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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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世界に拡がったバール神

現在のシリアの地に4,000年前から3,200年前まで、セム人(フェニキア人)の貿易港湾都市「ウガリット」が繁栄し、「バール信仰」があった。「バール」はセム語で「主神」を意味する。

ウガリットのバール神は「牛頭神」で、繁栄・豊穣・嵐の神であった。

牛の血から新しい生命が生まれると云う信仰があったが、日本の「保食の神(うけもちのかみ)」に似ている。


バール神は古代のオリエントで広く信仰され、カナン地方(イスラエル・レバノン・シリアなど)では「バール神」が最高神として崇められた。

ウガリット神話は旧約聖書にも強く影響しているが、ユダヤ教では偶像崇拝の「バアル(バール)」を否定している。

旧約聖書の「出エジプト記32章」によると、

イスラエルの民がモーセに導かれエジプトを脱出しカナンの地に帰る途中、モーセがシナイ山に登り、神から「十戒の石板」を授けられて降りてくると、イスラエルの人々はモーセの帰りが遅いので「金の子牛像」(バール神)を祭壇に置いて礼拝し踊っていた。

これに怒ったモーセは十戒の石板を投げて砕いてしまった。神は金の子牛像を砕いた。

モーセは「レビ人」に金の子牛を礼拝した者を殺せと命令、3,000人が殺され神も民を撃った。モーセはもう一度シナイ山に登り、神に罪を償った。神はモーセを赦し「十戒の石板」を再び与え、イスラエルの民はカナンの地を目指した。

   

ウガリット文字はシュメールの楔形文字に似ているが、母音文字がないのはヘブライ語と同じ。

ウガリットが滅んだ後も、オリエントやギリシャにバール信仰が受け継がれた。

メソポタミアのアッカドでは、「バール」は雷神「アダド」と呼ばれるようになり、エジプトでは嵐の神「セト」と同一視された。

フェニキア(現在のレバノンあたり)やカルタゴ(現在のチュニスあたり)では「バアルハンモン」と呼ばれた。フェニキアの名はフェニックス(不死鳥)が由来。

ギリシャでも「バアル」として崇められた。

バール神の像は、武器を持った右手を挙げ、左足を前に出している。バール神は「牛の神」とも云うので角のついたヘルメットを被っている像もある。

一神教のユダヤ教徒が「バール」(牛頭神)信仰を持っている場合がある。出エジプトを導いたモーゼ像にも「角」がついているものがある。

フェニキア人は海洋民族で、地中海を拠点にして世界各地に拡散し、交易をしていた。フェニキア人はシュメールの楔形文字からアルファベットを考案し、ペルシャ・インダス・インド・中国・朝鮮・日本・北米・アフリカなどにもフェニキア文字が確認されている。

フェニキアの交易船団には、「バール信仰」で結びついたケルト人・ユダヤ人・エジプト人・ギリシャ人なども混在していたと云う。

   

黒曜石の産地であった静岡県の水窪町(みさくぼちょう)で発見された水窪石に刻まれたフェニキア文字は「バルーツ(女神) ガシヤン(男神)に奉る」と解読された。

バルーツはバールの女性形で、ガシヤンは鳥(主神)である。

日本の「蹈鞴製鉄」「神代文字」もフェニキア人が弥生時代に伝えたと考えられる。

     

牛頭(バール神、武神)もフェニキア人により列島に伝えられた。素戔嗚尊(すさのおのみこと)は神仏習合時には「牛頭天王」と同一視されたが、バール神と関係があると考えられる。

フェニキアの植民地カルタゴの将軍「ハンニバル」(HannibalBC247年‐BC183年)の名は「バールは我が主」と云う意味である。

印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2024-11-30 00:03

白山信仰②

曹洞宗総本山の永平寺は福井県吉田郡永平寺町にあり、白山信仰と関係が深い。

開祖の道元禅師(1200-1253年)は、宋から帰国する前に白山権現に助けられたので、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神とし、永平寺の僧侶が白山の奥宮で般若心経を読経する。

道元禅師は永平寺を創建する前に吉峰寺(きっぽうじ、福井県吉田郡永平寺町吉峰)で修行した。当地周辺には白山神社が多い。

吉峰寺は雪深い山中にあったので道元は吉峰寺から山を下り、寛元2年(1244年)に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を創建し、寛元4年に吉祥山永平寺と改めた。



世界自然遺産「白神山地(しらかみさんち)」は青森県南西部から秋田県北西部にまたがる広大な山地帯で、ブナ天然林が生い茂っている。

古代の白神山地居住民はアムール川流域の山靼(さんたん)から渡来したと云う。バイカル湖から黒竜江(アムール川)を下り、樺太から北海道へ、更に東北へとやってきた。

日本人のY染色体遺伝子にC1C3が僅かに含まれるが、これがアムール川から白神山地にやってきた人々の痕跡かもしれない。

C遺伝子は、北東アジアのオロチョン族(ツングース系)、エヴェンキ族(ツングース系)、ブリヤート族(モンゴル系)、モンゴル主要構成族のハルハ族、シベリア北東部のユカギール族、アムール川下流域と樺太に住むニヴフ族などに中心的な遺伝子として表れている。


白神山地に祀られているのはブルハン神(白山神)で、「玄武(北方)の大神」だと云う。白山神であれば色は白だが、「玄武」の色は「黒」なのだが・・・

「ブルハン」と云う発音から憶測すると、黒海周辺の感じがするので、「黒」かもしれない。

この神は高い山の山頂を真っ白にするので大白山神と云う。

神通力は天・地・水を司る全能の神であるから「天地水三輪の神」とも云う。


数千年前、阿毎(あま)氏が山靼(さんたん)から新潟県にたどり着き、石川県の犀川に居住した。阿毎氏は犀川で故地の神・ブルハン神(アラハバキ神、三輪大神、白山神とも云う)を祀った。

大和国に移り王国を築いた阿毎氏はアムール川周辺の地で、西に西王母、東に東王父を祀っていたので、西の出雲に女神、東の大和に男神を祀ったと云う。


阿毎氏は安日彦(あびひこ)王と弟の長髄彦(ながすねひこ)の時に神武天皇(181-248年)の軍に敗れ、過去に先祖が居住していた東北(東日流、つがる)に戻り、大和朝廷からは蝦夷(えみし)と呼ばれ対立した。(偽書と云われる東日流外三郡誌、つがるそとさんぐんし)


その後、中国では西晋(280-316年)が滅亡、避難民が東北に流れ着いた。西晋は西暦300年頃から「八王の乱(内乱)」が起き、北方遊牧民が中国全域に勢力を広め西晋は滅んだが、東晋(317-420年)として復活した。

東北にやってきた避難民が信仰していた神は天山山脈で祀られていたアラハバキ神(西王母、東王父、白山神)であった。

この避難民と阿毎氏は、出身地域も信仰形態も共通していたので、アラハバキ族として纏まった。

アラハバキ族(蝦夷)の白山神信仰は、東北から東日本に広がっていった。

「クナト神」をご参照ください。


印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2024-11-23 00:03

兵庫県知事選挙

20241117日(日)に兵庫県知事選挙が実施され、前知事の斎藤元彦氏(47才)が当選した。

今年3月に西播磨県民局長の渡瀬康英氏(2024年没、60才)が、斎藤知事のパワハラ・「おねだり」や、井戸敏三元知事(79才)や五百籏頭眞氏(いおきべまこと、1943年‐2024年)に対する斎藤知事のいやがらせなどを内部告発し、渡瀬氏は7月に自殺した。

兵庫県議会による86名全員一致の不信任議決で斎藤知事は失職したが、1117日の出直し選挙で再選を果たした。

私は選挙が始まる前までは、新聞・テレビの報道によれば斎藤知事は「とんでもない奴」だと考えていた。

しかし、選挙が始まってみると「NHKをぶっ壊す!」の立花孝志氏(57才)も立候補し、自分には投票しないで斎藤さんに投票してくださいと云って、斎藤氏の潔癖を訴えた。

私は立花孝志氏も「感じの悪い奴」だと今まで思っていたが、その演説や訴えを聴いているうちに立花氏も斎藤氏もよく理解ができ、他の多くの情報も集めると斎藤氏は正しいことが判明したので考えを改めた。

渡瀬元県民局長の自殺の原因は、県庁内での10年間に及ぶ不倫(複数)が原因で、斎藤知事は関りがないと考えられる。

それに対して県議会は、パワハラ・おねだり・県民局長の自殺などは斎藤知事の責任だとし、新聞・テレビも一致して議会側に忖度する報道だけを流した。

斎藤知事の政策は、自身の給与・退職金カット、県庁舎建て替え計画の減額、県立大学授業料無償化、県立高校の環境整備、財政基金増額などの改革実行であった。

井戸元知事などのOB、県議会(黒幕を含む)、業者、マスコミなど既得権益者にとって斎藤知事の政策はどうしても潰したい懸案だった。

それで県議会は、真面目一点張りで仕事に直進している斎藤知事を貶める方法に打って出たのである。

YouTubeXTwitter)は偽情報もあるが真実の情報が多く、真実を報道しないマスコミ(新聞・テレビ)の時代は終わりつつある。

私は日本人の1/3位の人がマスコミの間違えた報道を信じていると嘆いていたが、兵庫県の有権者はマスコミに踊らされない正しい判断を身に着けてきたと考えられ喜ばしい限りです。

印南神吉(いんなみ かんき)


# by enki-eden | 2024-11-20 16:51

白山信仰①

白山(はくさん)は、石川県白山市、福井県勝山市・大野市、岐阜県大野郡白川村にまたがっている活火山で、白山国立公園となっている。

養老元年(717年)に修験道の泰澄上人(たいちょうしょうにん、682年‐767年)が白山を開山した。

最高峰の御前峰(ごぜんがみね、2,702m)・剣ヶ峰(けんがみね、2,677m)・大汝峰(おおなんじみね、2,684m)の「白山三峰」を中心にした連峰の総称が「白山」である。

石川県白山市三宮町(さんのみやまち)二105-1に加賀国一宮の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)が鎮座、「霊峰白山」をご神体としている。

全国の白山神社の総本宮となっており、10代崇神天皇(251-301年)の御代に手取川沿いの舟岡山(178m)に神地を定め、15代応神天皇(363-403年)の御代に山裾の手取川河畔(古宮公園)に遷り、44代元正天皇(680年‐748年)の霊亀2年(716年)にすぐ近くの「安久涛(あくど)の森」に遷座した。

文明12年(1480年)の大火で全焼したので、末社三宮が鎮座していた高台の現在地に遷った。



白山頂上の御前峰(ごぜんがみね)に「白山比咩神社奥宮」が鎮座。




白山比咩神社の祭神は白山比咩大神(しらやまひめおおかみ)、別名が菊理媛神(くくりひめのかみ)で、修験道により各地に白山信仰(はくさんしんこう、しらやましんこう)が広がっていった。

伊弉冉尊(いざなみのみこと)が亡くなったので伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉の国に会いに行った時、争いになったが菊理媛尊(くくりひめのみこと)が仲を取り持って仲裁したので、「和合の神」、「縁結びの神」としても信仰されている。


白山比咩神社は加賀の三輪山麓の手取川沿いにあるが、手取川の下流の白山市御影堂町2には菊理比咩神社もある。

航空母鑑「加賀」(238.5m)の艦内神社は白山比咩神社であった。艦名を引き継いだ海上自衛隊の護衛艦「かが」(248m)の艦内神社も白山比咩神社から分霊の「かが神社」である。


護衛艦「かが」と「いずも」は、軽空母化の改修工事をし、戦闘機搭載ができるようになっているが、次に建造を予定している3鑑は本格的な「航空母艦」になるのではないか。空母5隻体制になる。


白山比咩神社の8km南東の石川県金沢市見定町(けんじょうまち)に三輪山(1068m)があり、加賀国から大和国に移住した阿毎(あま)氏が大和の三輪山(467m)をご神体としたと云う。

大和国の三輪山の1.3km東に白山(しろやま、486m)があり、南麓の桜井市黒崎に白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ、白山比咩命)が鎮座している。

三輪山の3.2km西の桜井市豊前(ぶんぜ)には白山神社(しらやまじんじゃ、菊理媛神)が鎮座しており、境内から三輪山を展望できる。

世界中の人が雪に覆われる高い山に憧れている。


富士山(3776m)、フランスとイタリアの国境にあるモンブラン(白い山、4808m)、ロシアのエルブルス山(5642m)、ヒマラヤのエベレスト(8848m)、ネパールのアンナプルナ(8091m、豊穣の女神)、アメリカのマッキンリー(6194m)、タンザニアのキリマンジャロ(5895m、白く輝く山、神の家)などたくさんある。

白山信仰①_d0287413_11022541.jpg

印南神吉    


# by enki-eden | 2024-11-16 11:07

旧約聖書の登場人物は誰も超長寿で、

アダム(4,500年程前)は930才、

セツは912才、

エノスは905才、

カイナンは910才、

マハラエルは895才、

ヤレドは962才、

エノクは365才、

メトシェラ(メトセラ)は969

レメクは777才、

ノア(ノアの箱舟で有名)は950才、

セムは600才、

アルパクサデは438才、

シラは433才、

エベルは464才。

14代にわたって物凄く長生きをしている。

 最も長生きしたのは969才のメトシェラ(メトセラ)である。当時の暦は現在とは違って、現在の1か月を1年とする12倍歴だったのではないか。

12倍歴だとメトシェラは現在の暦の81才まで生きたことになる。当時としては大変な長生きで、365才で亡くなった短命のエノクは30才で亡くなったことになる。

その後に続いて記載されている人物の寿命が1/3から1/4程に縮小しているので、暦が12倍歴から4倍歴に変わったのかもしれない。3か月ごとに年を取る勘定である。

アダムから20代目のアブラハム(4,000年ほど前)の年令は175才と記されているので、現在の暦の44才まで生きたと考えられる。当時の平均寿命は40才代だったのでしょう。

日本の弥生時代から古墳時代までの年令も現在の暦とは違って、2倍歴が使われている。春分と秋分に年を取るのである。或いは夏至と冬至である。

古代では冬至の翌日が正月になった。ヨーロッパでも同じで、キリスト教が定着すると「新年の祭り」が「クリスマス」に代わった。

「日本書紀の神武天皇年」「ヨーロッパの夏至祭と冬至祭」ご参照ください。

  

印南神吉


# by enki-eden | 2024-11-10 14:54