古代史探訪

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素戔嗚(すさのお)と楚(そ)

 中国戦国時代の楚の最後の王は「熊負芻(ゆう ふすう)」で、BC265年頃出生、BC223年没。
楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)、楚の最後の王は負芻(ふすう、fuchu)で、秦(BC221年-BC206年)に滅ぼされた。
 秦の人質になっていた昌平君が楚を建て直そうとして秦に背いたが、BC223年に戦死した。

 その秦が反秦連合によりBC206年に滅亡すると、西楚の項羽(こうう、BC232年-BC202年)と漢王の劉邦(りゅうほう、BC256年-BC195年)が楚漢戦争(BC206年からBC202年)で戦う。
 劉邦が勝利し、長安を都とする前漢時代(BC206年-AD8年)に入る。項羽と劉邦はどちらも同じ楚人だと考えられる。
 劉邦が中国を統一したので、本拠地としていた中国西方の「漢中(陝西省南西部)」が中国全体を表わす言葉の「漢」になっていく。漢民族、漢語、漢文、漢字、漢詩、漢土、漢方薬など。

 素戔嗚(布都斯、ふつし、西暦140年頃出生)の父・布都(ふつ)は、楚の最後の王・熊負芻(ゆう ふすう)の名を借用したのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
 素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記され、楚王の(ゆう)氏に因んでいるのか。

 地名・人名の熊本(隈本)、球磨川、熊襲、隈(筑紫野市、日田市など)、熊毛郡(山口県、鹿児島県)、熊鰐(事代主)、羽白熊鷲(はじろくまわし)、千熊長彦(ちくまながひこ)などは楚と関係が深いのではないか。

 私は熊襲の「襲」は「楚」ではないかと考えています。葛城津彦、倭迹迹日百姫もそうではないだろうか。

 素戔嗚系・大国主系は民族的には楚人だと私は考えています。楚人は縄文時代にも日本列島に来て吉備国や有明海地方に住み着いた。
 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。
 出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が中心で、開口部を上にして埋められた。戦争の時に銅鐃の取っ手を持って槌(鎚)で叩き、味方を鼓舞し、敵を威嚇したのでしょう。
 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。
 山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。
 同じように列島では、出雲系が中心になって全国に広まった銅鐸が、結界として傾斜地に埋納された。銅鐸の原型は銅鐃でしょう。2016年7月21日投稿の「銅鐸と銅鐃」をご参照ください。
 
 遺伝子調査は対象人数によって数値が変わるので確定的ではないが、日本人は世界でも少ない「Y遺伝子D系統」を36%ほど持っており、同系統は他にチベット人と一部の西アジア人しかいない。
 日本人にはD系統以外にC系統が6.6%ほどあり、D系統とC系統の42.6%が縄文系である。現在のアイヌ人はD系統を85%ほど持っている。琉球人はD系統とC系統を53.4%ほど持っている。

 日本人は東アジアに多いY遺伝子O系統を53.9%ほど持っている。
 O系統の内訳は、揚子江(長江)の呉系が32.1%ほど、越系が1.4%ほど、楚系が1.4%ほどになっており、これが弥生系である。圧倒的に呉系が多い。黄河系が19%ほどで、その内、漢族系が9%、漢族と交配した揚子江系が10%になっている。

 吉備地方のY遺伝子は日本全体の数値と大きく異なる。D系統は19%ほど、O系統が81%ほどで、縄文系が少ない。多くの縄文人が殺されたり、子孫を残せなかったか。
 O系統の中では、呉系が31%ほど、楚系が19%ほど、黄河系が31%ほどになっている。
 吉備国の地名由来に定説はないが、呉の国姓は姫(き)で楚の国姓は羋(び)なので、姫羋(きび)と呼んだのではないか。姫羋(きび)が吉備(きび)になったのではないかと考えています。
 2014年4月18日投稿の「楚辞」をご参照ください。   
Innami Kanki

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# by enki-eden | 2018-08-15 17:34

弥生時代(やよいじだい)の始まり

 ウィキペディアによると、『弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
 採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。
 当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。』とある。

 歴博は最後に、『これまでの弥生文化と同じ名称で論を進めると著しい混乱を招くので、その混乱を回避するには,弥生文化の農耕の様態を縄文文化の農耕と区別したうえで,全体枠を生活文化史的経済史的視点から「農耕文化複合」ととらえ,その後に階層分化にもとづく政治的社会の形成(農耕社会の成立)を据える二段構えで弥生文化を理解すべきではないだろうか。』と云っている。歴博の「農耕文化複合と弥生文化」をご覧ください。
  
 この歴博の論法により弥生時代の始まりを紀元前10世紀とすることに、私は同調できません。「時代の転換」を決めるのは、政治・経済・社会が大きく変貌することであって、小規模の稲作が一部地域で確認できただけでは縄文時代の転換にはならないと考えています。
 日本列島での稲作は古くから確認されており、縄文時代にも江南人(揚子江周辺の倭人)が列島へ交易にやってきたり、住み着いたりして稲作も行われている。その渡来数は少なく、列島全体の縄文人の生活が大きく変わるわけではなかった。

 土器から検出されたイネのプラント・オパールの最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5,000年前)の事例があり、このほかにも縄文時代後期中葉(約4,000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
 岡山県南部の総社市南溝手遺跡では縄文時代後期後葉(約3,500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
 吉備地方と有明海地方が江南地方と気候風土が似ていて、江南人(倭人)には住みやすかったと考えられる。
 縄文人も江南に行っていたと考えられ、縄文土器(中国名は拍印縄紋陶)が大量に発見されている。

 およそ2,400年前、列島には、縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの多くの人々が戦争難民として逃亡してきた。揚子江(長江)周辺からやってきた倭人(呉人、越人)である。
 倭人によって、造船技術や水田稲作の技術、金属器の文化などが伝えられ、列島全体に拡がり、政治・経済・社会が大きく変貌、人々の生活は大きく変化して、弥生時代に入っていった。
 その後も大陸の戦乱を避けて、楚人や漢人なども加わり、長期的・波状的に渡来人が増えてきた。 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」をご参照ください。
  
 明治維新の300年以上も前からオランダ人、スペイン人、ポルトガル人などが日本に来て、貿易が進み、キリスト教の布教も行われ、蘭学を真剣に学び、日本人もヨーロッパへ行っている。
 しかし、これで日本全体の政治・経済・社会が大きく変貌したわけではなく、1868年の明治維新により江戸時代から明治時代に大転換した。

 同じように、縄文時代から江南人(倭人)が列島にやってきて、一部の地域で稲作も行われていたが、縄文時代から弥生時代への大転換は、紀元前5世紀に戦乱を原因とする倭人の渡来数が増え、列島全体に弥生文化が急速に広まったことを画期とするのは間違いない。これを機に列島には小国家群が成立して弥生時代に入っていった。
 これは、紀元前473年に呉王夫差が越王勾践により滅ぼされ、難民が四散していったことに始まる。その後、紀元前334年に越王無彊は楚の威王に敗れ、紀元前223年に楚王負芻(ふすう)は秦始皇帝に敗れることになる。列島には波状的に戦争難民が逃れて来た。

 江南人は漢民族に江南を追われ、一部は雲南やインドシナ半島に逃れ、また一部は海路日本へやって来た。縄文人は戦闘的ではなく優しくて、江南人にとって日本の気候も住み易く、急速に日本中に広がって行った。そして水田稲作以外に、高床式住居、千木、鰹木、竹馬、下駄、歌垣、鵜飼等をもたらした。
 また、租税を取ると云う仕組みや、国家創設や政治のシステムをもたらした。

 江南人は銅剣と銅鏡の二種の神器による祭祀をした。従って銅剣は幅広、銅鏡は大型であった。これが弥生時代・古墳時代に日本全体に広がっていく。
 卑弥呼が中国北部の魏からもらった銅鏡は小型であった。三種の神器の一つである八咫の鏡は祭祀用に作られた江南様式の鏡で、大きいのは46cm以上もある。(八咫の鏡とは大きな鏡と云う意味。)
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# by enki-eden | 2018-08-09 09:53

稗田神社(ひえだじんじゃ、兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町鵤(いかるが)926   電079-276-0577
 祭神 稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)、素戔嗚命。

 旧祭神 豊受姫、素戔嗚命、猿田彦命、天鈿売命(あめのうずめのみこと)。

 古事記は40代天武天皇(622年-686年)の勅により、稗田阿礼が聞き覚え、太安万侶(723年没)が編纂し、和銅5年(712年)に43代元明天皇(660年-721年)に献上されたと云う。
 天鈿女命は猿女君の祖で、猿女君は代々「誦(しょう)と舞」により歴史を伝えてきた。天鈿女命の子孫である稗田阿礼の「誦」を太安万侶が筆録して古事記が編纂された。



 摂政の聖徳太子(574年-622年)が法華経・勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたので、その褒美として33代推古天皇(554年-628年)より播磨国揖保郡の地を賜った。
 聖徳太子は大和の斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺(法隆寺の東隣り)、片岡僧寺(片岡山放光寺、7代孝霊天皇陵の東)の三寺にこの地を分け与えた。佐勢の地(鵤荘、いかるがのしょう)五十万代の内と云われる。

 このため、当地鵤荘には各寺より、寺領の管理や調物微収のため、多くの吏員が大和から派遣された。その吏員の中に稗田氏がおり、祖神を奉祀する媛田神社(売田神社)を奉祀した。それを当地の人々が氏神として尊崇した。神社の説明によると610年頃に山地から平地に遷された。

 創建当時の祭神は稗田氏の祖神である天鈿女命と猿田彦命の二神であったが、後世になって天鈿女命の子孫である阿礼比売命(稗田阿礼)を奉祀することになる。天鈿女命は西暦185年頃の饒速日東遷に従い大和にやってきた。
 奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)稗田319に鎮座の賣太神社(めたじんじゃ)は希代の語り部・稗田阿礼を祀っており、稗田氏(猿女君)の居住地であった。



 稗田阿礼の性別は諸説あるが、稗田神社では女性としている。猿女君の「誦と舞」は主として女性によって演じられたので、稗田阿礼は女性と見るのが妥当でしょう。
 古事記の内容・表現方法も女性の立場からの世界観が垣間見える。

 神仏習合時代には、当社の南600mにある播州斑鳩寺(いかるがでら)の権勢に押されて稗田神社は勢いがなかったが、明治の神仏分離により、明治7年(1874年)村社に列せられ、後に郷社に昇格した。
 当社を上宮とし、播州斑鳩寺の境内に稗田神社の御旅所(下宮)がある。斑鳩寺は揖保郡太子町にある聖徳太子開基の寺院で、奈良の法隆寺の荘園「鵤荘」として法隆寺の経済を支えてきたが、現在は比叡山天台宗系の寺院になっている。

   神門と拝殿、
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 拝殿と左右に大きな神木。
 拝殿前の柱には「神徳輝宇内」、「皇威洽四海」と刻まれている。(神徳により国内が明るく輝くように。皇威が世界に行き渡り、打ち解けあうように。)
 同じような言葉が各地の神社にあるが、福岡県糸島市芥屋3747に鎮座の綿積神社(綿積大神)の入り口鳥居前の注連柱にも「八紘一宇」、「皇威輝四海」と記されている。
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   本殿
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 境内社に太神社(天照大日霊命、太安万呂命)と金刀比羅神社(豊受姫命、事代主命)がある。

 鵤(いかるが)の地名由来は、聖徳太子に因んで奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)だと考えられるが、鳥の名前に鵤(イカル)がある。イカルは角のように丈夫で太い黄色の嘴(くちばし)を持つ。昔、奈良の斑鳩にたくさんいたからイカルと名付けたと云う説がある。
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# by enki-eden | 2018-08-01 09:18

黒岡稲荷神社(兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町太田250-1  無料駐車場あります。
 祭神 宇迦之御魂(うかのみたま)

 黒岡神社の御旅所となっている。



 宇迦之御魂(倉稲魂命)は通称「お稲荷さん」と呼ばれ、父は素戔嗚命(140年頃出生)、母は神大市姫(かむおおいちひめ、大山祇神の娘)、兄に饒速日命(大年神、165年頃出生)がいる。
 宇迦之御魂は全国の稲荷神社に祀られているが、稲荷神社の総本社は京都の伏見稲荷大社です。 

 宇迦之御魂の降臨地は伏見稲荷大社後方の稲荷山、饒速日命の降臨地は大阪府交野市(かたのし)の磐船神社
 両社間の直線距離は25kmほどで、宇迦之御魂も西暦185年頃の饒速日東遷に従って九州から来たのでしょうね。  
  赤が伏見稲荷大社、黄が磐船神社。


   拝殿
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 本殿、男神仕様になっているが宇迦之御魂は一般的には女神となっている。出雲系の神社では男神・女神にかかわらず、千木は外切り、鰹木は3本になることが多い。
 この日(5月27日)は天気が良く、参拝していると鶯の声も聞こえてきました。
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 私は3年前に、鰹木について島根県松江市八雲町熊野に鎮座の熊野大社に問い合わせました。そのご返事は、『鰹木ですが、全国的に見ますと奇数、偶数で陽と陰を表している事が多く、一般的には男神、女神で区別されている場合が多数ありますが、大社造り自体が基本的に3本であることが多く、鰹木だけでは性別が計れないことが多いです。』と云うものでした。
©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-07-24 08:47

黒岡神社(兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町太田917  電079-276-2251  無料駐車場あります。
 祭神 八幡大神(誉田別命、15代応神天皇)
 配祀 黒岡明神(藤原貞国)、天神(菅原道真)

 当初は黒岡八幡と称したが、明治7年に黒岡神社になった。



 神功皇后(321年-389年)が363年の新羅遠征の帰途、忍熊王(おしくまのみこ)が軍を率いて打ち破ろうと待ち構えているので、神功皇后は当地の太子町に上陸して作戦会議をしたことにより、住民が八幡神を祀るようになった。
 忍熊王は武内宿禰の攻撃を受け、「瀬田の唐橋」(滋賀県大津市)付近で入水自殺した。神功皇后は摂政となり、西暦363年を摂政元年とした。

 日本書紀の神功皇后紀に基づき、日本書紀に多用されている「筆法」を勘案して、神功皇后の年代・事績を作成しました。神功皇后だけではなく、卑弥呼と臺與の年代・事績も神功皇后紀に「筆法」により記されています。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 「峰相記(ほうそうき)」(南北朝時代の播磨国の地誌)によると、天平宝字8年(764年、47代淳仁天皇)、2万艘の軍船で播磨灘に攻め込んできた新羅に対して朝廷は、鉄の的をも射通すという藤原貞国に「的(いくわ)」の姓を与え、征討大将軍に任じ、新羅の大軍を討伐させた。
 (2万艘はオーバーだと思いますが・・・、2万人の間違いか)
 藤原貞国は大風に乗じて出陣し、敵将の首を取った。貞国はこの功績により播磨西五郡(揖保郡、飾磨郡、赤穂郡、佐用郡、宍粟郡)を賜り、的(いくわ)姓を名乗って太田郷楯鼓原に住所を構え長くこの地に栄えた。

 藤原貞国は没後、黒岡神社に祀られ、境内には彼の墓と伝えられる円墳があり、円墳入口の竜山石製の石碑には「藤原貞国掾(じょう)塚」と刻まれている。石碑は家形石棺の蓋を利用している。
 この古墳は6世紀後半頃の築造なので、藤原貞国の時代より200年ほど古い。

 また、菅原道真(845年-903年)が筑紫に向かう途中、広畑の高浜に滞留、当社へ参詣したので菅原道真も祀られている。

   神門
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 黒岡神社古墳(貞国塚)、藤原貞国の墓と云われる径15m、高さ5.3mの円墳。
 古墳前の赤鳥居は左が荒神社(素戔嗚命か)、右が琴平社(大物主命か)。
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 古墳には右片袖の横穴式石室に組み合わせ式石棺が残っている。
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    古墳の後方より
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   天神寝牛石
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   拝殿、拝殿前には左近の桜と右近の橘が植えられている。
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   本殿
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©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-07-16 09:02

淳仁天皇の淡路陵

 兵庫県南あわじ市賀集(かしゅう)岡ノ前
 47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう、733年-765年)の淡路陵(あわじのみささぎ)。

 普段は町の中に住んでいても、自然に恵まれた地域を旅するのはいいですねぇ。この日(6月21日の夏至)の南あわじ市では「玉ネギ小屋」に玉ネギをいっぱい吊り下げて、水田には水を張り、既に田植えを終えている所もありました。
 昔、車で淡路島を一周したことを思い出しました。

 淳仁天皇は40代天武天皇(622年頃-686年)の孫で、父は天武天皇の第7子舎人親王(とねりしんのう、676年-735年)。
 淳仁天皇は758年に即位する前は大炊王(おおいおう)と呼ばれ、藤原仲麻呂(706年-764年、恵美押勝)の長男・真従(まより)の未亡人・粟田諸姉を妃とした。
 淳仁天皇は藤原仲麻呂と関係が深かった。

 760年に太師(太政大臣)となった藤原仲麻呂は、764年に孝謙上皇(46代孝謙天皇、718年-770年、女帝)に叛乱を起こし、失敗して殺害される。
 藤原仲麻呂と関係が深かった淳仁天皇は、孝謙上皇により皇位を追われ、廃帝となって母親の当麻山背(たいまのやましろ)と数人のお供だけで淡路島に配流された。

 孝謙上皇は重祚して皇位に復帰し、48代称徳天皇となって弓削道鏡(700年-772年)と共に政治を行った。
 淳仁天皇は765年に淡路島で崩御、暗殺されたか。
 称徳天皇陵は神功皇后陵の近くにあり、2013年4月8日投稿の「神功皇后陵」の中に載せています。 



  赤のアイコンが淳仁天皇淡路陵、黄が当麻山背の墓。


   淳仁天皇淡路陵
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 天皇陵の横にある畑の「玉ねぎ小屋」。玉ねぎは吊り下げると、乾燥・熟成して栄養価が高くなり、甘くなる。
 淡路島は「おのころ島」でもあるが、「玉ねぎ島」でもある。玉ねぎの産地としては、兵庫県は北海道、佐賀県に次いで全国3番目の収穫量がある。
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 淳仁天皇淡路陵の1km南に淳仁天皇の母の墓「当麻夫人墓」が見える。
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 122代明治天皇(1852年-1912年)は、廃帝となっていた淳仁天皇の名誉を回復し、明治6年に京都の白峯神宮(しらみねじんぐう)(2014年1月25日投稿)に淳仁天皇を祀った。
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# by enki-eden | 2018-07-09 09:22

猪篠八幡神社(いざさはちまんじんじゃ、神崎郡神河町)

兵庫県神崎郡(かんざきぐん)神河町(かみかわちょう)猪篠(いざさ)1113
祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと、15代応神天皇)、
   比売神(ひめのかみ)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。

 鳥居横に車を停められます。

 地名の猪篠(いざさ)は八幡神を指す地名で、八幡神は2km西の八幡山(775m)頂上に祀られていたが当地に遷座したと云われている。八幡山は朝来市生野町と神崎郡神河町の境界にある。
  赤が八幡神社、黄が八幡山。


 応神天皇(363年-403年)が神功皇后(321年-389年)摂政13年(西暦375年)、立太子として氣比神宮(けひじんぐう、福井県敦賀市)にお参りし、氣比大神と太子が名前を交換した。それで氣比大神を去来紗別神(いざさわけのかみ)と云い、太子を誉田別尊と名付けたと云う。
 2017年10月27日投稿の「伊奢沙別命」をご参照ください。
 
 応神天皇に因んだ「イザサ」が当地の地名「猪篠(いざさ)」になったと考えられるが、姫路市安富町の伝承によると、凶暴な大鹿をイザサ王と呼んでいたとある。
 播磨国風土記託賀郡にも応神天皇と大鹿の記事がある。2015年12月26日投稿の「大津神社」をご参照ください。

 また、海部氏・尾張氏の祖である天火明命の別名を「イザサ王」とし、「火明命の荒ぶる神」と云う説がある。八幡神とは、火明命の死後の名前であり、イザサ王のことであると云う説もある。

 播磨北部に多い両部鳥居(神仏習合の名残)
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 当社参道には樹齢400年以上の杉の大木が林立する。幹回りは8m前後、高さは44m、48mなど50mに近い大杉である。
 音を立てて境内を流れる美しい急流の川を渡ると、拝殿前の大杉。伊勢神宮の参道で見るような神々しさであった。
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 本殿は享保5年(1720年)に建立、昭和6年(1931年)に改築。三間社流造の鉄板葺き。
 蛙が股を広げて踏ん張ったような形の「カエル股」で梁を支えている。カエル股で特に有名なのは、左甚五郎作の日光東照宮の「眠り猫」や三井寺の「龍」です。
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 本殿の左に稲荷神社(宇氣母智神、うけもちのかみ)と秋葉神社(迦具土神、かぐつちのかみ)。
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©2012 Innami Kanki

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# by enki-eden | 2018-07-03 14:20

大歳神社(朝来市生野町)

兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)190
兵庫県有形文化財、境内に車を停められます。
兵庫県には大歳神社(大年神社)が400社近く存在し、神徳の大きさを物語っている。

祭神 大歳大神、
   天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命(くまのくすひのみこと)、
   田心姫、湍津姫、市杵島姫、
   埴安彦命(はにやすひこのみこと)。

創建 康保2年(965年、62代村上天皇の時代)、
    大正12年(1923年)に現在地に遷座し建立。



   入口の明神鳥居
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 背後の山を朝日山と云い、300m登ると大きな洞穴がある。大歳神社の縁起書によると、
『朝日山の磐座より夜ごとに火玉が閃くことがあった。里人が登ってみると美しい姫がおられた。
 姫が、吾は市杵島姫也。胎内に一子を孕んでいる。子が生まれたら当地の氏神としなさい。
 よく信仰すれば、必ず国家安全・万民豊楽になると云われた。』とある。
 出雲大社の千家尊福(せんげたかとみ、1845年-1918年)宮司の詠んだ歌、
   大空の よそに思わで 朝日山 のぼりてあおげ 神のひかりを

   拝殿
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   本殿
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 境内社、右から稲荷神社、当勝神社(まさかつじんじゃ、天忍穂耳命)、戎神社、
     三柱神社(天満神社、庚申神社、厄除神社)、粟島神社(少彦名命)。
 1月に戎神社の「ゑびす祭」が執り行われる。
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 生野町口銀谷は生野銀山で栄えた鉱山町独特の風情が漂う。「兵庫県景観形成地区」に指定されており、優れた景観を保全し、魅力ある街づくりと文化的な県民生活の確保を目的としている。

 生野銀山は平安時代初期の807年に銀が出たことに始まる。室町時代の1542年に但馬守護職である山名祐豊(すけとよ、1511年-1580年)が鉱山を開坑し、翌年に山名祐豊が八王子社を建立。八王子社は1698年(元禄11年)に当社に合祀された。従って、当社は多くの神を祀っている。

 生野銀山では1567年に日本最大の鉱脈が発見された。
 織田信長と豊臣秀吉は鉱山を直轄地とし、徳川家康は但馬金銀山奉行を設置した。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と共に天領として徳川幕府の財政を支え、最盛期には月産560kgの銀を産出した。

 明治政府は生野銀山を政府直轄の官営鉱山とし、生野銀山と姫路の飾磨港の間約50kmの輸送を担う「馬車専用道」が造られた。現在は「銀の馬車道」と名付けられている。

 明治22年(1889年)に生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移された。生野鉱山は明治29年(1896年)に三菱に払い下げられたが、昭和48年(1973年)に閉山した。
 閉山翌年には観光施設として「史跡・生野銀山」が開業された。(JR生野駅から5km)
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# by enki-eden | 2018-06-27 09:47

稲荷神社(朝来市生野町)

兵庫県朝来市生野町口銀谷704
祭神 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)

創建 16世紀頃
 大正5年(1916年)現在地に遷座し、他の稲荷神社も合祀。
 姫宮神社が兼任しているようだ。

山神社を市川沿いに200mほど西に歩くと稲荷神社が鎮座している。



   鳥居と拝殿
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   拝殿
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   拝殿内
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 祭神の倉稲魂神(うかのみたまのかみ、宇迦之御魂神)は素戔嗚命と神大市姫との娘で、兄は大歳神である。稲倉を守護する穀物の神として信仰されており、京都の伏見稲荷大社の主祭神になっている。
 近年では商業の神としても篤く信仰され、多くの神社の境内に稲荷社が鎮座、「お稲荷さん」としてビルの屋上や商店街の一角にも祀られている。

 日本書紀の「国生み」の記述の中の一書には、伊弉諾命と伊弉冉命が飢えて気力のない時に生んだ子を倉稲魂命と云うとあり、伊勢神宮内宮のすぐ西隣に鎮座する御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)として祀られ、豊受大神と同じとされるが、素戔嗚命と神大市姫との子である倉稲魂神とは別神であろう。
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# by enki-eden | 2018-06-17 09:40

奈良平城宮跡の東院(とういん)

 平城宮跡の東の端に「東院(とういん)」と呼ばれる張り出し部があり、その東院地区の中に皇太子の東宮(とうぐう)もあった。
 皇太子の居所は皇宮の東に設けられるので東宮(春宮)と呼ばれる。

 奈良文化財研究所の6月14日の発表によると、その平城宮跡の東院で、奈良時代後半の施設跡として、東西6m、南北15mの掘立柱建物跡が見つかった。その中に火を用いた調理場(かまど)も見つかった。
 当時は女帝の46代孝謙天皇(重祚して48代称徳天皇、718年-770年)の時代。
 孝謙天皇(称徳天皇)は45代聖武天皇(701年-756年)と光明皇后(701年-760年)の皇女で、東院に「東院玉殿」を建て、宴や儀式を催していた。

 東院地区では昨年、大型の井戸跡や水路跡が出土しており、今回見つかった調理場はその東側にあり、宴の食膳を準備するために施設を機能的に配した大規模な厨(くりや)だったと推測される。

 調理場は東西に並んで4カ所あり、火を用いた痕跡があり炭も堆積していた。南側でも同様の痕跡が見つかっており、奈良文化財研究所は火を使った調理場が広がっていたと考えている。

 調理場のある建物の西側には階段跡があり、これより低い位置にある大型の井戸と階段でつないでいたとみられる。

 平城宮大極殿の北側には「大膳職(だいぜんしき)」があり、東側には「造酒司(みきのつかさ)」井戸跡がある。
 造酒司は宮内省直属の役所で、平城宮で使用する酒の醸造を司っており、造酒司井戸の水を酒醸造用に使っていた。
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# by enki-eden | 2018-06-15 15:00

山神社(さんじんじゃ、朝来市生野町)

 山神(さんじん)さん、無料駐車場あります。
 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)698

 祭神 金山彦命(かなやまひこのみこと、鉱山の神様)
     伊弉冉命(いざなみのみこと)が迦具土命(かぐつちのみこと)を生むときに
     火傷をして、苦しみながら吐いた物から金山彦命と金山姫命が生まれた。

 創建 大永元年(1521年)

 当社は口山神社と称していたが明治24年(1891年)に現在地に遷座し、奥山神社と合祀して山神社となった。

 奥山神社は但馬守護職・山名祐豊(すけとよ、1511年-1580年)が生野銀山の発展を祈願して天文22年(1553年)に大山祇神を勧請して創建していた。
 天正4年(1576年)に生野銀山の守護として神宮寺を建て毘沙門天を祀ったが、明治の神仏分離令により毘沙門天を仙遊寺に遷し、奥山神社には金山彦命が祀られた。

 生野銀山が稼働していた時代は大変賑わい、春の大祭には鉱山も休業となって「山神祭」が開かれ、立派な神輿が町内を練り歩いたようだ。
 昭和48年に生野銀山が閉山し、往年の賑わいはなくなった。



 日本の鉱山で働く人の安全と発展を祈願して、愛媛県大三島に鎮座する大山祇神(おおやまづみのかみ、山の神)が鉱山には祀られている。
 2016年9月5日投稿の「大山祇神」をご参照ください。
  
 生野銀山地区の北は「岩津地区」で、朝来市の特産品「岩津ねぎ」で有名。関東の白ネギと京野菜の九条ネギ(青ネギ)の自然交配でできたと考えられているが、品種改良されたとも云われている。
 岩津ねぎは19世紀初め頃に生野銀山労働者の冬の野菜として栽培され、今では朝来市全域で特産品として生産、商標登録されている。
 料理研究家の故・土井勝氏(1921年-1995年)が冬場の鍋料理に岩津ねぎが良く合うと絶賛した。

   鳥居と拝殿(北向き)
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 鳥居横に恩賜記念碑があり、説明文によると、
 『生野銀山は1542年の開坑以来400年の間、幕府や政府の庇護と町民の協力により繁栄してきた。明治22年からは宮内省所管の鉱山だったが、明治29年に三菱合資会社の経営に移った。
 その際、宮内省から町民の永年にわたる協力を称賛して、当時としては莫大な金額の69,000円が下賜された。
 町はこれを基金として町政の振興を図るとともに、この喜びを子孫に伝えるために記念碑を建立した。』

   本殿
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# by enki-eden | 2018-06-09 23:27

神明神社(朝来市生野町)

 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)2-303
 祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、
    倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、
    天目一箇神(あめのまひとつのかみ)。

 姫宮神社が兼任しているようだ。

 「朝来」の地名は志賀剛著「神名の語源辞典」によると、朝は麻、来は衣(こ)で麻衣(あさごろも)のような形の山々が多いからとある。

 当社の創建は、享保18年(1733年)に天照皇大神を鎮祭、玉翁院の鎮守社として宝暦7年(1757年)社殿を再建し、明治初年の神仏分離令により独立した。
 明治21年(1888年)社殿を再建。市川沿いに姫宮神社から300mほど歩いた所に神明神社が鎮座。

 江戸時代の生野銀山は幕府の直轄地であったので、元和2年(1616年)に徳川家康が亡くなると菩提を弔うため東照寺(後の玉翁院)を建立し、歴代将軍が亡くなるごとに位牌を祀った。
 昭和27年に玉翁院が廃寺になったので、位牌は東西寺(朝来市生野町口銀谷510)に移った。神明神社の550m北にある。
  赤が神明神社、黄が東西寺。


   拝殿
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# by enki-eden | 2018-06-01 09:12

姫宮神社(朝来市生野町)

 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)781
 電079-679-3191  無料駐車場あります。

 祭神 豊玉姫命、
    素戔嗚命、大己貴命、軻遇突智神(かぐつちのかみ、火之迦具土命)。

 創建 応永34年(1427年)

 山名時熙(ときひろ、1367年-1435年)が1427年、生野古城山(いくのこじょうざん、609m)の山頂に築城した際、城中鎮護の神として豊玉姫命を勧請した。
 天文3年(1534年)に大己貴命、慶長12年(1607年)に素戔嗚命を勧請した。
 当社は何度も遷座したが、昭和11年(1936年)に現在地に遷座し、その時に愛宕神社(軻遇突智神)を合祀した。

 当社の立地は市川が西向きの流れから南向きに変わる角に鎮座。市川はここから南方に50kmほど流れ、姫路城の東を通過し、瀬戸内海に注ぐ。
   赤が姫宮神社、黄が古城山


 駐車場に車を停め、市川に架かる橋を渡り、境内に向かう。
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 川沿いに銀山トロッコ道跡が残っている。
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 振り返ると古城山が正面に。
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 参道を行くと西向きの拝殿が見えてくる。
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 本殿と左に境内社(今宮社、春日社、川濯社、天神社、八幡社)。
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 本殿右に1708年創建の恵比須社、2月に「ゑびす祭」が行われる。
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 日本書紀によると、祭神の豊玉姫命は海神(わたつみ)の娘で、海宮(わたつみのみや)に釣り針を探しにやって来た彦火火出見尊(山幸彦・天孫)の妃となる。
 豊玉姫は出産間近となったが、彦火火出見が先に天孫の宮殿(奴国か伊都国)へ帰るので、帰ったら浜辺に産屋を作って待っていてくださいと云った。
 そして豊玉姫は妹の玉依姫を連れて浜辺の産屋までやって来た。豊玉姫は、私が子を生むときに見ないでくださいと彦火火出見に云ったが、彦火火出見はコッソリ覗いた。すると豊玉姫がワニになって這い回っていた。
 恥をかいた豊玉姫は生まれた子の名前を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名付け、妹を留め置いて子を養育させ、自分は海宮に帰ってしまった。
 この時に彦火火出見が詠んだ歌が、
   沖つ鳥(おきつとり) 鴨着く島に(かもつくしまに) 我が率寝し(わがいねし)
   妹は忘らじ(いもはわすらじ) 世(よ)のことごとも

 豊玉姫の返歌は、
   赤玉の(あかたまの) 光はありと 人は言えど
   君が装いし(きみがよそいし) 貴く(とうとく)ありけり

 この贈答の二首を挙歌(あげうた)と云う。

 そしてウガヤフキアエズが成長すると玉依姫を妃として神日本磐余彦(かむやまといわれひこ、神武天皇)が生まれた。西暦181年のことである。

 長崎県対馬市豊玉町(とよたままち)仁位(にい)55に鎮座の「和多都美神社」の祭神は彦火火出見尊と豊玉姫命。
 神社の向きは正確に夏至の日没方向を向いている。これは参拝者が拝礼する方角としては冬至の日の出方向を拝むことになる。冬至の日の出方向を延長すると宗像大社辺津宮(市杵島姫神)の真上を通る。更にその先には宗像三女神降臨伝説の六ヶ岳(339m)がある。関連性について調べる必要がある。ワニ繋がりか・・・
 和多都美神社本殿裏の森に豊玉姫命の御陵があるが、そこは斎場跡の磐座で、御陵は「仁位の高山」にあるとも云う。仁位の高山は神社後方の「烏帽子岳(176m)」か。
 仁位の地名由来は、真珠の産地だったから「瓊(に、たま)」→仁位(にい)となったようで、今でも仁位では真珠の養殖が行われている。


 名前がよく似た山に新高山(にいたかやま)がある。1941年12月2日に海軍連合艦隊司令部から空母機動部隊(空母6隻)に対して出された電文は「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」であったが、このニイタカヤマは台湾の新高山(現在名は玉山、3,952m)であった。当時の日本の最高峰であったので新高山と名付けられた。

 海神・豊玉彦尊が仁位に宮殿(竜宮)を造ったと云う。この宮殿が「海宮(わたつみのみや)」で、彦火火出見尊の歌にある「鴨着く島」である。
 海宮が和多都美神社になり、拝殿前の海中の三柱鳥居の中に磯良恵比須(いそらえびす)のご神体岩が鎮まっており、干潮時に姿を現す。

 「いそら」と云う名前からイスラエルとの繋がりを主張する説もあるが、磯良は安曇氏の祖神の安曇磯良(あづみのいそら)で、安曇磯良丸、磯武良(いそたけら)などとも云い、海人系神社で祀られている。 
 関西では茨木市の磯良神社に磯良大神として祀られている。2013年1月10日投稿の「今城塚古墳・太田茶臼山古墳」の中に(疣水)磯良神社として投稿しているのでご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-05-26 18:05

杵築神社(きづきじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市夢前町(ゆめさきちょう)菅生澗(すごうだに)594-2
神社の隣の「すごう保育園」を目指して行く。

祭神 大国主神、野見宿弥、菅原道真。
創建 嘉祥3年(西暦850年)

 古くは多氣明神と云われたので、今は多氣宮(竹の宮、竹宮さん)とも呼ばれる。
 当社は300m東の田園地に鎮座していたが、大正3年(1914年)に山麓の現在地に遷座した。
  赤のアイコンが杵築神社、黄が伊和神社、青が廣峯神社。


 当社は12km南東に鎮座の廣峯神社(姫路市広嶺山、ひろみねやま)と関係が深いようだ。

 杵築神社の由緒によると、この地は菅原氏の所領だったことと、菅原氏の先祖が出雲大社(杵築大社、出雲国一宮)に仕えていたことで、大国主神及び菅原氏祖神の野見宿弥と菅原道真の三柱の神を祀った。

 また、飾磨郡誌によると、大国主命が勢力拡大のためこの地に一泊し、後年一社を創建、その偉業を追慕し「多氣の宮」(雄大敢為の意)と称した。
 当社の28km北西に鎮座する播磨国一宮の伊和神社の祭神が伊和大神で、播磨国風土記によると、伊和大神は大己貴命(大国主命)と同神で、出雲国からやって来たとある。
 私見ですが、この伊和大神が菅生澗にやって来て勢力を拡大し、子孫が多氣明神を祀ったと考えています。更に伊和神社の鎮座地が兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407。この「すぎょうめ」の地名が菅生澗の「すごう」になったのではないかと考えています。
 播磨国風土記によると、菅生澗の地名由来は菅(すげ)がたくさん生えていたからと云う。山の谷間の真ん中を菅生川が流れている。

 当社の祭神が相撲の神の野見宿弥であるので、秋祭りでは、村対抗の相撲大会が行われる。拝殿の前に土俵があり、青いシートで覆われている。
 当社は昔、異相撲(ことすもう、喧嘩相撲)と云う荒い相撲を行い、「多氣の宮の喧嘩相撲」として有名であった。昭和初期までは遠方からも地方力士が参加して盛大に行われ、当社は別名を「相撲社」とも呼ばれていた。

  石の鳥居
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  拝殿、左手前に土俵があり、青いシートで覆われている。
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 拝殿内の古い神額には「山王権現 牛頭天皇」とあるが、神仏習合時の名残で、廣峯神社との繋がりか。明治元年に神仏分離令が出たが、各地で神仏習合の名残を見ることができる。
 但し、鹿児島県(島津藩)の廃仏毀釈は徹底していたらしい。
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   本殿
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# by enki-eden | 2018-05-18 11:27

志方八幡神社(しかたはちまんじんじゃ、加古川市)

播磨三社八幡の一つ、志方の八幡さん。 車を境内に停められます。
兵庫県加古川市志方町志方町(しかたちょう しかたまち)301-2  電079-452-0052

祭神 応神天皇、神宮皇后、玉依比売命。
厄払い、安産、交通安全。 能楽が盛ん。

 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征(363年)の途中、当地の宮山に登り、多くの鹿が群れているのを見て、この地を「鹿田」と名付けた。後に志方と表示されるようになった。

 黒田官兵衛(1546年-1604年)の正室・光(てる、1553年-1627年)の実家櫛橋氏は志方城の城主であったので、志方町は「光姫の里」と呼ばれる。



創建
 1111年、宮谷で妙見大明神として創祀され、1492年に志方城主の櫛橋氏が城の1km東北(鬼門の方角)にある現在地の宮山に遷し、石清水八幡宮から八幡神を勧請し、志方城の守り神とした。この宮山には多くの古墳があったが、現在では5基が残っている。
 櫛橋氏は藤原氏の末裔で、代々赤松氏の家臣だったが、1492年に志方城を築いた。城跡は志方小学校になっている。
  
   石の鳥居
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   宮山稲荷神社
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   随神門
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   割拝殿
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   幣殿と本殿
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   えびす神社
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  境内には、この他、大地主神拝所、皇大神宮遥拝所、日読社(天照皇大神)、
 月読社(月読命)、市杵嶋姫社(弁天さん)が鎮座している。

   社務所主屋と門は登録有形文化財
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 能楽堂は伊勢神宮宇治橋の古木を拝領して再建された。10月の例大祭(秋祭り)における御旅所神幸式では地元の児童による「胡蝶の舞」が奉納される。
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 昔、境内に能満寺があった名残で、鐘楼が残っている。
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# by enki-eden | 2018-05-11 09:23

神吉八幡神社(かんきはちまんじんじゃ、加古川市)

 兵庫県加古川市西神吉町宮前979  電079-431-2130
 鳥居横にも車を停められるが、左手奥に参拝者用の駐車場があります。
 妙見大明神とも呼ばれる。

 祭神 誉田別尊(15代応神天皇、363年-403年)

 西神吉町大国(おおぐに)が発祥の地で、旧地は下の宮(御旅所)となっている。
 赤が神吉八幡神社、黄が御旅所、青が神吉城跡(東神吉町の常楽寺が神吉城本丸跡)


創建 
 1396年、神火(隕石か?)が天下原(あまがはら、加古川市東神吉町天下原)に落ちた。村人は八幡神の化身に違いないと考え、近くの大国に八幡大神を祀って「神吉の庄」の氏神にした。

 当社は1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で焼き討ちにあい、1468年に領主の神出元盛が宮山(聖武天皇の行宮、標高90m)に遷座・再建した。元の大国村には御旅所が再建され、下の宮となった。
 嘉吉の乱では播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(1381年-1441年)が6代将軍足利義教(1394年-1441年)を暗殺し、幕府討伐軍に敗れた。

 南北朝時代(1336年-1392年)の神出城主・神出範次は赤松氏の系統で、子の元頼に神吉庄を与えたので元頼は神吉元頼と名乗った。神吉元頼は神吉城を築城、代々が神吉城主となった。
 神吉氏は三木城の別所氏と繋がっていたので、1578年に織田信長(1534年-1582年)と別所長治(ながはる、1558年-1580年)が争った時に、神吉城は志方城と共に羽柴秀吉(1537年-1598年)に攻撃され、落城した。

 当社は1633年にも落雷で全焼したので、1683年に再建した。

   石の鳥居
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   随神門
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 神吉頼経(かんき よりつね、1543年-1570年)築造の石垣が一昨年の9月に
改修された。
 3段目の石垣に積まれた石に銘文があり、古いので見えにくいが看板には、
 「この石垣は、天文年中(16世紀中頃)に4代目神吉城主の中務少輔・神吉頼経公の
所築で、後世に願主の名が失われることを恐れ、ここに銘文を記す。」とある。
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   拝殿・幣殿・本殿
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  境内から3.3km西に高御座山が見える。(2017年9月6日投稿)
  いつもははっきり見える山々も、この日は春霞でぼんやり。
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 境内社は、天照皇大神宮(天照大神)、大年神社(大年神)、愛宕神社(武甕槌命)、
 大歳神社(大歳神)、稲荷神社、八坂神社(素戔嗚命)がある。

 秋祭りは大変な賑わいになるようですが、私が子どもの頃の当地では天狗の面をかぶり、
長い棒を持って暴れる「アカ」と云うものが怖かった記憶が今でも残っています。
 今から思えば猿田彦らしいですが、猿田彦であれば老人の姿で矛を持っているが・・・
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# by enki-eden | 2018-05-03 09:32

御崎(みさき)厄除八幡神社(神戸市兵庫区)

旧・八部郡御崎村に鎮座する「御崎の厄神さん」。
兵庫県神戸市兵庫区御崎本町1-1-49   078-651-3298
祭神 神功皇后、
   応神天皇、
   姫大神(未詳だが、宗像三女神か)。

 創建 9世紀半ば。
 56代清和天皇の貞観年中(859年-876年)に山城国男山(京都府八幡市)に豊前国宇佐神宮より勧請し、石清水八幡宮(国宝)が創建された。   
 寛文8年(1668年)に石清水八幡宮公文所より当神社に下附された金幣に、石清水八幡宮と御崎厄除八幡宮は同時代(860年頃)の創建であると記されている。
 昭和20年の神戸大空襲により社殿焼失、昭和31年に現状に復興する。



 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の帰途(363年)、この地に滞在した。その時に村人が神功皇后の神馬に兵庫の津(兵庫港)で取れる海草を秣(まぐさ)として献上した。
 当神社は石清水八幡宮と古くから関係があり、公文所御鍵預かり役に任じられ、毎年春秋の大祭には男山へ鍵を持って行き奉仕し、御崎の神馬秣を奉っていたと神社古文書に記されている。

   石の鳥居と社号標
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   南向きの拝殿と豊賀稲荷神社(宇賀魂命)
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 当社の北を流れる新川運河に清盛橋が架かる。欄干には、平家に関わるレリーフ彫刻が施されている。
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 14代仲哀天皇(313年頃-362年)と神功皇后(321年-389年)の皇子が15代応神天皇(363年-403年)となった。
 応神天皇陵(2013年2月21日投稿)は大阪府羽曳野市誉田6丁目にある。神功皇后陵(2013年4月8日投稿)は奈良市山陵町にある。
 5年前の投稿で、その後に年代を修正しており、現在記している年代とは違いがあります。
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# by enki-eden | 2018-04-27 10:07

兵庫住吉神社(神戸市兵庫区)

兵庫の住吉さん
兵庫県神戸市兵庫区切戸町(きれとちょう)1-3  電078-671-4067
祭神 住吉四柱大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯比売命)。

 神社の説明によると、
 『兵庫の津は風浪を避ける場所がなく、地元では難儀をしていた。明治10年に新川運河が完成、船の通運が安全になったので、地元住民の熱望により、海の守護神である住吉大神を浪速の住吉大社より勧請、明治11年6月3日に創祀した。
 昭和20年の空襲により社殿は羅災したが、昭和39年に復興建立した。』



   石の鳥居と境内
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 手前から、清盛塚(1286年造立の高さ8.5mの十三重塔、墳墓ではなく供養塔)、
 平清盛(1118年-1181年)の銅像(柳原義達の作)、
 琵琶塚(平経正の墓、琵琶の名手で1184年没)。
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  東向きの拝殿、桜が咲き始めた(3月24日)。
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  橋本稲荷神社(宇賀魂大神)
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 神社の東を流れる新川運河(兵庫運河の一部)に架かる大輪田橋、後方の山は六甲山系。
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  大輪田橋と大輪田水門
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 平清盛は大輪田泊(おおわだのとまり、兵庫港)を使用して大陸の南宋(1127年-1279年)と貿易をしていた。そして、1180年(治承4年、81代安徳天皇、高倉上皇の時代)に都を京都から摂津国福原(神戸市)に移したが、この遷都は半年で頓挫した。

 「平氏にあらずんば、人にあらず」と云うほど栄華を誇った平氏(平家)も、その独裁ぶりに反発した勢力が各地に台頭し、やがて源氏の挙兵に繋がっていく。
 1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家が敗北、源頼朝(1147年-1199年)により鎌倉幕府が成立する。

 当神社の西向かいに時宗(じしゅう)の真光寺(しんこうじ)がある。宗祖は一遍上人(いっぺんしょうにん、1239年-1289年)で、念仏勧進の全国遊行(ゆぎょう)の途中にこの地に立ち寄り、真光寺の観音堂で入寂した。境内に一遍上人御廟所があり、兵庫県重要文化財になっている。
 観音堂の東に熊野権現社(紀州熊野坐大神)が鎮座、時宗は熊野権現を守護神として尊祟している。神仏習合時の名残か。
   一遍上人御廟所
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# by enki-eden | 2018-04-19 09:39

小野八幡神社(おのはちまんじんじゃ、神戸市中央区)

兵庫県神戸市中央区八幡通(はちまんどおり)4丁目1-37  電078-221-5414
都会のビルの真ん中に鎮座の厄神さん・八幡さん。 交通安全厄除け祈願。
祭神  応神天皇(15代)
創建  887年(平安時代、58代光孝天皇の仁和3年)
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 当社宮司の新渡戸素(にとべ もとし)氏は親近感のある人です。新渡戸稲造(1862年—1933年)のご親戚だそうです。
 新渡戸宮司の次女である新渡戸涼恵(すずえ)さんは当社の権禰宜で、国内外で活躍する歌手でもあります。インターネットで「涼恵」を検索するとたくさんありますよ。
 
 当社は戦前まで大丸神戸店の北に鎮座していたが、源平合戦(1177年-1185年)の後、戦死した河原兄弟の功績に報いるために源頼朝(1147年-1199年)が建立した報恩寺の鎮守の神となった。
 太平洋戦争後、当社は現在地に遷座した。現在、大丸神戸店の北には三宮神社が鎮座しているが、三宮神社にも河原霊社が祀られている。



   鳥居と拝殿、後方の高いビルは神戸市役所。
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   本殿
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   手水舎、後方が社務所。
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   拝殿右に金刀比羅神社(金刀比羅大権現)
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   拝殿左に巳神社(白龍大明神)と白玉国高稲荷神社
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 当社は1995年の阪神淡路大震災で被害を受け23年経ったが、社殿を建て替える予定。境内に19階建てのマンションも建てる予定になっており、社務所はその1階と2階に入る。
 鳥居左に、本殿の竣工は今年10月の予定と掲示板が出ている。
     ***
 今年のヒノキ花粉の飛散量は昨年の400倍もあるらしいです。私は50年前から花粉症で、今月は特に厳しいです。今月の大量のヒノキ花粉で初めて花粉症になった人もいます。5月中頃までは注意が怠れません。
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# by enki-eden | 2018-04-11 08:44

月神命(つきたまのみこと、天月神命)

 壱岐県主等祖(いきのあがたぬしたちのおや)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、
 月読大神(つきよみのおおかみ)。

 月神命は長崎県壱岐市の月讀神社(つきよみじんじゃ)に祀られているが、日本書紀によると、23代顕宗天皇の3年(487年)春2月1日、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、命を受け任那(みまな)に使いした。壱岐に着いた時、月の神が人に憑いて『わが祖・高皇産霊尊は天地をお造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ。求めのままに献上すれば慶福が得られるだろう。』と云われた。
 阿閉臣事代は京に帰って天皇に詳しく申し上げると、山城国葛野(かどの)郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。壱岐の県主の祖の押見宿祢(おしみのすくね、忍見宿祢)がお祀りして仕えた。この社は現在、京都市西京区松尾大社の境外摂社の月読神社と考えられる。月読神社の禰宜は現在でも押見宿祢の子孫の松室氏が担っている。

 顕宗天皇の3年夏4月5日、日の神が憑いて阿閉臣事代に云われ、『倭の磐余の田を、わが祖・高皇産霊尊に奉れ』と。阿閉臣事代は天皇に奏上し、田14町を奉った。対馬の下県直(しもつあがたのあたい)が高皇産霊尊をお祀りし、仕えた。神社の旧名は目原坐高御魂神社(めはらにますたかみむすひじんじゃ)と云う。

 月の神は壱岐の天月神命(月読大神)、日の神は対馬の天日神命で、両神とも高皇産霊尊の子で、西暦185年頃の饒速日東遷に従っている。子孫は大和国や山城国に住んだ。
 日本書紀によると、高皇産霊尊の子は全部で1,500人以上もいると云う。私は150人から200人位ではないかと思いますがねぇ・・・

 日本書紀の伊弉諾命(西暦125年頃出生)の段では、月読命(月の神)は天照大神(日の神)と素戔嗚命と共に三貴子として伊弉諾命の子になっている。実子ではないが、婚姻や誓約(うけい)などによって親子の契りを結んだと考えられる。

 天照大神は女神なので、対馬の天日神命に神託を下す巫女(天日巫女)だったのか。高皇産霊尊と兄妹だったかもしれない。
 天照大神(比売大神、大日孁貴、おおひるめのむち)と素戔嗚命が誓約(うけい)をして宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)が生まれた。
 市杵嶋姫は天火明命の妻となり卑弥呼を産んだのではないか。図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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# by enki-eden | 2018-04-06 10:02

天造日女命(あまのつくりひめのみこと)

 先代旧事本紀の天神本紀に「饒速日命(165年頃出生)が185年頃に豊国の宇佐から大和国に東遷した時に、32人の従者と25部の物部軍団その他を従え、膨大な人数による大部隊で天降った。」とある。
 対馬・壱岐の豪族、遠賀川周辺部族、筑後川周辺部族、海部氏・尾張氏・阿曇氏、高皇産霊の子など多くの部族が饒速日東遷に従った。

 この東遷に従った人々の中に、綿積神の後裔で阿曇連等(あづみのむらじたち)の祖である天造日女命もいた。天造日女の別の読み方は「あめのみやつこひめ」があり、卑弥呼のことであると云う説がある。

 天造日女とよく似た名前に天道日女(あめのみちひめ、対馬の天日神の娘)があり、天道日女は天火明(彦火火出見、140年頃出生)の妻となり、天香語山(尾張連の祖)を生んでいる。
 天日神は対馬県主等の祖で、天造日女と共に饒速日東遷に従って大和国にやって来た。天造日女は天道日女のことかもしれない。西暦160年頃の出生である。
 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 海部氏の勘注系図には天火明命の6世孫建田勢命の妹・宇那比姫命が記されている。建田勢命は7代孝霊天皇に仕えており、西暦230年頃の出生である。妹の宇那比姫命もその頃の出生であろう。
 勘注系図ではこの宇那比姫命の別名を天造日女命、大倭姫、竹野姫、大海靈姫命、日女命としている。
 阿曇連等の祖である天造日女命と同じ名前だが、時代が違う。宇那比姫命を卑弥呼(179年-247年)だと云う説もあるが、これも時代が違う。臺與であれば宇那比姫命とほぼ同じ時代になるが・・・
 同じ世代でも、臺與(235年頃-295年頃)は筑紫の生まれ、宇那比姫は大和か紀伊の生まれなので、これも別人となる。

 大陸では魏が265年に滅亡したので、倭の女王・臺與は266年に晋に朝貢した。しかし、大陸の戦乱と北方異民族の侵入により、倭国(北部九州)は大陸と交易ができなくなり、大陸に近い筑紫も不安定になったため、私見ですが臺與は270年頃に大和国に東遷してきたと見ています。そして大和政権の系譜に入った。
 臺與はミマキイリヒコを連れて東遷、10代崇神天皇(251年-301年)として全国制覇を成し遂げさせた。
 日本書紀には臺與は倭迹迹日百襲姫として記されたかもしれず、箸墓古墳に埋葬された。海部氏は臺與を海部氏出身の宇那比姫と記したか。
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# by enki-eden | 2018-03-29 00:07

天日神命(あめのひみたまのみこと)

 天日神命は長崎県対馬市美津島町(みつしままち)小船越(こふなこし)の阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)に祀られており、対馬県主(あがたぬし)等の祖。
 神仏習合の時代には照日権現と称し、オヒデリさんと呼ばれていた。



 天日神命は別名を天照魂命(あまてるみたまのみこと)と云い、高御魂尊(たかみむすびのみこと)の子孫だと云う。また、名前が似ていることで、天照国照彦火明命(尾張氏、海部氏の祖)と同一とも云う。
 火明命の別名が天照御魂神であるので、天日神命(天照魂命)とそっくりの名前である。しかも火明命の妃は佐手依姫と天道日女命でどちらも対馬の出身である。
 それでも、火明命と天日神命は別神かもしれない。図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 先代旧事本紀の天神本紀によると、天日神命(あまのひのかみのみこと)は対馬県主(つしまのあがたぬし)等の祖と記され、饒速日東遷(私見ですが西暦185年頃)に従っている。
 天日神命の娘は天道日女命で、天火明命(彦火火出見)の妃となり、天香語山命を生んでいる。これを事実とすれば、天日神命は天火明命の義父になり、関係は深いが別神となる。

 先代旧事本紀の国造本紀によると、神武朝に高魂尊の五世孫の建弥己己命(たけみここのみこと)を津嶋県直(つしまのあがたのあたい)にしたと記されている。
 対馬市厳原町豆酘字龍良山の高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)の祭神は高皇産霊尊で、高皇産霊尊の子孫である建弥己己命(たけみここのみこと)は、その南方の与良に天日神命を祀った。
 その建弥己己命が大和国橿原には高御魂神社を創建した。旧名は目原坐高御魂神社(めはらにますたかみむすひじんじゃ)と考えられており、現在の天満神社(橿原市太田市町、おだいちちょう)かもしれないが、よく分からない。

 対馬県主以外には、新撰姓氏録の「摂津国 神別 天神 津島朝臣 津速魂命三世孫天兒屋根命之後也」があり、「椋垣朝臣」、「荒城朝臣」、「中臣東連」、「神奴連」、「中臣藍連」、「中臣太田連」、「生田首」なども同じとある。
 また、「河内国 神別 天神 菅生朝臣」や「和泉国 神別 天神 宮處朝臣」なども同じとなっている。
 対馬出身の対馬氏が天児屋根命(中臣連等の祖)の後裔であると云うのは、朝廷での卜部としての対馬氏の職種が中臣氏の配下であったことと関係していると考えられる。
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# by enki-eden | 2018-03-21 09:45

三国志とタウポ火山の噴火

 3月7日放送のNHK番組「三国志の真相」で、黄巾の乱(西暦184年-205年)は暴徒の乱とされているが、地球規模の異常気象による飢餓が原因なのではないかと解説していた。
 その異常気象の原因は、ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火により、空を覆う噴煙(噴煙高度50km)が地球規模に拡大したからと云う。

 紀元前206年から400年以上続いた漢(前漢と後漢)は、飢饉による反乱と北方民族の侵入で衰退し、魏・蜀・呉の三国時代に入っていく。

 また、日本地理学会もこのタウポ火山の大噴火による冷夏凶作と倭国乱の関りについて発表している。その一部を抜粋すると、
 『中国史書によれば2世紀末に倭国に「乱」があり、それを契機に卑弥呼が国王に共立されたという。結論を先にすると「倭国乱」は冷夏による2年続きの飢饉で起きた社会不安と食を求める民衆の流浪が実態であり、戦乱ではない。
 冷夏の原因はタウポ火山の大噴火である。非農業人口が多く稲作依存率が高い地方(弥生時代の先進地域、すなわち九州北部)ほど冷夏飢饉の影響は深刻だったはずである。
 クラカタウ火山大噴火による28代宣化天皇元年(536年)の飢饉の際にも、各地の屯倉の米を那の津(博多港)の倉庫に集めるよう、勅令が出されている。』

 ニュージーランドではタウポ火山の噴火が数万年前から続いており、付近では現在も火山活動や群発地震が頻発している。西暦181年に起きた史上最大規模の巨大噴火によって陥没したカルデラは、現在タウポ湖になっている。タウポ湖の表面積は616㎢、琵琶湖が670㎢です。

 私見ですが、西暦181年は初代神武天皇が生まれた年です。タウポ火山帯の大噴火によって異常気象が発生、大気汚染による人々の健康被害や死亡、数年続く農産物の不作・飢餓などにより、日本列島だけでなく広範囲に大混乱が起きたと考えられる。
 饒速日が西暦185年頃に新天地を求めて宇佐から大和国へ大部隊で東遷、纒向(まきむく)を都にした。神武天皇も204年に遠賀川を出発、211年に大和国橿原で即位。
 その後、270年頃に倭国の女王臺與も大和国へ東遷、同行したミマキイリヒコが10代崇神天皇として全国を制覇し、弥生時代から古墳時代へ入っていく。
 巨大火山の噴火による異常気象で世界が大きく変化することになった。

 宣化天皇時代の日本列島に飢饉をもたらしたインドネシアのクラカタウ火山は西暦535年に噴火し、ジャワ島西部のカラタン文明を滅ぼし、世界各地に異常気象をもたらした。
 この異常気象を発端として、ヨーロッパではゴート戦争(535年-554年)、スラブ人の南下(542年)、黒死病(ペスト、543年)の蔓延、ペルシャとのラジカ戦争(541年-562年)、ゲルマン人の南下などが起きている。
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# by enki-eden | 2018-03-15 10:17

ひょうごの遺跡(兵庫県立考古博物館の展示)

 兵庫県立考古博物館の調査研究10年間(2009年~2018年)の集大成!
 展示期間は1月20日から3月25日までです。兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1
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   紅梅が満開でした! (3月2日)
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 姫路市南西部の沖積低地に広がる「池ノ下遺跡」出土の縄文土器で、約4,000年前。
 「磨消縄文(すりけしじょうもん)」の深鉢で、上部全周に縄目を付けた後、棒で文様を描き、文様外側の縄目をなで消した。
 この文様は瀬戸内を中心に、西は九州東部から東は北陸・東海地方まで広範囲に普及していた。岡山県倉敷市の中津貝塚で最初に発見されたので、中津式土器と呼ばれる。
 縄文時代は、14,000年前から2,500年前まで、ほぼ同じ民族の縄文人が列島全体に交易し、均等な文化を共有していた。
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 加古川市の坂元遺跡(6世紀)から出土した石見型盾形(いわみがたたてがた)埴輪。
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   坂元遺跡出土の武人埴輪
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 洲本市の下加茂遺跡の墓から出土した精巧な朱塗りの杓子(しゃくし)。
 漆は使わず、朱を塗り込めている。
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 但馬地域最大の前方後円墳(134.5m、5世紀)である池田古墳出土の水鳥形埴輪。古墳の形や埴輪などは大和・河内の王墓の様式を取り入れている。
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 奈良時代、播磨では須恵器の製造も盛んで、良質なものは税として平城京に納めていた。
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 淡路島南端の南あわじ市阿万(あま)東町の九蔵遺跡(ぐぞういせき)から銀銭「和同開珎」が1枚出土した。全国では48枚目。
 淡路島は古代から朝廷に食材を献上する「御食国(みけつくに)」であった。魚介類採取だけではなく製塩も海人族の重要な生業であった。銀銭の出土は朝廷との強いつながりが伺える。
 製塩土器と銀銭
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 日本書紀の「国生み」によると、『伊弉諾尊と伊弉諾尊が天の浮橋の上に立って、「この底の一番下に国がないはずはない」と云われ、玉で飾った矛を指し下して、下の方を探られた。
 そこに青海原が見つかり、その矛の先から滴った海水が凝り固まって一つの島になった。これを名付けておのころ島と云う。
 二柱の神はそこでこの島にお降りになって、夫婦の行為を行って国土を生もうとされた。』とある。
 この話は「国造り、国生み」を夫婦の行為に例えて表現していると私は考えているが、考古博物館の説明では、この有名な国生み神話は、土器を用いた塩作りの様子を反映したものではないかと云っている。弥生時代には、海水を素焼きの土器に入れ、それを炉で煮詰めて塩を作った。
 沸騰して泡立った海水を静める冷却具として細長い石棒を土器に入れるとうまくいった。その様子を淡路島の海人族が神話として伝えたかもしれないと云う。
 同じように、記紀では踏鞴製鉄を出産に例えて表現されている。例えば、伊弉冉命が火の神を生むときに体を焼かれて亡くなった、木花開耶姫が瓊瓊杵尊の子を生むときに「天孫の子ならば火も損なうことができないでしょう」と云って火をつけて室を焼いた、など。

 この他多くの出土品が展示されており、楽しい一日を過ごすことができますよ!
©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-03-10 19:38

近津神社(ちかつじんじゃ、小野市)

兵庫県小野市粟生町(あおちょう)1489  無料駐車場あります。
祭神 天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、
   天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
   天太玉命(あめのふとたまのみこと)。

創建 24代仁賢天皇(449年-498年)の8年(495年)
   山に光を放つ大木があり、その麓に社殿を建てたと云う。

豊臣秀吉(1537年-1598年)が三木城を攻撃する前に当社に戦勝祈願し、戦勝後に社領を寄進した。



 天津彦火瓊瓊杵尊は大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘の木花開耶姫(このはなさくやひめ)を妻とし、海幸彦、山幸彦などが生まれた。
 西暦201年頃の葦原の中つ国平定の後、天照大神の命令で瓊瓊杵尊は高天原から降臨し、葦原の中つ国を統治した。(天孫降臨)

 天児屋根命(中臣氏の祖)は天照大神の岩戸隠れの時、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに、天太玉命(高皇産霊神の子、忌部氏の祖)とともに鏡を差し出した。

 一の鳥居と二の鳥居、奥の小さい二の鳥居(明神鳥居)は兵庫県指定重要文化財。天正20年(1592年)造立で、古い形式を残している。凝灰岩製で高さ2.7m、柱真々1.8m、柱がエンタシスになっている。
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  拝殿、灯篭の宝珠(玉)の形が矛形になっているのは北部播磨(賀茂郡)に多い。
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   本殿
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   豊受大神宮
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   愛宕神社
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   右が秋葉神社、左が大歳神社。
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©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2018-03-05 10:50

赤穂市有年(うね)地区の古墳

 有年地区では昭和43年度に山林部の文化財分布調査が行われ、古墳77基が見つかっている。その後、赤穂市教育委員会が5年前から行っている埋蔵文化財分布調査によると、有年原・有年牟礼地区の山林部に156基の古墳があると云う。
 赤穂市教育委員会は「播磨地域でも有数の古墳密集地区である」として、報告書を刊行した。



 そして、これまで円墳だと考えられていた放亀山1号墳(赤穂市有年楢原)が前方後円墳であることが分かった。赤穂市内で前方後円墳が確認されるのは初めて。
 築造は古墳時代前期前半の4世紀初めと見られているので、古墳時代が始まったと同時に当地で前方後円墳が築かれたことになる。
 大和国と密接に繋がった当地の首長の古墳だと考えられる。或いは大和国から派遣されたのか。

 当古墳は「くびれ部」がはっきりと確認できたので前方後円墳と確定した。全長38m、後円部径23m、高さ4.4m、前方部長さ18m、高さ2m。前方部、後円部共2段築成で葺石も確認されている。

 有年楢原地区は千種川の西岸に沿った山にあり、古代の踏鞴製鉄が盛んであったと考えられる。この地区には須賀神社が3社も鎮座、素戔嗚尊を祀っている。
 前方後円墳の被葬者は踏鞴製鉄に携わっていたのであろう。千種川の製鉄用砂鉄は有名です。2013年7月2日投稿の「播磨国と大和国の製鉄」をご参照ください。

 その後、7世紀になると秦河勝が赤穂にやって来て、千種川の開発を始める。2012年12月29日投稿の「大避神社」をご参照ください。
©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-03-02 11:40

磯部神社(いそべじんじゃ、加西市)

礒邊大明神、播磨国賀茂郡(賀毛郡)鎮座。
兵庫県加西市中富町1245

祭神  鴨玉依姫神和魂(かもたまよりひめのかみのにぎみたま)、
    市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、
    大歳神(おおとしのかみ)。

明治時代(1911年)に大歳神社を合祀した。
当社は日吉神社の宮司が兼務している。



 鴨玉依姫は賀茂建角身命(175年頃出生)と神伊可古夜比売(丹波)の娘。大山咋神(おおやまくいのかみ、185年頃出生)との間に賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)を生んだ。
 鴨玉依姫が京都の「石川の瀬見の小川」で川遊びをしていると、川上から大山咋神が丹塗矢に化身して流れ下って来た。この矢を床の周りに置いて寝た所、鴨玉依姫は妊娠し、男の子(賀茂別雷神)を産んだ。
 鴨玉依姫を祀る神社は多く、賀茂御祖神社、賀茂別雷神社、日吉大社などに祀られている。

 市杵島姫(160年頃出生)は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と比売大神(天照大神①)の誓約により生まれ、宗像三女神の一柱になっている。市杵島姫は卑弥呼(179年-247年、天照大神②)の母かもしれない。
 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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   石の鳥居
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   拝殿
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   本殿、女神であるが千木と鰹木は男神仕様になっている。
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 当社の2.5km南南西に玉丘古墳がある。(2015年4月3日投稿)

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# by enki-eden | 2018-02-27 14:32

石部神社(いそべじんじゃ、加西市上野町)

兵庫県加西市上野町71  電0790-44-0046  無料駐車場あります。
播磨国賀茂郡(賀毛郡)鎮座、賀茂郡は平安末期に加東郡と加西郡に分かれた。

祭神 市杵島姫命、
   田心姫命、
   湍津姫命。
御神徳は海上安全、水難除け、所願成就。



 717年(養老元年)、44代元正天皇(680年-748年、女帝)の皇女が安芸国一宮である宮島の厳島神社に参詣、海路で帰還しようとしたが海が荒れ、遭難して播州室津に上陸した後、薨去した。
 皇女が「我が守護神は市杵島姫命なり、これを当地の産土神と崇め奉れ」と遺言した。それで、719年(養老3年)に安芸国宮島から三女神を勧請した。

 当社の裏山は三津山(宮山)と呼ばれ、皇女を埋葬した。149mの山頂には皇塚古墳と云う円墳(20m)がある。円墳の築造時期は5世紀頃と見られるので時代が合わない。
 そして、元正天皇の結婚歴は記録がないので、皇女はいないはずであるが、例えば長屋王(684年-729年)との間に若い頃の隠し子がいたのかもしれない。元正天皇の妹・吉備内親王(686年頃-729年)は長屋王の妃になっている。
 2014年11月9日投稿の長屋王と吉備内親王をご参照ください。

 当地の在田郷は播州赤穂の浅野家の領地であったので、浅野家は当社を篤く信仰していた。門杉は樹齢1300年の巨木で、当社創建時からのもの。

   入口左右に門杉、根回り5m、高さ30m。鎮座の719年に記念植樹された。
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   絵馬殿と拝殿、裏山の三津山頂上に皇塚古墳がある。
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   本殿、春日造り。南西向きで千木と鰹木は男神仕様となっている。
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   八坂社、神明社、道祖社。
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   少名彦社と稲荷社
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   鐘楼
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©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2018-02-20 09:53

日吉神社(加西市池上町)

富家(ふけ)の大宮
兵庫県加西市池上町7  電0790-45-1616
車は南側から入るか、西の裏鳥居の横に停める。

祭神 大山咋大神和魂(おおやまくいのおおかみのにぎみたま)、
   大己貴大神(おおなむちのおおかみ、大国主神・大物主神)、
   田心姫大神(たごりひめのおおかみ)、
   白山比売大神(しろやまひめのおおかみ)、
   大山咋大神荒魂(おおやまくいのおおかみのあらみたま)、
   鴨玉依姫大神和魂(かもたまよりひめのおおかみのにぎみたま)、
   鴨玉依姫大神荒魂(かもたまよりひめのおおかみのあらみたま)。

御神徳は五穀豊穣、国家鎮護、開運、家内安全、鬼門除け、安産。

 赤のアイコンが日吉神社、黄が奥宮の鎌倉山。


 3.5km北にある奥宮の鎮座する鎌倉山(453m)を御神体山として拝してきたが、その大神様を当地の里にお迎えし、830年に近江国日吉大社から勧請された。
 鎌倉山は加西市の北部、河内町(こうちちょう)にあり、周辺は旧行者道になっており、古くから賀茂郡(加西市、加東市、小野市)の神々の古里として崇敬されている。役行者(えんのぎょうじゃ、634年-706年)の影響で修験道の中心となったが、今は鎌倉山行者道ハイキングコースとなっている。

 日吉神社境内の六尺藤(5月)と紅葉(七五三の頃)が有名。宮司さんは周辺16神社の兼務をしておられる。
 日吉神社の神使いの神猿(まさる)は、「魔が去る」、「勝る」の意味があると云う。

   楼門
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   絵馬殿と拝殿
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   本殿、真東を向いている。
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   本殿前に神使いの「神猿(まさる)」、
   見ざる、聞かざる、言わざる。
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   愛宕社(火の神)
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 手前から皇大神宮社(天照大神、豊受大神)、
 針神社(2月8日に針供養)、
 赤山大明神(せきさんだいみょうじん、泰山府君か?)。
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 泰山府君は、日本では素戔嗚尊や大国主命と関係づけられ、陰陽家で祀られた。
天台宗の守護神で、延命・富貴の神として商人の信仰があつい。
 陰陽師の安倍晴明(921年-1005年)が「泰山府君祭」を得意とし、天皇などの健康長寿を祈祷していた。

  西の裏参道の鳥居、神使いのお猿さんが迎えてくれる。
  ここに車を停めました。
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# by enki-eden | 2018-02-15 09:29

八王子神社(加西市)

 兵庫県加西市田谷町(たやちょう)1265  電0790-45-0861  駐車場あります。
 祭神 八王子大神
     国狭槌命(くにさつちのみこと)(中央)、
     伊弉諾命(いざなぎのみこと)(右)、
     伊弉冉命(いざなみのみこと)(左)、
     大己貴命(おおなむちのみこと)(右端)、
     天津彦火瓊瓊杵命(あまつひこほのににぎのみこと)(左端)、
     木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)(明治43年に合祀)。

 五穀豊穣、安産守護。
 創建 1037年(69代後朱雀天皇、長暦元年)、鏡山に鎮座。正一位八王子権現。

 赤のアイコンが八王子神社、黄が大歳神社


 伝承によると長暦元年(1037年)、天変地異による疫病、害虫発生で多くの人が餓死した。村人が鏡ヶ原の南にある大歳神社で7日7夜の間、妖魔退散、五穀豊穣を祈願した。大歳神社は多いが、500m南に鎮座する大歳神社か?
 その満願の日、天より「われは八王子大神なり。鏡ヶ原に鎮まり妖魔を退け、五穀豊穣の地となさむ。」との声があり、疫病・害虫は治まった。
 それで、近江国日吉大社より八王子大神を勧請して祀るようになった。日吉大社については、2014年6月17日投稿の「日吉大社①」をご参照ください。

 八王子とは素戔嗚尊の御子である5男3女を云う場合が多いが、近江国日吉大社の奥宮のある牛尾山(八王子山、381m)に国狭槌尊など8人の王子が顕れたと云われ、八王子権現と呼ばれた。
 また、八王子山に降臨した山の神・大山咋神の初現の姿(荒魂)を初王子として祀ったのを、後に八王子と訛ったと云う説もある。

 日本書紀によると、神世7代の2代目が国狭槌尊(西暦20年頃出生)になっているが、古事記によると、大山津見神(おおやまづみのかみ、西暦135年頃出生)と野椎神(のづちのかみ)が国之狭土神(くにのさつちのかみ、西暦150年頃出生)を生んだとある。
 国狭槌尊と国之狭土神は時代が大きく違っているので、名前は似ているが別神か。但し、同じ奴国王の系統だと考えられるので、先祖の名を継いだのか。

   石の鳥居
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    参道
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   随神門
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   拝殿
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 本殿、1693年築造。当時の社領は10万平方メートル(3万坪)もあった。
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  東の末社、左が伊勢神社(天照皇大神、豊受大神)、
  右が猿田彦神社(猿田彦命)。
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 西の末社、愛宕・秋葉神社(句句廼馳命、火須曾理命、阿遇突知命)、
 御井神社(罔象神、みずはのめのかみ)、
 雪彦神社(せっぴこじんじゃ、國常立尊)。
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 背後の鏡山に6基の鏡山古墳群がある。直径10mの円墳で6世紀の築造。
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©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2018-02-07 09:56