出雲阿国(いずものおくに、1572年‐1613年?)は、杵築(きづき)中村の里(出雲市大社町杵築北)の鍛冶職人中村三右衛門の娘で、出雲大社の巫女(みこ)となり神楽舞を舞っていたが、出雲大社勧進(かんじん、浄財を集める)のため諸国を巡回した。
阿国(おくに)は慶長8年(1603年)に京で「かぶき踊り」を演じたが、これが現在の歌舞伎の原形となった。
阿国(おくに)は男装し、かぶき者(傾奇者)の派手な服を着て、刀を持って茶屋遊びなどの様子を踊っていたらしい。
当初は四条河原の仮設小屋で踊っていたが庶民の大評判もあり、北野天満宮の庇護を受け、天満宮の境内に定舞台を持つまでになった。
奈良では「ややこ踊り」を踊ったり、公家の邸や安土城に呼ばれて寵愛を受け、千利休(1522年‐1591年)、狩野栄徳(1543年‐1590年)と共に安土桃山時代の文化人として認識されている。
慶長12年(1607年)には江戸城で「かぶき踊り」を踊ったと云うが、その後は出雲に戻ったのか。
出雲市大社町修理免(しゅうりめん)駅通の出雲阿国像。

京都市の京阪電車祇園四条駅前の出雲阿国像。

祇園四条駅前近くの松竹南座前に「阿国歌舞伎発祥地」石碑がある。
この石碑は昭和28年11月の松竹南座顔見世興行に合わせ、歌舞伎発祥350年を記念して松竹株式会社が建てた。


松竹(株)は歌舞伎の守護者とも云われ、明治10年生まれの双生児の創業者松次郎と竹次郎の名により松竹(しょうちく)と云う社名にした。
出雲大社の勧進を全うして杵築の中村の里へ帰った阿国は生家の近くに住み、尼僧となり智月尼(ちげつに)と称し、連歌庵で法華経を読誦・書写していたと云う。
安養寺(あんようじ)、
阿国が晩年を過ごした連歌庵が廃寺になったので、阿国の持仏である観音像や遺品が安養寺に保管されている。
毎年夏には、阿国を愛する人々により法要が盛大に執り行われる。
「歌舞伎の創始者 出雲阿国の墓所」が出雲大社と安養寺の間にある。
その北には阿国寺がある。
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その西北の奉納山には出雲阿国塔(於國塔)があり、昭和11年(1936年)に歌舞伎役者の寄進により建てられた。昭和43年(1968年)に再建されている。
阿国の墓は京都市北区紫野(むらさきの)大徳寺町の大徳寺高桐院(こうとういん)にもある。阿国の愛人か夫であったと云う名古屋山三(なごやさんざ)の墓もある。
阿国(おくに)の大評判を受け、阿国の真似をした女性による女歌舞伎、少年による若衆歌舞伎などが出てくるが、風紀が乱れるとして1652年頃に幕府が禁止した。
そこで成人男性役者による「野郎歌舞伎」が出現、男性役者だけのため女方(おんながた)も生まれ、歌舞伎の基本が成立した。
江戸時代後期になると、舞台には花道(はなみち)や「せり上げ」なども考え出され、多くの芸術的な演目が人気を博した。
明治22年(1889年)、銀座に「歌舞伎座」の設立。
明治28年(1895年)、松竹の設立。
明治35年(1902年)、松竹は「京都南座」の経営権を獲得。
大正2年(1913年)、松竹は歌舞伎座の経営権を獲得。
昭和3年(1928年)、歌舞伎の海外公演がモスクワ、レニングラードで初演された。
昭和41年(1966年)、東京千代田区隼町(はやぶさちょう)に「国立劇場」の設立。
平成8年(1996年)、博多の中洲川端に「博多座」の設立。
平成9年(1997年)、大阪道頓堀に「松竹座」が新築再開場した。
歌舞伎の公演、発展に対する松竹(株)の貢献が極めて大きいと云える。
松竹(株)は「古典の継承と時代のニーズに合わせた新しい歌舞伎の創造を両輪として世界の歌舞伎とするべく邁進していく」と宣言している。
昭和61年(1986年)に三代目市川猿之助(1939年‐)と梅原猛(1925年‐2019年)がスーパー歌舞伎を創始、「ヤマトタケル」が初演された。
その後も次々と新作が発表されており、2024年は「鬼滅の刃」が予定されている。
三代目市川猿之助の甥である四代目市川猿之助(1975年‐)はスーパー歌舞伎を受け継いだが、5月18日に心中事件があり両親が死亡した。
四代目市川猿之助の父は四代目市川段四郎、母は喜熨斗延子(きのしのぶこ)さん。
阿国(おくに)の始めた「かぶき踊り」が発展して、今や歌舞伎が日本の伝統芸能として世界中に認められている。
私は天鈿女命(あめのうずめのみこと)の魂が時空を超えて出雲阿国(いずものおくに)に乗り移ったのではないかと感じています。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp