古代史探訪

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比多国造(ひたのくにのみやつこ)

 比多国造は比多国(豊後国日田郡、大分県日田市周辺)の国造で、先代旧事本紀の国造本紀によると、
 『葛城国造(大和国西部)は神武朝の御世(初代神武天皇、3世紀初め)に剣根命(つるぎねのみこと、高皇産霊尊の5世孫)をはじめて葛城国造とした』、
 『比多国造は成務朝の御世(13代成務天皇、4世紀前半)に、葛城国造と同祖の止波足尼(とはのすくね)を国造に定められた。』とある。

 神武天皇紀にも剣根命を葛城国造にしたと書かれており、比多国造になった止波足尼は高皇産霊尊(高魂命)の子孫であり、葛城国造となった剣根命の子孫でもある。
 豊後日田(比多、日高)も高皇産霊尊を表す地名になっている。日田市は大分県だが筑後川の水運により福岡県・佐賀県・熊本県とのつながりも深い。



 日田には日下部(くさかべ)氏の本拠地があり、日下部氏が比多国造となったか。日下部氏は阿蘇の氏族、高良大社の社家、肥前佐用姫の氏族、隼人と同族の氏族ほか九州に散見されるが、9代開化天皇系で但馬国造の但馬日下部氏、吉備の日下部、播磨の氏族、皇族の御名代部(みなしろべ)の氏族など全国に広がっている。
 日向日下部氏は日向国司を務め、宮崎県西都市の都萬神社(つまじんじゃ、木花咲耶姫、日向国総社)の神官でもあった。近くに西都原古墳群もある。

金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡
(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう、国の重要文化財)
 この鉄鏡は1933年に地主の渡辺氏が発見し、日田市立三芳小学校に寄贈した。しかし、戦時中に盗難に遭い奈良の古美術商に渡る。これを考古学者の梅原末治氏(1893年-1983年)が購入。
 1964年に国の重要文化財に指定され、東京国立博物館の所有となる。

 梅原末治氏は1962年に発見者渡辺氏の案内で「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡」が出土したと云う跡地を調査した。そして翌年の雑誌に「金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が出土したのは大分県日田市日高町(ひだかまち)の通称ダンワラと云われる地にあった古墳の石室であった」と発表した。
 そのダンワラ古墳は30mほどの円墳だったと考えられるが、1933年の線路工事により破壊されていた。周辺には5世紀から6世紀頃の横穴墓も多数ある。付近から金錯鉄帯鉤 (きんさくてったいこう)も出土している。
 豊後三芳駅の200m東には伊勢神宮が鎮座、出土した鉄鏡などと関係ありそうだ。

 ウィキペディアによると、『1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡などが発見された。その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。』とある。
 古墳からは鉄刀・轡も出土し、もう一つの石室からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。

 金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、漢代の書体で「長宜(子)孫」の4文字が金で刻まれている。龍には銀の象嵌、赤や緑の玉が嵌入されている。東京国立博物館の所有であるが、太宰府市の九州国立博物館で保管されている。
 銅鏡に比べ鉄鏡は腐食が激しいが、再現復元品は非常に美しい。天領日田資料館(日田市豆田町)で展示されているようだ。

 鉄鏡は後漢時代(1世紀から3世紀)の製作で、後漢や魏では皇帝のみが鉄鏡を使用したと言われている。魏の武帝・曹操(155年-220年)も金錯鉄鏡を持っていた。曹操の墓から副葬品として大型の鉄鏡(21cm)が出土している。
 238年に魏に使節を派遣した卑弥呼(179年-247年)は親魏倭王の金印や銅鏡100枚を受けたが、243年の朝貢時に曹操の副葬品の金錯鉄鏡に似た鏡を受けたかもしれない。金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡も曹操の金錯鉄鏡と同じ大きさである。同笵鏡か似た鉄鏡かもしれない。

 しかし、この金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は豊後日田で造られたと云う説もある。国産であれば卑弥呼が魏から受けたかもしれない金錯鉄鏡を真似たか?

 日田には久津媛(比佐津媛、ひさつひめ)伝承があり豊後国風土記にも記されているが、久津媛がこの鉄鏡を神事に使ったものかもしれない。久津媛は会所山(よそやま、国見岳、164m)山頂の久津媛神社と麓の会所神社(よそじんじゃ)に祀られている。
 12代景行天皇が熊襲征伐の帰路、豊後国日田郡に来た時に久津媛の神が現れて迎えたことにより、久(ひさ)が地名の日田になったとも云われる。

 私見ですが、素戔嗚尊と宇佐の比売大神を思い浮かべ、宇佐の比売大神(宇佐津比売、うさつひめ)→久津媛(ひさつひめ)ではないかなと・・・
 糸島市の日向(ひなた)と同じように日田市も古代には日向(ひむか)と呼ばれ、鏡による太陽信仰の神事が行われていたようだ。

 豊後三芳駅の5kmほど北西には小迫辻原遺跡(おざこつじばるいせき、国の史跡)があって、古墳時代初期の日本最古の豪族居館跡がある。

 私の息子が日田の麦焼酎「百助(ももすけ)」をくれましたよ。
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by enki-eden | 2017-03-30 00:47

インダス川から縄文時代の日本列島に

 インダス文明(ハラッパー文明)は4,600年前から3,500年前にインドとパキスタンを流れるインダス川流域に栄えた都市文明である。インダス川上流や支流のアフガニスタンにも遺跡が残っている。
 インダスとメソポタミア(現在のイラク)の間にあるイラン高原にはエラム人が住んでいて東西交易を担っていたので、インダスとメソポタミアは盛んに交易をしていた。
 メソポタミアのシュメール文明は古く、5,500年前から4,000年前に栄えた。私見ですが、インダス文明もシュメール人が築いたと考えています。インダスとシュメールがエラム人を通さずに直接交易する場合は海上航路を利用した。シュメールにとってインダスが「エデンの園」だったのではないでしょうか。

 そのインダス文明はドラヴィダ人(Dravidian)が興した文明ではないかと考えられているので、私見ではシュメール人とドラヴィダ人は同じ種族になります。
 ドラヴィダ語とシュメール語は共通性があると云わているので、シュメール人がインダスに来てドラヴィダ人になったのではないか。或いはドラヴィダ人がメソポタミアに移住してシュメール人になったのかもしれない。

 3,500年ほど前にアーリア人がパキスタンとインドに侵入したことにより、ドラヴィダ人はアーリア人に支配されたが、インド南部のドラヴィダ人は古くからの文化を保っている。

 ドラヴィダ人は古くからインドに定住した民族で、現代では南インドを中心としてインド全土に居住し、スリランカ、バングラデシュ、マレーシア、シンガポール、モルディブ、そしてアフリカ寄りのマダガスカル島、セーシェル諸島などにも居住している。イギリスの植民地時代に労働力として移住させられた人も多いでしょう。
 ドラヴィダ人の特徴は二重の丸い大きな目、彫の深い顔、肌が黒く、身長は低いが手足が長く、体毛は濃く、髪の毛はカールしたり縮れている。この特徴は肌の黒さ以外は縄文人、沖縄人、アイヌ人に似ている。

 そのドラヴィダ人が3,500年ほど前の縄文時代後期に日本列島へやって来たと云う説がある。渡来数は少ないが、ドラヴィダ人が鉄や青銅を持ち込み、焼畑農業を行ったと云う。ただし、DNA分析ではドラヴィダ人と日本人は近い部分はあっても一致する部分はない。

 天皇を大和言葉ではスメラミコトと云うが、スメラ(皇)はシュメール(スメル)ではないかと云う説もある。
 天皇家の菊花紋はシュメールを含む中近東の王族の紋と同じ。2014年9月19日投稿の「菊花紋」をご参照ください。
 このブログのURLはhttp://enkieden.exblog.jp/ですが、「enki」はシュメールの神名で、「eden」はエデンの園から取っています。私が一番好きなのはgilgameshですけどね。

 やがて2,500年前になると、揚子江(長江)周辺の江南人(倭人)が数百年に亘って波状的に日本列島に逃れて来て、列島は縄文時代から弥生時代に移行していく。

 ドラヴィダ語の一種のタミル語と日本語は似ているようで、生活習慣や文化も似ているようだ。ドラヴィダ人は戦争も少なく、平和な商人中心の文化だったようだが、その点も縄文人と共通性がある。
 紀元前334年に越が楚に敗れ、越人(倭人)の多くがインドや東南アジアに逃れて、その地に言葉・文化を残しているので、ドラヴィダ人の生活地域にも倭人語や甕棺墓が残された。この倭人繋がりで日本とドラヴィダの共通性も考えられる。
 また、海の民のドラヴィダ人が沿岸部に港町を造り、交易を行い、縄文時代の日本列島までやって来たのではないでしょうか。
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by enki-eden | 2017-03-22 00:31

伊和志津神社(いわしづじんじゃ、伊和志豆神社、宝塚市)

兵庫県宝塚市伊孑志(いそし)1丁目4-3  電0797-72-3265
無料駐車場あります。
祭神 須佐之男命(和歌の祖神、厄除けの神、縁結びの神、開発の神)

延喜式内官幣大社、摂津国武庫郡伊孑志村に鎮座。宝塚の総鎮守。
神紋は素戔嗚の木瓜紋、境内の広さは3,000坪で宝塚市保存樹林になっている。
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 武庫川が流れる伊孑志周辺は、大和朝廷と結びついていた伊蘇志臣(いそしのおみ)が8世紀後半から本拠地とし、当社を創建。伊孑志の地名にもなった。創建時の祭神は伊蘇志臣の祖・天道根命であったかもしれない。

 新撰姓氏禄によると、「大和国 神別 天孫 伊蘇志臣 滋野(しげの)宿禰同祖 天道根命之後也」とあり、天道根命は神魂神の5世の孫で紀伊国造家。川瀬造(かわせのみやつこ)、名草氏、伊蘇氏(伊蘇志)、楢原氏、滋野氏などの祖。
 天道根命は西暦185年頃の饒速日命東遷に従って大和国へやって来た。神武天皇により初代紀伊国造に任じられた。

 天道根命は天日槍命であると云う説があるが、活躍の地域も時代も違います。
 紀氏の伝承によると、素戔嗚命が筑紫紀氏の大矢女命を娶り、五十猛命が生まれたとある。私見ですが、五十猛は160年頃出生、対馬・壱岐・松浦・志摩・伊都・基肆(きい)など九州北西部を治めていた。天道根は伊都国の重臣であったと考えられる。

 素戔嗚は北部九州の西側(長崎県・佐賀県)を五十猛に統治させ、東側(福岡県東部・大分県など)を饒速日に統治させたと考えられる。物部氏の出自地域は遠賀川と筑後川周辺が多く、五十猛の統治地域や奴国(福岡市)には物部氏の出自地域が殆どない。

 日本書紀によると、
 『14代仲哀天皇(320年頃-362年)が穴門(あなと、長門国)から筑紫に入ったとき、筑紫の伊都県主(いとのあがたぬし)の先祖、五十迹手(いとて)がやって来て歓待したので、天皇は五十迹手を誉め、「伊蘇志(いそし)」と云われた。
 人々は五十迹手の国を名付けて伊蘇国(いそのくに)と云った。いま伊都国(いとのくに)というのは訛ったものである。』とある。

 50代桓武天皇の798年(延暦17年)に伊蘇志臣は滋野宿禰を賜った。伊蘇志臣の祖・天道根命は伊都国(福岡県糸島市、旧・怡土郡)出身だと考えられる。紀伊国(和歌山県)にも伊都郡がある。

 伊都国は2世紀以前に既に存在していたので、その国名が4世紀の五十迹手由来というのは後付けです。地名由来ではこの手法がよく使われる。

 先代旧事本紀によると、天道根命は天孫瓊瓊杵の降臨に従って高千穂峰(伊都国)に天下ったとあるので、その後、饒速日命に従って東遷したか。

 西宮市の廣田神社にも摂社・伊和志豆神社がある。2013年5月18日投稿の「廣田神社」をご参照ください。
 
 当社の北東1kmに宝塚大劇場があるので、宝塚歌劇団の男役の方が一人で参拝に来られていました。名前を聞けばよかったと後悔。女性の参拝者も多い。

   鳥居と社号標
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   参道
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   拝殿
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  本殿覆屋、中に本殿(宝塚市指定文化財)が鎮座、拝殿奥に見える。
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  遥拝所(八幡宮、春日大明神、天照皇大神宮、山神社、大将軍社)
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   愛宕社(迦具土神、かぐつちのかみ)、火の守り神。
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 宝塚水天宮(天御中主神、81代安徳天皇)、安産の神、水の神、商売の神。
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 水天宮(すいてんぐう)の総本宮は久留米市瀬下町265-1の「水天宮」になっており、筑後川沿いに鎮座しているが、「筑紫次郎」の筑後川は古名を千歳川(ちとせがわ)と云い、久留米水天宮の鳥居横に「軍艦千歳慰霊碑」がある。
 軍艦千歳は筑後川の古名とって命名され、艦内に水天宮を奉斎する空母であったが、昭和19年10月にフィリッピンのレイテ沖海戦で撃沈した。
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by enki-eden | 2017-03-14 00:19

宝塚神社

兵庫県宝塚市社町(やしろちょう)4-8  電0797-72-6329
無料駐車場あります。
祭神 大山祇神(金運・商売繁盛、安産祈願)
   素戔嗚神(農耕・厄除け・縁結び)

 創立は6世紀後半と伝えられ、同時期に隣接する武庫山平林寺が建立された。
 神社の由緒によると、明治以前は山王権現としていたが、明治の神仏分離により日吉神社と称した。1966年に素戔嗚神社(宝塚市小林、当社の600m東)を合祀し、宝塚神社に改称した。素戔嗚神社の末社・恵比須社(宝塚えびす)も当社の末社として遷された。
 大山祇神については2016年9月5日投稿の「大山祇神」をご参照下さい。

     楽しいご朱印(えべっさんが鯛を釣り上げました)
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 標高58mの境内から宝塚の街並みが見える。
 夏至の頃の日の出は大阪と奈良の境にある生駒山(642m)から昇る。
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   鳥居の奥に拝殿、神紋は素戔嗚の木瓜紋。
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   本殿、東向き。
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   天満神社(菅原道真公)、学問の神、諸芸守護。
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 恵比須社(蛭子大神)、宝塚えびすは商売繁盛の神。この社殿は清荒神清澄寺の三宝大荒神が祀られていたのを改築の際に旧社殿を譲り受けた。
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   右は八幡社(誉田別神)、厄除けの神、災難除守護、
   左は塞神社(八衢之神、やちまたのかみ)、道の神、交通安全守護。
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   塞神社の左に夫婦和合・子授けの石(男石と女石)。
   元素戔嗚神社の南面三差路に塞の神とこの珍石が奉斎されていた。
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   三社(住吉神社、伊勢神宮、春日神社)
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   右は愛宕社(火迦具土神)、火の神、鎮火守護、
   左は大神社(天照大神)、五穀豊穣守護。
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 私見ですが、天照大神は三柱の神を一柱の神にまとめて祀られていると考えています。先ず、2世紀後半に天の真名井で素戔嗚と誓約をした天照大神(大日霊貴、宇佐の比売大神)、次に238年と243年に魏に朝貢した卑弥呼(親魏倭王)、そして266年に西晋に朝貢し、270年頃に大和国へ東遷した臺與の三柱の神です。
 一柱の神を三柱の神に分けて祀ることがありますが、天照大神は三柱の神を一柱の神にまとめて祀っていると私は考えています。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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by enki-eden | 2017-03-08 00:13

東天神社(ひがしてんじんじゃ、伊丹市)

兵庫県伊丹市昆陽(こや)4丁目1  電072-781-3577
車は境内に停められます。

祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと)。
   猪名野(いなの)総社、息災延命長寿のご神徳。

 8世紀前半に行基法師(668年-749年)が昆陽池と周辺を開拓した時に事業達成の祈願所として創建。行基は各地で溜池や水路造りを指導した。昆陽池は伊丹空港(大阪国際空港)から飛び立つ飛行機からよく見える。
 当社は昆陽村の東の氏神、西の氏神は西天神社(伊丹市昆陽北1-5-21)で同じ祭神を祀る。
   ご朱印、神紋は「立ち葵」
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 伊丹市の北方の山間部に、兵庫県川辺郡(かわべぐん)猪名川町(いながわちょう)がある。猪名川町には1973年に閉山した多田銀銅山があり、埋蔵量は全国一と云われたほどであった。2015年に多田銀銅山遺跡が国の史跡に指定されている。
 猪名川町から猪名川が南方に流れ、川西市、伊丹市、尼崎市に至り、神崎川に合流している。途中、伊丹空港(大阪国際空港)の西側を流れている。空港の地下には弥生遺跡の岩屋遺跡、勝部遺跡などがある。
 猪名川流域の台地は猪名野と呼ばれ、伊丹市、宝塚市、池田市、尼崎市にまたがる。

 イナは鉄の古語だから猪名川町は踏鞴製鉄が盛んだったと考えられる。テツ、タタラ、サヒ、サビ、サナ、シナなど鉄を表す古語は多い。
 稲佐山(いなさやま)、犀川(さひかわ)、信濃(しなの)、更級(さらしな)などは踏鞴製鉄と関係あるでしょう。
 播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、素戔嗚の鉄剣・韓鋤(からさび)、稲荷(いなり)も鉄が由来だと考えられる。漢字の稲を使う場合は後代に農業関連に結び付けられることがある。

 吉備国発祥の円筒埴輪は古墳に多く使用されており、その形は踏鞴製鉄に使われた炉(踏鞴)が原形である。吉備国の枕詞は「真金(まがね)吹く」で、吉備は踏鞴製鉄の最も盛んな地域であった。

   鳥居と社号標
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   拝殿、1970年に鉄筋コンクリート銅板葺きで改築された。
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   本殿は覆屋の中に鎮座。
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   拝殿右脇に、少名彦神社、戎神社、諏訪神社、金刀比羅神社。
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  拝殿左脇に、八幡神社、皇大神社、愛宕神社、春日神社。
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   境内奥に稲荷神社
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   庚申(こうしん、青面金剛)、右側。
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 当社と同じく伊弉諾尊を祀る伊弉諾神宮については、2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。
 倭王の伊弉諾尊は西暦180年代の倭国乱(北部九州)により失脚し、淡路島(淡路市多賀)に隠遁して宮に住み、185年か190年頃に亡くなった。伊弉諾尊の神陵の上に伊弉諾神宮の本殿が建てられた。
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by enki-eden | 2017-03-02 00:27