古代史探訪

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小野篁(おののたかむら)の冥土通い

 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ、京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595)は山号が大椿山で、臨済宗建仁寺派に属する。通称は六道さんで、本尊は薬師瑠璃光如来。
 六道珍皇寺の付近は、平安京の火葬地であった鳥辺野(とりべの、鴨川の東側一帯)の入口にあたり、現世と冥界の境にあたると考えられ、「六道の辻」と呼ばれた。



 「六道」とは地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅道(しゅら)・人道(人間)・天道(天人)の六種の冥界で、人は因果応報により死後はこの六道を輪廻転生(生死を繰返しながら流転)するという。
 この世とあの世の境(さかい)の辻が、当寺の境内あたりであると云われ、当寺は「冥界への入口」とも信じられてきた。

 人々がこのように考えたのは、平安京の東の墓所であった鳥辺野に行く道中に当寺があり、この地が「人の世の無常とはかなさを痛感する場所」であったことと、小野篁(おののたかむら、802年-853年)が夜になると冥土通いのため、当寺の本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたことによるものである。この地は中世以来、「冥土への通路」として世に知られていた。

 六道珍皇寺では毎年8月7日から10日まで「六道詣り」が行われるが、お寺の説明によると、
『京都では、8月13日から始まり16日の五山の送り火に終る盂蘭盆(うらぼん)には、各家において先祖の霊を祀る報恩供養が行われるが、その前の8月7日から10日までの4日間に精霊(御魂、みたま)を迎えるために当寺に参詣する風習があります。これを「六道まいり」あるいは「お精霊(しょうらい)さん迎え」とも言います。

 精霊を迎えるために「迎え鐘」を撞きます。普通の鐘は撞木で撞きますが、迎え鐘は鐘楼の中にあり見えず、壁の穴から外に出ている綱を引っ張って撞きます。
 この鐘は、古来よりその音響が十萬億土の冥土にまで届くと信じられ、亡者はその響きに応じてこの世に呼びよせられると云われています。
 お盆の期間中には終日、地の底へ響くような音色で、多くの精霊たちを冥土より晩夏の都へと迎え入れるのです。

 これは、平安時代にはこの辺りが俗に「六道の辻」と呼ばれ、京の東の葬送地であったこと、冥界への入口であり、お盆には冥土から帰ってくる精霊たちは、必ずここを通るものと信じられた事に由来しています。
 都人の厚き信仰により千年の時空を越えて受け継がれ、京洛の夏の風物詩ともなっています。』とある。

 六道まいりの期間のご朱印は「薬師如来」、「小野篁卿」、「閻魔大王」、「月光菩薩」があり人気のようです。境内には閻魔堂があり、小野篁作の閻魔大王木像と小野篁の木像が並んでいる。

 52代嵯峨天皇(786年-842年)など数代に仕えた平安時代初期の公卿・小野篁(おののたかむら、802年-853年)は、飛鳥時代の遣隋使・小野妹子の子孫である。
 小野篁は小野道風(894年-966年)の祖父と云われており、小野小町も同族である。
  花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
               百人一首(古今集 113)  小野小町
 

 小野篁は身長188cmの大男で文武に秀でていたが奇行が多く、遣唐使拒否問題で嵯峨上皇の激怒により一時隠岐島に流されたが2年ほどで帰還し、参議左大弁従三位など要職を歴任した。
 小野篁は詩人・歌人としても優れており、書道も天下一品であったと云う。
   わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
                       百人一首  参議篁

 小野篁は昼は朝廷の役人、夜は井戸を通って冥界で閻魔大王のもとで裁判の副官を務めていたと云う。六道珍皇寺は小野篁旧跡となっており、冥土通いの井戸(死の六道、入口)は本堂の裏に現存し、冥土から帰ってくる「黄泉がえりの井(生の六道、出口)」は隣接する旧境内で2011年に発見された。
 もう一つ「帰り道の井戸」が嵯峨の招金山福正寺にあったが、明治時代に廃寺となって井戸もなくなってしまった。当地は現在、嵯峨・薬師寺となっており、「生の六道・小野篁公遺跡」の石碑が立てられている。
 当時の人は、井戸はあの世に繋がっていると信じていた。

 六道珍皇寺を東へ750m行くと、山裾に京都霊山護国神社(りょうぜんごこくじんじゃ)が鎮座。坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎、高杉晋作など明治維新の志士の墓がある。隣には霊山歴史館もあり、維新の史料が展示されている。
 地名も東山区清閑寺(せいかんじ)霊山町(りょうざんちょう)となっており、周辺には寺院や墓地が多い。

 京都市北区紫野西御所田町(島津製作所の工場の一角、下鴨神社の西北2.5km)に小野篁の墓と紫式部(10世紀後半から11世紀初め)の墓が隣接している。
 堀川北大路交差点を100m南に行くと、工場の壁が途切れ、入口に「小野篁卿墓」と「紫式部墓所」の石碑が見えて奥に入ることができる。紫式部目当ての外国人もよく訪れるようだ。
 紫式部が源氏物語で愛欲・煩悩の世界を描いたことで地獄に落とされたが、小野篁が閻魔大王に懸け合って助けたという伝説がある。
 実際には、紫式部が亡くなって地獄に堕ちたと人々が噂したので、紫式部の関係者が墓の隣に小野篁の墓を造り、閻魔大王の裁きから助けてもらおうとしたのではないでしょうか?
   めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな
                      百人一首  紫式部

 小野篁は紫式部のほかにも多くの人を地獄から救ったと云われている。

 多くの伝説が生まれた背景には、小野篁が直情径行ではあったが、私腹を肥やすことなく清貧で母親孝行、給与も身近な人に与えていたという人柄とその高い政務能力からであった。
 母親孝行の小野篁は亡くなった母親に会うために冥土に通い始めたと考えられている。

 滋賀県大津市小野1961には小野神社が鎮座、小野一族の氏神で遣隋使の小野妹子の出生地と云われる。境内社に小野篁神社が鎮座、500m南の鏡外社に小野道風神社が鎮座。
 更に700m南には小野妹子の墓(唐臼山古墳、からうすやまこふん)があり、墳丘上には小野妹子神社が鎮座。



 近くには和邇川が琵琶湖に注ぎ、地名も和邇が多い。小野氏は海人族の和珥氏(和邇氏)の一族である。
 小野妹子の墓は大阪府南河内郡太子町にもある。太子町は王家の谷で、聖徳太子御廟所、30代敏達天皇陵、31代用明天皇陵、33代推古天皇陵、36代孝徳天皇陵などがある。
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by enki-eden | 2016-11-26 00:25

加邇米雷王(かにめいかづちのみこ)

 加邇米雷王の祖父は日子坐王(ひこいますのきみ)、父は山代大筒城真稚王(おおつつきまわかのみこ)、母は丹波能阿治佐波媛(たにわのあじさわひめ)。
 加邇米雷王は西暦290年頃の出生と考えられる。

 加邇米雷王は朱智王とも云われ、朱智神社(京都府京田辺市天王高ヶ峯、旧・山城国綴喜郡、つづきぐん)の主祭神になっている。
 加邇米雷王は息長氏の祖神で、神功皇后(321年-389年)の祖父。山城国綴喜郡は近江国坂田郡を本拠地とする息長氏の領地であった。綴喜郡を治めた加邇米雷王の子孫は朱智(すち)姓を名乗った。
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 加邇米雷王の「加邇」は「(き)、かんはた」で、麗(きれい)な綾織の絹織物のことである。山城国綴喜郡では渡来人の秦氏が金属製品製造や養蚕・絹織物などに従事していた。和邇氏と息長氏はこれらを配下に置いていた。
 京都府木津川市山城町田(かばた)に原神社(かんばらじんじゃ)が鎮座、秦氏の祖と云われる(かば)氏が創建。同じ田(かばた)の満寺(かにまんじ)も秦氏の創建。

 弓月君が15代応神天皇(363年-403年)の頃に渡来したとされ、弓月君は秦氏と云われている。2014年6月29日投稿の「応神天皇の時、秦氏一族が渡来」をご参照ください。

 しかし、日本書紀によると、11代垂仁天皇(270年頃-330年頃)の妃に秦氏の戸辺(かにはたとべ)がいる。山背大国不遅(やましろおおくにのふち)の娘で山城の美女であった。その前に垂仁天皇は戸辺の姉の幡戸辺(かりはたとべ)を妃にしている。
 垂仁天皇の宮は大和国の纏向(まきむく)珠城宮(たまきのみや)であるが、山城国久世郡にも宮を造ったと云われている。垂仁天皇陵は大和国の北部にあり、山城国(山背国)に近い。
 垂仁天皇陵については、2013年2月18日投稿の「垂仁天皇陵」をご参照ください。

 11代垂仁天皇から16代仁徳天皇(380年頃-427年頃)の頃にかけて、数次にわたって渡来した民を秦氏と呼んだと考えられる。秦氏のほとんどは秦始皇帝(BC259年-BC210年)の後裔だと主張している。
 秦氏を配下に置く和邇氏と息長氏は多くの女性を天皇家に嫁がせ、「和邇腹」・「息長腹」として重要視された。

 京都府京田辺市普賢寺下大門にある観音寺(普賢寺)は息長山(そくちょうざん)観音寺と云う。
 京都府木津川市山城町の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)は3世紀末に築造の山城地方最大の前方後円墳(全長175m)である。
 9代開化天皇の皇子・彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと、母は海部氏)の墳墓と云われるが、年代が少し合わない。

 加邇米雷王の「米(め)」は「目」だと考えられる。「目」は「かしら、人の上に立つ者」で、「頭目」などとして使われる。古代人の名前にも「目」が付く例がある。十市県主大目、物部目連(めのむらじ)、尾張連草香女の目子媛(めのこひめ)、蘇我稲目など。

 加邇米雷王の「雷」も例が多い。火雷神(ほのいかづちのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、賀茂別雷神など、踏鞴製鉄との関係が考えられる。加邇米雷王は金属と深く関わった。
 外国の神話にも雷の神は多く、轟くような勢力の大きさを云うのでしょうか。

 息長系の26代継体天皇(450年頃-531年)は、大伴金村・物部麁鹿火(もののべのあらかい、536年没)・巨勢男人(こせのおひと、529年没)らが推挙して507年に即位。
 当初の宮は河内国樟葉(くずは、交野天神社)であったが、511年頃に山背国綴喜(つづき、筒城)に宮を置いた。518年頃には山背国乙訓(おとくに)に、そして526年に大和国磐余(いわれ)に宮を定めることができた。
 翌年の527年(継体21年)にヤマト朝廷と筑紫君磐井が争い、528年に物部麁鹿火が故地に出兵して鎮圧した。(磐井の乱)
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by enki-eden | 2016-11-20 00:56

大歳神(おおとしのかみ)

 大歳神は出雲国風土記に神須佐乃烏命(素戔嗚、140年頃-200年頃)の子として登場する。
 大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)、大歳御祖皇大神(おおとしみおやすめおおかみ)として祀る神社もある。大歳神の母・神大市比売を大歳御祖神とする場合がある。
 古事記・先代旧事本紀では「大年神」と表記。
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 大歳神と饒速日命(にぎはやひのみこと、165年頃-225年頃)は同一神と考えられるが、記紀や先代旧事本紀では別神になっている。
 先代旧事本紀では大歳神は素戔嗚と神大市姫の子としており、饒速日尊は天照大神の長男・天押穂耳尊と高皇産霊尊の娘・万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(よろずはたとよあきつしひめたくはたちぢひめのみこと)の子としている。(上記系図の下段)
 系図の下段に示したように、先代旧事本紀では饒速日(天神)を海部氏・尾張氏の祖である天火明(あめのほあかり、天孫)と同じにしている。天火明は素戔嗚や高皇産霊と同じ頃、140年頃に出生しており、饒速日とは別神で系図も混乱している。

 先代旧事本紀では饒速日命の正式名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)と表している。
 天火明(140年頃出生、海部氏・尾張氏の祖)と饒速日(165年頃出生、物部氏の祖)の名を一つに繋いで両者を同じ神としているが、天火明の子孫の尾張氏は饒速日を祖神とは見ていない。
 物部氏は祖神の饒速日を天孫の天火明と同じ神と主張し、物部氏も天神ではなく天孫だと主張したかった。

 記紀と同様に、815年に52代嵯峨天皇(786年-842年)によって編纂を命じられた新撰姓氏録にも、饒速日の後裔は天神になっている。
 新撰姓氏録と同じ9世紀初め頃に編纂された先代旧事本紀は、饒速日の子孫である物部氏によって編纂されたと考えられ、新撰姓氏録と連動している。

 記紀には素戔嗚が高天原から追放され、天つ神(天神)から国つ神(地祇)になってしまった。物部氏の祖神である饒速日は素戔嗚の子であるが、物部氏が軍事・祭祀を司る有力氏族であり、饒速日が神武天皇(181年-248年)より先に185年頃に東遷して大和国を治めているなど、その重大すぎる存在は無視できず、記紀には饒速日は天照大神の子孫に取り込まれてしまい、物部氏は天神になっている。

 587年に物部守屋が蘇我氏に滅ぼされたが、饒速日の子孫の物部系氏族は新撰姓氏録に記されている神別氏族404氏の内で105氏ほどもある大豪族になっている。例えば、「左京 神別 天神 石上 朝臣 神饒速日命之後也」、「左京 神別 天神 穂積 朝臣 石上同祖 神饒速日命五世孫伊香色雄命之後也」などです。
 2015年7月23日投稿の「饒速日命」をご参照ください。

 天火明を氏祖とする海部氏・尾張氏・石作氏・笛吹氏などは天孫氏族で55氏族以上ある。例えば、「左京 神別 尾張 連 尾張宿禰同祖 火明命之男天賀吾山命之後也」で、尾張氏と物部氏は同盟関係にあっても明らかに別系統です。
 先代旧事本紀には大歳神はそのまま素戔嗚の子であるとした。系図は時代背景による思惑や、誓約による記載変更のほか、間違いも多いので注意が必要。

 大歳神(大年神)は農業神、穀物神で、雨量の少ない瀬戸内海気候の地域に灌漑用の池や水路の建設を勧め、農産物の生産量を増大させた。兵庫県では400社近い大歳神社(大年神社)が鎮座しており、大歳神の神徳の大きさが窺われる。

 忌部氏は平安時代前期(803年)に「斎部氏」に改めて、斎部広成が807年に「古語拾遺」を表して一族の主張をしたが状況は変わらず、中臣氏の勢力に押され存在感が無くなった。忌部氏については、2014年8月20日投稿の「忌部氏」をご参照ください。
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by enki-eden | 2016-11-15 00:32

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

 日本書紀では市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)、別名・瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、古事記では市寸島比売命、別名・狭依毘売命(さよりひめのみこと)と記され、「水の神・海の神」である。

 素戔嗚(140年頃~200年頃)と天照大神が高天原の天真名井(あめのまない)で誓約(うけい)をしたところ、素戔嗚の十握の剣を天照大神が噛み砕き、噴き出すと三女神が生まれた。天照大神の御統(みすまる、首飾り)を素戔嗚が噛み砕き、噴き出すと五男神が生まれた。

 三女神は日本書紀によると、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫、五男神は天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天穂日命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと)である。
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 市杵島姫の別名・狭依毘売は、天火明の妃・佐手依姫(対馬)に似ている。古事記の伊弉諾・伊弉冉の国生みで、対馬の亦の名を天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)と云っている。
 市杵島姫は海部氏・尾張氏の祖の天火明と結婚した。市杵島姫・狭依毘売・佐手依姫は同じと考えられる。

 海部氏の勘注系図によると、市杵嶋姫命の亦名は佐手依姫命、息津嶋姫命、日子郎女(ひこいらつめ)神とある。市杵島姫は天火明と共に、海部氏と凡海(おおしあま)氏の祖神になっている。

 五男神は天照大神が引き取り、三女神は素戔嗚が引き取った。三女神は大分県宇佐市の宇佐神宮で比売大神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命)として二之御殿(中央)に祀られている。

 また、三女神は大国主(160年頃出生)に嫁いで、宗像大社(福岡県宗像市田島)に宗像三女神として祀られている。湍津姫の別名は神屋楯姫と云う説があり、事代主を産んだ。
 宗像大社の沖津宮(宗像市沖ノ島)に田心姫神、中津宮(宗像市大島)に湍津姫神、辺津宮(宗像市田島)に市杵島姫神が祀られているが、神名から受ける感じでは、沖津宮と辺津宮の祭神が入れ替わった方が自然だと私は考えています。
 2014年2月26日投稿の宗像大社「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。
 
 三女神は広島県廿日市市の厳島神社(いつくしまじんじゃ、安芸国一宮)にも祀られている。神社名の厳島は斎き島(いつきしま)と云う意味である。
 市杵島姫は神仏習合では弁才天(弁財天、弁天さん)と同一視された。弁才天は七福神の中で唯一の女神で、芸能の神である。2015年6月24日投稿の四宮神社をご参照ください。

 また、瀬織津姫(祓戸四神の一柱)も弁才天として祀られることがあるので、市杵島姫と瀬織津姫は同一視されることがある。

 市杵島姫は京都市西京区の松尾大社に大山咋神と共に祀られている。2014年1月13日投稿の松尾大社①をご参照ください。

 市杵島姫は和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比売神社(紀伊国一宮)にも祀られている。2013年2月9日投稿の丹生都比売神社をご参照ください。
 この他、全国の市杵島神社などで祀られている。
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by enki-eden | 2016-11-07 00:02

日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥三陵

 日本武尊(305年頃-335年頃)は12代景行天皇(285年頃-350年頃)の皇子で、14代仲哀天皇(320年頃-362年)の父である。
 日本武尊の母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、后は11代垂仁天皇(265年頃-330年頃)の皇女・両道入姫(ふたじいりひめ)ほか。
 日本武尊の幼名はヲウス(小碓)、あるいは日本童男(やまとおぐな)で、熊襲建(くまそたける)を成敗した時に「ヤマトタケル」の名を贈られた。

 日本武尊は熊襲征討から帰還すると、景行天皇の要請により征夷将軍として東国征討に出発した。景行天皇は日本武尊のことを「身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電のようで、攻めれば必ず勝つ。形はわが子だが、本当は神人(かみ)である。天下も位もお前のもの同然である。」と褒められた。

 東国遠征中の相模で海が荒れて遭難しそうになった。同行していた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が船から海に飛び込み、犠牲となって一行は難を逃れた。
 弟橘媛は穂積忍山宿禰(ほづみのおしやまのすくね)の娘で、物部系。船団の運営は穂積氏が担ったのでしょう。日本武尊の従者として吉備武彦と大伴武日連が付き添った。

 日本武尊一行は神奈川県の三浦半島東部(横須賀市走水、はしりみず)から対岸の千葉県の細長い富津岬(富津市富津公園)に渡海しようとして嵐に遭った。富津は「ふっつ」と読む。市名の由来は日本武尊伝説により、海に投身した弟橘媛の袖や腰巻が海岸に流れ着いたことに由来する。
 布が流れてきた津→布流津(ふるつ)→富津(ふっつ)になったと云う。
 袖ヶ浦市と習志野市袖ヶ浦も弟橘媛の由来による地名です。木更津市(きさらずし)も日本武尊が弟橘媛を偲んでしばらく留まったことによる地名と云われる。君去らず→木更津。



 日本武尊一行の遭難とは時代も状況も違いますが、1910年に逗子開成中学校のボートを海に出した12人の生徒らが七里ガ浜沖で遭難、全員が死亡した事件を私は思い浮かべます。場所は三浦半島西部で、日本武尊の遭難場所の20kmほど西です。
 この旧制中学生遭難の鎮魂歌としてアメリカのインガルス作曲の讃美歌に日本語の歌詞をつけて作られたのが「真白き富士の嶺(七里ガ浜の哀歌)」です。You Tubeでお聴きください。

 常陸国風土記には日本武尊は倭武天皇(倭建天皇)と記されている。
 日本武尊は東国征討の帰りに尾張国に入り、宮簀媛(みやずひめ、尾張氏)と結婚したが、日本武尊は草薙剣を携えずに伊吹山の荒ぶる神を討ちに行く。
 この時、日本武尊は病気になり能褒野(のぼの、三重県亀山市)で亡くなった。32才だったと云う。 草薙剣は「三種の神器」の一つとして熱田神宮に祀られている。
 日本武尊は戦後史学により架空の存在とされ、古代史が歪曲・否定されているので、古代史を正しく復元することが重要です。

 日本書紀の12代景行天皇紀に、「皇子の日本武尊が伊勢国の能褒野(のぼの)で病没したので、景行天皇は官人に命じて能褒野の陵に葬られた。」とある。
 そのとき日本武尊は白鳥(しらとり)となって、陵から出て大和国を指して飛んで行った。従臣が柩を開けると衣だけが残っていた。そこで白鳥を追って行くと大和国の琴弾原(ことびきのはら、御所市富田)に留まった。それでそこに陵を造った。
 白鳥はまた飛んで河内国に行き、古市邑(ふるいちむら、大阪府羽曳野市軽里、はびきのしかるさと)に留まった。またそこに陵を造った。それからついに高く飛んで天に昇られたので、衣冠だけを葬った。天皇は建部(たけべ)を日本武尊の御名代(みなしろ、王族の功績を後世に伝えるために置かれた部民)とした。
 人々はこの三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んだ。

①能褒野大塚古墳、三重県亀山市田村町1409、前方後円墳で4世紀末築造。
 墳丘長90m、後円部径54m、高さ8.5m、
 前方部が南東方向の伊勢湾を向いている。
 明治28年、古墳の傍に能褒野神社が創建された。
②日本武尊白鳥陵(しらとりのみささぎ)、
 奈良県御所市富田、28m×45mの長方丘。
③軽里大塚古墳(前の山古墳)、大阪府羽曳野市軽里、190mの前方後円墳、
 5世紀後半築造。羽曳野市の地名由来は、
 「白鳥がくように飛び立った」と云う。
  ①が赤のアイコン、②黄、③紫


 2014年7月2日投稿の「建部大社①」をご参照ください。

 日本武尊が能褒野で詠んだ望郷の歌
 やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるはし
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by enki-eden | 2016-11-01 00:38