古代史探訪

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破磐神社(はばんじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市西脇1598  電079-269-0572  駐車場あります。
祭神  息長帯日売命(神功皇后)、
    帯中日子命(たらしなかつひこのみこと、14代仲哀天皇)、
    品陀和気命(ほむだわけのみこと、15代応神天皇)、
    須佐之男命(明治40年に合祀)。

 神社の由緒によると、息長帯日売命(神功皇后)が三韓を討征し凱旋された時、忍熊王(おしくまのみこ)の難があったので船を妻鹿の湊(姫路市白浜町)に寄せられ、三野の荘・麻生山(あそうさん、172m、播磨小富士山)で天神地祇に朝敵退治を祈られたところ、大己貴命の神託により一夜のうちに麻が生じ、その麻を弦として三本の矢を試射された。
 第一の矢は印南郡的形(まとがた)に虚矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に、第三の矢は太市郷西脇山中の大磐石に当たって磐を三つに割った。
 神功皇后はこれを吉兆としてこの地に矢を祀られ、後に仲哀天皇・応神天皇の二柱を崇め奉り破磐三神として奉った。
 この磐は当神社の西南1.7kmの地にあって現在宮ヶ谷(みやがだに)と呼ばれている。大磐石は高さ6.5m、巾5.5m~6m、奥行き7.5mある。この山地は狭隘で祭事に煩があるので、当社は17世紀に現在地に遷座した。
 神仏混淆の時代には三所大権現と称したが、明治の神仏分離令の布告により、破磐神社に復した。明治40年(1907年)に建速神社(須佐之男命)を合祀した。
 
  赤が破磐神社、黄が「われ岩」


 この破磐神社の起源について、
   神のさち 吹風弓の かふら矢と いかで岩をも 通ささらめや
 と詠まれている。

 神社の1.7kmほど南西の地が神社起源の地で、神功皇后(321年-389年)由来の「われ岩」がある。小高い丘になっており、周りは鬱蒼とした竹林だ。
 近くに墓地があるので、そこに車を停めて歩く。
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  われ岩から1.7km北東に鎮座の神社入口の鳥居(二の鳥居)と社号標、
  神額は両部額になっている。
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   拝殿
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   本殿
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 拝殿右に手前から招魂社、稲荷神社(保食命、うけもちのみこと)、
 天満神社(菅原道真公)。
 天満神社の社は当地に遷座した時に本殿として建築されたもの。
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   境内
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 神社の創建は神功皇后が新羅遠征からの帰途であるので、西暦363年頃と考えられる。神功皇后は遠征前の事始めとしても麻生山で弓を放つ神事を行っている。2015年3月12日投稿の「生矢神社」をご参照ください。

 破磐神社の中田宮司は人情味溢れる方だと聞いていますので、お会いしたかったですが残念ながら私の参拝した時にはご不在でした。
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by enki-eden | 2016-09-29 00:43

饒速日命の墳墓

 先代旧事本紀によると、
 ニギハヤヒの名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」、または「饒速日命」と云う。亦の名を「胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)」と云う。
 饒速日命は天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。更に、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわやま)へ遷った。
 天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)を駆け巡り、この地を巡り見て天降られ、「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と云われるのは、このことである。
 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天に昇っていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」。
 速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰り昇って復命した。「神の御子は、既に亡くなっています」。
 高皇産霊尊は哀れと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天に昇らせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれ、天上で葬った。
 饒速日尊の妻の御炊屋姫は「天の羽羽弓・羽羽矢、神衣(かんみそ)・帯・手貫(たまき)」を登美の白庭邑に埋葬して、これを饒速日命の墓とした。

 福岡県宮若市磯光(いそみつ)266に天照神社(あまてるじんじゃ、てんしょうじんじゃ、主祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が鎮座している。旧地名は福岡県鞍手郡宮田町磯光で、宗像大社の神領だったので地名が「宮田」となった。
 天照神社は笠置山(425m)山頂にあった饒速日の神霊を1308年に遷座したと云う。戦国時代には宗像氏が山頂に築城し、その後は秋月氏に移ったと伝えられ、豊臣秀吉の九州平定により廃城となった。現在では笠木城址として案内板が立てられている。

 天照神社は笠置山の北東5.5km、六ケ岳の南2.5km、遠賀川(おんががわ)支流の犬鳴川(いぬなきがわ)南岸に鎮座している。
 赤のアイコンが天照神社、黄が笠置山、青が貝島炭鉱跡。


 饒速日命(165年頃-225年頃)が最初に降臨したのが笠置(笠木)山であった。天照神社は東向きだが少し北に振っており、霊山・福智山(英彦山六峰のひとつ、901m)の方に向いている。主祭神は饒速日尊だが、水平切りの千木と6本の鰹木は女神仕様になっている。

 大和国で亡くなった饒速日の遺体が天上に埋葬されたので、妻の御炊屋姫(みかしきやひめ)が饒速日の遺品を鳥見の白庭山に埋葬して墓とした。鳥見の弓塚とも云う。

 奈良県生駒市上町4447の伊弉諾神社は長弓寺の鎮守として創建されたが、1km東の丘に長弓寺の飛び地境内があり、「真弓塚」がある。饒速日の遺品を納めたのが真弓塚だと云う説がある。
 もう一つの候補は富雄川を挟んで真弓塚の2.2km西の山中にあり、山伏塚(檜の窪山、標高230mほど、奈良県生駒市白庭台5丁目)と呼ばれていた。周辺一帯は長髄彦(ながすねひこ)の本拠地だ。
 山伏を山主の転訛と見て、饒速日の墳墓と考えた地元の有志により、大正時代の初め頃に整備され、「饒速日命墳墓」の石碑が建てられた。

 「饒速日命墳墓」の石碑から4km北北西に磐船神社が鎮座、東遷してきた饒速日が磐船に乗って降臨したところである。
 赤のアイコンが饒速日命墳墓、青が真弓塚、黄が磐船神社


 2013年1月14日投稿の「磐船神社」をご参照ください。

 また饒速日尊と可美真手命を祀る石切剣箭神社(東大阪市)については2013年1月16日投稿の「石切剣箭神社」をご参照ください。
 神社の北方は日下町(くさかちょう)で、神武東遷軍が長髄彦と戦って負けた孔舎衛坂(くさえのさか)です。

 私見ですが、饒速日の墳墓は奈良県桜井市三輪山山頂(標高467m)の奥津磐座ではないかと考えています。或いは、纏向を都とした饒速日が毎日拝んでいた斎槻岳(穴師山)でしょうか。斎槻岳は崇神天皇陵、箸墓古墳、纏向遺跡の大型建物跡の軸線が交わる所にあります。2015年4月18日投稿の「斎槻岳」をご参照ください。

 2世紀後半の北部九州では、素戔嗚(140年頃-200年頃)、饒速日の出雲族は主に遠賀川周辺、筑後川周辺、宇佐などの周防灘沿岸地域を治めていたが、西暦185年頃に饒速日が大部隊で大和へ東遷、200年頃に素戔嗚が亡くなると宗像を治めていた大国主(160年頃-220年頃)が素戔嗚の後継者となった。
 そこを狙って高皇産霊(140年頃出生)が武力により大国主に国譲りを強制した。北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)は天孫族に奪われてしまった。そして、卑弥呼(天照大神、179年-247年)が201年に邪馬台国(倭国、北部九州の29ヶ国)の女王に就任。

 それから300年以上経った26代継体天皇(531年崩御)の時に、北部九州で筑紫国造の磐井の乱が勃発、物部麁鹿火(もののべのあらかい、536年没)が528年に大将軍となって故地の筑紫に出兵、鎮圧した。物部麁鹿火は饒速日の15世孫である。
  饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄―
  十市根―物部胆咋―物部五十琴―物部伊莒弗―物部布都久留―木連子―
  麻佐良―物部麁鹿火

 天照神社の立地は筑豊炭田地区で、前を流れる犬鳴川を利用して、底が平らな「川ひらた舟」で石炭を運んでいたが、明治時代半ばには鉄道輸送に変わる。石炭は若松、八幡方面などに輸送された。
 当社の1.7km南西の貝島炭鉱が筑豊炭田最後のヤマとして1976年に閉山になり、各抗で祀られていた山の神(山神社)を当社境内横に遷したのが貝島炭鉱鎮守・大之浦神社で、祭神は大山積神である。貝島炭鉱の5抗の山神社が当地にまとめられた。大山積神については、9月5日投稿の「大山祇神」をご参照ください。

 貝島炭鉱跡に宮若市石炭記念館があり、道路横には貝島炭鉱で使用されたアメリカン・ロコモティブ社製(American Locomotive Company、通称ALCO)のアルコ23号蒸気機関車(愛称:弁当箱)とロト39号貨車が保存されている。1920年に輸入され、1976年までの56年間活躍した。
 石炭記念館内に「増産報国」と書いた額が展示されているように、石炭産業は国策事業であった。記念館の北には貝島炭鉱露天掘り跡がある。
 日本の石炭は品質が低く、日露戦争の戦艦用石炭は輸入していた。炭鉱事故で多くの犠牲者が出たことや労働争議もあり、炭鉱は閉鎖され、現在の日本では安価で高品質の外国産の石炭を年間2億トン近く輸入している。

 宇佐神宮参道脇には宇佐参宮線26号蒸気機関車(大分県指定有形文化財)が保存されている。駐車場沿いの参道を進み、入口の赤鳥居を過ぎると直ぐ左手にあります。
 九州鉄道が1894年にドイツのクラウス社から購入し、博多~久留米間の花形機関車として活躍した。1948年に大分交通に譲渡され、豊後高田駅-封戸駅-宇佐駅-橋津駅-宇佐高校前駅-宇佐八幡駅までの宇佐参宮線に1965年まで使われた。この蒸気機関車は71年間も活躍した。
 話が饒速日から離れてしまったが、饒速日は185年頃に宇佐から大部隊で大和へ東遷していった。
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by enki-eden | 2016-09-25 00:57

 日本は太平洋戦争に負けて占領されたが、GHQ(General Headquarters、連合国最高司令官総司令部)は日本語に込められている意味を懸念して、ある漢字の一か所を変え、日本人のエネルギーを封印しようとした。
 その変えられた漢字は「氣」で、「気」に変えられました。GHQが漢字を変えて日本人の言霊(ことだま)を制御したかったのは、言霊には大きなパワーが込められているからです。

 私がこの件を知ったのは「占導師の幸輝さん」と量子力学コーチの「高橋宏和さん」からの情報ですが、「量子論と脳科学をベースにした引き寄せ理論」を提供しているインセティック代表の小森圭太さんの「量子論をベースにした引き寄せメソッド」のサイトをご覧ください。

 日本人を弱体化することを狙った漢字の「気」を無意識に使うよりも、字画数は増えますが、私はこれから「氣」を使うようにしたいと思います。

 GHQの占領政策については7月9日投稿の「戦後日本の反日思想」をご覧ください。

 話は変わりますが、11月8日に行われるアメリカの大統領選挙はクリントン氏とトランプ氏のどちらになるのでしょうか。
 クリントン氏は重病で体調が相当悪いようで、辞退すれば民主党は別の候補者を選ぶことになる。共和党のトランプ氏はオバマ大統領や共和党の中からも反対者が多いが、ポピュリストとして大衆の人気は高い。

 アメリカの国家安全保障に関して「大統領令第51号」があります。オバマ大統領が国家非常事態を収束するために戒厳令を宣言、すべての選挙を停止、オバマ大統領が職務を続ける、と云うシナリオがないとは言えません。

 アメリカ大統領選がどのような結果になっても、世界の秩序は不安定な多極化で群雄割拠の混乱になると思いますが、安倍首相には次期アメリカ大統領やプーチン大統領とうまく渡り合って国益を守ってほしいです。「氣」を発揮してほしいです。
 日本は明治以来、一貫して外交音痴で、今は正念場だと思います。政府の責任も大きいですが、弱体化した戦後日本の状態から国民が目覚めることも重要だと考えています。
 私は首相や国会議員にメールか手紙で意見を伝えていますが、最近は少し怠っています。
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by enki-eden | 2016-09-21 00:08

阿波国(あわのくに)

 阿波国は現在の徳島県全域で、もとは北部の粟国(あわのくに)を粟国造(粟凡直、あわのおおしのあたい、粟忌部氏)が支配し、南部の長国(ながのくに)を長国造(事代主系の長直)が治めていた。
 律令制により粟国と長国が統一され粟国となり、8世紀初めに好字令が出され「阿波国」に変更、南海道に属し8郡47郷が置かれた。

 古事記によると、阿波国の別名は大宜都比売(おおげつひめ)、伊予国(愛媛県)は愛比売、讃岐国(香川県)は飯依比古(いいよりひこ)、土佐国(高知県)は建依別(たけよりわけ)と云う。
 17世紀の徳島藩蜂須賀氏の時代に、淡路島(淡路国)は阿波国の管轄となったが、1876年に淡路島は兵庫県に編入された。

 阿波国の北部は粟の産地だったから国名が粟になったと云う。天日鷲命(あめのひわしのみこと)が阿波国を開拓して木綿・麻を育て、製糸・紡績を営み、阿波忌部氏の祖となった。
 阿波忌部氏は代々朝廷に木綿・麻布を貢進。荒妙御衣(あらたえのみそ)を貢進して大嘗祭(践祚の儀)に供されたので、麻植郡(おえぐん)という地名になった。
 伊勢神宮でも荒妙(あらたえ、麻織物)、和妙(にぎたえ、絹織物)は織られているが、大嘗祭に使用される荒妙御衣は現代でも古代のしきたり通りに阿波忌部氏、現在は直系子孫の徳島県美馬市木屋平(みましこやだいら)の三木氏が貢進している。

 天太玉命(あめのふとたまのみこと、高皇産霊神の子)の孫の天富命(あめのとみのみこと)が神武東遷(西暦204年出発、211年に即位)に従い、大和国で橿原の宮を造った後、阿波国を開拓した。
 天富命は更に阿波忌部氏の一部を率いて房総半島南端の布良(めら)に上陸、安房国(あわのくに、千葉県南部)を開拓、麻を栽培した。また、安房神社(あわじんじゃ、安房国一宮)を創建、祖神の天太玉命を祀った。
 布良は普通に読むと「ふら」だと思うが、「めら」と読む。北九州市の門司に和布刈神社(めかりじんじゃ)が鎮座、和布刈神事では海岸の「わかめ」を刈って神前に供える。
 布良と和布刈は繋がりがありそうに思うが・・・
 天富命の移動した奈良、徳島、千葉は水銀朱の産地としても知られる。
 当時の朱は金と同等の価値があった。日本書紀によると、神武天皇(181年-248年)が宇田川の朝原で、「飴(水銀)ができれば武器を使わずに天下を居ながらに平げるだろう」と云ったほどである。

 徳島県の銅鐸出土数は大変多く50個近く発見されている。徳島市国府町矢野にある矢野遺跡の集落内で発見された高さ98cm、重さ17.5kgの大型銅鐸(国指定重要文化財)は木製容器に納めて埋められたと考えられている。そして、その上に屋根をかけていた跡(柱穴)が残っている。
 矢野銅鐸(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

 徳島県は雨量の少ない瀬戸内海気候のために塩田が盛んであった。木綿の染料である藍の生産も多く、塩と藍は徳島藩の専売品になっていた。

 阿波国の神社を調べてみよう。
 阿波国一宮は天石門別八倉比売神社であったが、論社は複数ある。
 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ、徳島県鳴門市大麻町板東広塚13)、祭神は大麻比古神で、天太玉命(あめのふとたまのみこと、忌部氏の祖神)の別名と云う。徳島県の総鎮守となっている。

 上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ、徳島県名西郡神山町神領字西上角330)、祭神は大宜都比売命(おおげつひめ)、亦の名を天石門別八倉比売命(あめのいわとわけやくらひめのみこと)と云う。
 社伝によると、大宜都比売命が伊勢国丹生の郷(三重県多気郡多気町丹生)から阿波国に来て、粟を広め栽培したと云う。伊勢国も阿波国も水銀朱の産地であった。

 国府の近くに上一宮大粟神社が分祀されて、一宮神社(徳島市一宮町西丁237)が創建された。大宮司家の一宮氏は粟国造の後裔と云う。

 八倉比売神社(やくらひめじんじゃ、徳島市国府町矢野531)が杉尾山に鎮座、一宮を称している。祭神は八倉比売命で、天照大神の別名としている。社殿裏の円墳上に石積みの五角形の祭壇があり、郷土史家は卑弥呼の墓であると云う。

 他にも忌部氏に関わる神社が多い。
 忌部神社(徳島市二軒屋町2-48)、祭神は天日鷲命。

 忌部神社(徳島県吉野川市山川町忌部山14-8)、祭神は天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと、天日鷲命)で江戸時代には天日鷲神社と称した。后神(妃)は言筥女命(いいらめのみこと)。
 神社後方に6世紀頃の忌部山古墳群がある。

 高越神社(徳島県吉野川市山川町木綿麻山4)、祭神は天日鷲命。

 御所神社(徳島県美馬郡つるぎ町貞光)、徳島市二軒屋町の忌部神社境外摂社で祭神は天日鷲命。
 各神社には今後参拝していこうと考えています。

 阿波国風土記
 阿波国風土記写本は明治5年まで徳島藩に保管されていたが、徳島藩は明治5年に廃藩になり、その後は行方知れずになった。
 筑波大学附属図書館に「阿波国風土記」全五冊がある。明治になって徳島藩では阿波国風土記編輯御用掛が組織され、阿波国の地誌の編纂を始めたが、明治5年の廃藩により解散した。

 淡路国風土記逸文は「萬葉集註釈」に見ることができる。天台宗の学問僧で万葉集を註釈した仙覚律師(1203年に常陸国生れ)著であるので「仙覚抄」とも云い、1269年に完成。
 仙覚は万葉集のほか散逸した風土記を引用しているので、風土記逸文の資料としても参考になる。

 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記に曰はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、その浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。」
 (奴国の奴も波のことでしょうかね。奈良の奈も・・・)
 奈佐の場所は徳島県海部郡海部町鞆浦の那佐湾か。播磨国風土記に、17代履中天皇が阿波国の和那散(わなさ)へ行った時にシジミを食べたとある。
 島根県松江市宍道町上来待和名佐に和奈佐神社(祭神は阿波枳閇和奈佐比古命、あわきへわなさひこのみこと)が鎮座しているが、海部氏関連で出雲と阿波は繋がっているようだ。

 萬葉集註釈 巻第七 「阿波国風土記に曰はく、勝間井の冷水(しみず)。此より出づ。勝間井と名づくる故は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、乃ち(すなはち)、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れまたひしに依りて、勝間と云ふ。粟人は櫛笥(櫛箱)をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。
 今でも徳島市国府町観音寺に「勝間の井」があり、義経伝説では「舌洗いの池」と云われる。

 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。
 これにより郷土史家は阿波国が大和国の本(もと)の国だと主張している。
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by enki-eden | 2016-09-15 00:47

大穴持命(おおあなもちのみこと)

 風土記は朝廷から派遣された各国の国司が編纂責任者となるが、出雲国だけは地元の豪族の出雲国造出雲臣広島(いづものおみひろしま)が責任者となっている。現在まで残っている風土記は常陸、播磨、出雲、豊後、肥前の5ヵ国で、出雲国風土記が完本に近い。
 その出雲国風土記(733年頃完成)によると、国引き神話の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)の子は赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおおすみひこさわけ)と大穴持命(おおあなもち)である。

 大穴持命(所造天下大神、あめのしたつくらししおおかみ)は須久奈比古命と共に力を合わせて国を造った。大穴持命は出雲で最も崇敬されている神で、全国にも大穴持命(大己貴命、おおなむち)を祀る神社が多い。
 大穴持命は神須佐乃烏命の末娘である和加須世理比売命(わかすせりひめ)に通い妻とする。その姉の八野若日売命(やのわかひめ)にも妻問いする。
 神魂命(かみむすび、神産巣日命、出雲の祖神)の娘の綾門日女命(あやとひめ)に妻問いしたが断られ、妹の真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ)に毎朝のように通った。

 大穴持命の子は、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)、山代日子命、御穂須須美命(建御名方、母は奴奈宜波比売命、新潟県糸魚川市)、和加布都努志命(わかふつぬし)、阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ、母は宗像の多紀理比売)などがいる。

 記紀に登場する大国主命は大穴持命(大己貴命)と同神とされる。大国主命は高皇産霊尊の派遣した経津主(ふつぬし)と武甕槌(たけみかづち)の武力による強制で出雲国(葦原中津国)を献上し、出雲大社に祀られた。大日霊女貴(おおひるめのむち、天照大神)の第二子である天穂日命が出雲大社の神主になる。天穂日命の子孫に野見宿禰や菅原道真がいる。

 出雲の国譲り
 大国主命(葦原醜男、西暦160年頃-220年頃)は少彦名命と協力して葦原中津国(北部九州の出雲族支配地)を造って治める。日本書紀には列島広範囲の多くの女性との間に181人の子ができたとあるが、政略結婚により多くの国を支配したと考えられる。縁結びの神として有名。

 西暦200年頃に素戔嗚尊が亡くなると、大国主命が後継者となったが、高皇産霊尊(西暦140年頃出生)が武力で葦原中津国を譲るよう強制した。大国主命が国譲りを承諾した後に、高皇産霊尊は自分の娘の三穂津姫を娶らせて大国主命の心を試した。

 出雲国風土記の記事に、「大穴持命が越の八口を平らげて帰還した時に、皇孫への国譲りは出雲国以外を譲るが、八雲立つ出雲国は私の国だから譲らない」と言っている。従って大国主命が譲ったのは北部九州の出雲族支配地(葦原中津国)のことでしょう。
 大国主命の九州での本拠地は宗像(宗像大社)であった。そして素戔嗚尊の死後はその支配地も相続し後継者となった。
 しかし、3世紀後半の古墳時代になると出雲国に限らず全国が10代崇神天皇や11代垂仁天皇に制圧されることになる。4世紀後半の14代仲哀天皇と神功皇后の時代に国内はほぼ鎮圧され、海外派兵へと向かう。

 大国主命には多くの別名があり、大穴持命、大己貴命、所造天下大神のほか、大穴牟遅神、大汝命(播磨国風土記)、八千矛神(やちほこのかみ、武神)、葦原醜男、大物主神(大和国三輪山)、大国魂大神、顕国玉神(うつしくにたまのかみ)、杵築大神(きづきおおかみ)などがある。

 出雲市斐川町神庭西谷の神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき、弥生時代後期)から出土の358本の中細銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛と、島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から出土の39個の銅鐸は八千矛神である大国主命の宝なのか。現在は国宝になっている。

 大国主命は江戸時代の神仏習合では大黒天と同一と見られ、大黒様として信仰された。事代主命の「えべっさん」と共に恵比寿・大黒としても信仰されている。

 大国主命と稲羽の八上姫との間に木俣神(御井神)が生まれる。稲葉の地は「因幡の白兔」で有名な因幡国八上郷(鳥取県)とされているが、福岡県糸島市の志摩稲葉かもしれない。白兔のいた気多崎(けたのさき)は芥屋大門(けやのおおと)かもしれない。

 また、大国主命と神屋楯姫との間に事代主命と高照姫が生まれる。神屋楯姫は宗像の湍津姫(たぎつひめ)と云う説もある。宗像の田心姫(たごりひめ)も湍津姫も大国主命の妃になったのであれば3人目の市杵島姫(いちきしまひめ)も大国主命の妃になったことでしょう。
 しかし、市杵島姫は天火明命の妃になった佐手依姫(狭依毘売)とも云われるし、饒速日の妃とも云われるので古代の夫婦関係は現代よりも複雑です。

 出雲大社の本殿を地図で見てみましょう。黄色の丸が本殿で神座に大国主大神(本殿は南向き、神座は西向き)、赤丸が筑紫社で多紀理姫、ピンク丸が御向社(みむかいのやしろ)で須勢理比売、青丸が天前社(あまさきのやしろ)で支佐加比売(きさかひめ)と宇武加比売(うむかひめ)、本殿後ろの白丸が曽鵞社で素戔嗚尊。
 本殿左右の三社には序列があり、高い方から筑紫社、御向社、天前社の順になっている。
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 8世紀の奈良時代に大伴家持(718年-785年)が中心になって編纂された万葉集には大国主命について六首詠まれているが、そのうちの4首。
   大汝(おほなむち) 少彦名(すくなびこな)の いましけむ
   志都(しづ)の石屋(いはや)は 幾代経ぬらむ
       3-355生石(おいし)村主真人

   大汝 少彦名の 神こそは 名付けそめけめ 名のみを
   名児山と負ひて 我が恋の 千重(ちえ)の一重も 慰めなくに 
                    6-963 大伴坂上郎女

   大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくし良しも
                  7-1247 柿本人麻呂

   八千桙の 神の御代より ともし妻 人知りにけり 継ぎてし思へば
                     10-2002 柿本人麻呂

 「神代の大昔から」と云う表現を「八千鉾の神(大国主命)の御代より」と表現するほどに、大国主命は後の世にも慕われ崇敬されていたのでしょう。
 万葉集にはこのほか、6-1065(田辺福麻呂)と18-4106(長歌、大伴家持)があります。
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by enki-eden | 2016-09-10 00:47

大山祇神(おおやまづみのかみ、大山積神)

 大山祇神は「山の神」の総本家として信仰されており、愛媛県の伊予国一宮・大山祇神社(大三島神社)が全国の大山祇神社、山神社、三島神社の総本社となっている。
 山の周辺に生活する人々の神であり、農民にとっては農業神として、山で働く人々には林業・炭焼・鉱山・鍛冶の神として崇められている。
 従って神徳は広く農業、林業、工業、商業、酒造、漁業などに及び、山の神の精霊を鎮めるための守護神として大山祇神が祀られている。大山祇神の后神(妃)は野椎神(のづちのかみ)である。

 大山祇神は九州の鉱山で働く人々の守護神ともなった。薩摩の隼人が営む鉱山周辺には大山祇神社が多い。薩摩には大山祇神の娘・木花咲耶姫の伝説も多い。
 戦前には全国の鉱山で大山祇神が祀られるようになり、大山祇神社は全国鉱山の総鎮守となった。統制経済のエネルギー政策、軍部、皇国史観の融合である。
 赤坂小梅の「炭坑節」をお聴きください。

 また、大山祇神には野椎神(妃)、木花咲耶姫(娘)、磐長姫(娘)なども合祀される場合がある。
 神功皇后が祀られている筑豊炭田地区などの神社では大山祇神が合祀されるようになった。

 伊予国風土記逸文によると、伊予国乎知郡(越智郡)御島に鎮座しておられる神は大山積神、またの名は「和多志の大神」である。この神は16代仁徳天皇の時代(5世紀初め)に現れ、百済の国から渡来して摂津国の御嶋に鎮座された。それから伊予国の御嶋(三嶋)に鎮座された、とある。
 摂津国御嶋は現在の大阪府高槻市で、高槻市三島江2-7-37に三島鴨神社が鎮座している。祭神は大山祇神と事代主神。
 大阪府茨木市五十鈴町9-21の溝咋神社(玉櫛媛命と媛踏鞴五十鈴媛)と関係が深い。

 また、大山祇神(和多志の大神)は漁業、航海の「海の神」として信仰されていた。大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦3327)の鎮座する大三島は瀬戸内海航路の重要拠点で、瀬戸内水軍・海賊(三島水軍、村上水軍、河野水軍など)に信仰され、武家の守護神・武神としても崇められた。
 日本総鎮守としての大山祇神社には多くの武具が奉納されており、国宝・重要文化財に指定されている。
 戦前の山本五十六長官に続き、現在でも海の神様として海上自衛隊、海上保安庁の幹部の参拝があるようです。

 大山祇神社の拝殿の注連縄は向かって左が本になっている。2012年12月17日投稿の「注連縄の向きが逆の神社」をご参照ください。

 軽巡洋艦「天龍」の艦内神社に大山祇神を勧請した。天龍は1919年11月20日就役、排水量3,230トン、定員337名。
 天龍は多くの戦績を残したが、1942年12月18日、パプアニューギニア付近でアメリカの潜水艦アルバコアの雷撃を受け損傷、沈没した。乗員は救出されたが21名ほどが戦死した。

 大山祇神の娘・木花咲耶姫(富士山の神)が瓊瓊杵尊と結婚、彦火火出見命を生んだ時に、大山祇神は酒を造り振る舞ったとされ、酒の神(酒解神、さかとけのかみ)としても信仰されている。
 木花咲耶姫の姉・磐長姫(いわながひめ)は浅間山の神で、神大市姫は素戔嗚命と結婚し、大歳神(饒速日)と倉稲魂(宇迦之御魂)を生んだ。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 弘安の役(1281年)の時に、三島水軍を率いて越智氏・河野氏・真鍋氏が筑前大島に進発している。その所縁によるのか、大山祇神社の境外末社に厳島神社(市杵島姫命)が鎮座している。従って両社の繋がりは深く、宗像氏・越智氏(物部系)・賀茂氏は関係が深い。

 越智氏は新撰姓氏録によると、「左京 神別 天神 越智 直 神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」とある。

 伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市大宮町2-1-5)の祭神は大山祇神とされていたが、明治時代に本来の祭神は事代主神であることが判明した。現在では大山祇命と積羽八重事代主神の二柱の神を三嶋大明神として祀っている。関東武士の守護神として篤く信仰され、全国の三嶋神社の本社となっている。
 事代主命は「八尋熊鰐」となって摂津の三島溝杙姫(玉櫛媛)に通った。
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by enki-eden | 2016-09-05 00:41