年12月16日投稿の「怨霊」をご参照ください。

 7月16日の投稿「五十猛」で、『私見ですが、海人族の要素の多い五十猛が素戔嗚の娘の抓津姫を妻としたので、五十猛は素戔嗚の子となった可能性がある。或いは五十猛の父は素戔嗚で、母が櫛稲田姫ではなく伊都国の海人族だったのでしょうか。
 五十猛は製鉄族の素戔嗚と櫛稲田姫の第2子となっているが、統治地域は北部九州の甕棺墓の出土地域に重なる。甕棺墓は江南の海人族(倭人)の墓である。イソタケルはイソ(磯)のタケル(武)と解釈すれば海人族の名になる。』と書きましたが、紀国造家の系譜によると、神皇産霊神の3世孫の大矢女命(紀氏、海人族)が素戔嗚尊の妃となり五十猛命を産んだ(御合 素戔嗚命坐而生 五十猛命)とあります。
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by enki-eden | 2015-11-28 00:31

豊川稲荷神社(姫路市四郷町)と祖道神社

兵庫県姫路市四郷町東阿保691  無料駐車場あります(道路は狭い)。

祭神 豊川稲荷大明神(若宇賀能賣命と出雲大明神の総称)
      若宇賀能賣命は宇賀之魂命と大気津媛命の総称、
      出雲大明神は大国主命と御穂津媛命の総称。



 当社から南の谷筋に横穴式石室が多数あり、阿保古墳群(阿保の百穴)西地区となっている。当社境内にも鳥居の左に1号墳の天井石が見える。
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 石垣まで進むと龍王・八龍破地(はらわち)大神が鎮座。
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 その横に出雲大明神社
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 石垣の間の階段を上ると拝殿前に出る。
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 拝殿、東向き。
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 本殿左に祖道阪田大明神
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祖道神社(そどうじんじゃ)
 祭神 天之御中主神、國常立尊、天照大御神、石上大神、宗賢大神、
    細目命(うずめ)。  祖道大神と総称している。
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 祖道神社前に「阿保古墳群(阿保の百穴)」の石碑
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 祖道神社左に玉勝稲荷神社(天光玉勝大神)
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 拝殿右奥に山森大神
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 拝殿左奥に鷹森大神、後ろが3号墳で小さな入口が見える。
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 奥の森には石碑が多い。
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 森の中に2号墳があり、天龍大神が祀られている。
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by enki-eden | 2015-11-23 00:36

大年神社と見野古墳群(姫路市四郷町)

大年神社
 兵庫県姫路市四郷町(しごうちょう)見野(みの)601  駐車場なし。
 祭神 大年神(おおとしのかみ)、東向きに鎮座。

 兵庫県には大年神社(大歳神社)が400社近くもあり、大きな信仰を
集めている。

 埋蔵文化財センターの南1.5kmに大年神社(赤)と見野古墳群(黄)がある。


 兵庫県神社庁の解説によると、『当社の鎮座地は、見野西集落のほぼ南端で西に山を背負い八家川(やかがわ)を前にしたところに位置している。創建時期は不詳であるが、見野地区においては古くから「西大年」と呼ばれ見野西地区の氏宮として祀られている。
 明治7年に村社に列せられた。昭和16年(1941年)になって、紀元2600年の記念事業として本殿、幣殿、拝殿の三殿を改築し、井戸屋形を新築して従来の左右二様式の玉垣を一様式に改めた。
 また、新たに石の大鳥居を建立し、正面の敷石を布設し、狛犬及び石灯篭を奉献してほぼ現在の社殿配置が完成した。祭神は大年神で典型的な農業神である。』とあります。

 当社の横を流れる八家川(やかがわ)が播磨灘に注ぐ河口流域は岩石海岸で、川の東海岸の姫路市的形町福泊(まとがたちょうふくどまり)498に八家地蔵(やかじぞう)があります。姫路市指定の重要有形文化財にもなっており、古くから信仰を集めています。私も2010年の5月にお参りしたことを思い出しました。

  石の大鳥居
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  拝殿
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  幣殿と本殿
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  大歳神(饒速日命)系図
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見野古墳群(姫路市重要有形文化財)
 姫路市四郷町見野
 見野古墳群の公園前に車を停められます。少し北に「見野の郷 交流館」(電 079-252-6659)があるので、そちらでも車を停められ、資料ももらえます。どちらにもトイレがあります。
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 姫路市四郷町には宮山古墳、坂元山古墳群、中鈴山古墳、火山(ひのやま)古墳群、長塚古墳、見野古墳群、阿保古墳群(阿保の百穴)などがあり、古墳の町として知られる。

 6号墳は双室墳、夫婦塚とも云い、一つの墳丘に二つの横穴式石室が東西に並んでいる。築造は6世紀中頃から7世紀初頭ですから、古墳時代終末期か飛鳥時代に入っていたかもしれません。
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  東側から
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  北側から
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  6号墳東側の石室
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  6号墳西側の石室
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 10号墳(姫路の石舞台)、7世紀中頃の飛鳥時代に築造、当古墳群で最大。
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   4号墳
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   7号墳
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   12号墳
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   14号墳
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by enki-eden | 2015-11-18 00:24

宮山古墳と春日神社(姫路市四郷町)

宮山古墳
 兵庫県姫路市四郷町(しごうちょう)坂元406  県指定史跡。
 宮山古墳の中腹に春日神社が鎮座している。
 車は姫路市埋蔵文化財センターに停めます。(電 079-252-3950)
 
 5世紀中頃から後半に尾根の突端に築造された直径約30m、高さ約4mの円墳で、西側に造り出しを持っているので帆立貝式前方後円墳に近い。21代雄略天皇の時代を生きた豪族でしょうか。

 竪穴式石室が3基あり、軸線は東西を向いている。北の第1石室(第1主体)は盗掘されている。第2石室(第2主体)からは垂飾付イヤリング1対、虺竜鏡(きりゅうきょう)、玉類、39本の刀剣、鉄製品などが出土、第3石室(第3主体)の木棺からは画文帯神獣鏡、垂飾付イヤリング1対、玉類などが出土した。
 築造順は第3石室、第1石室、第2石室の順になっている。出土物は一括して国の重要文化財に指定された。
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 宮山古墳公園、右は姫路市埋蔵文化財センター。文化財センターの2階からも直接行けるようになっている。
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  階段があるので登りやすい。
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  姫路市教育委員会の説明板
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  墳頂を望む
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 墳頂に囲いがあり、膨大な数の副葬品が眠っていた。
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春日神社
 兵庫県姫路市四郷町坂元406
 祭神 武甕槌尊(たけみかづちのみこと)

 武甕槌神は茨城県鹿嶋市の鹿島神宮の主神として祀られている。武甕槌は西暦200年頃、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂浜に突き立て、大国主に国譲りを迫る。そして大国主の子の事代主が服従し、国譲りがなった。

 兵庫県神社庁の解説によると、『当社の鎮座地は坂元集落の北部に位置し、創建時期は不詳であるが古くから坂元の氏神として祀られてきた。
 社領地は江戸時代には八反ほどあり、特に裏山の境内地は後に「宮山古墳」として知られるようになった。宮山古墳は近隣地域の古墳の中でも特に重要な古墳で、この宮山の中腹に祀られた社であるので相当な古社であったと推測される。
 この地に武甕槌尊を祭神とする春日神社が祀られたいきさつは不明であるが、境内に歳社が末社としてあるので、あるいはこちらの方が古い社であったかもしれない。旧幕の頃は国分寺が社務を兼帯していた。』
 国分寺は当社の1.9km北東にあった。(国分寺跡)

   鳥居
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   拝殿、後方は宮山古墳。
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   本殿と手前は境内社の歳社。
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by enki-eden | 2015-11-13 00:42

NHKスペシャル 縄文・奇跡の大集落

 11月8日(日)午後9時から50分間のNHK総合テレビ放送でした。再放送は13日(金)の午前1時半からあるようです。レポーターは杏さんです。杏さんは知的な番組によく出演しますねぇ。

 縄文文化の象徴である青森県の三内丸山遺跡の巨大集落を中心に取材。長さ32mの大型住居は集会所で300人が入ることができ、その近くには大きな栗の木でできた高さ15mの柱が6本立っている。専門的な建築技術者がいたようです。

 芸術性の高い縄文土器の紋様は自然の精霊を敬う考え方(アニミズム)からきているようです。神秘的な土偶は安定した精神を育む作用があり、人が集まり、祀りの中心になった。
 漆製品などもあり、縄文人の豊かで文化的な暮らしぶりは海外の考古学専門家から高い評価を得ている。

 縄文文化は世界の中でも古く、15,000年前から2,300年前まで持続しており、興亡の激しい世界の中で稀な文化です。
 縄文時代には一部の農業は行われたが、本格的な農耕を行わず、狩猟採集を生活の基盤としながら、1万年以上も続いていた。世界を驚かせているのは、農耕ではなく狩猟採集生活で集落を成した持続性です。他の文明は全て10,000年前から農耕を基礎としているので、縄文文化は世界に類が無い。
 縄文人は集落の近くに栗を植えて森の維持管理をしたので定住ができた。春は森や野で山菜を採り、夏は海や川で魚を捕る。秋は栗などの木の実を収集し、冬は森で狩りをして食用と毛皮にする。
 縄文人は農耕もできたが、農耕ではなく狩猟採集を基礎にすることを選び定住した。

 しかし、2,300年前に農耕生活の弥生時代に移り、富の蓄積・国家の成立となっていく。近代文明は自然の破壊をもたらしたので、自然を持続的に活用する方法を考えないと地球は破綻してしまう。

 青森県の「特別史跡三内丸山遺跡」をご参照ください。
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by enki-eden | 2015-11-09 08:44

宮山古墳特別展(姫路市埋蔵文化財センター)

兵庫県姫路市四郷町坂元414-1  電079-252-3950 無料駐車場あります。
月曜日休館、入館無料。

 開館10周年特別展「宮山古墳」が10月25日から来年1月11日まで開催されており、分かり易いパンフレットが用意されています。
 展示品の写真撮影はできますが、フラッシュと三脚は使用できません。

 姫路市埋蔵文化財センターの南西隣が宮山古墳です。


 文化財センターは立派な建物です。
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 宮山古墳は市川下流東岸にある標高33mの尾根上に築かれた直径約30mの古墳時代中期(5世紀中頃)の円墳です。
 埋葬施設が3基あり、調査した順に第1、第2、第3主体と呼んでいるが、築かれた順は第3、第1、第2主体と考えられている。墳丘上部は削られているが、当初は4mほどの高さであったと考えられる。
 古墳は兵庫県の史跡に指定、出土品は一括して国の重要文化財に指定された。
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 第3主体(短甲の武人)の木棺外から出土の鉄甲冑(てつかっちゅう)、左端は鉄肩甲(てつかたよろい)、右端は複元品で後方は出土状況の写真。
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 第3主体は墳丘中央の深い位置に構築されているので、宮山古墳は第3主体の被葬者のために造られたと考えられる。石槨は全長約3.4m、幅約1.1mで凝灰岩の割石と一部扁平な川原石を小口積みにし、床面には小礫や割石が敷き詰められており、未盗掘であった。
 鉄鎹(てつかすがい)の出土状況から被葬者は装身具を身に着け、剣を持った状態で木棺(約2.3m×0.7m)に納められたと考えられる。
 木棺内から鉄剣1口、棺外から鉄刀14口と鉄剣3口が出土。刀剣表面の有機質の情報から、木製の鞘や鹿角製の装具を取り付け、柄には糸を巻いていたことが分かる。
 木棺内から垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)、玉類、銀指輪、足結いの玉、画文帯神獣鏡も出土。
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 第3主体の木棺外の第1刀剣群(鉄刀と鉄剣)
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 第2刀剣群
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 第3主体の木棺外出土の鉄矛
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 第3主体石槨内の3か所から150本以上の鉄鏃が出土、矢を束ねて置いていたと考えられる。第2主体からは350本以上も出土した。
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  第3主体から出土の須恵器と土師器(はじき)
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  第3主体の木棺を組んだ鉄鎹(てつかすがい)
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 唯一木棺内に安置されていた「愛用の鉄剣」、被葬者の左脇にあった。上は復元品。
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  被葬者の姿と副葬品
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  鉄製品
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 第1主体は盗掘されていたが、出土した金銅装の金属片は甲冑の小札(こざね)だった。金銅装の甲冑は出土例が少なく、畿内政権から選択的に配布されたと考えられる。
 従って、第1主体の被葬者(金銅装の武人)が第3、第2主体の被葬者を凌ぐ人物であったと考えられる。
 第1主体は全長約4.6m、幅約1.8mの竪穴式石槨で、凝灰岩の割石を小口積みにし、床は割石と河原石を敷いていた。盗掘されていたが石槨は第3、第2主体より大きく、盾形埴輪の破片が出土している。
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 第2主体(桂甲の武人)は最後に築かれた。全長約3.2m、幅約1.2mの竪穴式石槨で、凝灰岩の割石を小口積みにし、床は円礫が敷き詰められていた。鉄鎹(てつかすがい)の出土から木棺に葬られたことが分かる。
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 副葬品は虺龍鏡(きりゅうきょう)、垂飾付耳飾(すいしょくつきみみかざり)、玉類、銀錯貼金環頭大刀(ぎんさくてんきんかんとうたち)など武器、武具、馬具、農工具、鉄鋌(てつてい)、土器などが出土。
 また、耳飾りと耳環が離れて出土しているので、2体埋葬の可能性がある。
 垂飾付耳飾、右は宮山古墳の第2主体より出土、左は加古川市カンス塚古墳より出土。
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 虺龍鏡(きりゅうきょう)、金耳環、玉類
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 銀錯貼金環頭大刀
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 素環頭大刀と三葉環頭大刀
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 鉄桂甲小札(こざね)
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 鉄臑当(てつすねあて)
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 鉄帯金具(てつおびかなぐ)
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 金銅帯金具
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 鉄鐙(てつあぶみ)と鉄轡(てつくつわ)
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 鉄鋌(てつてい)
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 須恵器と土師器
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 当地周辺には多くの古墳群がある。
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 壇場山古墳と山之越古墳については3月20日投稿の「壇場山古墳」をご参照ください。
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by enki-eden | 2015-11-06 00:31

伊弉諾尊(いざなぎ)後の倭国

 西暦107年に奴国王・帥升が後漢に朝貢し、生口(奴隷)160人を献じ、帥升は倭国王として認められた。これにより、それまでの奴国王は「後漢との交易面で」倭国の諸国代表であったが、帥升以降の奴国王は交易面以外に政治的にも倭国の盟主となり、奴国王兼倭国王となった。倭国とは北部九州の29ヶ国である。
 29ヶ国は三国志によると、対馬国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国である。
 三国志には上記以外に邪馬台国と紛争のある狗奴国が記されている

 伊弉諾は西暦125年頃出生の倭王兼7代目奴国王であった。しかし、中国後漢末期の184年に太平道の張角が「黄巾の乱」を起こした。これが引き金になって全国で戦乱・反乱が広がり、後漢の衰退を招いた。
 後漢が紛争続きで倭国は後漢との交易ができなくなり、後漢を後ろ盾にしていた奴国王兼倭王の伊弉諾の信用は失墜、倭国乱が勃発、伊弉諾は淡路島に隠遁して亡くなった。(伊弉諾神宮)

 高皇産霊は185年頃に饒速日(165年頃-225年頃)を大和国に東遷させ、大和国と東海地方を開発させた。高皇産霊の子も多く従わせた膨大な部隊であった。高皇産霊(140年頃-205年頃)は紀元前1世紀に活躍した別天神(ことあまつかみ)の高皇産霊神とは同名異神で、時代は200年近く離れています。

 倭国の実力者である素戔嗚が200年頃に亡くなると、素戔嗚の末娘・須世理姫の婿の大国主(160年頃-220年頃)が素戔嗚の後継者となる。
 この時、高皇産霊は大国主(葦原醜男、あしはらのしこお)に出雲(北部九州の出雲族支配地=葦原中津国)を明け渡すよう強制、大国主は出雲国(島根県)に隠遁した。この後、出雲族を中心に400年ほど続いてきた銅鐸祭祀が消滅し、銅鐸は埋納される。8月31日投稿の「銅鐸から前方後円墳へ」をご参照ください。

 そして201年に奴国王族の卑弥呼(179年-247年)が倭国の女王となり、紛争は収まった。高皇産霊は国譲りを全国に広めるために、204年頃に磐余彦(神武、181年-248年)を出発させ、大和国に向かわせた。

 大陸では、2世紀後半に後漢の地方官(遼東太守)だった公孫度(204年没)が黄巾の乱などの戦乱に乗じて、189年に遼東地方を後漢から独立させた。楽浪郡も配下に治め、公孫度の子の公孫康が204年に帯方郡を設置、韓や倭を勢力下に置いたとされる。ここで云う倭は列島ではなく朝鮮半島南部の倭人(呉人)の国の伽耶(任那)かもしれない。
 公孫氏が遼東・楽浪・帯方を領し、後漢と対立していたので、卑弥呼は後漢とは交易できず公孫氏と交易していた。この時に卑弥呼は帯方郡に使節を派遣して中国語と漢字を学ばせたのでしょう。その中に難升米や掖邪狗などもいたかもしれない。
 
 後漢が220年に滅亡、魏が華北の支配権を握るが公孫淵(238年没)は236年に燕王を称し、近隣国に印璽(いんじ)を与えた。倭国も銘文入りの剣を受けた。2012年12月23日投稿の「和邇氏と東大寺山古墳」をご参照ください。
 魏と燕は対戦し、238年に魏の司馬懿(しばい、179年-251年)が公孫氏を滅ぼした。卑弥呼は239年に魏に朝貢し、親魏倭王印を受ける。考古学者の故・森浩一先生(1928年-2013年)によると、国名や人名は倭人側が書いて魏の役人に渡した。
 新撰姓氏録によると、常世連(とこよのむらじ)は公孫淵の末裔と記されている。

 卑弥呼は247年に亡くなるが、翌年に臺與(235年頃-295年頃)が跡を継ぎ女王となる。
 魏が265年に滅び晋が起こると、倭国女王の臺與が266年に晋に朝貢するが、その後、晋も安定せず内乱が続き、北方異民族の侵入もあり倭国と交易できなくなった。
 270年頃には女王の臺與が崇神を連れて大和国に東遷し物部氏と結託して、崇神天皇(250年頃-318年)に全国支配を急がせたと考えられる。
 私見ですが、その当時の系図です。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 初代神武天皇(211年に大和国橿原で即位)から9代開化天皇(255年頃-293年頃)の80年間ほどで近畿地区の統括と大和朝廷の基礎造りができた。
 全国支配(国譲り)がほぼ完成したのは14代仲哀天皇(320年頃-362年)の360年頃であった。200年頃の出雲の国譲りから160年ほどが経っていた。
 全国を治める中央集権体制ができると次は海外派兵となり、362年に神功皇后(321年-389年)が新羅に遠征するまでに成長していった。その後も神功皇后は367年に千熊長彦、369年に荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)、382年に葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を派遣して新羅へ遠征させることになる。
 5月21日投稿の「奴国から倭国へ」と8月24日投稿の「日本書紀の神武天皇年」をご参照ください。
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by enki-eden | 2015-11-01 00:10