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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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丹波道主命は川上麻須の娘・川上麻須郎女を妃とし、日葉酢媛を産んだ。日葉酢媛は11代垂仁天皇(西暦265年頃-310年頃)の皇后となった。

「丹後旧事記」によると、「川上麻須(麻須良)は丹後国熊野郡川上庄須郎(すら)に館を造る」とあるが、現在の地名では京都府京丹後市久美浜町須田(すだ)と考えられている。

当地の久美浜町須田天王谷132には衆良(すら)神社が鎮座しており、祭神は河上摩須。川上麻須はここに住んでいた丹後海部氏の豪族であろう。当地を丹後海部氏の本拠地とした。

川上麻須は3世紀後半に、海岸に近い久美浜町甲山亀石に丸田神社を創建、宇氣母智命(豊受大神)を祀った。川上麻須は海部氏8世孫の日本得魂命(やまとえたま、本拠地葛城高尾張)とほぼ同じ時代の丹後国の海部氏である。

更に、川上麻須は久美浜町海士(あま)に矢田神社を創建、建田背命(海部氏6世孫)、和田津見命、武諸隅命(海部氏7世孫)を祀った。地名の「海士」が示すように、当地は海部氏が住んでいた。

   

海部氏は京都府宮津市大垣にも進出し、丹後国一宮・「籠神社(このじんじゃ)」を創建、祖神の天火明命を祀った。宮津市と京丹後市は丹後半島を挟んで東西に隣接している。

赤のアイコンが衆良神社、黄が籠神社。


京都府京丹後市久美浜町に鎮座の神谷太刀宮神社(かみたにたちのみやじんじゃ)は丹波道主命を祀る。当社は丹波道主命の宝剣「国見の剣」を祀ったので、「国見」から地名の「久美」・「久美浜」が生じた。


  

丹波道主命の墳墓は丹波篠山市東本荘の「雲部車塚古墳」140m)と考えられている。


   図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

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10代崇神天皇(251年-301年)が四道将軍の一人として丹波に派遣した「丹波道主」は日本得魂(丹波道主、海部氏8世孫)だと私は考えています。

「勘注系図」によると、崇神の時代(3世紀末)、京都府舞鶴市と福井県高浜町の境の青葉山(693m)に土蜘(つちぐも)の陸耳御笠(くがみみのみかさ)と匹女(ひきめ)がおり、人々を苦しめた。それで、日子坐王と日本得魂が勅命によりこれを討った。

日本得魂の妹は竹野媛(大倭姫、天豊姫)で、臺與と同一人と云う説もありますが、名前はよく似ていても年代と拠点が臺與とは違っている。

竹野媛は西暦250年から260年頃の出生、拠点は大和国葛城高尾張、臺與は235年頃出生、拠点は筑紫の倭国。

4代懿徳天皇(211年頃-262年頃)の皇后もよく似た名で、天豊津媛と云う。

日本得魂の娘に日葉酢媛など4人の娘がおり、垂仁天皇の皇后や妃となったのではないか。

「丹波道主」は個人名ではなく、丹波国を治める官職名だと考えられ、丹波道主を称する豪族は代替わりで複数いたのでしょう。日本得魂命、彦湯産隅命、丹波道主命(彦坐王の皇子)などが「丹波道主」の職を継承していったのでしょう。

日葉酢媛の母親は川上麻須郎女で、父親は日本得魂ではないかと私は考えています。

   

山代之大筒木真若王は日本得魂の同族だと考えています。山代之大筒木真若王と丹波能阿治佐波毘売との皇子が「迦邇米雷王」で、その孫が神功皇后です。系図の年代はその後に変更したものもあります。

印南神吉    メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp   


# by enki-eden | 2019-09-17 09:31

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)井中20   無料駐車場あります。

祭神 沖津比古命(おきつひこのみこと)、沖津比売命(おきつひめのみこと)。

    大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の子神で、神道の

    「かまどの神様」、「台所の神様」。

    「産霊の火」と「祭神の水」の二つの力のある生産発展の神様。

    沖津比売は大戸比売(おおへひめ)と云う別名があり、沖津比古の妹。

    竈(かまど)の燃え残り火を熾き(おき)と云ったので、沖津比古・沖津比売の名が生まれた。

    竈を「ヘッツイ」と云うので、大戸(おおへ)比売の名が生まれたとも云う。


創建 97499日、元今瀧寺満慶上人の勧請による。

神仏習合時には、「竈の神」は「荒神」と呼ばれるようになって一般家庭に浸透していき、

当社は「天一位三宝大荒神」と称していたが、明治になって火産霊神社と改称した。

三宝荒神については、「清荒神(きよしこうじん)」をご参照ください。

  


   鳥居

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   拝殿と右に日向稲荷社(日向山頂より遷座)、日向山は7.5km南東の向山(569m)か。

その右に末社、菅原道真の天満天神社と大山祇命の山ノ神社を合祀した。

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   本殿

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   本殿左の末社は、三社を合祀した。

御霊神社(吉備真備等八所神で、病と天変地変から守る神)、

於米神社(米作豊熟の神)、

道祖神(村の外からの病と災いを遮る神)。

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-09-09 08:40

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町新郷(ひかみちょう しんごう)1860  電0795-82-0018

鳥居前に無料駐車場。

丹波国氷上郡、白山の麓に鎮座。

祭神 彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと、天照大神の孫)、

     穀霊大市姫命(たなつみたまおおいちひめのみこと、神大市姫命)。

事業成功、五穀豊穣。

瓊瓊杵尊は古来より領主や武将の崇敬が篤かった。

神大市姫は大山祇神の娘で、素戔嗚尊の妻として饒速日命と宇迦之御魂を産んだ。

カーナビの誘導でははっきりしなかったが、何とか到着。神社の西には氷上カントリークラブがあり、昔、ここで友人とゴルフをしたことを思い出しました。


古代には、加古川は氷川(ひかわ)と呼ばれ、当地名の由来は氷川の上流にあるので氷上町(氷上郡)になったと考えられる。

加古川(氷川)下流域にある岡は日岡と呼ばれ、「日岡神社」が鎮座、JRの駅は日岡駅、村の名は氷丘村と云われていた。現在でも氷丘小学校、氷丘中学校がある。

伊尼神社は29代欽明天皇(509-571年)の6世紀半ばの創建で、伊知宮大明神(一宮大明神)と称していた。また、氷上郡沼貫村(ぬぬきむら)にあったので、沼貫神社・奴々岐神社(ぬぬきじんじゃ)とも称していたが、1941年に伊尼神社に改称した。

2km東南の氷上町稲畑(旧・氷上郡沼貫村)にも奴々岐神社(ぬぬきじんじゃ、高皇産霊神)があるが・・・

   灯篭、社号標、石の大鳥居。

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鳥居を入って右手に鐘楼。神仏習合時の名残か。

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拝殿

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本殿、春日造り銅板葺き。

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左から、春日神社(伊波比主命、天児屋根命、比売神)、恵比寿神社(事代主命)を合祀。

     山神神社(大山祇命)、豊村稲荷神社を合祀。

     風神ノ社。

伊波比主命は経津主命の別名で、千葉県香取市の香取神宮の祭神。

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右は、祓戸神社(瀬織津比売神、速開都比売神、氣吹戸主神、速佐須良比売神)、

左は、日向神社(天照大神)。

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-09-03 01:30

兵庫県丹波市山南町谷川3557  電0795-77-0456  無料駐車場あります。

丹波国氷上郡鎮座の式内社、丹波の守護神として9世紀頃に丹波国造が創建。

16世紀半ばに3km北西の山南町金屋から現在地に遷座した。

当社の前を流れる山田川は篠山川に注いで合流し、篠山川は加古川に合流する。

祭神 

高倉下命(たかくらじのみこと)、

天火明命(あめのほあかりのみこと)、建田背命(たけたせのみこと)、

比売命(ひめのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、

建御雷命(たけみかつちのみこと)、伊邪那美命、保食命(うけもちのみこと)、

菅原道真命、品陀別命(ほんだわけのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、

大国主命、大雀命(おおさざきのみこと、仁徳天皇)。

1911年に近くの8神社を合祀したので祭神が多くなった。


主祭神の高倉下命は神武東征に登場する。神武軍が紀伊の熊野で大熊の毒気に冒されたので、天照大神と高木神が高倉下に霊剣を授け、高倉下は神武天皇(181-248年)に献上する。

神武軍はたちまち力を取り戻し、敵を従えた。この霊剣が布都御魂剣で「石上神宮」に奉納されている。   

高倉下命は天香語山命(西暦155年頃出生)と大屋津比売命の子で、丹波国造の祖。

天香語山は子の天村雲(天牟良雲)と共に、饒速日の東遷(185年頃)に従って、大和国にやって来た。天村雲の子孫は伊勢に移り、度会氏(わたらいし)となり、伊勢神宮外宮の神主を世襲した。

天香語山は大和国から尾張国に行き尾張国の基礎を造り、越国まで行って開拓した。越後国一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ、やひこじんじゃ、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2)に祀られ、奥の宮に妃神の塾穂屋姫命(うましほやひめのみこと)と共に埋葬された。

天香語山命(伊夜比古大神)は越後国開拓の祖神として信仰されており、神体山の弥彦山(634m)に奥の宮(神廟)がある。

海部氏系図   図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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先代旧事本紀の国造本紀によると、初代丹波国造は13代成務天皇の御世(4世紀)に、建稲種命(たけいなだねのみこと)の四世孫の大倉岐命(おおくらきのみこと)を国造に定めたとある。

丹後一宮(元伊勢)の「籠神社(このじんじゃ)」の宮司は代々海部氏が務め、海部直(丹波国造)の後裔を称している。

海部氏系図(国宝)によると、大倉岐命は彦火明命の16世孫となっているが、10世孫の間違いです。海部氏系図に青字で1610)と記したように、16世孫ではなく10世孫です。

8世孫から13世孫までは尾張氏の系図で、14世孫から22世孫までは海部氏の系図です。そして、8世孫の日本得魂命(川上真若命)と14世孫の川上真稚命は同一人物か、兄弟・従弟だと思います。つまり、並列する同族の尾張氏の系図と海部氏の系図を直列に繋いでいます。

海人族の彦火明命(彦火火出見命)の8世孫(3世紀後半)あたりから尾張氏と海部氏に分岐し、尾張氏は尾張国造となり、海部氏は丹波国造となった。

   高座神社は神仏習合時には「高座大明神」と称していた。

入口の大鳥居と社号標、奥に随神門。

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   参道を進むと、石の鳥居(丹波市指定文化財)と拝殿。

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本殿(1706年築造)、桧皮葺きの流れ造り、兵庫県指定の重要文化財。

今年になって国の重要文化財にも指定された。解体修理されたので美しい。

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本殿の右に二宮神社(大己貴命と少彦名命、医薬の神)とその右に皇大神宮(厄除け)。

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 本殿の左に五大神社(八幡大神と春日大神)

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 樹齢400年、樹高20mのフジキ、兵庫県の天然記念物。

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 本殿左後方の山道(参道)を登って行くと奥の宮が鎮座、登りが結構きつかった。

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# by enki-eden | 2019-08-27 01:21

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)賀茂1

神社南の細い道を入ると駐車場があります。

祭神 別雷神(わけいかづちのかみ、賀茂別雷神)

    京都の「上賀茂神社」(賀茂別雷神社、山城国一之宮)から勧請。

 

創建 8世紀末頃

県道109号線沿いに鎮座。


(賀茂)別雷神の系図

賀茂建角身命

       |-------------賀茂玉依比売命

神伊可古夜比売命     |-------------------賀茂別雷神

(丹波国神野の国神)   火雷神(ほのいかづちのかみ)

火雷神については、「角宮神社」「向日神社」をご覧ください。

 

入口の灯篭と鳥居

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   二の鳥居にかかる神額は「両部額」になっている。私はこの形が好きです。

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社殿

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   境内社は、大森神社、廣峯神社、貴船神社、大神宮神社・高宮神社、天満神社、山祇神社。

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  境内左奥に蛇石神社、

  境内に蛇池があり、龍の彫刻の神石を埋納していた。雨乞い祈願の時に掘り出した。

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-08-20 08:34

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)御油(ごゆ)40-2

鳥居の向かいに駐車できます。

丹波国氷上郡の延喜式内社、加古川上流西の山裾に鎮座。

祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)、

    嵯峨天皇(52代天皇、786-842年)。

    元は、神野伊加許也姫神(かんのいかこやひめがみ)を祀っていた。

創建は59代宇多天皇(867-931年)の時代の9世紀末頃。 氷上に滞在した左大臣源融(みなもとのとおる、822-895年)が創建、賀茂別雷命と源融の父・嵯峨天皇を奉斎したと云う。

源融は紫式部(978-1016年)の源氏物語の主人公・光源氏のモデルの一人と云われる。小倉百人一首には、源融が「河原左大臣」として歌が残っている。

陸奥(みちのく)の  しのぶもぢずり  誰ゆゑに  乱れそめにし  我ならなくに

 

当社は1424年頃に円通寺に土地を譲り、450m北の現在地に遷座、賀茂野神社と称した。丹波市には賀茂神社が多い。


賀茂郡は全国にあるが、播磨国賀茂郡(小野市、加西市、加東市、西脇市、多可郡多可町)は丹波国氷上郡(丹波市)の西南に隣接しているので、氷上郡と同じように賀茂氏の支配・影響を受けて賀茂国となり、後に播磨国賀茂郡になったと考えています。

氷上郡は加古川上流にあり、氷上郡の地名由来は、加古川は古代には「氷川、日川」と呼ばれていたので、氷川の上流域にある地を「氷上」と呼んだと考えています。

加古川(氷川、日川)下流域の岡を「日岡、氷丘」と呼び、日岡神社、氷丘小学校、氷丘中学校もある。

 

当社の元の祭神・神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)は丹波国神野の国神で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に嫁ぎ、玉依比古命(たまよりひこのみこと)と玉依比売命を生む。

玉依比古命は賀茂県主(かものあがたぬし)となり、京都にある賀茂神社の社家となる。賀茂神社は賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称である。

玉依比売命は父の賀茂建角身命とともに「下鴨神社」に祀られている。玉依比売は男子を産むが、祖父の賀茂建角身命が男子に「汝の父と思う人に酒を注げ」と言ったところ男子は天に向かって昇天した。そこで賀茂建角身命は男子を賀茂別雷神と命名し、「上賀茂神社」に祀られている。

201312日投稿の「盟酒(うけいざけ)」をご参照ください。

 

賀茂建角身命を祖とする賀茂県主(賀茂氏・鴨氏)は山城国へ進出、丹波国にも進出した。当地丹波は京都賀茂神社の荘園となったので、盛大に祀られている。

和珥(わに)氏は大和春日から山城国へ進出、近江へと進出した。賀茂氏と和珥氏は皇室とも縁の深い海人族である。

鳥居と社号標、鳥居をくぐると山から流れる小川に石橋が架かっている。

鳥居の後方に大きなご神木の檜があり、樹齢500年、幹回り2.86m、高さ41m、市指定文化財。

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本殿は兵庫県と氷上町の指定文化財、室町時代末期に建てられた。

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   本殿右に稲荷大神

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# by enki-eden | 2019-08-14 09:22

兵庫県丹波市山南町和田138  電0795-76-0059  駐車場は鳥居の奥に進む。

丹波国氷上郡鎮座の延喜式内社、

往古は和田村下河原に鎮座していたが、1640年頃に現在地に遷座した。

当地は「薬草の里」で、1月の第3日曜日に行われる厄除大祭の宵宮祭(土曜日)に地元の薬草で作った茅の輪をくぐって1年の平穏を祈願する。

当社の1km南西に丹波市立の「薬草薬樹公園」がある。

 

祭神 若沙那売命(わかさなめのみこと、子授け、安産、健康長寿、大歳神の孫)、

    八幡大神(厄除け、1700年に白川神祇伯王より勧請)。

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若沙那売命の祖父は大歳神、祖母は天知迦流美豆比売神(あめちかるみずひめのかみ)、父は羽山戸神(はやまとのかみ)、母は大気都比売神(おおげつひめのかみ、阿波国・徳島県)。

若沙那売命は稲(いね、のちの)を司り、早乙女のように若くて清らかな少女神。

  入口の灯篭、社号標、鳥居。 ここから車で進み駐車場に停める。

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参道の階段を登ると拝殿。 健康長寿、交通安全、厄除け開運、心願成就。

拝殿の左に一の宮・猿田彦神社(方除け、鬼門除け、縁結び)。

境内社は7社あり、一の宮から七の宮まで順番に巡るようになっている。

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本殿、1758年の再建。入母屋造りの桧皮葺き。

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   二の宮・恵比寿神社(商売繁盛、社運隆昌、立身出世)と

   三の宮・稲荷神社(商売繁盛、家内安全、開運招福、病気平癒)、2月に稲荷祭。

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   四の宮・弁財天(水の恵み、水難除け、芸事上達)と

   五の宮・愛宕神社(火難除け、火の恵み、防災)。

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六の宮・厄除神社(須佐之男神、厄除け、無病息災)、

1月第3土・日は厄除け大祭が執り行われる。

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七の宮・天満宮(学業守護、合格祈願、スポーツ上達)

725日の天神祭(夏祭)は多数の参拝者で賑わう。

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   丹波猿楽の面掛神事能の舞堂。

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-08-07 00:36

壱岐の弥生時代

壱岐市教育委員会社会教育課文化財班の松見裕二氏が、720日(土)に「魏志倭人伝に記された一支国の世界」について、兵庫県立考古博物館で講演されました。

松見氏は佐賀県生まれ、別府大学文学部史学科卒業後、福岡県小郡市嘱託職員として、壱岐市芦辺町役場に学芸員として勤務。

2006年に長崎県文化・スポーツ振興部に出向、2009年より「壱岐市立一支国博物館」の学芸員として業務をされています。

スポーツマンらしく、はつらつとした好感の持てる方で、各地で講演会に出演されています。

長崎県壱岐市は、人口26,500人の4町で構成され、九州と朝鮮半島の間の玄界灘にある島で、対馬島とともに古代より東アジアとの交流の拠点として重要な役割を担っている。

壱岐市は、本島に加え、4島の有人島、17島の無人島からなり、東西15km、南北17kmの島である。

阿蘇カルデラは東西18km、南北25kmなので、いかに大きなカルデラか分かる。屈斜路カルデラは更に大きい。(青い文は印南神吉の意見です。)

壱岐島は対馬島の5分の1の大きさで、玄武岩質でできているので地盤は比較的安定している。

壱岐島への交通手段は船が主で、芦辺港と郷ノ浦港から博多港(76km)もしくは対馬島厳原港(76km)まで高速船で60分、フェリーで130分、石田印通寺港から佐賀県唐津東港までフェリーで100分かかる。

飛行機は壱岐空港から長崎空港まで30分で行ける。

壱岐島は、平戸藩「松浦氏(松浦水軍)」の所領であったので、明治の廃藩置県で「平戸県」となり、府県統合で「長崎県」となった。

対馬島は、厳原藩「宗氏」の所領であったので、廃藩置県では「厳原県」となり、1871年に佐賀県と統合して「伊万里県」となる。翌年に、長崎県に転県した。

対馬も壱岐も福岡県が近く、関係も深いので転県を希望している住民もいるが、政治的圧力で実現していない。

対馬は男性の島と云われるのに対し、壱岐は女性の島と云われる。


魏志倭人伝には一大国(一支国)について、57文字が記されている。「対馬国から南に千余里、海を渡ると一大国に至る。一大国も対馬国と同じく主官の卑狗、副官の卑奴母離がいる。

島の大きさは三百里ほど、竹木が茂り、林が多い。三千ばかりの家があり、島内には米を作る田地があるが、みんなが食べるだけの量はなく、南や北と交易をして暮らしている。」

国特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡

長崎県壱岐市芦辺町・石田町

弥生時代全般~古墳時代初頭の遺跡(2200年前から1600年前)。

原の辻遺跡は壱岐島の南東側、長崎県で2番目に広い平野である「深江田原(ふかえたばる)」にある「一大国(一支国)の王都」、「海の王都」。

遺跡の近くを幡鉾川(はたほこがわ)が流れ、流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原」といった平野部が広がり、下流には「内海湾(うちめわん)」が広がっている。

原の辻遺跡は丘陵の最頂部(標高18m)にある祭儀場を中心にして、標高10m前後の丘陵上に居住域が広がり、その周りを多重の環濠で取り囲んだ大規模環濠集落跡である。

海を渡る渡来人とそれを迎える倭人との対外交流の拠点となった舞台が「原の辻遺跡」だった。幡鉾川の横に船着き場があった。大きな船でやってきて、内海湾で小さな船に乗り換えて幡鉾川に入り、船着き場に到着、すぐ前に「原の辻遺跡」がある。


「原の辻遺跡」出土の鉄製品は、農機具、工具、武器など実用品である。青銅製品は、青銅鏡、銅剣、銅銭、鋤先、権(棹秤のおもり)、銅鏃、銅釧などがあり、祭器が多い。

中国から占いが伝わり、ト骨が出土しており、ヒビの方向で吉凶を占った。

出土した「人面石」は祖霊祭祀の場で使われた祭器と考えられる。

カラカミ遺跡

長崎県壱岐市勝本町立石東触・仲触(ひがしふれ・なかふれ)、壱岐島の北西部。

2200年前~1700年前の遺跡で、原の辻遺跡とは対照的に30mから90mの高台にある環濠集落で、現在の香良加美神社を中心にして、扇形に拡がっている。漁業や交易に従事していた。

V字型の環濠(大溝)で囲まれていた。

炉跡や鉄製品加工用石製道具が発見されており、鍛冶作業が行われていた。

遼東系の瓦質土器が出土し、「周」と云う文字が書かれていた。周は人名と考えられる。

日本最古の家猫の骨が出土、弥生時代に渡来人が家猫を持ち込んだ。

一支国の王都として、交易の盛行とともに栄えた「原の辻遺跡」も古墳時代になると衰退し、滅亡したと考えられる。交易の海路が変更され、壱岐島を経由せずに対馬島から直接博多湾岸の奴国へ航行するようになった。

潮待ちや暴風避けのために壱岐島に立ち寄ることはあったと考えられるが、単なる通過点に過ぎなかった。海上交易都市ならではの盛衰の歴史である。

対馬国は奴国と連携し、一支国(壱岐国)は伊都国と連携していたので、北部九州の中心国である奴国との繋がり方に違いがあった。

***

印南神吉の意見

弥生時代から現代にいたるまで2300年間、九州の中心地は常に博多(筑前国)であった。博多湾岸一帯には揚子江(長江)周辺からやってきた呉人が奴国を建国、紀元前1世紀の首長である「五柱の別天神(ことあまつかみ)」と1世紀から2世紀の奴国王である「神世7代」が基盤を築いた。

初代奴国王の国常立尊は偶然にも西暦元年出生で、奴国の始まりは西暦元年となる。4代目奴国王の角杙尊(西暦60年頃出生)が北部九州28ヵ国を統率し、倭王帥升となり7代目の伊弉諾尊まで続く。呉人のY染色体ハプログループはO1b2(O2b)である。

西暦180年代の倭国乱の責任を取り、伊弉諾尊が淡路島に隠遁した後の倭王は、卑弥呼(179年-247年)と臺與(235年頃-295年頃)の女王が務めた。

倭国乱の影響により、西暦185年頃の饒速日東遷、彦火火出見が204年に筑紫を出発し、211年に大和国で初代神武天皇として即位、270年頃に臺與が五十瓊殖(いにえ、10代崇神天皇)を伴って大和国に東遷、列島の中心地が北部九州から大和国(奈良県)に遷った。

臺與は280年頃に箸墓古墳を完成、九州から運んだ卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。臺與も295年頃に亡くなり、前方部に埋葬された。

***

古代史と関係ありませんが、大丸須磨店で企画されていた「夏休みパラダイスin須磨」で予定の「防衛省 自衛隊の車両がやってくる」(7/2728開催)イベントが中止されました。

大丸須磨店は「諸般の事情により、急遽中止させていただくこととなりました。お客様には大変ご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳ございません。」と云っている。

中止させたのは「新日本婦人の会 兵庫県本部」で、須磨支部は「朗報」だと投稿した。これに対して賛成意見、反対意見のネット議論が起きている。

「神戸は震災復興で自衛隊に助けられた」、「子どもから老人まで自衛隊を知ってもらう機会が大切」と批判する声もある。

中止を申し入れた新日本婦人の会は「災害救助に当たる自衛隊を批判しているのではない。私たちは安保法制成立や改憲の動きの中で、自衛隊の在り方に危機感を持っている」と云っている。

美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長は、「実に情けない。みんな自衛隊には感謝しているんだよ」。

「ヒゲの隊長」として知られる元自衛官の佐藤正久参院議員(自民)は「国民から自衛隊を遠ざけるのではなく、自衛隊を国民に知ってもらうことは極めて大事」と投稿し、“イイネ”が多数寄せられたと云う。

私の個人的な意見は、賛成するも自由、反対するも自由だと思いますが、大丸須磨店が偏ったイデオロギーの10名の中止要求に応じ、中止してしまったことが大問題だと考えています。

大丸須磨店長の事なかれ主義は自己保身の表れで、夏休みの子どもの楽しみを奪われた母親からクレームを受けていることでしょう。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-07-31 00:02

壱岐の古代文化展

兵庫県立考古博物館で、「壱岐の古代文化 海をめぐる生業と交流」と題して展示会が開かれています。720日から91日までの開催で、長崎県壱岐市立「一支国(いきこく)博物館」と兵庫県立考古博物館の連携企画展になっています。

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長崎県壱岐市教育委員会教育長の久保田良和氏の開催のことば、

『壱岐島は、太古より海上交通の要衝、対外交流の拠点として重要な役割を果たしてきました。

旧石器時代より現代に至るまで、途切れることなく東アジア諸国との交流の歴史を刻み続けてきた壱岐島には、その歴史を垣間見ることができる史跡や文化財が島内各地に残っています。

島内に残る①国特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡、②国史跡 壱岐古墳群、③国史跡 勝本城跡、④生池城跡(なまいけじょうあと)、⑤カラカミ遺跡、⑥岳の辻、⑦内海湾(うちめわん)、⑧国重要文化財 原の辻遺跡出土品1670点、⑨国重要文化財 双六古墳出土品412点、⑩国重要文化財 笹塚古墳出土品162点の計10件の史跡や文化財が平成27424日に「日本遺産」として認定されました。

今回は、令和元年度離島活性化交付金を活用し、壱岐島の日本遺産及び島の魅力を広く情報発信する企画展を兵庫県立考古博物館にて開催いたします。本企画展を通じて、兵庫県と壱岐島の繋がりを知っていただくと同時に、国境を越えた東アジア諸国との交流によって構築された“壱岐島の歴史”を見ていただき、今まで以上に皆様が壱岐島への関心と興味を持っていただければ幸甚に存じます。

おわりに、本企画展に格別なご指導・ご協力をいただきましたすべての皆様に心からの感謝を申し上げ、開催のことばといたします。』

人面石(じんめんせき、国重要文化財)、国特別史跡の「原の辻遺跡」出土。

弥生時代後期(2000年前~1700年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

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左は碇石(いかりいし)、右は石錘(せきすい、漁網に使うおもり、国重要文化財)。

いずれも「原の辻遺跡」出土、壱岐市立一支国博物館所蔵、弥生時代(2300年前~1700年前)。

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甕棺(かめかん)、「原の辻遺跡」出土、弥生時代後期(2000年前~1700年前)、

壱岐市立一支国博物館所蔵。甕棺は北部九州海人族と共通。

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石斧(せきふ、国重要文化財)、「原の辻遺跡」出土、弥生時代(2300年前~1700年前)、

壱岐市立一支国博物館所蔵。

右端は柱状片刃石斧(ちゅうじょうかたばせきふ)、神戸市西区の「玉津田中遺跡」出土、

弥生時代(2300年前~1700年前)、兵庫県立考古博物館所蔵。

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銅鏃(どうぞく)と鉄鏃(てつぞく)、いずれも国重要文化財、「原の辻遺跡」出土、

壱岐市立一支国博物館所蔵、弥生時代(2300年前~1700年前)。

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金銅製パルメット文飾金具(パルレットもんかざりかなぐ)、国重要文化財、

国史跡「双六(そうろく)古墳」出土、壱岐市立一支国博物館所蔵、古墳時代後期(1400年前)。

パルメット文は鞍金具によく使われた。古代メソポタミアで始まり、シュロ(palm)が語源。

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金銅製心葉形杏葉(しんようがたぎょうよう)、国重要文化財、国史跡「笹塚古墳」出土、

壱岐市立一支国博物館所蔵、古墳時代後期(1400年前)。

馬具を装着するための革帯から垂下する杏葉(ぎょうよう)。

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左は金銅製貝飾付辻金具(つじかなぐ)、右は金銅製雲珠(うず)、いずれも国重要文化財、

辻金具も雲珠も馬具の革帯が交差する部分を留める金具。

国史跡「笹塚古墳」出土、古墳時代後期(1400年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

右端は、貝製飾金具、三木市の「窟屋1号墳」出土、古墳時代、兵庫県立考古博物館所蔵。

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中国北斉製二彩陶器(にさいとうき)、国重要文化財、国史跡「双六(そうろく)古墳」出土、

古墳時代後期(1400年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

北斉(550年-577年)は南北朝時代に東魏の実権者・高洋が帝位を奪って建国した。

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金銅製亀形飾金具、国重要文化財、笹塚古墳出土、古墳時代後期(1400年前)、

壱岐市立一支国博物館所蔵。

馬具の金具に亀形(スッポン?)を使うのは他に例がないのでは。

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「周」文字線刻遼東系瓦質土器、「カラカミ遺跡」出土、壱岐市立一支国博物館所蔵、

弥生時代後期(2000年前~1700年前)。「カラカミ」は「加羅神」のこと。

文字付の土器は日本最古の発見で、「周」は人名だと考えられる。

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上は中広形銅矛、「天ケ原セジョウ神遺跡」出土、壱岐で出土の銅矛3本の内の1本、

下は鉄製剣(国重要文化財)、「原の辻遺跡」出土、

いずれも弥生時代後期(2000年前~1700年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

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土器の展示も多く、壱岐の土器はベンガラ着色の赤い土器が多い。鉄素材や鉄製品も展示されていた。ガラス玉、ガラス製勾玉、銅鏡なども展示されていた。

720日(土)に、壱岐市教育委員会社会教育課文化財班の学芸員松見裕二さんの講演会がありましたので、次回に内容を投稿いたします。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-07-24 00:10

兵庫県神戸市西区天が岡676  電078-917-1923  鳥居の向かいに無料駐車場あります。

祭神 23代顕宗天皇(けんぞうてんのう、450年-487年)、

    24代仁賢天皇(にんけんてんのう、449年-498年)、

    27代安閑天皇(あんかんてんのう、466年-536年)。

神社の由緒によると、

『当地は近畿地方で一番早く弥生文化が開け、田を拓いた。

この地の先祖が、紀元前3世紀頃に原始信仰である夫婦和合の謦境をこの峰に祀ったのが創始で、大宮売命(おおみやのめのみこと)を祭る奉上神社として山上に在り、多くの人々に崇拝されていた。

当地は5世紀頃には明石の大王時代に繁栄し、村民はこの峰に古墳を築き、この麓の地に磐座を降ろした。

7世紀以降に天皇の治下になり、子種と安産を祈ると共に天皇家の神を祀り、天文2年(1533年)には天照大神の父、伊弉諾尊を祭る若王子権現として神殿を建てた。

江戸時代に稲の神も合祀したが、明治維新の祭政一致の大政官布告で稲荷の小社を併合し、この地の伝説の3天皇を祭神として稲荷・若宮神社となった。

ここに子々孫々の安らぎと幸せを願い、最新の工法の春日造りの社殿を新築した。』とある。

「大宮売命」は天太玉命の娘で商売繁盛の神。本来は宮殿の平安を守る女神。天太玉命と大宮売命は奈良県橿原市の「天太玉命神社」に親子で祀られている。

 


境内の現在の標高は50mほど。神社の東を櫨谷川(はぜたにがわ)が流れ、1.9km下流で明石川に合流する。

神戸市西区には顕宗天皇と仁賢天皇を祀る神社(顕宗仁賢神社)が多い。21代雄略天皇の粛清により、2皇子は播磨国に逃れ、後の23代、24代天皇となった。

   鳥居と社号標

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   階段を登ると拝殿

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中央が拝殿、

左神殿(向かって右)は高良社(武内宿禰、310年頃-395年頃)、

右神殿(向かって左)は天王社(素戔嗚命、140年頃-200年頃)。

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   本殿

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八幡神社、

向かって右に誉田別尊(15代応神天皇、363年-403年)を祀る。

    中央に伊弉諾尊(125年頃出生)と伊弉冉尊を祀る。

    向かって左に倉稲魂尊(うかのみたまのみこと、165年頃出生)を祀る。

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   磐座

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巌上神社(いわかみじんじゃ、大宮売命)、

弥生時代に山の峰に磐座(いわくら)を祀ったのが始まりで、昭和50年に現在地に遷座した。

子宝、安産、夫婦、家内円満。

 

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    子供がすくすく育つように桃太郎とかぐや姫の石像が奉納されている。

    手前には古代から信仰されている磐座。

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   拝殿の向かいに能舞台

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-07-16 02:02

フリーメーソン

フリーメーソンは、キリスト教の最も重要な教理「三位一体」に反対している。三位一体とは、父(神)、御子(イエスキリスト)、御魂(聖霊)が一体であるとする教えで、イエスキリストは神であるとしている。

イエスは人の子ではなく「神の子」で絶対神と同じだと云う教理に対してフリーメーソンは、イエスは偉大な預言者ではあるが神ではないと反対している。

イエスは紀元前4年頃にユダヤのベツレヘムに生まれ、ユダヤ教の会派のひとつ、エッセネ派クムラン教団の信者であったので、イエスの説話はユダヤ教から派生し、キリスト教として誕生した。

西暦30年頃、イエスはエルサレムの「ゴルゴタの丘」で十字架に磔にされ、ゴルゴタの丘とされる地には聖墳墓教会が建てられている。当地には旧約聖書の「アダム」の墓もあったと云われている。

十字架で亡くなったイエスは3日後に復活し、弟子たちの前に現れ、神の国の教えを広く布教するように伝え、オリーブ山から昇天し神となった。

弟子たちはイエスの教えを布教し始めた。布教・伝道活動は、最初はユダヤ教の地域に限られ、信者も大部分がユダヤ人であった。

弟子たちはイエスをメシア(キリスト、救世主)と信じ、「神の子」としたことにより、ユダヤ教と分離対立したので、ユダヤ教ではなくキリスト教としてローマ帝国各地で布教・伝道することになった。

ユダヤ教とキリスト教の影響を受けて、610年頃にアラビアでイスラム教が成立。イスラム教も同じく一神教であるが、預言者で開祖であるムハンマド(571年-632年)は、絶対神と同格になっていないので、キリスト教はイスラム教とも対立することになった。

中世の十字軍遠征により、キリスト教とイスラム教は更に対立が深まった。また、第二次世界大戦後のイスラエル建国(1948年)により、ユダヤ教のイスラエル人とイスラム教のアラブ人の戦いが繰り返されることになる。中近東は、宗教、人種、領土の争いとなり、常に地政学的リスクにより不安定になっている。

やがて、キリスト教徒の中にも、イエスは偉大な預言者であるが神ではないと云う信徒が現れてきた。それは「ユニテリアン主義」と云われ、「三位一体」を否定、「神は唯一絶対」であると主張する。

ユニテリアンは古代の動きもあるが、確かなものは1556年にポーランドにおいて活動を開始している。その後、世界各地に広まっていき、様々な組織・宗派ができた。

正統派のキリスト教徒からはユニテリアンは三位一体を認めないので異端として扱われ、対立している。とりわけ、カトリックとは不仲である。

フリーメーソン(Freemasonry)はこのユニテリアン主義に基づいて16世紀末頃に組織され、「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の基本理念をもつ。会員数は全世界で600万人を超えると云われるが、はっきりしない。現在はもっと少ないかもしれない。

20171219日投稿の「三位一体の否定」をご覧ください。

   

アメリカの大統領でフリーメーソンになった人は、ジョージ・ワシントン(1732年-1799年)を始め多くいる。世界の王族・貴族・芸術家・政治家や有名人にもフリーメーソンが多い。GHQのダグラス・マッカーサー(1880年-1964年)はフリーメーソンであった。

幕末に長崎へ来たスコットランド出身の武器商人・トーマス・ブレーク・グラバー(1838年-1911年)はフリーメーソンで、その影響を受けた岩崎弥太郎(1835年-1885年)、坂本龍馬(1836年-1867年)が入会したと云われ、クラバーの支援で大きな仕事を成し遂げた。

最近では小泉純一郎氏(1942年出生)、高須クリニック院長の高須克弥氏(1945年出生、2012年入会)などがフリーメーソンに入会した。これにより、高須院長の言動が大きく変わっていった。フリーメーソンの堅い友愛と社会的なボランティア活動をする組織であることから影響を受けた結果と考えられる。日本人のフリーメーソンは200人から300人ほどいるらしい。

フリーメーソンが用いるシンボルは「定規とコンパス」、「プロビデンスの目」などがあるが、アメリカの1ドル札のピラミッドの図に「プロビデンスの目」が描かれているのは有名。プロビデンスの意味は「神意・摂理」で、キリスト教において「すべては神の配慮によって起こっている」と云う概念。

「定規とコンパス」のマークは、上にコンパス、下に直角定規のマークで、石工職人のギルドのマークだったことを示している。この「職人団体」としてのフリーメーソンは、近代に「友愛団体」に変わり、大きく変貌して世界中に拡大することになる。会員相互の助け合い精神が会員を勇気づけ、ビジネスの成功に導いていった。

日本の千円札には野口英世(1876年-1928年)が描かれているが、妻のユダヤ系アメリカ人メリー・ロレッタ・ダージス(1876年-1947年)はフリーメーソンだったらしく、野口英世もフリーメーソンと繋がりが深い。千円札を透かして見ると、野口英世の左目が富士山に重なっている。これはプロビデンスの目を意識した図案なのかもしれない。

日銀を造ったのは大蔵大臣の松方正義(1835年-1924年)であるが、ロスチャイルドの意向によって設立された。やがてアメリカのロックフェラー財団が日銀に関わるようになるが、ロックフェラー財団はフリーメーソンである。現在でも日銀に発言力があり、日銀券の発行にも注文を付けているのかもしれない。

一万円紙幣の福沢諭吉(1835年-1901年)、五千円紙幣の新渡戸稲造(1862年-1933年)、千円紙幣の伊藤博文(1841年-1909年)もフリーメーソンであったと考えられる。

また、日本の経済が1990年から30年近く足踏みしているのも、アメリカが日銀の金融政策や為替政策を通じて日本の経済成長を抑え込んでいるのかもしれない。

日銀について、山本正樹氏(1959年出生)のブログ「地方からの情報発信」を少し長いですがご覧ください。   

ヨーロッパの建物にはフリーメーソンのシンボルマークの彫刻が付いていることがある。チェコの首都プラハのマラー・ストラナ広場に建つ「聖ミクラーシュ教会」は、フリーメーソンであったモーツァルト(1756-1791年)と関係があり、教会の青いドームの上に「プロビデンスの目」が金色に輝いている。

フリーメーソンのシンボルマークと云うよりは、多くの組織が「神の全能の目」としてこのマークを使っている。フリーメーソンもこのマークをシンボルマークにした。

このシンボルマークを付けた「バッグ」が販売されており、人気があるようだ。シャツ、帽子、コーヒーカップなども販売されている。    

最近は、トランプ大統領(1946年出生)が一方的にイスラエル寄りの言動をとり、戦争の危険性が高まった。安倍首相(1954年出生)がアメリカとイランの争いを仲介すべく6月にイランを訪問し、ローハニ大統領(1948年出生)と最高指導者のハメネイ師(1939年出生)に会ったが、期待した成果は得られなかった。

そして今度は、日本が韓国に制裁を科すことになった。その理由は、韓国が条約、法律、約束を守らず安全保障上の危険性が増してきたからである。日本が韓国に輸出している半導体製造過程に必要な高純度フッ化水素などが軍事利用できるもので、ウランの濃縮に使われる。従って厳重な管理を義務付けているが、大量のフッ化水素などが行方不明になっている。行く先は北朝鮮やイランに間違いない。

直ちに規制しても、既に行方不明になっているものは軍事利用されてしまっている。今後日韓関係も最悪の状態が続いていく。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-07-09 00:11

チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアに古代のメソポタミア文明が発祥した。最初に、「ウバイド文化」がBC5,500年頃に発生し、BC3,500年頃まで続いた。現在のイラク南部から発生して中部、北部へと発展していった。

ウバイド(Ubaid)では灌漑農業が行われ、銅器が使われたが文字はなかったと考えられる。川や海岸での移動には「葦舟(あしぶね)」が使われた。

楔形文字の発明・使用は、ウバイド文化の次に始まった「シュメール文明」からになる。


メソポタミア南部は川の氾濫による肥沃な土地があるが、雨量の少ない乾燥地帯で森林がなく、鉱物資源もなかったので、人類が生活するには厳しかった。

そんなメソポタミアでウバイド人は灌漑農業を始めて、運河を造り、農具を改良、余剰農産物を輸出して必要な物資を輸入した。これにより、ウバイド文化が開化し、人口も増大していった。

また、集落の中心に神殿を設け、宗教的儀礼が行われた。ウバイド文化は周辺地域に拡散し、現在のシリア、トルコ、レバノン、イスラエル、アラビア半島沿岸部まで拡がった。

ウバイド人は土器を造る時に「ろくろ」を使ったが、ろくろを起源としてBC5,000年以上前に車輪が発明された。

車輪から水車が発明され、灌漑や粉ひきなどに使われた。更に、荷車の発明により物資の運搬が楽になった。

BC2,500年頃になると、牛馬に引かせる荷車を改良した戦車(チャリオット)が造られた。戦車も改良が進み、シュメール、ヒッタイト、イスラエル、アッシリア、エジプト、ペルシャ、ローマ、インドなどでは、戦車で戦いが行われるようになった。

イラク南部のテル・アル・ウバイドという遺丘(いきゅう、テル)で遺跡が発見された。「遺丘」とは同じ場所に何度も繰り返し集落や都市が築かれ、層が重なって丘のように盛り上がった状態の遺跡である。

ウバイド文化初期の「ウバイド1期(エリドゥ期)」のBC5,500年-BC4,800年には、海岸線周辺に集落を築いた。

次の「ウバイド2期(ハッジ・ムハンマド期)」のBC4,800年-BC4,500年には、運河網が張り巡らされ、灌漑農業により効率的に収穫が増大した。

そして、「ウバイド3期、4期」のBC4,500年-BC4,000年には、急速に都市化が進み、メソポタミア全体に拡がっていった。

農業、遊牧、漁労が分業で行われ、中東各地と盛んに貿易を行った。

また、集落の中央には大きな定型的神殿が築かれ、神官が祭祀を執り行い、集落の中枢になっていった。神殿は日干しレンガで造られたが、集落の家は葦を束ねてその上に泥を塗って乾かして造った。集落の家もやがて日干しレンガで作られるようになる。

ウバイドの政治的・経済的・文化的拡大は、周辺地域を支配したり闘争したりせず、平和的・協調的な思想により拡がったと考えられる。女系社会だったようだ。

しかし、BC3,800年頃から気候の乾燥が始まり、メソポタミアでは農業効率が悪くなり、BC3,500年頃にウバイド人はメソポタミアを去っていった。

ウバイド文化のあとのメソポタミアには、シュメール人がBC3,500年頃に最古の「都市文明」であるウルク文化を始め、楔形文字や青銅器を発明し、多数の都市国家を造った。

古代都市ウルク(Uruk)は旧約聖書の創世記にはエレク(Erech、「私は行く」と云う意味)と記されている。ウルクは現在のイラク(Iraq)の国名由来になっている。

ウバイド人は域内でも周辺地域でも協調的・平和的に振る舞ったが、シュメール人は闘争的で、都市国家間の紛争が絶えず、力が衰え、BC2,350年頃にはアッカドのサルゴン王に支配された。シュメール人はBC2,000年頃に東方のインダス川流域に逃亡する。メソポタミアでは多くの国家・民族の興亡が繰り返された。

私見ですが、シュメール人はメソポタミアに来る前はインダス川流域にいたと考えています。シュメール人はインダス川の洪水伝説をメソポタミアに引き継ぎ、シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」、旧約聖書の「ノアの箱舟」などが記されたのではないか。

メソポタミアから逃亡したシュメール人は元のインダス川流域に戻った。「エデンの園」はインダス川流域のことか。

インダス文明はBC2,500年頃からBC1,500年頃までの古代都市文明で、モヘンジョダロやハラッパーの遺跡が有名。民族はドラビダ系と考えられ、縄文人との関連性もある。

BC3,500年頃にメソポタミアから去っていったウバイド人はどこへ行ったのか。

落合莞爾氏(おちあい かんじ、1941年~)によると、ウバイド人はメソポタミアを出て東西に分散し、西へ向かった集団が現在の英国に落ち着いてケルト人(スコットランド人、アイルランド人など)になり、東に向かった集団が日本までやってきて、皇室との縁が深いと云う。

ウバイド人が列島に来たのかどうか、古代ケルトと縄文の共通点を調べてみよう。

霊魂不滅、生贄(人身御供、人柱)、渦巻き紋、アニミズム、太陽信仰、神話・民話の類似、土偶、女系社会、文字がないので語り部の口承など、共通点は多い。

縄文を色濃く引くアイヌの「熊祭り」が古代ケルトにもあったようだ。

縄文時代よりも新しいと思うが、民謡の音階が似ている。日本の家紋「結三柏(むすびみつかしわ)紋」とケルトの「トリケトラ」は、驚くほどよく似ている。

考古学者・歴史学者の松木武彦氏(1961年~)はテレビにもよく出演して歴史の解説をしているが、著書に「縄文とケルト-辺境の比較考古学、なぜか似ている日本とイギリスの遺跡たち」がある。

ウバイド人がメソポタミアを去った頃の日本列島は縄文時代中期で、ウバイド人が列島に来たのであれば縄文文化にも影響を与えたと考えられる。

この頃の縄文集落は規模が大きくなり、土器も大型になる。祭祀用の道具が作られ、祭壇も登場する。

更に時代が下ると、壺に海水を入れて煮沸する製塩が盛んになり、職として専業化する。物々交換の交易も専業化する。この専業化・分業化はウバイドの文化を取り入れた結果かもしれない。

縄文遺跡から環状列石や巨大木柱も発見されている。

18世紀に始まった民主主義と自由主義の体制は、最近少々くたびれた感じがしないでもない。しかし、それに代わる体制を提示できる人もいないので、世界は行き詰まっているように見える。この情勢の中で、ケルトと縄文の「古代ウバイド思想」に基づいた「新しいアイディア」が、日本から発生することを期待できるのではないか。

戦争に負けた国は、王や支配者が抹殺されるか、国外へ逃亡する。第二次世界大戦で敗北したドイツのヒトラー(1889年-1945年)は自殺した。

無条件降伏した日本では、昭和天皇(1901年-1989年)が占領軍の最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880年-1964年)に会い、全ての責任は私にあると云った。それでも日本の皇室は、弱体化されながらも滅ぶことなく、2,000年も連綿と続いている。

それは、日本の皇室がヨーロッパの皇室と「ウバイド繋がり」だからでしょうか。占領軍のマッカーサー元帥がスコットランド貴族の血筋であることも関係するのでしょうか。

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# by enki-eden | 2019-07-03 00:38

紀直氏(きのあたいし)

紀氏に関しては多くの書籍が出版されているが、古文書を見ると、先代旧事本紀の国造本紀に、「神武朝の御世に、神皇産霊命(かみむすひのみこと)の5世孫の天道根命(あまのみちねのみこと)を紀伊国造に定められた。すなわち、紀河瀬直(きのかわせのあたい)の祖である。」として紀伊国造が記載されている。

私見ですが、初代神武天皇(西暦181年-248年)の大和国橿原での即位は、西暦211年と見ているので、「神武朝の御世」とは211年から248年の間(3世紀前半)になります。

 

天道根命は、西暦185年頃の饒速日東遷に従って筑紫からやってきた。祖神の「神皇産霊尊」は出雲国風土記の「神魂命(かみむすひのみこと)」、或いは「伊弉奈彌命(いざなみのみこと)」と同じと云う。

それであれば、天道根命は神皇産霊尊の5世孫ではなく、孫(2世孫)になるが・・・

紀国造家系譜では、素戔嗚尊(西暦140年頃—200年頃)の女(むすめ)地道女命が、神産霊神4世孫の天御鳥命と結ばれ、初代紀国造の天道根命を生む。

出雲国風土記では、神魂命(神産霊神)の子が天御鳥命となっているので、天道根命は神産霊神の孫となり、こちらの方が年代に合う。

紀国造家系譜によると、神皇産霊神の3世孫の大矢女命(筑紫紀氏、海人族)が素戔嗚尊の妃となり五十猛命(西暦160年頃出生)を産んだ(御合 素戔嗚命坐而生 五十猛命)とある。大矢女命は神皇産霊神の3世孫ではなく、年代的には子か孫だと思います。

筑紫紀氏の本拠地「基山」は木山、「紀氏」は木氏で、五十猛の植林に携わっている。海人族の紀氏は造船用の木が必要であった。筑紫紀氏は東遷して紀ノ国(木の国、紀伊国)を造る。

   

神皇産霊尊を祖神とする紀直氏(きのあたいし)は、神武天皇の時代に紀伊国造家となり、紀伊国(和歌山県)の延喜式内社で紀伊国一宮の「日前宮」(日前神宮と国懸神宮)を祀った。

和歌山市伊太祈曽(いだきそ)の「伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)」も紀伊国一宮で、祭神は五十猛命。

和歌山市和田の「竈山神社(かまやまじんじゃ)」は、祭神が彦五瀬命(神武天皇の兄)。

日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。

  

紀直氏は後に紀宿祢、紀朝臣と称するようになる。

斎部宿祢廣成(いんべのすくねひろなり、平安時代初期)が、西暦803年(延暦22年)に忌部(いんべ)から斎部(いんべ)に改姓した。

斎部廣成が西暦807年に編纂した「古語拾遺」に、「神産霊神、此れ紀直祖也」と記されている。

筑紫紀氏は、福岡県糸島市(伊都国)、佐賀県東部の基肄郡(きいぐん、支惟国)、佐賀県北部の唐津市(末盧国)を拠点としていた海人族と考えられ、素盞鳴命と五十猛命を祖としている。

五十猛命は、対馬国、一大国(壱岐)、末盧国(唐津市)、伊都国・斯馬国(糸島市)、支惟国(基肄郡)の王だったと考えています。五十猛命は素戔嗚尊から九州北西部の統治を任されていた。

五十猛命の子孫の五十迹手(いとて)が、14代仲哀天皇と神功皇后(西暦321年-389年)を三種の神器で穴門の引島(彦島)に迎えると、天皇は五十迹手をほめて伊蘇志(いそし)と云われた。

神産霊神8世孫の紀伊国造・智名曽の妹、中名草姫が尾張氏の建斗米命(天火明命5世孫)と結ばれ、建田背命や建宇那比命等、六男一女を生む。

神産霊神10世孫の紀伊国造・荒河戸畔命の女(むすめ)、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)が、10代崇神天皇(西暦251年-301年)の妃となり、豊鋤入姫命(伊勢斎宮)を生む。

神産霊神12世孫の紀国造宇遅彦命の妹、山下影日売命が武雄心(たけおごころ)命の妻となり、武内宿祢を生む。

紀国造宇遅彦命の女(むすめ)宇之媛命が武内宿祢の妻となり、紀角宿祢(紀臣、紀朝臣の祖)を生む。

紀氏が大和国で祀る神社は、平群坐紀氏神社(奈良県生駒郡平群町上庄5-1-1)で、紀角宿祢は大和国平群県紀里に居住したとある。紀氏と平群氏は密接につながっている。

武内宿祢の系図は、8代孝元天皇―彦太忍信命―家主忍男武雄心命―武内宿禰ですが、私見では彦太忍信命―(   ?   )―家主忍男武雄心命―武内宿禰と考えていました。

紀氏系図や寛永諸家系図伝などによると、彦太忍信命―家主忍男命―武雄心命―武内宿祢となっており、こちらの方が年代に合う。

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神功皇后と武内宿祢の時代は4世紀。15代応神天皇(西暦363年-403年)と16代仁徳天皇は4世紀後半から5世紀前半で、この頃に国内の鎮圧が完成し、治安が維持されたので、大和から盛んに朝鮮半島へ出兵するようになる。

紀氏は、4世紀から6世紀における大和朝廷の朝鮮出兵に重要な役目を担う。中国では南北朝時代(西暦420年-589年)であった。

  

「宋書」の夷蛮伝倭国条によると、「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)が南朝の宋(西暦420年-478年)に朝貢し、官位を求めたとある。宋の都は建康(南京)。

倭の五王が求めた官位とは、「安東大将軍」、「征東大将軍」、「鎮東大将軍」などで、高句麗・百済・新羅・任那・加羅など朝鮮半島における倭の支配権・権益を宋に認めさせたかったが、宋は倭が百済と高句麗を配下に置くことを認めなかった。

その後、百済は倭の配下に入り、人質を差し出した。新羅も倭に人質を出すことがあった。高句麗は北朝との結びつきが強く、倭とは対立関係にあった。(好太王碑)

海人系・軍事系の紀氏も、平安時代になると公家系・文人系も輩出し、紀貫之(西暦872年頃-945年)が最も有名になっている。奈良県桜井市の長谷寺で詠んだ歌、

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける   (百人一首35番)

紀貫之は、西暦905年に60代醍醐天皇(西暦885年-930年)の勅による古今和歌集で仮名文化を立ち上げ、61代朱雀天皇(西暦923年-952年)の西暦935年頃に土佐日記を漢文ではなく仮名で書き、世の中に和の文学を拡げた。後に女流作家の日記文学が出現することになる。

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# by enki-eden | 2019-06-26 00:18

出光商会の創業者・出光佐三(1885年-1981年)の生家は、福岡県宗像市赤間4-11-28(現存し国有形文化財)で藍玉(染料)問屋をしていた。

次男の佐三は地域愛が強く、物心両面で地域振興に尽くした。

出光佐三は神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)で学び、初代校長の水島銕也(てつや、1864年-1928年)が「士魂商才をもって事業を営め」と説いたのを実践し、人間尊重、大家族主義、消費者本位、真心などを理念として出光興産の前身・出光商会を1911年に創業した。

百田尚樹(ひゃくた なおき、1956年生)の歴史経済小説「海賊と呼ばれた男」は出光佐三をモデルにしており、映画化された。

先日、安倍首相がイランを訪問したが、それに合わせて日本のタンカーがホルムズ海峡付近で攻撃された。

1953年に出光興産社長の出光佐三はタンカー日章丸をイランに出航させ、イギリス海軍の海上封鎖を回避して石油を積んで帰国させた。

イギリスの石油メジャーは出光を処分する提訴をしたが、出光の勝利に終わり、これが石油の自由貿易が始まるきっかけとなった。

出光佐三は子どもの頃から宗像大社を信仰していたが、佐三が多額の寄進をして荒廃した社殿・境内が修復された。

また、沖ノ島に鎮座する宗像大社沖津宮の神宝を学術調査する事業の全資金を出光佐三が提供し、事業の運営にも責任を持って協力した。「出光佐三と宗像大社」YouTubeをご覧ください。

  

大分県宇佐市南宇佐2859に鎮座の宇佐神宮(宇佐八幡宮)は、豊前国一宮の式内社で、八幡宮の総本社になっている。

創建は45代聖武天皇の神亀2年(725年)で、祭神は一之御殿が八幡大神(誉田別尊=15代応神天皇)、二之御殿が比売大神(宗像三女神)、三之御殿が神功皇后となっている。

素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)と天照大神の誓約(うけい)により、西暦160年頃に三柱の比売大神が宇佐で生誕(降臨)、やがて宇佐から宗像(むなかた)に遷り、福岡県宗像市の宗像大社に宗像三女神として祀られた。

宗像大社辺津宮(市杵島姫神)が宗像市田島に鎮座、中津宮(湍津姫神)が宗像市大島に鎮座、沖津宮(田心姫神)が宗像市沖ノ島に鎮座している。

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別の伝承では、三柱の女神は福岡県鞍手郡鞍手町(くらてまち)の六ケ岳(むつがたけ、339m)に降臨、その後、宇佐を経て宗像市赤間(あかま)へ遷ったあと、宗像大社の地に落ち着いたと云う。

日本書紀の「天照大神と素戔嗚尊の誓約」において、「日神(天照大神①)が、生まれた三柱の女神を葦原の中つ国の宇佐嶋に降らせられた。今、北の海路の中においでになる。名付けて道主貴(ちぬしのむち)という」とある。

これは、天照大神①が宇佐で生んだ三女神が、宇佐神宮の二之御殿で祀られている比売大神で、その後、宗像大社でも祀られていると云う記事です。

宇佐神宮由緒記に、「比売大神は天照大神と素戔嗚尊の誓約によって顕れた三柱の女神で、宇佐国造(宇佐氏)らが大元山(御許山、647m)の奥宮・大元神社を中心にして祀った」とある。

2016425日投稿の「八幡神」をご覧ください。  

御許山の西麓から寄藻川が流れ出し、宇佐神宮境内を流れて周防灘に注ぐ。

宗像三女神は、日本から朝鮮・大陸への海上交通の安全を守護する神で、神功皇后の新羅遠征(西暦363年)以降、頻繁に渡海するようになったために大和朝廷により重視され、祭祀が行われた。2014226日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。


京都御苑内の南端にも九條池に囲まれて厳島神社(池の弁天さん)が鎮座している。珍しい唐破風鳥居があり、宗像三女神を祀っている。明治以前は九条家の邸内であった。

その直ぐ北には宗像神社が鎮座、宗像三女神が祀られている。延暦14年(795年)に50代桓武天皇(737年-806年)の勅命により、皇居鎮護の神として宗像三女神が祀られたと云う。

宇佐神宮の3.5kmほど東にある宇佐市出光(いでみつ)を本拠とした出光家は、古代から宇佐神宮の神官を務めてきた宇佐氏の一族で、出光家から宇佐神宮の大宮司が出たこともあった。

江戸時代に出光家は、豊前国宇佐郡から筑前国宗像郡赤間に移ってきた。佐三の自宅から宗像大社辺津宮までは、釣川沿いに9kmほどで、出光佐三は宗像大社を崇敬していた。

辺津宮の社殿は、大島の中津宮と沖ノ島の沖津宮の方角を一直線に向いている。

古代史とは関係ありませんが、お隣さんから頂いたアジサイで「ダンスパーティー」と云う名の種類です。

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# by enki-eden | 2019-06-18 00:39

天伊岐志邇保命(あめのいきしにほのみこと)とも云う。

先代旧事本紀によると、饒速日尊(165年頃出生)が十種の神宝を父・素戔嗚尊(140年頃-200年頃)から授けられ、三十二人の防衛(ふさぎもり)、五部人(いつとものひと)、五部造(いつとものみやつこ)、天物部(あまつもののべ)等二十五部人、船長(ふねのをさ)など大部隊を従えて九州北部から大和国(奈良県)へ東遷した。

私見ですが、饒速日東遷は西暦185年頃のことです。そして、饒速日は纒向(まきむく)を都にした。纏向遺跡で発掘された大型建物を含む3棟の跡に柱が立てられ、建物の軸方向がはっきりと分かる。その方角には穴師山(夏至山、409m)があり、奈良盆地周囲の山には珍しく三角形に尖っている。穴師山は三輪山(467m)の真北にある。

穴師山の山麓には11代垂仁天皇の纏向珠城宮跡があり、少し山を登ると12代景行天皇の纏向日代宮伝承地がある。

箸墓古墳の軸線は穴師山に向いており、しかも「夏至の日の出方向」と一致している。10代崇神天皇陵の軸線も穴師山に向いており、しかも「冬至の日の出方向」と一致している。

大和の霊山・聖地である三輪山だけではなく、穴師山も弥生時代末期から古墳時代にかけて特別な存在であったと考えられる。2015418日投稿の「斎槻岳」をご参照ください。


伊岐志邇保命は饒速日東遷に随伴した三十二人の防衛の一人。高魂尊(たかみむすひのみこと)の孫(高魂尊-思兼命-伊岐志邇保命)で、高皇産霊尊の多くの子や孫が饒速日東遷に随伴した。

西暦180年代の倭国乱、185年頃の饒速日東遷、倭国王・伊弉諾命の淡路島への隠遁、200年頃の素戔嗚の死、201年に卑弥呼の倭国王即位とそれに続く「出雲の国譲り」、204年頃に崗水門(おかのみなと)を出発し211年に大和橿原で即位した初代神武天皇、これに加えて私見ですが270年頃の臺與の東遷、これらはニュージーランドのタウポ火山大噴火による地球規模の異常気象が原因の可能性が高い。

列島の中心地が北部九州から大和(奈良県)に移ることになり、弥生時代から古墳時代に入っていく。2018315日投稿の「タウポ火山の噴火」をご参照ください。 


伊岐志邇保命は山代国造等の祖になっている。壱岐県主の祖「忍見宿祢(おしみのすくね)」が西暦487年に壱岐から月読神社を京都に勧請して祀り、山城国に移り住んだ。46日投稿の「天月神命」をご参照ください。    

伊岐志邇保命の「伊岐」は元々「壱岐」かもしれない。祖父の高皇産霊尊も対馬と壱岐に深い関係がある。

兵庫県立考古博物館では、7月に壱岐市教育委員会の方が来られて「壱岐の弥生時代」について講演会があります。8月には石野博信先生が「壱岐とヤマト」について、更に壱岐市教育委員会の方の「古墳時代の壱岐」について講演会があります。

伊岐志邇保命は物部連の祖・五十研丹穂命(いきしにほ)と同一神で、素戔嗚命と天照大神の誓約により生まれたとする天津彦根命ではないかとも云う。

古事記には天津日子根命は山代国造の祖先とあり、神皇正統記(じんのうしょうとうき)には山代直の祖は天津彦根命とある。山代直は天火明命の後裔とする別系統の一族もある。

伊福部氏の系図では大己貴命の子が五十研丹穂命(伊伎志爾富命)となっているが・・・

先代旧事本紀の天孫本紀に饒速日命の別名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほ)と記されており、この別名は伊岐志邇保命とよく似ているが同一神ではない。

島根県松江市山代町(出雲国意宇郡山代郷)に真名井神社が鎮座、祭神は伊弉諾神と天津彦根命。山代直の一族は天津彦根命の後裔で、当地に移住したので山代郷となったか。

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# by enki-eden | 2019-06-11 08:42

漢族(漢人)とは

漢族は、漢の時代以前には「華夏族(かかぞく)」と称していた。「漢族」という名称は漢王朝(紀元前206年から紀元220年)の時代から使われ、今日まで続いている。

夏王朝(紀元前20世紀 紀元前17世紀)を創建した禹王(うおう、紀元前1900年頃)の末裔が「中原(ちゅうげん)」に居住し、「夏族」と称していた。

そして、次の殷王朝(紀元前18世紀 紀元前11世紀)の紂王(ちゅうおう、紀元前1105年-紀元前1046年)を滅ぼして周王朝(紀元前1046年頃 紀元前256年)を創建した武王(紀元前1043年没)が「中原」に定住し、その一族は「華族」と称した。

従って、「中原」に居住する部族を「華夏族」と呼ぶようになった。

「中原」の位置は、黄河に接する河南省を中心として、山西省と河北省の南部、山東省の西部、安徽省(あんきしょう)の北部地域のことである。

 

華夏文化、華夏文明は周辺の他民族にも移入されていった。華夏族は他民族を吸収したり、他民族に華夏文化の影響を与えながら、多民族国家となり、版図も四方へ拡大していった。

日本は2,000年前から奴国王が後漢に朝貢し、卑弥呼が魏に朝貢し、大和朝廷が遣隋使・遣唐使を送り、中国文化を取り入れた。

紀元前221年、秦の始皇帝(BC259年-BC210年)が中国を統一し、続く漢王朝は400年以上も継続して、文化・文明が大きく発展し、版図も拡大した。

漢時代になると、「華夏族」は「漢族・漢人」と称するようになった。漢時代以降では、中原が異民族に支配される時期も長くなり、鮮卑族、契丹人、モンゴル人、女真族(満州族)などが侵入し、混血も進んだ。

現在の中国は漢族と56以上の少数民族からなる。14億人の多民族と広大な領土を共産党一党独裁によって維持している。

外国にも多くの漢人が華僑・華人として住み着いている。

現在では、DNA調査により、純粋で中原由来の黄河系漢族はいないことが判明し、黄河系のDNA比率が高い華北地域でも66%ほどになっている。「漢族」は民族ではなく、文化的な概念になってきた。

ただ、中国には虐げられた異民族も多いのは事実で、将来の不安定要素になっている。一党独裁制に対する不満も大きい。

共産党の中華思想(中国中心主義)に基づき、国内少数民族や周辺国に対する政治的・軍事的圧力が大きい。日本も経済とは別に、中国の覇権主義・反日政策に対して政治的・軍事的な対抗策をとっている。

インドの人口は2024年に中国を上回る予測になっている。インドも人口が多く、国土も広いが、中国と違って民主主義国家として開かれているので、政治・経済・社会の将来性は明るい。

アメリカはトランプ大統領になってからは、アメリカ・ファースト(米国第一主義)を世界中に推し進めている。

将来、習近平の中華思想とトランプの米国第一主義が軍事衝突して大きな災いが起きるかもしれない兆候が表れている。それに先立つ貿易戦争は既に世界中を騒然とさせ、中国も強硬策を取って引かない。

また、プーチン大統領のゴリ押しや、EUの欧州中心主義も絡んで、世界の政治情勢は混沌としてきた。

世界をまとめる大物政治家の出現が必要となっている。機能しない国連も新たに造り直した方が良いでしょう。

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# by enki-eden | 2019-06-05 08:34

難升米(なしめ)

陳寿(233年-297年)は三国時代の蜀(221年-263年)の官僚となり、蜀が滅亡した後は西晋(280年-316年)に仕え、297年に「三国志」を編纂した。

陳寿の生きた時代に倭国では臺與(とよ235年頃-295年頃)が卑弥呼(179年-247年)の後継として、248年に女王となった。

陳寿が西晋で左遷の辞令を受けた時に、陳寿を検察秘書官に推薦して助けたのは武将の杜預(とよ222年-285年)であった。

陳寿の魏志倭人伝(三国志 魏書東夷伝倭人条)によると、卑弥呼は景初2年(238年)に魏の2代目の皇帝である明帝(曹叡、204年-239年)に使者を送り、「親魏倭王」となった。

卑弥呼の使者は大夫の難升米と次使の都市牛利で、生口(奴隷)10人と班布(はんぷ、麻布)22丈を献じた。22丈とは、長さ2丈(4.7m)の麻布を2匹(4反)。

明帝は卑弥呼に金印紫綬を授け、銅鏡100枚など莫大な品を与えた。難升米を率善中郎将に任じ、都市牛利を率善校尉に任じ、銀印青綬を授けた。

239年に明帝が34才で崩御し、曹芳(231年-274年)が8才で3代目の皇帝となった。

正始元年(240年)に帯方郡太守の弓遵が倭国に使者を送り、皇帝の詔書と印綬を渡した。

正始4年(243年)に皇帝の曹芳は元服し、卑弥呼は大夫の伊聲耆、掖邪狗を使者として魏の洛陽に送り、生口や布を献じた。皇帝の曹芳は使者を率善中郎将とした。

正始8年(247年)に卑弥呼は載斯・烏越らを使者として魏に派遣。倭国と狗奴国の紛争解決のために帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されてきた。張政は皇帝の詔書と黃幢を難升米に渡した。

247年に卑弥呼が亡くなり、男王が立つが争いとなり千人ほどが死んだ。卑弥呼の一族の臺與が女王になり争いは収まった。

張政は臺與を諭し、臺與は魏に20人の使者を送り、生口30人、白珠(真珠)5000孔、青大句珠(ヒスイの勾玉)2枚、雑錦20匹を献じた。

魏と交渉をした難升米は一般的には「ナシメ」と云われているが、2世紀・3世紀当時の豪族の呼び方を考慮すると、難は奴国のこと、升米は斗米(斗目、とめ)ではないでしょうか。はかりの単位の升と斗を間違えたように感じます。

日本書紀の「神功皇后39年」には、「大夫難斗米」と記されている。

図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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嘉平元年(249年)に、魏の将軍・司馬懿(しばい、179年-251年)がクーデターで皇帝一族を暗殺、国の実権を握った。卑弥呼は司馬懿と同じ179年に生まれ、同時代を生きた。

魏が265年に滅び、司馬懿の孫である司馬炎(236年-290年)が西晋を起こし、武帝として全土を統一、洛陽を都とする。泰始2年(266年)に臺與は西晋の武帝(司馬炎)に朝貢した。司馬炎も臺與と同じ時代を生きた。

西晋が全土を統一したが、内乱が頻発し、北方異民族の侵入により、国中の動揺が続いた。朝鮮半島も反乱が続いた。そのために倭国は大陸と交易ができなくなった。

私見ですが、大陸との交易ができなくなった倭王の臺與は列島全土を統一するために、本拠地を九州から大和国(奈良県)に遷し、西暦270年頃に大王家(天皇家)に籍を入れた。270年頃の大王(天皇)は7代孝霊天皇であった。皇女とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は臺與のことかもしれない。三輪山(467m)の大物主大神の妃になる。

臺與は九州から東遷する時に、卑弥呼の遺骸を運び、纏向(まきむく)に前方後円墳の築造を始め、280年頃に箸墓古墳が完成した。卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬し、自らは295年頃に亡くなり前方部に埋葬された。これで弥生時代から古墳時代に入っていく。

臺與は東遷する時に、伊都国王のイニエ(五十瓊殖、251-301年)も伴った。イニエは大和国で10代崇神天皇となり、全国支配を開始した。

210年頃出生の難升米も年老いていたが東遷に従い、黒塚古墳に埋葬されたのではないかと考えています。伝崇神天皇陵の西向かいにあります。20121225日投稿の「黒塚古墳」をご参照ください。  

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# by enki-eden | 2019-05-30 09:24

兵庫県宍粟市(しそうし)山崎町与位129   無料駐車場あります。

祭神 主神 素戔嗚命(すさのおのみこと)、

    配神 稲田姫命(いなだひめのみこと)。

播磨国宍粟郡に鎮座の式内與比神社。

当社は延喜式(927年)にも記されているので、創建はそれよりも古く4世紀末頃か。

当地の宍粟郡は播磨国の中で最も面積が大きかった。


 

素戔嗚命の実名は布都斯(ふつし)で、父は布都と云う。

2018102日投稿の「布都(ふつ)」2016317日投稿の「素戔嗚の系図」をご参照ください。投稿してから3年が経過しましたので、最近の私見とは違う部分もあります。

素戔嗚命は、出雲国風土記には櫛御氣奴命(くしみけぬのみこと)、熊野加武呂命(くまのかむろのみこと)などと記されている。

稲田姫命は素戔嗚命の妃で、奇稲田姫命、櫛名田比売(くしなだひめ)とも云う。出雲国風土記には久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめのみこと)と記されている。

與位神社の由緒によると、伊和大神(大国主命)が国土経営をなされた時、父の素戔嗚命を與位大神として與位山の地に奉斎し、母の稲田姫命を子勝大神として丸山の地に奉斎したのが始まりと云う。

明治42年(1909年)に、與位神社の北にある丸山に鎮座していた子勝神社を合祀した。

與位神社は伊和神社の境外末社の時期があった。

18世紀に編纂された播磨鑑(はりまかがみ)に、

八乙女の 鈴やふりつつ 祈るにぞ 神も願を よるの夢みせ

と記されており、現在でも八名の氏子の子女が巫女として10月の大祭に奉仕している。

両部鳥居と社号標。

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参道を進むと杉の巨木が並び、拝殿が見えてくる。

 

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拝殿前にも大杉のご神木、

注連柱には「天壌」「無窮」(天地とともに永遠に続く)と彫られている。

 

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    拝殿右にライオンが。

 

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流れ造りの本殿

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拝殿左に境内社の大歳神社、祭神は猿田彦命と「大年神」

子勝神社境内の佐田神社であったが、子勝神社と共に当地に遷座した。

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大年神は、素戔嗚尊(140年-200年頃)の第5子である饒速日命(165年頃-225年頃)の別名ではないかと考えています。

大年神のもう一つの別名は布留(ふる)。母は「大山祇神(おおやまづみのかみ)」の娘である神大市姫。  

大年神の妹に宇迦之御魂(お稲荷さん)がいる。

大年神社は兵庫県では非常に多く、400社近くもあり、篤く信仰されている。

大年神の妃の天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の子は大山咋命など10名、

妃の伊怒比売(いのひめ、出雲)の子が5名、

妃の香用比売(かぐよひめ、かよひめ)の子が2名いる。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-23 22:47

縄文土器

兵庫県で発見されている縄文遺跡は756ヶ所あり、土器などの出土物は、他の地域で作られたものや、影響を受けて県下で作られたものもある。

兵庫県加古郡播磨町大中の兵庫県立考古博物館で、「縄文土器とその世界-兵庫の1万年」と題し、特別展が420日から623日まで開催されており、250点の縄文土器や土偶などが展示されている。

縄文人は1万年以上にわたり縄文土器を作り続けた。製作時期や地域によって特色があるので、年代の特定や交易の拡がりが分かる。

石器時代に替わって縄文時代(14,000年前~2,400年前)になると、竪穴住居に定住し、縄文土器の製作・使用、農耕、狩猟、漁労、舟による交易など生活に大きな変化が起きた。

「煮炊き」に必要な土器は、形や文様に時代と地域の違いがあり、考古学にとって非常に重要な出土物である。

兵庫県立考古博物館の展示解説文を見ながら、土器の写真を撮りました。(フラッシュは不可)

最初の土器は無文であったが、順に、粘土ひもによる隆起線文土器、爪形をつけた爪形文土器、縄で文様を描く多縄文土器と変わっていく。

次の写真の右側の土器は、縄文時代草創期の土器で、新潟県津南町(つなんまち)の卯ノ木南遺跡出土の深鉢形土器(爪形文+押圧縄文土器)。

次の土器は、縄文時代早期の土器で、兵庫県豊岡市の山宮遺跡(やまのみやいせき)出土の深鉢形土器(ポジティブ楕円文)と石器。

次の土器は、同じく山宮遺跡出土で、縄文早期の山形文の深鉢形土器、

兵庫県立考古博物館蔵。

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縄文時代早期には、西日本を中心に底が尖った押型文土器(おしがたもんどき)が作られる。

前期になると、土器の底が平らになり、縄文様が複雑になる。土器の厚さは薄くなり、煮炊き効率が良くなる。

次の写真の右側の土器は、神戸市の都賀遺跡(とがいせき)出土の深鉢形土器、縄文早期で底が尖っている、神戸市教育委員会蔵。

次の土器は、豊岡市の神鍋遺跡(かんなべいせき)出土の深鉢形土器、縄文前期で底が平らになっている、豊岡市教育委員会蔵。

次の土器は、神戸市の雲井遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、神戸市教育委員会蔵。

次の小さい土器は、兵庫県洲本市の武山遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、洲本市教育委員会蔵。

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縄文時代中期になると、東日本で遺跡数が急増し、造形も大胆になる。後期には土器の種類が増え、浅鉢、注口、台付鉢(高杯)などが出現して多様化する。土器の口縁部は平らなものへと変化する。文様も変化し、縄文の一部をすり消す「磨消縄文(すりけしじょうもん)」が描かれる。

「火焔型土器」は新潟県を中心に縄文時代中期(5,000年ほど前)に作られた深鉢形土器。

新潟県津南町(つなんまち)の諏訪前遺跡出土の火焔型土器、津南町教育委員会蔵。

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右の土器は、兵庫県南あわじ市の神子曽遺跡(みこそいせき)出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、神戸市の本山遺跡出土の深鉢形土器、神戸市教育委員会蔵。

次は、兵庫県揖保郡太子町の平方遺跡(ひらかたいせき)出土の深鉢形土器、太子町教育委員会蔵。

奥の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

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右の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、

次も丁・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、どちらも縄文中期、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、姫路市の今宿丁田遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

左手前の土器は、姫路市内出土の鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

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右は、神戸市の原野・沢遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、神戸市教育委員会蔵。

左は、揖保郡太子町の東南遺跡出土の深鉢形土器、縄文後期、兵庫県立考古博物館蔵。

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東日本では縄文時代晩期まで土器に縄文が付けられたが、西日本では後期後葉から次第に縄文が使われなくなり、晩期には無文となる。その原因はまだはっきり分かっていない。

私見ですが、揚子江周辺の江南人(倭人)が縄文時代中期から後期にかけて吉備地方や有明地方に渡来していたので、その影響で西日本の土器はシンプルになり、無文になったと見ています。

だからといって、弥生時代の始まりが紀元前10世紀になるわけではありません。201889日投稿の「弥生時代の始まり」をご参照ください。

兵庫県加古川市の坂元遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代晩期、兵庫県立考古博物館蔵。

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右の大きな土器は、兵庫県伊丹市の口酒井遺跡(くちさかいいせき)出土の凸帯文壺、その手前に稲の籾痕付きの浅鉢形土器。縄文時代晩期の伊丹地域では稲作が行われていた。

次は、口酒井遺跡出土の凸帯文の深鉢形土器、縄文晩期。

その奥も口酒井遺跡出土の波状口縁になっている深鉢形土器、縄文晩期。

左手前は口酒井遺跡出土の浅鉢形土器、縄文晩期。

伊丹市教育委員会蔵。

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左は岩手県一関市出土の土製品(土面)、縄文時代晩期、西宮市の辰馬考古資料館蔵、

右は淡路市の富島遺跡(としまいせき)出土の土面、縄文時代後期、兵庫県立考古博物館蔵。

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「遮光器土偶」、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡出土、縄文時代晩期、辰馬考古資料館蔵。

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手前の黒い木製品は「掘り棒」で、神戸市の玉津田中遺跡出土、縄文時代晩期。

その奥は、弥生土器の壺、甕、鉢で玉津田中遺跡出土、弥生時代前期、

兵庫県立考古博物館蔵。

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弥生時代前期の木製の彩文鉢と彩文土器壺、姫路市の丁・柳ヶ瀬遺跡出土、上の彩色図は復元図、兵庫県立考古博物館蔵、兵庫県指定文化財。

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博物館の南に隣接する農業用水の狐狸ヶ池にカワウソのような動物がいたが、盛んに水草を食べていたので、ヌートリアでしょう。

タイワンドジョウも数匹見える。アカミミガメが大量に繁殖したので数年前から駆除しているようだ。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-17 01:07

庭田神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町能倉(よくら)1286  電0790-72-0315  無料駐車場あります。

祭神 事代主命

 2015331日投稿の「事代主神」をご参照ください。

  

播磨国宍粟郡に鎮座の式内社。

13代成務天皇の時代、4世紀半ばに神託により創建。

当社の東方の山裾を染河内川(そめごうちがわ)が流れており、揖保川に注ぐ。


    石の鳥居

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鳥居の右に一宮遥拝所、

当社は伊和神社(播磨国一宮)の境外末社であった時期がある。

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    随神門

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    拝殿前に絵馬殿と土俵(青いカバー)がある。

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    拝殿

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拝殿右に霊石の「亀石」。

伊和神社の本殿後ろに「鶴石」があり、合わせて「鶴亀」になっている。

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本殿、入母屋造り銅板葺き。

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本殿左に五社五行神、手前から水分神、加具土神、大歳神、大山津見神、火魂神、

宍粟市では火魂神を祀る神社が多い。

次の境内社は荒神社、八幡社、祇園社、出雲社。

こちら向きの境内社は稲荷社と皇大神宮。

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   後ろの参道を行くと弁天社。

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   更に進むと、湧き水の霊地「ぬくいの泉」。

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大国主命(160年頃出生)と天日槍命(230年頃出生)が国占め争いをしたが交渉が終わり、大国主命は当地で酒を醸して酒宴をしたと云う。それで、当地は庭酒(にわき)村と云われたが、庭音(にわと)村と云うように変わった。庭田神社の元の名称は庭酒神社であった。

私見ですが、国占め争いの時期は3世紀後半だったと見ています。従って、大国主命の4代ほど後の子孫が大国主命を襲名して播磨を開拓していたと思います。そして4世紀になると当社が創建された。

また、播磨国風土記の宍粟郡の条に酒造りの話がある。大国主神が国造りの大業を終え、景色が良く清水が湧き出る「ぬくい」の水辺に大業に係わった諸神を集め、もてなしの宴を行った。

その時大国主神が持参した干飯(かれい)を「ぬくい」の水で戻した時に一部の飯にカビ(麹)が生え、酒成分が生じて酒の発見になった。米飯を材料にして造った日本酒の庭酒(にわき)である。

それまでの古代の酒造りは、米を噛んで瓶(かめ)に入れて発酵させていた。噛んで入れる器だから「かめ(瓶)」と云ったのかな?

当地は酒造りに縁が深く、「日本酒発祥の地」と云われている。現在でも「庭酒(にわざけ)」ブランドの日本酒が販売されている。

酒米を品種改良してできた「山田錦」を使って、播磨では日本酒がたくさん醸造されている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-11 00:12

伊和神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407  電0790-72-0075

道向かいの「道の駅 播磨いちのみや」に車を停める。

播磨国一宮、伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)。

祭神 大己貴神(大名持御魂神、大国主神、伊和大神)、

    少彦名神(大己貴神の国造りに協力した)、

    下照姫神(大己貴神の子神)。

創建 13代成務天皇の時代、4世紀半ば。

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 当社では「三つ山祭」が61年に1度行われる。伊和神社の北の花咲山(637m)、西の高畑山(470m)、東の白倉山(841m)の磐座信仰・山岳祭祀である。山頂まで長い行列ができると云う。

 伊和神社の東北(鬼門)の宮山(みやま、514m)にも多くの磐座があり、「一つ山祭」が21年に1度行われる。宮山が伊和神社の元宮とも云われる。

伊和神社から少し東へ歩いた所から写した宮山(みやま)。

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三つ山と一つ山の神事が姫路市の播磨国総社「射楯兵主神社」にも引き継がれている。

  

西参道に行くと、境内末社の市杵島姫神社(祭神は市杵島姫命)、通称弁天さん。

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北参道に行くと、三山乙女の泉。

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  周辺には磐座がたくさんあるので古代に磐座信仰があったのか。

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2013427日投稿の「伊和神社」をご参照ください。

   

播磨国風土記によると、大汝命(大己貴命)の妃に「許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめのみこと)」がいる。

日本書紀に記載の木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃になった。

木花開耶姫は瓊瓊杵尊と大己貴命の妃になったことになる。妃になったのは同時期ではなく、時間差があると思われるが、古代は一夫一婦制ではなく、お互いに気に入った男女が一緒になり、イヤになったら別れると云う「自然な現象?」であった。

同時期に数人の豪族が、日を変えて姫の所に通ってくることも多かった。それで、姫が出産しても子の父親が誰なのか分からない場合があった。それで父親を決めるために「盟酒(うけいざけ)」が行われた。   

伊和神社の1.2km北の一宮町閏賀(うるか)279に川崎稲荷神社が鎮座。主神は宇賀魂神(うかのみたまのかみ)であるが、配神は大山祇神と木華咲耶姫命の親子になっている。地名の閏賀は、播磨国風土記によると、大汝神(大己貴命)の妻になった許乃波奈佐久夜比売命が美麗であったので、雲箇(うるか、宇留加)里になったとある。

   

伊和神社は「海神社」「粒坐天照神社」とともに播磨三大社の一社となっている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-03 00:07

兵庫県宍粟市一宮町森添280  電0790-74-0013  無料駐車場あります。

祭神 葦原志許男神(あしはらのしこおのかみ、大国主神) 中殿、

高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、素戔嗚神(すさのおのかみ) 左殿、

月夜見神(つきよみのかみ)、天日槍神(あめのひぼこのかみ) 右殿。

播磨国宍粟郡に鎮座の式内社。

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当社は元々2km南東の高峰山(たかみねさん、845m)に鎮座していたが、現在地に遷座した。上の地図で赤のアイコンが御形神社、黄のアイコンが高峰山。

葦原志許男神(大国主神)が播磨国や但馬国の一部を開拓していた頃に、天日槍神が渡来して国争いが起こったと云う。

葦原志許男神は播磨国に落ち着き、当地・三方(みかた)に祀られ、但馬国気多郡(けたぐん)の気多神社と養父郡(やぶぐん)の養父神社にも祀られた。

天日槍神は但馬国に落ち着いて「出石神社」に祀られている。

   

葦原志許男神が国造りの事業を完了し当地を去る時に、形見として愛用の御杖を高峰山頂に刺し植えた。当社の社名「御形(みかた)」の由来は、御杖の形見代・御形代より起こったと云う。

その高峰山頂に社殿を建ててお祀りしたのが当社の起源となっている。

奈良時代末の49代光仁天皇の時代、772年に当社は高峰山から現在地に遷座した。その時の伝説に、一夜にして3本の大杉が出現すると云う夢のお告げを里人たちが見た。

この夢は、高峰山の大神(葦原志許男神)が当地へのご遷座を所望されているからと云うことで、早速当地に社殿を造営し、お祀りしたのが現在地での創建となっている。

その杉は「夜の間の杉(よのまのすぎ)」として言い伝えられており、3本の杉の内2本は大正時代に台風で倒れたので、現在は1本だけが残っている。

鳥居と桜

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   神門

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神門前に宍粟市指定天然記念物の正福寺桜(しょうふくじざくら)。

兵庫県の固有種で珍しく、御形神社の正福寺桜は県内最大級。

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   正福寺桜の横に五色椿、同じ枝に紅、ピンク、白など複数の色の花が咲く。

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大きな絵馬の奥に拝殿。

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本殿、室町時代の1527年建立、三間社流れ造りの檜皮葺で、昭和42年(1967年)に国の重要文化財に指定された。その後、昭和46年に解体復元修理により、室町時代後期の見事な彫刻や組物がよみがえった。

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本殿の真後ろにご神木の「夜の間の杉」、樹齢600年以上、幹回り6m以上。パワースポットとして知られている。年代的にみると2代目のご神木でしょうかね。

ご神木に巻き付けたロープが本殿の後ろまでつながっており、ロープを力いっぱい引っ張って願い事をすると良いらしい。私も力いっぱい引っ張って願い事をしました。

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本殿右に日吉神社、祭神は大山咋神か。左後方にご神木の「夜の間の杉」が見える。

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本殿左に佐閉神社(さへじんじゃ)、祭神は障の神(さえのかみ)。

右後方にご神木の「夜の間の杉」が見える。

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私見ですが、祭神の葦原志許男神(大国主神)は西暦160年頃の出生、高皇産霊神・月夜見神・素戔嗚神は140年頃の出生、天日槍神は230年頃の出生と見ています。 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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葦原志許男神(160年頃出生)と天日槍神(230年頃出生)が国占め争いをした件は、播磨国風土記にも記載されており、天日鉾命と葦原志挙乎命(伊和大神、大汝命)が国争いをしたと云う。

両神の年代の違いから考えると、ここで云う葦原志許男神(大国主神)は、大国主神の4代ほど後の子孫が播磨国にやってきて国造りをしたのではないかと私は見ています。

  

201911日投稿の「天日槍は神武天皇の傍系か」をご参照ください。

故・上田正昭先生(1927年-2016年)は「大国主を祖と仰ぐ出雲の人々が播磨国に移住して、地元の伊和君が祀る伊和大神と習合したのであろう」と言っておられました。2013512日投稿の「伊和大神と天日槍」をご参照ください。 

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-04-27 00:03

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町西深(にしぶか)337  無料駐車場あります。

祭神 木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)、

    大地主神(おおとこぬしのかみ)。


    

祭神の木花咲耶姫神は「大山祇神(おおやまづみのかみ)」の子神で、姉の磐長姫(いわながひめ)と共に皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃となった。瓊瓊杵尊は、木花咲耶姫が美人であったので召したが、磐長姫は醜いと云って送り返してしまった。

木花咲耶姫は一夜で妊娠したが、瓊瓊杵尊が自分の子かどうかと疑ったので木花咲耶姫は怒り、室を造ってその中に入り、天孫の子だったら無事に生まれるでしょうと云って火をつけて室を焼いた。最初に生まれた子を火酢芹命(ほすせりのみこと)、次を火明命(ほあかりのみこと)、次を彦火火出見尊と云う。

「室に火をつけて子が生まれる」と云うのは、出産を踏鞴製鉄になぞらえて表現する方法。弥生時代の豪族は、船による交易や踏鞴製鉄などを生業としていた。

宍粟市には、砂鉄が取れる花崗岩質の中国山地が横たわり、鉄穴(かんな)流しができる揖保川(いぼがわ)水系が流れ、炉の燃料の材木を伐採できる山林が9割を占めるので、古代の踏鞴製鉄にはうってつけの条件が揃っていた。

宍粟郡では明治の初めまで鉄生産が盛んに行われ、「宍粟鉄」として広く流通していた。製鉄遺跡も発見されており、播磨国風土記にも鉄生産の記事がある。

御武神社(みたけじんじゃ)は、当地の製鉄豪族が、大山祇神の美しい娘である木花咲耶姫を祀った神社だと考えられる。その製鉄の豪族が当社配神の大地主神かもしれない。

木花咲耶姫には別名が多く、日本書紀には鹿葦津姫(かしつひめ)、亦の名を神吾田津姫(かむあたつひめ)とも云うとある。

その他、古事記や播磨国風土記にも別名が記されている。播磨国風土記宍粟郡雲箇里(うるかのさと)には、伊和大神(大国主命)の妻・許乃波奈佐久夜比売、其の形美麗とある。美人であったので雲箇(うるか、宇留加)の地名になったと云う。

伊和大神を祀る伊和神社の西側に宍粟市一宮町閏賀(うるか)と云う地名が今も残っている。

古代は現代と結婚観が全く違っている。瓊瓊杵尊の妃となった木花咲耶姫とは別人と云う人もいるが・・・

当社は揖保川の西岸に鎮座、両岸が桜並木になっている。

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   境内から揖保川を望む。

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   拝殿

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   本殿

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木花咲耶姫に関して記紀には、現在の鹿児島県や宮崎県での出来事のように記されており、鹿児島県・宮崎県の地名や神社にその足跡が多く残っている。木花咲耶姫と瓊瓊杵尊の話は南方系の神話に多いから、南九州での神話に影響を及ぼしていると云う説もある。

私は、木花咲耶姫と瓊瓊杵尊の出会いは九州南部ではなく、伊都国(福岡県糸島市)だったと考えています。糸島市三雲に「伊都国王と妃の墳墓」ではないかと云う国史跡の三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき、紀元前1世紀)がある。

三雲周辺は伊都国の中心地であったと考えられ、三雲南小路遺跡の南に隣接して、井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき、紀元1世紀)もある。

両遺跡とも奴国の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき、国史跡)と共通性があると云われており、私は奴国と伊都国は同族の海人が統治する弥生国家だったと見ています。

三雲南小路遺跡は瑞梅寺川(ずいばいじがわ)の東に位置し、2km北東には高祖山(たかすやま、416m)があり、1.5km北西の糸島市有田に「平原遺跡(ひらばるいせき)」がある。平原遺跡は伊都国の女王墓と考えられる。 「伊都国を掘る」をご参照ください。

 

三雲南小路遺跡の東に細石神社(さざれいしじんじゃ、糸島市三雲432)が東向きに鎮座。祭神は磐長姫命と木花咲耶姫命の姉妹になっている。現在は小規模な神社であるが、過去には大規模な神社であったと云う。豊臣秀吉の太閤検地により神領が没収された。


周辺には古墳も多いので、姉妹の墳墓があるかもしれない。三雲南小路遺跡に瓊瓊杵尊と木花咲耶姫が埋葬されているとも云うが、時代が合わない。

細石神社の300m北東に築山古墳(つきやまこふん、4世紀末頃)がある。その直ぐ南に木花咲耶姫の御子・彦火火出見尊の生誕地と云う伝承の「八竜の森」があったが、今はなくなっている。八竜の森にあった神石(八大龍王)は細石神社の境内に遷され、地元の人々が信仰している。

彦火火出見尊は高祖山の高祖神社に祀られており、以前は神輿が八竜の森と細石神社まで担がれてきていたようだ。

大山祇神は西暦140年頃の出生と見ているので、磐長姫や木花咲耶姫は155年から160年頃の出生だと思います。

木花咲耶姫は「安産の神」、「子育ての神」として信仰を集め、全国の神社で祀られている。富士山本宮浅間神社(静岡県富士宮市)では主祭神が木花咲耶姫で、配神が瓊瓊杵尊と大山祇神になっており、富士山信仰の中心になっている。

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# by enki-eden | 2019-04-18 00:22

八島士奴美と大国主

素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が奇稲田姫を妻として、出雲の須賀に宮を建て、歌を詠んだ。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

日本書紀に、『素戔嗚尊が須賀に宮を建て、歌を詠み、奇稲田姫と夫婦の交わりをして、大己貴神を生まれた。』とある。

先代旧事本紀の地祇本紀には、

『素戔嗚尊は奇稲田姫と結婚して妃とされた。生まれた子が大己貴神(おおなむちのかみ)である。大己貴命の亦の名を八嶋士奴美神(やしましぬみのかみ)、亦の名を大国主神、亦の名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさろひこやしましの)、亦の名を清之繋名坂軽彦八嶋手命(すがのゆいなさかかるひこやしまでのみこと)、亦の名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬ)という。』とある。

先代旧事本紀は、大国主神の亦の名を八嶋士奴美神だと云っているが、古事記では、八島士奴美神の5世孫の天冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)が刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶って産んだ子が大国主神とある。

刺国は現在の福岡県福津市で、宗像市と古賀市の間にある。大国主(宗像氏の祖)は宗像を拠点としており、西の隣国の刺国若比売を妻とした。刺国若比売は刺国大神の娘。

私見ですが、八島士奴美も大国主も西暦155年頃から160年頃の出生です。古事記には、八島士奴美の6世孫が大国主であるというが、時代が合わない。

ただ、大国主の子孫が代々「大国主」を襲名したのであれば、古事記の記載も妥当となるが・・・

播磨国風土記に大汝命(おおなむちのみこと)が登場するが、大汝命が大己貴命本人なのか子孫なのか分かりにくい。他の記事や登場人物も含めて考えると本人のようだ。

西暦200年頃に亡くなった素戔嗚の跡を継いで、北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)を治めたのは大国主であるが、大国主が素戔嗚の長子の八島士奴美のことであれば、八島士奴美は北部九州の倭国では大国主と呼ばれていたことになる。

        刺国若比売

櫛稲田姫     |――――大国主(代々大国主を襲名する)

  |―――八島士奴美(大国主)

素戔嗚      |――――味耜高彦根

  |―――田心姫

  |―――市杵嶋姫                                 (天照大神③)

  |       |――卑弥呼(天照大神②)――(難升米)――(掖邪狗)――臺與

  |     天火明(海部氏・尾張氏の祖)

比売大神(天照大神①)

私はこれまでは、大国主が素戔嗚の末子である須世理比売(母は佐美良比売)を妻としたので、末子相続の当時の習慣により、末子の夫である大国主が素戔嗚の跡を継いだと考えていました。

素戔嗚が亡くなり、西暦201年に卑弥呼(天照大神②、179年-247年)が倭王に就任した時に、八島士奴美(大国主)が北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)の国譲りをしたのか。

八島士奴美(大国主)にとって、卑弥呼(天照大神②)は素戔嗚系の同族関係になる。

 

2016118日投稿の「兵主神社」の祭神は、大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、神清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠命とあるが、この祭神は全て大国主命の別名ということになる。

2015116日投稿の「御坂神社」も大物主神、葦原志許男神、八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)となっている。他の神社の祭神にも、大国主命の別名を複数並べている例がある。

 

須賀神社は須佐之男命を祭神とし、全国に祇園信仰の神社として鎮座している。素戔嗚の「八岐大蛇」(やまたのおろち)退治、櫛稲田姫との結婚、須賀に宮を建て、歌を詠む、この一連の物語は出雲国で行われたと記されているが、実際には北部九州の出雲族支配地での物語かもしれない。

北九州市小倉北区須賀町12-24に須賀神社が鎮座。祭神は須佐之男命・伊邪那岐神・伊邪那美神となっている。  

北九州市八幡西区にも遠賀川の東岸沿いに須賀神社が鎮座。祭神は素戔嗚命・奇稲田媛命・大己貴命・軻遇突智神。

同じ遠賀川沿いの福岡県直方市大字下境に、須賀神社が鎮座、祭神は須佐之男命。

素戔嗚が高天原を出て、出雲国へ行ったと云うのは遠賀川周辺だったのか。「出雲国の簸の川(ひのかわ)」は、実際には遠賀川のことだったかもしれない。

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# by enki-eden | 2019-04-09 00:16

古代における「漢と倭」

2019330日に「大阪歴史博物館」で、「関西アジア史談話会」の発足記念講演会がありました。

講演1は、「近年の発掘調査から見た後漢の成立」と題して、大阪歴史博物館学芸員の村元健一さんの講演で、前漢(首都長安、BC206年-AD8年)と後漢(首都洛陽、AD25年-220年)は同じ漢でありながら異なる点も多く、都城と陵墓の遺跡から見た両王朝の違いを考えると云うものでした。

後漢は首都を長安より350km東方の洛陽に定めたので東漢(とうかん)と呼ばれる。前漢末期に大司馬(最高官)の王莽(おうもう、BC45年-AD23年)は策略により、皇帝同然の権力を握り、前漢から禅譲を受けたとして、「新」と云う王朝(8年-23年)の皇帝となったので、漢は前漢と後漢に分断された。

劉秀(BC6年-AD57年)が漢室を再興して洛陽を都とし、後漢(東漢)を興す。

赤のアイコンが長安、黄が洛陽


「儒教」については、前漢(西漢)は終末期に儒教を重視する風潮が強まり、王莽は儒教信奉者であった。後漢(東漢)は最初から儒教を国教とした。

秦の始皇帝(BC259年-BC210年)の「焚書坑儒」により、儒教が復活するには長い年月を必要としたと思います。

「都城」については、前漢の長安の都城は大規模で、東向き。宮殿は南向きになっている。後漢の洛陽の都城は規模が小さく、都城・宮城・宮殿は南向き。

「陵墓」については、前漢は規模が大きく、方錘形で副葬品も膨大で東向き。前漢最後の平帝の陵墓は南向きになっているので、後漢も南向きで、「節倹」のために小型で高さの低い円墳になっている。

前漢と後漢の皇室の血統は継続しているとされているが、儒教に対する姿勢は大きく異なる。後漢は儒教国家として運営され、儒教による身分制度を厳密化し、為政者の奢侈を抑制した。

講演2は、「漢委奴国王・金印真贋論争から璽印考古学へ」と題して、明治大学文学部教授の石川日出志さんの熱弁を聴かせていただきました。

石川教授は熱烈な金印本物説で、多くの証拠を提示しながら「本物である」と強調されました。「漢委奴国王」金印は後漢初期の製品であり、1784年の江戸時代に発見されたが、江戸幕府による金座管理の厳しい統制の中で、偽の金印を制作することは不可能であると断定されました。

この金印はよく見ると、初めラクダ型に作られたものが、後に蛇形に再加工されたものらしい。「漢委奴国王」の五文字の字形の研究・比較によっても後漢初期の特徴と整合性がある。字形や印の彫り方は時代によって微妙に変化するようだ。

金印の「つまみ」である「紐」についても時代による変遷がある。紐孔(穴)がだんだん小さくなってきている。従ってヒモである「綬」を紐孔に通すには、紐孔の下に当たる部分の印台を削って穴を大きくして、通し易くする必要が出てきた。漢委奴国王金印の紐孔内の印台部分にはその窪みができている。

私も漢委奴国王金印の本物説ですが、石川先生の講演により確信を得ました。

 

漢委奴国王金印は「福岡市博物館」に常設展示されています。印の一辺は2.3cm、重さ108gの金印です。福岡市博物館にレプリカが3,996円で販売されており、石川先生は講演受講者にレプリカを順番に回してくれましたので、私も手にすることができました。


漢委奴国王の金印(国宝)は西暦57年に、奴国王が後漢に使節を送り朝貢交易をした時に与えられたものである。これにより、「交易面」では奴国が倭国(北部九州)全体の代表となった。

私見ですがこの奴国王は、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと)で、西暦元年の生れです。(「日本書紀神武紀」の書き出し部分より解明)

西暦107年になると4代目奴国王の角杙尊(つぬくいのみこと、西暦60年頃出生)が後漢に朝貢交易をした時に、「倭王帥升」と認められ、奴国王が交易面に加え「政治面」でも倭国全体を代表するようになり、奴国王兼初代倭王となった。

これで、初代奴国王から相続されてきた「漢委奴国王」金印は役目を終え、聖地の志賀島に埋納されたと考えています。

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# by enki-eden | 2019-04-01 00:07

先日のテレビ朝日の報道によると、

『世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見した。

アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長は、「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。それよりも1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。そういう意味ですごく価値がある。」と云う。

トルコ中部にある遺跡で一昨年(2017年)、日本の調査団が4200年前から4300年前の地層から世界で最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘した。これまでの定説では、3200年前から3300年前にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて、製造技術を独占し、周囲を征服したとされている。

しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、成分もこの地域の鉄鉱石とは違うことが分析で明らかになった。

鉄の塊が見つかった地層では古代中近東の様式とは違う木造建築物の遺構も見つかっていて、調査団は、これまで考えられていたよりも前にヒッタイトとは違う民族が鉄の製造を伝えた可能性もあるとみて注目している。』と報道された。

***

発見現場のトルコ共和国は、南を地中海、西をエーゲ海とマルマラ海、北を黒海に囲まれている。この地域は「小アジア」と呼ばれるが、「アナトリア」とも呼ばれている。東ローマ帝国時代にギリシャ語で「アナトリコン(日出る処)」と呼ばれたのが「アナトリア」の名称由来となった。「日出る処」は日本と一緒ですね。

トルコの中央部はアナトリア高原で標高は800mから1200m。日本の中国山地ほどの高さの高原で、閉鎖型盆地である。トルコ東部の山は高く、東端には「ノアの箱舟」で有名なアララト山(5137m)があり、トルコの最高峰である。

アナトリアは古代から文明が栄え、南部地方には9500年前~8300年前頃の世界最古の都市遺跡・チャタル・ヒュユクがあった。新石器時代から金石併用時代まで続く遺丘となっている。

4000年ほど前に、このアナトリアに突然現れたインド・ヨーロッパ系の最古とされる民族・ヒッタイトがハットゥシャシュ(ハットゥシャ)を王都として、鉄器を使用する一大帝国を築いた。

このヒッタイトが現れる前段階の、5000年前に先住民「ハッティ」がアナトリア半島中央部に居住していた。この民族はインド・ヨーロッパ系ではなく、周辺の言語とも違う独自の言語を話し、膠着語であった。メソポタミアのシュメール人との関連を調べる必要がある。シュメールもハッティと同じく4000年ほど前に滅亡した。

旧約聖書によると、4000年ほど前にアブラハムがシュメール(イラク)のウルからハラン(トルコ)に移り、更にカナン(イスラエル)に移動した。このアブラハムの移住は、私見ですがシュメールとハッティの滅亡と関係があると考えています。

ハッティ人は鉄を発明した民族で、これが人類の鉄使用の最初だと考えられる。

ヒッタイト人が4000年ほど前に北方からやってきて、アナトリアのクッシャラに定住し始め、3800年ほど前にクッシャラの王ピトハナと子のアニッタがアナトリア征服に取り掛かった。

ピトハナ王とアニッタ大王はアナトリアを征服して先住民「ハッティ」の鉄を独占し、ヒッタイトの文化として後世に伝えた。(粘土板のアニッタ文書による)

当時の鉄は金よりも貴重であった。

そのヒッタイトも3200年ほど前に滅亡する。

トルコの首都アンカラの東方約150kmにボアズキョイという小村があり、南西の丘上に全長4kmに及ぶ城壁跡や獅子の石像が守る巨大な城門などが確認されている。

1906年、ドイツの考古学者フーゴー・ヴィンクラー(1863-1913年)がボアズキョイ発掘調査を行い、楔形文字が刻まれた大小1万片の粘土板文書の大書庫を発見した。そこでヴィンクラーは、このボアズキョイこそ、ヒッタイトが創り上げた王都ハットゥシャシュであるとし、4000年前のアナトリアの歴史が明らかになった。

この粘土板文書は「ボアズキョイ文書」と呼ばれ、このボアズキョイ遺跡は1986年に世界遺産登録された。ヒッタイトの滅亡により製鉄法が公開され、古代オリエントは青銅器時代から鉄器時代へと移っていく。

赤のアイコンがボアズキョイ


ヒッタイトの滅亡により製鉄法が各地に拡がっていったが、この製鉄法は直接製鉄法(塊錬鉄製鉄法)と云って踏鞴製鉄の一種で、比較的低温(800℃位か)で鉄塊を製造し、鉄塊を再度加熱製錬・鍛造(ハンマーで叩く)する方法であった。この製鉄法は日本にはオリエントから南周りでインドから江南(揚子江周辺地)経由で伝わった。江南は青銅器文化が盛んであったが踏鞴製鉄も行われていた。20181030日投稿の「金糞(かなくそ)」をご参照ください。

    

日本の古代における「踏鞴製鉄」はこの直接製鉄法で、江南人(倭人)の渡来により弥生時代の始まりとなる。弥生時代の初期から水田稲作が行われ、青銅器と鉄器が同時に製作された。

弥生時代の支配者は製鉄族で、記紀に記されている素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)がその最高位にあった。製鉄族は配下に手工業の職人、海人族、稲作農民などを置き、海外や列島における交易により利益を得ていた。武器製造や軍事面にも力を入れて、地域同士を結び付ける同盟関係や服従関係により列島全体の支配を強めた。

オリエントから中央アジアを通り、華北の中国にも製鉄法が伝わってきた。当初は中国も直接製鉄法で製鉄していたが、製陶技術により1200℃以上の高温を出すことができていたので、鉄鉱石を高温で加熱・溶融して銑鉄を製造、再度加熱溶融して炭素を除いて鋼を造る溶融銑鉄製鉄法(間接製鉄法)が紀元前2世紀の前漢時代に完成した。

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# by enki-eden | 2019-03-30 09:03

嵯峨天皇と素戔嗚

西暦810年(大同5年)の正月、52代嵯峨天皇(786年-842年)は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、愛知県津島市神明町1「津島神社」に「日本総社」の号を奉られた。   

織田信長(1534年-1582年)も津島神社を崇敬していた。織田家の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋である。

津島神社(祭神・建速須佐之男命)は全国に3,000社ある津島神社・天王社の総本社になっている。祇園信仰の一つとして津島信仰・天王信仰と云われ、神仏習合時には津島牛頭天王社と称し、牛頭天王(素戔嗚尊)を祭神としていた。

津島神社の社伝によると、素戔嗚命が朝鮮半島から帰ってきた時に荒魂は出雲国に鎮まり、和魂(にぎみたま)は7代孝霊天皇45年(3世紀後半)に一旦対馬に鎮まった後、29代欽明天皇元年(540年)に現在地近くに移り鎮まった。

810年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られた。


記紀には、素戔嗚命(140年頃-200年頃)が猛々しい暴れ者として描かれている。これは、663年の「白村江の戦」により、日本軍が唐・新羅連合軍に敗れ、百済の再興に失敗、1万名もの戦死者を出したことによる。

古事記は712年の成立、日本書紀は720年の成立だから、白村江の戦から50年余りしか経っていない。新羅と強いつながりを持つと云われる素戔嗚命に対する反感が非常に高い時期に記紀が編纂された。

しかし、それから90年ほどが過ぎて、嵯峨天皇は歴史を冷静に見直し、素戔嗚命の名誉回復を図った。

尤も、一般庶民にとっては白村江の戦と素戔嗚命を結び付ける考え方など全くなく、相変わらず昔からと同じように素戔嗚命の人気は高く、全国の神社で祀られ崇敬されていた。

嵯峨天皇は50代桓武天皇(736年-806年)の第2皇子で、第1皇子が51代平城天皇(へいぜいてんのう、774年-824年)となった。平城天皇と嵯峨天皇の母は、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)。

809年に平城天皇が上皇となり、嵯峨天皇が即位した。しかし、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の関係は不穏な状態で、嵯峨天皇と平城上皇が対立し、「薬子の変(くすこのへん)」なども起きた。

薬子の変は坂上田村麻呂に鎮圧させたが、嵯峨天皇は情報漏洩の反省として、巨勢野足(こせののたり、749年-817年)や藤原冬嗣(ふじはらのふゆつぐ、775年-826年)らを採用し、蔵人頭(くろうどのとう)を設置して機密を守った。

更に、都の治安を守るために検非違使(けびいし)を設置した。

嵯峨天皇は、干ばつなどによる財政難や、皇族が増えすぎて官職に就けない皇族が多くなったことにより、皇族の人数を減らすための臣籍降下(しんせきこうか)を行った。

皇位継承の可能性がない皇族に姓を与えて臣籍降下させることは皇親賜姓(こうしんしせい)と云って、桓武天皇も100名ほどを対象に実施した。

更に、出家させることにより、皇族を減らす方法も取られた。

これは、皇位継承者を安定的に確保するために、多くの妃に皇子・皇女を産ませた結果でもある。現在の皇室が抱える皇族減少問題とは全く逆の現象になっていた。

第二次世界大戦後、皇籍離脱が行われたが、GHQによる皇室財産没収と共に、皇室弱体化が狙いであった。GHQが日本を支配するための新憲法もそのまま現在まで機能し続けている。

平安時代に皇親賜姓をした元皇族は、地方の武士や豪族になるのが通常であった。

「源氏」は嵯峨天皇が814年に皇子3名に皇親賜姓を行ったことに始まる。一番有名なのは56代清和天皇の清和源氏でしょうか。源頼朝(1147年-1199年)の時代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開いた。その他、59代宇多天皇の宇多源氏、62代村上天皇の村上源氏なども出現し、21の流派ができた。

「平氏」は50代桓武天皇の桓武平氏、54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の仁明平氏、55代文徳天皇(もんとくてんのう)の文徳平氏、58代光孝天皇(こうこうてんのう)の光孝平氏がある。

桓武平氏の嫡流である伊勢平氏の平清盛(1118年-1181年)が棟梁となり、日本初の武家政権を樹立した。

古代史研究でよく参考にされる「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」は嵯峨天皇が編纂を命じた氏族名鑑である。

嵯峨天皇は823年に53代淳和天皇(じゅんなてんのう、786年-840年、桓武天皇の第7皇子)に譲位し、上皇になってからも権威を発揮して、政治的な安定を図った。

淳和天皇の母は桓武天皇夫人の藤原旅子(758年-788年)で、平城天皇・嵯峨天皇は異母兄となる。

嵯峨天皇の信頼を得ていた空海(774年-835年)が、離宮の嵯峨院(京都御所の8km西)に五大明王を安置した。876年に淳和天皇の皇后が離宮を寺に改め、大覚寺(真言宗大覚寺派の本山)とした。淳和天皇の皇后は嵯峨天皇皇女の正子内親王(810年-879年)である。

大覚寺の西北650mの右京区北嵯峨朝原山町に円丘の嵯峨天皇御陵がある。

京都市右京区嵯峨朝日町23に鎮座の車折神社(くるまざきじんじゃ)は、嵯峨天皇と関係が深く、清原頼業(1189年没)が祭神で、境内社の芸能神社には天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られている。

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# by enki-eden | 2019-03-21 09:06

奴国は弥生末期の中心地

古代の長江(揚子江)流域の民は「江南人」、或いは「倭人」とも呼ばれ、呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を長江の下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)を建国した。

江南人(倭人)は稲作、船舶による漁労・交易(南船北馬)、青銅器文明で栄えたが、呉と越の戦争(BC473年)、楚と越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、紀元前5世紀から紀元前2世紀の間に長期波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に避難・逃亡してきた。

これにより、14,000年前から始まった縄文時代が2,400年ほど前に終わり、弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となり、列島全体に弥生文化が広まっていった。

江南人(倭人)が日本列島にやってきたので住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

江南人の中でも呉人の渡来数が最も多く、北部九州と朝鮮南部に多くの小国家群を建てた。その中で博多湾周辺の「奴国」が中心的な役割を果たしていった。

晋書、梁書などに『倭は自ら「呉の太伯の後」という』とあるので、呉系の弥生人は呉から日本列島にやってきた倭人であると認識していた。

呉人が中心となって北部九州に建国した小国家群(倭国)の中の「奴国」が伝承する紀元前1世紀から紀元3世紀の歴史が、記紀の「神代の物語」として古代人の表現方法により記された。但し、列島では素戔嗚命や大国主命の出雲族の勢力が大きく、支配地も列島全体に拡がっていた。

私見ですが、素戔嗚命や大国主命の出自は「楚」であると考えています。楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)です。

紀元前1世紀の北部九州はまだ充分なまとまりがなかったが、既にクニとしての萌芽はできていた。その頃の王として記紀に記されたのが、別天神(ことあまつかみ)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)の五柱の神である。

紀元前1世紀の博多湾周辺には板付遺跡(いたつけいせき、)があり、縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥を裏付ける遺跡である。環濠集落、水田跡、墓地などが発掘されている。

また、博多湾は大陸に向かう天然の良港という地の利により、海人族の安曇氏を中心として交易により発展した先進地域であったので、奴国は小国家群(倭国)のリーダーとなっていった。そして、奴国の北部は海、東部・南部・西部は山に囲まれ、天然の軍事要塞としても恵まれていた。


紀元前1世紀には、列島各地の海人族は前漢(BC206年-AD8年)と交易をしていた。交易をするためには、各地の豪族は通訳と漢字を書ける役人を必要とした。文字は木簡か竹簡に筆で書いた。前漢の出先機関は楽浪郡(BC108年-AD313年)にあったので、各豪族は漢語と漢字を習う研修生を楽浪郡に派遣していた。

紀元前1世紀の日本の遺跡からは硯石の破片が出土する。福岡県糸島市の閏地頭給遺跡(うるうじとうきゅういせき)、三雲・井原遺跡(みくもいわらいせき)、佐賀県唐津市の中原遺跡(なかばるいせき)、福岡県筑前町の薬師ノ上遺跡、島根県松江市の田和山遺跡などから硯石の破片が出土している。その他、日田市などからも出土している。

紀元1世紀になると、奴国はクニとしての機能を整え、初代奴国王は国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦元年出生)が就任する。国常立尊は別天神の子孫と考えられ、西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」金印を受け、「大陸との交易」に関しては奴国が倭国を代表するようになった。

2代目奴国王は豊雲野尊(西暦20年頃出生)、3代目奴国王は宇比地邇尊(ういぢにのみこと、西暦40年頃出生)、4代目奴国王は角杙尊(つぬくいのみこと、西暦60年頃出生)で西暦107年に後漢に朝貢し、倭王帥升となり交易面に加えて政治的にも奴国王が倭国を代表するようになった。

5代目奴国王兼倭王は意富斗能地尊(おおとのぢのみこと、西暦80年頃出生)、6代目奴国王兼倭王は淤母陀流尊(おもだるのみこと、西暦100年頃出生)、そして7代目奴国王兼倭王が伊弉諾命(いざなぎのみこと、西暦125年頃出生)である。

福岡平野には博多湾に注ぐ那珂川と御笠川があり、川の間の地域の中流域から下流域にかけては、段丘が形成されている。

段丘の北には海岸沿いに砂地があり、博多遺跡群がある。2本の川の間の段丘には比恵遺跡群(博多駅の南)、那珂遺跡群(比恵遺跡の南)、板付遺跡(福岡空港南)、諸岡遺跡群(板付遺跡の南)、須玖岡本遺跡(春日市岡本、奴国の中心)ほか多くの遺跡が発掘されている。

いずれの遺跡も福岡平野の中で大きな役割を担ってきた地域で、現在は福岡市、春日市、大野城市にまたがっている。

板付遺跡は縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥の地で、奴国の重要な拠点であった。

1899年(明治32)、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)は、前漢鏡30面のほか多数の副葬品があり、奴国王墓ではないかと云われている。

弥生時代終末期の西暦180年代に倭国29ヶ国が争っていたが、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊が倭国乱の責任を取り淡路島に隠遁、西暦201年に卑弥呼(179年-247年)が女王として就任し、238年に魏に朝貢、親魏倭王となった。倭国乱については、「三国志とタウポ火山の噴火」をご参照ください。 

楽浪郡は後漢末期に公孫氏が支配し、帯方郡を設置したので、倭人は後漢(西暦25-220年)やその後の魏(220-265年)と直接交易できなかった。しかし、魏が238年に楽浪郡・帯方郡を接収すると、倭の女王卑弥呼は「直ちに」魏と交易し、親魏倭王となった。これは楽浪郡や帯方郡に倭人の役人(研修生)が常駐していたから、公孫氏滅亡を報告してきたことによる。

公孫氏の末裔は列島に逃れ、常世連(とこよのむらじ)となった。

博多湾の海浜砂丘は箱崎砂層(はこざきさそう)と呼ばれる堆積層が基盤となって、弓状の砂丘が形成された。

弥生時代には砂丘に墓地が営まれるようになる。弥生時代前期は木棺や甕(かめ)棺で埋葬し、副葬品をもつ甕棺も発掘されている。

弥生前期後半から中期になると砂丘上にも集落が形成されるようになる。

奴国の支配者層は安曇氏を中心とする海人族で、船団による内外との交易・同盟、漁労、金属製品製造、農民に対する課税・課役などを行った。海人族の拠点は福岡市東区だったと考えられ、志賀島が海人族の聖地であった。

志賀島からは「漢委奴国王」金印も出土している。1世紀から3世紀にかけて存在したとされる「高天原」も東区のどこかにあったと考えられる。

高天原は志賀島にあったのか、或いは香椎宮後方の山裾にあったのか、もっと山間部に入った糟屋郡久山町(かすやぐん ひさやままち)だったのか。

私見ですが、天照大神としての卑弥呼と臺與は奴国王兼倭王で、高天原は奴国王の宮と倭王の宮の両方にあったと見ています。

奴国王の宮は博多湾に近い山沿い地域(福岡市東区)、倭王の宮は福岡県朝倉郡筑前町から朝倉市の山沿いではないでしょうか。小石原川が「天の安川(夜須川)」でしょう。

小石原川と佐田川の間には国史跡の平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)があり、紀元前1世紀(弥生時代中期)から4世紀(古墳時代)の集落跡です。私は筑後川流域の筑紫平野が魏志倭人伝の云う邪馬台国だと考えています。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-13 10:18

兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地  電0797-86-6641  無料駐車場あります。

火の神、かまど(台所)の神で、清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)の鎮守社となっている。

  

「清荒神清澄寺」は真言三宝宗の大本山で、本尊は大日如来(国の重要文化財)。

896年に59代宇多天皇(867-931年)が、鎮護国家・万民豊楽のための勅願寺のひとつとして創建された。神仏習合になっているが、明治以降も「寺院」として継続している。

清荒神の天堂(拝殿)後方に「荒神影向(ようごう)の榊(さかき)」があり、開創の際、荒神が顕現したと伝えられる。この報告を受けた宇多天皇は「日本第一清荒神」の称号を与えた。

清荒神は、「家内安全」、「厄除開運」、「商売繁盛」のご利益で年間の参拝者は350万人に上る。私も31日に参拝し、古いお札を納め、新しいお札を頂きました。

毎月1日と28日の午前10時に太鼓の大きな音が「ドーン」と1回響き、天堂(拝殿)でご祈祷が始まる。

私が10時前に天堂(拝殿)に着くと、太鼓の大きな音と共に僧侶が7人並び、ご祈祷が始まった。今まで聴いたことのないとても感動的なご祈祷でした。荒神様の魂と迫力を感じました。お寺なので祝詞(のりと)ではなく読経です。

ご祈祷の時間帯と参拝の日時がうまく重なって、心が洗われ、感激し、ラッキーでした。

清荒神王ご朱印

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山門、石柱に「日本第一 清三宝大荒神王」と彫られている。

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   境内案内図、参拝経路も記されている。

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鳥居の手前右に護牛神堂(牛頭天王安置)と弘法大師の行脚像。

 

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鳥居と天堂(拝殿)

 

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天堂(拝殿)、一礼三拍手一礼。 三宝荒神王だから三拍手。

 

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   天堂後方に護法堂(本社)、

大勝金剛転輪王、歓喜童子、弁財天を安置。

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護法堂後方に荒神影向(ようごう)の榊

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天堂の右に岸壁をくり抜いた「行者洞」があり、修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年頃)を祀っている。

1799年に119代光格天皇(1771年-1840年)が、役小角没後1100年によせて神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)の諡(おくりな)を賜った。

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天堂右の石段を登ると途中の山腹に宝稲荷社(宝稲荷大明神)が鎮座、

明治時代に当山和上二人が同時に稲荷明神の霊夢を見たのでお祀りした。

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清荒神清澄寺本堂(大日如来、不動明王、弘法大師)と、手前の一願地蔵尊(水かけ地蔵)。

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本堂右奥に龍王滝、よく見ると滝の左の平らな所に不動明王の石像をお祀りしている。

不動明王が右手に剣を持っているのが見える。

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修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)は役行者(えんのぎょうじゃ)とも云われるが、大和の金剛山(1125m)で祈っていると「荒神」が初めて現れたと云う。荒神の姿は宝冠をつけ、腕が六本あった。

それで荒神様の像には三面六臂(さんめんろっぴ、顔が三つで腕が六本)が多い。奈良興福寺の国宝・「阿修羅像」は荒神ではないが、三面六臂になっている。

 

荒神は、悪人を懲らしめる神であるので「荒神」と呼ばれ、不浄を排除するので「火の神」・「かまどの神」とされている。神道の荒御魂(あらみたま)と共通する面がある。

関西で有名な荒神社は、清荒神、奈良県桜井市笠の笠山荒神社、奈良県吉野郡野迫川村の立里荒神社(たてりこうじんしゃ、高野山の奥社)、大阪府箕面市勝尾寺の勝尾寺、和歌山県橋本市神野々の光三宝荒神社などです。

荒神社の月次祭は毎月28日に執り行われるところが多い。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-07 09:17

兵庫県神戸市長田区駒ケ林町3丁目7-3  電078-611-4065

無料駐車場は、石の注連鳥居の手前を右に曲がる。

祭神 応神天皇、猿田彦大神、奇稲田姫命。

別称は駒ヶ林八幡宮で、厄除けの宮。

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毎年118日から20日までの厄除大祭は大いに賑わう。

当社は伊勢神宮で用いられた「丸三方」を所有しており、大事なお祭りの際に用いている。三方(さんぼう)は、四角形の台の三方向に眼象(げんじょう)と呼ばれる穴があいているので「三方」と呼ばれる。一般的には四角形の三方が多いが、丸三方、板足三方、長三方などもある。

丸三方には眼象が開いていない。

古代には、当社の前の海は要津(ようしん、重要な港)になっており、1178年に平清盛(1118-1181年)が上陸したとの記録が残っている。現在は長田漁港となっている。

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平安時代にこの港に来朝する外国人を検問する玄蕃寮(げんばりょう)の出先機関があり、災いが入らないように取り締まっていた。「玄」は僧侶、「蕃」は外国人で賓客のこと。

その役所内に「厄除けの宮」として当社が創建された。

1336年、足利尊氏(1305-1358年)が西国敗走の時、当社に奉詣して社前の浜より乗船したという。

1924年に社殿を修築し、若宮社と村内の小祠を合祀し、社名を「八王子八幡神社」から「駒林神社」と改称した。

長田漁港前の赤い大鳥居、

鳥居の右前に駒ヶ林が「いかなごのくぎ煮」発祥の地である事を記した石碑がある。

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  拝殿、注連鳥居の手前右に駐車場がある。

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  本殿

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本殿右に、天光玉勝稲荷神社と奥に神明鳥居の神明社(天照大御神)。

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  本殿左に三宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ、かまどの神様)、

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 荒神社の多い県は、多い順に岡山県、広島県、島根県、兵庫県である。

「三宝荒神」は仏教系であるが、「荒神さん」は複雑で、由来は多岐にわたり、日本での拡がりが瀬戸内地方と島根県を中心としていること、火の神・かまどの神・災難や不浄を除去する神であることを考えると、「素戔嗚尊(楚人)」や古代中国の「楚」との関連が考えられる。

中国神話の「炎帝(えんてい)」、「祝融(しゅくゆう)」と関係があるかもしれない。楚の王は祝融を祖先とする。

楚辞の言葉づかいについては、2014418日投稿の「楚辞」をご参照ください。


荒神信仰は修験道の役小角(えんのおづぬ)とも関係が深く、山岳信仰・密教・神道など様々な要素を含み、日本の民間信仰の中で拡がっていった。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-01 16:41