古代史探訪

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舟木遺跡の鉄器工房跡(淡路市)

 兵庫県淡路市舟木(旧・津名郡北淡町)にある「舟木遺跡」は弥生後期の高地集落遺跡で、淡路島北部中央部の標高160mほどの山間にある。1世紀中頃に突然出現したので、海岸部から移住してきたのでしょうか。
 弥生時代末期(2世紀中頃~3世紀初め)に存在したとみられ、1966年に発見された。面積は東西500m、南北800mの約40万㎡(12万坪)。

 淡路市の教育委員会が舟木遺跡を発掘調査し、新たに鉄器生産工房跡から鉄器57点などが発見され、手工業品生産工房跡も見つかったと1月25日に発表された。
 舟木遺跡は過去に淡路市黒谷で見つかった近畿最大の鉄器生産工房「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」を上回る国内最大規模の鉄器工房跡の可能性があり、今後も発掘調査が続けられる。
 五斗長垣内遺跡(標高200m)は1世紀中頃に突然出現した高地集落であるが、舟木遺跡も2世紀中頃に突然出現した。

 西暦180年頃に勃発した北部九州の「倭国乱」により、倭国から淡路国へ隠遁した伊弉諾尊の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)は両遺跡に近く、関係があると私は考えています。その頃(2世紀末)に両遺跡は最盛期を迎える。伊弉諾神宮については2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。
 赤が舟木遺跡、黄が五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)、紫が伊弉諾神宮


 五斗長垣内遺跡の鉄器生産が終わった後も、舟木遺跡では少し鉄器生産が続き、やがて終了する。高地集落は大和国(天皇家)が強大になり近畿地方を中央集権的に支配するようになると消滅していった。弥生時代の一つの特徴である銅鐸祭祀も消滅し、古墳時代に突入していく。

 淡路市教育委員会は「淡路市国生み研究プロジェクト」を立ち上げて、昨年と一昨年に舟木遺跡などを調査し、国生み神話との関係を掘り下げる取り組みをした。
 出土した土器の年代から、工房があったのは2世紀後半とみられる。4棟の大型竪穴建物跡のうち、3棟は敷地が円形で直径が10mを超える大型で、うち1棟から4基の炉の跡が確認された。柱が外側に寄り中央部が広いことから、作業をする空間だったと考えられる。
 また4棟から鉄器製作に使った石器が多数出土、鉄器は計57点あった。鍛冶関連のほかに小型工具も出土した。

 2009年に工房12棟と鉄器127点が出土した五斗長垣内遺跡では、鉄鏃(てつぞく、矢じり)などの武器類が多く出土したが、舟木遺跡では武器以外の鉄製品が出土した。両遺跡は6km離れており、ほぼ同じ時期の工房なので、製造する品種を分けていたのかもしれない。

 古事記の国生み神話によると、伊邪那岐命と伊邪那美命が最初に生んだのが淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)とあるが、その意味は「粟の穂の穀霊の島」と云う説がある。「淡(あわ)」は「海の泡」とも云われるが、私見では「淡(あわ)」は鳴門海峡の渦、「穂」は踏鞴製鉄の「火」と考えています。淡路島は海人の国であると同時に製鉄の島だった。
 淡路国の考古学については、2013年9月3日投稿の「淡路国の考古学」をご参照ください。
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by enki-eden | 2017-01-27 09:58

磯城氏

兄磯城(えしき)
 奈良県桜井市にある三輪山西部地域の磯城の首長で弟磯城(おとしき)の兄。西暦209年頃、神武東遷軍が熊野から大和へ侵入するのを防ごうとしたが、弟磯城が神武側に援護したので兄磯城は敗れた。

弟磯城
 弟磯城の名は黒速(くろはや)、戦功により神武天皇が弟磯城を磯城県主(しきのあがたぬし)に任命する。弟磯城の娘の川派媛(かわまたひめ)が2代綏靖天皇の皇后になる。
 三輪山に狭井神社(さいじんじゃ)が鎮座、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、近くを狭井川が流れている。古事記によると、神武天皇は狭井川のほとりに住む伊須氣余理比売(いすけよりひめ)を妻とした。伊須氣余理比売は三輪山に住んでいるので磯城氏の娘でしょう。磯城(シキ)→イソキ→イスケに転訛して伊須氣余理比売になったのか・・・
 伊須氣余理比売は日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命を生み、神沼河耳命が2代綏靖天皇になる。
 狭井神社については2013年6月17日投稿の「狭井神社」をご参照ください。

 3代安寧天皇の和風諡号は磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)と云う。弟磯城の多くの子孫が天皇家に后妃として嫁ぐことになる。
 磯城県主大目は製鉄族で十市県主の祖になるが、大目の娘・細媛(ほそひめ、くわしひめ)が7代孝霊天皇の皇后になる。

 シキは鋪、坑で鉱山の坑道(採掘跡)のことである。磯城、志紀、志貴、師木、式、敷などとも書く。磯城氏は金属採掘、踏鞴製鉄の部族であったと考えられる。奈良盆地は踏鞴製鉄に適した絶好の場所であった。

 「大和の国」の枕詞は「敷島の」であるから、磯城は大和の中心地であった。
 三輪山(467m)の西麓、大神神社(おおみわじんじゃ)の南400mに志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)が鎮座、祭神は大己貴神(大国主命)とも天津饒速日命とも云われる。境内に「崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)趾」石碑がある。



 磯城氏は饒速日の後裔とされるが、磯城氏の本拠地が三輪山麓西であるので、祖神は大物主神と云う説もある。大物主は一般的には大国主となっている。
 祖神は父系、母系によって違うが、いづれにしても磯城氏は神武東遷以前から三輪山の西麓を本拠地にして奈良盆地の東側を治めていた豪族で、神武東遷以降は天皇家を支えた。
 磯城県主からは後に春日県主(かすがのあがたぬし)、そして十市県主(といちのあがたぬし、橿原市十市、十市御県坐神社、豊受大神)が派生する。

 河内国志紀郡に河内国総社の志紀県主神社が鎮座(大阪府藤井寺市惣社1丁目6-23)、主祭神は神八井耳命(神武天皇と伊須氣余理比売の皇子)となっているが、「河内名所図会」(1801年出版)には主祭神は磯城県主黒速となっている。
 当地は大和川の南にあり、奈良時代の朝廷直轄地で、神八井耳命を祖神とする志貴県主、志紀首(しきのおびと)が管理していた。志紀県主神社の200m南には19代允恭天皇陵(市野山古墳、230m)があり、更に1km南西には15代応神天皇陵(誉田御廟山古墳、425m)がある。
 新撰姓氏録には、
 「大和国 神別 天神 志貴連 神饒速日命孫日子湯支命之後也」、
 「和泉国 神別 天神 志貴県主 饒速日命七世孫大売布命之後也」、
 「和泉国 皇別 志紀県主 雀部臣同祖 神八井耳命之後也」、
 「河内国 皇別 志紀県主 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」、
 「右京 皇別 志紀首 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」とあり、
 饒速日系、神八井系が記されている。

 磯城氏は3世紀後半の10代崇神天皇の頃には衰退し、物部氏が急速に勢力拡大する。磯城氏の女性が物部氏の妻となり、磯城氏は物部氏の同族として取り込まれてしまった。
 先代旧事本紀巻第五天孫本紀によると、9代開化天皇と10代崇神天皇に仕えた伊香色雄(いかがしこお)は倭志紀彦(志紀県主)の娘・真鳥姫を妾として一男を生んだ。それが建新川(たけにいかわ)だと考えられる。
 物部氏の建新川は11代垂仁天皇に仕え、母系の志紀県主らの祖となった。
素戔嗚―饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄

 天皇家の系図は初代神武天皇から17代履中天皇まで親子関係で記されているが、天皇家に仕えた物部氏や磯城氏などの豪族系図と比較対照すると、兄弟従弟で天皇職を継いでいることが分かる。
 私見ですが初期天皇家の世代は次のように考えています。
 初代神武――2代綏靖
       3代安寧――5代孝昭
       4代懿徳  6代孝安――7代孝霊
                   8代孝元――9代開化
                        10代崇神
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by enki-eden | 2017-01-26 00:19

アヂスキタカヒコネ

 日本書紀では味耜高彦根神と記され、大己貴神(大国主神)の子。大己貴神は大和の三輪山(三諸山)に住み、その子孫は賀茂君、大三輪君である。
 奈良県御所市鴨神の高鴨神社の主祭神は阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)、2013年3月12日投稿の「高鴨神社」をご参照ください。

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 古事記では大国主神と多紀理毘売命の子が阿遅鉏高日子根神(阿遅志貴高日子根神)と記され、大国主神と神屋楯比売命の子が事代主神(八重事代主神)、大国主神と沼河姫の子が建御名方神。海部氏の勘注系図によると、神屋楯比売は湍津姫とある。
 奈良県御所市宮前町の鴨都波神社には積羽八重事代主命(事代主命)と下照姫命を祀っている。2012年12月19日投稿の「鴨都波神社」をご参照ください。

 三島溝咋の娘の勢夜陀多良比売に三輪の大物主神(大国主神)が一目ぼれして結婚して生んだ子を比売多多良伊須氣余理比売と云う。伊須氣余理比売は三輪山の狭井川のほとりに住んでいたが、神武天皇の皇后になった。生まれた子は日子八井命(4代懿徳天皇?)、神八井耳命(3代安寧天皇?)、神沼河耳命(2代綏靖天皇)である。

 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子で、阿遅須枳高日子命と記す。

 先代旧事本紀によると、大国主神の子が味耜高彦根神と下照姫で、天津国玉神の子の天稚彦は下照姫を妻とする。味耜高彦根神と天稚彦は親友で姿形が似ていた。
 大己貴神の子は全部で181人いる。
 大己貴神は大和の三輪山に住み、茅渟の活玉依姫を妻として通った。また、大己貴神の別名は葦原色許男・顕見国玉神・大国主神・大物主神・大国玉神・八千矛神・大三輪大神で、素戔嗚尊の娘の須勢理姫命と結婚した。また、稲羽の八上姫を妻とし、木俣神(御井神)が生まれた。
 大己貴神は宗像の田心姫命を妻とし、味鉏高彦根神と下照姫命が生まれた。辺津宮の高津姫神を娶って、都味歯八重事代主神と高照光姫大神が生まれた。高津姫神は湍津姫(神屋楯比売)のことと考えられる。
 大己貴神は越の沼河姫を妻とし、建御名方神が生まれ、信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座。
 都味歯八重事代主神は熊鰐となって三嶋溝杭の娘・活玉依姫に通い、天日方奇日方命と姫踏鞴五十鈴姫命、五十鈴依姫命が生まれた。大国主も事代主も活玉依姫に通ったことになるが・・・
 姫踏鞴五十鈴姫命は神武天皇の皇后になり、神渟河耳天皇(2代綏靖天皇)と彦八井耳命を生んだ。
五十鈴依姫命は綏靖天皇の皇后になり。磯城津彦玉手看天皇(3代安寧天皇)を生んだ。

 賀茂氏は系統が複雑だ。
 ①大和葛城(奈良盆地西南)を拠点とし、味鋤高彦根命を始祖とする賀茂族の系統。
 ②大和葛城で事代主命を始祖とする賀茂君の系統。
 ③大国主神を始祖とする賀茂朝臣・大神朝臣の系統。①②③は同族で時代が違う。
  新撰姓氏録に「大和国 神別 地祇 賀茂朝臣(大神朝臣) 大国主神之後也」とある。
 ④賀茂建角身命(八咫烏)を始祖とする天神系の賀茂県主(鴨県主)の系統。
  新撰姓氏録に「山城国 神別 天神 賀茂県主 鴨建津之身命之後也」とある。

 味鋤高彦根命=賀茂建角身命であれば、大和国葛城の賀茂氏が山城国へ移動したと考えられるが、別系統だと云う説もある。
 神武天皇東遷を助けた八咫烏(賀茂建角身)は、葛城を経由せずに大和国から直接山城国へ移動したと云われる。

 先代旧事本紀によると、饒速日命は十種の神宝をもち、32人の防衛、五部人、五部造、天物部等25部人、船長という多数の随伴者を従えて筑紫から大和に天降ったとある。
 その随伴者の中に天櫛玉命があり、鴨県主等祖と記されている。また、天神魂命も随伴しており、葛野鴨県主等祖と記されている。
 「古代豪族系図収覧」によると、神皇産霊尊――天神玉命――天櫛玉命――鴨建角身命とある。
 私見ですが、味鋤高彦根系と賀茂建角身(八咫烏)系は同じ鴨族を名乗るが別系統ではないか。
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by enki-eden | 2017-01-20 14:23

弥生時代の交易

北部九州の弥生人骨分布
 山口県、福岡県、佐賀県の水田稲作地域から出土する弥生時代の人骨は渡来系の弥生人である。佐賀県西部、長崎県、熊本県天草諸島の山間部や海岸地域から出土する人骨は縄文人である。
 従って、縄文人と弥生人は住む地域が分かれていた。縄文人は追い出されたのか、縄文人と渡来系弥生人の交流は北部九州では盛んではなかったのでしょう。

 列島が縄文社会から弥生社会へ移行したのは、江南地域(長江流域)から渡来した呉人、越人、楚人と中原(黄河流域)から渡来した漢人による。
 3,000年以上前の縄文時代にも大陸から列島へ交易に来た人々もあり、そのまま列島に住み着いた人々もいる。中国の春秋時代は紀元前8世紀から紀元前5世紀までで、その時代の列島への渡来数は多くなかったでしょう。それ以前だともっと少ないでしょう。
 縄文時代にも稲作や養蚕があり、遺跡も残っているが、稲作社会が列島中に広がることもなく、縄文社会がなくなることもなく、渡来人数も限られている。
 弥生時代の始まりを500年から800年古くする説が増えてきたが、その期間は縄文時代の中の弥生的萌芽であって、列島全体として社会が大きく変わり縄文時代から弥生時代に移ったと見るのは紀元前5世紀から4世紀だと私は考えている。

 紀元前5世紀から紀元前3世紀までの大陸は戦国時代になり、戦乱が大規模で激しく、更に北方遊牧民の侵入も加わった。
 その結果、長期に亘って波状的に列島へ逃亡する人々が増えて累積渡来数が増大。縄文人の出産率の低さと渡来人の出産率の高さによって、渡来人の人口は急速に増えた。山間部に逃げる縄文人も多かったが、徐々に渡来人との交流が進み弥生時代に移っていく。

 福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡(くま・にしおだいせき)は規模、遺構、出土物などにおいて佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡に匹敵する遺跡である。この遺跡の住人は弥生人の特徴が非常に際だった集団であった。
 隈・西小田遺跡の甕棺墓群の中央にあった弥生中期後半の23号甕棺墓からは、35才くらいの男性人骨と鉄戈、鉄剣、前漢鏡、青銅武器、玉、ゴホウラ貝製腕輪41個(右腕に21個、左腕に20個)などの副葬品が出土している。この地の首長墓と考えられ、貝製腕輪は南西諸島との交易によるものである。
 祭祀遺構からは中細形銅戈23口が一括埋納されていた。「筑紫野市歴史博物館」のサイトをご覧ください。

弥生時代の交易
 弥生時代中期の中頃~後半になると列島内や大陸との交易が益々拡大していく。
 紀元前108年に前漢が朝鮮半島に楽浪郡を設置すると、北部九州の墳墓の副葬品に前漢鏡や武器などの青銅器が見られるようになる。
 また、奄美大島や沖縄の珊瑚礁に生息するゴホウラやイモガイという大型の巻貝を加工した貝製腕輪や、新潟県糸魚川産のヒスイなども近畿や北部九州などの遺跡で発見されている。
 これらは村の首長や祭司長の装飾品や副葬品であり、対内・対外交易が盛んになったためである。
 弥生時代の南西諸島との貝交易については、熊本大学の木下尚子教授の「貝交易の語る琉球史」に非常に詳しく解説されている。以前は講演内容をインターネットで見ることができましたが、今では閉鎖されたようです。
 
 記紀によると、神武天皇は大和国に東遷する前は日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし手研耳(たぎしみみ)などが生まれたとある。これは神武が北部九州から日向国に派遣され、南西諸島との貝交易に携わっていたと私は考えています。
 神武は高皇産霊に呼び戻されて大和国に東遷し、国を治めるための資源として水銀朱を開発独占した。貝よりも朱の方がはるかに価値が高かった。

 弥生時代には銅器や鉄器の使用も本格化し、弥生時代中期から後期にかけて内外の広範囲にわたる交易ルートが確立された。弥生時代を通じて交易・交流のノウハウが蓄積されていった。
 大陸と交易するためには列島各地の豪族が役人を楽浪郡に派遣して、漢字や言語の使用、制度などを理解する者を養成していた。

 後漢末になると公孫氏が楽浪郡・帯方郡を支配したので倭国は公孫氏と交易をしたが、西暦220年に後漢から魏に移ると238年に公孫氏が滅ぼされ、倭国(北部九州)は西暦239年から魏と直接交易をするようになる。
 新撰姓氏録には「右京 諸藩 漢 常世連(とこよのむらじ) 燕国王公孫淵之後也」、「河内国 諸藩漢 常世連 燕国王公孫淵之後也」とある。公孫氏又はその部下は列島に逃亡し、常世連を称した。
 常世氏が奉斎する神社は大阪府八尾市神宮寺の常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ、八王子神社)で、常世氏は当地を本拠地とした。常世氏の本姓は赤染氏で、赤染氏は茜染めを職としていた。

 三国志には公孫氏一族は滅亡したとあるが、列島に逃れて来た公孫氏がいたのか、それとも王族ではなく家来なのか。公孫恭は魏の将軍・司馬懿(179年-251年)に助命されたが性的不能で子はいなかったとある。
 司馬懿は卑弥呼(西暦179年-247年)と同年生まれで、卑弥呼の死後4年に亡くなっている。
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by enki-eden | 2017-01-14 00:23

紀伊路(きいじ)

 古くは紀路(きじ)とも云う。
 紀伊路は弥生時代から使われていたが、5世紀半ばから6世紀の天皇の宮は長谷や磐余(いわれ)など奈良盆地南部に設けられ、「大和の宮」と「紀の川」を結ぶ官道となった。途中に巨勢谷を通るので巨勢路(こせじ)とも云われた。

 畝傍山の東を南北に走る「下ツ道」を南に進むと丸山古墳(畝傍山・橿原神宮の方を向いた前方後円墳)、次に欽明天皇陵(東西向きの前方後円墳)、次に岩屋山古墳(方墳か)の傍を通る。そこから徐々に南西方向に向かうが、近くを近鉄吉野線が並走する。
 吉野口駅あたりからはJR和歌山線が並走するようになる。奈良県五條市で吉野川(紀の川中流)に至る。JRの駅名は「五條」ではなく「五条」になっている。当地は古代の大和国宇智郡で宇智神社(宇智大神)が鎮座。宇智大神は武内宿禰と云う説がある。ここからは水路で紀の川を下って大阪湾から瀬戸内海方面に出る。
 「紀の川」は奈良県域では「吉野川」と呼ばれ、中央構造線に沿って和歌山県を西に流れて紀伊水道に注ぐ。地図には「紀ノ川」と記されることがある。古代には、紀の川は紀氏が葛城氏と共に管理していた。
 奈良盆地西部に本拠を置く葛城氏が紀の川へ行くには、葛城山・金剛山麓の道路を通り、途中から紀路に入った。
  和歌山県伊都郡かつらぎ町の「道の駅・紀の川万葉の里」から紀の川を望む。
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 紀路は7世紀の飛鳥時代にも飛鳥から紀の川へ行く官道で、8世紀の奈良時代には南海道として利用された。
 古代の紀の川は和歌浦に注いでいたが、1400年代の地震と津波で川筋が変わり、紀伊水道に注ぐようになった。和歌浦に注いでいた川の部分も残っており、和歌川となっている。昔は暴れ川だったようです。紀路(黄色い線)と和歌浦に注ぐ古代の紀の川(赤い線)を示します。
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 古代の和歌浦河口の港は紀伊水門(きのみなと)と呼ばれていた。紀伊水門は6世紀までは紀氏が管理し大和朝廷が直轄する重要な外港であった。紀伊水門には国内外の交易品が集中していたので鳴滝倉庫群があった。上の地図にあるピンクの丸印が鳴滝倉庫群(和歌山市善明寺)です。
 高床式倉庫群が5世紀前半に造られ、20坪前後の倉庫が7棟で、総面積は140坪ほどです。交易品や食料・武器などが保管され、交易航行時には武器・兵器は必須携行品でした。
 和歌山市ホームページの鳴滝倉庫群。 現在は埋め戻され近畿大学付属高校のテニスコートになっている。
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 紀伊国名草郡の紀伊国造家の本拠地は日前宮です。2013年2月1日投稿の「日前宮」をご参照ください。
 紀氏は大和政権と密接に結びつき、政権のための水運・軍事・政治に貢献した。紀の川と瀬戸内海から海外への水運を統括し、国内外の交易を掌握していた。5世紀には大和の平群谷と山背南部の紀伊郡にも同族を配置した。平群谷の紀氏は紀朝臣となり貴族化していった。
 葛城氏、物部氏、蘇我氏など有力豪族が次々と天皇家によって弱体化される中で、紀氏は最後まで勢力を保つことができた。

 5世紀後半になると大阪湾の難波津の港(大阪市中央区法円坂町)が拡充され難波倉庫群が完成。16棟以上の高床式倉庫群で、全棟で425坪ほどもあり、鳴滝倉庫群の3倍の大きな規模となる。
 大和川は物部氏が支配していたが、当時の大和川は淀川と共に大阪湾に注がずに河内湖に注いでいた。5世紀末頃に大和政権は「難波の堀江(水路)」を掘削して河内湖の水を大阪湾に導いた。その開発によって難波地域の都市計画が進んだ。
 河内湖は川からの堆積物で徐々に縮小していったが、江戸時代の1704年に、北上して河内湖に注ぐ大和川を西方向に流れを替え、堺の海に放流することにより河内湖は消滅し河内平野になった。

 7世紀には大和から瀬戸内海方面・海外への航路は紀の川から大和川に移っていった。航路の変更は物部守屋が587年に滅ぼされ物部氏の勢力が弱くなったことと関係があるでしょう。大和川の水運と難波津の管理は大和政権が直轄するようになり、海外交易の拡大、遣隋使・遣唐使の派遣などに利用された。

 難波倉庫群の法円坂遺跡に1棟の倉庫が復元されている。左(西側)に10棟、右(東側)に6棟の倉庫跡が見える。赤丸は復元された1棟の倉庫。復元倉庫の北隣りが大阪歴史博物館、その西隣りがNHK大阪放送局。
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 この他の大型倉庫群は大阪府豊中市の蛍池東遺跡、奈良県御所市の南郷遺跡群(葛城氏)、奈良県天理市の布留遺跡(物部氏)にある。これらは5世紀の古墳時代の遺跡である。
 古墳時代に入って100年が経過した4世紀半ばに大和政権が国内統治をほぼ達成し、海外との交易に力を注ぎ、海外派兵も頻繁に行われるようになった。
 それを進める為に5世紀の大和政権は交易品・食料・兵站用の倉庫群を重要拠点に建設した。また河内国には応神天皇陵や仁徳天皇陵など巨大な前方後円墳が築造された。
 大和政権の海外進出に呼応するように玄界灘の沖ノ島では、4世紀後半から大和政権が国家的な祭祀を行うようになった。祭祀は航海安全、交易の成功、戦勝祈願などである。特に戦勝祈願は切実であった。沖ノ島の祭祀については、2014年2月26日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。

 4世紀から5世紀にかけての時代は、大陸では八王の乱(300年-306年)、五胡十六国の乱立(304年-439年)、西晋の滅亡(316年)、東晋滅亡(420年)などで戦乱が続いた。戦乱を避けて多くの漢人などが列島に逃れて来た。
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by enki-eden | 2017-01-08 00:16

日本人とフェニキア人

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 作家の有吉佐和子(1931年-1984年)はフェニキア人の日本渡来説を主張している。紀伊の語源は紀州と伊勢の組み合わせという説があるが、有吉は紀伊の「キ」は古代フェニキアの「キ」で、フェニキア人は船ではるばる日本までやってきたと云う。

 有吉の父は長州人で、母は紀州人。母の旧姓は木本で、和歌山市の庄屋の長女であった。和歌山市西庄の木本八幡宮の山本宮司家とは縁続きで、古代の紀氏とつながっていた。木本というのは木の根本で、紀州こそ日本人のルーツであると有吉は云った。有吉の代表作「紀ノ川」はその家系をモデルにしている。

 フェニキア人のY染色体DNAハプログループはE1b1b1a3、一般のユダヤ人はJ2aが多いがフェニキア人との交配でE系統も多い。日本にはJ系統もE系統も見当たらないが、日本に多いD系統(縄文人)はE系統と同系で、分派してDとEに分かれた。

 ユダヤ人言語学者のヨセフ・アイデルバーグ(1916年-1985年)によると、日本語とヘブル語の類似した単語が3,000語を超えると紹介している。
 ユダヤ人のラビ・マーヴィン・トケイヤー(ニューヨーク在住、1936年出生)は、京都の祇園祭を見たユダヤ人はイスラエルの祭りを連想すると云っている。トケイヤーは1967年に東京広尾の「日本ユダヤ教団」の初代ラビで、早稲田大学で古代ヘブライ文化を教えたこともある。
 トケイヤーは「ユダヤ人は長い歴史の中で何回も敗北を味わってきたのに、自らの歴史に誇りを持って生きてきた。それに対して日本の民族はたった一回の敗戦によって、自国の歴史に誇りを亡くしてしまった。」と述べている。

 これを聴いて私は戦後史学を早く修正しなければならないと痛感しています。戦前の皇国史観に戻ろうとしているのでは決してありませんよ。古代史を正しく理解することです。ナショナリズムになってもいけません。日本の周辺国では歴史をナショナリズムによって大きく歪曲して国是としています。これに関わってもいけません。

 日本人のmtDNA(ミトコンドリアDNA)の約67%はアジア系と言われる「M」系列、約33%は西欧系と言われるmtDNA「N」系列です。ミトコンドリアDNAは母親から引き継ぎます。
 人類の出アフリカにより、アジア系と言われるmtDNA「M」(母親由来)は、縄文系のY-DNA(父親由来)の「D」と「C」と共に、紅海、アラビア海からインド洋沿岸部を航海して日本列島にやってきた。
 mtDNA「M」系列の中で最も古い「M」が日本列島で見つかっているので、出アフリカ後のmtDNA「L3」が中東でネアンデルタール人と交配して分化した「M」と「N」の最も古い亜型がそのまま日本列島に移動してきたことになる。2015年1月13日投稿の「ネアンデルタール人との混血」をご参照ください。

  人類の出アフリカは10万年前から6万年前ぐらいですが、フェニキアがローマとの3回にわたるポエニ戦争に敗れ、紀元前146年に壊滅したので、戦争に敗れて列島に来た人がいるのなら紀元前2世紀頃になるでしょう。それともフェニキアが活躍していた紀元前4世紀頃に列島まで航海して来たのか・・・
 2016年2月7日投稿の「貝紫色(フェニキアの紫)」をご参照ください。

 紀元前4世紀から紀元前3世紀頃にフェニキア人とユダヤ人が航海により、日本列島まで来た可能性はあります。2015年4月27日投稿の「ユダヤ人のY遺伝子」をご参照ください。

 日本人とチベット人に多いY染色体D系統は出アフリカ間もない時期のDNAをそのままチベットと日本に移動しています。他のDNAからの変化を受けていない希少な例です。D系統は日本、チベット、中東にしか存在しません。

 D遺伝子を持つ縄文人の言葉(縄文語)の文法がS(subject、主語)・O(object、目的語)・V(verb、動詞)の順のSOV型になっています。
 縄文人の後に列島に渡来した江南人(揚子江周辺の倭人)の文法はSVO型ですから、江南人は先住民の縄文人の言葉に同化し、交配し、弥生人になったと考えられます。
 古い型の遺伝子を持つ縄文人の文法がSOV型であることは、人類の初期の文法がSOV型であったことを物語ります。その後の人類の分岐・拡散によりSVO型が派生したと考えられます。

 同じ文章をSOV型とSVO型に置き換えて話してみてください。SOV型の方が優しく曖昧な感じがしませんか? SVO型はきつく聞こえませんか?
 縄文人は優しいのです。国内で縄文系の比率の高い人々はアイヌと沖縄で、次に関東と東北が高いのです。
 古代の日本の中心であった奈良と京都の人々のDNAはどんな形だったのでしょうか。両地区のDNAのサンプルが少なすぎて判断できません。天皇家のDNAも分かりません。
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by enki-eden | 2017-01-01 00:14