古代史探訪

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八幡神

 宇佐神宮の祭神は、八幡大神(15代応神天皇)、比売大神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)、神功皇后で、神亀2年(725年、45代聖武天皇の時)に創建された。全国4万社の八幡神社の総本宮である。
 地元では宇佐神宮創建前は比売大神を祀っていたが、571年(29代欽明天皇の時)に応神天皇の神霊が宇佐の地に示顕した。

 725年に応神天皇を祀る宇佐神宮を創建し、神託により天平3年(731年)に地元で古くから崇敬されていた比売大神を二之御殿にお祀りした。
 宇佐神宮は聖武天皇(701年-756年)の東大寺大仏建立(752年)に多くの貢献をし、配下にあった香春岳(かわらだけ)の銅を提供、大仏鋳造作業にも協力した。
 東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して手向山八幡宮を東大寺の鎮守社とした。そして八幡神は八幡大菩薩となり神仏習合の元となる。
 また宇佐神宮は神託により、神功皇后を弘仁14年(823年、52代嵯峨天皇の時)に三之御殿にお祀りした。宇佐神宮は伊勢神宮に次ぐ宗廟として皇室から崇敬され、本殿は国宝となっている。

 宇佐神宮は宇佐氏の磐座信仰が当初の形態のようです。宇佐氏は香春岳山麓から中津市の大貞八幡宮薦神社(おおさだはちまんぐう・こもじんじゃ)に移り、神官を務めていたと考えられている。
 そして、素戔嗚の子・五十猛命(いそたける)が始祖と云う辛嶋氏が比売大神信仰をもたらせた。

 宇佐神宮の「奥宮」は南東5kmにある御許山(おもとさん、647m)の大元神社で、山の9合目に拝殿があり本殿はなく山頂の磐座(禁足地)がご神体となっている。
 ここに比売大神三柱が降臨したと云われる。そして大元神社に向かい合っている境内社は大元八坂神社で祭神は比売大神の父神・須佐男命です。
 奥宮の大元神社の祭神が比売大神と須佐男命で、後に応神天皇と神功皇后が祀られて宇佐神宮の創建となったようです。
 比売大神の三女神は宗像大社にも祀られているが、宗像大社の本来の祭神・大国主命が比売大神に替えられた。素戔嗚の系図を示します。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 海部氏の勘注系図によると、
 火明命娶佐手依姫命 生穂屋姫命 佐手依姫命者 亦名市杵嶋姫命
(火明命は佐手依姫命を娶り、穂屋姫命を生む。佐手依姫命の別名は市杵嶋姫命である。)
 海部氏と尾張氏の祖である天火明命は西暦140年頃の出生で、速吸瀬戸から周防灘に至る海域を統括していたのでしょう。
 天火明命の妃は佐手依姫と天道日女で、どちらも津島(対馬)の出身です。古事記の国生み記事では、対馬を「天の狭手依比売」と呼んでいる。そして市寸島比売命の亦の名を狭依毘売命と云っている。
 天火明命の子である天香語山とその子・天牟良雲は西暦185年頃の饒速日東遷に従った。また、天道日女の父の天日神命(対馬県主祖)も饒速日東遷に従った。

 2世紀に活躍した素戔嗚と饒速日親子は宇佐を拠点とし、饒速日は当地から瀬戸内海を東進、大和国を造る。後裔は東海、関東、東北にまで進出して開拓する。

 京都府八幡市(やわたし)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は平安時代前期に宇佐神宮から勧請され、京都御所の裏鬼門を守護する神社として皇室や源氏から崇敬された。源義家(1039年-1106年)は石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家と名乗った。
 源頼朝(1147年-1199年)ゆかりの鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう、神奈川県鎌倉市)は源氏と鎌倉武士の守護神となった。

 八幡神は清和源氏、桓武平氏などから武神・弓矢八幡として崇敬された。しかし、宇佐神宮の大宮司・宇佐公通(うさのきんみち、豊前国司兼務、1194年頃没)は平清盛(1118年-1181年)の娘を正妻としたので、源平合戦の時に平氏の味方をした。これにより宇佐神宮が源氏の焼き討ちに遭い、ご神体や古文書が強奪されてしまったので古い記録が残っていない。

 八幡神社や八幡神信仰は秦氏と関係が深いと云われるが、秦氏は応神天皇の時(4世紀末)に宇佐に渡来して、大和、山背、丹後など全国に移り住み、八幡信仰を広めた。

 幡宮、坂神社、雲、重垣、岐大蛇、王子など、は素戔嗚の聖数です。「本来の八幡神は素戔嗚尊と比売大神であったが、素戔嗚尊は追い出された。」という説を展開しておられる人もあります。
 その説によると、全国に四万社を超える八幡神社があり、八幡神が源氏や武家の守護神となったのは素戔嗚が最高の武神だったからで、「宇佐」は「須佐」の転訛だと云います。

 素戔嗚は平安時代の災害続きの後は「厄除けの神」として信仰されているが、八幡神も同じように「厄除けの神」として信仰されている。社名にも「多井畑厄除八幡宮」、「宗佐厄神八幡神社」などのように厄除、厄神を入れている神社もあります。

 神社の拝礼方法は、「二拝、二拍手、一拝」ですが、宇佐神宮と出雲大社の拝礼は、「二拝、四拍手、一拝」です。そして宇佐神宮二之御殿の床下に墳墓があるという伝承が残っている。
 2012年12月17日投稿の「注連縄の向きが逆の神社」をご参照ください。
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by enki-eden | 2016-04-25 05:37

15代応神天皇

 応神天皇の生没年については過去に何度も述べており、2013年2月21日投稿の「応神天皇」では、363年頃出生、404年頃崩御としています。
 その後は362年出生、403年崩御(41才)と修正し、「何年頃」を改め年度をはっきり確定しました。ここで日本書紀と古事記をもう一度読み直し確認してみます。

 古事記によると14代仲哀天皇が壬戌年(362年)6月11日に崩御。日本書紀では2月に崩御、神功皇后が冬10月3日に鰐浦(対馬市上対馬町鰐浦、対馬の北端)から出発し新羅を討った。
 神功皇后は新羅から帰還し、その年の12月14日に皇子(応神天皇)が生まれた。つまり362年2月か6月に仲哀天皇が崩御、神功皇后が10月に新羅遠征、帰還後12月に皇子(応神天皇)を出産。

 神功皇后は翌年(363年)に摂政となり、誉田別皇子(ほむたわけのみこ、応神天皇)は神功皇后摂政3年(365年)に皇太子として立太子する(数え年4才)。ところが日本書紀は「時に年3才」と記す。
 4才ではなく3才と記すのは、皇子(15代応神天皇)の父を14代仲哀天皇にするために新羅遠征と皇子出生を362年の冬に繰り上げたことを暗示する。
 実際には翌年の363年春に新羅に遠征、帰還後に皇子が生まれた。日本書紀は応神天皇生誕の公式記録は362年とし、事実を伝えるために「時に年3才」の記事を挿入した。
 気象条件から考えても冬の外海渡航は危険。従って、今後は神功皇后新羅遠征と応神天皇出生年は363年と改めます。

 神功皇后は己丑年(389年)に崩御、応神天皇は翌年の庚寅年(390年)に即位。
 応神2年(391年)に仲姫を皇后とした。
 応神3年(392年)に百済の辰斯王が礼を失することをしたので、紀角宿禰などを遣わせて責めると、百済は辰斯王を殺したので、紀角宿禰らは阿花(あくえ)を王とした。

 応神5年(394年)、諸国に海人部、山守部を定めた。伊豆国に船を造らせた。長さ10丈で速かったので枯野(からの)といった。
 応神6年(395年)、近江国に行幸。
 応神7年(396年)、高麗人、百済人、任那人、新羅人らが来朝。
 応神8年(397年)、百済人が来朝。

 応神9年(398年)、武内宿禰に筑紫を監察させたが、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)に讒言された。
 応神11年(400年)、剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を造った。
 応神13年(402年)、諸県君牛諸井の娘・日向髪長媛を大鷦鷯尊(16代仁徳天皇)に賜る。
 応神14年(403年)、百済王が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉った。真毛津(まけつ)といって来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である。
 弓月君が渡来した。秦氏の先祖である。

 403年に応神天皇は崩御するが、記事は更に続く。仁徳天皇の時代のことです。
 応神15年(404年)、百済王は阿直岐(あちき)を遣わせて良馬二匹を奉る。阿直岐史の先祖である。
 応神16年(405年)、百済から王仁(わに)が来て、応神天皇の太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師とした。王仁は書首(ふみのおびと)らの祖である。
 百済の阿花王が薨じた。阿花王の長子(390年-420年)を人質として大和に住まわせていたが、国に帰らせ直支王(ときおう)とした。
 平群木菟(へぐりのつく)宿禰らを新羅に派遣し、弓月の民を率いて葛城襲津彦と共に帰ってきた。

 応神20年(409年)、倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖である阿知使主(あちのおみ)が多くの民を連れて渡来した。
 応神25年(414年)、百済の直支王(ときおう)が薨じ、子の久爾辛(くにしん)が王となった。これは実際には420年のことだから年代が間違っている。

 ここからは再び応神天皇の時代の記事に戻る。年代はこれまでの在位年ではなく、天皇の数え年の年令を表している。
 応神37年(応神天皇満36才、西暦399年)、呉(くれ)から縫女(ぬいめ)を4人求めた。
 応神39年(満38才、401年)、百済の直支王(ときおう)の妹・新斉都媛(しせつひめ)を遣わせて仕えさせた。
 応神40年(満39才、402年)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と大鷦鷯尊(おおさざき、16代仁徳天皇)に国事を任せた。
 応神41年(満40才、403年)、軽嶋の豊明宮で崩御、110才。
             *****
 応神天皇とは関係ありませんが、ソプラノオペラ歌手の森麻季さんの歌を聴いてください。
「さくら」です。
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by enki-eden | 2016-04-15 00:20

豊田トンド山古墳と豊田狐塚古墳(奈良県天理市豊田町)

 石上神宮の1.3km北の丘陵に豊田トンド山古墳と豊田狐塚古墳がある。
 石上・豊田古墳群では前方後円墳の石上大塚古墳・ウワナリ塚古墳や方墳のハミ塚古墳が大きいが、豊田トンド山古墳はそれに次ぐ墳丘規模を有している。
 古墳群の南には天理教教会本部や天理大学、天理市役所などがある天理市の中心地です。

 ピンクの矢印が豊田トンド山古墳、赤が豊田狐塚古墳、黄がウワナリ塚古墳、白が石上大塚古墳、ブルーがハミ塚古墳です。
 豊田トンド山古墳の西隣に豊田神社が鎮座。
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豊田トンド山古墳
 2015年に天理市教育委員会文化財課が都市計画道路事業に伴う発掘調査を実施、7世紀前半築造の巨石積み大型横穴式石室が発見された。
 古留川の扇状地を見下ろす高台にあって、南方に広がる古留遺跡は長期で大規模な複合遺跡で、物部氏の本拠地として古墳時代に最も栄えた。
 石上・豊田古墳群には石上大塚古墳・ウワナリ塚古墳のほか200基もの円墳が確認されており、豊田トンド山古墳は古墳群の南西端になる。

 墳丘は直径30mの円墳で、石室の全長9.4m、玄室幅2m、高さ2.6m、床面は30cmほどの石を敷き詰めている。石室内は盗掘されているが、凝灰岩の破片から石棺があったと考えられる。羨道には木棺が追葬されていたようです。
 副葬品として須恵器、土師器、鉄鏃、刀の破片などが出土した。小規模の円墳はたくさん密集して築造されているが、当古墳は見晴らしの良い高台に独立して築造されているので被葬者はそれなりの有力な族長だったと考えられる。

豊田狐塚古墳
 奈良県天理市教育委員会文化財課は6日、豊田狐塚古墳で横穴式石室が発掘調査で見つかり、一部盗掘を受けていたが、金銅の装飾が残る鉄製馬具や約300点の玉類、直径9cmの国産小型鏡(旋回式獣像鏡)、須恵器、土師器などの副葬品が出土したと発表した。
 石室は奥行き4.4m、幅2.2m、高さ2.2m、石室内には馬の胸や尻を飾る杏葉(ぎょうよう)や、轡(くつわ)といった馬具なども見つかった。
 場所は豊田トンド山古墳の南東麓にあり、昨年末から発掘調査をしていた。6世紀半ばから後半築造の直径約20mの円墳。文化財課は古墳の規模や副葬品から、「物部氏の首長を支えた有力者の墓の可能性がある」としている。

 床面に5cmから10cmの床石を敷き詰め、床面から見つかった木材の痕跡などから、少なくとも3基の木棺が納められていたと見られている。奥に東西向きで1基、手前に南北向きに2基で、手前の2基は年代の違う追葬だと考えられる。石上・豊田古墳群に密集する約200基の円墳の中でも石室が有数の規模を持っている。

 850m北にはウワナリ塚古墳と石上大塚古墳があり、2014年8月13日投稿の「こなべ古墳、うわなべ古墳」をご参照ください。また、1.7km南には西山古墳があり、2013年7月19日投稿の「西山古墳」をご参照ください。

豊田神社
天理市豊田町878、
豊田トンド山古墳の西隣に鎮座。
祭神 蛭子命、宇賀御魂神、高良玉垂命。

 旧豊田村の村社で、もとは俊成神社と称したが、大正14年に御霊神社と須賀神社を合祀し、豊田神社に改称。
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by enki-eden | 2016-04-08 00:36

太宰府天満宮の飛梅(とびうめ)ちぎり

 菅原道真公(845年-903年)を慕って、京より一夜にして太宰府に飛んできた白梅のご神木「飛梅」が本殿の手前(左近)にあるが、樹齢は千年以上で梅の実は少ない年で20個ぐらい、多い年で200個ぐらいできる。品種は「色玉垣」、極早の八重咲きで境内にて一番早く咲き始める。
 6月1日に飛梅の実を集め、ご神前に奉納する「飛梅ちぎり神事」があります。(一昨年の動画ニュースです。)

 ご神木の前には「飛梅」と書いた札が立っているが、文字の一部が鳥の形になっている。道真公がそのような「鳥点(ちょうてん)文字」を残しているのを真似たようです。
 古代中国の春秋戦国時代には鳥や魚の筆画を組み込んだ書体「鳥書」が流行した。その後、BC221年に全土を統一した秦始皇帝が法・度量衡・文字の書体などを統一した。
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 道真公が都を偲んで、鳥に託して詠んだ漢詩(菅家後集冒頭)です。
    離家三四月 落涙百千行 萬事皆如夢 時時仰彼蒼
 この漢詩の文字に鳥の形をうまく取り入れており、18羽もいます。
 写真は「minaminooka」さんのブログなどで見ました。

 この飛梅の実は一生一代のお守り「飛梅御守」として奉製され、種は立派な漆塗りの箱に入っており初穂料は10万円もしますよ。
 境内には6,000本の梅の木があって、その種を入れたお守りであれば1,500円ですけどね。



 梅ではなく飛松伝承もあります。京より大宰府へ向かう途中の道真公が攝津国(神戸市須磨区板宿町)の辺りで休まれていた時に、道真公が可愛がっていた松が空を飛んでやって来たというものです。
 この松は巨木となったが大正時代の落雷で枯れてしまい、板宿(いたやど)八幡神社の境内に飛松社として松の株が保存されています。「大宰府の飛梅」に対して「板宿の飛松」と呼ばれています。松の木が飛んできた所を「飛松岡」と呼んでいます。

 梅の木が京から太宰府まで実際に飛んできたのでしょうか? 道真公に仕えて太宰府に同行した味酒安行(うまさけ やすゆき)が菅原道真邸の梅の苗木を持ってきたとも云われている。
 903年に道真公が失意のうちに亡くなると、「遺体を京に送ってはいけない」という遺言を守った味酒安行は道真公を宝満山(御笠山、829m)の麓に埋葬し安楽寺として墓を守った。
 安楽寺は明治政府の政策により廃寺とされ、太宰府天満宮として残ったが、本殿の下に道真公の墓があるという。天満宮の200mほど北の安行神社で味酒安行(景徳大明神)が祀られている。

 味酒安行の42代目の子孫・味酒(みさけ)安則氏が太宰府天満宮の禰宜で総務部長を務めておられます。天満宮の1.2km南にある福岡女子短大の教授も兼ねておられるようですね。
 道真公の子孫で39代太宰府天満宮宮司の西高辻信良氏と味酒安則氏は同年令で、千年以上経っても代々師弟の関係が続いているのですねぇ・・・驚きです。
 お二人は九州国立博物館の誘致開館に尽力され、2005年に太宰府天満宮のすぐ南に開館しました。天満宮の敷地14万㎡が博物館に寄贈されています。

 太宰府天満宮境内の心宇池に架かる太鼓橋の横に境内社「志賀社(国指定重要文化財)」が鎮座。福岡市東区志賀島の志賀海神社(しかうみじんじゃ)から勧請された。太宰府天満宮と志賀海神社は密接に繋がっている。
 志賀海神社は阿曇氏が代々宮司を務めてきたが、7年前に阿曇磯和宮司が急逝し、後継者が育つまでの間は太宰府天満宮の西高辻信良宮司が志賀海神社の宮司代務者を務めておられるようです。
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by enki-eden | 2016-04-07 00:15

板宿八幡神社(いたやどはちまんじんじゃ、神戸市)

厄除けの神、板宿の厄神さん。
神戸市須磨区板宿町3丁目15-25  電078-731-3161  駐車場あります。
祭神 八幡大神(誉田別命、ほんだわけのみこと)
   池の宮明神(大日孁貴命、おおひるめのむちのみこと)
   飛松天神(菅原道真公)

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 987年に武神・八幡大神と菅原道真公を板宿村の鎮守として祀り、道真公宿泊の跡を保存するために当社は創祀された。

 大正時代に落雷で枯れた「飛松」の切り株を境内社の飛松天神社が祀っている。菅原道真公が901年に太宰府へ赴任の途中、当地に宿泊したが京で大切にしていた松は情け知らずだと詩を詠んだ。
   梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらむ
 すると一夜にしてその松が道真公を慕って飛んできた。大正時代に「飛松」は高さ30mもあったが、落雷で枯死し、現在は切り株が飛松天神社で奉斎されている。
 「太宰府の飛梅」に対して「板宿の飛松」として信仰されている。板宿町の東に隣接して「飛松町」が現在でも存在する。

 池ノ宮明神(別名 鳴滝明神)の祭神は大日孁貴命(天照大神)です。板宿町の北隣りの明神町1丁目に鎮座していたが1908年に当社に合祀した。



 海抜77mの境内から市内が見渡せるが、この日は靄で遠くが見えなかった。
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 鳥居から本殿を望む、右手前の赤鳥居は飛松天神社、左手前は社務所。
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   本殿(厄除けの神)と飛松天神社(学問の神)
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   飛松天神社(祭神 菅原道真公)
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 本殿左に末社の稲荷大明神(祭神 倉稲魂命、商売繁盛の神)
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 本殿背後の階段を上ると、池ノ宮明神社(祭神 大日孁貴、産業・商業の神)。
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   池ノ宮明神社の左右に祠
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 神社の北にある須磨学園高等学校の山を得能山(とくのうざん)と云って、1924年に4世紀の竪穴式石室と割竹形木棺(頭部は北側)が発見された。前方後円墳の得能山古墳で、50才ぐらいの女性の頭蓋骨、銅鏡2面(画文帯神獣鏡と内行花文鏡)、鉄刀・鉄剣・鉄鏃が出土した。現在は国立東京博物館に保存されている。
 当社から西に続く丘陵は「飛松が岡」、「松岡」と呼ばれ須磨アルプスコースの一部になっているので登山者がよく訪れる。
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by enki-eden | 2016-04-01 00:16