古代史探訪

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河内國魂神社(かわちのくにたまじんじゃ、神戸市)

兵庫県神戸市灘区国玉通3丁目6-5  078-861-0587  駐車場なし。
摂津国莵原郡(うばらぐん)鎮座
祭神 大己貴命、少彦名命(国土経営、民生安定、医薬、酒造、縁結びの神様)、
   菅原道真公(学問の神様)。

 当社は菅原道真(845年-903年)の没後、霊を勧請合祀して五毛天神と称した。

 古地名「五毛」は胡麻生(ごまう)の当て字として使われていたが、当地は水田がなく胡麻を栽培していたので胡麻生と云った。その地名由来で当社は五毛天神とも呼ばれる。
 また、当地は摩耶山(702m)の麓の傾斜地にあり、女人守護・女人高野と云われる摩耶山天上寺の寺領として胡麻を絞って灯火用油を作っていた。
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 祭神の大己貴命は大国主命と同神と考えられる。大己貴命は西暦160年頃に出雲国で出生、素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の末娘・須世理姫と結婚、素戔嗚尊が亡くなると大己貴命は素戔嗚尊の後継者となるが、高皇産霊尊に北部九州の出雲族支配地(葦原瑞穂国、葦原中国)を奪われ、高皇産霊尊の娘・三穂津姫と結婚して出雲国に戻る。

 大己貴命(大国主命)は八上姫、沼河姫、神屋楯姫、田心姫など多くの女性と結婚、181人の子ができたので、縁結びの神として信仰されている。
 また、大国主命は少彦名命と力を合わせて国土開発・病気治療を進めたが220年頃に亡くなる。

 河内国魂神社は河内国・和泉国・摂津国に勢力を有していた国造の凡河内氏(おおしこうちし)が奉斎していたが、当社の祭神は大己貴命と少彦名命で、凡河内氏祖神の天津彦根神や天御影命ではない。
 天津彦根命は素戔嗚尊と天照大神の誓約(うけい)により生まれた男神5柱のうちの1柱で、子の天御影命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って大和にやってきた。
   天津彦根命――天御影命――意富伊我都命――彦己曽根命(凡河内国造)
 凡河内氏は大和朝廷の港湾管理や海外との外交を担っていた。
 28代宣化天皇(6世紀前半)の妃に大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)があり、火焔皇子(ほのおのみこ)を生んだ。椎田君(しいだのきみ)の先祖となり、尼崎・伊丹地方を治めた。

 当社の創建時には摂津国造の凡河内忌寸(いみき)の祖・天御影命を祀っていたとも云われる。また、18世紀に奉行所から社名を五毛天神から河内國魂神社に代えるように強制されたと云う説もある。
 当社の東2.6kmの綱敷天満神社が河内国魂神社だと云う説もある。2014年10月12日投稿の「綱敷天満神社」をご参照ください。

   石の鳥居と社号標
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   手水舎の青銅唐獅子が面白い。
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   拝殿
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   奥に本殿
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   遥拝所、東の伊勢神宮に向いている。
   東隣りは曹洞宗の海蔵寺で五毛天神の神宮寺であった。
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 本殿左に厳島大神(市杵島姫命)と箕岡大神(みのおかおおかみ、伊弉冊命)が明治の終わり頃に当社へ移転・合祀された。
 手前は菅原道真公ゆかりの牛の石像。
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 本殿右に荒川稲荷神社、
 もとは箕岡神社(みのおかじんじゃ)の末社であったが箕岡大神と共に当社へ移転・合祀された。
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by enki-eden | 2017-04-26 00:46

肥前国風土記

 神八井耳(神武天皇の子)の子孫の志貴多奈彦(しきたなひこ)の子・遅男江(ちおえ)が10代崇神天皇に火国造(熊本県中部)に任じられた。
 健磐龍命(たけいわたつ、熊本県阿蘇市の阿蘇神社の祭神)を火国造の祖とする説もある。阿蘇神社では健磐龍を神八井耳の子としており、健磐龍は阿蘇国造の祖と考えられる。
 阿蘇神社(肥後国一宮、阿蘇治隆宮司)は2016年4月に頻発した熊本地震の横揺れで楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。現在復旧工事を進めており、奉賛(募金)も募っている。

 志賀剛著「神名の語源辞典」によると、「阿蘇」の地名由来は「麻」で、「宇佐」の地名由来も「麻」となっている。
 古事記には火の国を筑紫島の四面の一つ、建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)としている。

 火の国の由来
 肥前国風土記と肥後国風土記逸文によると、益城郡(ましきぐん)の土蜘蛛(つちくも)が天皇に背いたので、10代崇神天皇が健緒組命(たけおくみのみこと)に討たせた。
 その後、健緒組が国内巡察して白髪山(しらかみやま、1,244m、球磨郡五木村)に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告した。天皇は「火の下る国であるから火の国というべし」と云われ、健緒組に「火の君」の姓を賜った。
 健緒組は佐賀県武雄市の武雄神社(祭神:武内宿禰、武雄心命ほか)と繋がりがあるようだ。武雄神社の本来の祭神は健緒組命であったとも云うが、健緒組命は武雄心命(武内宿禰の父)であるとも云う。健緒組は年代的には武雄心の父の家主忍男かもしれない。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 日本書紀によると、12代景行天皇が5月、葦北(あしきた、熊本県葦北郡)より船出して日暮れになった。その時、遠方に火の光を見つけて着岸した。そこは八代県の豊村であった。火の光の主を問うと、主は不明で人の火ではなかったので、その国の名を火の国と名付けた。
 肥後国風土記逸文にもこれに似た記事が載っている。

 火の国の地名由来としては阿蘇山(1,592m)の噴火、八代海の不知火(しらぬい、蜃気楼)、氷川町氷川(火川)、火打ち石の産地などの説もある。現代でも観測される隕石の火球かもしれない。
 また、八代郡肥伊郷(八代郡氷川流域)に古代の多氏の流れを汲む火君(ひのきみ)と呼ばれる有力豪族がいたことに由来するとも。

 私見ですが、火(肥)国の語源は羋(び)の国かもしれないと考えています。中国における春秋戦国時代の楚の国姓は羋(び)で、王の氏は熊(ゆう)です。紀元前221年に秦始皇帝が全国を統一、紀元前206年に秦が滅亡、楚は漢と覇権を争って楚漢戦争(項羽と劉邦、BC206年-BC202年)に敗れ滅亡。楚人の一部が列島に逃れた。
 私は逃れて来た楚人の羋国が火(肥)国になったのではないかと考えています。王の氏・熊(ゆう)が由来となって熊本、隈本、球磨川などの地名が発生したのでは? 
 肥後国は14世紀頃から「隈本(くまもと)」と呼ばれていたが、1607年に加藤清正が築城の際、「熊本」に変えた。
 3世紀には狗奴国として魏志倭人伝に記され、有明海の制海権や領土紛争などで邪馬台国と争った。狗奴国は魏ではなく呉と交易していたと考えられる。
 私は吉備国の「キ」は呉の姫(き)で、「び」は楚の羋(び)で両者合わせて「きび」になったとも考えています。有明海地方と吉備地方はどちらも楚人のDNAが多く認められます。

 人吉市や山鹿市の横穴式墳墓は揚子江(長江)沿いの江南人の墳墓に同じ。装飾文様にも特色がある。
 紀元前の江南地方の墓制に石棚墓があり、下には甕棺が埋葬されている。この石棚墓は江南人(倭人)により縄文時代末期から弥生時代前期にかけて九州北西部に伝わり、支石墓(しせきぼ、ドルメン)と呼ばれている。
 朝鮮半島にはテーブル式支石墓が遼東半島から伝わり、支石墓が爆発的に造られた。渡来経路は遼東半島からなので北部から南部へ広がっていった。朝鮮半島南西部は北部と違って支石の低い南方式(碁盤式)支石墓と呼ばれ九州と似た形になっている。
 2,500年ほど前から波状的に江南人(倭人)が北部九州にやって来たが、朝鮮半島南部海岸地域にもやって来て小国家群を建てた。


 肥の国はやがて、現在の佐賀県・長崎県(壱岐、対馬を除く)の地域をも含むようになるが、41代持統天皇の7世紀終わりごろに肥前国(佐賀県、長崎県)と肥後国(熊本県)に分けられた。
 肥前国府は佐賀郡大和町(現・佐賀市大和町)に置かれたが、肥前国庁跡の史跡公園として整備されている。肥前国庁跡の11km東には吉野ケ里遺跡があり、周辺地域は弥生時代からの中心地であった。
   赤のアイコンが肥前国庁跡の史跡公園


 肥前国一宮は佐賀市大和町の與止日女神社(よどひめじんじゃ、祭神は與止日女命)と三養基郡みやき町の千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう、祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)で、両社の鳥居はどっしりとした肥前鳥居である。千栗を「ちりく」と読む。

 肥前国風土記の基肄郡(きいぐん、佐賀県鳥栖市)の姫社郷(ひめこそのさと、鳥栖市姫方町)条には、山道川(やまぢがわ、現・山下川)の西に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺していた。筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ)が幡を投げて占うと、幡が筑後国御原郡(福岡県小郡市大崎)の姫社(ひめこそ)の社(媛社神社、通称七夕神社、祭神は媛社神と織姫神)に落ちて、祀りを求める神の居場所を示してから、また山道川に戻った。媛社神(岩舟大明神)は饒速日命の別名と云われる。
 珂是古はその夜、夢で神が女神であることを知り、社を建てて祀ったので人が殺されることがなくなった。
 鳥栖市姫方町には姫古曽神社(祭神は市杵島姫命、織女神)が鎮座。姫古曽神社の東3kmに七夕神社が鎮座。この繋がりから、饒速日と市杵島姫は夫婦ではないかと云う説がある。
 山下川沿いに姫古曽神社の北1.5kmには景行天皇が鎧を奉納した永世神社(ながよじんじゃ)が鎮座している。
 基肄の地名は魏志倭人伝記載の支惟(きい)国ではないでしょうか。

 肥前国風土記によると、神埼郡の三根村を本拠地とする海部直鳥が神埼郡を割いて三根郡を分立した。海部直鳥は筑後川から有明海の制海権・交易権と漁業権を統率していたと考えられる。
 三根郡物部郷(佐賀県三養基郡みやき町)には物部神社(経津主神)が鎮座。地名の三根は魏志倭人伝記載の弥奴国かもしれない。

 肥前国風土記は神埼郡の郡名起源として、景行天皇が荒ぶる神を鎮めたので神埼の郡と云う。神埼市神埼町神埼に鎮座の櫛田宮の略記には、『当地方に荒神があって人を害したが、景行天皇が櫛田宮を創建されてから人民は幸せになったので、神幸郡と名付けた。
 蒙古襲来の時は、本宮の神剣を博多櫛田神社に奉還して異族退散を祈り霊験あらたかであったので、厄除け開運の神と崇敬されるようになった。』とある。
 鳥居はどっしりとした肥前鳥居です。

 肥前国風土記の松浦郡褶振峯(ひれふりのみね)条には、28代宣化天皇の時代(537年)に大伴狭手彦連(大伴金村大連の三男)が船で任那へ向かった時、妻(地元豪族の娘)の弟日姫子(おとひひめこ)が褶振峯(鏡山、佐賀県唐津市、284m)に登り、褶を振って狭手彦の魂を呼んだことからその名が付いたと云う。
 この地名起源譚は万葉集に松浦佐用姫(さよひめ)の伝説として歌われている。
  松浦潟 佐用姫の児が 領巾(ひれ)振りし 山の名のみや 聞きつつ居らむ
                          5-868 山上憶良

 鏡山(褶振峯)に松浦佐用姫の黒い陶製像があるが、像の人気はもうひとつである。唐津市呼子町加部島(よぶこちょうかべしま)の天童岳(112m)にも唐津焼の佐用姫像があり、唐津市厳木町(きゅうらぎまち)の道の駅厳木(きゅうらぎ)にも白い大きな佐用姫像があって、像は回転するようになっている。
 加部島には田島神社が鎮座、祭神は宗像大社と同じ田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊。境内に佐與姫神社(祭神は佐用姫命)が鎮座。
 田島神社の鳥居の中に最古の肥前鳥居があり、肥前守源頼光(944年-1021年)が990年頃に寄進したので頼光鳥居とも云う。これが肥前鳥居の始まりか。

 江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田、国の史跡)
 5世紀末頃(21代雄略天皇の時代)に築造された全長62mの前方後円墳で、75文字の銀象嵌銘大刀や銅鏡など豊富な副葬品(国宝)が出土した。有明海に注ぐ菊池川沿いの古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置され、八女市の岩戸山古墳と同様の形式になっている。
 被葬者は筑紫君一族の配下にあった首長だと考えられており、5世紀後半、6世紀初め、6世紀前半の3名以上(ムリテほか)が埋葬されたと考えられている。従って副葬品が非常に多い。
 

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by enki-eden | 2017-04-19 00:26

肥後国風土記逸文

 肥後国名の由来について13世紀後半完成の釈日本紀に、
 『肥後国風土記に曰く、肥後国は元、肥前国と合わせて一つの国であった。10代崇神天皇の時代に、益城郡(ましきぐん)の朝来名(あさくな)の峰(朝来山、あさこやま、465m)に打猿(うちさる)と頸猿(うなさる)と云う名の二人の土蜘蛛がいた。
 180人ほどの部下を率いて朝来名峰を拠点とし、朝廷に逆らって征伐できない。天皇の勅を受けて肥君の祖である健緒組(たけおくみ)命が賊を誅殺した。
 健緒組が国を巡察し、八代郡の白髭山に来ると日が暮れたので宿泊した。その夜、大空に火が出た。その火は自ら燃え、徐々に下って白髭山に落ちて消えた。健緒組は大いに驚き、事の次第を天皇に報告した。天皇は火の下りし国なれば、火の国と名づくべしと言われた。
 また、12代景行天皇が熊襲を誅殺された後、巡幸されたが海上で日が暮れてしまった。すると行く先に火の光が見え、その方向に舵を取ると岸に着くことができた。天皇は火の燃えるところはどこで、如何なる火なのかと聞かれた。土地の人が、ここは火の国八代郡の火の村ですと答えたが、何の火かは分からないと云った。
 天皇は、燃える火は人の火ではない、この火が火の国の地名由来だと分かったと言われた。』とある。

 私見ですが、魏志倭人伝記載の狗奴国は肥後国(熊本県)と考えています。女王国の南に狗奴国があり、女王国に属せず常に争っていた。首長は狗古智卑狗(菊池彦)で、菊池川が熊本県菊池市から玉名市に流れて有明海に注ぐ周辺地の出身か。



 肥後国の郡名は、玉名郡、飽田郡(あきたぐん)、山鹿郡(やまがぐん)、菊池郡、阿蘇郡、合志郡(ごうしぐん)、山本郡、託麻郡(たくまぐん)、益城郡、宇土郡、八代郡、葦北郡、球磨郡、天草郡。
 肥後国の中心地域は託麻郡と飽田郡(現在の熊本市)で国府や国分寺が置かれた。

 健緒組は熊本市東区健軍本町(けんぐんほんまち)の健軍神社(けんぐんじんじゃ)と繋がりがある。祭神は健軍大神(健緒組命)、健磐龍命(阿蘇山の神)。
 社殿は西向きで、神水(くわみず)1丁目交差点に石の鳥居があり、東へ550m行くと健軍交差点に加藤清正公銅像が目に付く。信号を渡ると「健軍神社参道」の標識があり、神社の神門まで750mもある。参道は一般道を兼ねているが参道の両側には灯篭が連なっている。神門前にも鳥居があるが、珍しい形で高さが低く幅が広い。
 地元では健軍神社を「たけみやさん」と呼ぶらしい。「たけみや」を昭和以降に「けんぐん」と音読みするようになった。

 釈日本紀は阿蘇山(閼宗岳、あそのたけ)について、「筑紫国風土記に曰く、肥後(ひのみちのしり)の国閼宗(あそ、阿蘇)の縣。縣の西南方向二十余里に禿山があり、閼宗の岳と云う。
 山頂に沼があり、時々水が満ち、南から溢れ出て白川に流れ込むと魚が死んでしまう。地元では苦水と云う。山の形はそびえ立って天に届き、諸々の川の源となり、徳は大きく高く真に人のようだ。奇しき形は天下に二つ無し。国の中心にあるので中岳と云う。いわゆる閼宗の神宮(かむつみや)、是なり。」とある。

 阿蘇文書に、「肥後国風土記に曰く、12代景行天皇が玉名郡の長渚の濱を出発し、阿蘇郡に行幸し、周囲を眺めたが原野が広いだけで人家が見当たらない。この国に人は居るのかと言われた。
 すると二柱の神が現れ、我らは阿蘇都彦と阿蘇都姫、我らが住んでますよと云って消えた。神名により当地を阿蘇郡と名付けた。二柱の神の社は阿蘇郡の東に鎮座している。」

 阿蘇宮由来記によれば、神武天皇の皇子・神八井耳命の子である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇に封じられ、阿蘇都彦と称して阿蘇に土着。その子・速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が阿蘇国造に任ぜられ阿蘇氏の姓を賜った。
 阿蘇氏は阿蘇国造や阿蘇郡司として当地を支配し、阿蘇神社の宮司を兼ねた。現在も大宮司は阿蘇氏である。
 阿蘇神社は熊本県阿蘇市一の宮町(阿蘇山北麓)に鎮座、肥後国一宮で祭神は健磐龍命(阿蘇都彦)と阿蘇都比咩命。全国に450社ある阿蘇神社の総本社となっている。
 残念ですが、阿蘇神社は2016年4月の熊本地震で楼門が倒壊、拝殿が全壊、神殿が損壊した。

 阿蘇山は火の国熊本のシンボルで、高岳(1,592m)を最高峰に、根子岳(1,433m)、中岳(1,506m、火口が有名)、烏帽子岳(1,337m)、杵島岳(1,321m)の阿蘇五岳とこれを取り囲む外輪山からなっている。
 阿蘇山から熊本市中心部へは白川と緑川が流れて有明海に注ぐ。

 阿蘇山は過去30万年の間に4度の大噴火を起こしている。その度に火砕流堆積物が積り、火山灰や軽石などが堆積した。阿蘇山に降った雨が地中の分厚い火砕流堆積物を通って36km西の熊本市中心部に湧水として湧き出てくる。
 このため、熊本市では水に関する地名が多い。熊本市中央区「神水(くわみず)」は健軍神社の西に在り、神水泉と称する湧水があったことによる。
 熊本市は地下水が豊富で水道水の全て(1日に22万㎥)を地下水で賄っている。健軍神社の南方には熊本市東区「水源」がある。水源1丁目1-1に健軍水源地があり、地下水で熊本市の使用量の四分の一を賄っている。
 このように阿蘇山の傾斜が熊本市中心部の平地にぶつかった所で湧水が発生し、井戸を掘ると豊富な地下水が湧いてくる。
 熊本地震で被害を受けた南阿蘇村でも湧き水が豊富で、断水した時の生活を支えている。しかし被災地では温泉の源泉が枯れたり、湧き水の名所で水が出なくなったりする異変が生じている。大きな地震が何度も相次いだことで地下水の流れに変化が起きた。水の名所として有名な「水前寺成趣園」(熊本市中央区)も一時、池の大部分が干上がった。

 熊本市は「森の都」とも云いますが「水の都」です。大阪市も水の都と云われますが、地下水ではなく川や運河による水運です。

 日本書紀に景行天皇が葦北の小島(八代市の球磨川河口)で休息して食事の時、水が無かったので小左と云う者が神に祈ったところ冷水が湧き出たので天皇に献上した。それでこの島を水嶋と呼ぶようになったとある。
 万葉集に水島を詠っているものが数首ある。
    聞きしごと まこと尊く 奇しくも 神さびをるか これの水嶋
           巻3-245 長田王(おさだのおおきみ、737年没)


 肥後葦北国造の三井根子命(みいねこのみこと)の子に刑部靱負阿利斯登(おさかべのゆけひありしと)がおり、出雲国神門郡高岸郷(出雲市塩冶町)には式内社の阿利神社が鎮座し、味耜高彦根命が祀られている。
 葦北国造は出雲系と考えられる。西暦200年頃の出雲国譲りから150年ほど経った12代景行天皇や13代成務天皇の時代になると出雲系の国造が増えてくる。
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by enki-eden | 2017-04-14 00:25

豊後国風土記

 豊国(とよのくに)は福岡県東部から大分県にまたがる。42代文武天皇の時(西暦700年前後)に豊国は豊前国(ぶぜんのくに)と豊後国(ぶんごのくに)に分けられた。



 豊後国風土記は、720年に完成した日本書紀を参考にしながら豊後の国司が地元の伝承を修正して記したと云う。
 現存する風土記の写本は出雲国風土記がほぼ完本、一部欠損するが残っているのは播磨国風土記、豊後国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記である。他の風土記については後世の書物による風土記逸文により部分的に内容を知ることができる場合がある。

 天平年間に災害や天然痘が多発し、741年(天平13年)に45代聖武天皇(701年-756年)が仏教による国家鎮護のため、「国分寺(国分僧寺と国分尼寺)建立の詔」を出したが、国司によっては国分寺造営に熱心ではなかった。しかし、豊後の国司は忠実に大規模な寺院を建立した。
 聖武天皇は743年には東大寺盧舎那仏建立の詔を出している。

 12代景行天皇(285年頃-350年頃、纏向の日代宮)は菟名手(うなで)に豊国直(とよくにのあたい)の姓(かばね)を与えて豊国を治めさせた。菟名手は国前(くにさき)氏・豊国氏の祖。
 菟名手は7代孝霊天皇(240年頃-286年頃)の皇子・吉備津彦の子孫であると云われ、吉備津彦の母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)、別名は紐某姉(はえいろね)である。

 豊後国風土記によると、菟名手が「仲津郡に白鳥が飛来し、まず餅に化し、次に芋草に化して茂った」と景行天皇に報告し、芋を献上したので、「天の瑞物、土の豊草なり」と喜び、この地を豊国と名付けたと云う。

 豊後国府が置かれたのは大分郡(大分市古国府、ふるごう)でJR大分駅の1.3km南とされるが遺跡は見つかっていない。
 その後、国府は大分駅の1km北の府内(大分市荷揚町)に移り、戦国時代末には府内城(大分城)が築かれた。
   赤のアイコンが古国府(ふるごう)、黄が府内。


 豊後国は現在の大分県で、豊後国一宮は大分市寒田(そうだ)の西寒多神社(ささむたじんじゃ)と大分市上八幡(かみやはた)の柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)の二社となっている。
 西寒多神社の祭神は西寒多大神(天照皇大御神)、月読尊、天忍穂耳尊。配祀は応神天皇、神功皇后、武内宿禰ほか。
 柞原八幡宮の祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后で宇佐八幡宮の別宮と云われる。

 豊前国府は仲津郡(福岡県京都郡、みやこぐん)にあった。
 豊前国の総社は惣社八幡神社(福岡県京都郡みやこ町)、
 一宮は宇佐神宮(大分県宇佐市、八幡総本宮)。
   赤のアイコンが豊前国府跡公園と惣社八幡神社


 古事記の国生みによると、豊国は筑紫島(九州)の4面の一つ、豊日別(とよひわけ)と云う。
 豊後国は8郡44郷があり、日田郡(日高郡)、球珠郡(玖珠郡)、直入郡(なおいりぐん)、大野郡、海部郡(あまべぐん)、大分郡、速見郡(はやみぐん)、国埼郡(くにさきぐん、国東郡)である。

 日本書紀によると、13代成務天皇(311年頃-355年頃)は天下を安定させるために国郡(くにこおり)に長(おさ)を置き、県邑(あがたむら)に首(おびと・かみ)を置いた。
 先代旧事本紀の国造本紀によると、成務朝の御代に伊甚国造(いじみのくにのみやつこ、上総国・千葉県)と同祖の宇那足尼(うなのすくね)を豊国造(とよのくにのみやつこ)に任じたとある。
 出雲郡建部郷(松江市宍道町伊志見)に伊甚神社(いじむじんじゃ、伊自美社)があり、伊甚国造一族の斎祀る神社である。祭神は大年神、倉稲魂命、武御名方命(たけみなかたのみこと)。
 宇佐市安心院町(あじむまち)の「あじむ」の地名由来は、「葦生(あじぶ)」であるとか、松本清張説や地元伝承によると「安曇(あづみ)」であるとの説があるが、「伊甚(いじむ)」が由来かもしれない。

 また、宇那足尼と菟名手は同一人物と云う説もあり、同一人物であれば12代景行天皇からは豊国直の姓を賜り、13代成務天皇からは豊国造に任じられたことになる。
 私見ですが、2世紀前半の尾張氏・海部氏・和珥氏などの海人族の本拠地は豊国(魏志倭人伝の投馬国)であったと考えています。これらの海人族はここから全国に拡大していった。
 尾張氏・海部氏の祖・彦火明命(140年頃出生)の6世孫の建田背命(たけたせのみこと、230年頃出生)は孝霊天皇に仕え、別名は大宇那比命・高天彦で、弟に建宇那比命、妹に宇那比姫命がいる。
 成務天皇が豊国造に任じた宇那足尼(うなのすくね)は建田背命より80年ほど後の人であるが、海人族の豊国と「宇那」のつながりで見ると、宇那足尼・菟名手は尾張氏・海部氏ではないかと考えています。

 豊後国は山に囲まれているが東側は豊後水道に面し伊予国とつながり、北は周防灘を挟んで周防国に近い。そして瀬戸内海を東進すると大和朝廷に結び付く。

豊後国の郡
 日田郡は主として日田市で、12代景行天皇が日田郡を巡幸した時に、久津媛(ひさつひめ)の神が人と化して迎えたので久津媛国と名付けたのが日田国と訛った。
 日田郡の五馬山(いつまやま)に土蜘蛛の五馬媛(いつまひめ)がいた。五馬媛は玉来神社(たまらいじんじゃ)に祀られており、境内に墳墓(元宮神社)もある。
 日田は北部九州を治めるためには軍事的に重要な位置にあるので、大和朝廷は早くからこの地を重要視した。

 玖珠郡には大きな樟(くす)の木があったので名付けられた。

 直入郡(なおりのこおり、なおいりぐん)は竹田市の大部分で、阿蘇山の東の山間部にあり、反逆する土蜘蛛が住んでいたので景行天皇が土蜘蛛退治に出かけた。
 速見郡の速見媛から土蜘蛛情報を得て、椿の槌で土蜘蛛を殺した。凄惨な戦いであった。

 大野郡は豊後大野市で、大部分が原野であったので名付けられた。

 海部郡(あまのこおり、あまべぐん)は大分県の東南部にある海沿いの郡で海人族が多く住んでいた。中心は穂門郷(ほとのさと)で向かいに保戸島があり、豊後海人族の本拠地である。豊後水道に位置し、航行・軍事上の重要な拠点であった。塩土老翁(しおつちのおじ、事勝国勝長狭神)の故郷か。

 先代旧事本紀の天孫本紀・尾張氏系譜によれば、彦火明命(140年頃出生)の6世孫の建田背命(たけたせのみこと、西暦230年頃出生)は神服連(かむはとりのむらじ)・海部直(あまべのあたい)・丹波国造・但馬国造らの祖であると記す。
 建田背命の弟の建弥阿久良命(たけみあくらのみこと)は高屋大分国造(たかやおおきたのくにのみやつこ)らの祖であると記す。

 大分郡(おおいたのこおり)は大分市と由布市の大部分と別府市の一部で、景行天皇が巡幸した際に、土地が広く大きいので碩田国(おおきたのくに)と名付けたのが訛った。

 速見郡(はやみのこおり)には別府温泉があり、景行天皇が到着すると速見郡の女王・速津媛(はやつひめ)が出迎え忠誠を示す。それで速見と名付けた。
 大分県由布市では宇奈岐日女神(うなきひめのかみ)が湯布院盆地を開拓し、宇奈岐日女神社に祀られていたが、現在の祭神は男神6柱に替わっている。
 別府湾岸部の海人族は大和朝廷と早くから提携して交易を進め、富を蓄え古墳が多く、前方後円墳もある。

 国埼郡は国東半島である。景行天皇が海路で巡幸した際に、「国の埼である」と云ったので名付けられた。元禄時代に国埼郡は豊後国の東部にあるので国東郡の字があてられた。
 畿内政権との結びつきを示す最も古い古墳は国東市安岐町の下原(しもばる)古墳で、3世紀後半の纏向型前方後円墳(全長約30m)である。
 古墳時代になると杵築市狩宿(きつきし かりしゅく)に全長116mの前方後円墳・小熊山古墳が4世紀初頭に築造される。
 国東郡が瀬戸内海西端に位置しているので、古墳時代前期には大和朝廷との連携が最も深かった。しかし、4世紀後半から5世紀にかけて海部郡の佐賀関半島に中心が移り、築山古墳(つきやまこふん、全長90mの前方後円墳)、亀塚古墳(全長120mの前方後円墳、大分県最大)が築造されることになる。
 亀塚古墳の被葬者は海部王(あまべのきみ)とされ、丹生川沿いの亀塚古墳公園として整備され、海部古墳資料館も建設された。
 古墳時代中期末になると中心は豊前国(京都郡)に移るが、古墳時代後期には速見郡の別府湾岸部が中心となる。

 景行天皇が周防国娑婆(さば、山口県防府市)に居留していた時、対岸の国東半島・伊美(国東半島の北端、国東市国見町伊美)を毎日見ていた。一度伊美へ行ってみたいと思い、わざわざやって来た。そして国見をすると素晴らしい国であったので、遠隔地の国をやっと見ることができたと感動した。
 伊美郷の地名由来は景行天皇の「国見」が訛って「伊美」となったと云う。天皇に見出された国として豊後の国は位置づけられた。
 伊美の郷のある国埼郡は国前臣(くにさきのおみ)の本拠地である。国前臣の祖は菟名手であるが、先代旧事本紀・国造本紀によると、国前国造は13代成務天皇の時に吉備臣と同祖である吉備都命の6世孫の午佐自命(うまさじのみこと)を国造に定められたとある。
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by enki-eden | 2017-04-06 00:07