古代史探訪

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豊受大神(とようけのおおかみ)

 古事記によると、伊邪那美命(いざなみのみこと)の尿(ゆまり)から弥都波能売神(みつはのめのかみ)と和久産巣日神(わくむすびのかみ)が生まれた。
 和久産巣日神の子が豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)で、亦の名を豊受大神、登由宇気神(とゆうけのかみ)、止与宇可乃売神(とようかのめのかみ)などと云われる女神である。

 豊受大御神は三重県伊勢市豊川町の伊勢神宮外宮(豊受大神宮、とゆけだいじんぐう)に奉祀されており、食物・穀物を司る女神である。
 止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう、804年)によると、21代雄略天皇(432年-479年)の夢に天照大神が現れ、「等由気大神(豊受大神)を御饌都神(みけつかみ)として連れて参れ」と云われたので、478年に雄略天皇は伊勢国に外宮を建てたと云う。
 そして、丹波国で海部氏が祀る「籠神社」(このじんじゃ)の奥宮である真名井神社から豊受大神を遷座し、度会氏(わたらいうじ)を神官とした。
      
 伊勢神宮内宮(皇大神宮)は既に、11代垂仁天皇(265年-310年)の時に三重県伊勢市宇治館町(うじたちちょう)に建てられていた。

 籠神社奥宮の真名井神社の背後にある磐座の石碑には「塩土老翁(しおつちのおじ)、大綿津見神、亦名住吉同体、亦名豊受大神」とあるので、豊受大神は女神ではなく男神となるが・・・
 籠神社の説明によると、「豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)・御饌津神(みけつかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘女神・豊受比売とも云います」とあるので、豊受大神は男神であるが、顕現する姿は女神になっていると云う。

 この顕現の仕方は、奈良時代から始まり1,200年以上続いた神仏習合の名残でしょう。明治時代に入ると、神仏分離令により神仏習合は禁止されたが、神仏習合の名残は現代にも散見される。

 伊勢神宮内宮は天照大御神を祀るので正殿は女神仕様で、千木は内削、鰹木は10本の偶数、豊受大神を祀る外宮の正殿は男神仕様で、千木は外削、鰹木は9本の奇数になっている。

 外宮の禰宜を世襲で務めてきた度会氏は天牟良雲命(あめのむらくものみこと)の末裔。天牟良雲命(170年頃出生)の孫が天日別命(あめのひわけのみこと)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の12世孫と云われており、年代は合うが・・・
 天牟良雲命(天村雲命)は天香語山命(155年頃出生、尾張氏の祖)の子で、天火明命(140年頃出生)の孫。天香語山命と天村雲命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って大和国にやってきた。
   
 三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は尾張国三宮の熱田神宮(あつたじんぐう、名古屋市熱田区)の神体であるが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも云う。
 この剣は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治した時に、大蛇の尾から出てきた霊剣で、天照大神に献上した。     

 天日別命は神武天皇(181年-248年)が大和国へ東遷してきた際に、伊勢国を平定し、伊勢国造の祖となった。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-17 16:12

愛宕山の天狗

 京都市右京区の愛宕山(あたごやま、あたごさん、924m)山頂に愛宕神社が鎮座。祭神は伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命。
 愛宕山は山城国と丹波国の国境に位置し、嵐山(381.5m)の6.5km北西にある。愛宕神社は、全国で火伏せの神様を祀る約900社の総本社になっている。
 愛宕山は神戸の六甲山(932m)とほぼ同じ標高ですが、六甲山のように車では登れないので参拝は「登山」になり、私には無理です。私が生まれた昭和18年頃にはケーブルカーで行けたようですが、戦時中に撤去され今はありません。




 修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年)が愛宕山(朝日峰)に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)に遭い、神廟を設けた。
 49代光仁天皇(709年-782年)の勅を受けた和気清麻呂(733年-799年)が、唐の五台山に倣って、781年に愛宕権現白雲寺などの愛宕五坊を愛宕山に建立し、神仏習合の山岳修業霊場となった。

 56代清和天皇(850年-880年)は愛宕山南麓にある水尾山(484m)との関係が深く、水尾天皇とも云われる。清和天皇は水尾山陵に埋葬され、500mほど東の清和天皇社に祀られている。



 愛宕山の山岳信仰と修験道による愛宕権現(あたごごんげん)は、愛宕山白雲寺において伊弉冉尊(いざなみのみこと)と将軍地蔵を神仏習合により融合したものであった。
 将軍地蔵は武装した姿で軍馬にまたがっており、武家が戦勝を祈って信仰した地蔵菩薩。天正10年(1582年)、明智光秀(1528年-1582年)が織田信長(1534年-1582年)を討つ前に愛宕山に登ったと云う。 「ときは今 あめが下知る 五月かな」

 江戸時代には白雲寺から発祥した愛宕信仰が全国に広まっていったが、明治の神仏分離令により、愛宕権現も白雲寺も廃止され、愛宕神社に改められた。
 明治5年には修験禁止令も出された。

 1889年(明治22年)に就役した海軍の砲艦「愛宕」は愛宕山に因んで命名され、日清戦争・日露戦争などに参加したが、1904年(明治37年)に座礁により沈没した。
 2代目の重巡洋艦「愛宕」は1932年(昭和7年)に就役、多くの戦績を残したが、1944年(昭和19年)にアメリカの潜水艦の攻撃で沈没した。艦内神社はもちろん愛宕神社であった。
 同じく愛宕山に因んだ海上自衛隊のイージス型護衛艦「あたご」が2007年(平成19年)に就役した。艦内神社は愛宕神社で、お賽銭箱もある。
 弥生時代にも、舟や丸木舟には航路の安全を守るために船魂神(ふなだまのかみ)を祀っていた。この信仰は連綿と現代まで続いている。

 毎年8月16日の京都五山の送り火の時は、広沢池(京都市右京区嵯峨広沢町)の真西2kmの水尾山(曼茶羅山、まんだらやま)では鳥居の形に松明が点火される。



 付近には52代嵯峨天皇陵(842年崩御)と91代後宇多天皇陵(1324年崩御)がある。
 また、近くには祇王寺(ぎおうじ)もあり、50年前に訪れたことを思い出しました。祇王寺は紅葉の美しい尼寺で、平家物語に登場します。

 愛宕神社の若宮社には伊弉冉尊の生んだ迦遇槌尊(かぐつちのみこと)が祀られており、迦遇槌尊の化身を愛宕修験の愛宕太郎坊天狗とした。
 愛宕太郎坊天狗は多くの眷属を従える「日本一の大天狗」となった。

日本八天狗
 1、愛宕山太郎坊(京都市右京区)、天狗の総大将。
 2、比良山次郎坊(滋賀県大津市)、比叡山に居たが、比良山に移った。
 3、飯綱三郎天狗(いづなさぶろう)、白狐に乗る長野県飯綱山のカラス天狗。
 4、大峰山前鬼坊(おおみねぜんき、奈良県大峰山)、前鬼は役小角(役行者)の高弟で、
   妻の後鬼(ごき)と共に役小角に従った。
 5、鞍馬山僧正坊(そうじょうぼう、京都市左京区)、牛若丸に武術を教えた鞍馬天狗。
 6、白峯相模坊(香川県坂出市)、崇徳上皇が配流地の讃岐国で1164年に憤死した時に、
   崇徳上皇を慰めるために、相模国から讃岐国の白峯山へ飛び移った。
 7、相模大山伯耆坊(神奈川県伊勢原市)、伯耆大山から相模国へ飛んだ。
 8、英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう、福岡県田川郡)、高住神社(英彦山神宮の摂社)。
   天津日子忍骨命(天忍骨命)が天降ったもので、役小角がこの山で修行した時、
   それを祝福して出現した。
 
 日本書紀によると、
『34代舒明天皇9年春(637年)、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。人々は「流れ星の音である」と云い、あるいはまた「地雷(つちのいかづち)である」と云った。
 新漢人(いまきのあやひと)の僧旻(そうみん、653年没)は「流れ星ではない。これは天狗(あまつきつね)である。その吠える声が雷に似ているだけだ」と云った。』
とあるが、これが天狗の初見となった。

 このあと、役小角(役行者)が大和葛城山、大峰山、吉野山などで山岳修業を行い、全国の山を修業して修験道を開始、各地に天狗が現れたと云う。
 2013年5月8日投稿の「吉野水分神社と金峯山寺」をご参照ください。
   
 「猿田彦命」が天狗であると云う説も有力だ。神社の祭りの行列で先導しているのは猿田彦命で、天狗の面をかぶっている。   
 猿田彦命(2世紀後半)と天狗(7世紀から8世紀以降)が結び付けられたのは、修験道により天狗が出現して猿田彦命の風貌と似ていることが原因と考えられる。
 猿田彦命の風貌は日本書紀によると、「その鼻の長さ七握(ななつか)、背の高さ七尺あまり、口の端が明るく光っている。目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで照り輝いていることは赤ほうずきに似ている」とある。  
 猿田彦命の風貌からすると、古代に日本へやってきたフェニキア人かもしれない。2017年1月1日投稿の「日本人とフェニキア人」をご参照ください。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-09 07:16

幸連5遺跡

 14,000年前から始まった縄文時代は、列島全体にほぼ均質な文化が広まり、広範囲の交易も行われていた。
 縄文人は、民族的にもY染色体ハプログループD2と云う世界でも数少ないDNAを特色としている。
列島全体に交易がおこなわれていたことは、考古学的出土物により証明される。

 津軽海峡に面した北海道上磯郡木古内町幸連(かみいそぐん きこないちょう こうれん)の「幸連5遺跡」は縄文時代前期から中期後半まで連続的に営まれていた。
 長期の遺構が複雑に絡み合って、100万点を超える遺物が発掘されている。
 竪穴住居跡から出土した4,300年前の石製品は、砂岩を正三角形の板状に削り、顔料で人の顔が描かれていた。三角形の一辺は12cmほどで、厚さは1.4cm、重さは218gあった。



 4,500年前の竪穴住居跡からの出土物には、長野県和田峠(1531m)で産出される黒曜石製の矢じり2点がある。和田峠と木古内町の直線距離は650kmも離れており、最も遠方での発見になった。和田峠産の黒曜石は透明感があり、元素の分析結果で判明した。

 和田峠周辺は縄文時代には黒曜石の産地で、石鏃に加工され交易品となった。筑摩山地の中央分水界にあり、峠の北側は千曲川から信濃川により日本海に通じ、峠の南側は諏訪湖から天龍川により太平洋に通じる。川と海の舟運により、ここから全国に流通していった。

 幸連遺跡の西にある木古内町札苅(さつかり)の札苅遺跡は縄文時代前期(6,000年前から5,000年前)から晩期の集落を代表する遺跡で、主に3,000年前から2,000年前の集落が多い。
 出土物に土偶があるが、高さ6cmから8cm、幅5cmの小型の板状のもので祭祀に使われた。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-07 08:44

天日槍(あめのひぼこ)は神武天皇の傍系か

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 兵庫県北部の但馬国(たじまのくに)は、2世紀に出雲国の大己貴命(大国主命、160年頃出生)一族が開拓したが、次に天火明命(あめのほあかり、140年頃出生)一族がやってきて開拓した。
 3世紀半ばになると天日槍命(あめのひぼこ、230年頃出生)が新羅から但馬国にやってきて開拓したと云う。

 但馬国の歴史書に「国史文書 但馬故事記」がある。記紀以外は偽書とされることが多いが、但馬国の歴史を詳しく述べている。

 「国司文書 但馬故事記」の第5巻出石郡故事記によると、6代孝安天皇(229年頃-270年頃)の時代に(269年頃)、新羅の王子・天日槍命が帰化したとある。
 天日槍命は神武天皇(181年-248年)の兄・稲飯命(いなひのみこと、稲氷命)の5世孫であると出石郡故事記に記されている。
 「新撰姓氏録」(815年)にも「右京 皇別 新良貴 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男 是出於新良国 即為国主 稲飯命者 新羅国王者祖合 稲飯命之後也」とあり、稲飯命は新羅王の祖とある。

 稲飯命は弟の磐余彦(いわれひこ、神武天皇)の東征に従い、西暦204年に九州を出発して大和国を目指したが、紀伊水道で暴風に逢い漂流した。
 稲飯命は新羅にたどり着いて国王となったと云う。子孫の天日槍命は王子であったが、先祖の国を目指し、筑紫国(九州)→穴門国(下関)→針間国(播磨国)の宍粟(しそう)郡に留まった。
 天日槍命の希望により孝安天皇は多遅摩国(但馬国)を与え、多遅摩国造にした。天日槍命は出石県主の天太耳命(あめのふとみみ)の娘・麻多烏(またお)を妻にし、但馬諸助(たじまもろすく)を生む。

 天日槍命は但馬国一宮の「出石神社」に祀られており、子孫には神功皇后(321年-389年)がいる。 2013年8月19日投稿の「但馬国考古学」をご参照ください。
  
 私見ですが、天日槍命の出自は新羅ではなく、朝鮮半島南部の任那(みまな、伽耶)ではないかと考えています。当時の九州北部と朝鮮南部は、揚子江(長江)からやってきた呉人の小国家群が多く、当時は同一文化の交流地域だったと考えています。
 3世紀において新羅(斯盧国)は任那(伽耶)の北方にあり、高句麗と接していたが、8世紀の記紀成立の頃には任那の地は新羅になっていたので、記紀では天日槍命を新羅の王子と呼んだのではないか。

 任那(伽耶)も九州北部と同じ倭人の小国家群であった。任那の王族は北部九州の奴国王などと同族関係にあったと考えられる。
 実際に、斯蘆国初代国王となった赫居世は倭(奴国)の王族と繋がっていたようである。

 そして、天日槍命の子孫や帰化人が、自らの出自を皇族につなげるために、新羅の王となった稲飯命の子孫であると主張したのかもしれない。
 日本書紀には、神武天皇の兄の稲飯命と三毛入野命(みけいりのみこと)は紀伊水道で暴風に遭った時に海中に没し、常世国(とこよのくに)にいったと記されているが・・・
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-01 00:10

古代掘立柱建物の地中梁(ちちゅうばり)

 鳥取市の松原田中(まつばらたなか)遺跡(鳥取市松原字中田中)は、弥生時代から古墳時代の集落遺跡で、高床倉庫の基礎を補強するための「地中梁(ちちゅうばり)」が、平行して2本発掘されていた。
 3世紀後半頃に使われた地中梁で、鳥取県埋蔵文化財センターによると、2本が腐食や欠損のないほぼ完全な形で出土するのは異例で、今回出土した全長7.33mと7.22mの2本の地中梁(杉材)は国内最長級の梁である。


  パンフレット
 「地中梁」は地中に埋めた長い木材で、軟弱な地盤でも建物が傾かないように地中梁を平行に2本並べ、その上に建物の柱を立てることで安定させていた。
 それぞれに4本の柱を組み合わせた痕が残っており、柱の位置や建物の構造を特定することができた。2本の梁は地中50cmから80cmほどの深さに、幅3mほどの間隔をあけて並行に敷設されていた。

 松原田中遺跡では2013年、国道9号線の改築に伴う発掘調査で15棟の高床倉庫の建物跡が確認され、そのうち8棟から地中梁が出土していた。

 その他、石川県金沢市大友西遺跡からも3世紀前半頃の地中梁が1本(8mほど)出土していた。金沢市近岡遺跡からは2本揃って出土、新潟県佐渡市蔵王遺跡からも2本揃って出土していた。
# by enki-eden | 2018-12-29 14:36

物部大咩布命(もののべのおおめふのみこと)

 物部の祖・饒速日(にぎはやひ、165年頃出生)から7代目の「伊香色雄命」(いかがしこお、255年頃出生)は9代開化天皇(244年-294年)と10代崇神天皇(251年-301年)に仕えた。
 伊香色雄は「石上神宮」を建て、氏神として祖神・素戔嗚の父の布都を祀った。
 
 物部大咩布命(290年-364年)は伊香色雄命の末の息子で、11代垂仁天皇(265年-310年)に仕え、若湯坐連(わかゆえのむらじ)などの祖とされている。

 兵庫県宝塚市売布(めふ)山手町に鎮座する売布神社(めふじんじゃ)は、近世まで貴船神社と称していたが、延喜式神名帳の摂津国河辺郡に記載の「売布神社」と判明したので、18世紀に社名を変更した。
 社伝によると、605年の創建で、里人が下照姫神(高比売神)と天稚彦神を祀ったと云う。
当地周辺は物部若湯坐連(もののべのわかゆえのむらじ)が拠点としており、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が若湯坐連らの始祖になっているので、当社の本来の祭神は意富売布命(大咩布命)ではないか。

 兵庫県三田市酒井宮ノ脇に鎮座の高売布神社(たかめふじんじゃ)の祭神は、下照比売命と天稚比古命になっている。
 物部大咩布命を祭神とする説もある。
 赤のアイコンが宝塚市の売布神社、黄が三田市の高売布神社



 物部大咩布命の系図は、
 饒速日→宇摩志麻治→彦湯支→出石心→大矢口宿祢→大綜麻杵→伊香色雄→大咩布
 となっている。
 新撰姓氏録の「山城国 神別 天神 真髪部 造 神饒速日命7世孫大賣布乃命之後也」とあり、「和泉国 神別 天神 志貴 県主 饒速日命7世孫大賣布命之後也」とある。

 9世紀に編纂された但馬故事記(但馬国司文書)によると、
 『物部大売布命は日本武尊(やまとたけるのみこと)に従い、東夷(あづまえびす)を征伐したことを賞し、摂津の川奈辺(川辺郡)、多遅麻の気多(けた)郡、黄沼前(きぬさき、城崎郡)の三県を与えられた。
 大売布命は多遅麻の気多郡に入り、気多の射楯(いだて)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。』
と記されている。

 射楯宮は但馬国気多郡高田郷石立(射楯)村にあったが、現在の地名は兵庫県豊岡市日高町国分寺797となっており、売布神社が鎮座、祭神は「気多の大県主」と呼ばれた物部連大売布命である。大売布命は神功皇后2年(西暦364年)に当地で亡くなり、射楯宮の後方にある射楯丘に埋葬された。


  
 日本武尊の東国征伐は妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が同行したので、船団を運用したのは弟橘媛の属する穂積氏だったと考えられる。穂積氏は物部一族であるので、その船団を大売布命が指揮したのでしょう。「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp   
# by enki-eden | 2018-12-25 11:38

但馬国(たじまのくに)

 但馬地方は兵庫県の北部の地域で、北は日本海、南は播磨地方と丹波地方、東は京都府、西は鳥取県と接している。
 但馬は全体に山が多いが、兵庫県の面積(8,396㎢)の25%(2,134㎢)を占め、東京都の面積(2,188㎢)に近い。
 山口県から兵庫県まで続く東西500㎞の中国山地は標高1,000m前後で、磁鉄鉱系の花崗岩が多く砂鉄が豊富で、川も多いので、古代から吉備国を中心として踏鞴製鉄が盛んに行われた。
 但馬では高い山もあり、氷ノ山(ひょうのせん、1,510m)が一番高い。但馬の冬は雪が降って寒く、スキー場が賑わう。夏は逆にフェーン現象で暑い。

 但馬地方は但馬北部(北但)の豊岡市と美方郡(みかたぐん)、但馬南部(南但)の養父市(やぶし)と朝来市(あさごし、一部は播磨地方)からなっている。
 豊岡市に但馬飛行場(コウノトリ但馬空港)があるが、播磨から行くにはJR播但線か播但連絡道路が便利。私はよく播但連絡道路を利用します。途中、道の駅「ようか但馬蔵」で休憩します。
 
 但馬国総社は氣多神社(けたじんじゃ、大己貴命、豊岡市日高町上郷)、一宮は「出石神社」(いずしじんじゃ、天日槍命、豊岡市出石町宮内)、二宮は「粟鹿神社」(あわがじんじゃ、日子坐王、朝来市山東町粟鹿)であるが、粟鹿神社も但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。
  
 但馬国風土記は残っていないが、9世紀から10世紀にかけて編纂された「但馬故事記(但馬国司文書)」は残っているので、但馬の旧事を知ることができる。

 先代旧事本紀の国造本紀によると、但遅馬国造(たじまのくにのみやつこ)は13代成務天皇の時代(4世紀前半)に、竹野君と同祖の彦坐王(ひこいますのきみ、9代開化天皇の皇子)の五世孫の船穂足尼(ふなほのすくね)を国造に定めたとある。
 朝来市桑市の船宮古墳(ふなのみやこふん)が船穂足尼の墳墓と伝わるが、5世紀後半築造で少し年代が合わない。前方部に船宮神社が鎮座している。
 船宮古墳は但馬地方で2番目に大きな前方後円墳で、総長117m、墳丘長91m、後円部径49m、高さ6mの三段築成。   
 但馬地方最大の前方後円墳は墳丘長136mの「池田古墳」(朝来市和田山町平野)で、5世紀初め頃の築造。原型を留めていないが、兵庫県では4番目の大きさ。こちらが船穂足尼の墳墓かもしれない。
 但遅馬国造は但馬国東部(現在の豊岡市、養父市、朝来市)を治めた。

 同じく先代旧事本紀の国造本紀によると、成務天皇の時代に、二方国造(ふたかたのくにのみやつこ)を定め、出雲国造と同祖の遷狛一奴命(うつしこまひとぬのみこと)の孫の美尼布命(みねふのみこと)に任じた。二方国造は但馬国西部(現在の美方郡)を治めた。
 兵庫県美方郡新温泉町竹田1に鎮座の面沼(めぬま)神社は二方地方の総社で、二方国造の美尼布命を主祭神としている。

 但馬の地名由来は、確かなものはないが、私見では「田島」だと考えている。つまり、九州の「田島(たしま)」からの移住者が多かったのではないか。「たしま」→「たじま」に変化した。
 福岡県宗像市田島(たしま)2331に鎮座の宗像大社は宗像氏の本拠地。佐賀県唐津市呼子加部島に鎮座の田島神社(たしまじんじゃ、宗像三女神)は宗像大社から勧請した。
 宗像氏の祖神は大国主命(大穴持命、160年頃出生)で、大穴持命が但馬巡視をして田島と名付け、その後多遅摩→但馬に変化したか。

 但馬開発の祖神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)となっている。天日槍命は新羅の王子と云われており、私見ですが、230年頃の出生。
 天日槍命は多遅摩俣尾(たじまのまたお)の娘・前津見(さきつみ)を妻とする。或いは、太耳の娘の麻多烏(またお)を妻とするとも云う。
 天日槍命の7代目に息長帯比売命(神功皇后、321年-389年)がいる。私は、天日槍命は新羅人ではなく、任那(みまな、562年滅亡)の倭人であると見ています。

 大分県日田市田島(たしま)の東隣りは日高町で、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)で有名なダンワラ古墳があった。2017年3月30日投稿の「比多国造」をご参照ください。
      
 日田市の田島にも兵庫県の但馬にも日下部氏の本拠地がある。船穂足尼の子孫に但馬国造の日下部君がおり、その後裔が日下部氏となっている。日下部氏は全国に広がっている。
Innami Kanki    メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-12-19 11:03

淡路沼島(ぬしま、おのころ島)

 淡路島の南端沖に兵庫県南あわじ市沼島がある。私は沼島に渡ったことはないが、淡路島を車で一周した時に海岸沿いの道路から良く見えた。
 周囲9.5kmの島で、500人弱が住んでいるが、都市部への人口流出で大きく減少した。



 日本書紀によると、『伊弉諾尊と伊弉冉尊が「天の浮橋」に立って、天瓊矛(あめのぬぼこ)で青海原をかき回して引き上げると、矛の先からしたたり落ちる潮がかたまって島となった。それを名付けて「おのころ島」と云った。
 二柱の神は「おのころ島」に降りて大きな御殿を造り、「天に届く柱」を立てた。』とある。

 沼島が「おのころ島」だと云われているので、沼島の東海岸にそそり立つ30mの上立神岩(かみたてがみいわ)が「天に届く柱」なのかもしれない。天の御柱(あめのみはしら)とも云う。
 沼島のパンフレット

 淡路島の北端の岩屋漁港に小さな「絵島」があるが、私は子どもの頃から絵島が「おのころ島」だと思っていた。ちょっと小さすぎるかな?

 沼島(おのころ島)には神社も数社あり、西海岸の山の上に自凝神社(おのころじんじゃ)が鎮座している。祭神は勿論、伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。

 淡路島内の南あわじ市榎列(えなみ)下幡多(しもはだ)には自凝島神社(おのころじまじんじゃ)が鎮座、祭神は同じく伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。
 立派な赤い大鳥居が目立つ。

 大和朝廷にとって瀬戸内海を西へ遠征・進出するには、拠点として淡路島は重要な立地にあった。淡路島の海人族は優秀な水軍をもっており、造船も得意で、大規模の金属工房もあった。
 明石海峡を抑える部族もあり、阿波国(徳島県)・淡路島・和泉国(大阪府南西部)を交流して活躍する部族などもあり、朝廷にとっては淡路海人族を味方に取り込む必要があった。

 淡路島は古代から大和政権と強く結びついており、海産品などを献ずる御食国であった。先代旧事本紀の国造本紀によれば、16代仁徳天皇(386年-429年)の御代に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼(やぐちのすくね)を淡道国造に定めたとある。
 仁徳天皇は頻繁に淡路島へ行っている。淡路島には良い狩場があり、伊弉諾命が国生みで最初に造ったのがおのころ島(沼島)と淡島(淡路島)であり、伊弉諾命(西暦125年頃出生)が淡路島の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)で余生を送った地であることが仁徳天皇を引き付けたのでしょう。

 堺市の仁徳天皇陵(墳丘長486m)を宮内庁と堺市が共同調査した。周濠の堤(つつみ)に石敷きがあり、その上に円筒埴輪がびっしりと1列に並んでいたことが分かった。
 埴輪は5世紀前半から半ばの特徴を持っているので、429年に崩御した仁徳天皇の陵墓に間違いないと私は思います。多くの人は仁徳天皇が4世紀末頃に崩御したので、埴輪の年代と数十年ほど合わないと云っているが、崩御年の推定を間違えているのが原因だと思います。
 今回の調査は天皇陛下の承諾が得られたので実現したが、今後も宮内庁管理の陵墓の調査を進めてほしいと思います。2019年5月1日に次期天皇に即位される皇太子殿下にも陵墓の調査にご理解を深めていただきたいですね。
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# by enki-eden | 2018-12-13 09:32

劒之宮王子神社(つるぎのみやおうじじんじゃ、加西市)

 兵庫県加西市(かさいし)西剣坂町(にしけんざかちょう)818  電0790-46-0215
 神社の前に車を停められます。 加西市の西端で、姫路市との境の山麓に鎮座。

 祭神 国常立尊(くにのとこたちのみこと)、
 配祀 伊弉諾尊、伊弉冉尊、素戔嗚命。



 私見ですが、祭神の国常立尊は西暦元年生まれの初代奴国王で、西暦57年に後漢に朝貢した「漢委奴国王」だと見ています。
 奴国は博多湾周辺の国で、国常立尊の時に倭国(北部九州)の海外交易を代表する国になった。
 国常立尊の生年は西暦元年と云いましたが、西暦元年は西暦1年で、その前年は紀元前1年です。その間の「紀元0年」と云うのは存在しません。
 従って、紀元前から紀元後に亘る期間の年数を計算するには1年を引く必要があって、ややこしい。
 日本の元号も同じで、平成元年(1989年)は平成1年であって、平成0年ではありません。人の年令も現在では生まれた時は0才ですが、昔は1才でした。
 天文学では「紀元0年」を仮に設けて計算しやすくしているようです。

 少彦名神(すくなひこなのかみ)が当地を治めていた時、剣が出土したので、この剣を「十束の剣」と名付けて祀ったのが当社の初めと云う。播磨鑑(はりまかがみ)には「剣の宮」と記されている。
 貞永元年(1232年)に刀鍛冶が参拝して詠んだ歌、
   いく代々の ためしともなれ 神代より たえず祀れる みつるぎの宮

 天正の頃(16世紀後半)、社殿が兵火により焼失したので再建した。「天下賦武」の信長軍は多くの寺社を破壊した。宗教中心の社会を変える「宗教改革」の役割も果たしたことになるが、犠牲が大きかった。

   石の鳥居と参道の灯篭
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   絵馬殿
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   拝殿
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   本殿の前に小さな狛犬と少し右に石の祠
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   本殿の左にも小さな狛犬と石の祠
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  鳥居の左奥に大歳神社、兵庫県には大歳神社が400社近くもある。
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# by enki-eden | 2018-12-05 09:54

諏訪神社(すわじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市山田町多田920   神社の北に車を停めるスペースがあります。
祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)



 当社は、6世紀前半築造の前方後円墳(全長40m)の横穴式石室が神座となっており、羨道入口に神殿が鎮座している。拝殿からは石室の入り口が見える。
 この古墳の石室は「諏訪の岩穴(いわあな)」と云われ、県指定重要有形文化財(史跡)になっている。地名をとって多田古墳とも呼ばれる。

 神社の説明によると、古墳の軸はほぼ東西向きで、後円部の南側に石室が開口し、入口前面に拝殿が造られている。石室内に石祠を置き、建御名方神を祀っている。

   石の鳥居と奥に拝殿、鳥居は北東にある。
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 建御名方神は出雲族の大国主命(160年頃出生)と高志国(越後)の沼河比売(ぬなかわひめ)の子で、武神、軍神として崇敬されている。

 建御名方神は、倭王の卑弥呼(天照大神②、179年-247年)が201年頃に強制した「国譲り」に反対して敗れ、信濃国(長野県)の諏訪湖に逃れたと古事記には記されている。
 建御名方神は諏訪の地を開拓して、信濃国一之宮の諏訪大社に祀られた。御名方(みなかた)の名は父・大国主命の本拠地・宗像(むなかた)が由来かもしれない。

 大国主命と神屋楯比売の子である事代主神は国譲りに賛成したので、現在でも宮中三殿の八神殿に高皇産霊神などと共に祀られている。

 出雲国風土記には、大穴持命(大国主命)と奴奈宜波比売命(ぬながわひめのみこと)の子に御穂須須美命(みほすすみのみこと)が記されており、建御名方神と同じと云われる。
 建御名方神は母・沼河比売の里(糸魚川市)からヒスイで有名な姫川を遡り、諏訪湖に落ち着いたのではないか。
 妃は八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、安曇氏と云われる。安曇氏が開拓した安曇野(あづみの)は諏訪湖の北30kmほどにある。
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# by enki-eden | 2018-11-29 09:23

甲八幡神社(かぶとはちまんじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市豊富町豊富1375   電079-264-4747   無料駐車場あります。
祭神 品陀別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)
配祀 息長足比女尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
   比咩大神(ひめおおかみ)



 15代応神天皇(363年-403年)が播磨国を巡幸の時、甲山(かぶとやま、107m)に登り、四方を視察した。播磨国風土記には甲山は冑山と記されている。
 応神天皇は灌漑用水路や道路を造らせて農業振興を図った。里人たちはその徳に感謝し、秋の収穫時には甲山に登り、初穂を供え都の方(東)に向かって遙拝した。
 応神天皇や神功皇后(321年-389年)が播磨国を巡幸した記録は各地に多い。

 859年(貞観元年)、甲山に社殿を造営し八幡神社とした。
 当社のすぐ西を流れる市川沿いにある神崎郡福崎町、姫路市船津町、姫路市砥堀(とほり)の地域には、平安時代末期に蔭山荘という荘園があり、当社はこの蔭山荘の総氏宮であったと云う。
 蔭山荘に因んで豊富町御蔭(みかげ)の地名ができたと考えられる。また、当地は踏鞴製鉄が盛んな地域であった。

 当社の3.2km南の豊富町御蔭に兼務社の新次神社(にすきじんじゃ)が鎮座、祭神は阿遅須伎高比古尼命(味耜高彦根神)。大和葛城から役行者(えんのぎょうじゃ、634年-706年頃)が来て祀ったと云う。近くに行者堂がある。

 甲八幡神社は歴代の姫路城主からも崇敬され、社領を寄進されたが、社殿は明治27年(1894年)に焼失し、明治34年(1901年)に再建された。
 入口の赤い大鳥居は平成2年(1990年)に再建された。

  入口の大きな赤鳥居、甲山の上にあるので遠方からもよく目立つ。
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   赤い大鳥居の左奥に牛の像と天満宮。
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   階段を登ると、社号標と拝殿。
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   幣殿と本殿
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   八幡神社では「神使いの鳩」が向かい合って「八の字」を象っている。
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   拝殿右手前の境内社(市杵島神社かな?)
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   拝殿右に手前から、藤原社、荒神社(竈神)、豊富命社、皇太神宮。
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   本殿裏に稲荷神社
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# by enki-eden | 2018-11-24 20:43

生田神社(いくたじんじゃ、神戸市中央区)

 兵庫県神戸市中央区下山手通1-2-1   電078-321-3851  駐車場は有料。
 祭神 稚日女尊(わかひるめのみこと)
 創建者 神功皇后(321年-389年)
 初詣は150万人ほどの参詣者で賑わう。

 生田神社会館で株式セミナーがありましたので、久しぶりに生田神社に参拝しました。
 弁財天のご朱印をいただきました
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 拝殿と本殿
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 本殿の西にある「生田の池」に市杵島神社(生田弁財天)、祭神は市杵島姫命。
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 2013年4月17日投稿の「生田神社」をご覧ください。  
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# by enki-eden | 2018-11-20 17:28

高羽丹生神社(たかはにぶじんじゃ、神戸市灘区)

 兵庫県神戸市灘区高羽町(たかはちょう)4-2-2  電078-851-2309
 車を境内に停められるが、通路は狭い。

 祭神 罔象売神(みつはのめのみこと、天照大神の姉妹)、
 明治42年5月5日に八幡大神と須佐男命を合祀。
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 通称・水神さん、「丹生川上神社」が本社。(奈良県吉野郡東吉野村小968)
   
 日本書紀によると、「伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神の軻遇突智(かぐつち)を生んだ時に火傷をして亡くなった。その亡くなろうとするときに、土の神・埴山姫(はにやまひめ)と水の神・罔象女(みつはのめ)を生んだ」とある。

 神戸市の当地は古代には「覚美の郷(かがみのごう)」と云われ、鏡作部(かがみつくりべ)の人たちが住み、水神さんを祀った。
 昔は1.5km北にある六甲山中腹の「滝の奥」(標高約240m)に祀られていた。
   赤のアイコンが丹生神社、黄が「滝の奥」


 この山の尾根の東斜面にある桜ケ丘町の通称・神岡(かみか)より14個の銅鐸と7本の銅戈が出土し、国宝として神戸市立博物館に保存展示されている。 2013年7月31日投稿の「摂津の国の考古学」をご参照ください。

   鳥居と拝殿
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 拝殿右手前には樹齢500年余りの「高羽丹生の楠」があり、神戸市の「市民の木」に指定されている。一願成就のご神木となっている。
 拝殿左横には境内社の磐春稲荷神社と天照皇大神宮が鎮座している。
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# by enki-eden | 2018-11-13 11:12

権現宮證誠神社(しょうせいじんじゃ、神戸市)

 兵庫県神戸市須磨区権現町1-3-2  電078-731-2743   境内に車を停められます。
 祭神 五十猛尊
 通称「権現さん」、987年に紀伊熊野の大神を勧請。
 勝福寺(須磨区大手町、高野山真言宗)の地主神として祀られた。

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 紀伊熊野には熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)が鎮座し、神仏習合の影響を強く受けている。
 更に本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説により、仏や菩薩が本来の姿で、仮に神の姿をとって現れた神を権現(ごんげん)と云うようになった。
 しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により、熊野信仰は以前に比べると衰え、熊野を詣でる人は減少した。

 熊野本宮大社の縁起によると、「天火明命は熊野国造家の祖神で、天火明命の孫である熊野高倉下(たかくらじ)は神武東征に際し、布都御魂(ふつのみたま)の天剣を献じた。
 10代崇神天皇の御代、櫟(いちい)の巨木に三体の月が降臨した。熊野連が尋ねてみると、我は證誠大権現(家都美御子大神、けつみみこのおおかみ=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神と速玉之男大神)である。社殿を創って斎祀れと言われた。
 この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建された。」とある。

 素戔嗚尊の本地垂迹による名が證誠大権現(家都美御子大神)で、当社の社名は権現宮證誠神社であるので、祭神は素戔嗚尊かと思えば、素戔嗚尊の第2子「五十猛尊」になっている。
 尤も、家都美御子大神は諸説あって、素戔嗚、伊弉冉、五十猛などと云われている。
   
 当社は江戸時代には聖霊大権現(しょうりょうだいごんげん)と称していたが、神仏分離令後に祭神を五十猛尊とし、社名も證誠神社と改め、須磨一円の守護神となった。
 紀国造家(紀直氏)は神皇産霊尊の後裔氏族の代表で、「神産霊神三世孫で紀氏の大矢女命が、スサノオと結ばれ、五十猛命を生む」とある。五十猛命は筑紫紀氏と考えられる。

 熊野高倉下は父が天香語山(天火明命の子)で、母が大屋津姫(素戔嗚尊の娘)だから、素戔嗚系(物部氏)でもあり、火明系(海部氏・尾張氏)でもある。
 熊野高倉下の子孫の熊野直・熊野連・熊野国造は物部氏の後裔とされている。

   赤い鳥居
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   拝殿
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 境内社は拝殿右に末廣稲荷神社、拝殿左に大国主命、素戔嗚命と事代主命、大己貴命と蛭子命(えびすのみこと)が鎮座している。
               *****
 イギリスの歴史学者、アーノルド・トインビー(1889年-1975年)の言葉、
 「12才~13才くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる。
  文明が挫折する根本原因は内部の不和と分裂である。」
  2016年7月9日投稿の「戦後日本の反日思想」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-11-06 10:07

金屎・金糞(かなくそ)

 製鉄のときに生じる不純物を金屎・金糞(かなくそ)と云うが、鉱滓(こうさい)、スラグとも云う。

 滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山地(いぶきさんち)、その北部にある滋賀県長浜市と岐阜県揖斐郡(いびぐん)の境界に「金糞岳」(かなくそだけ、きんぷんだけ、1317m)があり、伊吹山(1377m)に次ぐ第2高峰となっている。
 金糞岳から流れ出る東俣谷川(ひがしまただにがわ)周辺に鉱山跡や製鉄遺跡がある。



 東俣谷川は草野川に合流、そして有名な姉川に合流して琵琶湖に注ぐ。琵琶湖周辺は弥生時代には有数の鉄の産地であったので、鉄と水運に関わる有力な諸豪族を輩出した。
 伊香氏(琵琶湖北部の伊香郡)、伊吹山西麓の息長氏(米原市、天野川流域)、坂田氏(姉川流域)、犬上氏(彦根市犬上郡・犬上川流域、子孫に犬上御田鍬)、海人族の和珥氏(大津市和邇)と安曇氏(高島市安曇川、あどがわ)など古代豪族がひしめいていた。

 金糞岳の山名由来が製鉄の「金糞(かなくそ)」だと云う。踏鞴製鉄(たたらせいてつ)の結果、山は禿げて、川は汚染された。
 川は踏鞴製鉄がなくなった今では清流となっているが、踏鞴製鉄が盛んだった頃は下流域の農業には大きな被害があり、農民と製鉄師の争いが頻発する。
 江戸時代の当地は争いを避けるために、「鉄穴流し(かんなながし)」は農閑期に農民によって行われた。農民にとっては良いシステムとなったのではないか。

 福井県と岐阜県の境界にある金草岳(かなくさだけ、1227m)も元は「金糞ヶ岳」で、山麓の鉱山跡に由来する名になっている。



 踏鞴製鉄により、森林が伐採され、大量の土砂が川に流れ出て川底が上がり、大雨の後には川の氾濫が起きる。鉄滓(てつさい)も大量に出て踏鞴製鉄の副作用は大きい。

 更に「金糞」地名を探してみると、
 滋賀県大津市の比良山地に金糞峠(880m)がある。
 愛知県一宮市木曽川町門間(かどま)金屎(かなくそ)と云う地名がある。
 青森県八戸市鮫町(さめまち)金屎(かなくそ)と云う地名もある。
 青森県三沢市金糞平(かなくそたい)は、出雲の製鉄集団が当地に来て踏鞴製鉄をした。たくさんの鉄滓(てつさい)が生じるので地名となったと云う。

 古代の踏鞴製鉄跡は全国各地で確認されている。製鉄炉跡、鉄器、鉄塊、鉄滓などが発見されており、弥生時代前期から踏鞴製鉄が行われていたことが分かる。
 2,400年ほど前から揚子江(長江)周辺から江南人(呉人、越人、楚人)が波状的に日本列島にやってきて弥生時代が始まるが、江南人が水田稲作と弥生土器に加え、砂鉄や褐鉄鉱を原料として踏鞴製鉄を行っていた。

 日本列島は砂鉄の宝庫であった。2,400年前の弥生時代の始まりから踏鞴製鉄が行われていた。しかし3,000年前の縄文時代に、鉄器はないが水田稲作を始めた一部の地域があったが、それは弥生時代とは呼べない。
 「水田稲作」、「弥生土器」、「踏鞴製鉄」が「広範囲の地域」に認められる2,400年前が「弥生時代」の始まりとなる。
 2013年5月に兵庫県立考古博物館で「踏鞴製鉄の再現」実演がありましたのでご覧ください。
「再現初回」「再現2回目」
   
 江南人の中でも渡来数の少ない楚人は文化程度も高く、武力も強大であった。楚人は出雲・吉備を中心として拡大していったが、青銅器と共に鉄器を製造・使用した。
 とりわけ、吉備国のY-DNAには縄文系が少なく、楚系・呉系・黄河系が多い。呉の国姓は姫(き)で、楚の国姓は羋(び)だから、合わせて姫羋(きび)→吉備(きび)になったと私は考えています。
 吉備の枕詞が「真金吹く(まがねふく)」であるように、吉備は踏鞴製鉄の盛んな鉄の産地であった。(真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ   古今和歌集)
 吉備国は黍(キビ)の産地だからと云う説が多いが・・・
 私見ですが、弥生時代末期の素戔嗚(140年頃-200年頃)は楚人の製鉄族だと考えています。

 弥生時代の金属器は青銅器が中心だったが、北部の黄河系の製鉄とは別系統で南部の長江系の踏鞴製鉄を行っていた。
 明治時代と同じで、弥生時代も「鉄は国家なり」であったようだ。記紀の2世紀頃の記事にも製鉄関連の物語が多いが、「製鉄」を「出産」の記事として間接的な比喩で描かれている。

 中国や朝鮮の製鉄は溶融法による銑鉄・鋳鉄から再度脱炭製錬をして「鋼」を造る溶融銑鉄製鉄法(間接製鉄法)であった。
 日本の踏鞴製鉄は、塊錬鉄製鉄法(直接製鉄法)であり、トルコ→インド→ミャンマー→雲南→揚子江(長江)の江南人へと伝わった製法で、江南人が日本列島に波状的に渡来して、踏鞴製鉄・弥生土器・水田稲作などが始まり、2,400年前の弥生時代に入っていった。
 踏鞴製鉄によりできた鉄は不純物を多く含むので、加熱してハンマーで折り返し打撃して不純物を除去する作業が必要になる。

 素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神①)の争いは日本書紀によると、「素戔嗚尊は春には田の畔を壊したり、秋には田の中を荒らした。また天照大神が新嘗祭(にいなめさい)を行っているときに、こっそりとその部屋に糞をした。また天照大神の御殿の屋根に穴をあけて馬の皮を投げ入れた。」などと記されている。

 「田を荒らした」と云うのは、素戔嗚が上流で踏鞴製鉄をしているので川が汚染されて、灌漑ができずに農作物が不作となったことを指すと考えられる。私見ですが、この川は福岡県粕屋郡を流れる猪野川(いのがわ)で、下流では多々良川(たたらがわ)となって博多湾に注ぐ。現在は清流になっている。

 「糞をした」と云うのは、踏鞴製鉄で生じる金糞(かなくそ)がたくさんできて困ったと云うことか。

 「御殿の屋根に穴をあけた」と云うのは、踏鞴製鉄により川の底に土砂が大量に堆積して氾濫がおき、建物が壊れたり、流されたと考えられる。
 このように、日本書紀の表現方法は間接的な比喩によることが多い。
             ***
 私事ですが、先週、買い物に行ってエレベーターに乗った時、後ろから大きな外人が乗ってきました。アメリカ人だと思われる彼はジーパンをはいていましたが、ファスナーが下がっていました。
 私は「前が開いているよ」と教えてあげましたが、彼は勘違いして持っている買い物袋を確認しようとしましたので、私は露骨ですが指をさして「前が開いているよ」と教えました。
 そうすると彼は慌ててファスナーを上げて、「英語ではXYZ(エックスワイジー)と言います」と云ったので大笑いになりました。
 エレベーターの中で英語の勉強をしました。「XYZ」と云えば良かったんですね。
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# by enki-eden | 2018-10-30 09:43

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

 三角縁神獣鏡は銅鏡の縁(ふち)の断面が三角の形になっている神獣鏡で、直径は20cm前後の大型鏡。これに対し、後漢(西暦25年-220年)や魏(220年-265年)から日本へ入ってきた銅鏡は小型と中型しかなかった。

 日本に前漢鏡が流入するのは弥生時代中期のBC2世紀頃からで、実用よりも祭祀用が主であった。墳墓の副葬品としても使われた。

 BC1世紀の前漢鏡は、文字を主要な文様とする「異体字銘帯鏡」を特色とする。これは、長年争っていた前漢と匈奴が和解した時期であるので、異民族向けに漢字を模様化して銅鏡に彫ったのではないか。北部九州の墓からも出土する。

 BC1世紀後半から紀元1 世紀前半頃になると動物を細線で描いた方格規矩四神鏡や細線式獣帯鏡が出現した。列島では100ほどの小国家群が成立しており、前漢・後漢と交易した。

 1 世紀中頃から後半にかけての後漢時代には、内行花文鏡、盤龍鏡、画象鏡が出現した。漢委奴国王の時代である。奴国が北部九州の倭国を代表して交易を進めた。
 西暦107年になると、奴国王帥升(4代目奴国王の角杙尊か)が後漢から倭王と認められ、交易的にも政治的にも倭国を代表するようになる。

 倭国でも3世紀頃から銅鏡が造られるようになった。卑弥呼(天照大神②、179年-247年)と臺與(天照大神③、235年頃-295年頃)の活躍時期である。
 天照大神が岩屋に隠れた時、石凝姥(いしこりどめ)が「八咫鏡」を造って天照大神を導き出した。これは卑弥呼が247年に亡くなり(岩屋に隠れる)、臺與が248年に2代目女王として就任する(岩屋から出てくる)ことを示している。

 石凝姥の父は天糠戸(あめのぬかと、鏡作連の祖)で、天糠戸は西暦185年頃の饒速日東遷の時に大和国へやってきた。
 大和では銅鐸を造っていたと考えられるが、10代崇神天皇(251年-301年)の時代になると銅鐸祭祀が廃止され、三角縁神獣鏡を大量に生産するようになる。
 三角縁神獣鏡は古墳時代前期の副葬品として大量に使用された。

 2世紀中頃までの遺跡から出土した中国鏡の分布は北部九州の倭国が中心であったが、饒速日東遷(185年頃)、神武東遷(204年頃)、臺與東遷(270年頃)などによって、北部九州の人々と文化が大和国に移動し、中国鏡の分布は近畿地方が中心に変わった。
 日本の政治・経済・社会の中心地が北部九州の倭国から近畿の大和国に移っていった。

 三角縁神獣鏡は4世紀から5世紀(古墳時代前期)築造の古墳から出土し、出土地は全国にあるが近畿地方に多い。これまでに500枚以上発見されている。
 鏡に彫られている神獣は、中国の神仙思想による仙人と霊獣である。

 卑弥呼が238年に魏に朝貢した時に100枚の銅鏡を受けたと魏志倭人伝に記載されており、三角縁神獣鏡がそれであると云う説が多い。
 故・森浩一先生(1928年-2013年)が、日本で大量に出土する三角縁神獣鏡が中国では1枚も出土していないのに魏からもらったと考えるのはおかしいと云われた。
 これに対して卑弥呼の特注品だから中国では出土しないと主張する人もいる。出土数が卑弥呼の100枚よりはるかに多いことについては、何度も朝貢交易したからだと云う。

 邪馬台国近畿説を唱える大阪大学大学院の福永伸哉教授(1959年生)は、三角縁神獣鏡の長方形鈕孔は魏の工房に特有な技術であるので三角縁神獣鏡は魏の工房で造られ、邪馬台国は近畿にあったと云っている。
 これに対しては、三角縁神獣鏡の鈕孔は8割ほどが不整形で紐を通しにくいので実用性はなく、副葬品として国内で造られたと云う反論がある。

 中国の考古学者の王仲殊氏(1925年-2015年)は、三角縁神獣鏡は呉(西暦222年-280年)の職人が日本で造ったもので、中国には三角縁神獣鏡は存在しないと述べている。また、平縁神獣鏡は長江流域の呉鏡で、黄河流域の魏鏡ではないとも云う。
 呉と交易している大和に呉の鏡職人が来たのか、280年に呉が滅んで、鏡職人が大和に亡命してきたのか。
 大阪府和泉市の黄金塚古墳出土の画文帯神獣鏡(径23cm)には、魏の年号である景初3年(329年)銘が彫られている。

 10代崇神天皇(西暦251年-301年)は、西暦300年頃に出雲大社の神宝を見たいと云って、物部武諸隅(280年頃出生)を出雲に遣わして、神宝を献上させた。
 その頃、丹波の氷上(ひかみ、加古川上流地域)の氷香戸辺(ひかとべ)が皇太子(11代垂仁天皇、265年-310年)に申し上げて、「子どもが神がかりして、出雲の神宝の鏡や玉について詠っています」と報告すると、崇神天皇は鏡を祀ることを命じた。

 これ以降、副葬品に大量の三角縁神獣鏡が使用されることになる。三角縁神獣鏡を大和で大量に製造し、各皇族・豪族に配布したと考えられる。
 大量に必要となった銅は中国から輸入したと考えられる。また、銅鐸祭祀を禁止したので、鋳つぶした銅鐸で鏡や矢じりを造ったようだ。銅鐸も原料は中国から輸入していたと考えられる。

 奈良県磯城郡田原本町八尾に「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)が鎮座、当地に鏡作部(かがみつくりべ)が居住して鏡を製造した。祖神は石凝姥(いしこりどめ)で神社の創建は崇神天皇6年。   



 このほか、当地周辺には鏡作麻気神社(小阪)、鏡作伊多神社(2社、宮古と保津)、石見鏡作神社(石見)も鎮座している。

 「黒塚古墳」からは画文帯神獣鏡1枚と三角縁神獣鏡が33枚出土した。    
 画文帯神獣鏡は3世紀中頃築造の「ホケノ山古墳」から出土、中国南部の呉で造られ、近畿地方に出土が多い。   
 北部九州の倭王・卑弥呼が「中国北部の魏」と交易していた3世紀に、近畿の大和・天皇家は魏と対決している「中国南部の呉」と交易をしていたかもしれない。
 画文帯神獣鏡(5世紀の国産鏡で橿原市新沢109号墳出土)、橿原考古学研究所付属博物館。
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 三角縁神獣鏡(奈良県北葛城郡広陵町にある4世紀築造の前方後方墳・新山古墳出土、レプリカ)、橿原考古学研究所付属博物館、本体は宮内庁蔵。
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 京都市左京区鹿ヶ谷(ししがたに)の泉屋博古館(せんおくはくこかん)は住友家の美術コレクションを保存展示しており、中国古代の青銅器が中心になっている。
 泉屋博古館は黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡を蛍光X線分析し、鏡に含まれる錫、銀、アンチモンの組成数値を調べたところ、古代中国の前漢後期から三国時代(紀元前1世紀~紀元3世紀)の鏡の組成数値の分布エリアに収まることが判明した。
 黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡と前漢後期から三国時代の中国鏡が、同様の原材料で作られている可能性がある。
 黒塚古墳から出土した画文帯神獣鏡1面も、同じ分布エリア内に収まっている。

 泉屋博古館は京都府城陽市の久津川車塚古墳出土の三角縁神獣鏡などを蛍光X線分析し、同様の結果を得ていた。広川守副館長は「黒塚古墳の鏡は材料的には中国産と考えられる。どこで作られたのかは分からないが、中国で製作された可能性もある」としている。
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# by enki-eden | 2018-10-21 11:15

物部麁鹿火(もののべのあらかひ)

 物部麁鹿火大連(おおむらじ)は饒速日尊14世孫、536年没。
 父は物部麻佐良大連、母は須羽直(すわのあたい)の女(むすめ)・妹古(いもこ)。
 物部麁鹿火は25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇、28代宣化天皇に仕えた大連で、武烈天皇崩御の後、507年に継体天皇を擁立した。

 麁鹿火は527年の筑紫国「磐井(いわい)の乱」で討伐将軍として出征、翌年に磐井を討って処刑した。磐井の子・筑紫君葛子(くずこ)は父の連座から逃れる為、「糟屋の屯倉(かすやのみやけ、福岡県糟屋郡)」を献上し、死罪を免れた。
 継体天皇は「長門より東の方は自分が治めよう。筑紫以西は麁鹿火が統括せよ」と云った。
 西暦201年頃の国譲りで、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)が卑弥呼(天照大神②)に献上されたが、今回の物部麁鹿火の武勲により、国譲りから330年後に再び出雲族出自の物部氏が九州を治めることになった。

 前回の投稿「下照姫」の最後に、『先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・』と記したが、物部麁鹿火が九州を統括することになったので、麁鹿火と同じ饒速日尊14世孫で従弟の阿遅古(あじこ)に筑後川南部一帯を治めさせたと考えられる。
 その結果、水沼氏は阿遅古の配下となり、先代旧事本紀には「阿遅古は水沼氏の祖」と云う表現が使われたと考えられる。姻戚関係を結んで物部氏に取り込んでいった。
 物部氏はこのようにして、配下に「物部八十氏」或いは「物部百八十氏」と云われる大きな集団となった。諸国の多くの国造家としても繁栄した。

 物部麁鹿火の墳墓は大和国の大和川周辺にあると考えられるが、麁鹿火の墳墓の可能性があるのは奈良県天理市豊田町の豊田トンド山古墳。7世紀前半の築造で、直径約30mの円墳。
 石上神宮の1.3km北西にあり、物部氏の本拠地の布留遺跡を見下ろす位置にある。
 天理市教育委員会は「当地周辺を拠点にした豪族・物部氏の首長クラスの墓だった可能性がある」としている。



 福岡県嘉穂郡(かほぐん)桂川町(けいせんまち)寿命(じゅめい)の「桂川大塚古墳」が麁鹿火の墳墓と云う説がある。  
 桂川大塚古墳は、復元すると全長86mの前方後円墳で、遠賀川流域では最大、6世紀中頃築造の装飾古墳になっている。時代は麁鹿火と合うが・・・
 円形埴輪が出土し、斜面には葺石があり、二重の周濠が巡らされていたようだが、前方部は住宅などになっており形が少し残るのみ。すぐ横には大塚装飾古墳館があり、穂波川(ほなみがわ)が流れている。穂波川は少し下流になると遠賀川に合流する。
 王塚古墳は未盗掘だったので多くの副葬品が出土、重要文化財に指定され京都国立博物館に保管されている。



 物部氏は軍事、刑罰、祭祀に優れ、10代崇神天皇以降は天皇家と共に発展してきた。物部守屋が587年に蘇我氏に敗れ、物部氏の勢力に陰りが見えたが、40代天武天皇(686年崩御)の時に朝臣となり、石上(いそのかみ)氏と改めた。
 物部氏は軍事と祭祀には優れていたが、政治力がやや弱かったのではないだろうか。それに比べて蘇我氏や中臣氏(藤原氏)は政治力に長けていた。

 継体天皇から九州以西の統括を任された物部麁鹿火は、朝鮮半島南部の任那運営には消極的で、大伴金村の失敗もあり、任那は新羅によって滅亡する。
 任那の滅亡は562年とされているが、663年の「白村江の戦」で日本が敗れたことにより、任那は新羅によって滅ぼされたと考えられる。
 白村江の戦の指揮官は、安曇比羅夫(あずみのひらふ)であったが戦死した。安曇比羅夫は穂高神社(長野県安曇野市)に祀られている。海人族は実行部隊であって、戦略・戦術を駆使する指揮官には向かない。
 「白村江の戦」では、日本軍に戦略・戦術がなく、突撃により大敗した。太平洋戦争の敗北に似ている。
 白村江で物部氏が将軍として指揮を執っておれば違う結果になったであろうが、物部の勢力が弱まっており活躍の場がなかった。
 当時の最有力豪族は中臣氏で政治と祭祀は得意であったが、軍事には疎かった。
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# by enki-eden | 2018-10-14 11:19

下照姫(したてるひめ)

 下照姫は高姫(たかひめ)、稚国玉(わかくにたま)とも云う。
 父は大国主命(160年頃-220年頃、出雲・宗像)、母は田心姫(たごりひめ、宇佐・宗像)、兄は味耜高彦根命(あじすきたかひこね、迦毛大御神)。

 日本書紀によると、大国主命に国譲りを迫るために、高皇産霊尊が天津国玉神の子・天稚彦(あめのわかひこ)を遣わしたが、天稚彦は大国主命の娘の下照姫を妻として帰って来なかった。

 天稚彦は味耜高彦根命とも仲が良く、二人は風貌が似ていたが、やがて天稚彦は高天原により殺されてしまう。
 天稚彦の喪中に下照姫が詠んだ歌がある。最初の和歌と云われるが、素戔嗚の「八雲立つ」歌の方が古い。
 あめ(天)なるや おとたなばた(弟織女)の うながせる たまのみすまる(御統)の 
 あなたま(穴玉)はや みたにふたわたらす あぢすきたかひこね

   高天原にいる弟織女(おとたなばた)が頸にかけている玉の御統(みすまる)、
   穴玉は美しいが、谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神と同じだ。
 弟織女は卑弥呼(179年-247年)のことかもしれない。私見ですが、下照姫は卑弥呼と従妹(いとこ)で、同じ時代を生きた。
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 高皇産霊尊は次に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を遣わして大国主命に国譲りを迫る。事代主命が国譲りを認めたこともあり、大国主命は承諾した。
 国譲りは西暦201年頃に成立したと私は考えています。但し、国譲りの地域は出雲国ではなく、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)であった。
 出雲国(島根県)は大国主命の本拠地であり、出雲国を譲ることはなかった。

 海人族の宗像(むなかた)氏は、大国主命の筑紫の本拠地である宗像大社(宗像三女神)を祀る。宗像氏は大国主命の後裔で、宗像国(宗像市)と刺国(福津市)を中心として玄界灘と響灘を支配する豪族であった。大陸との交易で財を成した。
 宗像徳善(胸形君徳善)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)は40代天武天皇(686年崩御)の妃となり、高市皇子(654年-696年)を生む。徳善は684年に宗像朝臣を賜い、高市皇子は690年に太政大臣にまで出世する。
 平安時代には宗像氏は平家と関係が深かったが、その後は源氏と密接に繋がり、10世紀になると宗像氏が太宰府の高官に任命されるようになる。更に宗像氏は武士としても発展していく。

 出雲国風土記に、大穴持命(大国主命)の子として記されている「阿陀加夜努志多伎吉比売命、あだかやぬしたききひめ」が下照姫ではないかと云うが、違うと云う説もある。

 鳥取県東伯郡(とうはくぐん)湯梨浜町(ゆりはまちょう)宮内に鎮座の倭文神社(しとりじんじゃ、伯耆国一宮)の由緒によると、
 「下照姫は大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励んだ。しかし、高天原から天稚彦が遣わされ国譲りを要求したが、天稚彦は下照姫と結婚して帰らなかった。そこで高天原から遣わされたキジを天稚彦が射殺したことが原因で天稚彦は殺されてしまう。
 下照姫は海路で伯耆国宇野にやってきて、当地に住み着き、安産の指導、農業開発、医療普及などに努めた」とある。「倭文神社のHP」
   
 福岡県久留米市大善寺町宮本に鎮座の大善寺玉垂宮(だいぜんじたまだれぐう)の祭神は玉垂命、八幡大神、住吉大神になっている。「大善寺玉垂宮のHP」  
 水沼(みぬま)氏が始祖を玉垂神として祀った。玉垂神の末裔が当社宮司の隈氏で、現宮司の隈正實氏のご先祖は、ミマキイリヒコイニエ(後の10代崇神天皇、251年-301年)に仕え、その後に大善寺玉垂宮の宮司になった。当社は1,800年以上も続いている古社。
 それであれば、西暦270年頃に臺與(235年頃-295年頃)と共に大和国へ東遷したミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)に隈氏も随行し、やがて故郷に戻り玉垂宮の宮司になったと云うことでしょうか。崇神天皇は東遷する前は、伊都国と紀伊国の王だったと私は見ています。

 大善寺玉垂宮の当初の祭神は、下照姫が玉垂姫神として祀られたと云う。玉垂姫神の墳墓は2km南西の久留米市三潴町(みづままち)高三潴139に鎮座の月読神社にある高良御廟塚古墳(20mの円墳)と云う説があるが・・・
 大善寺玉垂宮は三潴(みずま)の総社で、9km北東に鎮座の筑後国一宮・高良大社(こうらたいしゃ、高良玉垂宮)の元宮と云う。 「高良大社」のHP
     
 大善寺玉垂宮は広川沿いに鎮座しており、広川は八女山地から流れ出て上流には岩戸山古墳がある。広川は当社の前を過ぎて筑後川に注ぐ。
 当社の近くには御塚古墳(おんつかこふん、5世紀築造、国指定史跡)と権現塚古墳(ごんげんづかこふん、6世紀築造)があり、水沼氏の墳墓と見られる。



 海人族は高三潴、高尾張、高鴨、高天原などと本拠地に「高」を付ける。
 天津国玉神と天稚彦の本拠地は耳納山地から高三潴(たかみずま)一帯だった可能性が高い。玉垂命については諸説あるが、本来は天津国玉神ではないか。
 大善寺玉垂宮も高良玉垂宮も水沼氏が祀っていたと考えられるが、天稚彦が大国主命に加勢した為に、高皇産霊尊に耳納山地と高良玉垂宮を取り上げられてしまった。
 しかし、天津国玉神が玉垂宮を一夜だけ貸してほしいと高皇産霊尊に頼み込んで、そのまま居座ってしまったと考えられる。
 神社の祭神と斎主(いわいぬし)は時代と共に変遷していくことになる。

 三潴は筑後川の南部にあり、耳納山地(みのうさんち)を東に仰ぐ地域で、筑後川を北に渡れば高天原も近い。水路で奴国(博多)にも近いし、有明海から出ると大陸にも行ける。
 耳納(みのう)の地名は岐阜県の美濃(みの)と似ているので、美濃と間違えた伝承があるのではないか。日本書紀に「天稚彦の殯(もがり)で味耜高彦根が喪屋を切り倒した。その小屋が下界に落ちて山となった。これが美濃国の喪山である」とある。美濃は耳納の間違いと考えられる。
 耳納国は魏志倭人伝記載の「彌奴国(みなこく)」かもしれない。

 天稚彦が亡くなった後、国譲りも成立し、下照姫が伯耆国に去って行ったが、水沼氏は宗像三女神も祀ることになる。
 私見ですが、水沼氏の祖神は玉垂命(天津国玉神)で、子神の天稚彦が田心姫(宗像三女神)の娘・下照姫を妻としたので宗像三女神も祀るようになったと考えています。天津国玉神は筑後川南部周辺を治めていた海人族であったと見ています。

 大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼(みぬま)を 都と成しつ
   万葉集4261  作者不明  壬申の乱が治まった後の歌
 この歌の水沼(みぬま)は久留米市の水沼ではなく、奈良の明日香(飛鳥)のことだと思います。壬申の乱(672年)の後、40代天武天皇は飛鳥を都にしたので、この歌が詠まれた。
 「飛ぶ鳥の明日香」と云うように、飛鳥の地は「水鳥が飛び交う湿地帯」であったので、歌では「水沼」と詠んだのでしょう。
 古代の大和は中央に大和湖があり、その南部の湿地帯に飛鳥が位置している。飛鳥川や曽我川が大和湖に注いでいた。

 水沼君とよく似た名前に「水沼別(みぬまのわけ)」があるが、水沼君とは別系統の氏族。水沼別の始祖は12代景行天皇の皇子で国乳別皇子(くにちわけのおうじ)と云うが、はっきりしない。氏神は弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)となっている。

 先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・
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# by enki-eden | 2018-10-08 12:04

布都(ふつ)

 布都は素戔嗚(すさのお、140年頃-200年頃)の父の名。布都が所持していた剣は布都御魂(ふつのみたま)で、「石上神宮」のご神体となっている。
 布都御魂剣は全長85cmの鉄刀で内反り(逆反り)になっている。
  
 布都斯(ふつし)は素戔嗚の実名で、布都斯魂剣(天羽々斬、あめのははきり)も石上神宮に奉安されている。素戔嗚がこの剣で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。
 布都は「真実の男」と云う意味だろうか。「素戔嗚と楚」をご参照ください。
   
 真経津鏡(まふつのかがみ)は三種の神器のひとつである「八咫鏡(やたのかがみ)」の別名。「真実の宝鏡」と云う意味だと考えられる。
   
 経津主神(ふつぬしのかみ)は日本書紀に登場し、藤原氏の香取神宮、春日大社で祀られる。
出雲国風土記には布都怒志命と記す。
 経津主神は本来物部氏の祖神であるが、物部氏の勢力が衰えた後は中臣氏(藤原氏)に取り込まれてしまい、日本書紀には伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち)を斬った際に経津主が生まれたとある。また、大国主命に国譲りを迫った武神としても記されている。

 8代孝元天皇(238年-293年)と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の皇子に、彦太忍信命(ひこふつおしのまこと)がいる。古事記では比古布都押之信命と記される。「誠に偉大な、真実の皇子」と云う意味でしょうか。

 物部布都久留(もののべのふつくる)は21代雄略天皇(432年-479年)と22代清寧天皇(484年崩御)に仕えた。

 布都姫(ふつひめ)は物部尾輿(6世紀半ば)の娘。

 布都御魂の剣から連想して、布都(ふつ)は「剣で物を切る音」や「断ち切る様」とする説が多いが、上にあげた人名・神名などから、フツは「全く、本当の、真実の」と云う意味ではないかと私は考えています。
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# by enki-eden | 2018-10-02 00:07

石野先生講演会「淡路の初期銅鐸群と鉄器工房群―国生み神話の原郷」

 9月29日(土)の午後1時半から3時まで、兵庫県立考古博物館で石野先生の講演会がありました。淡路の銅鐸と鉄器工房のお話でした。
 本日の講演は当初7月7日に予定されていましたが、台風の影響で今日に延期されました。ところが今回も明日には台風が来ると云うタイミングになり、石野先生は、私は「嵐を呼ぶ男」ですと挨拶され、会場は大笑い。これは石原裕次郎主演の映画で1957年に公開されました。
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 兵庫県は旧五カ国が一つの県になっていることもあり、銅鐸の出土数が全国で一番多い。全国で500個余りの出土数があるが、兵庫県では70個ぐらい出土している。
 淡路島から出土する銅鐸は古い形ばかりである。しかも舌(ぜつ)も一緒に埋納している。これは、淡路では他地域よりも早く銅鐸祭祀が終了して新しい祭祀に変わったのか?
 国生み神話には、オノコロ島と淡路島が最初にできたと云う記事があるが、それとの関連性があるのかもしれない。
 皇室と淡路島の関係も深い。

 銅鐸の埋納方法は、鰭の部分を上下にして埋納する。これは、銅鐸両面の模様が上下になることを避け、左右に並ぶ形にしていると考えられる。それは何故か?

 銅鐸が出土すると、中には土が入っている。土は自然に入ってくるが、土が充満していることはない。土が入った部分と入っていない部分では錆び方が違うので、土を出した後でもすぐに分かる。
 ところが、淡路の銅鐸はぎっしり一杯土が入っているので、これは埋納する時に土を詰めているのだと思う。
 舌(ぜつ)を付けたまま、土を一杯詰めて、もう2度と使わないぞと云うことか。
 とにかく、淡路の文化は多地域とは違う、特別だ。

 五斗長(ごっさ)垣内(かいと)鉄器工房群は大量の鉄器を制作し、他地域へ出荷していた。舟木遺跡も膨大な遺物が出てくるが、全体像はまだこれからだ。
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# by enki-eden | 2018-09-29 20:46

厳島神社(神戸市中央区花隈町)

 兵庫県神戸市中央区花隈町(はなくまちょう)6-5
 境内に車を停められるが、狭いので道向かいの有料駐車場を利用する。

 祭神 市杵島姫命(弁天さん)、大物主命(金毘羅さん)。
 航海安全、芸能向上。



 平清盛(1118年-1181年)が福原京造営時(1180年)に安芸国宮島から勧請した厳島神社七社(清盛七弁天)の一社。
 清盛が七社と決めたのは、『安芸の宮島 回れば里 浦は浦 恵比須』と謡われていたので、七は縁起のいい数字だからと云う。

 当社は花隈村清水にあったので「花隈弁天」と呼ばれたが、1568年に花隈城が造営されたので花隈弁天は「生田神社」境内に遷された。 
 その後、六甲山から神戸港に注ぐ宇治川河口に遷されたので「浜の弁天」と呼ばれ、海岸は弁天浜と呼ばれた。現在でもJR神戸駅前のハーバーランドに神戸市中央区弁天町と云う地名が残っている。
 更に明治元年に栄町6丁目に遷り、その後最初にあった花隈町に戻り、花隈城跡(花隈公園)の北に「花隈弁天」として遷座した。

   入口の赤鳥居、神額には「神戸最初船場鎮守」。
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   拝殿、前の灯篭は嘉永3年(1850年)建立。
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 私見ですが、祭神の市杵島姫命(西暦160年頃出生)は卑弥呼(西暦179年-247年)の母ではないかと考えています。4月6日投稿の「天月神命」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-09-26 08:50

三王神社(さんのうじんじゃ、神戸市東灘区)

 兵庫県神戸市東灘区田中町2-2-1  電078-411-4648  無料駐車場あります。
 通称「さんのうさん」
 祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)

 当地は徳川幕府直轄の天領であった。


   
 大山咋命は近江国の日技の山(比叡山、848m)に坐し(日吉大社の東本宮)、また葛野の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を持つ神(松尾大社)とある。
 大山咋命は主として山城と丹波の開拓事業に専念し、土木技術にすぐれた神として尊崇をうけ、殖産興業、農業・醸造・安産・治病・学芸等幅広い守護神として信仰されている。

 大山咋命(山末之大主神)の父は大歳神、母は天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)。
山王信仰で「山王さん」と呼ばれている。

   山王鳥居と拝殿
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   山王稲荷神社(宇迦之御魂=大歳神の妹)
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# by enki-eden | 2018-09-20 09:12

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福應神社(ふくおうじんじゃ、西宮市)

 兵庫県西宮市今津大東町1-28  電0798-26-0769  車を境内に停められます。
 祭神 八重事代主命
 福の宮、えべっさん。

 名神高速道路建設のために、昭和41年に少し南の現在地に遷座した。
 700m東南に甲子園球場、1km南西に勝海舟が計画した今津砲台跡記念碑がある。



 神社の由緒によると、かつて今津の浦に神霊が降臨し、『この浦のすがすがしき地に我を斎き祀れ。されば万人守護し諸願成就を得さしむ。』という神託があった。
 そこで人々が大和国三輪の古社(「三輪恵比須神社」と思われる)から勧請して奉斎したのが始まりと云う。   

 文禄の頃(16世紀終わり頃)、107代後陽成(ごようぜい)天皇(1571年-1617年)の名代参拝があり、「福に應ずる宮」すなわち「福應神社」の社号を賜った。

 福の神として、「西宮神社」「越木岩神社」と共に「西宮三福神」と称され信仰を集めている。

   鳥居と拝殿
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   金刀比羅神社と松尾神社
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   穴尾稲荷神社、白髭稲荷神社
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# by enki-eden | 2018-09-14 09:48

越木岩神社(こしきいわじんじゃ、西宮市)

 兵庫県西宮市甑岩町(こしきいわちょう)5-4  電0798-31-0009 無料駐車場あります。
 六甲山麓に鎮座
  
 3km南に鎮座の「えびす宮」・西宮神社に対して、当社は「北の戎」。
 祭神 蛭子大神(えびすおおかみ、えべっさん、福の神)
 御神徳は女性守護、子宝、安産、商売繁盛。

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 ゑびす宮総本社の西宮神社の西の県道82号線を北に向かったが、正面に甲山(かぶとやま、309m)が見えて良かった。
 しかし、この82号線は渋滞が酷く、兵庫県も西宮市も渋滞対策を怠っている。

 土社(大地主大神、おおとこぬしのおおかみ)、旧・大国主西神社と云われる。
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 拝殿(神額には蛭子太神宮と記されている)
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 本殿、六甲山麓の境内は天然記念物の森に覆われている。
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 本殿後方に古代からの磐座信仰(いわくらしんこう)の岩社があり、祭神は市杵島姫大神。
 ご神体の甑岩(こしきいわ、甑岩大神)は高さ10m、周囲40mの花崗岩。岩の形状が酒米を蒸す時の甑(こしき)に似ているので名付けられた。
 鹿児島県薩摩川内市の沖合に甑島列島があり、甑(蒸籠)の形をした巨石が甑大明神として信仰されているのは、当神社の甑岩と共通している。どちらも、古代からの磐座信仰。
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 大崎稲荷社(除災招福・鎮火)と白玉稲荷社(伏見稲荷大神を勧請)
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 本殿左後方に六甲山社(菊理姫大神)。
 日本書紀の一書によると、菊理姫(くくりひめ)は泉津平坂(よもつひらさか)で喧嘩をしている伊弉諾命と伊弉冉命をとりなしたことにより、縁結びの神とされる。
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 水神社、太古より湧き出る霊水があり、罔象免(みずはのめ)大神を祀る。
 左横に不動明王がある。
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 拝殿の右手前に大きな相撲場がある。毎年秋季例大祭として恒例の相撲大会があり、赤ちゃんの「泣きずもう」も行われる。
 泣きずもうは、土俵の真ん中に立って邪気を払うと云うもので、参加者が大変多い。お子様を授かったことに感謝すると共に、健康に育つように祈願する行事で、テレビでも報道されている。
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# by enki-eden | 2018-09-07 13:50

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓い(みそぎはらい)

 伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)は倭王兼7代目奴国王であったが、「タウポ火山の噴火」による地球規模の天候異変の影響で、西暦180年代に起きた倭国大乱により権威失墜し、淡路島に隠遁した。神陵に「伊弉諾神宮」が建立されている。
  
 日本書紀によると伊弉諾尊が、亡くなった伊弉冉命(いざなみのみこと)を黄泉の国(よみのくに、出雲)まで追いかけて行ったが、約束を守らず喧嘩別れになり、島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の泉津平坂(よもつひらさか、黄泉比良坂・伊賦夜坂)で縁切りして、逃げて還った。
 泉津平坂は35mほどの小高い山間にあり、この世と黄泉の国との境界になっている。小さな池と少し大きな池の間にあり、大きな岩が行く手を遮る。
 800mほど北西に揖夜神社(いやじんじゃ)が鎮座しており、伊弉冉命を祀っている。



 伊弉諾尊は筑紫に帰還して、「日向(ひむか)の川の落ち口の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」で穢れ(けがれ)を清める禊祓い(みそぎはらい)をした。
 この時期は西暦170年から180年頃ではないかと思います。

 出雲から筑紫に船で帰ってくるときに、ランドマークとして立花山(たちばなやま、367m)を目指して船を漕いでくる。
 立花山に近づくと、新宮海岸(しんぐうかいがん)に着き、港もある。現在は新宮漁港として整備されている。伊弉諾尊が出雲から帰還して上陸したのはこの新宮海岸だったのではないか。
 立花山の麓からは湊川が流れ、新宮海岸に注いでいる。伊弉諾尊が「日向の川の落ち口の橘の檍原」で禊祓いをした川はこの湊川と考えられる。
 檍原(あわきはら)は立花山から新宮海岸までの雑木林を云うのでしょう。現在は開発されて市街地になっている。
 伊弉諾尊が禊祓いをした時に、多くの神々が生まれている。伊弉諾尊は湊川で禊祓いを終えると、博多湾に入り王宮に戻っていった。
  赤が新宮海岸、黄が湊川、青が立花山。


 新宮海岸の松林(楯の松原)の中の福岡県糟屋郡(かすやぐん)新宮町(しんぐうまち)下府(しものふ)に新宮神社が鎮座。
 祭神は墨江三前神(すみのえみまえのかみ)で、底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神の三柱の神(住吉三神)。住吉三神は伊弉諾尊が禊祓いをした時に生まれた。
 福岡市博多区住吉に筑前国一宮の住吉神社が鎮座しており、当地を檍原(あわきはら)に比定する説もある。

 新宮神社の2kmほど東南の糟屋郡新宮町上府(かみのふ)にも新宮神社が鎮座。祭神は熊野楠日命(くまのくすひのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
 新宮神社は元々湊川河口に鎮座していたが、上府村と下府村が神社運営に関して意見が分かれたので、上府村と下府村に分社して二社に分かれたと云う。

 湊川の河口付近には、糟屋郡新宮町新宮に磯崎神社が鎮座、祭神は大己貴命、少彦名命、素戔嗚命。糟屋郡新宮町湊には綿津見神社が鎮座、祭神は綿津見三神で、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神。1.2km南西の福岡市東区三苫(みとま)にも綿津見神社が鎮座。
 綿津見三神は阿曇連(あずみのむらじ)がお祀りしており、伊弉諾尊が禊祓いをした時に住吉三神と共に生まれた。

 立花山の麓の糟屋郡新宮町立花口に六所神社が鎮座。立花口と云う地名が示すように、駐車場に車を停めて立花山に登れるようになっている。
 祭神は加茂大神、春日大神、天照大御神、宇賀大神、熱田大神、木舟大神。伊弉諾尊の禊祓いの由来により、天照大神が鎮座されたと云う。
 伊弉諾尊が禊祓いの時に、左の眼を洗うと天照大神が生まれ、右の眼を洗うと月読尊(つくよみのみこと)が生まれ、鼻を洗うと素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれた。

 六所神社より600mほど下った糟屋郡新宮町原上(はるがみ)に川上神社が鎮座。祭神は豊玉姫命、玉依姫命、神功皇后、伊弉册命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
 昔は香椎宮の末社となっており、香椎宮の大宮司が参拝のため原上(はるがみ)の神功屋敷(現在は皇后屋敷)に宿泊し、貢物を奉納していた。

 福岡市中央区に鎮座の警固神社(けごじんじゃ)には、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直日神(かんなおひのかみ)、大直日神(おおなおひのかみ)が祀られている。この三柱の神(警固大神)は伊弉諾尊の禊祓いの時、最初に生まれた。
  
 伊弉諾尊の禊祓いを由来として、宮中では「大祓い」が行われてきた。全国の神社でも年中行事の一つとして6月に夏越(なごし)の祓い、12月に大祓いが執り行われている。
 黄泉の国から還ることを蘇る(よみがえる)として、穢れを禊祓いして新しく生まれ変わることが、神道では大変重要な儀式となっている。

 昨今のニュースを見ていると、指導的な立場にある人が欲深い悪だくみをし、大きく報道されても反省せずに、のうのうと暮らしているのは見苦しい限りです。禊(みそぎ)をしてもらわないといけません。
 こんな世情の中で、山口県周防大島で2才の男児を救助した尾畠春夫さん(78才)には全国民が感動しましたね。
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# by enki-eden | 2018-08-30 13:46

古代史の復元

 日本の古代史は、戦前の「皇国史観」によって大きく歪められ、戦後の「戦後史学」によって抹殺されてしまった。
 皇国史観に依らず、戦後史学に依らず、私は古代史をできるだけ史実に近づけたいと思い、6年前にこのブログを始めました。

 戦後史学が読んではいけないと云う日本書紀、古事記を私はよく読み、それを補完する他の古文書もよく読み、日々進歩する考古学の成果に学び、神社の由緒や土地の伝承を参考にし、博物館に通い、抹殺された古代史の復元に務めた。
 古代の人々の息づかいを感じるようになり、2,000年前のマレビトが家族か友達のように身近に感じるような氣がしてくる。

 歴史には人物、年代、場所の特定が必要であるが、日本書紀は特に「筆法」をふんだんに使っているので、解明には時間がかかる。
 そして21代雄略天皇が暦を統一したことにより、それ以降の年代は分かり易いが、それ以前の年代には色んな暦が使われているので非常に分かりにくくなっている。

 そんな環境の中で、初代奴国王(漢委奴国王)である「国常立尊」の生年が、偶然にも西暦元年だったことは驚きだった。
 そして、卑弥呼の生年が西暦179年、女王即位が西暦201年、没年が西暦247年、
 神武天皇の生年が西暦181年、即位年が西暦211年、崩御年が西暦248年、
 崇神天皇の生年が西暦251年、即位年が西暦295年、崩御年が西暦301年、
 神功皇后の生年が西暦321年、摂政元年が西暦363年、崩御年が西暦389年などと解明した。
 何度も修正を繰り返し、現在では次の図が最新になっています。今後も追加・修正は行います。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 2世紀の終わり頃に「タウポ火山の噴火」により地球規模の気候異変が起き、中国では西暦184年に「黄巾の乱」が起こり、群雄割拠して国が衰えていった。やがて西暦220年に後漢が滅亡、三国時代に入っていく。   

 日本列島では、西暦180年代に「倭国乱」が発生、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)が失脚して淡路島に隠遁。倭国とは北部九州の28カ国のことです。
 西暦140年頃出生の素戔嗚尊が西暦200年頃に亡くなり、大国主命(西暦160年頃出生)が後を継いだ。
 しかし、西暦201年に卑弥呼が倭王に就任して倭国乱が終息、大国主命に北部九州の出雲族支配地を譲るよう強制。出雲族支配地は投馬国(福岡県東部と大分県)と邪馬台国(筑後川周辺)だと考えられる。
 高皇産霊尊(西暦140年頃出生)が大和国(奈良県)の国譲りも目論んで、磐余彦を大和国に派遣、211年に神武天皇として橿原で即位した。
 
 卑弥呼の後を継いだ臺與(235年頃-295年頃)は西暦266年、西晋に朝貢するが、中国の内乱と北方民族の侵入で朝貢貿易を続けられず、270年頃に列島統一(全国の国譲り)を目指して伊都国王の五十瓊殖(いにえ、10代崇神天皇)を伴って大和国に東遷したと考えられる。
 東遷の際、臺與は卑弥呼の遺骸を取り出して大和国に運び、巨大な前方後円墳である箸墓古墳(278m)を築造、西暦280年頃に完成した。
 臺與は卑弥呼を後円部に埋葬、膨大な石積みで盗掘を防いだ。これにより、弥生時代から古墳時代に入っていく。
 祭祀は、弥生時代に楚人の出雲族が中心になって400年間ほど続いた銅鐸祭祀が消滅し、八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉の「三種の神器」で祭祀が行われるようになった。
 臺與は西暦295年頃に自らも箸墓古墳の前方部に埋葬されたと考えられる。
 崇神天皇は295年に即位し、物部氏と結託して全国制覇を目指すことになる。

 巨大な箸墓古墳が築造されてから100年も経たない西暦363年に、神功皇后は新羅に出兵する。これは国内が概ね鎮圧でき、「国譲り」が完成、国家の経済にも余裕が出てきたことを物語っている。
***
 私的な話ですが、私は75才になるので認知機能検査を受けて合格し、次に高齢者講習を受けて、自動車運転免許証の更新をしました。
 去年の年末に車を買い替えたのですが、娘が「74才で車を買う父」と言っていました。あと10年くらい安全運転で元気に乗れたらいいなと思っています。
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# by enki-eden | 2018-08-22 21:48

素戔嗚(すさのお)と楚(そ)

 中国戦国時代の楚の最後の王は「熊負芻(ゆう ふすう)」で、BC265年頃出生、BC223年没。
楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)、楚の最後の王は負芻(ふすう、fuchu)で、秦(BC221年-BC206年)に滅ぼされた。
 秦の人質になっていた昌平君が楚を建て直そうとして秦に背いたが、BC223年に戦死した。

 その秦が反秦連合によりBC206年に滅亡すると、西楚の項羽(こうう、BC232年-BC202年)と漢王の劉邦(りゅうほう、BC256年-BC195年)が楚漢戦争(BC206年からBC202年)で戦う。
 劉邦が勝利し、長安を都とする前漢時代(BC206年-AD8年)に入る。項羽と劉邦はどちらも同じ楚人だと考えられる。
 劉邦が中国を統一したので、本拠地としていた中国西方の「漢中(陝西省南西部)」が中国全体を表わす言葉の「漢」になっていく。漢民族、漢語、漢文、漢字、漢詩、漢土、漢方薬など。

 素戔嗚(布都斯、ふつし、西暦140年頃出生)の父・布都(ふつ)は、楚の最後の王・熊負芻(ゆう ふすう)の名を借用したのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
 素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記され、楚王の(ゆう)氏に因んでいるのか。

 地名・人名の熊本(隈本)、球磨川、熊襲、隈(筑紫野市、日田市など)、熊毛郡(山口県、鹿児島県)、熊鰐(事代主)、羽白熊鷲(はじろくまわし)、千熊長彦(ちくまながひこ)などは楚と関係が深いのではないか。

 私は熊襲の「襲」は「楚」ではないかと考えています。葛城津彦、倭迹迹日百姫もそうではないだろうか。

 素戔嗚系・大国主系は民族的には楚人だと私は考えています。楚人は縄文時代にも日本列島に来て吉備国や有明海地方に住み着いた。
 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。
 出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が中心で、開口部を上にして埋められた。戦争の時に銅鐃の取っ手を持って槌(鎚)で叩き、味方を鼓舞し、敵を威嚇したのでしょう。
 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。
 山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。
 同じように列島では、出雲系が中心になって全国に広まった銅鐸が、結界として傾斜地に埋納された。銅鐸の原型は銅鐃でしょう。2016年7月21日投稿の「銅鐸と銅鐃」をご参照ください。
 
 遺伝子調査は対象人数によって数値が変わるので確定的ではないが、日本人は世界でも少ない「Y遺伝子D系統」を36%ほど持っており、同系統は他にチベット人と一部の西アジア人しかいない。
 日本人にはD系統以外にC系統が6.6%ほどあり、D系統とC系統の42.6%が縄文系である。現在のアイヌ人はD系統を85%ほど持っている。琉球人はD系統とC系統を53.4%ほど持っている。

 日本人は東アジアに多いY遺伝子O系統を53.9%ほど持っている。
 O系統の内訳は、揚子江(長江)の呉系が32.1%ほど、越系が1.4%ほど、楚系が1.4%ほどになっており、これが弥生系である。圧倒的に呉系が多い。黄河系が19%ほどで、その内、漢族系が9%、漢族と交配した揚子江系が10%になっている。

 吉備地方のY遺伝子は日本全体の数値と大きく異なる。D系統は19%ほど、O系統が81%ほどで、縄文系が少ない。多くの縄文人が殺されたり、子孫を残せなかったか。
 O系統の中では、呉系が31%ほど、楚系が19%ほど、黄河系が31%ほどになっている。
 吉備国の地名由来に定説はないが、呉の国姓は姫(き)で楚の国姓は羋(び)なので、姫羋(きび)と呼んだのではないか。姫羋(きび)が吉備(きび)になったのではないかと考えています。
 2014年4月18日投稿の「楚辞」をご参照ください。   
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# by enki-eden | 2018-08-15 17:34

弥生時代(やよいじだい)の始まり

 ウィキペディアによると、『弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
 採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。
 当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。』とある。

 歴博は最後に、『これまでの弥生文化と同じ名称で論を進めると著しい混乱を招くので、その混乱を回避するには,弥生文化の農耕の様態を縄文文化の農耕と区別したうえで,全体枠を生活文化史的経済史的視点から「農耕文化複合」ととらえ,その後に階層分化にもとづく政治的社会の形成(農耕社会の成立)を据える二段構えで弥生文化を理解すべきではないだろうか。』と云っている。歴博の「農耕文化複合と弥生文化」をご覧ください。
  
 この歴博の論法により弥生時代の始まりを紀元前10世紀とすることに、私は同調できません。「時代の転換」を決めるのは、政治・経済・社会が大きく変貌することであって、小規模の稲作が一部地域で確認できただけでは縄文時代の転換にはならないと考えています。
 日本列島での稲作は古くから確認されており、縄文時代にも江南人(揚子江周辺の倭人)が列島へ交易にやってきたり、住み着いたりして稲作も行われている。その渡来数は少なく、列島全体の縄文人の生活が大きく変わるわけではなかった。

 土器から検出されたイネのプラント・オパールの最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5,000年前)の事例があり、このほかにも縄文時代後期中葉(約4,000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
 岡山県南部の総社市南溝手遺跡では縄文時代後期後葉(約3,500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
 吉備地方と有明海地方が江南地方と気候風土が似ていて、江南人(倭人)には住みやすかったと考えられる。
 縄文人も江南に行っていたと考えられ、縄文土器(中国名は拍印縄紋陶)が大量に発見されている。

 およそ2,400年前、列島には、縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの多くの人々が戦争難民として逃亡してきた。揚子江(長江)周辺からやってきた倭人(呉人、越人)である。
 倭人によって、造船技術や水田稲作の技術、金属器の文化などが伝えられ、列島全体に拡がり、政治・経済・社会が大きく変貌、人々の生活は大きく変化して、弥生時代に入っていった。
 その後も大陸の戦乱を避けて、楚人や漢人なども加わり、長期的・波状的に渡来人が増えてきた。 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」をご参照ください。
  
 明治維新の300年以上も前からオランダ人、スペイン人、ポルトガル人などが日本に来て、貿易が進み、キリスト教の布教も行われ、蘭学を真剣に学び、日本人もヨーロッパへ行っている。
 しかし、これで日本全体の政治・経済・社会が大きく変貌したわけではなく、1868年の明治維新により江戸時代から明治時代に大転換した。

 同じように、縄文時代から江南人(倭人)が列島にやってきて、一部の地域で稲作も行われていたが、縄文時代から弥生時代への大転換は、紀元前5世紀に戦乱を原因とする倭人の渡来数が増え、列島全体に弥生文化が急速に広まったことを画期とするのは間違いない。これを機に列島には小国家群が成立して弥生時代に入っていった。
 これは、紀元前473年に呉王夫差が越王勾践により滅ぼされ、難民が四散していったことに始まる。その後、紀元前334年に越王無彊は楚の威王に敗れ、紀元前223年に楚王負芻(ふすう)は秦始皇帝に敗れることになる。列島には波状的に戦争難民が逃れて来た。

 江南人は漢民族に江南を追われ、一部は雲南やインドシナ半島に逃れ、また一部は海路日本へやって来た。縄文人は戦闘的ではなく優しくて、江南人にとって日本の気候も住み易く、急速に日本中に広がって行った。そして水田稲作以外に、高床式住居、千木、鰹木、竹馬、下駄、歌垣、鵜飼等をもたらした。
 また、租税を取ると云う仕組みや、国家創設や政治のシステムをもたらした。

 江南人は銅剣と銅鏡の二種の神器による祭祀をした。従って銅剣は幅広、銅鏡は大型であった。これが弥生時代・古墳時代に日本全体に広がっていく。
 卑弥呼が中国北部の魏からもらった銅鏡は小型であった。三種の神器の一つである八咫の鏡は祭祀用に作られた江南様式の鏡で、大きいのは46cm以上もある。(八咫の鏡とは大きな鏡と云う意味。)
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稗田神社(ひえだじんじゃ、兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町鵤(いかるが)926   電079-276-0577
 祭神 稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)、素戔嗚命。

 旧祭神 豊受姫、素戔嗚命、猿田彦命、天鈿売命(あめのうずめのみこと)。

 古事記は40代天武天皇(622年-686年)の勅により、稗田阿礼が聞き覚え、太安万侶(723年没)が編纂し、和銅5年(712年)に43代元明天皇(660年-721年)に献上されたと云う。
 天鈿女命は猿女君の祖で、猿女君は代々「誦(しょう)と舞」により歴史を伝えてきた。天鈿女命の子孫である稗田阿礼の「誦」を太安万侶が筆録して古事記が編纂された。



 摂政の聖徳太子(574年-622年)が法華経・勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたので、その褒美として33代推古天皇(554年-628年)より播磨国揖保郡の地を賜った。
 聖徳太子は大和の斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺(法隆寺の東隣り)、片岡僧寺(片岡山放光寺、7代孝霊天皇陵の東)の三寺にこの地を分け与えた。佐勢の地(鵤荘、いかるがのしょう)五十万代の内と云われる。

 このため、当地鵤荘には各寺より、寺領の管理や調物微収のため、多くの吏員が大和から派遣された。その吏員の中に稗田氏がおり、祖神を奉祀する媛田神社(売田神社)を奉祀した。それを当地の人々が氏神として尊崇した。神社の説明によると610年頃に山地から平地に遷された。

 創建当時の祭神は稗田氏の祖神である天鈿女命と猿田彦命の二神であったが、後世になって天鈿女命の子孫である阿礼比売命(稗田阿礼)を奉祀することになる。天鈿女命は西暦185年頃の饒速日東遷に従い大和にやってきた。
 奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)稗田319に鎮座の賣太神社(めたじんじゃ)は希代の語り部・稗田阿礼を祀っており、稗田氏(猿女君)の居住地であった。



 稗田阿礼の性別は諸説あるが、稗田神社では女性としている。猿女君の「誦と舞」は主として女性によって演じられたので、稗田阿礼は女性と見るのが妥当でしょう。
 古事記の内容・表現方法も女性の立場からの世界観が垣間見える。

 神仏習合時代には、当社の南600mにある播州斑鳩寺(いかるがでら)の権勢に押されて稗田神社は勢いがなかったが、明治の神仏分離により、明治7年(1874年)村社に列せられ、後に郷社に昇格した。
 当社を上宮とし、播州斑鳩寺の境内に稗田神社の御旅所(下宮)がある。斑鳩寺は揖保郡太子町にある聖徳太子開基の寺院で、奈良の法隆寺の荘園「鵤荘」として法隆寺の経済を支えてきたが、現在は比叡山天台宗系の寺院になっている。

   神門と拝殿、
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 拝殿と左右に大きな神木。
 拝殿前の柱には「神徳輝宇内」、「皇威洽四海」と刻まれている。(神徳により国内が明るく輝くように。皇威が世界に行き渡り、打ち解けあうように。)
 同じような言葉が各地の神社にあるが、福岡県糸島市芥屋3747に鎮座の綿積神社(綿積大神)の入り口鳥居前の注連柱にも「八紘一宇」、「皇威輝四海」と記されている。
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   本殿
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 境内社に太神社(天照大日霊命、太安万呂命)と金刀比羅神社(豊受姫命、事代主命)がある。

 鵤(いかるが)の地名由来は、聖徳太子に因んで奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)だと考えられるが、鳥の名前に鵤(イカル)がある。イカルは角のように丈夫で太い黄色の嘴(くちばし)を持つ。昔、奈良の斑鳩にたくさんいたからイカルと名付けたと云う説がある。
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# by enki-eden | 2018-08-01 09:18