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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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蛇神(へびがみ)

蛇は、長い体形の薄気味悪い風貌、毒を持つ恐ろしさなどで、私は大嫌いですが、蛇などの爬虫類をペットにしている人も多い。爬虫類の「爬」は「這う」と云う意味です。

アルフィーの坂崎幸之助さん(1954年生)は爬虫類を飼っているので有名。

また、世界中の神話の中で蛇は「神の使い」として出てくる。日本では蛇(巳)は水神信仰と関係が深い。また、蛇は脱皮を繰り返して成長するので、「長寿」、「金運」、「生命力の強さ」などのイメージで見られている。

神社の注連縄は蛇(巳)を表わしているとも云う。

白蛇が特に貴重とされ、弁財天の使いだと云う。山口県岩国市に多く生息している白蛇は国の天然記念物になっている。

    

奈良県桜井市三輪の「大神神社」(おおみわじんじゃ)の祭神である大物主神は蛇神であると日本書紀の崇神天皇紀に記されている。大神神社拝殿前の大杉(巳の神杉)には大物主神の化身の白蛇(白い巳さん)が住んでおり、蛇の好きな卵が供えられている。

日本書紀によると、21代雄略天皇(432年-479年)が少子部(ちいさこべ)スガルに「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力がすごいので捕えてこい。」と云われた。

スガルは三輪山に登って大きな蛇を捕まえて天皇にお見せした。大蛇は雷のような音をたて、目をキラキラと輝かせた。天皇は恐れ入って殿中にお隠れになった。そして大蛇を岳に放たせられた。あらためてその岳に名を賜い、雷(いかづち)とした。

古代、神無月(かんなづき、旧暦10月)になると、全国の八百万の神々(豪族)が出雲へ集まって会議をしていた。従って、出雲では神無月を神在月(かみありづき)と云う。

その頃には龍蛇神(りゅうじゃじん、龍蛇様、龍蛇さん)と呼ばれるセグロウミヘビが南洋から黒潮に乗り、対馬海流に乗って島根県の海岸に流れ着く。この龍蛇様を出雲大社(出雲市、出雲国一宮)や佐太神社(松江市、出雲国二宮)に奉納する。

旧暦の1010日から17日、出雲大社の「神在祭(かみありさい)」では、稲佐の浜に集まった八百万の神々を迎える神迎神事(かみむかえしんじ)が行われ、龍蛇神が先導して出雲大社にお迎えする。  

蛇の古語や方言は、ヘミ(巳)、ハミ(咬み)、ハメ、ハブ、ハハ、カカ、カガ、カガシ、カガチ、ナガ(長い)、ナギ(凪)、クチナハ(くちなわ、朽ちた縄)、クチナ、クツナ、ナガムシ(長い虫)などと非常に多い。

俳句では「くちなは」は夏の季語になっている。「ナガ」はインドのナーガ(蛇神)が語源かもしれない。「長い」と云う日本語の語源もインド由来か。

旧約聖書の創世記には、アダムとエバが狡猾な蛇(サタン)に騙され、神にエデンの園から追い払われたと記されている。ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒は蛇に良い感情を持っていないかもしれない。私も旧約聖書を読むが、旧約聖書を読む前の子どもの頃から蛇が嫌いだったように思う。

欧米の医療関連では、杖(棒)に蛇が巻き付いたマークがよく使われる。世界保健機関(WHO)、アメリカ医師会もこれを使っている。日本医師会も蛇のマークを使っている。

日本の救急車やドクターヘリにも蛇のマーク(Star of Life)がついている。

   

これらのマークはギリシャ神話の医術の神「アスクレピオス」が「蛇の巻き付いた杖」を持っていることに由来する。

私も巳年には年賀状に「蛇と杖のマーク」を使っています。

古代エジプトのファラオであるクレオパトラ7世(BC69年-BC30年)の王冠にコブラがついている。コブラは「太陽神ラーの使い」で、王権の象徴とされ、ツタンカーメン(BC1342年頃-BC1324年頃)の黄金マスクにもコブラがついており、壁画にも多く描かれている。

  

明石市の「青龍神社」を投稿しましたのでご覧ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2020-04-02 21:43

漢字の書体

 漢字には様々な書体がありますが、書体を統一したのが秦始皇帝()である。秦隷()と云って隷書の先駆けとなった書体で、秦隷は「八分(はっぷん)」とか「分書」とも云う。

 漢字には多くの書体があり、画数も多いので、秦始皇帝が朝廷の事務を効率よくするために、「篆書(てんしょ)」を簡略化し、統一書体としたのが「秦隷(隷書)」である。更に簡略化した「草隷(草書)」も使われ、大量の文書を効率よく作成した。

 

 秦の次の前漢の時代()になると、引き続き「秦隷」、「草隷」が用いられた。後漢()になると、「隷書」が完成され、「草書」は「行書」に変化し、更にきちんと丁寧に書く「楷書」に発展していった。

 文字を石、木簡、竹簡に記す時代と、紙が発明され、筆で書く時代では書体も変化した。

 

 現在の日本では「ゴシック体」、「明朝体」、「ポップ体」など多くの書体があるものの、「楷書体」が中心で、紙幣や印鑑は「隷書体」が多い。

 私は普段、パソコンのワードで文章を書くときは「明朝体」を使用し、年賀状などでは「楷書体」と「草書体」の中間の「行書体」を使っています。  

 姫路市の「津田天満神社」を投稿しましたのでご覧ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2020-03-27 11:31

「四霊(しれい)」とは、神獣の麟(りん、麒麟)、鳳(ほう、鳳凰)、亀(き、霊亀・神亀)、龍(りゅう、応龍)を云う。

「四霊」は吉兆を知らせる霊獣であるのに対して、「四神」は青龍、白虎、朱雀、玄武が東西南北という四方位を司る守護神である。

「霊亀」は長寿を象徴する霊獣になっている。日本のことわざにも「鶴は千年、亀は万年」とあり、長寿や縁起を祝う言葉になっている。

また、霊亀は瑞兆とされるので、奈良時代の元号にも「亀」が使われ、44代元正天皇の霊亀(715年-716年)、45代聖武天皇の神亀(じんき、724年-728年)、49代光仁天皇の宝亀(770年-780年)がある。

室町時代にも、文亀(1501年-1503年)と元亀(1570年-1572年)がある。

古代人は亀甲を占い(亀卜、きぼく)に使用し、吉凶や禍福を占った。この吉凶の兆しは、亀の甲羅(腹甲)を熱し、生じたヒビの形で占う。

日本では鹿の肩甲骨を使って占っていたが、奈良時代から亀卜に代わった。宮中行事では、現代でも大嘗祭などで亀卜による方法がとられていると云う。

中国戦国時代(BC403年-BC221年)の思想家である荘子(そうし、BC370年頃-BC310年頃)の「秋水篇」に、荘子が川で釣りをしていると、楚の威王(熊商、BC329年没)が使いをよこして、宰相として楚国の政務を執って欲しいと荘子を招聘した。

荘子は振り返りもせず、「楚の国には神亀がいたが、死んだので王はこれを絹に包んで先祖の霊廟にしまっておられるとのこと。

この亀にしてみれば、死んでその遺骸を大切にしまっておかれるのがよいのか、それとも、生きて泥水の中を自由に動きまわるのがよいのか、どちらがよいのでしょうか」と云った。

威王の使いは、「生きて泥水の中を動きまわるほうがよい」と言った。荘子は、「帰ってください。私も泥水の中を自由に動きまわることにします」と云って追い返した。

荘子は、戦国時代(BC403年-BC221年)に生きて厭世的になっていたのかもしれないが、自由人として悠然と生きていた。

戦国時代の前の春秋時代(BC770年-BC403年)には、楚の哲学者・老子が、道家の開祖とされている。荘子は、老子の思想を受け継ぎ、「老荘思想」として道教の経典とされており、全てをあるがままに受け入れ、世俗から離れ、自由奔放に生きる思想(逍遥遊)を展開した。

荘子の言葉として我々も知っているのは、「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」、「無用の用」などがある。

楚(紀元前11世紀-BC223年)は、周の時代から春秋戦国時代にかけて存在した広大な国であった。国姓は羋(び)、国王の氏は熊(ゆう)で、初代の王は熊繹、全ての王が熊を名乗った。

楚は、同じ江南人の呉とは同盟を結んだこともあり、関係は良かった。呉の国姓は姫(き)であり、日本列島に渡来してからも楚人と呉人は、吉備国(岡山県)で共存した。吉備の地名由来は私見ですが、呉の姫(き)と楚の羋(び)を吉備(きび)と表現したと考えています。

吉備国や出雲国など中国地方の人々のDNAは縄文系が少なく20%弱、弥生系が多く楚系が20%弱、呉系が30%ほど、黄河系が30%ほどになっている。縄文人は殺されたか、逃亡したか。

また、吉備国の北西にある出雲国を拠点とする出雲族は楚人が中心だと考えています。素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)の父・布都(ふつ)は46代目楚王(最後の王)の熊負芻(ゆう ふすう、紀元前3世紀)の名に因んで布都としたのではないか。素戔嗚命の実名は布都斯(ふつし)。

出雲国風土記では、素戔嗚命のことを「野加武呂命」と記している。島根県松江市八雲町野の野大社の祭神は「伊邪那伎日真名子加夫呂伎野大神櫛御気野命(いざなぎのひまなご かぶろぎ くまのおおかみ くしみけぬのみこと、須佐之男命)」になっている。

    

また、楚国では霊亀を霊廟で祀っていたので、楚系の出雲族が祀る神社の神紋は「亀甲紋」になったのではないか。

松江市の熊野大社の神紋は、「亀甲紋に大」。

出雲大社(出雲市大社町)と八重垣神社(松江市佐草町)の神紋は、「二重亀甲紋に剣花菱」。

松江市大庭町の神魂神社(かもすじんじゃ)は、「二重亀甲紋に有」。

安芸の宮島の厳島神社は、「三つ盛り二重亀甲紋に剣花菱」で、出雲大社と同じ神紋が三つ並んでいる。祭神が、素戔嗚尊と大日孁貴の誓約(うけい)により出生した「三女神」だから、神紋が三つ並んでいるのか。

博多祇園山笠で有名な福岡市博多区の櫛田神社正殿櫛田宮の神紋は、「三つ亀甲紋に五三桐」。

しかし、出雲は北の国だから北方鎮護の神として、北方の玄武(亀)の亀甲が紋として残ったとも云われる。

私は、出雲系の亀甲紋は「楚の霊亀」が由来だと考えています。

中国の南北朝時代(西暦420年-589年)に、斉(西暦479年-501年)の祖冲之(そちゅうし)が編纂した「述異記」には、『亀は千年生きると毛が生え、五千年生きると「神亀」となり、万年生きると「霊亀」となる』と記されている。


姫路市の「才天満神社」を投稿しましたのでご覧ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2020-03-19 11:44

福岡市元岡遺跡群

 素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が筑紫紀氏の大矢女命に産ませたのは五十猛命(160年頃-220年頃)で、素戔嗚尊は五十猛命に九州北西部(対馬、壱岐、佐賀県、福岡県西部)を統治させた。

 五十猛命の本拠地は、斯馬国(志摩郡)と伊都国(怡土郡)で、現在の福岡県糸島市と福岡市西区西部である。卑弥呼

(西暦179-247年)が親魏倭王になった時代(239年)には、五十猛命の孫が伊都国王であったと考えられる。

 卑弥呼の次の女王、臺與(西暦235年頃-295年頃)が西暦270年頃に大和国に東遷したときには伊都国王の五十瓊殖

(イニエ)を伴った。五十瓊殖は五十猛命の5世孫と考えられ、大和国で10代崇神天皇(西暦251-301年)となり、

物部氏と結託して全国制覇に取りかかった。

 「五十(いそ)は伊都」「五十猛(いそたける、いたける)」をご参照ください。

  

  図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

福岡市元岡遺跡群_d0287413_13344868.jpg

 糸島市には弥生時代後期(1世紀~3世紀)の遺跡、伝承が多い。「伊都国を掘る」

「三雲井原遺跡のすずり片」「平原王墓の埋葬方向」をご参照ください。

 平原王墓出土の銅鏡40枚の内、5枚は径46.5cmもある大型の内行花文鏡で、皇室の三種の神器の「八咫鏡(やたのかがみ)」と同じではないかと云う。

 私見ですが、平原王墓は大日孁貴(天照大神①、西暦140年頃-200年頃)の墳墓の可能性が高いと思います。平原王墓を発掘した原田大六氏(1917-1985年)は、被葬者を玉依姫(大日孁貴)としている。原田氏は1917年(大正六年)正月生まれだから、大六と云う名になった。

 

 伊都国の中央にある三雲(みくも)には細石神社(さざれいしじんじゃ、旧名・佐々禮石神社)が鎮座、祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)と木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

 1.9km北東の高祖山(たかすやま、416m)麓には高祖神社(たかすじんじゃ)が鎮座、祭神は彦火々出見命、玉依姫命、息長足姫命。夏至の頃には高祖神社方向から太陽が昇る。

 

 

 

 細石神社の1.3km北西に平原遺跡(3世紀初頭)、すぐ近くには三雲南小路遺跡(紀元前1世紀)、井原鑓溝遺跡(紀元1世紀)、端山古墳(はやまこふん、4世紀の前方後円墳)、築山古墳(つきやまこふん、4世紀の前方後円墳)がある。

 端山古墳と築山古墳は五十猛命の5世孫の墳墓か? 10代崇神天皇の弟か従兄弟か?

 

 福岡市西区大字元岡の元岡遺跡群G6号墳では、年号の「庚申」銘文入り金象嵌鉄刀(75cm)と青銅製大型鈴(12cm)のほか、多数の玉類、須恵器、鉄鏃、馬具などが出土している。


 鉄刀に19文字が金象嵌されており、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果錬」と記されている。 「福岡市教育委員会」の解説をご覧ください。

   

 G6号墳は7世紀初め築造の方墳(一辺18m)なので、年号の庚寅は西暦570年のことだと考えられ、29代欽明天皇の時代になる。

 大和政権は、神功皇后(西暦321-389年)の新羅遠征(363年)を契機として、4世紀から朝鮮半島で頻繁に軍事活動をしているので、元岡製鉄遺跡群で武器・鎧・兜・楯などが生産されていたと考えられる。軍事訓練も盛んだったでしょう。

 福岡市教育委員会の「福岡市元岡・桑原遺跡群の大規模製鉄遺跡」をご覧ください。

     

 任那の日本府が29代欽明天皇(西暦509-571年)時代の西暦562年に新羅によって滅亡した。これを奪還するために33代推古天皇(西暦554-628年)は新羅に出兵し降伏させたが、兵が帰還すると新羅は再度占領した。

 志摩郡は新羅征討の際に駐屯地になっていた。推古天皇が西暦602年に聖徳太子(西暦574-622年)の弟・来目皇子(くめのみこ)を「撃新羅将軍」として派遣したが、出発前の603年に糸島市野北の駐屯地で皇子が亡くなったので新羅征討は中止となった。野北に久米の地名があり、久米神社も鎮座している。来目皇子遺跡も残っている。

 

 

 

 推古天皇11年(西暦603年)4月、来目皇子の異母兄・当麻皇子(たいまのみこ、西暦574年頃-634年頃)が征討将軍に任命され7月難波より出航し、76日に播磨国明石に到着するが、妻の舎人皇女が薨去したため、当麻皇子は舎人皇女を明石に埋葬し大和国に帰還、新羅征討計画は中止となった。神戸市西区の「吉田大塚古墳」をご参照ください。

  

  その後、朝鮮半島で何度も戦闘が繰り返され、日本は高麗・百済・新羅に調(貢納)を納めさせたが、調の代わりに新羅から皇太子を人質に取るようになった。しかし、任那(伽耶)が日本に復帰することはなかった。

 

 庚寅(西暦570年)銘の金象嵌鉄刀を伴って元岡遺跡群G6号墳に埋葬されたのは、任那奪還を目指した将軍クラスの皇族か武人だったのではないか。

 錬鉄の金象嵌鉄刀は欽明天皇から授けられたのであろう。

 

 砂鉄について

 砂鉄は、地球の上部マントルや地殻下部のような深部でマグマがゆっくり冷えてできた花崗岩や閃緑岩などの火成岩に含まれる「チタン磁鉄鉱」や「フェロチタン鉄鉱」が、岩石の風化によって粒子になってできた。

 日本列島はニュージーランド、カナダと共に砂鉄の世界三大産地と言われ、日本では古代から砂鉄を原料に「たたら製鉄」が行われてきた。「たたら製鉄再現」をご参照ください。

    

 中国山地(山口県から兵庫県までの500km)は花崗岩系でできているが、「たたら製鉄」の発達した中国山地の北側の山陰地方は南側の山陽地方より地質がかなり若く、黒雲母花崗岩を主体とするチタン磁鉄鉱帯(真砂砂鉄地帯)を形成している。南側の山陽地方はフェロチタン鉄鉱系(赤目砂鉄地帯)になっている。中国山地北側の出雲国でも南側の吉備国でも「たたら製鉄」が盛んであった。

 

 九州でも砂鉄が多い。糸島半島の海岸からは日本で最良の砂鉄が取れる。1999年に、福岡市西区の元岡にある九州大学移転用地(元岡遺跡)から、たくさんの製鉄炉の跡が見つかっている。

 古代に利用されていた地下資源は、鉄の他に「対馬の銀」、「筑豊香春岳の銅」がある。

 石炭と金は、九州では中世に発見された。火山からとれる硫黄は、九州北部の大友家や南部の島津家の貿易品として重要であった。

 近世では、金山、銅山、錫山の開発が進み、セメント原料の石灰石の採掘がはじまった。

    

 姫路市の「荒川神社」を投稿しましたのでご覧ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2020-03-13 13:52

秦氏(はたうじ)

52代嵯峨天皇(西暦786-842年)の命により西暦815年に編纂された新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)によると、秦氏は秦の始皇帝(BC259年-BC210年)の末裔となっている。4世紀末に日本に帰化した弓月君(融通王)を祖としている。

新撰姓氏録は古代氏族を調べるのに有効で、私も良く利用している。皇別、神別、諸藩に分けて分類されているが、秦氏は帰化人のため諸藩の中に含まれている。

秦氏は全国に拡散しているが、山城国へ進出し土木工事などで山城国の開発に貢献した。秦氏は50代桓武天皇(西暦736年-806年)の平安遷都(794年)に大きく寄与し、土地の提供・資金の融通・工事請負などの協力をした。


秦氏は京都では「松尾大社」「伏見稲荷大社」などを創建、秦氏が社家となった。兵庫県赤穂市では秦河勝(はたのかわかつ)を祀る「大避神社」が有名。秦河勝(西暦565年出生)は秦始皇帝34代目で、聖徳太子(西暦574年-622年)に仕えた。

     

秦氏に関する新撰姓氏録の記載には、

太秦公(うずまさのきみ)宿祢

「左京 諸蕃 漢 太秦公 宿禰 秦始皇帝三世孫孝武王(紀元前3世紀)之後也」

孝武王の子の功滿王が14代仲哀天皇8年に来朝。秦始皇帝の4世となっているが、その後の記録では12世となっている。それでも年代は全く合わない。25代目だと考えられる。

功満王の嫡子の融通王(弓月王)が15代応神天皇(西暦363-403年)の14年来朝し帰化した。

16代仁徳天皇の御世(5世紀初め)、秦氏が諸郡に定住し、絹織物を奉った。天皇は秦氏の絹織物は着てみると柔らかく、肌のように温かいと喜ばれた。それで「波多(はた)」の姓を賜った。(28代目の普洞王、西暦407年出生)

その後、登呂志公と秦酒公(はたのさけのきみ)の姓を賜り、21代雄略天皇の御世(5世紀半ば)、多くの絹織物を奉り、禹都萬佐(うづまさ、太秦)の姓を賜った。(29代目の酒王、西暦433年出生)

秦忌寸(はたのいみき)

「左京 諸藩 漢 忌寸 太秦公宿祢同祖 融通王五世孫丹照王之後也」

秦造(はたのみやつこ)

「左京 諸藩 漢 造 始皇帝五世孫融通王之後也」

文宿祢

「左京 諸藩 文 宿祢 出漢高皇帝之後鸞王也」

秦忌寸

「右京 諸藩 漢 秦 忌寸 太秦公宿祢同祖 功満王三世孫秦酒公之後也」

「右京 諸藩 漢 秦 忌寸 始皇帝四世孫功滿王之後也」

「山城国 諸藩 漢 秦 忌寸 太秦公宿祢同祖 秦始皇帝之後也」

功智王、弓月王、誉田天皇(15代応神天皇)十四年来朝、上表更帰国、

率百廿七縣伯姓帰化、併献金銀玉帛種々宝物等。

天皇嘉之、賜大和朝津間腋上地居之焉。

男真徳王、次普洞王、大鷦鷯天皇(16代仁徳天皇)御世、

賜姓曰波陀(ハタ)、今秦字之訓也。

  

2014629日投稿の「応神天皇の時、秦氏一族が渡来」をご参照ください。

秦の始皇帝の後裔を称する鹿児島県の「嶋津氏系図」によると、嶋津氏(島津氏)は始皇帝後裔の秦氏の支流惟宗氏(これむねうじ)を始祖とする。

始祖の嶋津左兵衛少尉惟宗忠久(1227年没、源頼朝に仕える)は日向国諸県郡嶋津荘(宮崎県都城市)の地頭に任ぜられて氏と為す。

嶋津氏の家紋は丸に十文字。家系図は秦始皇帝から現在の嶋津修久氏(1938年生)まで続いている。

秦始皇帝の時代は、それまでの中国の風俗習慣からは大きく違っていた。西アジアの影響が大きい。シルクロードを通ってペルシャ、イスラエルなどから中国へ多くの人がやって来た。

日本までたどり着いた秦氏はペルシャ人(ハシ人)の子孫かもしれない。秦氏の氏寺である広隆寺は京都市右京区太秦蜂岡町(うずまさはちおかちょう)にあるが、蜂岡の蜂は「ハシ」で、ペルシャ人のことだとも云われる。

宗像大社の沖津宮(沖ノ島)出土の「ガラス製品」は古代メソポタミア製と判明した。

   

姫路市の「蒲田神社」を投稿しましたのでご覧ください。

   

印南神吉  メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2020-03-07 00:07

東夷(とうい)

黄河文明の漢民族は、「華」、「夏」、「華夏」などと自称し、周辺の諸民族を「東夷(とうい)」、「北狄(ほくてき)」、「西戎(せいじゅう)」、「南蛮(なんばん)」と呼んでいた。

東夷の「夷」の意味は、野蛮国、野蛮人で、「夷狄(いてき)」は東方と北方の野蛮人、蔑称である。

日本でも征夷大将軍、尊皇攘夷などとして「夷」を使っている。

昨年65日投稿の「漢族(漢人)とは」をご参照ください。

   

本来の「夷」は、古代中国東部の山東省と江蘇省の地名・異民族名で、「莱夷(らいい)、徐夷、奄夷(えんい)、淮夷(わいい)など」であった。

奄夷の奄国(BC16世紀-BC8世紀、山東省曲阜)は、周(BC1020年-249年、洛陽)に追い出され、跡地は斉(BC1046年-BC386年)や魯(ろ、BC1055年-BC249年)になった。更に楚(~BC223年)が進出してきた。孔子(BC552年-BC479年)の生誕地である。

追い出された奄国は列島に逃れ、奄美国(あまみのくに、奄美諸島か)になったと云う説がある。そのせいか、中国は琉球諸島を中国領だと主張し、毎日のように尖閣諸島に領海侵犯している。

山東省と江蘇省には、莱(山東省莱州、莱陽市、莱西)、泗(山東省泗水県、泗水)、徐(江蘇省徐州市)、淮(江蘇省淮安市、淮河)などが地名や河川名として現在でも残っている。

魯国の出身(山東省曲阜)である孔子は2mほどの長身だったと云われ、肖像画は西アジア風の顔である。儒教の孟子、道教の老子、荘子など東夷出身の聖人像は西アジア風である。

後漢書東夷伝によると山東省、江蘇省付近の「東夷」は、畎夷(けんい)、于夷(うい)、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷、嵎夷(ぐうい)、藍夷(らんい)、徐夷、淮夷(わいい)、泗夷(しい)で、青字の9国は「九夷(きゅうい)」と云われた。

九夷はシュメール人、ヘブライ人(イスラエル人)、ペルシャ人などの西アジア人だと考えられ、彼らは国が亡ぶと、東方に楽園があると云う信仰に基づいて東方に移動していった。そして中国の東端である山東省、江蘇省まで移動し、住み着いて「九夷」と云われた。

「礼記(らいき)」王制篇に、「東方のことを夷という。夷とは根本の意味で、恵み育て生命を尊重すること。万物は土地に根ざしてできるものである。そのため、東夷の民族は従順で、道理をもってすれば容易に治められ、君子の国や不死の国があると云う。」とある。

本来の「夷」は蔑称ではなく、好意・尊敬をもって捉えられていた。

中国を統一した秦(BC221年-BC206年)の始皇帝(BC259年-BC210年)以降は、東夷(山東省と江蘇省)も国内に組み込まれたので「東夷」は消滅した。

その後、「東夷」は、東北地方(満州)、朝鮮半島、日本列島など中国の東方にある異民族を指すようになった。

   

東京大学教授の「植田信太郎氏」(現在は名誉教授)が、中国の山東省淄博市(しはくし)で出土した2500年前(春秋時代)と2000年前(漢代)の古人骨のDNA分析、及び同地区に住む現代の漢民族のDNA分析を行った。

同じ場所に住む2500年前と2000年前と現代と、3つ時代のDNA分析・比較を行い、遺伝的多様性と集団の移動・拡散・混血などを明らかにした。

2500年以上前に住んでいた集団と、2000年前及び現代に住んでいる集団との間には大きな差があり、500年の間に大きな集団移動(移住)が起きていたことが分かった。

2500年前に住んでいた集団は、現代ヨーロッパ人類集団や現代トルコ人集団と遺伝的に非常に近い結果となった。アジア大陸の東端にもヨーロッパ・トルコ系集団が居住していたことが明らかになった。

2500年前は孔子などが山東省で活躍していた時代である。古代の哲学は日本人にも大きな影響を与えたが、中国では戦乱の多発や異民族に長期間支配され、民度は低下してしまった。

そして2500年前から2000年前の500年の間に、現代と同じ東アジア系集団も山東省に移住してきた。山東省は「斉」、「魯」の領土になり、その後は山東省と江蘇省は「楚」の領土になった。BC221年には「秦」が全土を統一し、BC206年には「前漢」となった。

ヨーロッパ・トルコ系集団は、2000年前には東アジア系に吸収され融合していった。

   

ヨーロッパ・トルコ系集団は東アジア系集団に吸収され融合していったが、多くは大挙して移動し、列島までやってきたと云う。

山東半島の北にあった燕国(河北省)出身の衛満(えいまん)が、BC190年頃に朝鮮北部の箕氏(きし)朝鮮を追い出し、衛氏朝鮮を建国。この頃に山東省・江蘇省にいた多くの「東夷」が朝鮮に移動した。

秦(BC221年-BC206年)による全土統一に続き、前漢(BC206年-AD8年)による全土統一によって、多くの漢人が東夷の住む山東省・江蘇省に移動してきたために押し出されたのでしょう。

朝鮮の人口は急増したが、東夷は更に東を目指し、最東端の列島にやってきた。

この西アジア系大集団(東夷)は弥生時代後期の列島に大挙してやってきて、揚子江からやってきた倭人(弥生人)とは別のパワーと技術を発揮し、やがて列島は弥生時代から3世紀後半の古墳時代へと変遷していったのではないか。

この東夷の集団は、金属・水銀朱など鉱物の採掘、鉄器と青銅器の製作、大規模土木建築事業、織物業、民族音楽などを得意とした。

物部氏がその集団と深く関わったのかもしれない。10代崇神天皇(西暦251年-301年)が物部氏と組んで列島統一に取り掛かり、同時に古墳時代が始まった。

15代応神天皇(西暦363年-403年)の頃にも「秦氏」がやってきたが、西アジア系集団の波状的な渡来の一環かもしれない。「応神天皇の時、秦氏一族が渡来」をご参照ください。

物部守屋が西暦587年に蘇我氏に敗れると物部氏の勢力が衰退し、古墳時代が終焉した。

   

秦氏の族長である秦河勝が聖徳太子(西暦574年-622年)の大蔵吏となって国家財政を担い、秦氏一族が文化・経済・外交・軍事で大きな力を発揮した。秦河勝は「大避神社」に祀られている。

秦氏が山城国(京都)に定住、開拓して京の歴史が始まった。秦氏一族の本拠地は、平安京の西大路から桂川周辺で、太秦(うずまさ、ヘブライ語で「光の賜物」)の広隆寺が中心となる。もう一方の中心地が伏見区深草の「伏見稲荷大社」。    

広隆寺の東600mの京都市右京区太秦森ケ東町に鎮座の木嶋坐天照御魂神社(木嶋神社、蚕の社)も秦氏の氏神になっている。境内に「元糺の池(もとただすのいけ、洗礼池)」があり、三柱鳥居が立てられている。

西京区嵐山宮町の「松尾大社」も秦氏の氏神になっている。

  

50代桓武天皇(西暦737年-806年)による長岡京遷都(784年)、その後の平安遷都(794年)に際し、秦氏一族は財政援助、技術提供で桓武天皇を支えた。

また、秦氏一族の事業により、土木建築、酒造、養蚕、機織り、農業、灌漑、雅楽などが発展した。


「稲岡神社(姫路市)」を投稿しましたのでご覧ください。

   

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# by enki-eden | 2020-02-29 10:51

古代ガラス

 ガラスの製造はメソポタミアのシュメール人が5000年ほど前に始めたと見られるが、同じ頃のエジプト第1王朝時代にもガラス玉が装飾用として使われていた。

 古代ローマ時代になると、1世紀のポンペイ遺跡で、ガラスが家の採光用天窓として使われていた。溶けたガラスを鋳型に流してガラスを造り、天井の採光用に使った。

 ガラス板は小さいので、大きなガラス板を造るには、鉛の枠にガラスをはめ込んで、多くの枠を繋いで大きく拡大していった。

 中世になると、教会の窓に色ガラスを枠で繋いだステンドグラスが好まれた。

 

 日本では、遮光器土偶で有名な青森県つがる市木造(きづくり)亀ヶ岡の亀ヶ岡遺跡(縄文時代晩期)でガラス玉が出土している。

 

 遮光器土偶は中空になっているが、「玉津田中遺跡現地説明会」で見た土偶も中空であった。

   

 弥生時代の遺跡でも土器と共にガラス玉が出土しており、装飾品として使われていた。また、ガラス製の勾玉や勾玉用の鋳型も出土しているので、ガラス製の玉と共に勾玉も製造していた。

   

 「奈良文化財研究所」によると、「ガラスの破片をタコ焼き器のような形の鋳型につめ、加熱してガラス玉に加工した」とある。

 弥生時代にはガラスの原材料は輸入していたと考えられるが、古墳時代には国内で生産したと考えられる。

 

 尼崎市富松町(とまつちょう)の「富松神社(とまつじんじゃ)」を投稿しましたのでご覧ください。

     

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# by enki-eden | 2020-02-22 11:21

伊勢神宮内宮(三重県伊勢市宇治館町1番地)の緯度は北緯34°2718になっている。

同じ緯度を西に辿ってみると、    

談山神社(奈良県桜井市多武峰319)が34°2757、祭神は藤原鎌足(614年-669年)。

       鎌足は藤原氏隆盛の基を築いた。 藤原不比等(659年-720年)の父。

高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村平田)が34°2744、被葬者は忍壁皇子(おさかべの

みこ、705年没)か? 40代天武天皇(686年崩御)の皇子。

直系23mの円墳、国宝の壁画で有名、築造時期は700年前後。

伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀740)が34°2736、淡路国一宮、

祭神は伊弉諾尊(125年頃-190年頃)、倭王兼7代目奴国王。

海神神社(かいじんじんじゃ、長崎県対馬市峰町木坂247)が34°2751、対馬国一宮、

祭神は豊玉姫命(初代神武天皇の祖母)。

配祀: 彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜葺草葺不合命。


図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

伊勢神宮と同じ緯度の対馬に海神神社(かいじんじんじゃ)_d0287413_09455147.jpg

海神神社祭神の豊玉姫は山幸彦(彦火火出見命、西暦140年頃出生)の妻で、子は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、孫は神武天皇(西暦181年-248年)。

豊玉姫は天照大神(大日孁貴、おおひるめのむち)で、玉依姫も天照大神(卑弥呼、西暦179年-247年)だと云う説があるが、卑弥呼は市杵嶋姫の娘だと私は見ています。

山幸彦は兄の海幸彦から借りた釣り針を失い、志摩の国(糸島半島)から海神の国(対馬)まで探しにやってきた。「海神」の娘である豊玉姫命は、異国から訪れてきた山幸彦と結婚して、志摩の国へ行き海岸の産屋で鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を生んだ。

豊玉姫が出産する際に、古事記では「八尋鰐(やひろわに)」の姿、日本書紀では「龍」の姿となったのを山幸彦が覗いたので、正体を見られたことを恥じた豊玉姫は鵜葺草葺不合を残して海神の国へ帰ってしまった。豊玉姫は鰐をトーテムとする海人族であった。

鵜草葺不合命は、豊玉姫の妹(又は娘)の玉依姫(たまよりひめ)に養育され、後に玉依姫を妻として神武天皇(西暦181年-248年)をもうける。

志摩半島の西沖合5kmに姫島(糸島市志摩姫島)があり、姫島神社が鎮座、祭神は豊玉姫命。豊玉姫命は姫島の北端にある「産の穴(うそのあな、うぶのあな)」で生まれたと伝わる。

姫島の16km真東の糸島市志登の志登神社(しとじんじゃ、志摩郡総社)に豊玉姫命が祀られている。豊玉姫命が彦火火出見命を追って上陸した霊地だと云う。

志登神社は、名前の通り「摩国」と「伊国」の中間にあり、古代の志摩地区は糸島水道によって分離された島(志摩国)であり、志登神社周囲はその糸島水道に当たり、海神である豊玉姫命や和多津見神を祀っていたものと思われ、古代は海より参拝していたらしい。

志登神社の3.5km南に平原(ひらばる)遺跡の平原王墓がある。被葬者は女性で、豊玉姫命と云う説がある。豊玉姫命の墳墓は対馬にもあるが・・・

平原王墓の3km東の糸島市高祖に高祖神社(たかすじんじゃ)が鎮座しており、祭神は彦火火出見命と玉依姫命。

「平原王墓の埋葬方向」「伊都国を掘る」をご参照ください。

  

竜宮の豊玉姫を妻とした山幸彦は、宝物の潮満珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおひるたま)を授かった。そして、その宝物の威力により、兄の海幸彦との争いに勝利した。

この物語のシーンは、旧約聖書のモーゼの「出エジプト記」を思い出させる。この他、日本書紀の「天地開闢」の話も旧約聖書の「創世記」によく似ている。

聖徳太子(西暦574年-622年)の幼名「厩戸の皇子(うまやどのみこ)」の記事が、新約聖書のキリスト生誕記事によく似ている。

記紀の成立した8世紀より前に、西アジアからシルクロードを通って列島まで来た人々が既にいたと云う。

ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏(1909年-1996年)の研究によると、日本書紀の29代欽明天皇(西暦509年-571年)15年(西暦553年)2月、百済からやってきた医博士奈率・王有陵陀(くすしのはかせなそつ・おううりょうだ)と採薬師施徳・藩量豊丁有陀(くすりかりはかせせとく・はんりょうぶちょううだ)の二人はペルシャ人だと云う。

王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」で、「ワイ(神)によって助けられるもの」と云う人名だと云う。

藩量豊丁有陀は「ボリヤワーデン・アヤード」で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」と云う名のイラン人医師であると云う。

6世紀半ばの欽明天皇の時代にペルシャ人の医師が大和朝廷に仕えていたのだ。

日本とペルシャの直接的な貿易は遅くとも7世紀に始まっているが、木簡の調査により、広範囲な交流があったと云う。

平城宮跡の発掘調査で発見された天平神護元年(西暦765年)の木簡を赤外線で調査した結果、日本に住むペルシャ人の役人の名前が出てきた。破斯清通(はしのきよみち)で、「波斯、破斯(はし)」はペルシャ人を表す。

奈良文化財研究所によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャ人が得意としていた数学を教えていた可能性があると云う。

天平8(西暦736)に遣唐副使・中臣名代(なかとみのなしろ、745年没)の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人の李密翳(りみつえい)は大和朝廷に勤めた。医師であったのか、ゾロアスター教の神官だったのか、あるいは商人だったのか。 正倉院の御物にはペルシャ製品が多い。

李密翳(りみつえい)の日本名が破斯清通(はしのきよみち)の可能性がある。

45代聖武天皇(西暦701年-756年)と光明皇后(西暦701年-760年)に仕えた李密翳の「翳」は、中世ペルシャ語では「楽人」であるので、医師ではないようだ。

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# by enki-eden | 2020-02-20 09:46

 兵庫県尼崎市東難波町3丁目6-15「難波八幡神社」を投稿しましたのでご覧ください。

 祭神 応神天皇(八幡大神)

   

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# by enki-eden | 2020-02-15 10:57

ローマ帝国の第17代皇帝は、ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス(西暦161年-192年)で、在位期間は西暦180年から192年であった。

17代皇帝は16代皇帝の嫡男で、ネルファ・アントニヌス朝(西暦96年-192年)の最後の皇帝となる。

西暦190年にヨーロッパで穀物危機が発生し、ローマ帝国は民衆に十分な食料を確保できなかったので、それまでコンモドゥス皇帝を支持していた民衆が各地で暴動を起こすようになった。

皇帝は暴君となり、多くの元老院議員を処刑しようとしたが、事前に発覚し、31才の若さで近衛隊に暗殺されてしまい、ネルファ・アントニヌス朝は崩壊した。

西暦1921231日にコンモドゥス皇帝が暗殺されると、197年まで内戦が続いた。セプティミウス・セウェルス(146年-211年)が内乱を終結させ、セウェルス朝が成立。

  

ローマ皇帝の16代と17代が在位した時代(西暦161年-192年)は、日本列島では倭国王兼7代目奴国王の伊弉諾尊(いざなぎのみこと、西暦125年頃-190年頃)の時代であった。

西暦181年にニュージーランドの「タウポ火山の巨大噴火」により、世界的な気候変動が起き、地球規模の動乱が起きた。この年(西暦181年、辛酉年)に初代神武天皇が生誕、タウポ火山は現在でも火山活動が活発に起きている。

日本列島では、西暦180年代に倭国(北部九州)で「倭国乱」が勃発、倭王の伊弉諾尊が失脚し淡路島に隠遁、素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)が亡くなった後、201年に卑弥呼(西暦179年-247年)が共立され女王に就任し、倭国乱が治まった。

紀元前3世紀のペルシャでは、ギリシャのアレキサンダー大王(紀元前356年-紀元前323年)の後継者・セレウコス1世ニカトール(紀元前358年-紀元前281年)が築いたセレウコス朝に支配されていたが、「遊牧イラン人」の族長・アルサケス(紀元前211年没)がカスピ海の南東にパルティア王国(紀元前248年頃-紀元後226年)を造って独立した。

パルティア王国のミトラダテス1世(紀元前195年-紀元前132年)は強大なペルシャ軍を育成、ローマ帝国とたびたび争った。繁栄を謳歌したパルティア王国も2世紀末の「世界的な異常気象」により次第に弱体化し、「農耕イラン人」のアルダシール(西暦180年-242年)によるササン朝ペルシア(西暦226年-651年)に取って代わられた。

アルダシールはゾロアスター教の神官出身であったので、ササン朝ペルシャはゾロアスター教を国教とした。ペルシャは日本列島から遠く離れているがアルダシールは、鬼道で人々の心をとらえた卑弥呼(西暦179年-247年)と同じ動乱の時期を生きた。どちらの王も異常気象と戦乱の世の中で、宗教を重視して人々の結束・統一を図った。

ローマ帝国では3世紀に大規模な動乱が発生し、存亡の危機となった。西暦260年にはローマ・ペルシャ戦争が勃発、ウァレリアヌス帝がエデッサの戦いでササン朝ペルシャ帝国のシャープール1世(西暦215年頃-272年頃)の捕虜となりペルシャに連行されてしまった。

2世紀末の異常気象により、ドイツ北東部に住んでいたゲルマン人が寒冷の北欧から南欧に侵入し始めた。やがてこれが4世紀後半の「フン族の侵入」や「ゲルマン人の大移動(大侵入)」に発展し、紀元前27年に始まったローマ帝国が西暦395年に東西分裂となる。分裂する前の西暦392年にキリスト教がローマ国教となった。混乱の世の中を治めるには、共通の宗教が必要であった。

中国では西暦184年に「黄巾の乱」が勃発、群雄割拠して後漢(西暦25年-220年)が衰退し、三国時代に入っていく。

卑弥呼は西暦238年に魏(220年-265年)に朝貢し、「親魏倭王」となる。248年に卑弥呼の後継者となった臺與(235年頃-295年頃)が、大陸の戦乱により大陸と交易ができなくなり、日本列島を統一するために、270年頃に大和国へ東遷したと考えられる。

図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。


大和国では1世紀終わり頃から、出雲系の人々が奈良盆地東部と西部に住み着き、磯城氏、三輪氏、鴨氏などになった。紀氏は紀伊半島を拠点とした。

2世紀後半になると、饒速日(西暦165年頃出生)が185年頃に東遷し、奈良県桜井市の纒向(まきむく)を都とした。

纏向の墳墓は纏向型前方後円墳で、纒向石塚古墳(全長96m)、纒向矢塚古墳(全長96m)、纒向勝山古墳(全長115m)の築造時期は3世紀前半である。

東田(ひがいだ)大塚古墳(全長120m)、「ホケノ山古墳」(全長80m)は3世紀中頃から後半の築造である。   

3世紀になると、神武天皇(西暦181年-248年)が204年に九州から東遷開始、臺與(235年頃-295年頃)が270年頃東遷、数次にわたって倭国(北部九州)から大和国(奈良県)に大部隊で移住し、列島の中心が北部九州の倭国から大和国(奈良県)に遷った。

更に、280年頃に定型的前方後円墳の「箸墓古墳」(全長278m)が完成、弥生時代から古墳時代に入っていく。    

この頃の奈良盆地は中央が湖(大和湖)になっており、人々は東西の山麓に住んでいた。

2世紀末にタウポ火山の巨大噴火により、地球規模の異常気象が発生し、200年ほどの間、世界中で戦乱や民族の移動が起こった。

日本列島でも、神功皇后(西暦321年-389年)の時代になって国内治安が平定され、海外派兵するまでになった。

現代も大量の二酸化炭素排出などで世界異常気象が起き、政治・経済・社会も混沌としているが、緊急を要する課題だと考えています。

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# by enki-eden | 2020-02-13 09:18

難波熊野神社(尼崎市)

「難波熊野神社」を投稿しましたのでご覧ください。

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# by enki-eden | 2020-02-08 14:14

大国主命とネズミ

大国主命(160年頃-220年頃)は、素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の娘である須世理毘売と結婚するために素戔嗚尊に許しをもらいに行ったところ、様々な試練を命じられた。

その試練の中に、野原で火攻めにあう場面があったが、その時ネズミが現れて逃げ道を教えてくれたので助かった。それで、大国主命の神使いは「ネズミ」になったと云う。

また、神仏習合の時代には、大国主命はインドの闇黒神である大黒天と習合された。大国主命の「大国」と大黒天の「大黒」が、同じ「だいこく」と読めることからの習合か?


天台宗開祖の最澄(伝教大師、767年-822年)が、804年に遣唐使として唐に渡って三面大黒天の強大な力を知り、毘沙門天・弁才天と合体した三面大黒天を比叡山延暦寺の守護神として大黒堂に祀ったのが日本の大黒天の始まりと云う。

三面大黒天は、正面に大黒天(五穀豊穣・良縁)、向かって左に毘沙門天(武神)、右に弁才天(芸能、財宝)を合体して、現世利益の最強神となった。

延暦寺大黒堂

大黒天の色は「黒(玄武)」だから「北方の神」となる。東は青(青龍)、南は赤(朱雀)、西は白(白虎)。

北の方角は十二支では子(ネ)になるので、大黒天の神使いは子(ネズミ)になった。「大黒様」の祭りは子(ね)の日に行われ、特に年6回ある甲子(きのえね)の日を祭日とする。

「だいこく」つながりと「ネズミ」つながりで、大国主と大黒天は習合されたようだ。

七福神の大黒様は農業の神様で、米俵に乗り、大きな袋を抱え、打ち出の小槌を持った姿で描かれる。同じ七福神の恵比寿様は漁業の神様・商売繁盛の神様で、釣竿を持って、大きな鯛を抱えている。恵比寿・大黒は一組にして信仰されることが多い。

「敷津松之宮(大国主神社)」「西宮神社」をご参照ください。

  

大国主命の生年は西暦160年頃と私は見ていたが、ちょうど160年は庚子(かのえね)の年だから、ネズミ年の大国主命の神使いはネズミになったのかもしれない。

ネズミ年の性格は、「問題から逃げる」と云う特徴があって、少々問題が発生しても、機転をきかせて対処することができるが、本当に重大な問題になると、早く見切って逃げてしまう弱点を持っているようだ。

これは占いだから、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」だが、大国主命が西暦201年頃に「出雲の国譲り」を強制された時のあっけない譲歩は、これを証明しているのかもしれない。

「令和おじさん」で知られる内閣官房長官の菅義偉(すが よしひで)氏はネズミ年で、大黒様の衣装が似合いそうに感じます。苦労人で、人情に厚く、親しみやすい。

元首相の竹下登氏、福田康夫氏もネズミ年である。

私は古代史研究の合間に音楽を聴いていますが、ギターの好きな方は「City Cruise」を聴いてみてください。 フル画面で見るといいですよ!


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# by enki-eden | 2020-02-06 00:11

大島神社(尼崎市)

尼崎市の「大島神社」を投稿しましたので、ご覧ください。

  

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# by enki-eden | 2020-01-31 09:52

 奈良県天理市の櫟本(いちのもと)チトセ遺跡

 奈良県天理市の櫟本チトセ遺跡で、古墳時代前期後半(4世紀後半、神功皇后・応神天皇の時代)の井戸2基を発見。

 天理市教育委員会は昨年7月から発掘、古墳時代の集落跡を見つけ、「櫟本チトセ遺跡」と名付けた。

 井戸の中から小型銅鏡、木製品、桃の種などが出土したと天理市教育委員会が発表した。古墳時代の井戸から完全な銅鏡が出土するのは、兵庫県明石市の藤江別所遺跡に次いで2例目で、「水に関わる祭祀」に用いられたと云う。

 建物跡とみられる柱穴群や、水を引くためとみられる大溝も見つかった。2014310日投稿の「水のまつり」をご参照ください。   

 

 2基の井戸のうち、直径2.3m、深さ1.2mの素掘りの井戸から直径3.6cm、厚さ0.5mmの銅鏡が1枚見つかった。放射状に多数の直線が表現された国産の「櫛歯文鏡(くしばもんきょう)」。

 

 遺跡の近くには後漢の年号「中平」の文字が刻まれた鉄刀が出土した「東大寺山古墳」があり、被葬者の居住地域は分かっていなかったが、天理市教育委員会は、チトセ遺跡に被葬者が住んでいた可能性もあるとしている。   

 近くの天理市櫟本町2430「和爾下神社」も鎮座しており、和爾氏との関わりが深い。

    

 出土した銅鏡は2123日に天理市文化センター(天理市守目堂町117)で展示する。〔共同〕

 

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# by enki-eden | 2020-01-29 11:32

玉津田中遺跡現地説明会

先ほど、アメブロ「古代史探訪」で「玉津田中遺跡現地説明会」を投稿しましたので、ご覧ください。

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# by enki-eden | 2020-01-26 19:40

伊毘志都幣命(いびしつべのみこと)は出雲国風土記に記載の神で、出雲国飯石(いいし)郡に天下った。   

島根県雲南市三刀屋町(みとやちょう)多久和(たくわ)1065「飯石神社(いいしじんじゃ)」に祀られている。式内社で、神紋は二重亀甲に「石」又は「剣花菱」。

当社境内に遷座してきて幣殿横に並んでいる境内社の託和神社(祭神は吉備津彦命)も、出雲国風土記に記載されている。

当社は、斐伊川の支流である三刀屋川の支流の飯石川(託和川)が南北に流れている東側に西向きに鎮座。本殿はなく、拝殿、幣殿の後方に二重の玉垣があり、ご神体の石(磐座)が祀られている。この石に伊毘志都幣命(いびしつべのみこと)が降臨したと云う。

当社の6km北には大己貴命(大国主命、160年頃-220年頃)が生まれ、育った宮がある。

「飯石郡」の地名由来は、45代聖武天皇(701年-756年)の天平5年(733年)に完成した出雲国風土記に「飯石と称するゆえんは、当地に伊毘志都幣命が坐(いま)すので、飯石と云う」と記されている。聖武天皇の神亀3年(726年)に地名の伊毘志を飯石に改めている。

島根県神社庁が昭和56年に発行した「神国島根」に、伊毘志都幣命は天照大神の御子である天穂日命の御子神と記されている。

天照大神と素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の誓約(うけい)により五男三女神が生まれ、天穂日命は天照大神の第二子(次男)となった。天穂日命は西暦200年頃の「出雲の国譲り」に登場する。天穂日命は天日隅宮(あめのひすみのみや、出雲大社)の祭主となって、大国主神を祀る。

天穂日命は摂津国では「芦屋神社」に祀られている。また、六甲山カンツリーハウスの敷地内に天穂日命を祀る磐座がある。   

原田常治(つねじ、1903年-1977年)著「古代日本正史」によると、天照大神(大日孁貴)は、素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が出雲に帰るときに次男の天穂日命を連れて帰ってもらっている。更に、大国主命と多紀理姫の末子・事代主命は、出雲では伊毘志都幣命と呼ばれたとあるが・・・

世代的には事代主命も伊毘志都幣命も西暦180年頃の出生であるが、事代主命と伊毘志都幣命が同一とすれば、事代主命の「えびす」と云う名は「いびしつべのみこと」が由来かもしれない。

出雲大社の祭祀を行う出雲国造家(天穂日命が祖神)は、出雲大社と同じく出雲国一宮の熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)がある意宇(おう)郡を発祥とする。

出雲にやってきた天穂日命は熊野大神櫛御気野命(素戔嗚尊)から燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりぎね)を授かったという。現在でも出雲大社の宮司が代替わりの時に、熊野大社の宮司から出雲大社の宮司に鑽臼と鑽杵を授ける神事が続いている。

天穂日命は素戔嗚尊から意宇郡を治めることを許されたと考えられる。天穂日命は島根県安来市(やすぎし)吉佐町(きさちょう)365の支布佐神社(きふさじんじゃ)に祀られており、当地を本拠にしたと考えられる。

そして素戔嗚尊が西暦200年頃に亡くなると、201年に卑弥呼(天照大神②、179年-247年)が倭国の女王となり、大国主命(160年頃-220年頃)の北部九州の支配地(葦原の中津国)を放棄させ、大国主命は出雲に帰り、出雲の杵築に大きな宮を築いてもらう。

大国主命が西暦220年頃に亡くなると、天穂日命が祭主となって大国主命を出雲大社で祀った。やがて祭主は天穂日命の養子となった伊毘志都幣命に引き継がれ、出雲国造となる。

私見ですが、伊毘志都幣命は大己貴命(大国主命)の子で、天穂日命が素戔嗚尊と共に出雲にやってきた際に、天穂日命と伊毘志都幣命は親子の契りを結び、天穂日命が亡くなった後は伊毘志都幣命が祭主を務めて大国主神を出雲大社で祀ったのではないかと考えています。

出雲国造家祖神の天穂日命は、出雲大社の本殿瑞垣外にある「北の氏社(うじのやしろ)」に祀られている。


大国主命と伊毘志都幣命の出身地は、いずれも島根県雲南市三刀屋町で近い。二人の関係は親子と考えられる。従って、伊毘志都幣命が出雲大社で大国主神を祀ることになったと考えられる。

天穂日命の養子となった伊毘志都幣命は、別名を天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)と云って、出雲国造と土師氏の祖となっている。現在の出雲大社宮司は千家尊祐氏(たかまさ、1943年生)で、84代目の出雲国造である。

出雲国風土記楯縫郡の神名の中に、神魂命(伊弉奈彌命)の子として天御鳥命(あめのみとりのみこと)が記されており、天夷鳥命と少し似た名前になっている。

伊毘志都幣命の別名は多く、武夷鳥命、武日照命(たけひなてるのみこと)、大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)、武三熊大人、天熊大人、稲背脛命(いなせはぎのみこと)などとも云う。

出雲国造家は14世紀半ばに千家国造と北島国造に分かれた。出雲信仰を全国各地に拡げるために、千家国造は「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」を主宰し、出雲大社の西側に本拠(千家国造館)を置き、北島国造は「出雲教」を主宰し、出雲大社の東側に本拠(北島国造館)を置いている。

原田常治氏は、古事記も日本書紀もウソが多いので読む気がしない、正しい古代史を構築するために記紀成立以前に創建された神社の由緒を研究して古代史を復元したと言っておられる。

「古代史の復元」については私も努力しているので共感できますが、記紀にはウソが多く読む気がしないというのは違うと思います。

誰が読んでも間違いだという部分は特に日本書紀に多いですが、それは「孔子の筆法」を用いているからです。正直にありのままを記述すれば当時の皇室の立場上、許されないことに関して、筆法を用いて真実を間接的に述べているからです。

私は、記紀は非常に重要な歴史書だと考えています。但し、記述の主体者は皇室だから皇室の立場で述べていると云うことです。弱者の立場や敗者の立場で歌を詠んでいるのが万葉集です。「古事記・日本書紀・万葉集」をご参照ください。   

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# by enki-eden | 2020-01-25 11:26

神戸市の田中遺跡発掘

 兵庫県教育委員会は、神戸市西区平野町の玉津田中遺跡にある弥生時代前期の集落跡から土偶と石棒が見つかったと発表した。

 縄文時代に使われていた土偶と石棒が弥生前期の遺跡から出土することは、時代の変わり目に縄文系と弥生系の遺物が混在すると云う自然な現象ではないか。

 

 

 

 高速道路の工事に伴い、20195月から発掘調査をしていた。2300年前の弥生前期の集落跡は、田中遺跡の西側にある。

 土偶の長さは7cm、石棒の長さは46cm。土偶の顔は、縄文人の彫りが深い顔ではなく、弥生人特有の平面的な顔になっている。

 126日(日)1330分から現地説明会がある。天気が少し心配。

 「サンテレビの報道」をご覧ください。  

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# by enki-eden | 2020-01-23 11:55
古代史探訪のブログを「アメーバブログ」でも立ち上げました。
先ほど、「道意神社(どいじんじゃ、尼崎市)」を投稿しましたので
ご覧ください。

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# by enki-eden | 2020-01-21 14:04

箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある定形型前方後円墳(280m、西暦280年頃築造)で、この築造を画期として弥生時代から古墳時代に入っていく。

被葬者は、宮内庁により「大市墓」として7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓に治定され、周濠が国の史跡に指定されている。

箸墓古墳について、奈良県立橿原考古学研究所と名古屋大学の研究チームは19日、物質を透過する素粒子「ミューオン」を利用し、箸墓古墳内部の構造を解明するための科学調査を実施したと発表した。調査結果は来年度に公表される。

赤のアイコンが箸墓古墳、黃が纏向遺跡。

2015418日投稿の「斎槻岳(ゆづきがだけ)」をご参照ください。

   

「ミューオン」は、宇宙線が大気と衝突してできる素粒子の1種で、地上に大量に降り注いでいる。 X線よりも高い透過力を持ち、厚さ1kmの岩盤も通過するが、高密度の物質に当たると透過量が減少する。そのため透過量を計測すれば物質などの内部構造を推定できる。

エジプトのピラミッドでは、この計測により未知の空間が内部にあることが分かった。

研究チームは平成30年、「ミューオン」で奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西の「春日古墳」に石室の空間があることを計測している。春日古墳は6世紀後半から7世紀初めに築造された30mの円墳で、藤ノ木古墳のすぐ近くにある。

 研究チームの調査は、201812月から箸墓古墳の前方部と後円部の近くに、墳丘を通過したミューオンを捉える2基の検出装置を設置して実施した。 ミューオンの痕跡を解析し、今年4月までの予定で、石室などの存在を確認する作業が続けられる。

 箸墓古墳は宮内庁が管理しており、発掘調査はできないが、橿原考古学研究所が2012年に実施した3次元航空レーザー計測で、後円部の最上段に直径約39m、高さ約4.7mの特殊な円丘がある。

 橿原考古学研究所の西藤清秀・技術アドバイザー(1953年生、元奈良県立橿原考古学研究所副所長・付属博物館館長)は、「被葬者が埋葬された竪穴式石室と推定される空間の存在が確認できる可能性がある。この調査方法は人が入れない古墳などに有効で、多くの古墳に応用できる」と云う。

私見ですが、倭国(九州)の女王臺與(235年頃-295年頃)は西暦266年に西晋に朝貢したが、大陸の内乱と北方異民族の侵入により、交易できなくなってきた。

臺與は列島統一を目指して270年頃に大和国に東遷。そのとき、卑弥呼(179年-247年)の遺骸を大和国に移し、280年頃に箸墓古墳が完成、卑弥呼を後円部に埋葬した。

 臺與も295年頃に亡くなり、前方部に埋葬された。箸墓古墳の後円部と前方部は厚い石積みで覆われており、盗掘されていないと考えられる。

 研究チームの調査結果が出れば、埋葬施設の状況がある程度分かるので楽しみです。

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# by enki-eden | 2020-01-18 11:08

三国志の筆法

孔子(BC551年-BC479年)の著書や、孔子が編纂したと云われる中国春秋時代(BC770年-BC403年)の歴史書「春秋」には、孔子が厳しい批判や指摘を展開している。

「春秋」は魯(ろ)国のBC722年からBC481年までの歴史的・社会的な記事を中心として年表で記されている。

魯はBC1055年からBC249年に山東省南部に存在し、魯の北にある斉との境界には石積みの長城があり、「千里の長城」と云われ、「万里の長城」よりも古い。孔子は魯の出身で各国を逍遥し、「儒教」の祖となった。

魯はBC249年に楚に滅ぼされ、山東省南部は楚の領地となった。楚の都は郢(えい)と呼ばれ、都がどこに移っても郢と呼ばれた。

魯の都・曲阜(山東省曲阜市、孔子の生地)の南方にある徐州(江蘇省徐州市)を楚は郢とした。徐州は項羽が楚の都とし、劉邦の出身地であった。

前漢の初代皇帝(高祖)となった劉邦(BC247年-BC195年)の出身地は江蘇省徐州市で、劉邦は楚の武将である項羽(BC232年-BC202年、妃は虞美人)に仕えていたので、私は劉邦が項羽と同じ楚人であると考えています。項羽の出身地は徐州市の東隣りの江蘇省宿遷市で、どちらも楚の領土であった。

孔子は直接的な表現で批判を述べるのではなく、間接的な表現を使い、ありのままの事実だけを述べているように見せるなど、暗号的な表現方法をとる場合がある。この表現方法を「春秋の筆法(孔子の筆法)」と云って、一定のルールが分かれば暗号を理解できるしくみになっている。

孔子の政治的・道徳的思想を「春秋」から研究しようとする「春秋学」も起こった。古来より種々の解説書があるが、魏と西晋に仕えた政治家・軍人・学者である名門の杜預(とよ、西暦222年-284年)が註釈した「春秋経伝集解」が春秋学の基本となった。

杜預は魏の司馬懿(179年-251年)の娘・高陸公主を妻とし、西晋に仕えてからは西暦280年に鎮南将軍として呉を滅ぼしている。「破竹の勢い」と云う言葉は、この時の杜預の進軍ぶりを云う。

孔子が「筆法」を用いたことにより中国の正史は、史実に加えて間接的な批判を記すようになった。

3世紀に蜀(蜀漢)と西晋に仕えた陳寿(233年-297年)が魏・呉・蜀の三国志を著したが、三国志にも春秋の筆法が使われている。陳寿が仕えた蜀漢や西晋を直接的には批判できないからである。

遼東半島と朝鮮を治めて燕王と称していた公孫淵が西暦238年に魏の司馬懿(しばい、179年-251年)により滅ぼされ、卑弥呼(179年-247年)が魏に使者を派遣できるようになった。新撰姓氏録によると、「左京 諸藩 漢 常世連 燕国王公孫淵之後也」とあり、常世氏(赤染氏)は燕王公孫淵の末裔と記している。司馬懿と卑弥呼は殆ど同じ時期を生きた。

春秋の筆法では国名や姓名の漢字を分解して筆法に使う場合がある。例えば魏に仕え、軍功により大将軍に昇進した司馬懿が西暦249年にクーデターにより王族の曹一族を皆殺しにして魏を簒奪したと云う史実がある。これを陳寿は立場上直接的に批判できないので魏書東夷伝倭人条に間接的に批判している。

陳寿は魏書東夷伝倭人条に「邪馬国(邪馬台国)」をわざと間違えて「邪馬国(邪馬壱国)」と記している。同じように西暦266年に晋に朝貢した與(とよ、235年頃-295年頃)も與(いよ、壱与)と表記し、整合性をとっている。

クーデターを起こした司馬懿の懿を分解すると、壹と恣に分けられる。司馬懿は「司馬壹恣」となり、邪馬臺国は「邪馬壹国」にわざと間違える。

共通文字の「馬壹」を省いて繋ぐと「司恣邪国」となり、「恣」と「国」を入れ替えると「司国邪恣」となる。「邪(よこしま)な恣意でもって国を支配する」と云う意味になり、司馬懿が魏を簒奪した事件を暗に批判した。

陳寿は司馬懿を批判するために邪馬臺国の「臺」を「壹」に代え、臺與を壹與に代えたのであった。後世の他の史書には正しく「臺與」と記され、筆法が理解されていたことが分かる。

陳寿の筆法は直ぐに解読され、陳寿は山東省の太守に左遷されたが、杜預の擁護により中央政府に職を得た。この擁護は「春秋学つながり」なのかもしれない。

臺與(西暦235年頃-295年頃)も杜預(西暦222年-284年)も日本語の発音は、「とよ」であるが、生きた時代もほぼ同じであった。

日本書紀においても孔子の筆法が頻繁に使われている。誰が読んでも間違いと分かる異常な記事が頻発するが、このような部分は筆法で、記紀の編纂者が何を言おうとしているのかを探る必要がある。

例えば、日本書紀の神武天皇紀に「天孫が降臨されてから、1792470年余になる。」とあるのは、天孫とは天照大神②(卑弥呼)で、初代奴国王生誕から179年後に生まれ、247年後に亡くなったと云う意味になる。

卑弥呼は西暦179年に生まれ、247年に亡くなっているので、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと)の生年は偶然にも西暦元年と云うことになる。

そして、初代奴国王の国常立尊は西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」となった。私見ですが、日本の皇室は初代奴国王から始まるとすれば、西暦元年が日本の皇室の始まりとなる。

宮廷公卿の大伴家持(おおとものやかもち、718年?-785年)は、「万葉集」を単なる和歌集ではなく、敗者や一般人の立場から「歴史」を暗示できる歌集として編纂していった。

      

藤原定家(1162年-1241年)は二つの勅撰集「新古今和歌集」と「新勅撰和歌集」、その他多くの作品を残したが、万葉集を研究し、和歌に政治的・歴史的な意味を見いだそうとしたのではないか。

小倉百人一首にも藤原定家の意図が見られるので、今後調べていきたい。

戦前の皇国史観では、神武天皇即位を紀元前660年にしている。その時期は縄文時代です。私見ですが、神武天皇(西暦181年-248年)の即位は西暦211年です。皇国史観に反発した戦後史学は日本の古代史を抹消してしまった。

日本の古代史は、皇国史観によって歪められ、戦後史学によって抹消されてしまったので、古代史を復活・復元する必要がある。

戦後史学により古代史が抹消されたが、多くの考古学者は、「発掘遺跡や出土品」と「古文書や伝承」との関りについて有意義な説を述べておられるので、古代史の将来に希望が持てる。

イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー(1889年-1975年)は、滅亡した民族について研究し、その共通点を見つけた。

自国の歴史を忘れた民族は滅びる。

すべての価値をお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる。

理想を失った民族は滅びる。

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# by enki-eden | 2020-01-17 19:27

出雲の西谷墳墓群②

西谷墳墓群がある古代の地名は出雲国神門郡(かんどぐん)で、出雲大社のある出雲郡の南に位置する。神門郡は大己貴命(大国主命)と深い関係があり、出雲国風土記神門郡条によると、

朝山郷(あさやまごう)

神魂命(かみむすひのみこと、出雲の祖神)の御子・真玉著玉之邑日女(またまつくたまのむらひめ)が鎮座していた。

所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大己貴命)が真玉著玉之邑日女を娶り、朝毎に通ってきた。だから、朝山という。

出雲市朝山町の朝山神社には真玉著玉之邑日女命(神魂命の娘、大己貴命の妻)が祀られている。西谷墳墓群の4.4km南に鎮座している。

八野郷(やのごう)

須佐能袁命(すさのおのみこと)の御子・八野若日女(やのわかひめ)が鎮座していた。

所造天下大神(大己貴命)が八野若日女を娶り、屋を造らせた。だから、八野という。

滑狭郷(なめさごう)

須佐能袁命の御子・和加須世理比売(わかすせりひめ)が鎮座していた。

所造天下大神が和加須世理比売を娶り、通ってきた時に岩があり、非常に滑らかだった。そこで所造天下大神が「滑らかな岩だ」と云われたので南佐(なめさ)→滑狭(なめさ)という。

多伎郷(たきごう)

所造天下大神と多紀理比売の御子・阿陀加夜努志多伎吉比売(あだかやぬしたききひめ)が鎮座していたので、多吉(たき)→多伎という。

西谷墳墓群から東の方向に目を向けると、

仏経山(ぶっきょうざん、366m)が西谷古墳群のほぼ真東4.3kmにある。出雲市斐川町神氷(かんび)にある仏経山は、出雲国風土記出雲郡条に「神名火山(かんなびやま)」と記されている。麓に御井神社(木俣神、八上姫命)。

出雲国に神名火山は4か所あり、他の三山は、

意宇郡の神名樋野(茶臼山、171m、松江市山代町)、麓に真名井神社(伊弉諾神)。

秋鹿郡の神名火山(朝日山、342m、松江市東長江町)、麓に多芸神社(速玉之男命)と

弥多仁神社(大己貴命)。

楯縫郡の神名樋山(大船山、327m、出雲市多久町)、麓に多久神社(多伎都彦命、天御梶姫命)と熊野神社(伊邪那美命)。

西谷古墳群のほぼ真東9kmの雲南市加茂町岩倉には国史跡の加茂岩倉遺跡がある。1996年に発見され、日本最多の39口の銅鐸が出土・国宝に指定された。

出雲市斐川町神庭の神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき)は、西谷墳墓群の6.4km北東にあり、1984年から1985年に出土した358本の銅剣・6個の銅鐸・16本の銅矛は国宝に指定され、荒神谷博物館が併設されている。

西谷墳墓群から「夏至の日没方向」を見ると、出雲国一宮の出雲大社と日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)が鎮座している。出雲大社から見ると、冬至の日の出方向に西谷墳墓群がある。

出雲大社の祭神は大国主大神、日御碕神社の祭神は天照大御神と神素戔嗚尊。

雲南市三刀屋町(みとやちょう)給下(きゅうした)に三屋神社(みとやじんじゃ)が鎮座、祭神は大穴牟遅命(大己貴命)、素戔嗚尊、稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命。神紋は「二重亀甲に剣花菱」。

以前は、300m南の旧跡地に鎮座しており、飯石郡一宮と云われた。周りには松本古墳群3号墳など古墳が多い。

三刀屋町の10.5km北西に西谷墳墓群がある。

出雲国風土記飯石郡条の三屋郷(みとやごう)に、所造天下大神(大己貴命)の宮(御殿)がここにあるので三刀矢(みとや)と云うと記されている。後に三刀屋(みとや)と改めた。

三屋神社は、出雲国風土記に「御門屋社(みとやのやしろ)」、延喜式には「三屋神社(みとやじんじゃ)」と記されている古社で、大己貴命の御殿は三刀屋にあった。従って出雲大社の神紋も同じ「二重亀甲に剣花菱」になったと考えられる。

三刀屋は斐伊川と三刀屋川が合流することにより、扇状地(盆地)になっている。大己貴命の生誕地も飯石郡熊谷郷(くまたにごう、雲南市三刀屋町下熊谷)で、三屋神社の直ぐ南東の川向こうにある。

素戔嗚命の妃・久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ、奇稲田姫)が、出産しようとするときに、ここに来て「とても奥深い谷である。」と云われた。だから熊谷という。生まれた子の名は出雲国風土記には記されていない。

赤のアイコンが三屋神社、黃が下熊谷。

奇稲田姫が当地で産んだのは、素戔嗚尊の長男・八島士奴美(やしまじぬみ)だと考えられるが、先代旧事本紀の地祇本紀には大己貴神と記されている。亦の名を八島士奴美神、亦の名を大国主神、亦の名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠などと記されている。

大国主命は素戔嗚尊の末娘・須世理比売を妻としたから、末子相続で大国主命が素戔嗚尊の跡を継いだ。大国主命が八島士奴美であれば素戔嗚尊の長男になり、須世理比売とは母違いの兄妹になる。多重婚の古代ではよくある現象であった。

大国主命が生まれた地も、奇稲田姫が長男を産んだ地も、同じ飯石郡熊谷郷であることにより、大国主命が八島士奴美の可能性はある。201949日投稿の「八島士奴美と大国主」をご参照ください。      

近くの雲南市木次町新市に八岐大蛇公園(やまたのおろちこうえん)がある。

大己貴命(大国主命)は出雲の三刀屋で生まれ、三刀屋で育ち、成長すると出雲平野に出て活躍し、多くの女性を妻にした。活動範囲は北陸の新潟県から九州にまで広がり、近畿地方にも事績が多く残っている。

大己貴命は沖ノ島から対馬を経て朝鮮、遼東、後漢までも行ったでしょう。子は181人もいると云う。

九州では「葦原の中津国(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)」を治めていたが、西暦200年頃に素戔嗚命が亡くなると、201年に倭国の女王に即位した卑弥呼(天照大神②、179年-247年)と高皇産霊尊に国譲りを強制され、出雲国(島根県)に帰ってしまった。

そして、大国主命は西暦220年頃に亡くなり、西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓に埋葬された。3号墓に埋葬されたのであれば、隣りに埋葬された女王は須世理比売でしょうか。3号墓には、それ以外にも数人が埋葬されているが、妃や子でしょうか。

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# by enki-eden | 2020-01-10 07:30

出雲の斐伊川(ひいかわ)は船通山(せんつうざん、1,142m)から流れ出し、奥出雲の横田盆地をゆるやかに流れるが、山間部になると急流となって北へ下っていく。

中流域になると支流がいくつも合流し、盆地が点在するようになる。

下流域になると、上流からの土砂流入により出雲平野が出現した。土砂流入は上流で行われていた踏鞴製鉄による「鉄穴流し(かんなながし)」の影響も大きいでしょう。20131030日投稿の「三木市立金物資料館」に鉄穴流しの風景を載せています。 

斐伊川は出雲平野に入ると北東に流れを変え、宍道湖(しんじこ)に注ぐ。

西谷墳墓群は、島根県出雲市大津町(おおつちょう)にあり、2世紀末から3世紀(弥生時代後期)の墳墓群。斐伊川下流の西岸沿いの高さ40mほどの丘陵にある。

弥生時代後期の墳墓群であるが、7号墓は古墳時代初期の築造で、方墳に「造り出し」がついている。

墳墓の数は27基プラス5基(倍塚か)の32基、及び横穴墓群が3か所確認されており、国の史跡になっている。

墳墓のうち6基は「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」で、1号墓(20m)、2号墓(28m×45m)、3号墓(40m×55m、男女二人の木棺)、4号墓(26m×32m)、6号墓(8m×16m)、9号墓(55m×60m)である。

17基が方墳、4基が円墳になっている。

四隅突出型墳丘墓は、正方形の墳墓の四隅が突出していると理解していたが、長方形が多い。四隅突出部は儀式の時に昇り降りするためのようだ。

西谷墳墓群の南端に「出雲弥生の森博物館」がある。

四隅突出型墳丘墓の2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は、弥生時代後期の2世紀から3世紀に出雲国を支配した王の墓と考えられており、築造順は3号→2号→4号→9号となっている。

その中でも大きな3号墓か9号墓が大己貴命(大国主命、160年頃-220年頃)の墳墓ではないかと考えられる。

3号墓からは300個以上の土器が出土し、墳丘上での儀式に使われた。土器の産地は出雲、吉備、越(北陸)のもので、遠方からも葬儀に集まった。墳墓は貼石で覆われていた。

3号墓の男王の木棺からは、厚くしかれた朱、鉄剣、ガラスのネックレスが出土、4本の太い柱跡がある。東5mに埋葬された女王の木棺からは朱や、ガラス玉・ガラス勾玉・石の玉を組み合わせたネックレスなどのアクセサリーが出土している。

3号墓、グーグルの地図で見ると左(西)の男王墓にはっきりと4本の柱跡が見える。
  右(東)は女王墓。

出雲の西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)①_d0287413_11363898.jpg

出雲市がドローンで墳墓群を撮影した「PR動画」をご覧ください。

   

一番大きな9号墓の上には三谷神社が鎮座、祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)、別名は阿蘇大神、阿蘇津彦命など。

健磐龍命は、神武天皇の第2皇子・神八井耳命の皇子と云われ、神武天皇の勅により阿蘇一帯を統治し、阿蘇神社の祭神になっている。東向き社殿の楼門前に陵墓もある。

三谷神社は元々、500mほど南東の大津町上来原(かみくりはら)の三谷山にあって三谷権現と称していたが、池ノ内杓子山の式内阿須利神社を元禄13年(1700年)に合祀したので式内三谷大明神と称した。

しかし、明治5年に阿須利神社が再び独立・遷座したので三谷神社は荒廃した。更に昭和36年の水害によって社殿が流失したので、翌年に現在地の9号墓上に遷座した。

遷座した時には古墳であることは分かっていなかった。

三谷神社の神紋は「二重亀甲に三柏」で、境内(墳墓上)に稲荷社や祠も構えている。

現在の阿須利神社は、出雲市大津町3668に鎮座、主祭神は豊玉比古神、玉依比女神、豊玉比女神、大己貴神で、合祀神も多く境内社も多い。三谷神社の1.2km北西になる。

次回の「出雲の西谷墳墓群②」に続く

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# by enki-eden | 2020-01-04 11:38


素戔嗚尊の父の実名は布都、素戔嗚尊の子の大歳(饒速日命、165年頃-225年頃)は布留(ふる)、同じく子の倉稲魂(うかのみのたま、稲荷神)は宇迦(うか)。

大国主命(大己貴命、160年頃-220年頃)の実名は美具久留(みくくる)。

素戔嗚尊は主に出雲国東部を拠点にし、大国主命は西部を拠点にして全国展開した。素戔嗚尊は北部九州の倭王兼奴国王の伊弉諾尊(125年頃-190年頃)と西暦155年頃に親子の契りを結び、出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」と記されている。

素戔嗚尊と大日孁貴(天照大神①、比売大神)は西暦160年頃に誓約(うけい)により53女が生まれ、素戔嗚尊は3女を引き取った。3女は後に宗像三女神として宗像大社に祀られる。

大日孁貴は5男を引き取ったが、素戔嗚尊は大日孁貴から次男の天穂日命を預けられ、出雲国に連れて帰り、出雲国東部の統治を任せる。天穂日命は出雲国造の祖となる。

   

素戔嗚尊と櫛稲田姫は「八岐大蛇(やまたのおろち)」退治の後、八重垣神社(島根県松江市佐草町227)に一時、籠もった。地名が佐草(さくさ)とあるように、当地は素戔嗚尊の子の青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)の地盤だった。

 当地で詠んだ素戔嗚尊の歌

   八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を

 

八重垣神社は元々、佐草神社と称していたが、青幡佐久佐日古命が両親(須佐之男命、櫛名田比売命)を祀り、八重垣神社になったと考えられる。  

 「八重垣神社のサイト」に本殿内の壁画(素戔嗚尊と稲田姫命)が載っている。神紋は「二重亀甲に剣花菱(素戔嗚尊の紋)」。

 稲田姫命の名は、出雲国風土記の飯石郡熊谷郷には「久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめのみこと)」と記されている。

 

 

 素戔嗚尊と櫛稲田姫は、出雲国意宇郡(おうぐん)の佐久佐から須賀に移り宮を建てた。宮の跡は須我神社(島根県雲南市大東町須賀260)になっている。祭神は須佐之男命と櫛稲田比売命。

 

 

 大日孁貴(天照大神①)は西暦180年代に亡くなり(天岩戸に隠れる)、倭国乱となる。この頃、「ニュージーランドのタウポ山の大噴火」により、地球規模の天候異変が起き、世界的に混乱が続いた。     

西暦190年にローマで穀物危機が発生した際、ローマ帝国は民衆に十分な食料を供給できなかった。結果、それまでコンモドゥス皇帝を支持してきた民衆が各地で暴動を起こすようになった。

皇帝は独裁暴君となり、多くの元老院議員の処刑を計画したが、事前に発覚し31才で暗殺されてしまい、ネルファ・アントニヌス朝の崩壊となった。

2世紀後半の気候異常により、ドイツ北東部に住んでいたゴート族・ブルグント族・サルマディア族のゲルマン人が寒冷の北欧から南欧に侵入し始めた。やがてこれが4世紀後半のフン族の侵入やゲルマン人の大移動(大侵入)に繋がり、ローマ帝国の東西分裂に繋がっていく。

ローマ皇帝の16代と17代の時代は、日本列島では倭国王兼7代目奴国王の伊弉諾尊(125年頃-190年頃)や素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と同じ時代であった。

西暦181年にニュージーランドの「タウポ火山の巨大噴火」により、世界的な気候変動が起き、日本列島も例外ではなく、地球規模の動乱・戦争が起きた。タウポ火山は現在でも火山活動が活発に起きている。

 素戔嗚尊の墳墓は熊野山(天狗山、610m、島根県松江市八雲町)の磐座だと云われる。出雲国一宮の熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)の元宮斎場跡になっている。秀麗な神奈備山です。

  赤のアイコンが熊野大社、黃が天狗山


 天穂日命の墳墓は意宇郡(宍道湖と中海の南地域)にあると考えられるが、中海に面する安来市には「古代出雲王陵の丘(国の史跡)」や多くの墳墓群がある。

北部九州倭国の飢餓を避けるために、饒速日命が西暦185年頃に大部隊を率いて物部系、高皇産霊系、海人系などが大挙して大和国(奈良県)に東遷した。耕作地が広く、金属鉱脈も豊富な大和国に移住してきた。

伊弉諾尊は西暦180年代の倭国乱で失墜し、淡路島に隠遁、素戔嗚尊が200年頃に亡くなると、卑弥呼(179年-247年、天照大神②)が倭国の女王として201年に即位(天岩戸から再臨)した。

天照大神②(卑弥呼)と高皇産霊尊は、素戔嗚尊の後を継いだ大国主命に対して、北部九州の「葦原の中津国(古賀市、福津市、宗像市、遠賀郡、北九州市)」を放棄させ、倭国乱は治まった。

大国主命は出雲国(島根県)に帰り、少彦名命(すくなひこなのみこと)と共に播磨国など各地を開拓し、西暦220年頃に亡くなった。大国主命の墳墓については、次回に投稿します。

 

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-12-30 00:49

日本書紀によると、12代景行天皇40年夏、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺した。

時代は西暦330年頃と考えられる。皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと、302年頃-332年頃)は西国の熊襲退治から帰って来て数年しか経っていなかったが、東国の蝦夷征討の将軍として再び出発した。

日本武尊は伊勢神宮に詣で、神宮斎主で叔母の倭媛命(やまとひめのみこと)に挨拶した。倭媛は日本武尊に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、無事を祈った。

駿河の焼津(やいず)に着いた日本武尊は、賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で逃れた。それで天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云われた。

日本武尊は相模から上総(かみつふさ、千葉県)に船で渡ろうとして、暴風に遭い漂流した。その時、日本武尊に同行していた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に飛び込み、人身御供として嵐を鎮めた。

弟橘媛は穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘で、日本武尊の船団運用は穂積氏が担っていたと考えられる。全体の指揮官は物部大咩布(もののべのおおめふ)であった。20181225日投稿の「物部大咩布命」をご参照ください。   

日本武尊は陸奥国(みちのくのくに)に入り、蝦夷の支配地に入ると賊は恐れて服従した。

陸奥国の前方後円墳を調べると、3世紀から4世紀の古墳時代前期に築造されたものが多いが、後期にも大型古墳が築造されている。

東北最大の雷神山古墳(宮城県名取市植松山1)が墳丘全長168m、4世紀末の築造、

亀ケ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町青津)が全長127m、4世紀後半築造、

会津大塚山古墳(福島県会津若松市一箕町)が全長114m、4世紀末築造、鉄製品に加え三角縁神獣鏡が出土している。

玉山古墳(福島県いわき市四倉町玉山)が全長112m、4世紀半ばの築造。

杵ガ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町稲荷塚)は3世紀末から4世紀初頭の築造で、墳丘長45.6mと小さいが、東北地方最古級の前方後円墳。

岩手県奥州市胆沢区(いさわく)南都田(なつだ)の角塚古墳(つのづかこふん)も、墳丘長45mと小さいが、列島最北端の前方後円墳で、5世紀後半築造、国の史跡になっている。

山形県にも稲荷森古墳(南陽市長岡稲荷森)があり、墳丘長96m、4世紀末築造。

日本武尊の東国遠征の結果として、東北地方が大和政権と密接に繋がり、前方後円墳が築造されていったことが分かる。

日本武尊は蝦夷平定後、各地を巡り、尾張国造の娘の宮簀媛(みやずひめ)を娶り長く留まった。日本武尊は草薙剣を宮簀媛の家に置いたまま、大和に帰る途中に伊勢の能褒野(のぼの)で病死した。2016111日投稿の「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。

草薙剣は三種の神器の一つとして祀られ、熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)の御神体となっている。    

10代崇神天皇(251年-301年)の皇子である豊城入彦(とよきいりひこ)を祖とする皇別氏族があり、その中の毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県と栃木県)を本拠地とした古代豪族である。

豊城入彦は崇神天皇の命により東国を治め、子孫の毛野氏の支配地より北は蝦夷地(えぞち)であった。豊城入彦の母は遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)、紀伊国荒河戸畔(あらかわとべ)の娘で、崇神天皇の妃になった。

日本武尊が東国遠征に行った時には、毛野氏は豊城入彦の孫・彦狭島王(ひこさしまのみこ、初代上毛野国造)か、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのみこ)だったと考えられるので、日本武尊にとっては大いに手助けになったのではないか。作戦や道案内、援軍の加勢もあったであろう。

御諸別王の名が、出雲の大国主命と少彦名命に縁のあるような気がする。群馬県前橋市三夜沢町の赤城神社(上毛野国二宮)の祭神が、豊城入彦命と大己貴命になっている。栃木県宇都宮市の二荒山神社(下毛野国一宮)の祭神が、豊城入彦命・大物主命(大国主命)・事代主命となっている。

豊城入彦命が出雲の大己貴命を信仰していたようだ。

日本武尊の蝦夷征討後も毛野氏は、蝦夷地の支配・管理運営に勤め、善政をしいたと日本書紀に記されている。

毛野国は16代仁徳天皇の時代に、上毛野国(かみつけぬのくに、群馬県)と下毛野国(しもつけぬのくに、栃木県)に分かれた。後には上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)と呼ばれるようになる。

7世紀半ばの飛鳥時代に越国の国司であった阿倍比羅夫が、蝦夷征討の将軍として活躍し、658年には水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、660年には粛慎(みしはせ、北海道か樺太の蝦夷)とも交戦して勝利した。しかし、白村江の戦いでは662年に第二次派遣の征新羅将軍として水軍を率いたが、663年に大敗した。

唐は白村江の後、高句麗を攻撃した。668年に高句麗は滅び、唐に吸収された。

阿倍比羅夫の孫に阿倍仲麻呂(698年-770年)がおり、遣唐留学生として717年に長安に渡り高官として働いたが、帰国せず唐で亡くなった。

阿倍仲麻呂が753年に唐の都・長安で、故郷の大和を想って詠んだ歌、

   天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

阿倍比羅夫の生没年は分からないが、阿倍比羅夫と阿倍仲麻呂の活躍時期の違いを考えると、仲麻呂は比羅夫の孫ではなく、4世孫か5世孫くらいの開きがある。

日本列島では、8世紀から9世紀にかけても蝦夷との戦いは続き、坂上田村麻呂(758年-811年)が征夷大将軍として蝦夷征伐を行った。

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# by enki-eden | 2019-12-23 00:07

九州には、筑紫大宰(たいさい)と筑紫総領(そうりょう)があり、筑紫大宰は外交と国防を担い、筑紫総領は内政を担って九州各地の国宰(くにのみこともち、後の国司)を統括していた。7世紀には王族が地方官として筑紫大宰(後の大宰帥、だざいのそち)に就いた場合が多い。

宰(みこともち)とは、天皇の御言(みこと)を持ち(受け)、任地で政治を行う地方長官で、律令時代(7世紀後半~10世紀)になると「国司」と称される。王族や有力豪族が任命されて赴任した。

大宰(たいさい)と総領(そうりょう)は、筑紫国と吉備国に置かれ、それぞれの地方諸国を治め、外交・軍事にも対応していた。周防国と伊予国には総領が置かれて当地を治めていた。

日本は66310月の「白村江の戦い」で敗れ、博多湾沿岸に置かれていた筑紫大宰を内陸の大宰府(だざいふ)に移し、防御した。

41代文武天皇(683年-707年)の大宝元年(701年)に大宝律令(たいほうりつりょう)が施行されてからは、大宰府だけに絞られ権力が集中した。

筑紫国の大宰と総領を統合して大宰府(福岡県太宰府市)が成立し、西海道諸国の統括と、半島・大陸との外交・軍事を取り仕切った。税も一旦、大宰府に納められたので、大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた。

   

大和朝廷は大宰府を、西国の支配と外交・防衛の拠点とした。大宰府の街には、41代持統天皇(645年-703年)の藤原京(694年)と同じように「条坊制」が敷かれていたと云う。大宰府跡は国の特別史跡になっている。

そして、663年の白村江の戦いで大敗したことにより、唐・新羅軍が攻めてくるのを防ぐために「防人(さきもり)」を各地に置いて防御を固めた。701年の大宝律令により、「防人」が制度的にも整備・運用された。各地から集められた防人が故郷を偲ぶ歌や家族の歌が万葉集に「防人の歌」として収録されている。  

大宰府の長官は大宰帥(だざいのそち)と呼ばれ、副官(権官・代理)は大宰権帥(だざいのごんのそち)と呼ばれた。平安時代になると、大宰帥は皇族から選ばれたので、大宰権帥が実質的には大宰帥の役職を行い、藤原氏の出身者に任命されることが多くなった。また、左遷された貴族が任命されることもあった。

右大臣の菅原道真(845年-903年)が左大臣の藤原時平(871年-909年)に讒訴(ざんそ)され、901年に太宰府へ大宰員外帥として左遷され、太宰府政庁の南の榎社(浄妙院、太宰府市朱雀6丁目18-1)で謹慎していたが病死した。私見ですが、暗殺かもしれない。

都では菅原道真の祟りだと思われる事件が多発し、藤原時平も39才で病死。道真は天満大自在天神として祀られるようになった。墓所には太宰府天満宮が建立され、都には朝廷が北野天満宮を建立した。

201647日投稿の「太宰府天満宮の飛び梅ちぎり」をご参照ください。

      

今年の41日から元号が「令和」になったが、その典拠は、約1300年前に太宰府で行われた「梅花の宴(ばいかのえん)」を記した、「万葉集」の「梅花の歌」32首の序文にある。(巻5815

初春月 氣淑風 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

(初春の令月にして 氣淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す)

この「梅花の宴」を催したのは、万葉集の選者である大伴家持(718年-785年)の父である大伴旅人(665年-731年)だと云う。

旅人は、神亀4年(727年)頃、大宰帥として赴任し、天平2年(730年)に大納言に昇進し都に戻ることになるが、その前の正月13日(現在の28日)に、大宰府が管轄した西海道の官人達32名を自らの邸宅に招き、梅を題材に歌を詠んだ。

旅人の邸宅は現在の坂本八幡宮(太宰府市坂本)にあったと云う説があるが可能性は低いらしい。大宰府政庁跡のすぐ北にあります。その他、可能性のあるのは政庁跡の東か南らしい。

万葉集の「梅花の歌」は、主賓の大宰大弐の紀卿(紀朝臣男人、682年-738)が宴の開始にあたり、挨拶として詠んだ。大弐(だいに)は最上位の次官で、大宰権帥が欠けるときの代理役を務める。

大和朝廷は東国の拠点としては、神亀元年(724年)に塩釜丘陵上(宮城県多賀城市)に多賀城を築城し、陸奥国府・鎮守府として蝦夷の支配・東北の政治・経済を担当した。

多賀城は11世紀半ばまで存在し、多賀国府の街も条坊制が敷かれていた。多賀城跡は国の特別史跡となっている。

大和朝廷は平城京を中心として、西に大宰府、東北に多賀城(陸奥国府・鎮守府)を設けて拠点とした。

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# by enki-eden | 2019-12-17 09:14

秋田物部文書

唐松神社(からまつじんじゃ)が秋田県大仙市(だいせんし)協和境(きょうわさかい)下台(しただい)84に鎮座している。

唐松神社は、神功皇后(321年-389年)が363年の新羅遠征後、物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)と共に創建したので「韓服宮(からまつのみや)」と呼ばれていたと云う。

祭神は、息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)と軻遇突命(かぐつちのみこと)、軻具突命の別名は愛子大神で、当地の物部氏が祀る火結神(ほむすびのかみ)となっている。

当社は女性の生涯を守る「女一代守神」で、縁結び、子宝、安産の神として「境の唐松さま」と呼ばれ親しまれている。

江戸時代の中期に、子授け・安産を願って唐松講(八日講)が結成され、出羽国で知られていたが、やがて全国に広がったと云う。

当社は、中世より地元の豪族の後ろ盾を持たず、近世は氏子・個人・一般人に崇敬され支えられている。

神功皇后の新羅遠征に従軍した物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)が、神功皇后の腹帯を作り、出産後に腹帯を拝受し、当社のご神体にした。

新羅遠征の帰路、神功皇后は男鹿半島から当地に立寄り、岩見川から船岡に上陸し、船玉の大神を祀った。唐松神社の北東5kmに船玉神社が鎮座(大仙市協和船岡向小沢)、祭神は神功皇后の新羅遠征を守った住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)。

地図赤のアイコンが唐松神社、黃が元宮、青が船玉神社。

男鹿半島の形は、地元では「グッドジョブ」の親指を立てた形だと云っているらしい。グッドジョブを日本語に訳し、「開運 なんでも鑑定団」鑑定士の中島誠之助氏が「いい仕事してますね~」と言って褒め言葉として使っている。

私見ですが、「男鹿半島」の「おが」は、北部九州の遠賀川(おんががわ)から当地にやってきた物部氏に因んで名付けられた「おんが半島」が由来だと考えています。

秋田県でも遠賀川式土器が発見されており、遠賀川地区から搬入した土器と、模倣して当地で作成した土器がある。

先代旧事本紀の天皇本紀神武天皇元年1115日の記事によると、

「宇摩志麻治命は御殿の内に天璽瑞宝を斎祀り、天皇と皇后のために御魂を鎮めて、御命の幸福たることを祈った。いわゆる鎮魂祭はこの時に始まった。

およそ天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父・饒速日尊が天神から授けられて来た天つしるしの十種の瑞宝のことである。」とあり、天皇皇后の御魂を鎮める鎮魂祭で、現在にまで続いている。

物部氏の「石上神宮」の「鎮魂祭」が秋田の物部氏にも残っている。十種の神宝、天津祝詞、神宝をもって「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」と唱える古代の神事である。

唐松神社の鎮魂方法は、身振りと呼吸を整える神事で、十種の神宝の一つである「生玉」を掌に包んで振り、ヒフミの天津祝詞(あまつのりと)を呪言する。

鎮魂祭は、越後国一宮の弥彦神社(天香山命)、石見国一宮の物部神社(宇摩志麻遅命)でも行われている。  

唐松神社の秋田物部氏は、代々の当主が「物部文書」を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきた。「宇佐家伝承」と同じである。     

1984年、唐松神社の物部長照名誉宮司が物部文書を公開した。それを進藤孝一氏(1934年生)が「秋田物部文書伝承」として無明舎から出版した。

物部文書は、①韓服宮(からまつのみや)物部氏記録、②韓服神社祈祷禁厭之伝 物部氏、

③物部家系図からなっている。

物部文書では、神武天皇(181年-248年)が大和に入る以前に、物部氏の祖神である「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が、秋田県と山形県の境にある鳥見山(鳥海山、2236m)に降臨し、日殿山(唐松岳)に「日の宮」を建てて居住し、現在の「日の宮」は唐松神社境内に遷り、「唐松山天日宮(からまつさん あまつひのみや)」として祀られている。

その後、饒速日命は、新天地を目指して大和国(奈良県)へ移住したと云う。

   

私見ですが、饒速日命が北部九州から東北へ行き、次に大和へやってきたと云うのは逆で、饒速日命東遷は西暦185年頃で、西暦209年に神武天皇(181年-248年)に大和国(奈良県)を譲ってから東北(秋田県)に移住した可能性が高いと考えています。

「天村雲命」は筑紫→大和→伊勢へ行き、天香語山命は更に尾張→越後へ行った。饒速日命は更に東北まで行ったのかもしれない。      

或いは、饒速日は大和で亡くなったが、後裔の物部氏が東北へ行ったことは間違いないでしょう。

唐松神社の宮司を務める秋田物部氏の伝承では、「物部文書」の1つ「韓服宮 物部氏記録」によると、物部守屋(587年戦死)の一子、那加世(なかよ、秋田物部初代)が、物部尾輿(守屋の父)の家来の捕鳥男速(ととりのおはや)に匿われ大和から東北地方へ逃れた。

出羽国逆合(協和境)で櫃(ひつ)が動かなくなって立ち往生したので、土地の由緒を尋ねると、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)を祭る韓服林(からまつばやし)という場所であると教えられ、社殿を修復した。

那加世は饒速日命と物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)が住んだ出羽国の逆合(協和町境)に定住した。

「物部家系図」では、物部氏が逆合(協和境)に定着したのは天元5年(982年)の23代物部長文の時で、同年に天地創成の神や天神地祇を祀り、長徳2年(996年)に氏神である火結神(迦具土神)を祀ったと云う。現在の宮司は63代目の物部長仁(さきひと)氏。

物部氏の職業は祭祀、鉱物の採掘、金属器製造、馬の飼育などであった。饒速日命(165年頃-225年頃)を祖として祀る物部氏は、金属職人が多かった。

鉱山には職人が集まり、集落を形成していった。東北の神社や鉱山の多くに、物部氏の伝承が残っている。北部九州でも同じ。

その後、崇仏戦争に敗れた物部守屋(587年戦死)の一子那加世(なかよ)が東北の地に移住し、数代の後、元宮である唐松山頂に饒速日命を祀ったとされる。

延宝8年(1680年)に、藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。 今でも、唐松岳に元宮が鎮座している。

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# by enki-eden | 2019-12-11 21:14

神武天皇の国造・県主

初代神武天皇(西暦181年-248年)は、天村雲命(天五多底)と丹波の伊加里姫との間に生まれた椎根津彦(185年頃出生、倭宿禰)を水先案内人とし、204年に遠賀郡の岡水門(おかのみなと)を出発、安芸・吉備などに寄り、大阪湾に入ってからは戦闘があったが、209年に紀伊国から大和国に到着した。

当初は御所市柏原の「神武天皇社」付近に宮を構えていたが、橿原市の畝傍山麓に都を造り、満30才の211年に即位した。

  

椎根津彦は、父の天村雲と祖父の天香語山が饒速日東遷(185年頃)に従って大和国に来てから生まれたと考えられる。海人族の椎根津彦は大和国と筑紫国の間の瀬戸内海を往来して交易に従事していたと考えられる。従って、神武天皇の水先案内人としては最適任者であった。

先代旧事本紀の国造本紀によれば神武天皇は、東征に功績のあった者を褒めて、国造と県主を定めたと云う。

初代神武天皇の御世に定められた国造・県主として国造本紀に名前が記されているのは、

大倭国造(やまとのくにのみやつこ)

椎根津彦命をはじめて大倭国造とした。大和直(やまとのあたい)の祖である。

葛城国造(かずらきのくにのみやつこ)

剣根命(つるぎねのみこと、170年頃出生か)をはじめて葛城国造とした。葛城直の祖である。

天村雲命と阿俾良依姫の子である天忍人命は、天村雲命と伊加里姫との子である角屋姫

(葛木出石姫)を妻とする。天忍男命は葛木剣根命の娘・葛木賀奈良知姫を妻とする。
     図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

神武天皇の国造・県主_d0287413_09294135.jpg

新撰姓氏録の「大和国 神別 天神 葛木 忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也」とあるが、

剣根命(170年頃出生)は高皇産霊尊(140年頃出生)の五世孫ではなく、年代的には孫と考えられる。

私見ですが、剣根命は上の系図の熊野高倉下かもしれない。熊野高倉下は神武天皇が東征中に紀伊半島の熊野で倒れたが、熊野高倉下が霊剣の布都御魂剣を渡すと助かった。

霊剣で助かったので、熊野高倉下は神武天皇から「剣根」と呼ばれたのかもしれない。

凡河内国造(おおしこうちのくにのみやつこ)

彦己蘇根命(ひここそねのみこと)を凡河内国造とした。凡河内忌寸(いみき)の祖である。

天津彦根命の子である天之御影命(鍛冶の神)は、西暦185年頃の饒速日東遷に従って、

滋賀県野洲市(やすし)三上(みかみ)の三上山(御影山、近江富士、432m)に降臨、嫡流の三上氏より分かれて彦己蘇根命が凡河内国造となった。

凡河内氏一族が治めた国は、和泉、河内、摂津、播磨である。

天照大神→天津彦根命→天御影命→意富伊我都命→彦己蘇根命

(凡河内氏、広峯氏へ)

神戸市灘区の「河内国魂神社」は摂津国で凡河内氏が奉祀する神社で、広峯氏は姫路市の「廣峯神社」の社家となる。

   

国造本紀に記されている国造で人名の語尾に「根」、「祢」、「尼」が付くのは30人ほどいる。

後の時代になるにつれて、「根」が「足尼(すくね)」や「宿祢(すくね)」になっていく。

山代国造  天一目命(あまのまひとつのみこと)を山代国造とした。山代直の祖である。

阿多振命(あたふりのみこと)を山代国造とした。

伊勢国造  天降る神・天牟久努命(あまのむくぬのみこと)の孫の天日鷲命を、伊勢国造に定め

られた。伊賀・伊勢国造の祖である。

素賀国造(そがのくにのみやつこ)、静岡県掛川市周辺、蘇我町・曽我村がある。

神武朝の御世、はじめて天下が定められたときに、天皇のお供として侍ってきた人で、

名は美志印命(うましいにのみこと)を国造に定められた。

紀伊国造(きいのくにのみやつこ)

神皇産霊命(かむむすひのみこと)の五世孫の天道根命(あまのみちねのみこと)を国造に

定められた。紀河瀬直(きのかわせのあたい)の祖である。

宇陀県主の兄猾(えうかし)を誅した弟猾(おとうかし)を、建桁県主(たけたのあがたぬし)とした。

志貴県主(しきのあがたぬし)の兄磯城(えしき)を誅した弟磯城(おとしき)を、志貴県主とした。

宇佐国造(うさのくにのみやつこ)

高魂尊(たかみむすひのみこと)の孫の宇佐都彦命(うさつひこのみこと)を国造に定めた。

津嶋県直(つしまのあがたのあたい)

高魂尊の五世孫の建弥己己命(たけみここのみこと)を、改めて直にした。

高魂尊(高皇産霊尊)は対馬、壱岐に関係が深い。

神武天皇は全部で144の国に国造を任命したと記されている。西暦201年の「葦原の中津国平定」の一環として神武天皇が204年に遠賀郡の岡水門(おかのみなと)を出発し、211年に大和国橿原で即位したが、当時はまだ全国制覇できておらず、10代崇神天皇(251年-301年)が物部氏と結託して全国制覇を目指した。13代成務天皇の御世(4世紀中頃)に定められた国造が多い。

14代仲哀天皇(320年頃-362年)の神功皇后(321年-389年)の時に、ほぼ全国制覇が実現し、神功皇后が朝鮮半島に出兵するまでになった。

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# by enki-eden | 2019-12-05 09:34

奈良市教育委員会埋蔵文化財調査センターは1128日、奈良市丸山1丁目の国内最大の円墳「富雄丸山古墳」で、墳頂部から中国製銅鏡「斜縁神獣鏡」の破片が見つかったと発表した。

今月初めの発掘調査体験会で参加者の男性が発見したと云う。

富雄丸山古墳は奈良市の北西を流れる富雄川右岸に築造された大型円墳(4世紀後半、110)で、明治時代に盗掘を受けている。

1972年の団地造成の際に発掘調査が実施された。2017年度から奈良市教育委員会により史跡整備に向けた調査が実施されている。


墳形は円形で3段築成、墳丘表面には葺石・埴輪片があり、墳丘北東部には「ハの字形」の造出がある。主体部の埋葬施設は粘土槨で、内部には割竹形木棺(推定長6.9m)が据えられた。

伝出土品として石製品・鍬形石・合子・管玉・銅製品など(京都国立博物館所蔵)や、三角縁神獣鏡3面(天理大学附属天理参考館所蔵)があり、発掘調査出土品として武器類・鉄製品類・巴形銅器・形象埴輪がある。

京都国立博物館所蔵の伝出土品は1957年(昭和32年)に国の重要文化財に指定されている。北東側には小古墳の丸山2号墳と丸山3号墳も認められており、丸山古墳と合わせて現状保存されている。

10月中旬から約255平方メートルを調査、出土した斜縁神獣鏡の破片は長さ約3cm、

幅約1.5cm、厚さ約1mm。

仙人像の一部と丸い突起(鈕)があり、直径約16cmの斜縁神獣鏡の一部とみられる。

斜縁神獣鏡は3世紀頃に中国北東部で製作されたと考えられ。国内で45面出土しているが、円墳では金比羅山古墳(京都府宇治市、40mの円墳)など数例しかない。

1.5km南東の奈良市石木町に登彌神社(とみじんじゃ)が鎮座、祭神は東本殿に高皇産霊神、誉田別命(応神天皇)、西本殿に神皇産霊神、登実饒速日命、天児屋命。2殿が東西に並んでいる。

初代神武天皇がこの地に皇祖天神を祀ったのが始まりで、その後、登美連が祖神の饒速日命の居住地の近くのこの地に奉祀した。

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# by enki-eden | 2019-11-29 17:00

和邇(わに、鰐)

14代仲哀天皇(320年頃-362年)が筑紫国に来られる時、岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の「熊鰐」が、白銅鏡(ますみのかがみ)、十握剣(とつかのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を船の舳に立てて、周芳(すわ)の沙麼(さば、山口県防府市佐波)の浦に迎えた。

和邇族の岡県主の拠点は、遠賀川河口流域(福岡県遠賀郡芦屋町)にある崗之水門(おかのみなと、岡水門)が中心で、崗地方(遠賀郡)を治めていた。

遠賀川の河口には岡湊神社(おかのみなとじんじゃ)が鎮座。遠賀川流域には物部氏の領地も多いので、和邇族と物部氏は共同関係にあったと考えられる。

福岡県北九州市八幡西区岡田町に、熊族が祖先を祀った岡田神社が鎮座。岡田神社の北側の地名は八幡西区熊手(やはたにしく くまで)になっている。

祭神は中殿(岡田宮)に神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)、

右殿(熊手宮)には大国主命、少名彦命、県主熊鰐命(あがたぬしくまわにのみこと)、

左殿(八所宮)には高皇産霊神、神皇産霊神、玉留産霊神(たまつめむすびのかみ)、生産霊神(いくむすびのかみ)、足産霊神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神、御膳神(みけつかみ)が祀られている。

八所宮の祭神は八神殿と同じで、現在は皇居の神殿(宮中三殿の1つ)にも祀られている。

岡田宮、熊手宮、八所宮はそれぞれ別の神社であったが、江戸時代初めに当地に遷座して一つの神社になったと云う。

熊族が最初に祖先を祀った場所(熊手)は、八幡西区山寺町の一宮神社がある所で、神武天皇(181年-248年)が204年に大和国へ出発する前に当地に立ち寄り、八神(八所神)を祀った。

 赤のアイコンが岡田神社、黄が一宮神社。

神武天皇の母は玉依姫で「和邇族」、祖母の豊玉姫も「和邇族」、神武天皇も「和邇族」であったので、崗(遠賀郡)に住む同族たちも東遷に加わった。

大和国においても歴代の天皇は「和珥氏(和邇族)」から妃を娶っている場合が多い。

 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

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大国主命(160年頃出生)と「和邇族」の神屋楯比売(かむやたてひめ)の子が事代主命で、事代主命は「八尋熊鰐(やひろのくまわに)」と云われる。大国主の領域・宗像と和邇族の領域・岡水門は隣接している。

大国主命の子で、周芳(すわ)を支配していた建御名方(たけみなかた)が、201年頃の「出雲国譲り」を拒否し、建御雷(たけみかづち)と力競べをして負け、逃げ込んだ所を諏訪(すわ、長野県諏訪市)と云う。周芳と諏訪は、漢字は違うが発音は同じ。

周芳(すわ、山口県東南部)は、7世紀に周芳国(すわのくに)となり、7世紀末に周防国(すおうのくに、すわのくに)と改称した。

対馬最北端の「鰐浦(わにうら)」は、朝鮮半島まで53km、天然の良港になっており、神功皇后(321年-389年)の新羅遠征時(363年)にも「鰐浦から出発した」と記されている。

対馬では大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と云うので、「鰐浦」の地名由来は、大型の舟が出入りしていた港だからか。

それとも鰐族が運営管理していた港なのか。海神の娘である豊玉姫が鰐族だったから、鰐族が使う港を「鰐浦」としたのか。

海人族の和珥氏と賀茂氏の族名由来もこれかもしれない。和珥氏は大型の舟を使って遠距離交易、賀茂氏は小型の舟を使って近距離交易で住み分けていたのか。

大和国における和珥氏(わにうじ)の拠点は、奈良盆地東北部の添上郡(そえかみぐん)和邇にあった。現在は天理市になっている。

奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)の古墳群は和珥氏の墓所と考えられ、「東大寺山古墳」の出土物には後漢の霊帝の中平(184– 189年)銘鉄刀がある。

列島では倭国乱、大陸では黄巾の乱の時代に筑紫の和邇族は大陸と交易をしていた。乱が起きる寸前だったかもしれない。この鉄刀は和邇族の子孫が伝世し、4世紀末頃に東大寺山古墳に副葬・埋納された。

東大寺山古墳の近くには和邇氏(和珥氏)の氏神「和爾下(わにした)神社」が鎮座している。

   

和珥氏は4世紀に難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま、330年頃出生)などが、大和朝廷の海外出兵や国内の争いにおいて実績を上げた。難波根子武振熊は和珥氏であるが、丹波・但馬・若狭の長となり、海部氏の系図にもはめ込まれている。

和珥氏は部族から天皇家に妃を出し、外戚として勢力を高めた。

6世紀になると和珥氏の中から春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏、櫟井氏などが分岐し、春日氏が中心となっていく。

和珥氏は琵琶湖南西部にも領地を有し、和邇・小野などの地名を残した。和邇川が琵琶湖に注ぎ、JRの和邇駅、湖岸の和邇漁港がある。

小野氏出身者には、小野妹子・小野篁・小野小町・小野道風などがいる。小野には小野神社、小野道風神社、小野妹子神社もある。   

小野の和邇大塚山古墳は、全長72m、後円部径50mの前方後円墳で、4世紀末から5世紀初めの築造。琵琶湖や小野地域を一望できる曼陀羅山(185.8m)の山頂にあり、和邇氏の首長の墳墓と考えられている。

被葬者は難波根子武振熊の子かもしれない。

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# by enki-eden | 2019-11-28 09:34

御所市中西遺跡の水田跡

奈良県立橿原考古学研究所が1120日に発表したのは、弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が確認されていた奈良県御所市(ごせし)室(むろ)の中西遺跡で、新たに約3,500㎡の水田跡がみつかった。

水田跡面積は隣の秋津遺跡とあわせると、約43,000㎡にもなり、弥生前期の水田跡では全国最大規模のようだ。江南人(倭人)が日本列島にやってきて、水田稲作を始め弥生時代になった頃、奈良盆地では灌漑用水を使った大規模な稲作が行われていた。


 橿原考古学研究所によると、京奈和自動車道の建設工事に伴い、今年4月から約6,000㎡を発掘調査した。出土した水田跡の数は410区画、1区画あたりの面積は平均約9㎡と小さい。当時としては一般的な大きさらしい。

区画の間を幅30cm前後の小さなあぜがあみだくじの線のように走っている。緩やかな傾斜のある地形を利用し、水があぜを越えて水田全域に及ぶ仕組みになっている。

表面には人の足跡も残っている。川とみられる跡もみつかり、川の両側に水田がつくられている。弥生前期(約2400年前)に洪水の土砂で埋まったとみられ、一帯の水田の広さは約10万㎡を超えていたと推定される。

 中西遺跡の近くには「室宮山古墳」や「條ウル神古墳」があり、東方山裾(御所市大字冨田)には「日本武尊白鳥陵」がある。

   

現地説明会は23日午前10時~午後3時、小雨決行、駐車場あり。

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# by enki-eden | 2019-11-21 13:24