古代史探訪

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臺與の東遷(とよのとうせん)

 日本書紀の神功皇后年に「200年を加えると卑弥呼と臺與の事績年」になり、「320年を加えると神功皇后の事績年」になる。
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 神功皇后47年(西暦367年=47+320)夏4月、百済と新羅の使いが来たが、14代仲哀天皇(313年頃-362年)が既に亡くなっていたので拝謁できなかったと日本書紀に記されている。
 この記事は仲哀天皇の崩御にかけて、卑弥呼(179年-247年)が247年(神功皇后47年、47+200)に亡くなったことを指摘するための「筆法」である。日本書紀には筆法が頻繁に使われている。

 神功皇后(321年-389年)は西暦363年の新羅遠征から大和に帰還する時、仲哀天皇を仮に埋葬していた穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、下関市長府宮の内町の忌宮神社)から天皇の遺骸をとり出し、大和に向かった。
 摂政2年(364年)、仲哀天皇を河内国の長野陵(大阪府藤井寺市藤井寺、岡ミサンザイ古墳)に葬った。

 神功皇后の上記の記事から次のことが判読できます。
 卑弥呼が247年に亡くなった後、魏が265年に滅び西晋となる。248年に女王になった台与(235年頃-295年頃)が266年に西晋に朝貢したが、大陸は内乱と北方異民族の侵入により動乱状態となる。
 大陸との交易ができなくなると九州に拠点を置く必要性が低くなり、臺與は270年頃に大和に東遷した。その際、臺與は九州の卑弥呼の墓から遺骸をとり出して大和に向かった。
 臺與は定型的前方後円墳の箸墓古墳を280年頃に完成し、卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。

 臺與は295年頃に亡くなり、箸墓古墳の前方部に葬られた。箸墓古墳の前方部も後方部も分厚い石積みが施されているので盗掘を免れていると考えられる。

 ミマキイリヒコも臺與と共に東遷し、10代祟神天皇(251年-301年)になった。臺與は記紀に倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)として記述されたのではないか。祟神天皇は物部氏と共に大和から全国支配を進めていく。
 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりひこいにえのすめらみこと、崇神天皇)の名は、伊都国の王で五十猛(160年頃出生、素戔嗚と筑紫紀氏の大矢女命の子)の子孫だと私は考えています。

 箸墓古墳は全長278m、神功皇后陵は275mで神功皇后陵は箸墓古墳を念頭に築造されたと考えられる。陵墓築造においても神功皇后を卑弥呼と臺與に結び付けたかったようだ。
 臺與と関係の深い祟神天皇陵(行燈山古墳)は242m、神功皇后の天皇・仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)も同じく242mで、仲哀天皇陵は崇神天皇陵を念頭にして築造したと考えられる。
 古墳の形や大きさにはそれぞれ理由があるのでしょう。
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by enki-eden | 2017-08-30 00:08

投馬国(とうまこく)

 投馬国は三国志魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)において、倭国(北部九州29ヶ国)の中で7番目に記されている国の名である。
 投馬国の官は弥弥(みみ)、副官は弥弥那利(みみなり)と云い、50,000戸余りある。邪馬台国の70,000戸に次ぐ大国である。

 私見ですが、投馬国の版図は福岡県東部、大分県、山口県に及ぶ。素戔嗚(西暦140年頃出生)の第5子である饒速日(165年頃出生)が宇佐を本拠地にして統率していた出雲系の国である。

 博多の奴国は海人族・安曇氏の国で、後漢(西暦25年-220年)の時代から倭国を代表して大陸と交易をしてきた。
 西暦57年に後漢の光武帝(紀元前5年-西暦57年)が奴国からの使者に賜った漢委奴国王金印(国宝)が安曇氏の聖地・志賀島から出土した。
 西暦57年の奴国王は初代の国常立(くにのとこたち、西暦元年出生)と考えられ、光武帝とほぼ同じ時代に活躍した。奴国の始まりは偶然にも西暦元年になる。紀元前1世紀に国としての萌芽があった。

 北部九州の海岸地区は安曇氏・宗像氏・和邇氏・海部氏・尾張氏など海人族で占められていたが、全体を統率しているのは素戔嗚・大国主(160年頃出生)を中心とする出雲族であった。
 九州西北部は素戔嗚の第2子である五十猛(160年頃出生)が統率しており、その中には吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)がある。

 邪馬台国は筑後川周辺にある最大の国で、朝倉市が倭国の政治の中心であった。邪馬台国にも出雲族が多く、小石原川の東に平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)などがある。小石原川は高天原を流れる天安川(あめのやすかわ)と考えられる。
 投馬国と邪馬台国は隣同士の大国で、出雲族を通じて密接な関係にあった。列島全体の各豪族も何らかの形で素戔嗚の出雲族と主従関係・協力関係・同盟関係にあった。

 投馬国はその後、豊国(とよのくに、とよくに)と呼ばれる。倭国女王の臺與(とよ、235年頃-295年頃)の出身地だから豊国と呼ばれた。或いは、豊国の出身だから臺與と呼ばれたのか。

 豊国の遠賀川(おんががわ)周辺地域は出雲族の物部氏の本願地になっている。弦田(つるた)物部、二田物部、芹田(せりた)物部、鳥見(とみ)物部、横田物部、大豆(おおまめ)物部、肩野(かたの)物部、聞物部、嶋戸物部などがある。
 その他の地域では、宗像の赤間(あかま)物部、朝倉市秋月の相槻(あいつき)物部、当麻(たきま)物部、浮田物部、足田物部、久米物部、布都留(ふつる)物部などがある。
 これらの物部氏は西暦185年頃の「饒速日東遷」に従って大和国へ移住し、奈良県天理市や大和川周辺などに住み着いた。その後、各地にも拡散していった。

 記紀神話は出雲神話を多く取り入れているが、記紀の「出雲」は出雲国(島根県)ではなく、北部九州の出雲族支配地のことである。従って、記紀と出雲国風土記の内容はそれぞれ別地域の神話で共通性は少ない。
 西暦200年頃に素戔嗚が亡くなり、大国主が跡を継ぐと統率力・求心力が低下して海人族が権限を回復、201年に卑弥呼(179年-247年)が即位して「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」を平定した。

 北部九州だけでなく列島各地も出雲族が移住・開拓し、大和国も大国主系・事代主系の出雲族が治めていた。その後、西暦185年頃に出雲族の饒速日が大部隊で大和国に東遷、纒向(まきむく、太田地区)を都にする。太田は出雲系の地名。人名では大田田根子(意富多多泥古)。

 素戔嗚が列島を統率し、皇室の基盤を創り上げた。私見ですが、素戔嗚の出自は「楚(現・徐州市)」だと考えています。楚は紀元前206年から紀元前202年の楚漢戦争(項羽と劉邦の戦い)に敗れた。一部の楚人が列島に逃れて来た。楚人は文化程度も高く、武力も強かった。

 西暦204年頃に初代神武(181年-248年)が九州から東遷を開始、211年に大和国で即位。出発地は出身地の岡水門(おかのみなと、遠賀川河口)で、投馬国にある。
 投馬国の首長はミミと呼ばれ、素戔嗚と宇佐の比売大神(天照大神)が誓約(うけい)をして生まれた長男はアメノオシホミミであった。
 神武天皇の実名はヒコホホデである。神武天皇と吾平津媛の間に生まれた皇子はタギシミミとキスミミがいる。神武天皇が大和国に東遷後に皇后にしたイスケヨリヒメとの間の皇子はヒコヤイミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミ(2代綏靖天皇)。
 3代安寧天皇の名もシキツヒコタマテである。

 大和朝廷は出雲族と海人族の協力・合体によって成り立った。やがて4世紀半ばの14代仲哀天皇・神功皇后(321年-389年)の頃には大和朝廷が全国制覇をほぼ成し遂げた結果、363年に神功皇后が新羅に軍事遠征するまでになった。弥生時代が終焉し、古墳時代が始まって100年ほど後のことである。
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by enki-eden | 2017-08-24 00:01

経津主神(ふつぬしのかみ)

 日本書紀によれば、経津主神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と共に「葦原の中つ国平定」(国譲り神話)を実行した神となっている。

 葦原の中つ国平定で大国主命(160年頃-220年頃)が譲ったのは出雲国ではなく、大国主命が素戔嗚尊(140年頃-200年頃)から引き継いで支配していた北部九州の地域を西暦201年頃に明け渡したと云うことです。

 10代崇神天皇(251年-301年)の時代になると、弥生時代から古墳時代に入り、大和国から全国を制覇し、大和朝廷が出現する。
 大和朝廷が安定すると、363年に神功皇后(321年-389年)が新羅に軍事遠征するまでになる。三輪山の麓に箸墓古墳が出現して古墳時代に入ってから100年も経っていない。

 伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神・軻遇突智(かぐつち)を生んだ時に火傷で亡くなったので、伊弉諾尊(いざなぎのみこと、125年頃出生)が軻遇突智を斬った。
 その剣からしたたる血が、天の安河(あめのやすかわ)のほとりに多くの岩群を造った。これが経津主神の先祖になった。経津主神の両親は磐筒男(いわつつのお)と磐筒女(いわつつのめ)となっている。
 先代旧事本紀には、磐裂神(いわさくのかみ)と根裂神(ねさくのかみ)の子が磐筒男と磐筒女で、その子が経津主神となっている。
 栃木県下都賀郡壬生町安塚1772-1に磐裂根裂神社が鎮座、磐裂神・根裂神を祀っている。

 天の安河は高天原を流れる川で、神々が集まって会議をするところ。また、素戔嗚尊と天照大神が誓約(うけい)をしたところ。誓約については2013年1月2日投稿の「盟酒、うけいざけ」をご参照ください。
 私見ですが、福岡県朝倉市の秋月地区(筑前の小京都)から安川地区・甘木地区を流れ、筑後川に注ぐ「小石原川」が「天の安河」だと見ています。
 小石原川周辺が高天原で、弥生時代末期の2世紀から3世紀の倭国の中心地だったと考えられる。小石原川と大分自動車道が交わる辺りに平塚川添遺跡(BC1世紀からAD4世紀)などの遺跡群がある。
 安本美典氏の説によると、甘木・朝倉地方が邪馬台国の中心地で、後に大和に移って大和朝廷ができたと云う。



 高天原については、2014年8月29日投稿の「高天原」をご参照ください。その中に掲載の神世の年表はその後、少し修正していますので修正年表を次に掲載します。
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 経津主神は香取神宮(下総国一宮、千葉県香取市)に、武甕槌神は鹿島神宮(常陸国一宮、茨城県鹿嶋市)に祀られている。
 そして、奈良市の春日大社には経津主神と武甕槌神が祀られている。

 素戔嗚尊(布都斯、ふつし)の父が布都(ふつ)で、天理市布留町の石上神宮(いそのかみじんぐう)の御神体は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ、布都の剣)になっている。
 先代旧事本紀には布都主神魂刀が布都御魂剣であるとしているので、素戔嗚尊の父である布都と布都主神(経津主神)が同じと云うことになる。
 布都は西暦125年頃出生であるが、葦原の中つ国平定の経津主神は西暦180年頃の出生になるので時代が合わない。私見ですが、布都と経津主神は出自も時代も違う別神でしょう。

 石上神宮の御神体は布都御魂剣(布都の剣)の他、布都斯御魂剣(素戔嗚の剣、天羽々斬剣、あめのははぎりのつるぎ)、布留御魂(饒速日の十種の神宝)がある。そして、国宝の七支刀も奉納されている。

 出雲国風土記に布都怒志命(ふつぬしのみこと)が登場し、布都斯(ふつし、素戔嗚尊)のことであると云う説もある。経津主神は元々出雲系の神であったのを高天原系にすり替えられた可能性がある。これは藤原不比等(659年-720年)が記紀の記述に影響を与えたからであろう。
 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子に和加布都怒志命もいる。物部系の祖神、神社、祭祀(御魂振り)も藤原氏・中臣氏の勢力に取り込まれていくことになる。
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by enki-eden | 2017-08-18 00:08

天尾羽張神(あめのおはばりのかみ)

 古事記によると、伊邪那美神(いざなみのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ、火の神)を生んだ時の火傷で亡くなってしまったので、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が十束剣(とつかのつるぎ)で迦具土神を斬り殺した。
 この十束剣は「天尾羽張(あめのおはばり)」又は「伊都尾羽張(いつのおはばり)」と云う。
 その十束剣に付いた血から多くの神が生まれるが、その中に「建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ、雷の神)」がいる。別名を建御雷神(たけみかづちのかみ)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、建布都神(たけふつのかみ)又は豊布都神(とよふつのかみ)と云う。

 高皇産霊神と天照大神が大国主命に「葦原の中つ国(北部九州の出雲族支配地)」の「国譲り」を迫る為、天穂日命(あめのほひ)を交渉に行かせるが、天穂日命は大国主命に味方して戻ってこない。次に派遣した天稚彦(あめのわかひこ)も帰ってこない。
 そこで、天安川(あめのやすかわ)の川上の岩屋にいる伊都尾羽張神(剣の神)に大国主命を説得するよう依頼したが、伊都尾羽張神は自分の子の建御雷神を派遣してくれと云う。それで建御雷神に天鳥船神を添えて「葦原の中つ国」に派遣することにした。
 天尾羽張神(伊都尾羽張神)の子が建御雷神(建布都神、豊布都神)である。

 奈良県御所市に曽我川が流れているが、曽我川が高天原を流れる天安川であるとの伝承があり、川沿いに天安川神社が三社も鎮座している。
 奈良県御所市重坂(へいさか)1005の天安川神社、祭神は市杵島姫命とも天尾羽張神とも云う。御所市樋野109の天安川神社、祭神は市杵島姫命。御所市新田の天安川神社、祭神は市杵島姫命。
 素戔嗚尊と天照大神が天安川を挟んで誓約(うけい)をして生まれたのが三女神なので、祭神が市杵島姫命になっている。天尾羽張神も祭神とされる。
 これは、九州の高天原から御所市に移住してきた人々が元の地名や川の名前を付けたのでしょう。元の高天原は福岡県だと考えられる。2014年8月29日投稿の「高天原」をご覧ください。これは3年前の投稿で、年代表についてはその後、少し修正しているので違う部分があります。

 天尾羽張神の子の建御雷神が国譲りを成功させ、大国主命は出雲国(島根県)へ帰っていった。大国主命の子の建御名方命(たけみなかた)は抵抗したが、建御雷神に敗れ、諏訪国(長野県西部)に逃亡した。
 剣に人の名前を付けることがある。素戔嗚命(布都斯、ふつし)の父・布都(ふつ)の名を付けた剣が布都御魂(ふつのみたま)と云われ、天理市の石上神宮の御神体になっている。
 建御雷神はこの剣を用いて「葦原の中つ国」を平定した。布都御魂の剣は素戔嗚命の父の布都が使っていた十束剣である。布都御魂剣は内反り(日本刀とは逆の方に反っている)の鉄剣で85cmほどの長さがある。
 素戔嗚命は布都御魂剣を孫の熊野高倉下(くまのたかくらじ)に授け、熊野高倉下が建御雷神に渡したと考えられる。

 天尾羽張の「尾羽張」は「切っ先が広がった剣」又は「諸刃の剣」の意味だと云う。
 私見では尾張氏の尾張は「矢羽に鳥の尾羽を付けた天羽々矢(あめのははや)」と見ているが、尾張氏の名前の由来も「尾羽張」かもしれない。国譲りを実行したのは尾張氏のようだ。
 尾張氏・海部氏の系図
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 建御雷神は熊野高倉下や天叢雲命(天村雲、あめのむらくも、170年頃出生)の世代になる。建御雷神が熊野高倉下から布都御魂剣を受け、200年頃に国譲りを成功させた。尾張氏は名前の前に「建」をよく使う。
 天叢雲命は素戔嗚命の八岐大蛇(やまたのおろち)退治の時に出た銅剣(天叢雲剣)と同じ名前になっている。素戔嗚命は孫の天叢雲命に銅剣を授け、銅剣に天叢雲の名を付けたと考えられる。
 天叢雲剣は草薙剣とも云い、三種の神器の一つで名古屋の熱田神宮(尾張国三宮)のご神体になっている。
 熱田神宮は尾張国造の娘・宮簀媛(みやずひめ、日本武尊の妃、320年頃出生)が創建し、草薙剣を祀った。兄は建稲種命(たけいなだね)で天火明命の12世孫。

 素戔嗚命が草薙剣を得た時に用いた十束の剣は天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)で、長さ120cmの鉄剣で布都御魂剣と共に石上神宮に祀られている。

 平安時代末期、熱田神宮大宮司の尾張員職(かずもと)の娘・尾張職子は藤原季兼(すえかね、1044年-1101年)の妻となり、藤原季範(1090年-1155年)を生む。藤原季兼は尾張国の目代(もくだい、国司の私的代理人)であった。
 1114年、尾張員職は孫の藤原季範が尾張国目代になったのを機に大宮司職を譲り、その後は藤原氏が大宮司職を世襲する。尾張氏はそれ以降、権宮司に引き下がってしまう。
 尾張氏に嫡男があったにも拘わらず大宮司職を藤原氏に譲ったのは、「神のお告げ」と云うが、藤原氏に半ば強制されたのであろう。これにより、藤原氏が三種の神器の草薙剣を奉斎することになる。藤原氏は権力によるゴリ押しが多い。

 藤原季兼と尾張職子の孫・由良御前(1159年没)は源義朝(よしとも、1123年-1160年)の正室になり、熱田神宮の近くで源頼朝(よりとも、1147年-1199年)を生む。
 愛知県は優秀な人材、企業が多い。源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、最近ではフィギュアスケートの多くの選手、野球のイチロー選手、将棋の天才少年・藤井4段、企業ではトヨタ自動車など。

 藤原氏は鎌倉時代以降、家名を「近衛」、「鷹司」、「九条」、「二条」、「一条」、「三条」、「西園寺」、「中御門」などを名のり、貴族の頂点を極めた。
 熱田神宮の大宮司が尾張氏から藤原氏に替わったので、藤原氏の氏神である春日大社の祭神は第一殿に建甕槌命が祀られている。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮(常陸国一宮)から勧請されたと云う。
 第二殿には経津主命(ふつぬしのみこと)が祀られ、千葉県香取市の香取神宮(下総国一宮)から勧請されたと云う。
 熱田神宮、春日大社、鹿島神宮、香取神宮は藤原氏が奉斎しているが、権力と策略により藤原氏のものとなった。
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by enki-eden | 2017-08-10 00:07

前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)

 愛知県清須市廻間(はさま)3丁目の廻間遺跡(はざまいせき)に墳丘墓が6基あるが、1基が「前方後方型墳丘墓」となっている。2世紀前半の築造で、発掘調査された後は道路になっている。
 愛知県には廻間(はさま、はざま)が付く地名が大変多く、200程あるのではないか。「廻間」は「谷間の地形」を意味する。
 「桶狭間の戦い」で有名な「桶狭間」も尾張国知多郡桶廻間村大字桶狭間である。

 方墳の周りに溝がある「方形周溝墓」に渡るための陸橋部が拡大して「前方後方型墳丘墓」となった。更に、前方部の長さが後方部の二分の一以上に拡大し、周濠も大規模になり、「前方後方墳」へと発展していく。
 
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 愛知県一宮市開明(かいめい)にある西上免遺跡(にしじょうめんいせき)の西上免古墳(墳長40.5m、周濠幅9m)が2世紀末か3世紀初めの築造で、最も古い前方後方墳と考えられている。東海地方で生まれた前方後方墳が東日本を中心として全国に広まっていった。

 「前方後円墳」は大和国で物部氏がリードしたが、「前方後方墳」は尾張国で尾張氏がリードした。埴輪が発見される前方後方墳は少ない。
 奈良県北葛城郡広陵町大塚の新山古墳(しんやまこふん)は前方後方墳であるが、多数の埴輪が出土している。墳丘長126mで宮内庁「大塚陵墓参考地」になっている。4世紀後半の築造で、25代武烈天皇陵とも云われるが、武烈天皇は506年頃の崩御なので時代が合わない。
 当地は馬見古墳群(うまみこふんぐん)の南群で、葛城氏の墓域と考えられる。葛城氏と尾張氏は密接な関係にある。

 愛知県一宮市の西上免古墳は前方後方墳ではなく前方後方型墳丘墓で、滋賀県東近江市の神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん、墳長36.5m、3世紀前半)が最も古い前方後方墳であると云う説もある。それであれば、2世紀から3世紀にかけて但馬から近江へ、近江から尾張へと人や文化が流れていったと考えることができる。
 2世紀に尾張氏と海部氏が九州から日本海沿いに東進し、敦賀から近江(琵琶湖東部)へ入り、更に濃尾平野まで進出していったのか。
 西暦185年頃に「饒速日の東遷」に従って瀬戸内海経由で大和国高尾張に移住した尾張氏は、天香語山、天牟良雲、天背男などの一族であるが、その後波状的に東国の尾張国に移住していった。
 いづれにしても西上免古墳と神郷亀塚古墳の両古墳が前方後方墳の最古級と云うことでしょう。

 前方後方墳は全国に300基ほどあり、全長100m以上の大型前方後方墳は大和国に集中している。最長の前方後方墳は奈良県天理市の西山古墳(全長183m)である。西山古墳については、2013年7月19日投稿の「西山古墳」をご参照ください。
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by enki-eden | 2017-08-02 00:11