古代史探訪

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筒井八幡神社(神戸市中央区)

神戸市中央区宮本通り3丁目1-5  電078-222-3477  無料駐車場あります。
厄除け開運の神様(厄神さん)
祭神 応神天皇(八幡大神)

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 平安時代に宇佐八幡宮から勧請された。
 境内には清水が湧き出ていた。清水に井筒を設けていたので「筒井村」という地名になったが、明治初期に神社周辺は当社に因み「宮本通り」と変更された。井筒は現在でも境内に残っている。
 湧き水は山陽新幹線の六甲山トンネル工事で止まってしまったようです。
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 鳥居と社号標、桜の木が多いので満開になると桜の名所になるでしょう。
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   拝殿
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   神使いの鳩も見える。
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   拝殿と本殿、手前に扇塚が見える。
 
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 扇塚の前で毎年5月15日に「扇感謝祭(扇供養)」が執り行われ、舞の関係者が古くなった扇を持参し、神火で焚いて芸の上達を祈願するようです。
   ときの間も 惜しみ 手馴れし 末広に いつしか 舞の心 通える

 社殿右手前に稲荷社、祭神は宇気母智神(うけもちのかみ)と豊武稲荷神(とよたけいなりのかみ)、右隣りは祖霊社。
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   境内西北に三宝荒神社(火産霊大神)
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 神仏習合時には別当の神宮寺があったので、石仏、宝筐印塔などが残っている。
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by enki-eden | 2016-03-25 00:30

小山田遺跡(こやまだいせき、明日香村川原)

 小山田遺跡は明日香養護学校(奈良県高市郡明日香村川原)の敷地内にあり、明日香養護学校の校舎建て替えに伴う調査で、飛鳥時代中頃(7世紀中頃)の方墳の一部と濠(ほり)跡が見つかった。 橿原考古学研究所が3月18日に現地説明会を行ったが、古墳ではなく苑地の遺構だという意見もある。

 蘇我氏により物部守屋が587年に滅ぼされ、物部氏主導の前方後円墳による古墳時代が終焉、33代推古天皇の飛鳥時代に移る。
 飛鳥時代には蘇我氏の方墳が築かれるようになるが、小山田遺跡の方墳は一辺50m以上あり、1.7km南東の石舞台古墳(蘇我馬子、551年-626年)より大きい可能性がある。石舞台古墳は一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、更に外提をめぐらし、南北83m、東西81mある。

 小山田遺跡の方墳は宇陀地域の榛原石(はいばらいし)と呼ばれる薄茶色の室生(むろう)安山岩の切石で装飾されている。
 橿原考古学研究所は規模や築造時期などから34代舒明天皇(593年-641年)の初葬墓(しょそうぼ、改葬前の墓)で、日本書紀に登場する滑谷岡(なめはざまのおか)陵の可能性が高いと云う。
 日本書紀によれば舒明天皇は「滑谷岡」に埋葬され、崩御から2年後の643年に押坂陵(おしさかのみささぎ、段ノ塚古墳)に改葬された。
 橿原考古学研究所は段ノ塚古墳にも榛原石の石積みがあり共通点があることなどから、この方墳は舒明天皇の初葬墓の可能性が高いと見ている。

 当地は蘇我氏の邸宅があった甘樫丘の1km南端で、蘇我蝦夷(587年-645年)が自分の墓と子の入鹿(610年頃-645年)の墓を生前に2基並べて築造していた双墓(ならびのはか)の場所とも見られる。
 今回発掘された方墳が蘇我蝦夷の大陵(おおみささぎ)で、西隣りの菖蒲池古墳(一辺30mの方墳)が入鹿の小陵(こみささぎ)と云う可能性もあり、ここに蘇我氏は滅亡したのか。

 今回の方墳の濠は墳丘北側が東西方向に直線状に延び、長さ約48m、上部の幅約7m、深さ約1.5mで、長さは80mほどになるかもしれない。
 底部と北側斜面は川原石が貼られた貼石遺構で、横断面の形は逆台形になっている。底には敷石が施されていた。
 南側では、板石状の榛原石の切石(長さ30~40cm、幅約30cm、厚さ約5cm)などを階段状に積んだ墳丘の一部(10段分)が見つかった。
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by enki-eden | 2016-03-24 15:43

素戔嗚の系図

 素戔嗚(布都斯)の父は布都ですが、記紀には父を伊弉諾としています。出雲風土記にも伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命とありますが、素戔嗚が伊弉諾の娘を妻とした婚姻関係だと私は考えています。現代では義父になりますが、古代世界では父です。政略結婚も多い時代です。
 素戔嗚の第5子である饒速日の実名は布留(ふる)で、出雲国風土記の大歳神と考えられます。
 
 私見による系図と出生年を次に示しますが、天火明・海神豊玉彦・豊玉姫・彦火々出見の関係がまだ不安定で今後修正する必要があります。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 海神豊玉彦と天火明(彦火々出見)は同一神ではないか。別神であれば兄弟でしょうか、関係は深いと思います。別神の場合、豊玉彦の子になっている振魂(ふるたま、倭氏・尾張氏の祖)は天火明の子だと思います。
 2014年4月20日投稿の「天火明命と綿津見豊玉彦は同一人物か?」をご覧ください。

 八尋鰐の豊玉姫は豊玉彦の娘ではなく妃の可能性があると思います。そして彦火々出見は妊娠した豊玉姫が来るのを志摩芥屋(しまけや、福岡県糸島市志摩芥屋)の海岸で産屋を造りながら待っていたと私は考えています。豊玉姫が来るのが早くて産屋は完成していなかったが生まれたのは鵜茅草葺不合(うがやふきあえず)です。
 豊玉姫は可也山(かやさん 365m、糸島富士)を目印(ランドマーク)として船でやって来たのでしょう。海岸に近づくと芥屋の大門(けやのおおと)も目立ったでしょう。約束していた産屋はすぐに分かったでしょうね。

 彦火々出見を埋葬した「日向の高屋(たかや)山上陵」はこの可也山でしょうか。それとも西隣の立石山(210m)でしょうか。福岡県福津市勝浦の新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)の中という説もありますが、時代が違いますね。
 明治政府が鹿児島県霧島市に高屋山上陵を治定したが、その他にも多くの伝承地があります。

 私は記紀の云う「日向(ひむか)」は、この場合は福岡県糸島市辺りだと考えています。日向は固有名詞ではなく普通名詞で、日向と表現する地は複数あったと思います。
 伊弉諾が黄泉の国から戻って禊(みそぎ)をした「筑紫の日向の橘の小戸の檍原(あわぎはら)」は奴国(福岡市)の立花山(367m)の麓の川か沼ではないでしょうか。
 立花山は古代の船乗りのランドマークだったので、伊弉諾は黄泉の国(出雲国)から立花山を目指して本拠地の奴国に帰ってきたのでしょう。
 糟屋郡新宮町ホームページの「立花山名前の由来」によると、立花山は伊弉諾尊と伊弉冉尊の二柱の神が住む山として、昔は「二神山(ふたがみやま)」と呼ばれていたとあります。
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by enki-eden | 2016-03-17 00:08

上田正昭先生がご逝去

 歴史学者で京都大学名誉教授の上田正昭先生(88才)が昨日ご自宅で亡くなられました。兵庫県豊岡市(旧・城崎郡城崎町)のご出身で、京都府亀岡市の小幡神社を管理する上田家に養子となり宮司も務められました。
 哲学者の梅原猛氏と同年令で長い親交を続けられた。古代史研究の第一人者であり、姫路文学館館長、播磨学研究所名誉所長、大阪女子大学学長(現・大阪府立大学)、西北大学名誉教授(中国西安市)、その他多くの役職を歴任され、著書も多数。
 湯川秀樹博士、松本清張氏、司馬遼太郎氏とも親交が深かったようです。

 2013年5月12日投稿の上田先生の講演会「伊和大神と天日槍(あめのひぼこ)」をご参照ください。
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by enki-eden | 2016-03-14 09:38

松帆銅鐸(兵庫県立考古博物館)

 3月27日まで兵庫県立考古博物館で松帆銅鐸が展示されています。フラッシュなしで写真撮影もできますよ。3月13日(日)には難波洋三氏(奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長)の特別講演会も予定されています。
 難波洋三氏によると、松帆銅鐸の2号と4号と中の御堂銅鐸は3個とも高さ22.4cmの外縁付鈕1式で文様は4区袈裟襷文、舌を伴う点でも共通しており同笵銅鐸であると云う。
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  梅が咲いています。
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 昨年4月に南あわじ市松帆で7個の銅鐸が発見され、しかも舌(ぜつ)を伴い、舌や鈕(ちゅう)にヒモが残っていました。南あわじ市教育委員会蔵。
 松帆地区では過去に「中の御堂(みどう)銅鐸」8個、「古津路(こつろ)銅剣」14本も出土しており、弥生の青銅器が集中する場所になっています。

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 1号銅鐸、最古段階の菱環鈕(りょうかんちゅう)2式。他の6個は古段階の外縁付鈕(がいえんつきちゅう)1式。紀元前3世紀~紀元前2世紀の古い段階の「聞く銅鐸」。
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   2号銅鐸
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 入れ子の3号・4号銅鐸発見時の様子。鈕にはヒモの一部と痕跡が残されていた。
 舌には銅鐸内部に吊り下げるための撚りヒモと組みヒモが残っていた。
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   5号銅鐸
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 左から舌1(1号銅鐸の舌)、舌2、舌3。一番右は舌5と考えられている。
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  舌3には吊り下げたヒモが残っている。
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   6号銅鐸
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   7号銅鐸
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 保存状態を考慮し、3号銅鐸・4号銅鐸・舌4・舌6・舌7は展示されていない。
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  4号銅鐸を3号銅鐸内部より分離する。
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  松帆銅鐸の形式
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 古津路(こつろ)銅剣、南あわじ市松帆古津路で出土した弥生時代中期の銅剣、14本のうち5本が当博物館蔵、9本は国立歴史民俗博物館蔵。
 13本が中細形銅剣、1本が細形銅剣、武器形青銅器の中でも古い時期のもの。
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 伝・淡路国出土銅鐸の複製品、弥生時代中期、原品は尼崎市の本興寺蔵。
 古段階の外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)銅鐸で、陽線による4条の流水文が上下2段に描かれ、その間には連続する渦巻状文帯が配されている。
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 南あわじ市阿万東町(淡路島の南端)の製塩遺跡の九蔵(ぐぞう)遺跡。
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 遺蹟の大型掘立柱建物跡から和同開珎(わどうかいちん)の銀銭が出土。
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 山陰型甑形(こしきがた)土器、弥生時代後期から古墳時代、赤穂市の堂山遺跡出土。何に使ったか分からないナゾの土器。島根県・鳥取県・兵庫県で出土する。
 私見ですが、川で水を汲み、縄を付けてリュックサックのように背負って持って帰ってくる。真横から見ると背中が当たる部分と外側では土器のカーブか違いますね。取っ手も背中寄りに付いている。
 水がこぼれないように蓋ができる。
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 魏の年号(正始元年、西暦240年)と文字のある三角縁同向式神獣鏡の復元品。
 古墳時代前期の兵庫県豊岡市の森尾古墳出土。原品は京都大学総合博物館蔵。
 卑弥呼の朝貢に参加した首長か。
 文字は、(正)始元年 陳是作竟 自有径辻本自州( )社地命出 
      寿如金石 保子宜孫( )( )
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 呉の年号(赤烏7年、西暦244年)のある画文帯対置式神獣鏡の複製品。古墳時代前期の兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳出土、兵庫県の指定文化財。三国時代に呉と交易していたようです。
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by enki-eden | 2016-03-09 00:30

三雲井原遺跡(みくもいわらいせき)出土の「すずり片」

 三雲井原遺跡群は糸島市(前・前原市、まえばるし)の瑞梅寺川と川原川の間にある遺跡群で、弥生時代の三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)・井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき)、古墳時代前期の端山古墳・築山古墳などがあります。



 糸島市は魏志倭人伝記載の弥生時代の伊都国で、伊都国は福岡市西区の一部を含みます。2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。
 糸島半島の北部は古代では島になっており、その島は魏志倭人伝記載の斯馬(しま、志摩)国ではないでしょうか。猿田彦の志摩国は福岡県糸島市志摩町と三重県志摩市で共通しています。

 糸島市教育委員会は3月2日、三雲・井原遺跡で弥生時代の「硯(すずり)の破片」が1個出土したと発表した。当地は伊都国の都だったと云う。
 破片の大きさは長さ6cm、幅4.3cm、厚さ6mm。現在の硯と違って当時は、板状の硯石(すずりいし)の上に粒状の墨を乗せ、水を含ませて研石(けんせき)で摺り潰していた。実際に使って擦り減った跡があるようです。

 昨年12月、土器を捨てた窪地の中から硯の破片が見つかったが、多数の楽浪郡製の土器(1~2世紀)が捨てられていた。硯石も同じく楽浪郡製だろうと云う。糸島市立伊都国歴史博物館で展示されるようです。
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 同じような硯と研石の破片が1998年に松江市の田和山遺跡の弥生中期地層から見つかっている。各地の豪族が前漢・後漢や魏・呉と交易していたので、硯と筆は各地の必需品だったでしょうね。筆や木簡は腐食しやすいが硯は土器などと共に出土する可能性が今後もあると思います。
 文字は木や竹の板(木簡)に書いて大陸との交易に使ったのでしょう。

 これらの「硯、筆、木簡は渡来人が使った」という専門家の解説が多いですが、私は倭人が使ったと考えています。魏志倭人伝記載の地名や人名も倭人が書いて渡したと考えています。
 魏が倭を東夷と低くみて「卑弥呼」などの悪字を使用したという意見が多いですが、倭人が書いて渡したもので、当時の倭人には良字と悪字の区別はなく、表音文字として漢字を使ったのでしょう。
 専門家の意見は後漢などはものすごく文明程度が高く、倭国は極めて低いという認識で全てを判断していますが、それほどの大きな違いはないと思います。
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by enki-eden | 2016-03-03 14:28

記紀の天皇家系図

 系図や伝承はよく混乱が見られますが、記述者の思惑や権力者の介入、長い間の伝承ミスなどもあると思います。
 これを正すには暦の統一を行った21代雄略天皇から逆算するか、もう少し後の29代欽明天皇から逆算する方法があります。
 更に、天皇家に仕える有力豪族の系図も残っており、誰がどの天皇に仕えたかも分かっています。

 17代履中天皇からは天皇の兄弟・従弟の即位がありますが、それ以前は全て親子関係になっているのは不自然です。
 初代神武天皇から10代崇神天皇までは親子関係の10世代になっていますが、逆算及び有力豪族との比較を見ると、兄弟・従弟の即位があると見られ、期間は5世代と考えられます。
 私見ですが、①初代神武天皇、②2代綏靖天皇・3代安寧天皇・4代懿徳天皇、③5代孝昭天皇・6代孝安天皇、④7代孝霊天皇・8代孝元天皇、⑤9代開化天皇・10代崇神天皇と考えています。

 大和の国で天皇家が始まる前の倭国(筑紫の29ヶ国)の主な系図も記紀には記述されています。紀元前1世紀の別天神(ことあまつかみ)5代、紀元元年から始まる奴国王の7代と7代目伊弉諾の子、孫の世代までです。

 倭王兼7代目奴国王の伊弉諾からの系図が混乱していると私は考えています。それは兄弟・姉妹・いとこなどで同世代になっている系図を前後の世代としてつないでいることです。
 並列の系図が直列になっているのです。国宝になっている海部氏の系図にも並列が直列になっている部分がありますから、注意が必要です。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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by enki-eden | 2016-03-01 07:03