古代史探訪

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殉葬

 古代メソポタミアやエジプト、古代中国、古代日本などにおいて殉葬が行われた。
 考古学的には日本国内の殉葬を確認できないが、文献資料に殉葬が記されている。三国志魏志倭人伝に、邪馬台国の女王卑弥呼(179年-247年)が亡くなり、大きな塚を築いて100人の奴婢が殉葬されたと記されている。

 10代崇神天皇(255年頃-318年頃)の皇子・倭日子(11代垂仁天皇の弟)の陵墓について、古事記は倭日子命の葬送時に「初めて陵に人垣を立てたり」とあります。人垣とは人を埋めて垣とすることで、殉葬のことです。

 北部九州の倭国や西海の吉備国では古くから行われていた殉葬が大和国ではこれが初めてだったのでしょうか。倭日子より前の箸墓古墳に殉葬があったと考えられますが・・・
 倭日子命(倭彦命)の陵墓については2014年5月18日投稿の「桝山古墳と新沢千塚古墳群」をご覧ください。

 280年頃に築造が完成した箸墓古墳には、10年間で延べ120万人を超える労役が使われたと考えられます。吉備国で出土する弥生時代後期の特殊な土器や円筒埴輪の破片が箸墓古墳から3,000点以上も発見されている。
 吉備国の墓制の影響を受け、定形的な前方後円墳である箸墓古墳が築造され古墳時代に入っていった。この箸墓古墳を築造したときに殉葬も取り入れられたのでしょう。
 10代崇神天皇は吉備国の鉄製品と踏鞴製鉄の技術を獲得するために、吉備津彦を西海将軍として吉備国に派遣して制圧した。

 平原遺跡の発掘で有名な考古学者の原田大六氏(1917年-1985年)は、円筒形器台は首長墓に立てた殉葬用の棺で、底なし壷を載せた円筒形器台が吉備国で発生し、殉死者の樹立棺として姿を見せた。箸墓古墳にはその殉死者樹立棺が発見されていると述べられている。
 2015年7月26日投稿の「平原王墓の埋葬方向」をご参照ください。

 日本書紀の11代垂仁天皇(270年頃-330年頃)の記事には、野見宿禰が陵墓に生きた人を埋める替わりに土で作った人や馬などを立てることを提案して認められたとあります。
 また、15代応神天皇(363年-403年頃)の4世紀末から5世紀にかけて多くの渡来人がやって来て、彼らの墓の周りに馬が殉葬されることがあった。

 日本書記によると、大化2年(646年)に墓制を細かく制度化して厚葬にならないように規制、人や馬の殉死の禁止、宝物の埋葬を禁止した。垂仁天皇の4世紀に禁止された殉葬が7世紀になっても禁止しなければならないのは、まだ殉葬が残っていたからでしょう。

 陵墓築造時の殉葬だけではなく、大規模土木工事の時にも人柱(生贄)が立てられた。播磨国で大きな溜池を造る時にも若い女性が人柱として犠牲になった。

 日本武尊が海上を関東・東北へ遠征した時に嵐で遭難しそうになったので、同行していた妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に飛び込み犠牲(生贄)となって嵐を鎮めた。
 千葉県(橘樹神社)や神奈川県(走水神社)には弟橘媛を祀る神社が多い。

 15世紀から16世紀のメキシコのアステカ帝国では人身御供(生贄)の神事が頻繁に行われた。

 日本の中世においても主君が亡くなった時に家来の殉死は続いたが、現代においても明治天皇(1852年-1912年)崩御の後に陸軍大将の乃木希典(1849年-1912年)と妻静子が殉死、昭和天皇(1901年-1989年)崩御の後にも殉死者があったようです。
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by enki-eden | 2016-05-31 00:13

神皇産霊尊(かみむすひのみこと)

 今回の記事は私見ですから、神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる方にはご容赦願いますね。
 神皇産霊尊は古事記では神産巣日神、出雲国風土記では神魂命(かむたまのみこと)で出雲の祖神(女神)と云われている。紀元前1世紀の天地開闢の時、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の次に高天原に現れ、「造化三神」の一神となっている。
 また、造化三神に加えて可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)と天常立尊(あまのとこたちのみこと)の五柱の神を別天神(ことあまつかみ)と云う。
 古事記では少彦名神は神産巣日神の子であるが、日本書紀では高皇産霊尊の1,500人いる子の一人が少彦名命である。

 「古代豪族系図集覧」によると賀茂氏の系図は、神皇産霊尊→天神玉命(三嶋県主の祖)→天櫛玉命(鴨県主の祖)→鴨建角耳命(八咫烏、181年出生の神武天皇とほぼ同世代)となっており、賀茂氏祖神の神皇産霊尊は西暦135年頃出生の神(マレビト)です。
 賀茂氏祖神の神皇産霊尊は、紀元前1世紀の造化三神の神皇産霊尊と同じ名ですが別神で、同系統の180年ほど後の子孫でしょう。
 そして、賀茂氏祖神の神皇産霊尊が女神であれば高皇産霊尊(男神)とペアの可能性が高い。二柱の神は賀茂氏・忌部氏・紀氏・久米氏などの祖となる。
 天神玉命も天櫛玉命も西暦185年頃の饒速日尊の東遷に従い大和国に移住した。神武天皇と同世代の八咫烏(鴨建角耳命)は神武天皇一行を熊野山中で道案内して東遷を成功させた。

 神皇産霊尊は出雲の祖神とされる神魂命と同神であると云われている。出雲国風土記では神魂命の子は、支佐加比賣命、八尋鉾長依日子命、宇武加比賣命、天御鳥命、天津枳比佐可美高日古命、綾門日女命、真玉著玉之邑日女命となっている。
 風土記の楯縫郡の条で神魂命は「天の下造らしし大神(大穴持命)のために、柱を高く、板を厚く、十分に整った宮を造り奉れ」と命じ、天御鳥命を天降りさせた。
 大穴持命(大国主命)は西暦160年頃の出生ですから、この記事から神魂命(神皇産霊尊)は西暦140年頃の出生で、紀元前1世紀の神皇産霊尊とは時代も地域も違うので別神です。
 賀茂氏系図の神皇産霊神と出雲風土記の神魂命は同世代で同じ神でしょう。そして伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも同じだと考えられます。
 また、佐太大神(猿田彦)の母は支佐加比賣命、祖母は神魂命であると風土記に記されている。

 神魂命は大国主命の災難を救った神として、また出雲大社本殿の客神として、そして出雲大社から徒歩5分の境外摂社の神魂伊能知奴志神社(かみむすびいのちぬしのかみのやしろ、命主神社)の祭神として祀られている。
 また、島根県松江市宍道町の高宮神社でも祀られている。松江市東生馬町の生馬神社(いくまじんじゃ)の主祭神は子の八尋鉾長依日子命で神皇産霊神も合祀されている。その他、鳥取県など全国の神社で祀られている。

 高皇産霊尊については2014年11月23日投稿の「高皇産霊尊」をご参照ください。
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by enki-eden | 2016-05-25 05:39

緑風台古窯陶芸館(兵庫県西脇市)

 兵庫県西脇市野村町字緑風台1813-11  電0795-22-3000 
  無料駐車場あります。
 緑風台窯跡は兵庫県指定文化財で、兵庫県最古の陶器生産地。
 古窯陶芸館は鉄筋コンクリート一部鉄骨造りで、曲面を多用したユニークな建物です。2号窯跡を発掘当時のまま周囲から見ることができる。
   パンフレットの平面図・館内図
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 緑風台窯跡は1978年に住宅地を造成する際に発見され、発掘調査の結果2基の窯址(かまあと)が見つかった。約800年前の平安時代終わり頃の窯址です。周辺は住宅地になっている。
 岡の傾斜地にトンネルを掘った地下式の穴窯(あながま)になっており、1号窯跡と2号窯跡がある。1号窯跡が長さ17m、2号窯跡が13mある。1号窯跡は埋め戻された。
   古窯陶芸館内に2号窯跡、手前の埋め戻した場所が1号窯跡。
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 焚き口の奥に炎の回りを良くする分焔柱(ぶんえんちゅう)があり、西日本では緑風台窯跡だけに設置されている。
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 分焔柱は愛知県の常滑窯(とこなめよう)や瀬戸窯が発祥地で、東海地方で窯業を学んだ職人が緑風台で始めたと考えられている。窯跡の構造や出土物が東海地方と同じです。
   パンフレットの穴窯(あながま)
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 兵庫県では最も早く陶器生産を行った窯跡で、出土物は四耳壺(しじこ)、片口鉢(かたくちはち)、甕(かめ)、小皿、水瓶(すいびょう)、瓦などです。
 地下式の穴窯は手前の焚き口から薪を入れる。焼き物の出し入れもここから行う。
 燃焼部で燃えた炎は、窯(かま)が斜めの煙突のようになっているので、焼成部を通って煙出しから出ていく。この仕組みで焼成部に置いた焼き物が焼ける。
   パンフレットの窯の構造
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 2号窯上方から下方を見る。
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 下方から上方を見る。
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 西脇市から加東市北部にかけて250基ほどの窯址(かまあと)が見つかっている。古いものは古墳時代後期(6世紀)のものがあるが、ほとんどは12世紀頃の窯址で須恵器を焼いていた。
 分焔柱(ぶんえんちゅう)のある窯で陶器を焼いていたのは緑風台だけです。西脇の窯業は12世紀末に丹波窯に先立って兵庫県最初の陶器生産が始まったが、13世紀末頃に途絶えてしまった。
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by enki-eden | 2016-05-17 05:29

生田神社の鳥居(神戸市中央区)

 生田神社は1995年の阪神・淡路大震災で拝殿が倒壊。石の鳥居も1917年(大正6年)に建てられ、神戸大空襲にも残ったが、この震災で倒壊した。

 伊勢神宮では20年ごとに式年遷宮が行われるので、古材は再利用され各神社などに譲られる。被災した生田神社には鳥居が贈られた。この鳥居は三重県亀山市の関宿に、神宮への参道を示す鳥居として設置されていたが、元は伊勢神宮内宮の本殿の棟持柱(むなもちばしら)だった。
 遷宮により、内宮正殿の棟持柱は宇治橋の神宮側鳥居となり、さらに亀山市関宿の東追分の鳥居となる習わしになっている。20年毎が3度で60年間使用されることになっている。
 東追分の鳥居は伊勢神宮を遥拝するためのもので、鳥居の近くには「これよりいせへ」、「外宮まで15里(60km)」と石標がある。

 伊勢神宮の棟持柱は1929年(昭和4年)に設置されたが、戦争中の伊勢神宮は空襲の標的にされた。しかし、この柱は被害を免れ、戦後の遷宮で内宮の参道口にある宇治橋の鳥居になり、1975年の遷宮で亀山市関宿へ移され、1995年で引退の予定だったが被災した生田神社へ運ばれ、神社正門の鳥居となった。
 それから20年が経過し、黒ずんで古くなったので昨年9月に役目を終えた。生田神社が「再び鳥居を譲り受けたい」と伊勢神宮に申請すると、再び亀山市関宿の鳥居を譲り受けることができた。

 新しく設置される鳥居も、すでに60年間使われているので、内部に鉄骨や樹脂を入れるなどの補強や、表面を削る化粧直しなどの作業をし、2015年9月の秋祭りで披露された。
 鳥居横には伊勢神宮内宮旧御正宮の鳥居として説明板があり、「第59回式年遷宮(昭和28年)御正宮棟持柱で使用された二本の柱は第60回(昭和48年)には宇治橋の鳥居として使用され、第61回(平成4年)には亀山市東追分関宿鳥居として建立されました。
 そして平成7年の阪神淡路大震災復興の特別なる計らいに続き再びこの度も伊勢の神宮より下賜されました。」とあります。

   正門の鳥居(第二鳥居)
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   拝殿
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 生田神社については2013年4月17日投稿の「生田神社」をご参照ください。この時の鳥居は古い方です。

 熊本地震が4月14日以降、熊本県と大分県で相次いで発生していますが、我が家も1995年の阪神淡路大震災で全壊し、大変苦労しました。
 しかし、その後の阪神地区は立派に復興し元の生活に戻っています。
 九州ではまだ余震が続いていますが、必ず立派に復興されることを心からお祈り申し上げます。
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by enki-eden | 2016-05-11 06:11

西脇市郷土資料館

兵庫県西脇市西脇790-14  電0795-23-5992  無料駐車場あります。



郷土資料館から見た西脇市です。
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 昭和59年に「郷土の織物とくらしの資料館」として開館。西脇市の歴史、播州織の歩み、市内出土の考古資料、民俗資料などを展示している。
 西脇市には加古川、杉原川、野間川の3つの川が流れており、染色に必要な水資源が豊富で、播州織で栄えた。現在でも国内先染め織物の70%を生産している。
 当館の600m南東に播州織工房館があり、播州織の展示、販売を行っている。

 木製織機は弥生時代から明治時代の初期まであまり変化することなく使われてきた。右の織機は卑弥呼の時代にも使われていた形式(地機、ぢばた)で、織り手は直接地面(床)に座って操作した。
 後に織り台がついた長機(ながはた)が開発され、左の織機は腰板に腰かけて操作できるように高くなり、両足で踏み木を交互に踏んで経糸(たていと)を上下させる。明治期まで使用された。
 長機と並行して、織り台も一段高くなり、機能も能率化した高機(たかはた、上機)が普及した。
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 明治中期になると動力織機に変わっていく。
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 岡ノ山古墳の立体図(100分の1)、立体図の左側が北です。今年の1月24日投稿の「岡ノ山古墳」をご覧ください。
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 岡之山の北麓に築かれた滝ノ上20号墳出土品。墳丘は葺石をめぐらせた一辺13mの方墳で竪穴式石室であった。4世紀前半築造で出雲地方の影響を強く受けている。
 副葬品は石室からヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製小玉、鉄刀、鉄剣、銅鏃、鉄片が出土。副室から後漢製の雲雷紋帯八連弧紋鏡、銅鏃、鉄鏃、鉄鍬先が出土。
 墳丘から土師器の壺型土器片と鼓形器台片が出土した。
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西脇市坂本西の野にある円墳出土品。
 坂本2号墳出土の鉄器(刀、つば、小刀、刀子、鉄鏃)、
 坂本7号墳出土の滑石製紡錘車、坂本3号墳出土の石英、
 坂本1号墳出土の金環・銀環、玉類。
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 郷土資料館に隣接して豊川稲荷神社が鎮座、愛知県の豊川閣 妙厳寺(とよかわかく みょうごんじ)から咜枳尼眞天(だきにしてん)の分霊を奉祀。明治の神仏分離を免れた。
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by enki-eden | 2016-05-07 05:50

神話の神々

 1月2日投稿の「王統系譜」でも述べましたが、記紀に記載されている主な神名を下の表に掲げました。

 私見ですが、推定生年その他も載せています。「神話と歴史を混ぜるな」とおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
 私の神話に対する捉え方は、古代人が歴史を自分たちの表現方法で伝承したものだと考えています。科学が発達した現代人には受け入れられない部分がありますが、そこは翻訳が必要です。特に日本書紀は孔子の「春秋の筆法」を過剰に使っていますので、専門家の解読が必要です。

 ドイツの考古学者ハインリッヒ・シュリーマン(1822年-1890年)は、ギリシャ神話の都市トロイアが実在すると考えて、発掘によって実証しました。彼は幕末に日本にも来ています。

 神話は荒唐無稽な作り話ではありません。古代人が自分たちの価値観と限られた知識で真剣に伝承したものです。由緒ある古い神社の伝承も重要です。
 日本の考古学者の中にも、記紀や中国の史書と取り組んでおられる方がいますので、心強いと思います。
 下の表で青い文字は奴国と倭国(北部九州の29ヶ国)、緑の文字は出雲の素戔嗚関係です。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 大野七三氏(1922年生)は先代旧事本紀や饒速日命に関する著書が多数ありますが、大野七三氏の神代の年代試算は次の通りです。(神武即位年については、私の意見の211年とは30年違います。)
 『アマテラスの子であるアメノホヒは出雲国造の祖神であり、現在出雲大社の当主はアメノホヒから83代目の千家尊祀氏である。アメノホヒから25代目のハタヤスが716年に「神賀(かみほぎ)の事を奏す」と続日本紀にあるので、1代で約22年経過しておりアメノホヒは西暦180年頃に活躍した人となる。
 丹後一ノ宮の籠神社の当主・海部光彦氏は、ニギハヤヒから82代目になる。
 埼玉県日高市の高麗(こま)神社の宮司である高麗澄雄氏は、716年に祖神となった高麗王若光(こしきじゃっこう)から59代目で、1代は約22年である。
 このように、神代の時代は2世紀中ごろから3世紀中ごろと推定できる。
 神武即位年は日本書紀に辛酉(かのととり)年とあるので、181年か241年に相当する。神武の父ウガヤフキアエズはアメノホヒの弟であるから、即位年は241年である。これ以前が神代となる。』
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by enki-eden | 2016-05-01 02:10