古代史探訪

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Y染色体ハプログループ

 女性の性染色体はXXで、男性はXYになっている。
 男性のY染色体は父親から息子に引き継がれ、Y染色体ハプログループは次の図のように分類されている。
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 Aはアフリカ系。分岐した全てのグループはAに遡るので人類の起源はアフリカになる。
 Bはアフリカのピグミーに多い。

 日本人のY染色体ハプログループはD、O、Cが中心。Y染色体ハプログループの分類が2015年11月に改訂された。私が過去に投稿したDNA関連の記事は旧分類で表示しています。

 DとEはDEから分岐した。
 D1a(旧・D1)はチベット人。アイヌ人・沖縄人と近いハプログループであるが、外見は違う。
 D1b(旧・D2)は日本人(中でも縄文人、アイヌ人、沖縄人は日本人平均より比率が高い)。
 彫りの深い顔、濃いひげ、二重まぶたの特徴で日本固有の系統。
 北海道と沖縄は稲作に適していないので、江南人(倭人)が定着せず縄文系が残った。
 日本人男性のハプログループの40%ほどを占める。
 D*はインドのアンダマン諸島で、D1aにもD1bにも属さない。一見すると黒人と変わらないので、出アフリカ時のままの外見を保っている。

 Eはアフリカに多い。
 Eの中でもE1b1bはエジプト、チュニジア、ユダヤ人、アラブ人、南欧人など地中海沿岸地域に存在する。
 日本のD1b(縄文系)はEに近い。ユダヤ人とは文化的・言語的に共通点が多い。古代のシュメール人もEかF(ドラヴィダ人)だったと考えられる。

 Cは北方(遊牧民)からサハリン経由で日本列島にやって来て、日本人男性のハプログループの5%ほどを占める。C1a1(日本固有)、C2a(日本固有)、C2cが日本に存在する。
 C2bはシベリア、北東アジア、北米先住民に多い。モンゴル人に53%、韓国人に13%。
 C1b2はオセアニア地域先住民に多い。Cは北と南に分かれている。

 Oは東アジア系で、日本人男性のハプログループの52%ほどを占める。
 Oの日本での内訳は、
 O1b2(旧・O2b1a)が江南人(倭人、揚子江)の呉系で、日本全体の33%ほどを占める。紀元前473年に呉は越に敗れ、北方(徐州)に逃亡した。朝鮮半島南部や中国北東部にも逃亡・定住した。

 O1b1(旧・O2a)が江南人の越系で、日本の1%ほどを占める。越は紀元前334年に楚に敗れ、ベトナム(越南)、マレーシア、バリ島、ボルネオ島、ジャワ島などに逃亡した。日本にも僅かにやって来た。越系は中国にも15%の比率で存在する。

 O1a(旧・O1)が江南人の楚系で、日本の3%ほどを占める。楚漢戦争で楚は紀元前202年に漢に敗れたが中国に残り、中国人には10%ほどの比率で存在する。一部は台湾・フィリピンに逃亡、日本にも少数が逃亡・定住した。

 O2(旧・O3)が黄河系で、日本の15%ほどを占める。中国に55%、朝鮮半島に44%、マレーシア、タイ、チベット、ベトナムなど東南アジアにも多い。

 O系統は縄文時代から弥生時代にかけて波状的に日本列島にやって来て、縄文人と交わり、弥生人になった。

 Fはドラヴィダ人に多く、南アジアから中央アジアに少し存在する。
 Gはコーカサス地方に多く、ヨーロッパに少し存在する。
 Hはドラヴィダ人に多い。

 Iはバルカン半島、北欧に多い。
 Jは中東に多い。
 Kはパプアニューギニアに多く、周辺地域にも少し存在する。
 Lはインド、パキスタンに多い。Kから分岐した。
 Tはインド、中東、東北アフリカに多く、Kから分岐した。
 MとSはパプアニューギニアに多い。
 Nは北欧からユーラシア北部に広く分布する。日本にもわずかに存在する。

 Pは東南アジアの島に多い。
 QとRはPから分岐した。Qはアメリカ先住民に多い。
 Rはヨーロッパとインドで、R1aは東欧、インド北部、中央アジアに多い。R1bは西欧に多い。

 出アフリカの時期は7万年前から5万年前と云われるが、14万年前にも気候変動による出アフリカがあったと考えられる。
 人類は出アフリカの後、北ルート、南ルート、西ルートに分かれて分岐拡散していった。アフリカに残ったA、B、Eはアフリカの黒人になった。
 出アフリカをした人類はネアンデルタール人と混血したと考えられる。2015年1月13日投稿の「人類とネアンデルタール人の混血」をご参照ください。
 北ルートに分散したのはアジア系のD、C1a1、C2、N、O、Qに分岐し、
 南ルートに分散したのはオーストラロイドで、C1b2、F、K、Hなどに分岐、
 西ルートに分散したのはヨーロッパ系のC1a2、I、J、G、Rに分岐した。
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by enki-eden | 2017-06-25 00:13

瀬田遺跡の円形周溝墓(奈良県橿原市城殿町)

 瀬田遺跡は橿原市の畝傍山(うねびやま、標高199m)から東へ1kmほどの城殿町(きどのちょう)にある。



 2016年春に瀬田遺跡で、弥生時代の終わり頃(2世紀後半)に築造された円形周溝墓が見つかった。墳丘の南側に周溝を渡るための台形の土手があり、前方後円墳に先行する弥生墳丘墓になっている。
 全長は26m、直径は19mで、墳丘は後世に取り除かれているので高さは分からないが、周溝が残っているので墳丘の形と大きさが分かる。
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 7km北東の桜井市箸中には最初に築造された定型形前方後円墳の箸墓古墳(墳丘長278m、高さ30m、3世紀後半築造)がある。

 定型形前方後円墳より古い弥生墳丘墓である纏向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)がある。纒向石塚古墳、纒向矢塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳で、2世紀後半から3世紀前半に造られた。
 饒速日命が西暦185年頃に北部九州から大部隊を率いて大和に東遷し、纒向を都にした頃である。ホケノ山古墳については2012年12月21日投稿の「ホケノ山古墳」をご参照ください。

 この他、纒向と繋がりが深い全国の豪族も纏向型前方後円墳を造っている。神門古墳群(ごうどこふんぐん)の神門4号・5号墳(千葉県市原市、3世紀中頃築造)、津古生掛古墳(つこしょうがけこふん、福岡県小郡市、3世紀後半築造)などである。
 津古生掛古墳については「ひもろぎ逍遥」の「津古生掛古墳」をご覧ください。

 この纏向型前方後円墳より更に古いのが瀬田遺跡の円形周溝墓で、瀬戸内中部から近畿地方には円形周溝墓が多い。
 瀬田遺跡の円形周溝墓から纒向石塚古墳へ、更に箸墓古墳へと進化していった。

 その瀬田遺跡から全国初の台付き編み籠が出土した。(6月22日の神戸新聞)
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 2016年6月に箱形の台が付いたかごが見つかった。台とかごが一体で見つかったのは初めてで、専門家は、用途を知る上で貴重な発見だとしています。
 見つかったのは細く削ったササで編まれたすり鉢状のかごで、高さ15cm、直径30cmほどのかごで、半分ほどが残っていた。
 かごの底の部分には、「四方転びの箱(しほうころびのはこ)」と呼ばれる、木の板4枚を組み合わせた箱形の台が付いていた。出土した土器などから、弥生時代の終わり(2世紀後半)のものと考えられている。
 「四方転びの箱」と呼ばれる台は、これまで用途が分かっていなかったが、かごと一体で見つかったので、用途を知る上で貴重な発見である。次はイメージ図です。
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 私見ですが、この台とかごが一体になった器は祭祀の時に使うものだと考えています。これが進化して、現在使われている三方(さんぼう、神前に物を供える)になったと考えています。

 また、弥生時代後半の大規模集落遺跡で、弥生人の脳が出土した鳥取県青谷上寺地遺跡では、河川跡から四方転びの箱が出土している。
 青谷上寺地遺跡については、2013年1月20日投稿の「青谷上寺地遺跡展示館と因幡万葉歴史館」をご参照ください。
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by enki-eden | 2017-06-22 17:56

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み

伊邪那岐神・伊邪那美神の国生み
 大八島国
  ①淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけしま、淡路島)
  ②伊予之二名島(いよのふたなしま、四国)
     愛比売(えひめ、伊予の国)
     飯依比古(いいよりひこ、讃岐の国)
     大宜都比売(おおげつひめ、阿波の国)
     建依別(たけよりわけ、土佐の国)
  ③天之忍許呂別(あめのおしころわけ、隠岐の島)
  ④筑紫島(九州)
     白日別(しらひわけ、筑紫の国)
     豊日別(とよひわけ、豊国)
     建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ、肥の国)
     建日別(たけひわけ、熊曾の国)
  ⑤天比登都柱(あめのひとつばしら、壱岐の島)
  ⑥天之狭手依比売(あめのさてよりひめ、対馬)
  ⑦佐渡の島
  ⑧大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)、
    またの名を天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
 建日方別(たけひかたわけ、吉備の児島)
 大野手比売(おおのてひめ、小豆島)
 大多麻流別(おおたまるわけ、大島)
 天一根(あめのひとつね、女島)
 天之忍男(あめのおしを、知訶島)
 天両屋(あめのふたや、両児島)

伊邪那岐神・伊邪那美神の神生み
 大事忍男神(おおことおしをのかみ)、石土毘古神(いわつちひこのかみ)、
 石巣比売(いわすひめ)、大戸日別神(おおとひわけのかみ)、
 天之吹男神(あめのふきをのかみ)、大屋毘古神(おおやひこのかみ)、
 風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、
 速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、
   この二柱の神の生んだ神は、沫那芸神(あわなぎのかみ)、沫那美神(あわなみのかみ)、
   頬那芸神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)、
   天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)、
   天之久比奢母智神(あめのくいざもちのかみ)、
   国之久比奢母智神(くにのくいざもちのかみ)、
 志那都比古神(しなつひこのかみ)、久久能智神(くくのちのかみ)、
 大山津美神(おおやまづみのかみ)、鹿屋野比売神(かやのひめのかみ、野椎神)、
   大山津美と野椎の二柱の神が生んだ神は、天之狭土神(あめのさつちのかみ)、
   国之狭土神、天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神、
   天之闇戸神(あめのくらとのかみ)、国之闇戸神、大戸或子神(おおとまとひこのかみ)、
   大戸或女神(おおとまとひめのかみ)、
 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ、天鳥船)、大宜都比売、
 火之夜芸速男神(ほのやぎはやをのかみ、火之迦具土神)、
 ここで伊弉冉尊は火傷で病になるが、更に神が生まれた。
 金山毘古神(かなやまひこのかみ)、金山毘売神、波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、
 波邇夜須毘売神、弥都波能売神(みつはのめのかみ)、和久産巣日神(わくむすひのかみ)、
 和久産巣日神の子神に豊宇氣毘売神がいる。
 ここで伊邪那美神は火の神を生んだ時の火傷がもとで亡くなり、出雲国と伯耆国の境にある比婆山に葬られた。

伊弉諾神宮
 兵庫県淡路市多賀740    電0799-80-5001
 2013年5月3日投稿の「伊弉諾神宮」をご参照ください。

本殿以下の諸殿群
 明治初年から20年にかけての官費による大造営で、最初に改築(新築)されたのが本殿で、明治9年に竣功した。この本殿の後背には、伊弉諾大神の神陵があり神代から禁足であった。
 明治12年に神陵の墳丘を覆うように二重に基壇を設け、真新しい本殿を神陵の真上に移築した。
 本殿の形式は、三間社流れ造向拝付で、屋根の桧皮葺き(ひわだふき)は前方の幣殿と連結して、一屋根になっている。
 本殿大床下には、神陵に築かれていた数十個の聖なる石が格納されている。明治の大造営では、本殿のほか、拝殿、幣殿、正門、中門、翼廊、渡廊、透塀、正門と祓殿や齋館が整備され、官幣大社としての体裁が整うことになった。

幽宮(かくりのみや)
 日本書紀神代巻に「是以構幽宮於淡路之洲」とあり、神功を果された伊弉諾大神が、御子神の天照皇大御神に国家統治の大業を委譲し、最初に生まれた淡路島に帰還、多賀の地に幽宮を構えて余生を過ごした。
 この地で終焉の時を迎えた伊弉諾大神は、その住居の跡の神陵(現本殿の床下)にお祀りされ、これが最古の神社である伊弉諾神宮の創祀の起源だとされている。

 私見ですが、伊弉諾尊は西暦125年頃に淡路島で出生、160年頃に倭国王兼7代目奴国王に就任した。伊弉諾尊は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の力を借りて各地を統率(国生み)したが、185年頃に素戔嗚尊や伊弉冉尊と争って倭国乱が勃発。
 伊弉諾尊は失脚し淡路島に隠遁、190年頃に淡路島の幽宮で亡くなる。倭国は卑弥呼(179年-247年)が201年に倭国王として就任した。
 素戔嗚尊は200年頃に亡くなり、相続した大国主命(160年頃-220年頃)が後を継いだが、卑弥呼と高皇産霊尊は北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)の国譲りを強制、大国主命は出雲国に隠遁した。
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by enki-eden | 2017-06-19 00:19

政教分離

 有名な本能寺は法華宗本門流大本山で、京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522(京都市役所南)にある。
 1532年(天文元年)、京都で勢力を強めた日蓮宗(法華宗)の信徒(法華衆)により、浄土真宗の本山である山科本願寺が焼き討ちにあって全焼した。翌年の天文2年に本願寺教団は石山本願寺(大坂本願寺)に本山(本寺)を移転した。

 1536年(天文5年)、法華衆は比叡山延暦寺(天台宗総本山)の僧侶との宗教問答で論破し、裁判でも勝利した。
 延暦寺の僧兵は大軍を率いて京都の日蓮宗寺院を全て焼き払い、多くの法華衆を殺害した。この「天文法華の乱」により本能寺も焼失、法華衆は敗北して堺の末寺に逃亡した。

 1542年(天文11年)に日蓮宗の京都帰還を許す勅許が下され、15ヶ寺が京都に再建された。本能寺は1545年(天文14年)に四条西洞院(にしのとういん)北方に広大な寺地を得て大伽藍を造営した。
 延暦寺と日蓮宗は1547年(天文16年)に和解した。

 本能寺の末寺が近畿、北陸、瀬戸内、種子島まで拡大し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。本門流は早くから種子島に布教していた事から鉄砲と火薬を手に入れ、戦国大名と深い関係にあった。強力な鉄砲隊を持つ織田信長(1534年-1582年)の京都での宿は本能寺であった。

 天台宗延暦寺は織田信長に対抗するために北陸の浅井・朝倉と連携したが、1571年(元亀2年)信長の全軍による総攻撃により比叡山を焼き討ちにされた。
 浄土真宗の石山本願寺は城郭のように石垣をめぐらせて要塞化したが、信長との長い戦争の結果、1580年に炎上した。

 当時は武家勢力だけではなく寺社も武装・独立し、地域を治めていた。信長の天下賦武に反抗・独立していた各地の寺社を信長は武力鎮圧し、武装解除して本来の宗教活動に戻させた。
 信長により多くの寺社が破壊され、多くの人々が殺されたが、寺社の武装と政治活動が禁止され、大きな犠牲の結果、宗教改革の一面にもなった。

 織田信長が明智光秀(1528年-1582年)に襲われた本能寺は現在地にあったのではなく、寺域の南北は蛸薬師通と三条通の間の270mほど、東西は西洞院通と油小路通の間の140mほどで、大寺院であった。
 現在は道路横に「此付近本能寺跡」の石碑などが立っている。
 赤のアイコンが現在の本能寺、黄が本能寺跡。


 織田信長は広大な城郭のような本能寺を京都での宿としていたが、1582年6月21日(天正10年6月2日)明智光秀に包囲され自刃した。旧暦の6月1日は新月で真っ暗闇、その深夜の2日に襲撃された。

 現在の大阪城の地には、石山本願寺ができる前には古墳があったと云う。また、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の境内もあり、太古から信仰の場であった。生國魂神社については2014年2月14日投稿の「生國魂神社①」をご参照ください。

 1583年に、豊臣秀吉(1537年-1598年)が天下統一の拠点として、炎上した石山本願寺跡地に難攻不落の大坂城の築城を開始した。

 生國魂神社は石山本願寺と共に焼失したが、秀吉が1585年に現在の天王寺区に生國魂神社の社殿を造営した。
 本能寺は1592年に豊臣秀吉の命にて現在地に再建した。

 織田信長の武力により、大きな犠牲と大きな損失の結果として日本の宗教改革が実現した面もあった。
 イスラム教国のトルコでは、1923年にトルコ共和国初代大統領になったケマル・アタテュルク(1881年-1938年)が1928年に憲法からイスラムを国教と定める条文を削除して、世俗主義・民族主義・共和主義などを理念とし、政治と宗教を分離した。

 しかし、他のイスラム教国ではイスラム教・政治・軍が一体的に統合されており、主にスンニ派とシーア派に分かれて紛争・テロ・戦争を繰り返している。
 一部のテロ集団が外国にまで執拗なテロ活動を展開している。世界はテロとの戦いに力を入れているが、イスラム圏の政教分離を実現しなければテロの根絶は難しいのではないか。
 イスラム圏の政教分離は不可能だと云う意見もあれば、政教分離してもテロはなくならないという意見もある。
 私はテロとの戦いを進めるのと同時に、イスラム圏の政教分離を実現しなければ、テロはいつまでも続くと考えています。
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by enki-eden | 2017-06-13 00:02

皇統の維持

 96代後醍醐天皇(1288年-1339年)は鎌倉幕府を倒幕する運動を行う。皇子は護良親王(もりながしんのう、1308年-1335年)で大塔宮(おおとうのみや)とも云い、共に倒幕を進める。
 足利尊氏(1305年-1358年)や新田義貞(1301年-1338年)による鎌倉幕府倒幕後に、後醍醐天皇は独裁体制の建武新政を実施するが、足利尊氏と対立し吉野で南朝を樹立、南北朝に分かれる。
 足利尊氏は光明天皇(1322年-1380年)を擁立して室町幕府(1336年-1573年)を開き、幕府の初代征夷大将軍となる。

 1392年に南北朝が合一し、北朝の後小松天皇(1377年-1433年)が100代天皇となる。しかし、室町幕府の権力が強く、皇室は幕府に従うしかなかった。
 102代後花園天皇(1419年-1471年)の弟の貞常親王(1426年-1474年)が伏見宮家第4代当主として、1456年に勅許により伏見殿と称して世襲親王家の成立となった。

 世襲親王家は複数存在し、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮(かんいんのみや)である。世襲親王家は天皇直系に皇子が不在の場合に皇位継承候補者を出し、皇統の維持補完に寄与してきた。伏見宮墓地は京都市上京区の相国寺内(京都御所の少し北)にある。
 明治維新後には永世皇族制となり、世襲親王家の制度は廃止された。天皇に皇子がない場合や、昔のように複数の天皇妃が存在しない現代では皇統の維持が困難になってきている。

 閑院宮(かんいんのみや)は113代東山天皇(1675年-1710年)の第6皇子・閑院宮直仁親王(1704年-1753年)により1718年に創設された。閑院宮邸跡の一部は京都御苑内の西南角に残っている。
 118代後桃園天皇(1758年-1779年)に皇子はなかったので、天皇崩御により、閑院宮直仁親王の孫の祐宮(さちのみや、1771年-1840年)が践祚して119代光格天皇となった。
 後桃園天皇崩御の時の新天皇候補者は3人で、伏見宮貞敬親王・閑院宮美仁親王・閑院宮祐宮親王がいたが、閑院宮祐宮親王が選ばれ光格天皇になった。
 光格天皇は1817年に第6皇子の恵仁(あやひと)親王(1800年-1846年)に譲位し、120代仁孝天皇(1800年-1846年)とし、自らは上皇(太上天皇)となった。

 現在の125代平成天皇(1933年~)も、来年の在位30年を機に皇太子徳仁親王(なるひとしんのう、1960年~)に譲位を希望し、「陛下一代限りの特例法」制定が成立すれば、今上天皇は再来年に上皇になる見込みとなっている。

 現在の皇統は閑院宮系の光格天皇から続いており、122代明治天皇(1852年-1912年)は121代孝明天皇(1831年-1867年)の第2皇子・睦仁親王で、1868年に京都御所で即位礼、1871年に東京の皇居で践祚大嘗祭(だいじょうさい)を行った。

 孝明天皇は天然痘が原因で崩御したとされるが、ヒ素毒殺説もあり岩倉具視(1825年-1883年)などが疑われている。
 これには異説があり、孝明天皇は崩御(1867年)と称して京都堀川6条の堀川御所に入り、ウラ天皇になったと云う。更に明治天皇は孝明天皇の皇子ではなく、長州藩奇兵隊士で南朝後醍醐天皇の末裔である大室寅之祐に明治天皇は取り替えられたと落合莞爾氏(1941年~)が主張している。
 睦仁親王は大室寅之祐とすり替わり、孝明天皇と同じく堀川御所に入ったと云う。堀川御所は西本願寺の北にあったが現存せず、今は西本願寺の駐車場になっている。

 私見ですが、薩長土肥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)と一部公家の倒幕運動に対して、孝明天皇と睦仁親王の公武合体論は相容れなかったことが事件と関係あるでしょう。
 落合莞爾氏の著書は多いですが、『明治維新の極秘計画「堀川政略」と「ウラ天皇」』の動画を見ました。動画は3回に分かれていて、1回分は1時間20分以上の長さでした。
 内容全部が正しいとは限りませんが、古代から現代に至るまでの詳しい解説があり参考になりました。既に動画サイトは閉鎖されています。

 戦後の1947年、GHQ(General Headquarters、総司令部)の指令により皇室財産が国庫に帰属されたため、昭和天皇の実弟である秩父宮(1995年断絶)、高松宮(2004年断絶)、三笠宮(男子不在)の3宮家を残し、他の11宮家の51名は皇籍離脱した。
 旧皇族の11宮家は伏見宮、閑院宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、久邇宮、賀陽宮、東伏見宮、
朝香宮、竹田宮、東久邇宮。

 皇室典範第1章第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とある。皇族が限定され、皇族数が減少した戦後の皇統を維持するのは困難になっているが、政府はその場しのぎの対策しか打ち出せない。
 国民には女性天皇を認める意見も多いが・・・
 皇室典範第2章12条では、皇族女子が皇族以外の者と婚姻すると皇族の身分を離れることになっているので、秋篠宮眞子内親王も結婚後に皇籍離脱になります。女性宮家の創設も検討事項として考えられているが・・・
 また13条では、男性皇族が皇籍離脱するときはその子孫も同時に離脱することになっている。
私見ですが、12条、13条は変更する必要があるのでは? 旧宮家の皇籍復帰も必要と考えています。
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by enki-eden | 2017-06-07 00:17