古代史探訪

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姫宮神社(朝来市生野町)

 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)781
 電079-679-3191  無料駐車場あります。

 祭神 豊玉姫命、
    素戔嗚命、大己貴命、軻遇突智神(かぐつちのかみ、火之迦具土命)。

 創建 応永34年(1427年)

 山名時熙(ときひろ、1367年-1435年)が1427年、生野古城山(いくのこじょうざん、609m)の山頂に築城した際、城中鎮護の神として豊玉姫命を勧請した。
 天文3年(1534年)に大己貴命、慶長12年(1607年)に素戔嗚命を勧請した。
 当社は何度も遷座したが、昭和11年(1936年)に現在地に遷座し、その時に愛宕神社(軻遇突智神)を合祀した。

 当社の立地は市川が西向きの流れから南向きに変わる角に鎮座。市川はここから南方に50kmほど流れ、姫路城の東を通過し、瀬戸内海に注ぐ。
   赤が姫宮神社、黄が古城山


 駐車場に車を停め、市川に架かる橋を渡り、境内に向かう。
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 川沿いに銀山トロッコ道跡が残っている。
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 振り返ると古城山が正面に。
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 参道を行くと西向きの拝殿が見えてくる。
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 本殿と左に境内社(今宮社、春日社、川濯社、天神社、八幡社)。
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 本殿右に1708年創建の恵比須社、2月に「ゑびす祭」が行われる。
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 日本書紀によると、祭神の豊玉姫命は海神(わたつみ)の娘で、海宮(わたつみのみや)に釣り針を探しにやって来た彦火火出見尊(山幸彦・天孫)の妃となる。
 豊玉姫は出産間近となったが、彦火火出見が先に天孫の宮殿(奴国か伊都国)へ帰るので、帰ったら浜辺に産屋を作って待っていてくださいと云った。
 そして豊玉姫は妹の玉依姫を連れて浜辺の産屋までやって来た。豊玉姫は、私が子を生むときに見ないでくださいと彦火火出見に云ったが、彦火火出見はコッソリ覗いた。すると豊玉姫がワニになって這い回っていた。
 恥をかいた豊玉姫は生まれた子の名前を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名付け、妹を留め置いて子を養育させ、自分は海宮に帰ってしまった。
 この時に彦火火出見が詠んだ歌が、
   沖つ鳥(おきつとり) 鴨着く島に(かもつくしまに) 我が率寝し(わがいねし)
   妹は忘らじ(いもはわすらじ) 世(よ)のことごとも

 豊玉姫の返歌は、
   赤玉の(あかたまの) 光はありと 人は言えど
   君が装いし(きみがよそいし) 貴く(とうとく)ありけり

 この贈答の二首を挙歌(あげうた)と云う。

 そしてウガヤフキアエズが成長すると玉依姫を妃として神日本磐余彦(かむやまといわれひこ、神武天皇)が生まれた。西暦181年のことである。

 長崎県対馬市豊玉町(とよたままち)仁位(にい)55に鎮座の「和多都美神社」の祭神は彦火火出見尊と豊玉姫命。
 神社の向きは正確に夏至の日没方向を向いている。これは参拝者が拝礼する方角としては冬至の日の出方向を拝むことになる。冬至の日の出方向を延長すると宗像大社辺津宮(市杵島姫神)の真上を通る。更にその先には宗像三女神降臨伝説の六ヶ岳(339m)がある。関連性について調べる必要がある。ワニ繋がりか・・・
 和多都美神社本殿裏の森に豊玉姫命の御陵があるが、そこは斎場跡の磐座で、御陵は「仁位の高山」にあるとも云う。仁位の高山は神社後方の「烏帽子岳(176m)」か。
 仁位の地名由来は、真珠の産地だったから「瓊(に、たま)」→仁位(にい)となったようで、今でも仁位では真珠の養殖が行われている。


 名前がよく似た山に新高山(にいたかやま)がある。1941年12月2日に海軍連合艦隊司令部から空母機動部隊(空母6隻)に対して出された電文は「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」であったが、このニイタカヤマは台湾の新高山(現在名は玉山、3,952m)であった。当時の日本の最高峰であったので新高山と名付けられた。

 海神・豊玉彦尊が仁位に宮殿(竜宮)を造ったと云う。この宮殿が「海宮(わたつみのみや)」で、彦火火出見尊の歌にある「鴨着く島」である。
 海宮が和多都美神社になり、拝殿前の海中の三柱鳥居の中に磯良恵比須(いそらえびす)のご神体岩が鎮まっており、干潮時に姿を現す。

 「いそら」と云う名前からイスラエルとの繋がりを主張する説もあるが、磯良は安曇氏の祖神の安曇磯良(あづみのいそら)で、安曇磯良丸、磯武良(いそたけら)などとも云い、海人系神社で祀られている。 
 関西では茨木市の磯良神社に磯良大神として祀られている。2013年1月10日投稿の「今城塚古墳・太田茶臼山古墳」の中に(疣水)磯良神社として投稿しているのでご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-05-26 18:05

杵築神社(きづきじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市夢前町(ゆめさきちょう)菅生澗(すごうだに)594-2
神社の隣の「すごう保育園」を目指して行く。

祭神 大国主神、野見宿弥、菅原道真。
創建 嘉祥3年(西暦850年)

 古くは多氣明神と云われたので、今は多氣宮(竹の宮、竹宮さん)とも呼ばれる。
 当社は300m東の田園地に鎮座していたが、大正3年(1914年)に山麓の現在地に遷座した。
  赤のアイコンが杵築神社、黄が伊和神社、青が廣峯神社。


 当社は12km南東に鎮座の廣峯神社(姫路市広嶺山、ひろみねやま)と関係が深いようだ。

 杵築神社の由緒によると、この地は菅原氏の所領だったことと、菅原氏の先祖が出雲大社(杵築大社、出雲国一宮)に仕えていたことで、大国主神及び菅原氏祖神の野見宿弥と菅原道真の三柱の神を祀った。

 また、飾磨郡誌によると、大国主命が勢力拡大のためこの地に一泊し、後年一社を創建、その偉業を追慕し「多氣の宮」(雄大敢為の意)と称した。
 当社の28km北西に鎮座する播磨国一宮の伊和神社の祭神が伊和大神で、播磨国風土記によると、伊和大神は大己貴命(大国主命)と同神で、出雲国からやって来たとある。
 私見ですが、この伊和大神が菅生澗にやって来て勢力を拡大し、子孫が多氣明神を祀ったと考えています。更に伊和神社の鎮座地が兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407。この「すぎょうめ」の地名が菅生澗の「すごう」になったのではないかと考えています。
 播磨国風土記によると、菅生澗の地名由来は菅(すげ)がたくさん生えていたからと云う。山の谷間の真ん中を菅生川が流れている。

 当社の祭神が相撲の神の野見宿弥であるので、秋祭りでは、村対抗の相撲大会が行われる。拝殿の前に土俵があり、青いシートで覆われている。
 当社は昔、異相撲(ことすもう、喧嘩相撲)と云う荒い相撲を行い、「多氣の宮の喧嘩相撲」として有名であった。昭和初期までは遠方からも地方力士が参加して盛大に行われ、当社は別名を「相撲社」とも呼ばれていた。

  石の鳥居
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  拝殿、左手前に土俵があり、青いシートで覆われている。
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 拝殿内の古い神額には「山王権現 牛頭天皇」とあるが、神仏習合時の名残で、廣峯神社との繋がりか。明治元年に神仏分離令が出たが、各地で神仏習合の名残を見ることができる。
 但し、鹿児島県(島津藩)の廃仏毀釈は徹底していたらしい。
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   本殿
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# by enki-eden | 2018-05-18 11:27

志方八幡神社(しかたはちまんじんじゃ、加古川市)

播磨三社八幡の一つ、志方の八幡さん。 車を境内に停められます。
兵庫県加古川市志方町志方町(しかたちょう しかたまち)301-2  電079-452-0052

祭神 応神天皇、神宮皇后、玉依比売命。
厄払い、安産、交通安全。 能楽が盛ん。

 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征(363年)の途中、当地の宮山に登り、多くの鹿が群れているのを見て、この地を「鹿田」と名付けた。後に志方と表示されるようになった。

 黒田官兵衛(1546年-1604年)の正室・光(てる、1553年-1627年)の実家櫛橋氏は志方城の城主であったので、志方町は「光姫の里」と呼ばれる。



創建
 1111年、宮谷で妙見大明神として創祀され、1492年に志方城主の櫛橋氏が城の1km東北(鬼門の方角)にある現在地の宮山に遷し、石清水八幡宮から八幡神を勧請し、志方城の守り神とした。この宮山には多くの古墳があったが、現在では5基が残っている。
 櫛橋氏は藤原氏の末裔で、代々赤松氏の家臣だったが、1492年に志方城を築いた。城跡は志方小学校になっている。
  
   石の鳥居
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   宮山稲荷神社
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   随神門
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   割拝殿
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   幣殿と本殿
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   えびす神社
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  境内には、この他、大地主神拝所、皇大神宮遥拝所、日読社(天照皇大神)、
 月読社(月読命)、市杵嶋姫社(弁天さん)が鎮座している。

   社務所主屋と門は登録有形文化財
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 能楽堂は伊勢神宮宇治橋の古木を拝領して再建された。10月の例大祭(秋祭り)における御旅所神幸式では地元の児童による「胡蝶の舞」が奉納される。
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 昔、境内に能満寺があった名残で、鐘楼が残っている。
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# by enki-eden | 2018-05-11 09:23

神吉八幡神社(かんきはちまんじんじゃ、加古川市)

 兵庫県加古川市西神吉町宮前979  電079-431-2130
 鳥居横にも車を停められるが、左手奥に参拝者用の駐車場があります。
 妙見大明神とも呼ばれる。

 祭神 誉田別尊(15代応神天皇、363年-403年)

 西神吉町大国(おおぐに)が発祥の地で、旧地は下の宮(御旅所)となっている。
 赤が神吉八幡神社、黄が御旅所、青が神吉城跡(東神吉町の常楽寺が神吉城本丸跡)


創建 
 1396年、神火(隕石か?)が天下原(あまがはら、加古川市東神吉町天下原)に落ちた。村人は八幡神の化身に違いないと考え、近くの大国に八幡大神を祀って「神吉の庄」の氏神にした。

 当社は1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で焼き討ちにあい、1468年に領主の神出元盛が宮山(聖武天皇の行宮、標高90m)に遷座・再建した。元の大国村には御旅所が再建され、下の宮となった。
 嘉吉の乱では播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(1381年-1441年)が6代将軍足利義教(1394年-1441年)を暗殺し、幕府討伐軍に敗れた。

 南北朝時代(1336年-1392年)の神出城主・神出範次は赤松氏の系統で、子の元頼に神吉庄を与えたので元頼は神吉元頼と名乗った。神吉元頼は神吉城を築城、代々が神吉城主となった。
 神吉氏は三木城の別所氏と繋がっていたので、1578年に織田信長(1534年-1582年)と別所長治(ながはる、1558年-1580年)が争った時に、神吉城は志方城と共に羽柴秀吉(1537年-1598年)に攻撃され、落城した。

 当社は1633年にも落雷で全焼したので、1683年に再建した。

   石の鳥居
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   随神門
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 神吉頼経(かんき よりつね、1543年-1570年)築造の石垣が一昨年の9月に
改修された。
 3段目の石垣に積まれた石に銘文があり、古いので見えにくいが看板には、
 「この石垣は、天文年中(16世紀中頃)に4代目神吉城主の中務少輔・神吉頼経公の
所築で、後世に願主の名が失われることを恐れ、ここに銘文を記す。」とある。
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   拝殿・幣殿・本殿
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  境内から3.3km西に高御座山が見える。(2017年9月6日投稿)
  いつもははっきり見える山々も、この日は春霞でぼんやり。
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 境内社は、天照皇大神宮(天照大神)、大年神社(大年神)、愛宕神社(武甕槌命)、
 大歳神社(大歳神)、稲荷神社、八坂神社(素戔嗚命)がある。

 秋祭りは大変な賑わいになるようですが、私が子どもの頃の当地では天狗の面をかぶり、
長い棒を持って暴れる「アカ」と云うものが怖かった記憶が今でも残っています。
 今から思えば猿田彦らしいですが、猿田彦であれば老人の姿で矛を持っているが・・・
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©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-05-03 09:32

御崎(みさき)厄除八幡神社(神戸市兵庫区)

旧・八部郡御崎村に鎮座する「御崎の厄神さん」。
兵庫県神戸市兵庫区御崎本町1-1-49   078-651-3298
祭神 神功皇后、
   応神天皇、
   姫大神(未詳だが、宗像三女神か)。

 創建 9世紀半ば。
 56代清和天皇の貞観年中(859年-876年)に山城国男山(京都府八幡市)に豊前国宇佐神宮より勧請し、石清水八幡宮(国宝)が創建された。   
 寛文8年(1668年)に石清水八幡宮公文所より当神社に下附された金幣に、石清水八幡宮と御崎厄除八幡宮は同時代(860年頃)の創建であると記されている。
 昭和20年の神戸大空襲により社殿焼失、昭和31年に現状に復興する。



 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の帰途(363年)、この地に滞在した。その時に村人が神功皇后の神馬に兵庫の津(兵庫港)で取れる海草を秣(まぐさ)として献上した。
 当神社は石清水八幡宮と古くから関係があり、公文所御鍵預かり役に任じられ、毎年春秋の大祭には男山へ鍵を持って行き奉仕し、御崎の神馬秣を奉っていたと神社古文書に記されている。

   石の鳥居と社号標
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   南向きの拝殿と豊賀稲荷神社(宇賀魂命)
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 当社の北を流れる新川運河に清盛橋が架かる。欄干には、平家に関わるレリーフ彫刻が施されている。
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 14代仲哀天皇(313年頃-362年)と神功皇后(321年-389年)の皇子が15代応神天皇(363年-403年)となった。
 応神天皇陵(2013年2月21日投稿)は大阪府羽曳野市誉田6丁目にある。神功皇后陵(2013年4月8日投稿)は奈良市山陵町にある。
 5年前の投稿で、その後に年代を修正しており、現在記している年代とは違いがあります。
©2012 Innami Kanki

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# by enki-eden | 2018-04-27 10:07

兵庫住吉神社(神戸市兵庫区)

兵庫の住吉さん
兵庫県神戸市兵庫区切戸町(きれとちょう)1-3  電078-671-4067
祭神 住吉四柱大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯比売命)。

 神社の説明によると、
 『兵庫の津は風浪を避ける場所がなく、地元では難儀をしていた。明治10年に新川運河が完成、船の通運が安全になったので、地元住民の熱望により、海の守護神である住吉大神を浪速の住吉大社より勧請、明治11年6月3日に創祀した。
 昭和20年の空襲により社殿は羅災したが、昭和39年に復興建立した。』



   石の鳥居と境内
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 手前から、清盛塚(1286年造立の高さ8.5mの十三重塔、墳墓ではなく供養塔)、
 平清盛(1118年-1181年)の銅像(柳原義達の作)、
 琵琶塚(平経正の墓、琵琶の名手で1184年没)。
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  東向きの拝殿、桜が咲き始めた(3月24日)。
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  橋本稲荷神社(宇賀魂大神)
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 神社の東を流れる新川運河(兵庫運河の一部)に架かる大輪田橋、後方の山は六甲山系。
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  大輪田橋と大輪田水門
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 平清盛は大輪田泊(おおわだのとまり、兵庫港)を使用して大陸の南宋(1127年-1279年)と貿易をしていた。そして、1180年(治承4年、81代安徳天皇、高倉上皇の時代)に都を京都から摂津国福原(神戸市)に移したが、この遷都は半年で頓挫した。

 「平氏にあらずんば、人にあらず」と云うほど栄華を誇った平氏(平家)も、その独裁ぶりに反発した勢力が各地に台頭し、やがて源氏の挙兵に繋がっていく。
 1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家が敗北、源頼朝(1147年-1199年)により鎌倉幕府が成立する。

 当神社の西向かいに時宗(じしゅう)の真光寺(しんこうじ)がある。宗祖は一遍上人(いっぺんしょうにん、1239年-1289年)で、念仏勧進の全国遊行(ゆぎょう)の途中にこの地に立ち寄り、真光寺の観音堂で入寂した。境内に一遍上人御廟所があり、兵庫県重要文化財になっている。
 観音堂の東に熊野権現社(紀州熊野坐大神)が鎮座、時宗は熊野権現を守護神として尊祟している。神仏習合時の名残か。
   一遍上人御廟所
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# by enki-eden | 2018-04-19 09:39

小野八幡神社(おのはちまんじんじゃ、神戸市中央区)

兵庫県神戸市中央区八幡通(はちまんどおり)4丁目1-37  電078-221-5414
都会のビルの真ん中に鎮座の厄神さん・八幡さん。 交通安全厄除け祈願。
祭神  応神天皇(15代)
創建  887年(平安時代、58代光孝天皇の仁和3年)
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 当社宮司の新渡戸素(にとべ もとし)氏は親近感のある人です。新渡戸稲造(1862年—1933年)のご親戚だそうです。
 新渡戸宮司の次女である新渡戸涼恵(すずえ)さんは当社の権禰宜で、国内外で活躍する歌手でもあります。インターネットで「涼恵」を検索するとたくさんありますよ。
 
 当社は戦前まで大丸神戸店の北に鎮座していたが、源平合戦(1177年-1185年)の後、戦死した河原兄弟の功績に報いるために源頼朝(1147年-1199年)が建立した報恩寺の鎮守の神となった。
 太平洋戦争後、当社は現在地に遷座した。現在、大丸神戸店の北には三宮神社が鎮座しているが、三宮神社にも河原霊社が祀られている。



   鳥居と拝殿、後方の高いビルは神戸市役所。
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   本殿
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   手水舎、後方が社務所。
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   拝殿右に金刀比羅神社(金刀比羅大権現)
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   拝殿左に巳神社(白龍大明神)と白玉国高稲荷神社
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 当社は1995年の阪神淡路大震災で被害を受け23年経ったが、社殿を建て替える予定。境内に19階建てのマンションも建てる予定になっており、社務所はその1階と2階に入る。
 鳥居左に、本殿の竣工は今年10月の予定と掲示板が出ている。
     ***
 今年のヒノキ花粉の飛散量は昨年の400倍もあるらしいです。私は50年前から花粉症で、今月は特に厳しいです。今月の大量のヒノキ花粉で初めて花粉症になった人もいます。5月中頃までは注意が怠れません。
 ©2012  Innami Kanki

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# by enki-eden | 2018-04-11 08:44

月神命(つきたまのみこと、天月神命)

 壱岐県主等祖(いきのあがたぬしたちのおや)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、
 月読大神(つきよみのおおかみ)。

 月神命は長崎県壱岐市の月讀神社(つきよみじんじゃ)に祀られているが、日本書紀によると、23代顕宗天皇の3年(487年)春2月1日、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、命を受け任那(みまな)に使いした。壱岐に着いた時、月の神が人に憑いて『わが祖・高皇産霊尊は天地をお造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ。求めのままに献上すれば慶福が得られるだろう。』と云われた。
 阿閉臣事代は京に帰って天皇に詳しく申し上げると、山城国葛野(かどの)郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。壱岐の県主の祖の押見宿祢(おしみのすくね、忍見宿祢)がお祀りして仕えた。この社は現在、京都市西京区松尾大社の境外摂社の月読神社と考えられる。月読神社の禰宜は現在でも押見宿祢の子孫の松室氏が担っている。

 顕宗天皇の3年夏4月5日、日の神が憑いて阿閉臣事代に云われ、『倭の磐余の田を、わが祖・高皇産霊尊に奉れ』と。阿閉臣事代は天皇に奏上し、田14町を奉った。対馬の下県直(しもつあがたのあたい)が高皇産霊尊をお祀りし、仕えた。神社の旧名は目原坐高御魂神社(めはらにますたかみむすひじんじゃ)と云う。

 月の神は壱岐の天月神命(月読大神)、日の神は対馬の天日神命で、両神とも高皇産霊尊の子で、西暦185年頃の饒速日東遷に従っている。子孫は大和国や山城国に住んだ。
 日本書紀によると、高皇産霊尊の子は全部で1,500人以上もいると云う。私は150人から200人位ではないかと思いますがねぇ・・・

 日本書紀の伊弉諾命(西暦125年頃出生)の段では、月読命(月の神)は天照大神(日の神)と素戔嗚命と共に三貴子として伊弉諾命の子になっている。実子ではないが、婚姻や誓約(うけい)などによって親子の契りを結んだと考えられる。

 天照大神は女神なので、対馬の天日神命に神託を下す巫女(天日巫女)だったのか。高皇産霊尊と兄妹だったかもしれない。
 天照大神(比売大神、大日孁貴、おおひるめのむち)と素戔嗚命が誓約(うけい)をして宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵嶋姫)が生まれた。
 市杵嶋姫は天火明命の妻となり卑弥呼を産んだのではないか。図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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# by enki-eden | 2018-04-06 10:02

天造日女命(あまのつくりひめのみこと)

 先代旧事本紀の天神本紀に「饒速日命(165年頃出生)が185年頃に豊国の宇佐から大和国に東遷した時に、32人の従者と25部の物部軍団その他を従え、膨大な人数による大部隊で天降った。」とある。
 対馬・壱岐の豪族、遠賀川周辺部族、筑後川周辺部族、海部氏・尾張氏・阿曇氏、高皇産霊の子など多くの部族が饒速日東遷に従った。

 この東遷に従った人々の中に、綿積神の後裔で阿曇連等(あづみのむらじたち)の祖である天造日女命もいた。天造日女の別の読み方は「あめのみやつこひめ」があり、卑弥呼のことであると云う説がある。

 天造日女とよく似た名前に天道日女(あめのみちひめ、対馬の天日神の娘)があり、天道日女は天火明(彦火火出見、140年頃出生)の妻となり、天香語山(尾張連の祖)を生んでいる。
 天日神は対馬県主等の祖で、天造日女と共に饒速日東遷に従って大和国にやって来た。天造日女は天道日女のことかもしれない。西暦160年頃の出生である。
 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 海部氏の勘注系図には天火明命の6世孫建田勢命の妹・宇那比姫命が記されている。建田勢命は7代孝霊天皇に仕えており、西暦230年頃の出生である。妹の宇那比姫命もその頃の出生であろう。
 勘注系図ではこの宇那比姫命の別名を天造日女命、大倭姫、竹野姫、大海靈姫命、日女命としている。
 阿曇連等の祖である天造日女命と同じ名前だが、時代が違う。宇那比姫命を卑弥呼(179年-247年)だと云う説もあるが、これも時代が違う。臺與であれば宇那比姫命とほぼ同じ時代になるが・・・
 同じ世代でも、臺與(235年頃-295年頃)は筑紫の生まれ、宇那比姫は大和か紀伊の生まれなので、これも別人となる。

 大陸では魏が265年に滅亡したので、倭の女王・臺與は266年に晋に朝貢した。しかし、大陸の戦乱と北方異民族の侵入により、倭国(北部九州)は大陸と交易ができなくなり、大陸に近い筑紫も不安定になったため、私見ですが臺與は270年頃に大和国に東遷してきたと見ています。そして大和政権の系譜に入った。
 臺與はミマキイリヒコを連れて東遷、10代崇神天皇(251年-301年)として全国制覇を成し遂げさせた。
 日本書紀には臺與は倭迹迹日百襲姫として記されたかもしれず、箸墓古墳に埋葬された。海部氏は臺與を海部氏出身の宇那比姫と記したか。
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# by enki-eden | 2018-03-29 00:07

天日神命(あめのひみたまのみこと)

 天日神命は長崎県対馬市美津島町(みつしままち)小船越(こふなこし)の阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)に祀られており、対馬県主(あがたぬし)等の祖。
 神仏習合の時代には照日権現と称し、オヒデリさんと呼ばれていた。



 天日神命は別名を天照魂命(あまてるみたまのみこと)と云い、高御魂尊(たかみむすびのみこと)の子孫だと云う。また、名前が似ていることで、天照国照彦火明命(尾張氏、海部氏の祖)と同一とも云う。
 火明命の別名が天照御魂神であるので、天日神命(天照魂命)とそっくりの名前である。しかも火明命の妃は佐手依姫と天道日女命でどちらも対馬の出身である。
 それでも、火明命と天日神命は別神かもしれない。図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 先代旧事本紀の天神本紀によると、天日神命(あまのひのかみのみこと)は対馬県主(つしまのあがたぬし)等の祖と記され、饒速日東遷(私見ですが西暦185年頃)に従っている。
 天日神命の娘は天道日女命で、天火明命(彦火火出見)の妃となり、天香語山命を生んでいる。これを事実とすれば、天日神命は天火明命の義父になり、関係は深いが別神となる。

 先代旧事本紀の国造本紀によると、神武朝に高魂尊の五世孫の建弥己己命(たけみここのみこと)を津嶋県直(つしまのあがたのあたい)にしたと記されている。
 対馬市厳原町豆酘字龍良山の高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)の祭神は高皇産霊尊で、高皇産霊尊の子孫である建弥己己命(たけみここのみこと)は、その南方の与良に天日神命を祀った。
 その建弥己己命が大和国橿原には高御魂神社を創建した。旧名は目原坐高御魂神社(めはらにますたかみむすひじんじゃ)と考えられており、現在の天満神社(橿原市太田市町、おだいちちょう)かもしれないが、よく分からない。

 対馬県主以外には、新撰姓氏録の「摂津国 神別 天神 津島朝臣 津速魂命三世孫天兒屋根命之後也」があり、「椋垣朝臣」、「荒城朝臣」、「中臣東連」、「神奴連」、「中臣藍連」、「中臣太田連」、「生田首」なども同じとある。
 また、「河内国 神別 天神 菅生朝臣」や「和泉国 神別 天神 宮處朝臣」なども同じとなっている。
 対馬出身の対馬氏が天児屋根命(中臣連等の祖)の後裔であると云うのは、朝廷での卜部としての対馬氏の職種が中臣氏の配下であったことと関係していると考えられる。
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# by enki-eden | 2018-03-21 09:45

三国志とタウポ火山の噴火

 3月7日放送のNHK番組「三国志の真相」で、黄巾の乱(西暦184年-205年)は暴徒の乱とされているが、地球規模の異常気象による飢餓が原因なのではないかと解説していた。
 その異常気象の原因は、ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火により、空を覆う噴煙(噴煙高度50km)が地球規模に拡大したからと云う。

 紀元前206年から400年以上続いた漢(前漢と後漢)は、飢饉による反乱と北方民族の侵入で衰退し、魏・蜀・呉の三国時代に入っていく。

 また、日本地理学会もこのタウポ火山の大噴火による冷夏凶作と倭国乱の関りについて発表している。その一部を抜粋すると、
 『中国史書によれば2世紀末に倭国に「乱」があり、それを契機に卑弥呼が国王に共立されたという。結論を先にすると「倭国乱」は冷夏による2年続きの飢饉で起きた社会不安と食を求める民衆の流浪が実態であり、戦乱ではない。
 冷夏の原因はタウポ火山の大噴火である。非農業人口が多く稲作依存率が高い地方(弥生時代の先進地域、すなわち九州北部)ほど冷夏飢饉の影響は深刻だったはずである。
 クラカタウ火山大噴火による28代宣化天皇元年(536年)の飢饉の際にも、各地の屯倉の米を那の津(博多港)の倉庫に集めるよう、勅令が出されている。』

 ニュージーランドではタウポ火山の噴火が数万年前から続いており、付近では現在も火山活動や群発地震が頻発している。西暦181年に起きた史上最大規模の巨大噴火によって陥没したカルデラは、現在タウポ湖になっている。タウポ湖の表面積は616㎢、琵琶湖が670㎢です。

 私見ですが、西暦181年は初代神武天皇が生まれた年です。タウポ火山帯の大噴火によって異常気象が発生、大気汚染による人々の健康被害や死亡、数年続く農産物の不作・飢餓などにより、日本列島だけでなく広範囲に大混乱が起きたと考えられる。
 饒速日が西暦185年頃に新天地を求めて宇佐から大和国へ大部隊で東遷、纒向(まきむく)を都にした。神武天皇も204年に遠賀川を出発、211年に大和国橿原で即位。
 その後、270年頃に倭国の女王臺與も大和国へ東遷、同行したミマキイリヒコが10代崇神天皇として全国を制覇し、弥生時代から古墳時代へ入っていく。
 巨大火山の噴火による異常気象で世界が大きく変化することになった。

 宣化天皇時代の日本列島に飢饉をもたらしたインドネシアのクラカタウ火山は西暦535年に噴火し、ジャワ島西部のカラタン文明を滅ぼし、世界各地に異常気象をもたらした。
 この異常気象を発端として、ヨーロッパではゴート戦争(535年-554年)、スラブ人の南下(542年)、黒死病(ペスト、543年)の蔓延、ペルシャとのラジカ戦争(541年-562年)、ゲルマン人の南下などが起きている。
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# by enki-eden | 2018-03-15 10:17

ひょうごの遺跡(兵庫県立考古博物館の展示)

 兵庫県立考古博物館の調査研究10年間(2009年~2018年)の集大成!
 展示期間は1月20日から3月25日までです。兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1
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   紅梅が満開でした! (3月2日)
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 姫路市南西部の沖積低地に広がる「池ノ下遺跡」出土の縄文土器で、約4,000年前。
 「磨消縄文(すりけしじょうもん)」の深鉢で、上部全周に縄目を付けた後、棒で文様を描き、文様外側の縄目をなで消した。
 この文様は瀬戸内を中心に、西は九州東部から東は北陸・東海地方まで広範囲に普及していた。岡山県倉敷市の中津貝塚で最初に発見されたので、中津式土器と呼ばれる。
 縄文時代は、14,000年前から2,500年前まで、ほぼ同じ民族の縄文人が列島全体に交易し、均等な文化を共有していた。
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 加古川市の坂元遺跡(6世紀)から出土した石見型盾形(いわみがたたてがた)埴輪。
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   坂元遺跡出土の武人埴輪
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 洲本市の下加茂遺跡の墓から出土した精巧な朱塗りの杓子(しゃくし)。
 漆は使わず、朱を塗り込めている。
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 但馬地域最大の前方後円墳(134.5m、5世紀)である池田古墳出土の水鳥形埴輪。古墳の形や埴輪などは大和・河内の王墓の様式を取り入れている。
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 奈良時代、播磨では須恵器の製造も盛んで、良質なものは税として平城京に納めていた。
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 淡路島南端の南あわじ市阿万(あま)東町の九蔵遺跡(ぐぞういせき)から銀銭「和同開珎」が1枚出土した。全国では48枚目。
 淡路島は古代から朝廷に食材を献上する「御食国(みけつくに)」であった。魚介類採取だけではなく製塩も海人族の重要な生業であった。銀銭の出土は朝廷との強いつながりが伺える。
 製塩土器と銀銭
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 日本書紀の「国生み」によると、『伊弉諾尊と伊弉諾尊が天の浮橋の上に立って、「この底の一番下に国がないはずはない」と云われ、玉で飾った矛を指し下して、下の方を探られた。
 そこに青海原が見つかり、その矛の先から滴った海水が凝り固まって一つの島になった。これを名付けておのころ島と云う。
 二柱の神はそこでこの島にお降りになって、夫婦の行為を行って国土を生もうとされた。』とある。
 この話は「国造り、国生み」を夫婦の行為に例えて表現していると私は考えているが、考古博物館の説明では、この有名な国生み神話は、土器を用いた塩作りの様子を反映したものではないかと云っている。弥生時代には、海水を素焼きの土器に入れ、それを炉で煮詰めて塩を作った。
 沸騰して泡立った海水を静める冷却具として細長い石棒を土器に入れるとうまくいった。その様子を淡路島の海人族が神話として伝えたかもしれないと云う。
 同じように、記紀では踏鞴製鉄を出産に例えて表現されている。例えば、伊弉冉命が火の神を生むときに体を焼かれて亡くなった、木花開耶姫が瓊瓊杵尊の子を生むときに「天孫の子ならば火も損なうことができないでしょう」と云って火をつけて室を焼いた、など。

 この他多くの出土品が展示されており、楽しい一日を過ごすことができますよ!
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# by enki-eden | 2018-03-10 19:38

近津神社(ちかつじんじゃ、小野市)

兵庫県小野市粟生町(あおちょう)1489  無料駐車場あります。
祭神 天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、
   天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
   天太玉命(あめのふとたまのみこと)。

創建 24代仁賢天皇(449年-498年)の8年(495年)
   山に光を放つ大木があり、その麓に社殿を建てたと云う。

豊臣秀吉(1537年-1598年)が三木城を攻撃する前に当社に戦勝祈願し、戦勝後に社領を寄進した。



 天津彦火瓊瓊杵尊は大山祇神(おおやまづみのかみ)の娘の木花開耶姫(このはなさくやひめ)を妻とし、海幸彦、山幸彦などが生まれた。
 西暦201年頃の葦原の中つ国平定の後、天照大神の命令で瓊瓊杵尊は高天原から降臨し、葦原の中つ国を統治した。(天孫降臨)

 天児屋根命(中臣氏の祖)は天照大神の岩戸隠れの時、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに、天太玉命(高皇産霊神の子、忌部氏の祖)とともに鏡を差し出した。

 一の鳥居と二の鳥居、奥の小さい二の鳥居(明神鳥居)は兵庫県指定重要文化財。天正20年(1592年)造立で、古い形式を残している。凝灰岩製で高さ2.7m、柱真々1.8m、柱がエンタシスになっている。
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  拝殿、灯篭の宝珠(玉)の形が矛形になっているのは北部播磨(賀茂郡)に多い。
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   本殿
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   豊受大神宮
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   愛宕神社
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   右が秋葉神社、左が大歳神社。
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# by enki-eden | 2018-03-05 10:50

赤穂市有年(うね)地区の古墳

 有年地区では昭和43年度に山林部の文化財分布調査が行われ、古墳77基が見つかっている。その後、赤穂市教育委員会が5年前から行っている埋蔵文化財分布調査によると、有年原・有年牟礼地区の山林部に156基の古墳があると云う。
 赤穂市教育委員会は「播磨地域でも有数の古墳密集地区である」として、報告書を刊行した。



 そして、これまで円墳だと考えられていた放亀山1号墳(赤穂市有年楢原)が前方後円墳であることが分かった。赤穂市内で前方後円墳が確認されるのは初めて。
 築造は古墳時代前期前半の4世紀初めと見られているので、古墳時代が始まったと同時に当地で前方後円墳が築かれたことになる。
 大和国と密接に繋がった当地の首長の古墳だと考えられる。或いは大和国から派遣されたのか。

 当古墳は「くびれ部」がはっきりと確認できたので前方後円墳と確定した。全長38m、後円部径23m、高さ4.4m、前方部長さ18m、高さ2m。前方部、後円部共2段築成で葺石も確認されている。

 有年楢原地区は千種川の西岸に沿った山にあり、古代の踏鞴製鉄が盛んであったと考えられる。この地区には須賀神社が3社も鎮座、素戔嗚尊を祀っている。
 前方後円墳の被葬者は踏鞴製鉄に携わっていたのであろう。千種川の製鉄用砂鉄は有名です。2013年7月2日投稿の「播磨国と大和国の製鉄」をご参照ください。

 その後、7世紀になると秦河勝が赤穂にやって来て、千種川の開発を始める。2012年12月29日投稿の「大避神社」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-03-02 11:40

磯部神社(いそべじんじゃ、加西市)

礒邊大明神、播磨国賀茂郡(賀毛郡)鎮座。
兵庫県加西市中富町1245

祭神  鴨玉依姫神和魂(かもたまよりひめのかみのにぎみたま)、
    市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、
    大歳神(おおとしのかみ)。

明治時代(1911年)に大歳神社を合祀した。
当社は日吉神社の宮司が兼務している。



 鴨玉依姫は賀茂建角身命(175年頃出生)と神伊可古夜比売(丹波)の娘。大山咋神(おおやまくいのかみ、185年頃出生)との間に賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)を生んだ。
 鴨玉依姫が京都の「石川の瀬見の小川」で川遊びをしていると、川上から大山咋神が丹塗矢に化身して流れ下って来た。この矢を床の周りに置いて寝た所、鴨玉依姫は妊娠し、男の子(賀茂別雷神)を産んだ。
 鴨玉依姫を祀る神社は多く、賀茂御祖神社、賀茂別雷神社、日吉大社などに祀られている。

 市杵島姫(160年頃出生)は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と比売大神(天照大神①)の誓約により生まれ、宗像三女神の一柱になっている。市杵島姫は卑弥呼(179年-247年、天照大神②)の母かもしれない。
 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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   石の鳥居
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   拝殿
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   本殿、女神であるが千木と鰹木は男神仕様になっている。
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 当社の2.5km南南西に玉丘古墳がある。(2015年4月3日投稿)

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# by enki-eden | 2018-02-27 14:32

石部神社(いそべじんじゃ、加西市上野町)

兵庫県加西市上野町71  電0790-44-0046  無料駐車場あります。
播磨国賀茂郡(賀毛郡)鎮座、賀茂郡は平安末期に加東郡と加西郡に分かれた。

祭神 市杵島姫命、
   田心姫命、
   湍津姫命。
御神徳は海上安全、水難除け、所願成就。



 717年(養老元年)、44代元正天皇(680年-748年、女帝)の皇女が安芸国一宮である宮島の厳島神社に参詣、海路で帰還しようとしたが海が荒れ、遭難して播州室津に上陸した後、薨去した。
 皇女が「我が守護神は市杵島姫命なり、これを当地の産土神と崇め奉れ」と遺言した。それで、719年(養老3年)に安芸国宮島から三女神を勧請した。

 当社の裏山は三津山(宮山)と呼ばれ、皇女を埋葬した。149mの山頂には皇塚古墳と云う円墳(20m)がある。円墳の築造時期は5世紀頃と見られるので時代が合わない。
 そして、元正天皇の結婚歴は記録がないので、皇女はいないはずであるが、例えば長屋王(684年-729年)との間に若い頃の隠し子がいたのかもしれない。元正天皇の妹・吉備内親王(686年頃-729年)は長屋王の妃になっている。
 2014年11月9日投稿の長屋王と吉備内親王をご参照ください。

 当地の在田郷は播州赤穂の浅野家の領地であったので、浅野家は当社を篤く信仰していた。門杉は樹齢1300年の巨木で、当社創建時からのもの。

   入口左右に門杉、根回り5m、高さ30m。鎮座の719年に記念植樹された。
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   絵馬殿と拝殿、裏山の三津山頂上に皇塚古墳がある。
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   本殿、春日造り。南西向きで千木と鰹木は男神仕様となっている。
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   八坂社、神明社、道祖社。
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   少名彦社と稲荷社
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   鐘楼
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# by enki-eden | 2018-02-20 09:53

日吉神社(加西市池上町)

富家(ふけ)の大宮
兵庫県加西市池上町7  電0790-45-1616
車は南側から入るか、西の裏鳥居の横に停める。

祭神 大山咋大神和魂(おおやまくいのおおかみのにぎみたま)、
   大己貴大神(おおなむちのおおかみ、大国主神・大物主神)、
   田心姫大神(たごりひめのおおかみ)、
   白山比売大神(しろやまひめのおおかみ)、
   大山咋大神荒魂(おおやまくいのおおかみのあらみたま)、
   鴨玉依姫大神和魂(かもたまよりひめのおおかみのにぎみたま)、
   鴨玉依姫大神荒魂(かもたまよりひめのおおかみのあらみたま)。

御神徳は五穀豊穣、国家鎮護、開運、家内安全、鬼門除け、安産。

 赤のアイコンが日吉神社、黄が奥宮の鎌倉山。


 3.5km北にある奥宮の鎮座する鎌倉山(453m)を御神体山として拝してきたが、その大神様を当地の里にお迎えし、830年に近江国日吉大社から勧請された。
 鎌倉山は加西市の北部、河内町(こうちちょう)にあり、周辺は旧行者道になっており、古くから賀茂郡(加西市、加東市、小野市)の神々の古里として崇敬されている。役行者(えんのぎょうじゃ、634年-706年)の影響で修験道の中心となったが、今は鎌倉山行者道ハイキングコースとなっている。

 日吉神社境内の六尺藤(5月)と紅葉(七五三の頃)が有名。宮司さんは周辺16神社の兼務をしておられる。
 日吉神社の神使いの神猿(まさる)は、「魔が去る」、「勝る」の意味があると云う。

   楼門
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   絵馬殿と拝殿
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   本殿、真東を向いている。
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   本殿前に神使いの「神猿(まさる)」、
   見ざる、聞かざる、言わざる。
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   愛宕社(火の神)
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 手前から皇大神宮社(天照大神、豊受大神)、
 針神社(2月8日に針供養)、
 赤山大明神(せきさんだいみょうじん、泰山府君か?)。
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 泰山府君は、日本では素戔嗚尊や大国主命と関係づけられ、陰陽家で祀られた。
天台宗の守護神で、延命・富貴の神として商人の信仰があつい。
 陰陽師の安倍晴明(921年-1005年)が「泰山府君祭」を得意とし、天皇などの健康長寿を祈祷していた。

  西の裏参道の鳥居、神使いのお猿さんが迎えてくれる。
  ここに車を停めました。
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# by enki-eden | 2018-02-15 09:29

八王子神社(加西市)

 兵庫県加西市田谷町(たやちょう)1265  電0790-45-0861  駐車場あります。
 祭神 八王子大神
     国狭槌命(くにさつちのみこと)(中央)、
     伊弉諾命(いざなぎのみこと)(右)、
     伊弉冉命(いざなみのみこと)(左)、
     大己貴命(おおなむちのみこと)(右端)、
     天津彦火瓊瓊杵命(あまつひこほのににぎのみこと)(左端)、
     木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)(明治43年に合祀)。

 五穀豊穣、安産守護。
 創建 1037年(69代後朱雀天皇、長暦元年)、鏡山に鎮座。正一位八王子権現。

 赤のアイコンが八王子神社、黄が大歳神社


 伝承によると長暦元年(1037年)、天変地異による疫病、害虫発生で多くの人が餓死した。村人が鏡ヶ原の南にある大歳神社で7日7夜の間、妖魔退散、五穀豊穣を祈願した。大歳神社は多いが、500m南に鎮座する大歳神社か?
 その満願の日、天より「われは八王子大神なり。鏡ヶ原に鎮まり妖魔を退け、五穀豊穣の地となさむ。」との声があり、疫病・害虫は治まった。
 それで、近江国日吉大社より八王子大神を勧請して祀るようになった。日吉大社については、2014年6月17日投稿の「日吉大社①」をご参照ください。

 八王子とは素戔嗚尊の御子である5男3女を云う場合が多いが、近江国日吉大社の奥宮のある牛尾山(八王子山、381m)に国狭槌尊など8人の王子が顕れたと云われ、八王子権現と呼ばれた。
 また、八王子山に降臨した山の神・大山咋神の初現の姿(荒魂)を初王子として祀ったのを、後に八王子と訛ったと云う説もある。

 日本書紀によると、神世7代の2代目が国狭槌尊(西暦20年頃出生)になっているが、古事記によると、大山津見神(おおやまづみのかみ、西暦135年頃出生)と野椎神(のづちのかみ)が国之狭土神(くにのさつちのかみ、西暦150年頃出生)を生んだとある。
 国狭槌尊と国之狭土神は時代が大きく違っているので、名前は似ているが別神か。但し、同じ奴国王の系統だと考えられるので、先祖の名を継いだのか。

   石の鳥居
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    参道
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   随神門
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   拝殿
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 本殿、1693年築造。当時の社領は10万平方メートル(3万坪)もあった。
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  東の末社、左が伊勢神社(天照皇大神、豊受大神)、
  右が猿田彦神社(猿田彦命)。
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 西の末社、愛宕・秋葉神社(句句廼馳命、火須曾理命、阿遇突知命)、
 御井神社(罔象神、みずはのめのかみ)、
 雪彦神社(せっぴこじんじゃ、國常立尊)。
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 背後の鏡山に6基の鏡山古墳群がある。直径10mの円墳で6世紀の築造。
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# by enki-eden | 2018-02-07 09:56

若杉山遺跡の辰砂採掘坑道

 徳島県阿南市水井町の若杉山遺跡で辰砂採掘の坑道が発見された。弥生時代後期から古墳時代初頭に採掘されていたので、卑弥呼(179年-247年)の時代にも採掘が盛んであった。また、饒速日(165年頃出生)や神武天皇(181年-248年)の東遷の時期にも重なる。


 坑道内部の高さは最大で90cmなので、採掘作業は「ほふく前進」だったでしょう。辰砂(しんしゃ)は丹(に)と呼ばれ、火山や硫黄鉱床近くに産出する。
 辰砂は硫化水銀で毒性が強い鉱物なので、採掘の際の粉塵で職人は体を損ない、早死にした。辰砂採掘、水銀精製を職とする家系は、息子には家業を継がせない。娘に婿を取って、その婿に作業させる。

 初代神武天皇は大和国に入る時、「飴(水銀朱)があれば武器を使わなくとも天下を平らげるだろう」と云った。それほど辰砂は高価なものであった。そして神武天皇は211年に橿原で即位した。

 2013年2月9日投稿の丹生都比売神社をご参照ください。
C 2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-02-01 22:40

天村雲命(あめのむらくものみこと)

 天五多底(あめのいたて)、射立神(いだてのかみ)とも云われるので、五十猛命(伊達神)と同一神だと云う説がある。どちらも素戔嗚系ではあるが、私は別神だと思う。
 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
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 先代旧事本紀は饒速日(165年頃出生、素戔嗚の子)と天火明(140年頃出生)を同一神と見ているので、天村雲を饒速日の孫と記している。
 私もこの記事を信じていた時期があるが、今では饒速日と天火明の生年も出自も別と考えている。古文書、系図、伝承は間違いが多いので注意が必要です。

 素戔嗚(140年頃-200年頃)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時、出てきた銅剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けた。天村雲命はこの剣の名前で呼ばれているので、天村雲命の名付け親は素戔嗚尊と考えられる。
 この剣は素戔嗚から天照大神(大日孁貴尊)に贈られ、日本武尊(やまとたけるのみこと)によって草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられ、皇室の三種の神器の一つになっている。草薙剣は熱田神宮(あつたじんぐう、名古屋市熱田区神宮1丁目1-1)に祀られている。

 天村雲(天牟良雲)は父の天香語山と共に、饒速日の東遷(185年頃)に従って、大和国にやって来た。天村雲の子孫は伊勢に移り、度会氏(わたらいし)となり、伊勢神宮外宮の神主を世襲した。
 天村雲神社が徳島県吉野川市山川町村雲133と山川町流32に二社鎮座している。

 天香語山は大和国から尾張国に行き尾張国の基礎を造り、越国まで行って開拓した。越後国一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ、やひこじんじゃ、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2)に祀られ、奥の宮に妃神の塾穂屋姫命(うましほやひめのみこと)と共に埋葬された。
 祭神の天香語山命(伊夜比古大神)は越後国開拓の祖神として信仰されており、神体山の弥彦山(634m)に奥の宮(神廟)がある。
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# by enki-eden | 2018-01-31 09:57

穂屋姫(ほやひめ)

 国宝の海部氏勘注系図によると、穂屋姫の父は海部氏の始祖・彦火明命で、母は佐手依姫、亦の名を市杵嶋姫、息津嶋姫、或いは日子郎女神(ひこいらつめのかみ)とある。
 先代旧事本紀の天孫本紀によると、天香語山命は異腹の妹の穂屋姫を妻として一男を生んだとある。この一男が天村雲命で亦の名を天五多底(あめのいたて)と云う。
 私見も交えて作った系図が次の図です。佐手依姫が市杵嶋姫であれば、穂屋姫は卑弥呼かもしれない。大日孁貴―市杵嶋姫(日子郎女神)―卑弥呼(日御子)と続いて、「日の神」を継承していったか。天火明命は対馬の天日神の娘・天道日女命を妻とした。
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 「伊根の舟屋」で知られる京都府与謝郡伊根町の東13kmに、舞鶴市の無人島、冠島(かんむりじま、雄島)がある。その北東2kmに沓島(くつじま、雌島)がある。二島は一対になっている。
 二島とも元伊勢・籠神社の「海の奥宮」になっており、冠島には天火明神が降臨し、沓島には妃神・日子郎女神(ひこいらつめのかみ、市杵嶋姫命)が降臨したとされる。
 日子郎女神の子が日子(日御子、卑弥呼)になったか。


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# by enki-eden | 2018-01-23 09:51

ベンガラ(弁柄、紅柄)

 酸化鉄の1つであるベンガラは、天然には赤鉄鉱として産出する酸化鉄であり、ベンガラの名はインドのベンガル地方で産出したことに由来する。オランダ語でBengala、英語ではRed Iron Oxide。
 このベンガラは赤色顔料で、人類が最初に使った赤色の無機顔料である。フランス南西部のラスコー洞窟やスペイン北部のアルタミラ洞窟での赤色壁画は約17,000年前に描かれた。

 日本では縄文時代に土器などに施した赤色彩色が、ベンガラを使用している。9,500年前の鹿児島県上野原遺跡の土器、6,000年前の福井県三方町の鳥浜遺跡の弁柄櫛、5,500年前の青森県三内丸山遺跡の土器、3,000年前の青森県亀ヶ岡遺跡の土器などにベンガラが使われている。
 福井県鳥浜遺跡の弁柄櫛は、素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)の妻となった奇稲田姫も同じような櫛を使っていたと考えられる。「福井県のホームページ」をご覧ください。

 素戔嗚は奇稲田姫を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変えて髪に刺し、ヤマタノオロチを退治した。実際には奇稲田姫を櫛に変えたのではなく、奇稲田姫の使っていたベンガラ塗りの櫛を借りて髪に刺し、奇稲田姫の霊力・魔力・呪力をもらったと考えられる。
 伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)の「黄泉の国」の段でも湯津爪櫛が出てくる。当時は男性も「みづら」に櫛を刺していた。

 古墳時代には、北部九州に多い装飾古墳でベンガラの赤い壁画が見られる。赤色は当時「魔除け」、「厄除け」、「再生(血の色)」などと信じられていた。
 奈良県高市郡明日香村の高松塚古墳(7世紀末)では、石室の内壁面に漆喰を塗り、その上に描かれた人物像には極彩色が用いられている。2種類の赤色が使い分けられており、女人像の赤い上衣はベンガラで、帯の赤は朱(水銀朱,HgS)で彩色されている。
 これらは、天然の鉱物からの無機顔料であったために、変色することなく現在まで鮮やかな色を維持している。

 日本では江戸時代にベンガル地方の顔料を輸入したので「べんがら」と名付けられた。京都ではベンガラ格子(紅柄格子、べにがらごうし)などの建材塗料にベンガラが使われた。耐候性、耐久性があり、落着いた色あいの特徴を活している。ベンガラは空気中で最も安定な酸化状態なので化学変化が起こりにくく、耐候性・耐久性に優れた顔料と言える。

 酸化鉄(Fe2O3)を多く含んだ土壌は黄色から赤褐色をしており、これを焼くと鮮やかな赤になる。日本では丹土(につち)と呼ばれ、古くから赤色顔料として使われた。
 江戸末期には緑礬(りょくばん、硫酸第一鉄の含水塩)を焼成して顔料用酸化鉄を作った。岡山県高梁市(たかはしし)成羽町(なりわちょう)吹屋(ふきや)のものが好まれ、「吹屋弁柄」は日本中に供給された。九谷焼、伊万里焼、有田焼などの赤絵にも使われた。神社の赤色塗装は、鮮やかな赤は鉛丹(四酸化三鉛、Pb3O4)の橙赤色で、少し茶色っぽい赤がベンガラである。

 現在では、湿式法によって高純度ベンガラが化学的に大量生産されている。合成酸化鉄赤は鉄の赤さびと同じで、硫酸鉄を高温で熱し、苛性ソーダで中和する。
 近代になって、軍艦などの船底塗料が大量に必要になり、生産の追いつかない吹屋弁柄は廃れていった。

 有機顔料(絵具)を使って描かれた赤色は、化学的には不安定で、時間が経つと共に変色・褪色していく。レオナルド・ダヴィンチ(1452年-1519年)の「モナリザ」の頬と唇は、絵具の赤色が約500年後の現在色褪せてしまっている。
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# by enki-eden | 2018-01-16 09:57

本えびす

明石市の稲爪神社の「本えびす」に行ってきました。
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# by enki-eden | 2018-01-10 12:10

岩岡神社(神戸市西区)

兵庫県神戸市西区岩岡町182   南の方から入ると境内に車を停められます。
明石郡岩岡村鎮座
祭神 素盞嗚尊(すさのおのみこと)、
   正建大神(松平若狭守直明公、まつだいらわかさのかみなおあきらこう)。



 1682年(天和2年)に神出神社から当地天ヶ岡に大岩を迎えて祀った。これが岩岡神社の前身である天ヶ岡神社の起こりと云う。
 神代の昔、素盞嗚尊(西暦140年頃出生)が当地に降臨したとの伝承があるので、1693年(元禄6年)に社殿を建立し、姫路の廣峯神社より牛頭天王(素盞嗚尊)を勧請した。
 素盞嗚尊は「五穀の守護神」で、五穀豊穣と当地の守護・発展に霊験は殊のほかあらたかである。

 1721年(享保6年)に、明石藩主で当地開拓の祖である松平直明公(1656年-1721年)が死去すると、当地の開拓民はその徳を慕い、「正建神霊」と書いた位牌を受け、天ヶ岡神社(当社の前身)に合祀した。その後、位牌を神出村の西光寺などに納めていたが、1851年(嘉永4年)に当社にお迎えし、正建大神(松平直明公)の大祭を行った。
 秋の大祭(10月10日)は威勢の良い「ふとん太鼓」などで大賑わいになる。 当社は氏子が当番で管理しており、明石市の柿本神社(人丸神社)の宮司が宮司職を兼務しているようだ。

    入口の石鳥居、参道は長い。
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 拝殿、西向きになっており、前に土俵がある。 春祭りでは相撲が奉納される。
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 幣殿と本殿、屋根瓦には素盞嗚尊の祇園木瓜紋と松平家の三つ葉葵紋がある。
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 「岩の神」、社務所の前に松の古木と共に一個の「れき岩」を祀ってある。
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 豊宮、「翁の面」で雨乞いをすると必ず雨が降ると云う。
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   豊宮の左に稲荷神社
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 松平直明は徳川家康の曾孫で、1678年に越前大野藩主となり、1682年に播磨明石藩主に転封となった。新田開発に力を入れ、兵学を重視した。墓所は明石市立天文科学館南の長寿院。
 松平直明公が岩岡一帯の開拓に尽くしたので、住民が正建大神として岩岡神社に合祀した。

 私事ですが、私の先祖は越前国大野藩の藩士でしたが、1682年に松平直明公が大野藩主から明石藩主に転封になったので、私の先祖も明石に移住し明石藩の藩士となりました。
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# by enki-eden | 2018-01-08 12:46

印南住吉神社(いんなみすみよしじんじゃ、加古郡稲美町)

兵庫県加古郡稲美町(いなみちょう)印南(いんなみ)1069   境内に車を停められます。
祭神 表筒男命(うわつつのおのみこと)、
   中筒男命(なかつつのおのみこと)、
   底筒男命(そこつつのおのみこと)、
   息長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。

 国安天満神社の宮司が兼務している。神社の南は灌漑用ため池の宮池がある。


 
 当地の開墾が始まり、1712年(正徳2年)に泉州住吉大神の分霊を勧請したとある。私見では、泉州(和泉国)ではなく、摂津国の住吉大社からの勧請だと考えていたが、当地の開墾にやって来た泉州堺の人が信仰していた住吉大神を祀ったのが始まりのようです。

 播磨国には住吉神社と大歳神社(大年神社)が多い。海人族の津守氏は住吉大社を本拠とし、各地に社領・荘園を持ち、造船用の木材確保をしていた。大歳神は降雨量の少ない瀬戸内海地方に灌漑用ため池や水路の築造を指導した。

   入口の鳥居
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   拝殿、西南西向きになっている。
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   幣殿と本殿
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   鹿島社、祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)か。
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   愛宕社(火伏せの神様)、立派な瓦。
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   鳥居の近くに印南行者堂。役行者(えんのぎょうじゃ、634年-706年)を祀る。
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# by enki-eden | 2018-01-02 00:05

おめでとうございます

あけましておめでとうございます!
                    2018年元旦

   新幹線から写す。
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# by enki-eden | 2018-01-01 00:03

国安天満神社(加古郡稲美町)

丘の宮
兵庫県加古郡稲美町国安(くにやす)538  電079-492-0741  無料駐車場あります。
祭神 天満大神(菅原道真公、学問の神)、
   大年大神(池大明神)、
   市杵島姫命(辯財天女)。
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 神社沿革
 白雉4年(653年)、王子権現として創立。 寛平5年(893年)、隣接する天満大池の池大明神が御旅所の現宮地に遷った。
 菅原道真公(845年-903年)が左遷で、901年に太宰府へ向かう途中に当地で休憩したと云う伝承から、後に京都北野天満宮から道真公を勧請した。
 1390年に当社南に隣接する「天満大池」の島に弁財天が祀られたので、当社にも弁財天と同一とされる市杵島姫命を祀った。
 元禄14年(1701年)、現状のような造営となった。
 
 当社南の「天満大池」の築造が675年頃と見られ、ため池の多い播磨国でも「最も古い大規模ため池」になっている。大きさも兵庫県で2番目に大きい。兵庫県で最も大きいのは4kmほど北にある「加古大池」となっている。
 ため池の数は兵庫県に38,000個以上あり、全国で一番多い。兵庫県の中で多いのは、淡路市で13,000個以上ある。
 灌漑用ため池や水路は2世紀後半に大年神の指導により開発され、降雨量の少ない瀬戸内海気候の地で大量にため池が築造されてきた。灌漑用水は農業用地の開墾・開拓に役立ち生産性が上がったので、播磨国には大歳神社(大年神社)が多く、当社にも池大明神として大年大神が祀られている。
 天満大池の北東1.5kmにも大年神社が鎮座している。

   南の鳥居
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   西の鳥居
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 拝殿、南南西向きになっている。梅紋と神牛は天満宮の象徴。
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 西の鳥居横に菅原道真公が京を去る時に詠んだ歌、
   東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
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 京の梅が道真公を慕って飛んで来たという「飛び梅」伝説がある。「太宰府天満宮の飛梅ちぎり」をご参照ください。

 手水舎が「縁結社」になっており、「鯉を愛で 意をいただき 縁むすぶ」とある。
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   社殿(拝殿、幣殿、本殿)
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 拝殿前に茄子(なす、為す)。 
 出羽国米澤藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん、1751年-1822年)の格言
   為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
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 上杉鷹山の家訓「伝国の辞」を読むと名君ぶりが理解できる。
  ・国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我の私物ではない。
  ・領民は国(藩)に属しているものであり、我の私物ではない。
  ・国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、
   君主のために存在・行動する国・国民ではない。
   この三カ条を心に留め忘れることなきように。

 境内の西に「歴代天皇遥拝所」と「靖国社」
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 八幡神社(品多別命、ほむだわけのみこと)
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 手前から「大神社(天照大神)」、「多賀神社(伊邪那岐命)」、
 「琴平神社(大物主大神)」。
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 本殿後方に杉の神木が2本、既に枯れている。 稲美町史によると、
 「天正8年(1580年)の頃、豊臣秀吉(1537年-1598年)が三木の別所氏を攻めた時、播州一円の城砦・寺社を打ち壊し回った。当社を取り潰しにかかると、神木から大蛇が頭を出してきた。
 秀吉がこれを見て、捨て置けと言い付けたので取り潰しを免れた。」とある。
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 境内東に手前から、「愛宕神社(火産霊神、ほむすびのかみ)」、
「稲荷神社(保食神、うけもちのかみ)」、「八坂神社(須佐之男命)」、
「大将軍神社(磐長比売命、いわながひめのみこと)」。
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 神輿倉
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 大年神の生きた2世紀半ばから3世紀初めの弥生末期では、灌漑用ため池は小規模であったが、古墳時代に入ると土木技術の発展により古墳が大型化し、ため池や水路も大掛かりになっていった。
 大きなため池築造の難工事では「人柱(生贄・人身御供)」が立てられることもあった。当地稲美町のため池築造にも人柱が立てられた伝承が残っている。

 生贄(いけにえ)は極めて残虐な風習だが、世界中で行われていた。旧約聖書によると、4、000年前のアブラハムが神から「息子のイサクを燔祭として奉げよ」と云われ、エルサレム近くのモリヤ山に行き、イサクをナイフで刺そうとした時、神はアブラハムの篤い信仰を知り、イサクを殺す事を止めさせた記事がある。
 諏訪市の守屋山(1,651m)がモリヤ山と関係あると云う説や、物部守屋(587年没)も関係があると云う説も聴くが・・・

 日本の古墳時代では、11代垂仁天皇(4世紀前半)に野見宿禰が進言して殉葬がなくなったとされているが、その後も続けられている。中世では城郭築造にも人柱が立てられることがあった。
©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2017-12-27 10:09

三位一体(さんみいったい)の否定

 三位一体は英語ではtrinity(トリニティ)で、父(神)、子(イエス・キリスト)、聖霊が一体であるとする教理。これはキリスト教の根本的な教理で、殆どのキリスト教宗派が共有している。
 しかし一部のキリスト教宗派では三位一体を認めず、キリスト教以前のユダヤ教でも三位一体の概念はない。
 三位一体を認めない宗派は、「預言者」であるイエスが「神の子にして絶対神と同格」となったことに反対している。
 それが16世紀に始まったユニテリアン主義で、18世紀後半にアメリカ、イギリスのプロテスタント教会から発展していった。三位一体の教理を否定し、神の唯一性を強調している。

 キリスト教はユダヤ教から生まれた。イエスはユダヤ教のエッセネ派クムラン教団に属していた。神の国を宣教したイエスが磔刑で死ぬと、「イエスの復活」後にはじまった宗教活動は、イエスをメシア(キリスト、救世主)と信じ「神の子」として、神と同一視した。
 そしてイエス・キリストを信ずる者が、ユダヤ教の律法を守らなかったので両者の対立は決定的になり、1世紀後半にユダヤ教から完全に離反してキリスト教を広めていくことになる。
 西暦622年に預言者ムハンマド(571年-632年)によって始まったイスラム教は、ムハンマドをモーゼ、イエスに続く最高の「預言者」としている。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は厳しく対峙して、長期に亘って宗教戦争・民族戦争が頻発している。イスラム教徒同士の戦争やテロ活動も多い。

 そして、経営コンサルタントで歴史評論家の落合莞爾氏(1941年生)によれば、國體ワンワールドがユニテリアン主義に基づいて造った組織がフリーメーソンだと云う。
 落合氏は、ユニテリアン主義、クエーカー(キリスト友会)、三位一体を否定するキリスト教宗派などがフリーメーソンと繋がりが深いと云う。

 また、フリーメーソンは國體ワンワールドネットワークの一部なので、國體ワンワールドに属する人々は、フリーメーソンに属している。
 フリーメーソンは16世紀後半頃に設立された友愛結社で、全世界の会員数は600万人、日本人は300人程いる。
 明治維新の直前、フリーメーソンのスコットランド人であるトーマス・ブレーク・グラバー(1838年-1911年)に影響された岩崎弥太郎(1835年-1885年)、坂本龍馬(1836年-1867年)などがフリーメーソンになった。最近では小泉純一郎(1942年生)、高須克弥(1945年生)などがフリーメーソンになった。
 フリーメーソンのマッカーサー元帥(1880年-1964年)が昭和天皇(1901年-1989年)をフリーメーソンに導いたと云われる。

 GHQ総司令官でフリーメーソンのマッカーサー元帥やその副官でクエーカー教徒のボナー・フェラーズ(1896年-1973年)が、「天皇の戦争責任を不訴追」と「象徴天皇制」を打ち出して昭和天皇の存続に大きく貢献した。
 それ以前にアメリカ政府の政策として、日本を安全に占領するために「天皇を平和の象徴として利用する」方針があり、GHQに伝えられていた。
 また、クエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(ヴァイニング夫人、1902年-1999年)はGHQに呼ばれ、明仁親王(平成天皇)の家庭教師を務めた。
 そして、人間を神として認めないユニテリアン主義のフリーメーソンとクエーカー教徒は、天皇を神とした日本のシステムに反対し、天皇に「人間宣言」をさせることも重要な目的であったのではないか。

 イスラエルが建国されたのは1948年5月14日、その70年後の2018年にイスラエルの荒廃は終わり、ソロモン神殿が再建され、聖都エルサレムが再建されると云う。
 ソロモン神殿はBC10世紀にソロモン王が築造し、BC515年に再建された。BC20年にヘロデ王によって改築された。
 イエス・キリストはこの神殿が商人たちの金もうけの場になっているのを嘆き、商人たちを神殿から追い出した。

 紀元70年のユダヤ戦争でローマ帝国軍により神殿は破壊された。神殿の外壁は基礎部分が残されており、「西の壁」は高さ19m、幅57mで「嘆きの壁」と呼ばれ、壁の前が礼拝の場所となっている。
 そしてイスラエルでは神殿が破壊されて以来、再建計画がずっと続いている。
イスラエルの首都はテルアビブであるが、イスラエルはエルサレムを首都と主張している。国連では認められていない。アメリカのトランプ大統領は、イスラエルの首都をエルサレムと認め、アメリカ大使館をエルサレムに移すと宣言し、世界中から批判・反対されている。

 2018年にイスラエルの首都がテルアビブからエルサレムに遷都されると云う動きがあるので、それを実行すればイスラム教徒やキリスト教徒との戦争が起きる可能性が高い。その争いの後、地域が安定し、メシアが現れると云うが、それは日本人かもしれないと云う。
 メシアは二人現れ、一人は「アロンのメシア(モーゼの兄アロンの末裔)」で、もう一人は「イスラエルのメシア(イスラエルの末裔である日本人)」と云われる。

 平成天皇は2019年4月に退位の予定、戦後70年余りで新しい形の日本と世界が始まる。日本とイスラエルは連動しているように見える。
©2012 INNAMI KANKI

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# by enki-eden | 2017-12-19 08:59

「耜(スキ)」は「磯城(シキ)」か

 日本書紀に記載の味高彦根神( あじすきたかひこねのかみ)は、父・大国主神と母・田心姫命(古事記では多紀理毘売命)の子で、古事記では「阿遅志貴高日子根神(あじしきたかひこねのかみ)」等と記す。
 出雲国風土記には阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)と記され、大穴持命(大国主命)の子としている。

 「あじすき」の意味は「良く切れる鋤(すき)」と云う説があり、味耜高彦根神は農耕の守護神である「雷神」、「蛇」と考えられている。奈良県御所市鴨神1110の高鴨神社に祀られており、「迦毛之大御神」とも云う。
 味耜高彦根神は鴨氏の祖神で、鴨氏(賀茂氏)は御所市鴨神を本拠地として、金剛山麓の東持田に移住した一族が葛木御歳神社を祀り、葛城山麓の葛城川沿いに移住した一族が鴨都波神社を祀った。

 赤のアイコンが高鴨神社、黄が葛木御歳神社、青が鴨都波神社、
 紫が大神神社(おおみわじんじゃ)。

  
 大和国西部の「葛城」に住む鴨氏は、東部の「磯城」の三輪山(大神神社)に住む事代主神とも結びつき、摂津国北部(大阪府茨木市、高槻市)へ勢力を広める。更に山城国(京都市)へと勢力を拡げていく。
 事代主神も味耜高彦根神と同じく大国主神の子で、母は神屋楯比売(かむやたてひめ、勘注系図では湍津姫)である。奈良盆地の西と東に分かれているが同族であった。

 狭野尊(さののみこと、181年-248年)は筑紫から大和に東遷して、西暦211年に初代神武天皇として即位するが、東遷の途中に紀伊半島で難儀する。それを助けて大和に導いたのは八咫烏(やたがらす、味高彦根)で、磯城の地を治める兄磯城(えしき)を討って勝利した。
 兄磯城の弟の弟磯城(おとしき)は服従して磐余(いわれ)の地を奉ったので、狭野尊は磐余彦と云われた。弟磯城は後に磯城県主(しきのあがたぬし)に任じられ、磯城県主から代々の天皇に妃を出した。

 磯城は師木、志貴とも表記する。初瀬川(大和川)、寺川などが奈良盆地(当時は大和湖)に流れ込んで、扇状地を造った地域が磯城の地で、10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇、29代欽明天皇の宮が営まれた。
 磯城島(しきしま)に天皇の宮が多く置かれたこともあり、大和国の中心地だったので、大和国にかかる枕詞は「敷島の」になった。
  敷島の 大和の国は 言霊(ことだま)の 助くる国ぞ 真幸く(まさきく)ありこそ
                          万葉集 3254 柿本人麻呂

  原文は 「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」

 神武天皇の皇后になる媛踏鞴五十鈴媛(比売多多良伊須気余理比売)は事代主神の長女で、「須気」は「磯城」と同じと云う説があり、「須気余理比売」は「磯城依姫」だと云う。
 「あじすきたかひこね」は「あじしきたかひこね」とも云われるように、「すき」と「しき」は「磯城」が由来の名であると考えられる。
 2代綏靖天皇の皇后になる五十鈴依姫は事代主神の次女で、3代安寧天皇(磯城津彦玉手看、しきつひこたまてみ)が生まれる。
 4代懿徳天皇の和風諡号は大日本彦耜友(おおやまとひこすきとも)、弟は磯城津彦と云う。

 磯城(しき)の語源は「鋪、舗」で、「金属鉱山の坑道」であるから、磯城氏は鉱物の採掘、踏鞴製鉄を生業としていたと考えられる。大和国は水銀、銅、鉛などの鉱物資源が豊富で、踏鞴製鉄も盛んであった。
 神武天皇の東遷も「葦原の中つ国平定」の一環だったが、鉱物資源(特に水銀)の開発が大きな目的の一つだった。神武天皇は、「丹(水銀)を手に入れると、武器を使って戦わなくとも天下を取れる」と云った。
©2012 INNAMI KANKI
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# by enki-eden | 2017-12-13 00:23

布都御魂(ふつのみたま)

 素戔嗚(布都斯、ふつし)の父である布都(ふつ)が所持していた剣を霊剣(布都御魂)として祀っているのが物部氏の本拠地である奈良県天理市の「石上神宮(いそのかみじんぐう)」である。

 霊剣は85cmの鉄剣で、通常の刀と逆方向に反る「内反り」で、環頭が付いている。
 石上神宮は、素戔嗚の霊剣である天羽々斬(あめのははきり、布都斯魂剣)、布留御魂(饒速日の十種の神宝)もご神体として奉安されている。そして、国宝の七支刀も奉納されている。

 布都御魂は、本来は素戔嗚(140年頃-200年頃)の父の布都を祀ったものであるが、一般的には「布都の霊剣」として考えられている。伊勢神宮が祀っているのは天照大神であるが、八咫鏡(やたのかがみ)を天照大神として祀っているのと同じ考え方ではないか。八咫鏡は真経津鏡(まふつのかがみ)とも云われる。

 布都御魂の「フツ」は霊剣が物を切る音を表すとされ、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)とも云う。
 霊剣にも八咫鏡にも「フツ」が使われているので、フツは剣で物を切る音ではないと考えられ、フツは「神」と云う説がある。

 建御雷神(たけみかづちのかみ)は布都御魂剣を使って201年頃に「葦原の中つ国平定」を実行した。初代神武天皇(181年-248年)が熊野山中で危機にあった時(210年頃)、高倉下(たかくらじ)が布都御魂剣を神武天皇に献上して危機を鎮め、神武天皇は大和国に入り、211年に橿原宮で初代天皇として即位した。

 布都御魂剣は饒速日(にぎはやひ、165年頃出生)の子である宇摩志麻治(うまじまじ)が宮中で祀り、その後10代崇神天皇(251年-301年)の時に物部氏の伊香色雄(いかがしこお)が石上神宮に祀り、ご神体とした。
 ご神体は拝殿後方の禁足地に埋納されたが、明治7年(1874年)に大宮司の菅政友(すがまさとも、1824年-1897年)が発掘し、本殿内陣に祀られた。レプリカ2振が作刀され本殿中陣に奉安された。

 岡山県赤磐市石上(いしかみ)1448に「石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)」が鎮座、備前国の古一宮で現在は素戔嗚尊を祀る。明治以前までのご神体は、素戔嗚尊がヤマタノオロチを斬った布都御魂剣(十束剣)であった。この霊剣は10代崇神天皇の時代に大和国の石上神宮に移されたと云う。
 吉備国は出雲国と同じく素戔嗚の影が濃い。

 出雲国風土記には楯縫郡の郡司には物部臣(もののべのおみ、饒速日を祖とする氏族)が記されている。その関連か、出雲国楯縫郡鎮座の石上神社(いそのかみじんじゃ、いしがみじんじゃ、島根県出雲市塩津町279)の祭神は布都御魂(ふつのみたま)であり、元の祭神は海童(海津見神)であった。
 石上神社は日本海に面しており、本殿はなく、拝殿の後方にご神体の霊石を祀り、地元の人は「石上様」と呼んでいる。
 素戔嗚の父である布都が塩津港から上陸したと云われ、塩津町には「素戔嗚生誕の地」としての伝承がある。
 本来は「石神神社」と書いていたが、「石上神社」と改めた。大和国石上神宮(いそのかみじんぐう)に仮託して祭神を海津見神から布都御魂に改めた。これには郡司の物部臣が関わったかもしれない。

 石上神社は式内の宇美神社と伝わるが、6kmほど南東の出雲市平田町宮西町686-1に宇美神社が鎮座、祭神は布都御魂神(ふつのみたまのかみ、霊剣)となっている。出雲国風土記に「宇美社」、延喜式神名帳に「宇美神社」と記されている神社と云う。
 宇美神社が元は石上神社の地・塩津に鎮座していたが、現在地に遷座したと云う伝承がある。塩津は日本海に面していたので宇美(海)神社にしたと云う。素戔嗚が塩津から平田に移住してきたか。
 また、出雲国風土記沼田郷の地名伝承に、宇美神社の祭神は宇能遅比古命(うのぢひこ、海神)となっている。
 石上神社も宇美神社も本来の祭神は海神であったが、後に布都御魂神に改めたようだ。郡司の物部臣の影響か。

 出雲市塩津町も平田町も素戔嗚に所縁があるのだろう。平田町の南東20kmほどの所に須我神社が鎮座(島根県雲南市大東町須賀260)。素戔嗚と櫛稲田姫が新婚の住まいを設けた所である。
 素戔嗚と櫛稲田姫は須賀の地で第一子の八島士奴美を産んだのであろう。八島士奴美の神名は清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)と云う。

  赤のアイコンが石上神社、黄が宇美神社、青が須我神社。


 出雲国風土記には、「布都御魂神」と似た神名「布都怒志命、ふつぬし」が記されている。これは日本書紀に記された「経津主神、ふつぬし」と同じで、葦原の中つ国平定を実行したと云われる。
 私見ですが、出雲国風土記の布都怒志命は素戔嗚の父で、日本書紀の経津主神とは別神と見ています。時代も出自も別です。
 日本書紀の経津主神は、元々出雲系の神であったのを高天原系にすり替えられた可能性がある。これは藤原不比等(659年-720年)が記紀の記述に影響を与えたからと考えられる。
 出雲国風土記には大穴持命(大国主命)の子に和加布都怒志命もいる。物部系の祖神、神社、祭祀(御魂振り)などは、藤原氏・中臣氏の勢力に取り込まれていくことになる。

 負芻(ふすう)
  熊負芻、中国戦国時代の楚の最後の王、BC223年頃没。
  姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は負芻(fuchu)。
  私見ですが、素戔嗚(布都斯、ふつし)の父、布都(ふつ)は楚の最後の王・熊負芻
 (ゆう ふすう)の名を使ったのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
  素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記されている。
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# by enki-eden | 2017-12-07 00:26