古代史探訪

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岡ノ山古墳(西脇市)

兵庫県西脇市上比延町(かみひえちょう)岡ノ山
 岡ノ山古墳は県指定文化財になっており、日本へそ公園(東経135度と北緯35度の交差する「日本のへそ」=日本の中心)の「岡ノ山」の山頂にあります。

 被葬者は4世紀の古墳時代前期に加古川上流域で勢力を持った豪族だと考えられる。
 へそ公園の駐車場横にも「滝ノ上古墳群」があり、岡ノ山の東側にも西岡古墳群がある。
 へそ公園内には岡之山美術館があり、西脇市出身の横尾忠則氏の作品が展示されている。
 また子供たちが喜ぶ諸施設、遊びながら科学を学べる「宇宙っ子ランド」、地球科学館「テラ・ドーム」などもある。



 車を「日本へそ公園」の大きな無料駐車場に停め、駐車場横のレストラン「花屋敷へそ公園店」(電0795-23-8718)で昼食。
 レストランの内装はすばらしく、料理も美味しかったですよ! 従業員も感じよく、お勧めです。
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  レストラン前のきれいな並木道を行くと・・・
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 岡ノ山の西斜面が見えます。4本のモニュメントは高さが25mあり、その中心が東経135度、北緯35度で、「日本のへそ」(Center of Japan)になっています。山頂が古墳です。
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 古墳は山頂にあるので登りましたが、急な上り坂は年寄りにはきつく、途中で数回休憩しました。
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 古墳の入り口に兵庫県教育委員会の案内板があり、「岡ノ山古墳は平地との比高約75m(標高は149.7m)の独立した山の頂に築かれた前方後円墳である。
 墳丘は全長51.6m、後円部径35.5m、高さ7.7m、前方部幅12.9m、高さ3.7mを測り、前方部は細長い柄鏡式(えかがみしき)で、後円部は2段築成されている。
 外部施設は石垣状の葺石が認められるが、埴輪類は確認されていない。埋葬施設は墳丘主軸に並行した竪穴式石室と推定される。
 確実な築造年代は出土遺物が知られていないため不明であるが、前方部が柄鏡式であることや、山頂に築かれていることから、古墳時代前期でも早い段階(4世紀前半)の築造である可能性が高い。」と記されている。
  古墳の中に入ると、このような細い獣道になっている。
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 この辺が後円部の墳頂です。雑木林で全体像はつかめないが、西を流れる加古川を見下ろす立地になっている。
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 岡ノ山から西脇市街の眺めは良い。手前を流れる川は加古川です。被葬者もここにやってきて国見をしていたのかな。そして、ここに自分の墓を造ろうと・・・
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by enki-eden | 2016-01-24 07:37

兵主神社(ひょうすじんじゃ、西脇市)

兵庫県西脇市黒田庄町岡372-2  電0795-28-2284  無料駐車場あります。
播磨国多可郡鎮座。「ひょうすさん」、「ひょうさん」と呼ばれている。
旧・県社、江戸時代には兵主五社大明神と称した。


祭神 大己貴(おおなむち)命、
   八千戈(やちほこ)命、
   葦原醜男(あしはらのしこを)、
   大物主命、(以上の四柱神はそれぞれ大国主命の別名)、
   清之湯山主三名狭漏彦八島篠命(八島士奴美神、素戔嗚尊の第一子)
   (すがのゆやまぬしみなさるひこやしましの)
   
 創立は社伝によると、播磨掾(はりまのじょう)岡本修理太夫藤原知恒(817年没)が当地付近の森地四町余りを開き神社の造営に着手し、延暦3年(784年)に大和国穴師の兵主神社を勧請した。
 穴師坐兵主神社については2013年7月22日投稿の「穴師坐兵主神社」をご参照ください。

 延喜式神名帳により延喜三年(905年)に式内社に指定。1983年に「勧請1200年祭」を執り行った。境内に記念の石碑が立っている。
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 兵庫県教育委員会の案内板によると、当社の拝殿は県指定文化財になっており、拝殿は長床式(ながとこしき)の平面で支外桁(しがいけた)で軒を支えている。曲りは一部を除き開放吹き放ちで、内部は正面中央部三間を広間床とし、両脇間境を円柱柱列とした特異な意匠になっている。
 天正19年(1591年)8月27日造立の棟札があり、桃山時代の長床式拝殿として、また茅葺(かやぶき)入母屋造りの様式を伝える建築として全国的にも稀に見る遺構である。



  大鳥居が社殿前を通る道路に建っている。
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 大鳥居の右手に楠丘小学校があり、久しぶりに二宮尊徳像を見ることができました。後方の山は三角点山(457m)。
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  小学校前に鐘楼が残っている。
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  鳥居と社号標、後方は随神門。
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  手水舎と牛の像、境内社に天満大神が祀られているからでしょうか。
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  茅葺きの立派な拝殿
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 拝殿の天井板が一部外されて吹き抜けとなっており、天井裏を見ることができる。縄で縛っている。
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  兵主神社拝殿と黒田官兵衛
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  幣殿
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  幣殿と本殿、本殿は権現造り銅板葺き。
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  本殿右に神明神社(天照大神)、
  相殿に天満大神、春日大神、八幡大神、高良大神。
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  本殿左に金刀比羅神社(大物主大神)、
  相殿に祇園大神、迦遇突智大神、火蘭大神、雨森大神。
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  厳島神社(市杵島姫命)
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by enki-eden | 2016-01-18 07:14

瀧尾神社(たきおじんじゃ、西脇市)

兵庫県西脇市黒田庄町黒田483 播磨国多可郡鎮座、無料駐車場あります。
通称「タキオさん」、白山(510m)の麓に西向きに鎮座。

祭神  素戔嗚尊(すさのおのみこと)、
    武甕槌命(たけみかづちのみこと)、
    天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
    経津主命(ふつぬしのみこと)、天太玉命(あめのふとたまのみこと)。
    江戸時代には五社大明神と称し、宮寺の円護寺があった。

 多可郡黒田庄町は2005年に西脇市との合併で西脇市黒田庄町になった。東経135度の子午線が通る。黒田庄和牛、釣り針、繊維産業が盛ん。
 播磨国風土記によると、黒田地区は土が黒いので「黒田庄」と為したとある。

 この黒田庄は戦国武将の黒田官兵衛(孝高、如水、1546年-1604年)と縁がある。官兵衛は高山右近などの勧めによりキリシタンとなった。洗礼名シメオン。
 黒田氏の始祖は赤松円光(赤松円心の弟)であるという。官兵衛の祖父・黒田重隆が備前国邑久郡福岡村(現・岡山県瀬戸内市)から播磨国に入り、1545年に姫路城代となった。
 黒田官兵衛と子の長政が筑前国那珂郡警固村福崎に築城の際、地名を変更して黒田氏ゆかりの福岡にした。



   大鳥居(両部鳥居)、北播磨にはこの形の鳥居が多い。
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   二の鳥居と社号標、左には鐘楼。 
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森の中の参道、前方には随神門が見えてきた。杉の森が深く、強い霊感を受ける。
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   随神門と後方には横長拝殿。
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 本殿、三間社流れ造り、千鳥唐破風、屋根は檜皮葺。
 造営は元禄15年・16年(1702年・1703年)。
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 本殿右後方に稲荷社、八幡武神、天照太神宮が鎮座。
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 本殿左後方に秋葉大明神と素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が鎮座。
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 810年正月、52代嵯峨天皇は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、津島神社(愛知県津島市神明町、祭神:建速須佐之男命)に「日本総社」の号を奉られた。
 66代一条天皇は990年頃に、牛頭天王発祥の津島神社に天王社の号を贈られた。

 祭神の武甕槌命と経津主命は高皇産霊神の命を受けて、素戔嗚尊が亡くなった西暦200年頃に、素戔嗚尊の後継者の大国主命に「出雲の国譲り」を迫った。「出雲」は島根県ではなく、北部九州の出雲族支配地(葦原中津国)のことと考えられる。大国主命の別名は葦原醜男神(あしはらのしこを)とも云われる。
 武甕槌命は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られており、経津主命は香取神宮(千葉県香取市)に祀られている。

 祭神の天児屋根命と天太玉命は、天照大神が岩戸隠れの際、天照大神が岩戸を少し開けた時に、鏡を差し出した。天児屋根命は中臣連の祖、天太玉命は高皇産霊神の子で忌部氏の祖となる。
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by enki-eden | 2016-01-10 10:16

松帆銅鐸の舌(ぜつ)にヒモが付着

 昨年4月に南あわじ市松帆地区から採取した銅鐸の鈕(ちゅう、つり手)に銅鐸を吊るすためのヒモが見つかっており、2個の舌(振り子)からもヒモが見つかっていた。今回は入れ子状態の2個の銅鐸の2個の舌にも紐の一部を発見。
 松帆銅鐸は7個発見されたが、紀元前3世紀から紀元前2世紀に製作されたと見られており、4個の舌の通し穴に紐が残っていたので、この紐を分析すればより正確な製作時期か埋納時期が判明するかもしれない。

 奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の難波洋三氏は「7個の銅鐸すべてに舌があり、ヒモも残っていたのは大発見だ。通常は舌を伴わずに埋納されており、淡路の地域的な特徴の可能性がある。」と話す。
 2013年11月17日に難波洋三氏のセミナー「摂津の弥生時代」を投稿していますのでご参照ください。
 
 松帆銅鐸は2月27日から3月27日まで兵庫県立考古博物館(兵庫県加古郡播磨町大中)で特別展示されます。3月13日(日)には難波洋三氏の特別講演会「南あわじ市 松帆銅鐸の位置づけについて」も開催されます。
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by enki-eden | 2016-01-08 13:53

王統系譜

2016年 あけましておめでとうございます!
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 京都市上京区幸神町(さいのかみちょう)の「幸神社」(さいのかみのやしろ)絵馬。
 主祭神は猿田彦神で、平安遷都の時に御所の鬼門除けとして鎮座。それ以前は400m東の賀茂川(鴨川)沿いの道祖神であった。「塞(さい)の神」が「幸(さい)の神」に転じたか。

 話は変わりますが、古代史を研究しておられる皆様の中には戦前の「皇国史観」にも、戦後の「戦後史学」や「マルクス主義史観」、「自虐史観」、「GHQ規制」にも共感できない方がいらっしゃると思います。
 その戦後史学も1970年代には批判を受けるようになるが、いまだに健在です。古事記・日本書紀・古代の伝承などは否定され、教科書に記載することは禁止されました。

 「記紀を読むと科学者の資格を喪失する」という戦後史学のピークの昭和30年代に、考古学者の故・森浩一先生(1928年-2013年)は、考古学資料と文献史料を総合することの重要性を成果として示された。この考え方は歴史研究の姿勢であるべきだと説かれた。また先生は、「伝説から歴史(考古学)を読む」ことが面白いとも言われた。

 戦後は、「欠史8代」とか「神功皇后はいなかった」とか「神には生没年や墓はない」などと述べる人が多いですが、私は記紀などの文献史料、考古学、神社の伝承、各地の伝承などを総合して古代史を研究しなければならないと考えてきました。
 ある国文科の大学生が卒論のテーマに「神功皇后」を選びました。その学生と話をしたときに、「神功皇后はいなかったと云う説がありますが、どう思われますか?」と質問されたので、神功皇后の父方、母方の系図を示し、それぞれの推定生年も示して説明しました。

 古事記・日本書紀は8世紀に成立し、紀元前1世紀からの歴史を古代人の表現方法で記しています。尚且つ、7世紀から8世紀に流行った「春秋の筆法」(孔子の筆法)で記されている箇所も多くあり、現代人には難しい内容になっています。
 これらの難しい部分を現代人向けの表現方法で分かり易く解説する必要があります。

 また、古代史も歴史ですから年代を特定する努力が必要です。古代の多くの記事は年代特定が困難ですが、少なくとも「何年頃」と記すことは必要です。
 下図は私見により生没年を想定した古代のマレビトと初期天皇の一覧です。ほぼ特定できている生没年はオレンジ色で記していますが、多くが「何年頃」になっています。新しい発見があるたびに生没年を修正していますが、今後も修正を続けていく予定です。
 現在の私見として下図に示します。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 神武天皇については、2015年8月24日投稿の「日本書紀の神武天皇年」をご参照ください。
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 古代史と関係ありませんが、文部科学省は、原子番号113番の新元素を発見したのが理化学研究所だと国際的に認定され、元素の命名権を獲得したと明らかにした。「ジャポニウム」、「ワコニウム」、「ニシナニウム」などの名前が候補に挙がっており、新元素の発見は日本初です。元素の名前は、「元素の周期表」に記載され後世に残ります。
 新元素は、原子核に陽子が113個ある。理研の仁科加速器研究センター(埼玉県和光市)で実験していた森田浩介博士(現・九州大教授)らのチームが2004年、2005年、2012年にそれぞれ1個の計3個を合成した。
 アメリカとロシアの合同研究チームと競争が続いていたが、理研が2012年9月に3回目の合成を確認した。森田浩介博士らが原子番号30番の「亜鉛」の原子核を加速器で加速し、原子番号83番の「ビスマス」を衝突させて人工的に造り出した。
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by enki-eden | 2016-01-02 00:30