古代史探訪

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項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)

 秦の始皇帝が中国を統一する前の春秋戦国時代(BC770年~BC221年)において、揚子江(長江)一帯には呉、越、楚が覇権を争っていた。彼らは北方の漢族とは異種の江南人(倭人)で独特の文化をもっていた。
 BC473年に呉王夫差が越王勾践に敗れ呉が滅亡。BC334年に越王無彊は楚の威王熊商に敗れ越は滅亡。楚も戦国末期のBC223年に秦に敗れた。更に楚漢戦争でBC202年に楚が滅亡した。
 このような春秋戦国時代の戦乱の結果、江南人はBC5世紀からBC2世紀の間に各地に逃亡・離散し、列島にも長期に亘って波状的に渡来した。列島の社会は縄文時代から弥生時代へと激変していく。
 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」と6月18日投稿の「弥生時代と長江文明」をご参照ください

 中国の戦国時代に秦王の嬴政(えんせい、BC259年~BC210年)がBC221年に全国制覇を初めて成し遂げ「始皇帝」と称した。始皇帝は都を咸陽(陝西省)におき、封建制から郡県制へ変革した。

 始皇帝は中央集権政治を徹底し、貨幣・度量衡の統一、経済制度の統一、交易の拡大、焚書坑儒、万里長城や運河など大規模工事を行った。
 漢字の書体も統一し、地域ごとの違いをなくした。自らの墓(寿陵)も築造、秦始皇帝陵とした。陵の周囲には兵馬俑(へいばよう)を造り、兵馬俑坑には戦車を100台以上埋め、等身大の武士俑が8,000体も東向きに埋められた。

 秦の課税・労役は厳しく、過酷な刑罰で人民は困窮し、多くの人が離散した。BC210年に始皇帝が亡くなると各地で秦に対する造反が始まり、楚の武将・項羽(BC232年~BC202年)が反秦軍を統率した。項氏は代々楚の将軍を務めていたが、項羽は大男で若く、非常に強かった。
 反秦軍に参加した沛公(はいこう、沛県の亭長)の劉邦(BC256年~BC195年)がBC206年に項羽よりも先に咸陽に入り、咸陽を陥落させ秦を滅ぼしてしまった。沛県は現在の江蘇省徐州市にあり、沛公となる前の劉邦は侠客として人気が高かった。
 沛県は楚の領土だったので、沛県出身の劉邦も楚人だったのでしょう。

 楚の武将・項羽よりも先に咸陽に入り戦ったことで、劉邦は項羽から叱責を受けたので項羽を鴻門(こうもん、咸陽郊外)に訪ね謝罪した。項羽は劉邦を咸陽南西250kmの漢中(かんちゅう、陝西省漢中市)に左遷し漢中王とした。劉邦は漢王(漢中王)を名乗り、支配地の国号を漢とした。

 項羽は楚の彭城(ほうじょう、徐州市)に都を定め、「西楚の覇王」と称し、BC206年に楚の義帝(懐王)を暗殺した。将軍が王を殺したので、これが劉邦に項羽討伐の大義名分を与えることになる。
 義帝は西楚の君主で反秦軍の盟主であり、姓は羋(び)、名は熊心(ゆうしん)であった。楚王は代々熊(ゆう)氏である。
 項羽は反秦軍の戦功に対する褒章が不公平であったなど人望も悪かった。

 大義名分を得た劉邦は、漢軍や諸民族を束ねた連合軍の大軍で東進し楚漢戦争が勃発。劉邦はBC202年に垓下(がいか、徐州市の115km南)で項羽の楚軍を包囲、劉邦の配下には楚の兵も多くいたので楚の歌を歌わせた(四面楚歌)。
 敗戦を悟った項羽は次の詩を読み、愛人の虞美人と別れ、敵陣に突撃した後に自刃して楚軍は敗北した。
   力抜山兮 気蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)
   時不利兮 騅不逝 (時に利あらず 騅逝かず)
   騅不逝兮 可奈何 (騅の逝かざるを 奈何すべき)
   虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を奈何せん)

 2014年4月18日投稿の「楚辞」をご参照ください。 
 劉邦は咸陽南郊の長安(西安)を都として前漢(BC206年~AD8年)を建て高祖となった。劉邦は郡県制と封建制を併用し、法制を緩めて民心を得た。
 項羽は劉邦よりも年令が24年ほど若く強かったが、感情的で、残虐で、嫌われる場面が多かった。それに比べると劉邦は沛公になる前は周囲の人から好かれる任侠で、酒宴が大好きで、人心掌握術に長けていた。これが楚漢戦争の戦果に影響したか。

 倭国・倭人については前漢時代のBC2世紀頃から漢書などに記されるようになる。倭人は楽浪郡を通じて定期的に前漢に朝貢し、倭国は100余国に別れていた。
 西暦57年に奴国が後漢(25年~220年)に朝貢し、光武帝から金印「漢委奴国王」を受けた。この金印は奴国の聖地・志賀島から出土した。奴国は「交易面において」倭国を代表していた。
 私見ですが、初代奴国王は西暦元年に生まれたと見ています。

 西暦107年には倭王帥升が後漢に朝貢し、交易品は生口(奴隷)160人であった。この時から奴国王は倭国王を兼任するようになった。奴国は「交易面と政治面の両面において」倭国を代表するようになった。倭国は北部九州の30ヶ国ほどで構成されており、奴国と伊都国はほぼ一体であった。
 倭国の交易品は生口・真珠・ヒスイ・水銀・倭錦などであった。

 後漢末期の西暦184年に黄巾の乱が勃発、群雄割拠して後漢は衰退した。それに乗じて後漢の遼東太守の公孫度が遼東・楽浪郡を占拠・独立した。列島でも倭国大乱が勃発し混迷が続くが、3世紀初頭に卑弥呼(西暦179年~247年)が共立された。卑弥呼は公孫氏と交易していたと考えられる。
 後漢の後を継いだ魏(220年~265年)が238年に公孫氏を討伐し滅ぼすと、卑弥呼は魏に朝貢、「親魏倭王」金印などを受けた。
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by enki-eden | 2016-07-27 00:09

Eテレ放送「時空を超えて」

 アメリカの俳優・モーガン・フリーマン(79才)の「時空を超えてー死後の世界はあるのか?」が7月22日(金)の午後10時から10時45分までNHK教育テレビで放送されました。これは2015年3月放送の再放送でした。
 人間は死んだらどうなるのか? 死後の世界はあるのかという究極の謎を生物学・物理学・哲学などの科学者たちに聞く。

 意識は脳から生まれるのか、意識は脳死の後にも存在するのか。魂は宇宙とつながる量子コンピューターで、魂は死とともに宇宙に広がっていく。
 ある脳神経外科医が脳髄膜炎により臨死状態になったが、手術が成功して助かった。彼の臨死体験によれば「蝶になって飛んでいくと、皆が神と呼んでいるものが愛であることが分かった。」と云った。
 これに対して精神科医は「臨死体験は脳のニューロンが酸素不足で起こす幻想だ。」と云う。

 意識研究センターの所長は「永遠の魂」について研究しているが、脳のマイクロチューブル(微小管、細胞骨格)が量子コンピューターのように働き、「量子もつれ」によって意識が伝達されると考えている。
 量子もつれにより、脳内のつながっていない部分にも情報を伝える。この情報が宇宙全体に張り巡らされていると云う。
 脳内の意識が宇宙全体に広がっている。これはビッグバンの時から存在しており、マイクロチューブル内の意識は脳死後に宇宙に広がる。死なずに生き返ればまた脳内に戻ってくる。

 神経科学者の実験によると、人間が起きているときはニューロン同士の連携は活発に働くが、寝ているときは刺激に対する反応はあっても、ニューロン相互の連携はしなくなる。

 人間の魂を見つけたと主張する人がおり、魂の重さは21グラムだと云う。

 ある生物学者・工学者がニューロンはコンピューターであり、ニューロンが連携することにより意識や魂が生まれる。そこから感情も生まれてくる。魂も物質だから死ねば無くなると考えている。(唯物論)

 ある認知科学者は、魂は死んでもなくならない。魂の一部は他にコピーできる。出会った人々の心の中に残っている。ショパンが作曲した楽譜により、ショパンの魂の一部は後世に伝えられた。

 神経工学者がマウスの脳のニューロンとコンピューターを結ぶことにより、人工頭脳を造った。この人工頭脳に「意識」を持たせることが将来できると考えている。この神経工学者は自分の「意識」をコピーして他の生物に移す夢をもっている。

 私の体験は臨死体験と云えるのかどうか分かりませんが、57才の時にクモ膜下出血で倒れ意識を失い、夢の中で断崖絶壁に立たされ、上空から神の声のようなものが聞こえてきました。
 「右側に転げ落ちたらお前はそこで死ぬことになる。左側に転げ落ちたらお前は助かる。さ~、お前はどちらに転げるのか返事しろ。」と云われると同時に、返事する間もなく私は左側に引っ張り落されました。そして、病院の集中治療室で目を覚ましました。1か月後に退院し、後遺症もありませんでした。

 私は古代史の研究と共に古代人が神と呼んだ存在を研究しています。若いころから宗教的には相当経験しましたので、50代半ば頃からは物理学的に、天文学的に、医学的に「神」を研究するようになりました。
 肉体は変化し滅びても、魂の存在は死後にも続きます。魂の存在する場所は人間の認識できない異次元だと思います。0次元(霊次元)です。魂の重さは0だと思います。
 人間は1次元から4次元までは認識できますが、0次元や5次元は認識できません。

 昔、アメリカ人の美人物理学者・リサ・ランドールの「ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」を読みました。難しい分厚い本でした。
 彼女はまた、「宇宙の扉をノックする」という題名の本も著しています。英語の題名は”Knocking On Heaven Door”です。Heavenが日本語の題名では宇宙になっていますね。
 異次元の証明はそれほど遠くない時期に検証できると思います。日本もこの作業には関わっていますよ。
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by enki-eden | 2016-07-23 20:48

銅鐃(どうにょう)と銅鐸

 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」に記しましたが、長江流域の民は江南人、或いは倭人とも呼ばれ、後に呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)が建国される。
 江南人(倭人)は稲作や青銅器で栄えたが、春秋戦国時代に呉越の戦争(BC473年)、楚越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、紀元前5世紀から紀元前2世紀に渡って波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に逃亡してきたので、縄文時代が終わり、弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となった。
 江南人(倭人)が列島に多くの国を造ったので倭国と呼び、住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が中心で、開口部を上にして埋められた。戦時に銅鐃の取っ手を持って槌(鎚)で叩き、味方を鼓舞し敵を威嚇したのでしょう。
https://bronzeschinois.wordpress.com/musique-%e6%a8%82%e5%99%a8/nao-%e9%90%83/
 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。

 大きさの違う青銅製の楽器をたくさん並べて音楽を奏でる「編鐘(へんしょう)」が湖北省随州市の曾侯乙墓から出土している。紀元前5世紀、楚の恵王が曾侯乙に贈ったもの。(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A8%E9%90%98
 この編鐘の中の下段中央に釣鐘状の青銅製楽器「鎛(はく)」が置かれており、重要な儀式で使われていた。この鎛が銅鐸の祖形でしょうか。日本の銅鐸は墓からは出土しませんがね。
https://bronzeschinois.wordpress.com/musique-%e6%a8%82%e5%99%a8/bo-%e9%8e%9b/
 奈良国立博物館の青銅器館に中国古代青銅器が多数展示されており、鎛(はく)は1個収蔵されている。紀元前7世紀のもので、渦紋で高さ32.5cm。博物館にメールで質問してみると、鎛(はく)は青銅器館に常設展示していると返信がありました。鎛(はく)の写真、奈良国立博物館。
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 日本の銅鐸は弥生時代の紀元前3世紀から紀元3世紀までの間に祭祀で使用され、弥生時代末期に消滅した。銅鐸は丘の傾斜地の浅い所に埋納されている。
 この銅鐸と銅鐃の共通性から判断すると、弥生人の中でも楚人が銅鐸を全国に広めて祭祀に使った可能性が高い。楚人の代表は素戔嗚(西暦140年頃~200年頃)系・出雲系で、素戔嗚は銅鐸祭祀の末期に活躍した。

 銅鐸祭祀が消えたのは、西暦200年頃の「素戔嗚の死」と「出雲の国譲り」が関係していると考えられる。楚人は強くて文化程度も高かったが、Y染色体ハプログループの分析によると、列島での楚人(O1a)の人口比は3%強で人口が少なかった。越人(O2a)は1%強で最も少なく、呉人(O2b)は33%ほどもあり大勢力であった。呉人は奴国の中心勢力だと考えられる。晋書、梁書などに「倭は自ら呉の太伯の後という」とある。
 黄河系の漢人(O3)は15%と意外に多い。秦の始皇帝の圧制を避け、列島に来た漢人は存在するが、江南人のY染色体ハプログループに含まれるO3もある。江南人も漢人と混じっていたか。
 3世紀後半になると、銅鐸に替わって三種の神器が祭祀に使われ、弥生時代から古墳時代に突入、三種の神器は現代の皇室にまで連綿と継承されている。

 楚は揚子江(長江)流域を本拠として、湖南省・湖北省・河南省・山東省の南部など広域を版図とした大国で、中原(ちゅうげん、黄河流域)をも狙っていた。国姓は羋(び)、王族の氏は熊(ゆう)。
 中原の国とは民族も文化も違うので蛮族扱いであったが、文明度も高く、楚文字を使い、武力も強かった。
 荘王(そうおう、BC591年没)は楚の6代目の王で、春秋五覇(しゅんじゅうごは)の一人として中原を窺った。荘王は長江下流域の呉と同盟を結んだが呉王の夫差はBC473年に越王の勾践に滅ばされた。
 呉の国姓は姫(き)で、楚は羋(び)です。列島に亡命しても両者は連携し、吉備国はY-DNAによると楚人(O1a)の人口比は19%と非常に高い。呉の姫(き)と楚の羋(び)で国名が吉備(きび)になったのではないかと私は考えています。
 越王の無彊はBC334年に楚王の威王に滅ぼされた。楚は戦国七雄の一つとなったがBC221年に秦始皇帝が全国を統一した。
 秦も長続きせず206年に滅びると、項羽が西楚(徐州市)を建国し、漢王の劉邦と楚漢戦争(BC206年からBC202年)が勃発し覇権を争った。その結果、楚が敗北し前漢時代となる。

 このような春秋戦国時代の長期間の戦乱続きにより、呉・越・楚・漢の避難民が列島に波状的に逃亡して、弥生時代が始まる。人口的には呉人が圧倒的に多く、江南人(倭人)はシャーマニズムの要素が強かった。
 楚辞によると太陽神が巫女に憑く場面があるが、これは記紀の天照大神や神功皇后の憑依(ひょうい)・憑霊(ひょうれい)状態と同じだと考えられる。

 楚のトーテムは蛇・牛・熊・橘の木などと多いが、楚王は聖なる「神亀」を祀っていた。3,000年も生きた長寿の亀が死んだので、箱に入れて王の先祖と共に祀っていた。出雲系神社の神紋は「亀甲紋」であるが、この神亀に由来するのか。
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by enki-eden | 2016-07-21 00:11

呉王夫差の銅矛と越王勾践の銅剣

呉王夫差の銅矛(武漢市湖北省博物館蔵)
 「呉王夫差 自作用矛」と刻字されている。春秋時代末、長さ29.5cm、幅5.7cm、1983年湖北省江陵県馬山5号墓出土。錆(さび)ていない。

 刻字の書体は鳥書体で、随所に鳥の頭を図案化した装飾を施している。中原志向の強い夫差(BC473年没)の意向に従っている。夫差は王としての資質に欠けると見られていたが、長兄の太子が亡くなり王となった。
 銅矛には越王勾践の剣によく似た文様があり、呉人と越人は江南(長江流域)の同じ人種(倭人)で文化も同じ。
 この銅矛以外にも「夫差」の銘のある剣が4本発見されており、1本は蘇州博物館に収蔵されている。

 日本の古代氏族名鑑である新撰姓氏録(815年)に「右京 諸藩 漢 松野連(まつののむらじ) 呉王夫差之後也」と記されており、松野連は呉王夫差の後裔を称している。
 BC473年の呉越戦争で呉王夫差は越王勾践に敗れ自決、王族や呉人の一部は九州北部に逃亡した。姓は姫(き)であったので、倭国では姫、木、紀などを使ったが、7世紀に「松野」に替えた。

越王勾践の銅剣(武漢市湖北省博物館)ウィキペディア
 「越王鳩浅(勾践)自作用剣」、春秋時代末、長さ55.7cm、幅4.6cm、1965年湖北省江陵県望山1号墓出土。呉王夫差の銅矛と同じく錆(さび)ていない。
 越王勾践(BC465年没)が自ら用いるために8本の剣を保有していたうちの1本で、呉王夫差の銅矛と共に精巧な造りになっている。
 保存状態は非常に良くて鋭利、鍔(つば)にはトルコ石とガラス玉が嵌められ、全体に菱形文様が刻まれている。
 銘文の書体は春秋戦国時代に好まれた「鳥書体」で、随所に鳥の頭を図案化した装飾を施している。その後、文字の書体は秦始皇帝によって小篆(しょうてん)書体に統一された。
 小篆は現在の日本でもパスポートの表紙に使われており、書道、印鑑、碑文などに使われることがある。
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 呉王夫差の銅矛と越王勾践の銅剣が1955年と65年に楚の都(徐州市)の同じ場所から発見された。BC473年に越が呉に戦勝して呉王夫差の矛や剣などを戦利品とし、BC334年に楚が越に戦勝して呉王夫差の矛と越王勾践の剣などを戦利品としたのでしょう。
 秦始皇帝がBC221年に全国を統一した時は、楚が宝物を地中に隠し略奪を免れた。

秦の始皇帝(BC259年-BC210年)の銅剣
秦の青銅長剣戦国時代
 長さ91cm、幅3.3cm、1975年峽西省始皇帝陵東側1号兵馬俑出土(峡西省博物館蔵)
 儀杖用長剣で長く、細いので東洋の剣とは異なり西アジア製か。今でも鋭利で、18枚重ねた紙が一度に切り裂けたと云う。防錆のクロームメッキのような仕上げになっており、錆びていない。

 始皇帝は古い思想、しきたり、制度に強く反対し、焚書を命じた。その結果、新たに記す文字を小篆(しょうてん)書体に統一することもできた。

 国立国際美術館(大阪市北区中之島)にて「始皇帝と大兵馬俑」が7月5日から10月2日まで展示されています。重要な文物の展示で入場料は1,500円です。

 新撰姓氏録に「左京 諸藩 漢 太秦公宿禰 秦始皇帝三世孫孝武王之後也」と記されており、秦氏は秦始皇帝の子孫だと称した。
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by enki-eden | 2016-07-14 07:50

戦後日本の反日思想

 1945年、日本は敗戦により米軍(連合国軍)に占領された。米軍による監督指導の下、憲法が改正され1947年5月3日に新憲法が施工された。
 GHQ(General Headquarters、総司令部)が占領政策を日本政府に施工させる。総司令部が恐れたのは、日本が復活して再び脅威になることだった。米軍は日本全国を空襲で破壊し、原爆を2発投下したので日本の復讐を恐れ、あらゆることを禁止した。

 私は日本がアメリカに復讐することはないと確信しますが、当時のアメリカ(GHQ)は日本国民に戦争についての罪悪感を植え付け、日本が再び立ち上がることがないような占領政策を実施した。
 それが「戦争犯罪宣伝計画、war guilt information program」です。日本人を洗脳して罪悪感を持たせるのが目的で、その原点は中国による「日本人捕虜の洗脳」方法を参考にしています。
 日本人もこの占領政策を自発的に受け入れ、戦後70年以上経った今でも洗脳されています。特にマスコミがこの政策を今でも忠実に宣伝しています。政治家の中にも反日イデオロギーが多い。選挙で投票しているのは普通の日本人有権者です。普通の日本人がマインドコントロールされていることに気づいていないのです。

 アメリカは、軍事力だけではなく経済力・政治力でも日本が突出しすぎるのを抑制しています。バブルの崩壊(1989年末)、ジャパンバッシング、日本車バッシング、過度の円高・株安などです。
米軍の占領政策の一環として歴史問題もあります。それに便乗したのが津田左右吉(1873年-1961年)で、日本書紀・古事記を批判、戦後史学に大きく影響を与えた。皇国史観を否定したのは正しかったが、古代史を否定したのは間違いであった。戦後史学は日本の古代史を否定・歪曲してしまった。
 私は日本書紀・古事記などの文献資料を研究し、考古学の発掘資料・神社伝承・各地域の伝承などを総合して古代史を判断するようにしています。

 7月10日の参議院選挙の結果を見ると、マインドコントロールされた有権者の比率がどの程度だったのか分かるのではないでしょうか・・・
 日本の選挙は投票率が低いですが、戦後70年以上経った現在の状況を判断できると思います。

 選挙は理性的に考えることが必要で、感情や全体の流れに押されて投票すると、ヒトラーの登場、EU離脱のイギリス国民投票、アメリカ大統領候補のトランプ氏の人気など思わぬ方向に流されていきます。
                *****
 私がお世話になっている散髪屋さんが山陰地方を旅行し、出雲大社と松江城の写真を送ってくれました。「注連縄の向きが逆の神社」をご参照ください。
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by enki-eden | 2016-07-09 14:18

住吉神社(兵庫県加東市秋津)

兵庫県加東市秋津1113 電0795-47-0422 道路向かいに無料駐車場あります。
住吉大社の神領域の中心部に位置する別宮であった。
祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長足姫命、今宮大神。



 当社は6世紀頃(古墳時代後期)に現在地より少し北の山中が創始の場所のようです。8世紀頃(奈良時代後期)に現在地に遷座、恒田明神と称した。
 鎌倉時代に建て替えがあり祭神は住吉三神であった。1570年頃に森住吉神社が焼失し、当社に合祀された。その時に息長足姫命を配祀した。
 1891年に拝殿と舞殿を建て替え、その後幣殿を加えて現在に至っている。

 干ばつの時だけ演じる雨ごい祈願の神事芸能「百石踊」が伝わっている。神事芸能を演じる経費が米百石を要したのでこの名前が付いた。
 この百石踊は戦後衰退し、農業用ダム「東条湖」が完成、水不足が解消し一層衰退していった。現在は西戸地区の氏子の保存会が百石踊を伝えている。「秋津百石踊」として兵庫県指定重要無形民俗文化財となっている。4月29日の昭和の日に奉納される。

   社号標、手水舎、随身門。
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   舞殿と拝殿
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   伊勢神宮遥拝所
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   本殿、手前に神籬(ひもろぎ)。
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 当社も社殿は南西向きで「日の出・日の入り方向」で確認すると、ピッタリ冬至の日の入り方向を向いている。  
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by enki-eden | 2016-07-06 00:09