人気ブログランキング |

古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
画像一覧
更新通知を受け取る
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

縄文土器

兵庫県で発見されている縄文遺跡は756ヶ所あり、土器などの出土物は、他の地域で作られたものや、影響を受けて県下で作られたものもある。

兵庫県加古郡播磨町大中の兵庫県立考古博物館で、「縄文土器とその世界-兵庫の1万年」と題し、特別展が420日から623日まで開催されており、250点の縄文土器や土偶などが展示されている。

縄文人は1万年以上にわたり縄文土器を作り続けた。製作時期や地域によって特色があるので、年代の特定や交易の拡がりが分かる。

石器時代に替わって縄文時代(14,000年前~2,400年前)になると、竪穴住居に定住し、縄文土器の製作・使用、農耕、狩猟、漁労、舟による交易など生活に大きな変化が起きた。

「煮炊き」に必要な土器は、形や文様に時代と地域の違いがあり、考古学にとって非常に重要な出土物である。

兵庫県立考古博物館の展示解説文を見ながら、土器の写真を撮りました。(フラッシュは不可)

最初の土器は無文であったが、順に、粘土ひもによる隆起線文土器、爪形をつけた爪形文土器、縄で文様を描く多縄文土器と変わっていく。

次の写真の右側の土器は、縄文時代草創期の土器で、新潟県津南町(つなんまち)の卯ノ木南遺跡出土の深鉢形土器(爪形文+押圧縄文土器)。

次の土器は、縄文時代早期の土器で、兵庫県豊岡市の山宮遺跡(やまのみやいせき)出土の深鉢形土器(ポジティブ楕円文)と石器。

次の土器は、同じく山宮遺跡出土で、縄文早期の山形文の深鉢形土器、

兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21292163.jpg

縄文時代早期には、西日本を中心に底が尖った押型文土器(おしがたもんどき)が作られる。

前期になると、土器の底が平らになり、縄文様が複雑になる。土器の厚さは薄くなり、煮炊き効率が良くなる。

次の写真の右側の土器は、神戸市の都賀遺跡(とがいせき)出土の深鉢形土器、縄文早期で底が尖っている、神戸市教育委員会蔵。

次の土器は、豊岡市の神鍋遺跡(かんなべいせき)出土の深鉢形土器、縄文前期で底が平らになっている、豊岡市教育委員会蔵。

次の土器は、神戸市の雲井遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、神戸市教育委員会蔵。

次の小さい土器は、兵庫県洲本市の武山遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、洲本市教育委員会蔵。

d0287413_21302269.jpg

縄文時代中期になると、東日本で遺跡数が急増し、造形も大胆になる。後期には土器の種類が増え、浅鉢、注口、台付鉢(高杯)などが出現して多様化する。土器の口縁部は平らなものへと変化する。文様も変化し、縄文の一部をすり消す「磨消縄文(すりけしじょうもん)」が描かれる。

「火焔型土器」は新潟県を中心に縄文時代中期(5,000年ほど前)に作られた深鉢形土器。

新潟県津南町(つなんまち)の諏訪前遺跡出土の火焔型土器、津南町教育委員会蔵。

d0287413_21304242.jpg

右の土器は、兵庫県南あわじ市の神子曽遺跡(みこそいせき)出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、神戸市の本山遺跡出土の深鉢形土器、神戸市教育委員会蔵。

次は、兵庫県揖保郡太子町の平方遺跡(ひらかたいせき)出土の深鉢形土器、太子町教育委員会蔵。

奥の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21310451.jpg

右の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、

次も丁・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、どちらも縄文中期、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、姫路市の今宿丁田遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

左手前の土器は、姫路市内出土の鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

d0287413_21312603.jpg

右は、神戸市の原野・沢遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、神戸市教育委員会蔵。

左は、揖保郡太子町の東南遺跡出土の深鉢形土器、縄文後期、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21314421.jpg

東日本では縄文時代晩期まで土器に縄文が付けられたが、西日本では後期後葉から次第に縄文が使われなくなり、晩期には無文となる。その原因はまだはっきり分かっていない。

私見ですが、揚子江周辺の江南人(倭人)が縄文時代中期から後期にかけて吉備地方や有明地方に渡来していたので、その影響で西日本の土器はシンプルになり、無文になったと見ています。

だからといって、弥生時代の始まりが紀元前10世紀になるわけではありません。201889日投稿の「弥生時代の始まり」をご参照ください。

兵庫県加古川市の坂元遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代晩期、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21331324.jpg

右の大きな土器は、兵庫県伊丹市の口酒井遺跡(くちさかいいせき)出土の凸帯文壺、その手前に稲の籾痕付きの浅鉢形土器。縄文時代晩期の伊丹地域では稲作が行われていた。

次は、口酒井遺跡出土の凸帯文の深鉢形土器、縄文晩期。

その奥も口酒井遺跡出土の波状口縁になっている深鉢形土器、縄文晩期。

左手前は口酒井遺跡出土の浅鉢形土器、縄文晩期。

伊丹市教育委員会蔵。

d0287413_21334296.jpg

左は岩手県一関市出土の土製品(土面)、縄文時代晩期、西宮市の辰馬考古資料館蔵、

右は淡路市の富島遺跡(としまいせき)出土の土面、縄文時代後期、兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21335989.jpg

「遮光器土偶」、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡出土、縄文時代晩期、辰馬考古資料館蔵。

d0287413_21341515.jpg

手前の黒い木製品は「掘り棒」で、神戸市の玉津田中遺跡出土、縄文時代晩期。

その奥は、弥生土器の壺、甕、鉢で玉津田中遺跡出土、弥生時代前期、

兵庫県立考古博物館蔵。

d0287413_21343238.jpg

弥生時代前期の木製の彩文鉢と彩文土器壺、姫路市の丁・柳ヶ瀬遺跡出土、上の彩色図は復元図、兵庫県立考古博物館蔵、兵庫県指定文化財。

d0287413_21344960.jpg

博物館の南に隣接する農業用水の狐狸ヶ池にカワウソのような動物がいたが、盛んに水草を食べていたので、ヌートリアでしょう。

タイワンドジョウも数匹見える。アカミミガメが大量に繁殖したので数年前から駆除しているようだ。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-17 01:07

庭田神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町能倉(よくら)1286  電0790-72-0315  無料駐車場あります。

祭神 事代主命

 2015331日投稿の「事代主神」をご参照ください。

  

播磨国宍粟郡に鎮座の式内社。

13代成務天皇の時代、4世紀半ばに神託により創建。

当社の東方の山裾を染河内川(そめごうちがわ)が流れており、揖保川に注ぐ。


    石の鳥居

d0287413_20205375.jpg

鳥居の右に一宮遥拝所、

当社は伊和神社(播磨国一宮)の境外末社であった時期がある。

d0287413_20211610.jpg

    随神門

d0287413_20213555.jpg

    拝殿前に絵馬殿と土俵(青いカバー)がある。

d0287413_20215744.jpg

    拝殿

d0287413_20222065.jpg

d0287413_20223824.jpg

拝殿右に霊石の「亀石」。

伊和神社の本殿後ろに「鶴石」があり、合わせて「鶴亀」になっている。

d0287413_20225989.jpg

本殿、入母屋造り銅板葺き。

d0287413_20231552.jpg

本殿左に五社五行神、手前から水分神、加具土神、大歳神、大山津見神、火魂神、

宍粟市では火魂神を祀る神社が多い。

次の境内社は荒神社、八幡社、祇園社、出雲社。

こちら向きの境内社は稲荷社と皇大神宮。

d0287413_20233384.jpg

   後ろの参道を行くと弁天社。

d0287413_20235020.jpg

   更に進むと、湧き水の霊地「ぬくいの泉」。

d0287413_20240690.jpg

d0287413_20242173.jpg

大国主命(160年頃出生)と天日槍命(230年頃出生)が国占め争いをしたが交渉が終わり、大国主命は当地で酒を醸して酒宴をしたと云う。それで、当地は庭酒(にわき)村と云われたが、庭音(にわと)村と云うように変わった。庭田神社の元の名称は庭酒神社であった。

私見ですが、国占め争いの時期は3世紀後半だったと見ています。従って、大国主命の4代ほど後の子孫が大国主命を襲名して播磨を開拓していたと思います。そして4世紀になると当社が創建された。

また、播磨国風土記の宍粟郡の条に酒造りの話がある。大国主神が国造りの大業を終え、景色が良く清水が湧き出る「ぬくい」の水辺に大業に係わった諸神を集め、もてなしの宴を行った。

その時大国主神が持参した干飯(かれい)を「ぬくい」の水で戻した時に一部の飯にカビ(麹)が生え、酒成分が生じて酒の発見になった。米飯を材料にして造った日本酒の庭酒(にわき)である。

それまでの古代の酒造りは、米を噛んで瓶(かめ)に入れて発酵させていた。噛んで入れる器だから「かめ(瓶)」と云ったのかな?

当地は酒造りに縁が深く、「日本酒発祥の地」と云われている。現在でも「庭酒(にわざけ)」ブランドの日本酒が販売されている。

酒米を品種改良してできた「山田錦」を使って、播磨では日本酒がたくさん醸造されている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-11 00:12

伊和神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407  電0790-72-0075

道向かいの「道の駅 播磨いちのみや」に車を停める。

播磨国一宮、伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)。

祭神 大己貴神(大名持御魂神、大国主神、伊和大神)、

    少彦名神(大己貴神の国造りに協力した)、

    下照姫神(大己貴神の子神)。

創建 13代成務天皇の時代、4世紀半ば。

d0287413_21031730.jpg


 

 当社では「三つ山祭」が61年に1度行われる。伊和神社の北の花咲山(637m)、西の高畑山(470m)、東の白倉山(841m)の磐座信仰・山岳祭祀である。山頂まで長い行列ができると云う。

 伊和神社の東北(鬼門)の宮山(みやま、514m)にも多くの磐座があり、「一つ山祭」が21年に1度行われる。宮山が伊和神社の元宮とも云われる。

伊和神社から少し東へ歩いた所から写した宮山(みやま)。

d0287413_21073230.jpg

三つ山と一つ山の神事が姫路市の播磨国総社「射楯兵主神社」にも引き継がれている。

  

西参道に行くと、境内末社の市杵島姫神社(祭神は市杵島姫命)、通称弁天さん。

d0287413_21091029.jpg

d0287413_21093203.jpg

北参道に行くと、三山乙女の泉。

d0287413_21095480.jpg

  周辺には磐座がたくさんあるので古代に磐座信仰があったのか。

d0287413_21101314.jpg

d0287413_21103144.jpg

2013427日投稿の「伊和神社」をご参照ください。

   

播磨国風土記によると、大汝命(大己貴命)の妃に「許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめのみこと)」がいる。

日本書紀に記載の木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃になった。

木花開耶姫は瓊瓊杵尊と大己貴命の妃になったことになる。妃になったのは同時期ではなく、時間差があると思われるが、古代は一夫一婦制ではなく、お互いに気に入った男女が一緒になり、イヤになったら別れると云う「自然な現象?」であった。

同時期に数人の豪族が、日を変えて姫の所に通ってくることも多かった。それで、姫が出産しても子の父親が誰なのか分からない場合があった。それで父親を決めるために「盟酒(うけいざけ)」が行われた。   

伊和神社の1.2km北の一宮町閏賀(うるか)279に川崎稲荷神社が鎮座。主神は宇賀魂神(うかのみたまのかみ)であるが、配神は大山祇神と木華咲耶姫命の親子になっている。地名の閏賀は、播磨国風土記によると、大汝神(大己貴命)の妻になった許乃波奈佐久夜比売命が美麗であったので、雲箇(うるか、宇留加)里になったとある。

   

伊和神社は「海神社」「粒坐天照神社」とともに播磨三大社の一社となっている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-03 00:07

兵庫県宍粟市一宮町森添280  電0790-74-0013  無料駐車場あります。

祭神 葦原志許男神(あしはらのしこおのかみ、大国主神) 中殿、

高皇産霊神(たかみむすひのかみ)、素戔嗚神(すさのおのかみ) 左殿、

月夜見神(つきよみのかみ)、天日槍神(あめのひぼこのかみ) 右殿。

播磨国宍粟郡に鎮座の式内社。

d0287413_22410057.jpg


当社は元々2km南東の高峰山(たかみねさん、845m)に鎮座していたが、現在地に遷座した。上の地図で赤のアイコンが御形神社、黄のアイコンが高峰山。

葦原志許男神(大国主神)が播磨国や但馬国の一部を開拓していた頃に、天日槍神が渡来して国争いが起こったと云う。

葦原志許男神は播磨国に落ち着き、当地・三方(みかた)に祀られ、但馬国気多郡(けたぐん)の気多神社と養父郡(やぶぐん)の養父神社にも祀られた。

天日槍神は但馬国に落ち着いて「出石神社」に祀られている。

   

葦原志許男神が国造りの事業を完了し当地を去る時に、形見として愛用の御杖を高峰山頂に刺し植えた。当社の社名「御形(みかた)」の由来は、御杖の形見代・御形代より起こったと云う。

その高峰山頂に社殿を建ててお祀りしたのが当社の起源となっている。

奈良時代末の49代光仁天皇の時代、772年に当社は高峰山から現在地に遷座した。その時の伝説に、一夜にして3本の大杉が出現すると云う夢のお告げを里人たちが見た。

この夢は、高峰山の大神(葦原志許男神)が当地へのご遷座を所望されているからと云うことで、早速当地に社殿を造営し、お祀りしたのが現在地での創建となっている。

その杉は「夜の間の杉(よのまのすぎ)」として言い伝えられており、3本の杉の内2本は大正時代に台風で倒れたので、現在は1本だけが残っている。

鳥居と桜

d0287413_22472222.jpg

d0287413_22474678.jpg

   神門

d0287413_22481542.jpg

神門前に宍粟市指定天然記念物の正福寺桜(しょうふくじざくら)。

兵庫県の固有種で珍しく、御形神社の正福寺桜は県内最大級。

d0287413_22483531.jpg

   正福寺桜の横に五色椿、同じ枝に紅、ピンク、白など複数の色の花が咲く。

d0287413_22485451.jpg

大きな絵馬の奥に拝殿。

d0287413_22491364.jpg

d0287413_22493254.jpg

d0287413_22495033.jpg

d0287413_22500520.jpg

本殿、室町時代の1527年建立、三間社流れ造りの檜皮葺で、昭和42年(1967年)に国の重要文化財に指定された。その後、昭和46年に解体復元修理により、室町時代後期の見事な彫刻や組物がよみがえった。

d0287413_22502899.jpg

d0287413_22504330.jpg

本殿の真後ろにご神木の「夜の間の杉」、樹齢600年以上、幹回り6m以上。パワースポットとして知られている。年代的にみると2代目のご神木でしょうかね。

ご神木に巻き付けたロープが本殿の後ろまでつながっており、ロープを力いっぱい引っ張って願い事をすると良いらしい。私も力いっぱい引っ張って願い事をしました。

d0287413_22510102.jpg

本殿右に日吉神社、祭神は大山咋神か。左後方にご神木の「夜の間の杉」が見える。

d0287413_22512090.jpg

本殿左に佐閉神社(さへじんじゃ)、祭神は障の神(さえのかみ)。

右後方にご神木の「夜の間の杉」が見える。

d0287413_22513702.jpg

私見ですが、祭神の葦原志許男神(大国主神)は西暦160年頃の出生、高皇産霊神・月夜見神・素戔嗚神は140年頃の出生、天日槍神は230年頃の出生と見ています。 図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

d0287413_22520116.jpg

葦原志許男神(160年頃出生)と天日槍神(230年頃出生)が国占め争いをした件は、播磨国風土記にも記載されており、天日鉾命と葦原志挙乎命(伊和大神、大汝命)が国争いをしたと云う。

両神の年代の違いから考えると、ここで云う葦原志許男神(大国主神)は、大国主神の4代ほど後の子孫が播磨国にやってきて国造りをしたのではないかと私は見ています。

  

201911日投稿の「天日槍は神武天皇の傍系か」をご参照ください。

故・上田正昭先生(1927年-2016年)は「大国主を祖と仰ぐ出雲の人々が播磨国に移住して、地元の伊和君が祀る伊和大神と習合したのであろう」と言っておられました。2013512日投稿の「伊和大神と天日槍」をご参照ください。 

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-04-27 00:03

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町西深(にしぶか)337  無料駐車場あります。

祭神 木花咲耶姫神(このはなさくやひめのかみ)、

    大地主神(おおとこぬしのかみ)。


    

祭神の木花咲耶姫神は「大山祇神(おおやまづみのかみ)」の子神で、姉の磐長姫(いわながひめ)と共に皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃となった。瓊瓊杵尊は、木花咲耶姫が美人であったので召したが、磐長姫は醜いと云って送り返してしまった。

木花咲耶姫は一夜で妊娠したが、瓊瓊杵尊が自分の子かどうかと疑ったので木花咲耶姫は怒り、室を造ってその中に入り、天孫の子だったら無事に生まれるでしょうと云って火をつけて室を焼いた。最初に生まれた子を火酢芹命(ほすせりのみこと)、次を火明命(ほあかりのみこと)、次を彦火火出見尊と云う。

「室に火をつけて子が生まれる」と云うのは、出産を踏鞴製鉄になぞらえて表現する方法。弥生時代の豪族は、船による交易や踏鞴製鉄などを生業としていた。

宍粟市には、砂鉄が取れる花崗岩質の中国山地が横たわり、鉄穴(かんな)流しができる揖保川(いぼがわ)水系が流れ、炉の燃料の材木を伐採できる山林が9割を占めるので、古代の踏鞴製鉄にはうってつけの条件が揃っていた。

宍粟郡では明治の初めまで鉄生産が盛んに行われ、「宍粟鉄」として広く流通していた。製鉄遺跡も発見されており、播磨国風土記にも鉄生産の記事がある。

御武神社(みたけじんじゃ)は、当地の製鉄豪族が、大山祇神の美しい娘である木花咲耶姫を祀った神社だと考えられる。その製鉄の豪族が当社配神の大地主神かもしれない。

木花咲耶姫には別名が多く、日本書紀には鹿葦津姫(かしつひめ)、亦の名を神吾田津姫(かむあたつひめ)とも云うとある。

その他、古事記や播磨国風土記にも別名が記されている。播磨国風土記宍粟郡雲箇里(うるかのさと)には、伊和大神(大国主命)の妻・許乃波奈佐久夜比売、其の形美麗とある。美人であったので雲箇(うるか、宇留加)の地名になったと云う。

伊和大神を祀る伊和神社の西側に宍粟市一宮町閏賀(うるか)と云う地名が今も残っている。

古代は現代と結婚観が全く違っている。瓊瓊杵尊の妃となった木花咲耶姫とは別人と云う人もいるが・・・

当社は揖保川の西岸に鎮座、両岸が桜並木になっている。

d0287413_22144261.jpg

 

d0287413_22151304.jpg

   境内から揖保川を望む。

d0287413_22153747.jpg

   拝殿

d0287413_22160718.jpg

d0287413_22162261.jpg

   本殿

d0287413_22163724.jpg

木花咲耶姫に関して記紀には、現在の鹿児島県や宮崎県での出来事のように記されており、鹿児島県・宮崎県の地名や神社にその足跡が多く残っている。木花咲耶姫と瓊瓊杵尊の話は南方系の神話に多いから、南九州での神話に影響を及ぼしていると云う説もある。

私は、木花咲耶姫と瓊瓊杵尊の出会いは九州南部ではなく、伊都国(福岡県糸島市)だったと考えています。糸島市三雲に「伊都国王と妃の墳墓」ではないかと云う国史跡の三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき、紀元前1世紀)がある。

三雲周辺は伊都国の中心地であったと考えられ、三雲南小路遺跡の南に隣接して、井原鑓溝遺跡(いわらやりみぞいせき、紀元1世紀)もある。

両遺跡とも奴国の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき、国史跡)と共通性があると云われており、私は奴国と伊都国は同族の海人が統治する弥生国家だったと見ています。

三雲南小路遺跡は瑞梅寺川(ずいばいじがわ)の東に位置し、2km北東には高祖山(たかすやま、416m)があり、1.5km北西の糸島市有田に「平原遺跡(ひらばるいせき)」がある。平原遺跡は伊都国の女王墓と考えられる。 「伊都国を掘る」をご参照ください。

 

三雲南小路遺跡の東に細石神社(さざれいしじんじゃ、糸島市三雲432)が東向きに鎮座。祭神は磐長姫命と木花咲耶姫命の姉妹になっている。現在は小規模な神社であるが、過去には大規模な神社であったと云う。豊臣秀吉の太閤検地により神領が没収された。


周辺には古墳も多いので、姉妹の墳墓があるかもしれない。三雲南小路遺跡に瓊瓊杵尊と木花咲耶姫が埋葬されているとも云うが、時代が合わない。

細石神社の300m北東に築山古墳(つきやまこふん、4世紀末頃)がある。その直ぐ南に木花咲耶姫の御子・彦火火出見尊の生誕地と云う伝承の「八竜の森」があったが、今はなくなっている。八竜の森にあった神石(八大龍王)は細石神社の境内に遷され、地元の人々が信仰している。

彦火火出見尊は高祖山の高祖神社に祀られており、以前は神輿が八竜の森と細石神社まで担がれてきていたようだ。

大山祇神は西暦140年頃の出生と見ているので、磐長姫や木花咲耶姫は155年から160年頃の出生だと思います。

木花咲耶姫は「安産の神」、「子育ての神」として信仰を集め、全国の神社で祀られている。富士山本宮浅間神社(静岡県富士宮市)では主祭神が木花咲耶姫で、配神が瓊瓊杵尊と大山祇神になっており、富士山信仰の中心になっている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-04-18 00:22

八島士奴美と大国主

素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が奇稲田姫を妻として、出雲の須賀に宮を建て、歌を詠んだ。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

日本書紀に、『素戔嗚尊が須賀に宮を建て、歌を詠み、奇稲田姫と夫婦の交わりをして、大己貴神を生まれた。』とある。

先代旧事本紀の地祇本紀には、

『素戔嗚尊は奇稲田姫と結婚して妃とされた。生まれた子が大己貴神(おおなむちのかみ)である。大己貴命の亦の名を八嶋士奴美神(やしましぬみのかみ)、亦の名を大国主神、亦の名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさろひこやしましの)、亦の名を清之繋名坂軽彦八嶋手命(すがのゆいなさかかるひこやしまでのみこと)、亦の名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬ)という。』とある。

先代旧事本紀は、大国主神の亦の名を八嶋士奴美神だと云っているが、古事記では、八島士奴美神の5世孫の天冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)が刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶って産んだ子が大国主神とある。

刺国は現在の福岡県福津市で、宗像市と古賀市の間にある。大国主(宗像氏の祖)は宗像を拠点としており、西の隣国の刺国若比売を妻とした。刺国若比売は刺国大神の娘。

私見ですが、八島士奴美も大国主も西暦155年頃から160年頃の出生です。古事記には、八島士奴美の6世孫が大国主であるというが、時代が合わない。

ただ、大国主の子孫が代々「大国主」を襲名したのであれば、古事記の記載も妥当となるが・・・

播磨国風土記に大汝命(おおなむちのみこと)が登場するが、大汝命が大己貴命本人なのか子孫なのか分かりにくい。他の記事や登場人物も含めて考えると本人のようだ。

西暦200年頃に亡くなった素戔嗚の跡を継いで、北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)を治めたのは大国主であるが、大国主が素戔嗚の長子の八島士奴美のことであれば、八島士奴美は北部九州の倭国では大国主と呼ばれていたことになる。

        刺国若比売

櫛稲田姫     |――――大国主(代々大国主を襲名する)

  |―――八島士奴美(大国主)

素戔嗚      |――――味耜高彦根

  |―――田心姫

  |―――市杵嶋姫                                 (天照大神③)

  |       |――卑弥呼(天照大神②)――(難升米)――(掖邪狗)――臺與

  |     天火明(海部氏・尾張氏の祖)

比売大神(天照大神①)

私はこれまでは、大国主が素戔嗚の末子である須世理比売(母は佐美良比売)を妻としたので、末子相続の当時の習慣により、末子の夫である大国主が素戔嗚の跡を継いだと考えていました。

素戔嗚が亡くなり、西暦201年に卑弥呼(天照大神②、179年-247年)が倭王に就任した時に、八島士奴美(大国主)が北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)の国譲りをしたのか。

八島士奴美(大国主)にとって、卑弥呼(天照大神②)は素戔嗚系の同族関係になる。

 

2016118日投稿の「兵主神社」の祭神は、大己貴命、八千戈命、葦原醜男、大物主命、神清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠命とあるが、この祭神は全て大国主命の別名ということになる。

2015116日投稿の「御坂神社」も大物主神、葦原志許男神、八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)となっている。他の神社の祭神にも、大国主命の別名を複数並べている例がある。

 

須賀神社は須佐之男命を祭神とし、全国に祇園信仰の神社として鎮座している。素戔嗚の「八岐大蛇」(やまたのおろち)退治、櫛稲田姫との結婚、須賀に宮を建て、歌を詠む、この一連の物語は出雲国で行われたと記されているが、実際には北部九州の出雲族支配地での物語かもしれない。

北九州市小倉北区須賀町12-24に須賀神社が鎮座。祭神は須佐之男命・伊邪那岐神・伊邪那美神となっている。  

北九州市八幡西区にも遠賀川の東岸沿いに須賀神社が鎮座。祭神は素戔嗚命・奇稲田媛命・大己貴命・軻遇突智神。

同じ遠賀川沿いの福岡県直方市大字下境に、須賀神社が鎮座、祭神は須佐之男命。

素戔嗚が高天原を出て、出雲国へ行ったと云うのは遠賀川周辺だったのか。「出雲国の簸の川(ひのかわ)」は、実際には遠賀川のことだったかもしれない。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-04-09 00:16

古代における「漢と倭」

2019330日に「大阪歴史博物館」で、「関西アジア史談話会」の発足記念講演会がありました。

講演1は、「近年の発掘調査から見た後漢の成立」と題して、大阪歴史博物館学芸員の村元健一さんの講演で、前漢(首都長安、BC206年-AD8年)と後漢(首都洛陽、AD25年-220年)は同じ漢でありながら異なる点も多く、都城と陵墓の遺跡から見た両王朝の違いを考えると云うものでした。

後漢は首都を長安より350km東方の洛陽に定めたので東漢(とうかん)と呼ばれる。前漢末期に大司馬(最高官)の王莽(おうもう、BC45年-AD23年)は策略により、皇帝同然の権力を握り、前漢から禅譲を受けたとして、「新」と云う王朝(8年-23年)の皇帝となったので、漢は前漢と後漢に分断された。

劉秀(BC6年-AD57年)が漢室を再興して洛陽を都とし、後漢(東漢)を興す。

赤のアイコンが長安、黄が洛陽


「儒教」については、前漢(西漢)は終末期に儒教を重視する風潮が強まり、王莽は儒教信奉者であった。後漢(東漢)は最初から儒教を国教とした。

秦の始皇帝(BC259年-BC210年)の「焚書坑儒」により、儒教が復活するには長い年月を必要としたと思います。

「都城」については、前漢の長安の都城は大規模で、東向き。宮殿は南向きになっている。後漢の洛陽の都城は規模が小さく、都城・宮城・宮殿は南向き。

「陵墓」については、前漢は規模が大きく、方錘形で副葬品も膨大で東向き。前漢最後の平帝の陵墓は南向きになっているので、後漢も南向きで、「節倹」のために小型で高さの低い円墳になっている。

前漢と後漢の皇室の血統は継続しているとされているが、儒教に対する姿勢は大きく異なる。後漢は儒教国家として運営され、儒教による身分制度を厳密化し、為政者の奢侈を抑制した。

講演2は、「漢委奴国王・金印真贋論争から璽印考古学へ」と題して、明治大学文学部教授の石川日出志さんの熱弁を聴かせていただきました。

石川教授は熱烈な金印本物説で、多くの証拠を提示しながら「本物である」と強調されました。「漢委奴国王」金印は後漢初期の製品であり、1784年の江戸時代に発見されたが、江戸幕府による金座管理の厳しい統制の中で、偽の金印を制作することは不可能であると断定されました。

この金印はよく見ると、初めラクダ型に作られたものが、後に蛇形に再加工されたものらしい。「漢委奴国王」の五文字の字形の研究・比較によっても後漢初期の特徴と整合性がある。字形や印の彫り方は時代によって微妙に変化するようだ。

金印の「つまみ」である「紐」についても時代による変遷がある。紐孔(穴)がだんだん小さくなってきている。従ってヒモである「綬」を紐孔に通すには、紐孔の下に当たる部分の印台を削って穴を大きくして、通し易くする必要が出てきた。漢委奴国王金印の紐孔内の印台部分にはその窪みができている。

私も漢委奴国王金印の本物説ですが、石川先生の講演により確信を得ました。

 

漢委奴国王金印は「福岡市博物館」に常設展示されています。印の一辺は2.3cm、重さ108gの金印です。福岡市博物館にレプリカが3,996円で販売されており、石川先生は講演受講者にレプリカを順番に回してくれましたので、私も手にすることができました。


漢委奴国王の金印(国宝)は西暦57年に、奴国王が後漢に使節を送り朝貢交易をした時に与えられたものである。これにより、「交易面」では奴国が倭国(北部九州)全体の代表となった。

私見ですがこの奴国王は、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと)で、西暦元年の生れです。(「日本書紀神武紀」の書き出し部分より解明)

西暦107年になると4代目奴国王の角杙尊(つぬくいのみこと、西暦60年頃出生)が後漢に朝貢交易をした時に、「倭王帥升」と認められ、奴国王が交易面に加え「政治面」でも倭国全体を代表するようになり、奴国王兼初代倭王となった。

これで、初代奴国王から相続されてきた「漢委奴国王」金印は役目を終え、聖地の志賀島に埋納されたと考えています。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-04-01 00:07

先日のテレビ朝日の報道によると、

『世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見した。

アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長は、「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。それよりも1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。そういう意味ですごく価値がある。」と云う。

トルコ中部にある遺跡で一昨年(2017年)、日本の調査団が4200年前から4300年前の地層から世界で最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘した。これまでの定説では、3200年前から3300年前にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて、製造技術を独占し、周囲を征服したとされている。

しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、成分もこの地域の鉄鉱石とは違うことが分析で明らかになった。

鉄の塊が見つかった地層では古代中近東の様式とは違う木造建築物の遺構も見つかっていて、調査団は、これまで考えられていたよりも前にヒッタイトとは違う民族が鉄の製造を伝えた可能性もあるとみて注目している。』と報道された。

***

発見現場のトルコ共和国は、南を地中海、西をエーゲ海とマルマラ海、北を黒海に囲まれている。この地域は「小アジア」と呼ばれるが、「アナトリア」とも呼ばれている。東ローマ帝国時代にギリシャ語で「アナトリコン(日出る処)」と呼ばれたのが「アナトリア」の名称由来となった。「日出る処」は日本と一緒ですね。

トルコの中央部はアナトリア高原で標高は800mから1200m。日本の中国山地ほどの高さの高原で、閉鎖型盆地である。トルコ東部の山は高く、東端には「ノアの箱舟」で有名なアララト山(5137m)があり、トルコの最高峰である。

アナトリアは古代から文明が栄え、南部地方には9500年前~8300年前頃の世界最古の都市遺跡・チャタル・ヒュユクがあった。新石器時代から金石併用時代まで続く遺丘となっている。

4000年ほど前に、このアナトリアに突然現れたインド・ヨーロッパ系の最古とされる民族・ヒッタイトがハットゥシャシュ(ハットゥシャ)を王都として、鉄器を使用する一大帝国を築いた。

このヒッタイトが現れる前段階の、5000年前に先住民「ハッティ」がアナトリア半島中央部に居住していた。この民族はインド・ヨーロッパ系ではなく、周辺の言語とも違う独自の言語を話し、膠着語であった。メソポタミアのシュメール人との関連を調べる必要がある。シュメールもハッティと同じく4000年ほど前に滅亡した。

旧約聖書によると、4000年ほど前にアブラハムがシュメール(イラク)のウルからハラン(トルコ)に移り、更にカナン(イスラエル)に移動した。このアブラハムの移住は、私見ですがシュメールとハッティの滅亡と関係があると考えています。

ハッティ人は鉄を発明した民族で、これが人類の鉄使用の最初だと考えられる。

ヒッタイト人が4000年ほど前に北方からやってきて、アナトリアのクッシャラに定住し始め、3800年ほど前にクッシャラの王ピトハナと子のアニッタがアナトリア征服に取り掛かった。

ピトハナ王とアニッタ大王はアナトリアを征服して先住民「ハッティ」の鉄を独占し、ヒッタイトの文化として後世に伝えた。(粘土板のアニッタ文書による)

当時の鉄は金よりも貴重であった。

そのヒッタイトも3200年ほど前に滅亡する。

トルコの首都アンカラの東方約150kmにボアズキョイという小村があり、南西の丘上に全長4kmに及ぶ城壁跡や獅子の石像が守る巨大な城門などが確認されている。

1906年、ドイツの考古学者フーゴー・ヴィンクラー(1863-1913年)がボアズキョイ発掘調査を行い、楔形文字が刻まれた大小1万片の粘土板文書の大書庫を発見した。そこでヴィンクラーは、このボアズキョイこそ、ヒッタイトが創り上げた王都ハットゥシャシュであるとし、4000年前のアナトリアの歴史が明らかになった。

この粘土板文書は「ボアズキョイ文書」と呼ばれ、このボアズキョイ遺跡は1986年に世界遺産登録された。ヒッタイトの滅亡により製鉄法が公開され、古代オリエントは青銅器時代から鉄器時代へと移っていく。

赤のアイコンがボアズキョイ


ヒッタイトの滅亡により製鉄法が各地に拡がっていったが、この製鉄法は直接製鉄法(塊錬鉄製鉄法)と云って踏鞴製鉄の一種で、比較的低温(800℃位か)で鉄塊を製造し、鉄塊を再度加熱製錬・鍛造(ハンマーで叩く)する方法であった。この製鉄法は日本にはオリエントから南周りでインドから江南(揚子江周辺地)経由で伝わった。江南は青銅器文化が盛んであったが踏鞴製鉄も行われていた。20181030日投稿の「金糞(かなくそ)」をご参照ください。

    

日本の古代における「踏鞴製鉄」はこの直接製鉄法で、江南人(倭人)の渡来により弥生時代の始まりとなる。弥生時代の初期から水田稲作が行われ、青銅器と鉄器が同時に製作された。

弥生時代の支配者は製鉄族で、記紀に記されている素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)がその最高位にあった。製鉄族は配下に手工業の職人、海人族、稲作農民などを置き、海外や列島における交易により利益を得ていた。武器製造や軍事面にも力を入れて、地域同士を結び付ける同盟関係や服従関係により列島全体の支配を強めた。

オリエントから中央アジアを通り、華北の中国にも製鉄法が伝わってきた。当初は中国も直接製鉄法で製鉄していたが、製陶技術により1200℃以上の高温を出すことができていたので、鉄鉱石を高温で加熱・溶融して銑鉄を製造、再度加熱溶融して炭素を除いて鋼を造る溶融銑鉄製鉄法(間接製鉄法)が紀元前2世紀の前漢時代に完成した。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-03-30 09:03

嵯峨天皇と素戔嗚

西暦810年(大同5年)の正月、52代嵯峨天皇(786年-842年)は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、愛知県津島市神明町1「津島神社」に「日本総社」の号を奉られた。   

織田信長(1534年-1582年)も津島神社を崇敬していた。織田家の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋である。

津島神社(祭神・建速須佐之男命)は全国に3,000社ある津島神社・天王社の総本社になっている。祇園信仰の一つとして津島信仰・天王信仰と云われ、神仏習合時には津島牛頭天王社と称し、牛頭天王(素戔嗚尊)を祭神としていた。

津島神社の社伝によると、素戔嗚命が朝鮮半島から帰ってきた時に荒魂は出雲国に鎮まり、和魂(にぎみたま)は7代孝霊天皇45年(3世紀後半)に一旦対馬に鎮まった後、29代欽明天皇元年(540年)に現在地近くに移り鎮まった。

810年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られた。


記紀には、素戔嗚命(140年頃-200年頃)が猛々しい暴れ者として描かれている。これは、663年の「白村江の戦」により、日本軍が唐・新羅連合軍に敗れ、百済の再興に失敗、1万名もの戦死者を出したことによる。

古事記は712年の成立、日本書紀は720年の成立だから、白村江の戦から50年余りしか経っていない。新羅と強いつながりを持つと云われる素戔嗚命に対する反感が非常に高い時期に記紀が編纂された。

しかし、それから90年ほどが過ぎて、嵯峨天皇は歴史を冷静に見直し、素戔嗚命の名誉回復を図った。

尤も、一般庶民にとっては白村江の戦と素戔嗚命を結び付ける考え方など全くなく、相変わらず昔からと同じように素戔嗚命の人気は高く、全国の神社で祀られ崇敬されていた。

嵯峨天皇は50代桓武天皇(736年-806年)の第2皇子で、第1皇子が51代平城天皇(へいぜいてんのう、774年-824年)となった。平城天皇と嵯峨天皇の母は、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)。

809年に平城天皇が上皇となり、嵯峨天皇が即位した。しかし、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の関係は不穏な状態で、嵯峨天皇と平城上皇が対立し、「薬子の変(くすこのへん)」なども起きた。

薬子の変は坂上田村麻呂に鎮圧させたが、嵯峨天皇は情報漏洩の反省として、巨勢野足(こせののたり、749年-817年)や藤原冬嗣(ふじはらのふゆつぐ、775年-826年)らを採用し、蔵人頭(くろうどのとう)を設置して機密を守った。

更に、都の治安を守るために検非違使(けびいし)を設置した。

嵯峨天皇は、干ばつなどによる財政難や、皇族が増えすぎて官職に就けない皇族が多くなったことにより、皇族の人数を減らすための臣籍降下(しんせきこうか)を行った。

皇位継承の可能性がない皇族に姓を与えて臣籍降下させることは皇親賜姓(こうしんしせい)と云って、桓武天皇も100名ほどを対象に実施した。

更に、出家させることにより、皇族を減らす方法も取られた。

これは、皇位継承者を安定的に確保するために、多くの妃に皇子・皇女を産ませた結果でもある。現在の皇室が抱える皇族減少問題とは全く逆の現象になっていた。

第二次世界大戦後、皇籍離脱が行われたが、GHQによる皇室財産没収と共に、皇室弱体化が狙いであった。GHQが日本を支配するための新憲法もそのまま現在まで機能し続けている。

平安時代に皇親賜姓をした元皇族は、地方の武士や豪族になるのが通常であった。

「源氏」は嵯峨天皇が814年に皇子3名に皇親賜姓を行ったことに始まる。一番有名なのは56代清和天皇の清和源氏でしょうか。源頼朝(1147年-1199年)の時代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開いた。その他、59代宇多天皇の宇多源氏、62代村上天皇の村上源氏なども出現し、21の流派ができた。

「平氏」は50代桓武天皇の桓武平氏、54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の仁明平氏、55代文徳天皇(もんとくてんのう)の文徳平氏、58代光孝天皇(こうこうてんのう)の光孝平氏がある。

桓武平氏の嫡流である伊勢平氏の平清盛(1118年-1181年)が棟梁となり、日本初の武家政権を樹立した。

古代史研究でよく参考にされる「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」は嵯峨天皇が編纂を命じた氏族名鑑である。

嵯峨天皇は823年に53代淳和天皇(じゅんなてんのう、786年-840年、桓武天皇の第7皇子)に譲位し、上皇になってからも権威を発揮して、政治的な安定を図った。

淳和天皇の母は桓武天皇夫人の藤原旅子(758年-788年)で、平城天皇・嵯峨天皇は異母兄となる。

嵯峨天皇の信頼を得ていた空海(774年-835年)が、離宮の嵯峨院(京都御所の8km西)に五大明王を安置した。876年に淳和天皇の皇后が離宮を寺に改め、大覚寺(真言宗大覚寺派の本山)とした。淳和天皇の皇后は嵯峨天皇皇女の正子内親王(810年-879年)である。

大覚寺の西北650mの右京区北嵯峨朝原山町に円丘の嵯峨天皇御陵がある。

京都市右京区嵯峨朝日町23に鎮座の車折神社(くるまざきじんじゃ)は、嵯峨天皇と関係が深く、清原頼業(1189年没)が祭神で、境内社の芸能神社には天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-21 09:06

奴国は弥生末期の中心地

古代の長江(揚子江)流域の民は「江南人」、或いは「倭人」とも呼ばれ、呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を長江の下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)を建国した。

江南人(倭人)は稲作、船舶による漁労・交易(南船北馬)、青銅器文明で栄えたが、呉と越の戦争(BC473年)、楚と越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、紀元前5世紀から紀元前2世紀の間に長期波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に避難・逃亡してきた。

これにより、14,000年前から始まった縄文時代が2,400年ほど前に終わり、弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となり、列島全体に弥生文化が広まっていった。

江南人(倭人)が日本列島にやってきたので住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

江南人の中でも呉人の渡来数が最も多く、北部九州と朝鮮南部に多くの小国家群を建てた。その中で博多湾周辺の「奴国」が中心的な役割を果たしていった。

晋書、梁書などに『倭は自ら「呉の太伯の後」という』とあるので、呉系の弥生人は呉から日本列島にやってきた倭人であると認識していた。

呉人が中心となって北部九州に建国した小国家群(倭国)の中の「奴国」が伝承する紀元前1世紀から紀元3世紀の歴史が、記紀の「神代の物語」として古代人の表現方法により記された。但し、列島では素戔嗚命や大国主命の出雲族の勢力が大きく、支配地も列島全体に拡がっていた。

私見ですが、素戔嗚命や大国主命の出自は「楚」であると考えています。楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)です。

紀元前1世紀の北部九州はまだ充分なまとまりがなかったが、既にクニとしての萌芽はできていた。その頃の王として記紀に記されたのが、別天神(ことあまつかみ)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)の五柱の神である。

紀元前1世紀の博多湾周辺には板付遺跡(いたつけいせき、)があり、縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥を裏付ける遺跡である。環濠集落、水田跡、墓地などが発掘されている。

また、博多湾は大陸に向かう天然の良港という地の利により、海人族の安曇氏を中心として交易により発展した先進地域であったので、奴国は小国家群(倭国)のリーダーとなっていった。そして、奴国の北部は海、東部・南部・西部は山に囲まれ、天然の軍事要塞としても恵まれていた。


紀元前1世紀には、列島各地の海人族は前漢(BC206年-AD8年)と交易をしていた。交易をするためには、各地の豪族は通訳と漢字を書ける役人を必要とした。文字は木簡か竹簡に筆で書いた。前漢の出先機関は楽浪郡(BC108年-AD313年)にあったので、各豪族は漢語と漢字を習う研修生を楽浪郡に派遣していた。

紀元前1世紀の日本の遺跡からは硯石の破片が出土する。福岡県糸島市の閏地頭給遺跡(うるうじとうきゅういせき)、三雲・井原遺跡(みくもいわらいせき)、佐賀県唐津市の中原遺跡(なかばるいせき)、福岡県筑前町の薬師ノ上遺跡、島根県松江市の田和山遺跡などから硯石の破片が出土している。その他、日田市などからも出土している。

紀元1世紀になると、奴国はクニとしての機能を整え、初代奴国王は国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦元年出生)が就任する。国常立尊は別天神の子孫と考えられ、西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」金印を受け、「大陸との交易」に関しては奴国が倭国を代表するようになった。

2代目奴国王は豊雲野尊(西暦20年頃出生)、3代目奴国王は宇比地邇尊(ういぢにのみこと、西暦40年頃出生)、4代目奴国王は角杙尊(つぬくいのみこと、西暦60年頃出生)で西暦107年に後漢に朝貢し、倭王帥升となり交易面に加えて政治的にも奴国王が倭国を代表するようになった。

5代目奴国王兼倭王は意富斗能地尊(おおとのぢのみこと、西暦80年頃出生)、6代目奴国王兼倭王は淤母陀流尊(おもだるのみこと、西暦100年頃出生)、そして7代目奴国王兼倭王が伊弉諾命(いざなぎのみこと、西暦125年頃出生)である。

福岡平野には博多湾に注ぐ那珂川と御笠川があり、川の間の地域の中流域から下流域にかけては、段丘が形成されている。

段丘の北には海岸沿いに砂地があり、博多遺跡群がある。2本の川の間の段丘には比恵遺跡群(博多駅の南)、那珂遺跡群(比恵遺跡の南)、板付遺跡(福岡空港南)、諸岡遺跡群(板付遺跡の南)、須玖岡本遺跡(春日市岡本、奴国の中心)ほか多くの遺跡が発掘されている。

いずれの遺跡も福岡平野の中で大きな役割を担ってきた地域で、現在は福岡市、春日市、大野城市にまたがっている。

板付遺跡は縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥の地で、奴国の重要な拠点であった。

1899年(明治32)、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)は、前漢鏡30面のほか多数の副葬品があり、奴国王墓ではないかと云われている。

弥生時代終末期の西暦180年代に倭国29ヶ国が争っていたが、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊が倭国乱の責任を取り淡路島に隠遁、西暦201年に卑弥呼(179年-247年)が女王として就任し、238年に魏に朝貢、親魏倭王となった。倭国乱については、「三国志とタウポ火山の噴火」をご参照ください。 

楽浪郡は後漢末期に公孫氏が支配し、帯方郡を設置したので、倭人は後漢(西暦25-220年)やその後の魏(220-265年)と直接交易できなかった。しかし、魏が238年に楽浪郡・帯方郡を接収すると、倭の女王卑弥呼は「直ちに」魏と交易し、親魏倭王となった。これは楽浪郡や帯方郡に倭人の役人(研修生)が常駐していたから、公孫氏滅亡を報告してきたことによる。

公孫氏の末裔は列島に逃れ、常世連(とこよのむらじ)となった。

博多湾の海浜砂丘は箱崎砂層(はこざきさそう)と呼ばれる堆積層が基盤となって、弓状の砂丘が形成された。

弥生時代には砂丘に墓地が営まれるようになる。弥生時代前期は木棺や甕(かめ)棺で埋葬し、副葬品をもつ甕棺も発掘されている。

弥生前期後半から中期になると砂丘上にも集落が形成されるようになる。

奴国の支配者層は安曇氏を中心とする海人族で、船団による内外との交易・同盟、漁労、金属製品製造、農民に対する課税・課役などを行った。海人族の拠点は福岡市東区だったと考えられ、志賀島が海人族の聖地であった。

志賀島からは「漢委奴国王」金印も出土している。1世紀から3世紀にかけて存在したとされる「高天原」も東区のどこかにあったと考えられる。

高天原は志賀島にあったのか、或いは香椎宮後方の山裾にあったのか、もっと山間部に入った糟屋郡久山町(かすやぐん ひさやままち)だったのか。

私見ですが、天照大神としての卑弥呼と臺與は奴国王兼倭王で、高天原は奴国王の宮と倭王の宮の両方にあったと見ています。

奴国王の宮は博多湾に近い山沿い地域(福岡市東区)、倭王の宮は福岡県朝倉郡筑前町から朝倉市の山沿いではないでしょうか。小石原川が「天の安川(夜須川)」でしょう。

小石原川と佐田川の間には国史跡の平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)があり、紀元前1世紀(弥生時代中期)から4世紀(古墳時代)の集落跡です。私は筑後川流域の筑紫平野が魏志倭人伝の云う邪馬台国だと考えています。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-13 10:18

兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地  電0797-86-6641  無料駐車場あります。

火の神、かまど(台所)の神で、清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)の鎮守社となっている。

  

「清荒神清澄寺」は真言三宝宗の大本山で、本尊は大日如来(国の重要文化財)。

896年に59代宇多天皇(867-931年)が、鎮護国家・万民豊楽のための勅願寺のひとつとして創建された。神仏習合になっているが、明治以降も「寺院」として継続している。

清荒神の天堂(拝殿)後方に「荒神影向(ようごう)の榊(さかき)」があり、開創の際、荒神が顕現したと伝えられる。この報告を受けた宇多天皇は「日本第一清荒神」の称号を与えた。

清荒神は、「家内安全」、「厄除開運」、「商売繁盛」のご利益で年間の参拝者は350万人に上る。私も31日に参拝し、古いお札を納め、新しいお札を頂きました。

毎月1日と28日の午前10時に太鼓の大きな音が「ドーン」と1回響き、天堂(拝殿)でご祈祷が始まる。

私が10時前に天堂(拝殿)に着くと、太鼓の大きな音と共に僧侶が7人並び、ご祈祷が始まった。今まで聴いたことのないとても感動的なご祈祷でした。荒神様の魂と迫力を感じました。お寺なので祝詞(のりと)ではなく読経です。

ご祈祷の時間帯と参拝の日時がうまく重なって、心が洗われ、感激し、ラッキーでした。

清荒神王ご朱印

d0287413_09081228.jpg


山門、石柱に「日本第一 清三宝大荒神王」と彫られている。

d0287413_09112108.jpg

   境内案内図、参拝経路も記されている。

d0287413_09114351.jpg

鳥居の手前右に護牛神堂(牛頭天王安置)と弘法大師の行脚像。

 

d0287413_09120095.jpg

鳥居と天堂(拝殿)

 

d0287413_09121740.jpg

天堂(拝殿)、一礼三拍手一礼。 三宝荒神王だから三拍手。

 

d0287413_09123403.jpg

   天堂後方に護法堂(本社)、

大勝金剛転輪王、歓喜童子、弁財天を安置。

d0287413_09125018.jpg

護法堂後方に荒神影向(ようごう)の榊

d0287413_09130696.jpg

天堂の右に岸壁をくり抜いた「行者洞」があり、修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年頃)を祀っている。

1799年に119代光格天皇(1771年-1840年)が、役小角没後1100年によせて神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)の諡(おくりな)を賜った。

d0287413_09132238.jpg

天堂右の石段を登ると途中の山腹に宝稲荷社(宝稲荷大明神)が鎮座、

明治時代に当山和上二人が同時に稲荷明神の霊夢を見たのでお祀りした。

d0287413_09133714.jpg

清荒神清澄寺本堂(大日如来、不動明王、弘法大師)と、手前の一願地蔵尊(水かけ地蔵)。

d0287413_09135246.jpg

本堂右奥に龍王滝、よく見ると滝の左の平らな所に不動明王の石像をお祀りしている。

不動明王が右手に剣を持っているのが見える。

d0287413_09140965.jpg

修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)は役行者(えんのぎょうじゃ)とも云われるが、大和の金剛山(1125m)で祈っていると「荒神」が初めて現れたと云う。荒神の姿は宝冠をつけ、腕が六本あった。

それで荒神様の像には三面六臂(さんめんろっぴ、顔が三つで腕が六本)が多い。奈良興福寺の国宝・「阿修羅像」は荒神ではないが、三面六臂になっている。

 

荒神は、悪人を懲らしめる神であるので「荒神」と呼ばれ、不浄を排除するので「火の神」・「かまどの神」とされている。神道の荒御魂(あらみたま)と共通する面がある。

関西で有名な荒神社は、清荒神、奈良県桜井市笠の笠山荒神社、奈良県吉野郡野迫川村の立里荒神社(たてりこうじんしゃ、高野山の奥社)、大阪府箕面市勝尾寺の勝尾寺、和歌山県橋本市神野々の光三宝荒神社などです。

荒神社の月次祭は毎月28日に執り行われるところが多い。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-07 09:17

兵庫県神戸市長田区駒ケ林町3丁目7-3  電078-611-4065

無料駐車場は、石の注連鳥居の手前を右に曲がる。

祭神 応神天皇、猿田彦大神、奇稲田姫命。

別称は駒ヶ林八幡宮で、厄除けの宮。

d0287413_16253686.jpg


毎年118日から20日までの厄除大祭は大いに賑わう。

当社は伊勢神宮で用いられた「丸三方」を所有しており、大事なお祭りの際に用いている。三方(さんぼう)は、四角形の台の三方向に眼象(げんじょう)と呼ばれる穴があいているので「三方」と呼ばれる。一般的には四角形の三方が多いが、丸三方、板足三方、長三方などもある。

丸三方には眼象が開いていない。

古代には、当社の前の海は要津(ようしん、重要な港)になっており、1178年に平清盛(1118-1181年)が上陸したとの記録が残っている。現在は長田漁港となっている。

d0287413_16275149.jpg

d0287413_16281144.jpg

平安時代にこの港に来朝する外国人を検問する玄蕃寮(げんばりょう)の出先機関があり、災いが入らないように取り締まっていた。「玄」は僧侶、「蕃」は外国人で賓客のこと。

その役所内に「厄除けの宮」として当社が創建された。

1336年、足利尊氏(1305-1358年)が西国敗走の時、当社に奉詣して社前の浜より乗船したという。

1924年に社殿を修築し、若宮社と村内の小祠を合祀し、社名を「八王子八幡神社」から「駒林神社」と改称した。

長田漁港前の赤い大鳥居、

鳥居の右前に駒ヶ林が「いかなごのくぎ煮」発祥の地である事を記した石碑がある。

d0287413_16284136.jpg

  拝殿、注連鳥居の手前右に駐車場がある。

d0287413_16285727.jpg

  本殿

d0287413_16291580.jpg

本殿右に、天光玉勝稲荷神社と奥に神明鳥居の神明社(天照大御神)。

d0287413_16293029.jpg

  本殿左に三宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ、かまどの神様)、

d0287413_16300519.jpg

 荒神社の多い県は、多い順に岡山県、広島県、島根県、兵庫県である。

「三宝荒神」は仏教系であるが、「荒神さん」は複雑で、由来は多岐にわたり、日本での拡がりが瀬戸内地方と島根県を中心としていること、火の神・かまどの神・災難や不浄を除去する神であることを考えると、「素戔嗚尊(楚人)」や古代中国の「楚」との関連が考えられる。

中国神話の「炎帝(えんてい)」、「祝融(しゅくゆう)」と関係があるかもしれない。楚の王は祝融を祖先とする。

楚辞の言葉づかいについては、2014418日投稿の「楚辞」をご参照ください。


荒神信仰は修験道の役小角(えんのおづぬ)とも関係が深く、山岳信仰・密教・神道など様々な要素を含み、日本の民間信仰の中で拡がっていった。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-01 16:41

妙見社(明石市)

兵庫県明石市上ノ丸1丁目17-35  鳥居の横に本松寺の駐車場があります。

祭神は妙見尊(みょうけんそん)

北辰信仰(北極星と北斗七星)であり、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同一。

方位守護、人の運命守護。

毎朝、天下泰平・国土安穏・信徒並びに参拝者の所願成就を祈願している。

妙見社は、南に隣接する日蓮宗の本松寺が1691年(元禄4年)に船上(ふなげ、明石川河口西)から現在地に遷った際に鎮守社として創建された。日蓮宗の寺院では妙見菩薩を祀ることが多い。

明治の神仏分離令により、妙見社と本松寺に分離されたが、今でも関係は深い。境内のツツジが有名で、4月下旬から5月初旬が見頃。秋は萩の名所として有名。

本松寺には石田三成(1560年-1600年)に仕えた島左近(1540年-1600年)が崇拝していた妙見尊像が祀られていると云う。

島左近の後裔が本松寺の檀徒になり、妙見尊像が奉納された。

当地周辺は神社仏閣が多く、長寿院(黄のアイコン)、「柿本神社(人丸神社)」と月照寺(青)、雲晴寺(紫)、妙見社と本松寺(赤)、明石上ノ丸教会と大聖寺(緑)、明石神社(黒)が続いている。

観光客が明石城(喜春城、きしゅんじょう)から天文科学館まで「時の道」を散策する途中にあります。


入口の鳥居、右は本松寺。

d0287413_10301879.jpg


d0287413_10305792.jpg

    拝殿と本殿

d0287413_10312036.jpg

d0287413_10314005.jpg

拝殿には「妙見大菩薩」と書かれた提灯が見える。妙見尊は神仏習合時代の名残りで、運勢を切り開いて、信奉する人を助けようとする開運妙見大菩薩と云う。

額には「開運殿」と記されており、北の方角を示す北極星が人生を良い方向に導いてくれる。

d0287413_10320234.jpg

本殿の左に福寿明王(お稲荷さん)。

江戸時代に「ぼたん狐」の民話があり、狐が牡丹模様の服を着た美女に化け、悪さをした。

d0287413_10322271.jpg

妙見社にも本松寺にも立派な桜の木があり、本松寺には宮本武蔵作の庭園がある。

明石藩では、元和4年(1618年)に船上城(ふなげじょう)を廃し、明石城の築城が始まったが、宮本武蔵(1584年-1645年)が明石藩に来て藩主の小笠原家の客分となる。この時に武蔵は、明石城下の町割りとともに城や寺院などの作庭も行った。

天和2年(1682年)には、越前大野藩より松平直明(まつだいら なおあきら、1656年-1721年)が明石藩に転封し親藩となり、廃藩置県まで松平家の支配が続いた。明石城は瀬戸内海の海上交通監視、西国大名への押さえを担った。

明石神社には徳川家康(1543年-1616年)と松平直明が祀られている。長寿院は松平家の菩提寺。

  明石神社

d0287413_10324451.jpg

本松寺の墓域にはプロレスで活躍したジャイアント馬場(1938年-1999年)の墓もある。

ジャイアント馬場の使用した長靴にそっくりな石のモニュメントと似顔絵もユニーク。

d0287413_10332073.jpg

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-02-23 10:38

兵庫県たつの市揖保町揖保上(いぼかみ)391   電0791678027

無料駐車場は、鳥居を過ぎて参道を進み、左手にあります。

祭神: 国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと、大国主命)

創建: 1200年以上前の平安時代初期。

農業神、病気平癒、福の神、縁結び、学業成就。

通称「やひろじんじゃ」、揖保川下流域の東岸に鎮座。 延喜式揖保郡七坐の一社。

中世の播磨国を支配した赤松氏は当社を守護神とし、「八尋(やひろ)の神」として敬った。

祭神の大己貴命(大国主命、160年頃出生)は、播磨国風土記(715年頃編纂)には葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)、大汝命(おおなむちのみこと)などと記され、播磨国における多くの事績が記されている。小比古尼命(少彦名命)と協力して「国造り」をした。

播磨国には大己貴命(大国主命、大汝命)を祀る神社が多い。

出雲国(島根県)を開拓した大己貴命は、因幡国(鳥取県)を経て播磨国(兵庫県南部)に入り、「伊和神社」(宍粟市一宮町)に鎮座。

更に、大己貴命は揖保川上流の宍粟(しそう)から川下りで35km南下し、揖保川下流域の揖保郡(揖保郷)を開拓した。

播磨国一宮の伊和神社を「北方殿」と呼び、夜比良神社を「南方殿」と呼ぶ。

  

当社の800m北東には「中臣印達神社」(なかとみいたてじんじゃ、五十猛命)が鎮座しており、3km北には「粒坐天照神社」(いいぼにますあまてらすじんじゃ、天照国照彦火明神)が鎮座している。

 揖保川は、兵庫県の南西部を流れる川で、加古川、市川、夢前川(ゆめさきがわ)、千種川(ちぐさがわ)と共に播磨五川と呼ばれている。


鳥居と社号標

d0287413_09592373.jpg

拝殿、手前の注連柱に「莫鳳如在 供澤無疆」とある。

注連柱の前に一対の立砂(盛砂)がある。お清めか、魔除けか。

「京都上賀茂神社」の立砂が有名。 

d0287413_10004198.jpg

d0287413_10021039.jpg

本殿

d0287413_10023091.jpg

d0287413_10025154.jpg

本殿後方に境内社、

右が稲荷神社(倉稲魂命、天宇受売命、佐田比古命)、佐田比古は猿田彦。

左が建速神社(須佐之男命、140年頃-200年頃)

d0287413_10031543.jpg

島根県松江市東出雲町の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は、この世とあの世の境目にあるとされており、伊弉諾尊や大国主命の話に登場する。

大己貴命(大国主命)を祀る「夜比良神社」の社名が、「黄泉比良坂」と関係がありそうな気がします。或いは通称「やひろじんじゃ」と云うので、「八尋熊鰐(やひろくまわに)」のことでしょうか。

昔、神社に近い岩に八尋もある白い旗が立って、伊和大神が出現したと云う。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-02-16 10:05

兵庫県たつの市揖保川町神戸北山(かんべきたやま)222   電0791-72-2368

無料駐車場あります(広い砂利敷きのところに停める、アスファルト舗装は月極駐車場)。

国道2号線沿いに鎮座。

祭神: 大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。

農業振興、厄除開運、縁結び、安産成就、病気平癒、合格祈願、商売繁盛、交通安全。

d0287413_10523730.jpg


創建は1468年(応仁2年)に播磨国一宮の「伊和神社」より大己貴命と少彦名命を勧請した。

当地は、播磨国風土記(西暦715年頃編纂)に「この山に岩神あり、故に神山と名付けた」とあり、往古より山頂に巨岩があって神の宿る霊地として畏敬されてきた。現在の標高は23mほど。

昭和52年に本殿を新造営の際に巨岩が出現、「石神さま」として祀られている。

神社の由緒によると、

『弘法大師が全国行脚の途次、小川で菜を洗う老婆に菜を所望されたが老婆はこれを固辞、菜を食べた老婆は腹痛に苦しんだ。以後秋祭の日に菜を食すと腹痛をおこすという伝承との習合により葉物野菜を食さない風習があります。よって当社を別名「菜食わずの宮」ともいわれます。』

鳥居と、奥に拝殿。 鳥居の左手前に旧本殿跡地。

d0287413_11030890.jpg

d0287413_11034224.jpg

拝殿

d0287413_11043345.jpg

d0287413_11050029.jpg

拝殿に幸せを招く「撫で大国(大黒)」。

国内外を問わず、撫でてご加護を頂くと云うのは多いですね。社務所の前には、願いが叶う

「持ち上げ福槌(ふくづち)」があり、私も福槌を持ち上げてお願いをしました。

d0287413_11052366.jpg

本殿

d0287413_11054276.jpg

本殿に向かって右(東)に「奥之院」、

祭神は神戸大神(かんべのおおかみ)で、古来より祀られていた。

d0287413_11060454.jpg

拝殿に向かって左(西)に播磨風土記にも記されている「神山の石神」。

石神の左奥には「八幡宮」が鎮座、旧本殿を遷した。祭神は誉田別尊(15代応神天皇、厄除けの神、363年-403年)、息長帯比売命(神功皇后、321-389年)、比売大神(天照大神か)。

d0287413_11064225.jpg

d0287413_11070142.jpg

八幡宮の奥に金刀比羅宮、桃山様式で祭神は大物主神。

d0287413_11072181.jpg

たつの市は素麺(揖保乃糸)と醤油が有名。また、童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風(1889年-1964年)は当地で生まれた。

「赤とんぼ」の歌詞に、「十五でねえやは嫁に行き」とあるが、露風の母は満15才で結婚している。私が古代人の年令を推測する時は、親と第一子の年令差を15才として計算しています。

露風は、たつの市・姫路市・赤穂市・東京三鷹市の小学校や高校の校歌を作詞している。露風は人生の後半を三鷹市で過ごし、三鷹市で亡くなったが、露風の縁でたつの市と三鷹市は姉妹都市となった。

たつの市の案内板やマンホールには赤トンボのマークがついている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-02-08 11:10

伊弉冉尊(いざなみのみこと)が亡くなったので、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が殯(もがり)に行っていたが、高天原に帰ってきた。

黄泉の国の穢れを払うために、「筑紫の日向の川の落ち口の、橘(たちばな)の檍原(あわぎはら)」で禊祓い(みそぎはらい)をした。

倭王兼7代目奴国王の伊弉諾尊(西暦125年頃出生)が禊祓いをした川は、福岡市と糟屋郡にまたがる立花山(367m)の麓から流れ出て玄界灘に注ぐ「湊川」だと考えられる。

立花山は連山になっているが、玄界灘からは2峰(二上山、二神山)に見え、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀っていたと云う。海人族が船で博多湾に戻ってくる時に、立花山は目印のランドマークとなった。伊弉諾尊が黄泉の国から船で戻ってきた時も、立花山を目指した。

檍原は立花山から海岸までの原野だと考えられるが、現在は開発され住宅地になっている。

赤のアイコンが立花山、黄が湊川の河口。


日本書紀によると、伊弉諾尊の禊祓いによって神が生まれ、八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と云う。次に神直日神(かんなおひのかみ)、次に大直日神(おおなおひのかみ)、次に底津少童命(そこつわたつみのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中津少童命(なかつわたつみのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の9柱の神が生まれた。

それから、伊弉諾尊が左の眼を洗うと天照大神が生まれ、右の眼を洗うと月読尊(つくよみのみこと)が生まれ、鼻を洗うと素戔嗚尊が生まれた。この三柱の神を「三貴子」と云う。

私見ですが、

天照大神は対馬(左の眼)の「日の神」で高天原を治め、月読尊は壱岐(右の眼)の「月の神」で潮流を治め、素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)は玄界灘の海岸(鼻)の「海原の神」で天下(葦原の中つ国)を治めることとなった。日本書紀は二つの島と筑紫の海岸を両眼と鼻に例えている。

天照大神は対馬の出身で、宇佐で素戔嗚尊と出会い、三女神(田心姫、湍津姫、市杵島姫)が生まれた。田心姫(たごりひめ)と湍津姫(たぎつひめ)が大国主命(西暦160年頃出生)の妻となり、宗像を拠点とする。

市杵島姫(いちきしまひめ、天佐手依姫)が天火明命(西暦140年頃出生、海部氏・尾張氏の祖)の妻となり、卑弥呼(天照大神②、西暦179年-247年)を生む。


西暦180年代に倭国乱が勃発、倭王兼7代目奴国王の伊弉諾尊が失脚して淡路島に隠遁。

素戔嗚尊が西暦200年頃に亡くなり、大国主命が跡継ぎとなるが、西暦201年に高皇産霊尊が中心となって倭国(北部九州の29ヶ国)を取りまとめ、天照大神②(卑弥呼)が倭国の女王となり、倭国乱が終焉する。

そして、高皇産霊尊と天照大神②(卑弥呼)が大国主命に国譲りを強要し、北部九州の倭国は統一された。

西暦185年頃に素戔嗚尊の第5子である饒速日命(にぎはやひのみこと)が大部隊で大和国に東遷し、纒向を都とした。

高皇産霊尊と天照大神②(卑弥呼)は大和国(奈良県)とその周辺国を統一するために、初代神武(西暦181年-248年)を大和国に派遣する。

臺與(天照大神③、235年頃-295年頃)は、270年頃に10代崇神(251年-301年)を伴い倭国から大和国へ東遷したと考えられる。崇神天皇は物部氏と結託して全国の主要地を統一した。

600年ほど続いた弥生時代が終わり、箸墓古墳を画期とする古墳時代に入っていく。列島の中心地が倭国(北部九州)から大和国(奈良県)に遷っていった。

天照大神、月読尊、素戔嗚尊の三柱の神を祀る神社は数少ないが、東京都杉並区の都心に広大な「阿佐ヶ谷神明宮」(あさがやしんめいぐう)が鎮座している。   

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-02-01 00:36

天平5年(733年)、45代聖武天皇(701年-756年)に奏上されたと云われる出雲国風土記に、伊差奈枳命(いざなぎのみこと)の子と記されているのは、熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと、素戔嗚命)と都久豆美命(つくつみのみこと)がいる。

出雲国風土記、嶋根郡千酌駅家(ちくみのうまや)の由来に、『伊差奈枳命の御子、都久豆美命が千酌(ちくみ)に坐すので、地名は「都久豆美」と云うべきものを、今の人はまだ「千酌」と名付けたままである』と記されている。

都久豆美命は千酌の守護神、氏神であった。

都久豆美又は都久津美の語源は「月津美(つきつみ)」で、「月の神」だと考えられる。

月の位置によって潮の干満が発生するので、「月の神」は潮の干満を支配する航海安全の神となった。また、月齢による太陰暦(陰暦、lunar calendar)も造られた。

都久豆美命と月読命(つくよみのみこと)は同じと云う説もあるが、どちらも同じ月の神で伊弉諾命の子であっても、私は別神だと思います。「ツクツミ」と「ツクヨミ」はよく似た神名ですがねぇ・・・

島根県松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌に爾佐神社(にさじんじゃ)が鎮座、日本海に面した千酌湾の西側に位置し、祭神は都久豆美神、伊邪那岐命、伊邪那美命で、社殿は東向き。月の出る東を向いているのか。

当社は旧・出雲国嶋根郡に鎮座の式内社で、「注連縄の向きが向かって左が元となっているのは出雲大社に倣ったと考えられる。   

千酌湾の東側には、美保関町北浦にある稲倉山(30m)の麓の伊奈頭美神社(いなづみじんじゃ)が東向きに鎮座、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたま)。

当社も拝殿の注連縄は向かって左が元となっている。

伊奈頭美神社の東に円錐形をしたランドマークの麻仁曽山(まにそやま、172m)があり、麓に伊奈阿氣神社(いなあきじんじゃ)が鎮座している。

以前は麻仁曽山の山頂に鎮座していたので、神社の神体山となっている。祭神は天御中主尊と事代主命。拝殿の注連縄は当社も向かって左が元となっている。

  赤が爾佐神社、黄が伊奈頭美神社、青が伊奈阿氣神社。


千酌湾沿いの三神社は、それぞれ目の前に漁港があるので、古代から渡航者や漁民が航海安全・豊漁を神社に祈願したのでしょう。

現在、隠岐の島に行く港は千酌の8km東にある七類港(しちるいこう)と鳥取県の境港(さかいみなと)であるが、古代には千酌港から隠岐の島に渡った。それで、千酌に駅家(うまや)が設けられ、交通の要所になっていた。


日本書紀の「国生み」では、伊弉諾命・伊弉冉命が国生みしたのはオノコロ島、淡路洲(あわじのしま)、大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま、大和)、伊予の二名洲(ふたなのしま、四国)、筑紫洲(つくしのしま、九州)、次に億岐洲(おきのしま)と佐度洲(さどのしま)・・・とあり、隠岐島はかなり早くから倭国勢力と結びついている。

素戔嗚命や大己貴命は日本海を島根半島沿いに東に渡航し、千酌に上陸、天気の回復を待って60kmほど離れた隠岐島へ渡航していったと考えられる。隠岐島は日本海交易ルートの重要な拠点であった。

素戔嗚命が千酌に来た時には、都久豆美命も一緒に航海したかもしれない。

稲倉山、伊奈頭美神社(稲積)、伊奈阿氣神社(稲開き)は農業の稲関連の名になっているが、本来は古代のイナ(鉄)ではないでしょうか。

海人族と踏鞴製鉄は密接に関連しており、「イナ(鉄)」が古代の地名・社名に使われ、「伊奈、伊那、猪名、衣奈、猪野、伊野、伊根、井根、稲」になっている場合が多い。

稲佐山(いなさやま)、猪名川(いながわ)、猪野川(いのがわ)、稲荷(いなり)神社、稲爪(いなづめ)神社など。

「イナ(鉄)」は踏鞴製鉄(たたらせいてつ)に関連するが、博多湾に注ぐ川に多々良川(たたらがわ)があり、踏鞴製鉄に関連する川だったと考えられる。

素戔嗚の踏鞴製鉄の作業・鉄穴ながし(かんなながし)が川下の農業などに悪影響を与えたことが、記紀の素戔嗚と天照大神の争いとして描かれたように思います。

多々良川の上流は猪野川(いのがわ)と呼ばれ、「多々良」も「猪野」も製鉄関連の名です。上流には伊野天照皇大神宮(祭神は天照大神)が鎮座する。(福岡県糟屋郡久山町猪野604

猪野川中流の久山町立山田小学校前に、神功皇后小山田邑斎宮伝承地がある。奴国の都は当地かもしれないが、もっと下流の香椎宮の辺りの方が相応しいか。防備の面から考えると小山田の方が安全だ。

古賀市小山田346にも小山田斎宮(おやまだいつきのみや)がある。

中世になり、農業の重要性が認識されるようになると、イナ(鉄)はイネ(稲)に変化して農業用語になっていった。出雲の千酌米も人気があるようだ。

出雲国風土記に記される50柱ほどの神々の中で「大神」と云われるのは、熊野大神(素戔嗚尊)、佐太大神(猿田彦命)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大穴持命)、野城大神の4神である。

印南神吉    メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-01-26 10:54
 古事記によると、伊邪那美命(いざなみのみこと)の尿(ゆまり)から弥都波能売神(みつはのめのかみ)と和久産巣日神(わくむすびのかみ)が生まれた。
 和久産巣日神の子が豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)で、亦の名を豊受大神、登由宇気神(とゆうけのかみ)、止与宇可乃売神(とようかのめのかみ)などと云われる女神である。

 豊受大御神は三重県伊勢市豊川町の伊勢神宮外宮(豊受大神宮、とゆけだいじんぐう)に奉祀されており、食物・穀物を司る女神である。
 止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう、804年)によると、21代雄略天皇(432年-479年)の夢に天照大神が現れ、「等由気大神(豊受大神)を御饌都神(みけつかみ)として連れて参れ」と云われたので、478年に雄略天皇は伊勢国に外宮を建てたと云う。
 そして、丹波国で海部氏が祀る「籠神社」(このじんじゃ)の奥宮である真名井神社から豊受大神を遷座し、度会氏(わたらいうじ)を神官とした。
      
 伊勢神宮内宮(皇大神宮)は既に、11代垂仁天皇(265年-310年)の時に三重県伊勢市宇治館町(うじたちちょう)に建てられていた。

 籠神社奥宮の真名井神社の背後にある磐座の石碑には「塩土老翁(しおつちのおじ)、大綿津見神、亦名住吉同体、亦名豊受大神」とあるので、豊受大神は女神ではなく男神となるが・・・
 籠神社の説明によると、「豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)・御饌津神(みけつかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘女神・豊受比売とも云います」とあるので、豊受大神は男神であるが、顕現する姿は女神になっていると云う。

 この顕現の仕方は、奈良時代から始まり1,200年以上続いた神仏習合の名残でしょう。明治時代に入ると、神仏分離令により神仏習合は禁止されたが、神仏習合の名残は現代にも散見される。

 伊勢神宮内宮は天照大御神を祀るので正殿は女神仕様で、千木は内削、鰹木は10本の偶数、豊受大神を祀る外宮の正殿は男神仕様で、千木は外削、鰹木は9本の奇数になっている。

 外宮の禰宜を世襲で務めてきた度会氏は天牟良雲命(あめのむらくものみこと)の末裔。天牟良雲命(170年頃出生)の孫が天日別命(あめのひわけのみこと)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の12世孫と云われており、年代は合うが・・・
 天牟良雲命(天村雲命)は天香語山命(155年頃出生、尾張氏の祖)の子で、天火明命(140年頃出生)の孫。天香語山命と天村雲命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って大和国にやってきた。
   
 三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は尾張国三宮の熱田神宮(あつたじんぐう、名古屋市熱田区)の神体であるが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも云う。
 この剣は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治した時に、大蛇の尾から出てきた霊剣で、天照大神に献上した。     

 天日別命は神武天皇(181年-248年)が大和国へ東遷してきた際に、伊勢国を平定し、伊勢国造の祖となった。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-17 16:12

愛宕山の天狗

 京都市右京区の愛宕山(あたごやま、あたごさん、924m)山頂に愛宕神社が鎮座。祭神は伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命。
 愛宕山は山城国と丹波国の国境に位置し、嵐山(381.5m)の6.5km北西にある。愛宕神社は、全国で火伏せの神様を祀る約900社の総本社になっている。
 愛宕山は神戸の六甲山(932m)とほぼ同じ標高ですが、六甲山のように車では登れないので参拝は「登山」になり、私には無理です。私が生まれた昭和18年頃にはケーブルカーで行けたようですが、戦時中に撤去され今はありません。




 修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年)が愛宕山(朝日峰)に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)に遭い、神廟を設けた。
 49代光仁天皇(709年-782年)の勅を受けた和気清麻呂(733年-799年)が、唐の五台山に倣って、781年に愛宕権現白雲寺などの愛宕五坊を愛宕山に建立し、神仏習合の山岳修業霊場となった。

 56代清和天皇(850年-880年)は愛宕山南麓にある水尾山(484m)との関係が深く、水尾天皇とも云われる。清和天皇は水尾山陵に埋葬され、500mほど東の清和天皇社に祀られている。



 愛宕山の山岳信仰と修験道による愛宕権現(あたごごんげん)は、愛宕山白雲寺において伊弉冉尊(いざなみのみこと)と将軍地蔵を神仏習合により融合したものであった。
 将軍地蔵は武装した姿で軍馬にまたがっており、武家が戦勝を祈って信仰した地蔵菩薩。天正10年(1582年)、明智光秀(1528年-1582年)が織田信長(1534年-1582年)を討つ前に愛宕山に登ったと云う。 「ときは今 あめが下知る 五月かな」

 江戸時代には白雲寺から発祥した愛宕信仰が全国に広まっていったが、明治の神仏分離令により、愛宕権現も白雲寺も廃止され、愛宕神社に改められた。
 明治5年には修験禁止令も出された。

 1889年(明治22年)に就役した海軍の砲艦「愛宕」は愛宕山に因んで命名され、日清戦争・日露戦争などに参加したが、1904年(明治37年)に座礁により沈没した。
 2代目の重巡洋艦「愛宕」は1932年(昭和7年)に就役、多くの戦績を残したが、1944年(昭和19年)にアメリカの潜水艦の攻撃で沈没した。艦内神社はもちろん愛宕神社であった。
 同じく愛宕山に因んだ海上自衛隊のイージス型護衛艦「あたご」が2007年(平成19年)に就役した。艦内神社は愛宕神社で、お賽銭箱もある。
 弥生時代にも、舟や丸木舟には航路の安全を守るために船魂神(ふなだまのかみ)を祀っていた。この信仰は連綿と現代まで続いている。

 毎年8月16日の京都五山の送り火の時は、広沢池(京都市右京区嵯峨広沢町)の真西2kmの水尾山(曼茶羅山、まんだらやま)では鳥居の形に松明が点火される。



 付近には52代嵯峨天皇陵(842年崩御)と91代後宇多天皇陵(1324年崩御)がある。
 また、近くには祇王寺(ぎおうじ)もあり、50年前に訪れたことを思い出しました。祇王寺は紅葉の美しい尼寺で、平家物語に登場します。

 愛宕神社の若宮社には伊弉冉尊の生んだ迦遇槌尊(かぐつちのみこと)が祀られており、迦遇槌尊の化身を愛宕修験の愛宕太郎坊天狗とした。
 愛宕太郎坊天狗は多くの眷属を従える「日本一の大天狗」となった。

日本八天狗
 1、愛宕山太郎坊(京都市右京区)、天狗の総大将。
 2、比良山次郎坊(滋賀県大津市)、比叡山に居たが、比良山に移った。
 3、飯綱三郎天狗(いづなさぶろう)、白狐に乗る長野県飯綱山のカラス天狗。
 4、大峰山前鬼坊(おおみねぜんき、奈良県大峰山)、前鬼は役小角(役行者)の高弟で、
   妻の後鬼(ごき)と共に役小角に従った。
 5、鞍馬山僧正坊(そうじょうぼう、京都市左京区)、牛若丸に武術を教えた鞍馬天狗。
 6、白峯相模坊(香川県坂出市)、崇徳上皇が配流地の讃岐国で1164年に憤死した時に、
   崇徳上皇を慰めるために、相模国から讃岐国の白峯山へ飛び移った。
 7、相模大山伯耆坊(神奈川県伊勢原市)、伯耆大山から相模国へ飛んだ。
 8、英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう、福岡県田川郡)、高住神社(英彦山神宮の摂社)。
   天津日子忍骨命(天忍骨命)が天降ったもので、役小角がこの山で修行した時、
   それを祝福して出現した。
 
 日本書紀によると、
『34代舒明天皇9年春(637年)、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。人々は「流れ星の音である」と云い、あるいはまた「地雷(つちのいかづち)である」と云った。
 新漢人(いまきのあやひと)の僧旻(そうみん、653年没)は「流れ星ではない。これは天狗(あまつきつね)である。その吠える声が雷に似ているだけだ」と云った。』
とあるが、これが天狗の初見となった。

 このあと、役小角(役行者)が大和葛城山、大峰山、吉野山などで山岳修業を行い、全国の山を修業して修験道を開始、各地に天狗が現れたと云う。
 2013年5月8日投稿の「吉野水分神社と金峯山寺」をご参照ください。
   
 「猿田彦命」が天狗であると云う説も有力だ。神社の祭りの行列で先導しているのは猿田彦命で、天狗の面をかぶっている。   
 猿田彦命(2世紀後半)と天狗(7世紀から8世紀以降)が結び付けられたのは、修験道により天狗が出現して猿田彦命の風貌と似ていることが原因と考えられる。
 猿田彦命の風貌は日本書紀によると、「その鼻の長さ七握(ななつか)、背の高さ七尺あまり、口の端が明るく光っている。目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで照り輝いていることは赤ほうずきに似ている」とある。  
 猿田彦命の風貌からすると、古代に日本へやってきたフェニキア人かもしれない。2017年1月1日投稿の「日本人とフェニキア人」をご参照ください。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-09 07:16

幸連5遺跡

 14,000年前から始まった縄文時代は、列島全体にほぼ均質な文化が広まり、広範囲の交易も行われていた。
 縄文人は、民族的にもY染色体ハプログループD2と云う世界でも数少ないDNAを特色としている。
列島全体に交易がおこなわれていたことは、考古学的出土物により証明される。

 津軽海峡に面した北海道上磯郡木古内町幸連(かみいそぐん きこないちょう こうれん)の「幸連5遺跡」は縄文時代前期から中期後半まで連続的に営まれていた。
 長期の遺構が複雑に絡み合って、100万点を超える遺物が発掘されている。
 竪穴住居跡から出土した4,300年前の石製品は、砂岩を正三角形の板状に削り、顔料で人の顔が描かれていた。三角形の一辺は12cmほどで、厚さは1.4cm、重さは218gあった。



 4,500年前の竪穴住居跡からの出土物には、長野県和田峠(1531m)で産出される黒曜石製の矢じり2点がある。和田峠と木古内町の直線距離は650kmも離れており、最も遠方での発見になった。和田峠産の黒曜石は透明感があり、元素の分析結果で判明した。

 和田峠周辺は縄文時代には黒曜石の産地で、石鏃に加工され交易品となった。筑摩山地の中央分水界にあり、峠の北側は千曲川から信濃川により日本海に通じ、峠の南側は諏訪湖から天龍川により太平洋に通じる。川と海の舟運により、ここから全国に流通していった。

 幸連遺跡の西にある木古内町札苅(さつかり)の札苅遺跡は縄文時代前期(6,000年前から5,000年前)から晩期の集落を代表する遺跡で、主に3,000年前から2,000年前の集落が多い。
 出土物に土偶があるが、高さ6cmから8cm、幅5cmの小型の板状のもので祭祀に使われた。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-07 08:44
d0287413_21131354.jpg
 

 兵庫県北部の但馬国(たじまのくに)は、2世紀に出雲国の大己貴命(大国主命、160年頃出生)一族が開拓したが、次に天火明命(あめのほあかり、140年頃出生)一族がやってきて開拓した。
 3世紀半ばになると天日槍命(あめのひぼこ、230年頃出生)が新羅から但馬国にやってきて開拓したと云う。

 但馬国の歴史書に「国史文書 但馬故事記」がある。記紀以外は偽書とされることが多いが、但馬国の歴史を詳しく述べている。

 「国司文書 但馬故事記」の第5巻出石郡故事記によると、6代孝安天皇(229年頃-270年頃)の時代に(269年頃)、新羅の王子・天日槍命が帰化したとある。
 天日槍命は神武天皇(181年-248年)の兄・稲飯命(いなひのみこと、稲氷命)の5世孫であると出石郡故事記に記されている。
 「新撰姓氏録」(815年)にも「右京 皇別 新良貴 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男 是出於新良国 即為国主 稲飯命者 新羅国王者祖合 稲飯命之後也」とあり、稲飯命は新羅王の祖とある。

 稲飯命は弟の磐余彦(いわれひこ、神武天皇)の東征に従い、西暦204年に九州を出発して大和国を目指したが、紀伊水道で暴風に逢い漂流した。
 稲飯命は新羅にたどり着いて国王となったと云う。子孫の天日槍命は王子であったが、先祖の国を目指し、筑紫国(九州)→穴門国(下関)→針間国(播磨国)の宍粟(しそう)郡に留まった。
 天日槍命の希望により孝安天皇は多遅摩国(但馬国)を与え、多遅摩国造にした。天日槍命は出石県主の天太耳命(あめのふとみみ)の娘・麻多烏(またお)を妻にし、但馬諸助(たじまもろすく)を生む。

 天日槍命は但馬国一宮の「出石神社」に祀られており、子孫には神功皇后(321年-389年)がいる。 2013年8月19日投稿の「但馬国考古学」をご参照ください。
  
 私見ですが、天日槍命の出自は新羅ではなく、朝鮮半島南部の任那(みまな、伽耶)ではないかと考えています。当時の九州北部と朝鮮南部は、揚子江(長江)からやってきた呉人の小国家群が多く、当時は同一文化の交流地域だったと考えています。
 3世紀において新羅(斯盧国)は任那(伽耶)の北方にあり、高句麗と接していたが、8世紀の記紀成立の頃には任那の地は新羅になっていたので、記紀では天日槍命を新羅の王子と呼んだのではないか。

 任那(伽耶)も九州北部と同じ倭人の小国家群であった。任那の王族は北部九州の奴国王などと同族関係にあったと考えられる。
 実際に、斯蘆国初代国王となった赫居世は倭(奴国)の王族と繋がっていたようである。

 そして、天日槍命の子孫や帰化人が、自らの出自を皇族につなげるために、新羅の王となった稲飯命の子孫であると主張したのかもしれない。
 日本書紀には、神武天皇の兄の稲飯命と三毛入野命(みけいりのみこと)は紀伊水道で暴風に遭った時に海中に没し、常世国(とこよのくに)にいったと記されているが・・・
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-01 00:10
 鳥取市の松原田中(まつばらたなか)遺跡(鳥取市松原字中田中)は、弥生時代から古墳時代の集落遺跡で、高床倉庫の基礎を補強するための「地中梁(ちちゅうばり)」が、平行して2本発掘されていた。
 3世紀後半頃に使われた地中梁で、鳥取県埋蔵文化財センターによると、2本が腐食や欠損のないほぼ完全な形で出土するのは異例で、今回出土した全長7.33mと7.22mの2本の地中梁(杉材)は国内最長級の梁である。


  パンフレット
 「地中梁」は地中に埋めた長い木材で、軟弱な地盤でも建物が傾かないように地中梁を平行に2本並べ、その上に建物の柱を立てることで安定させていた。
 それぞれに4本の柱を組み合わせた痕が残っており、柱の位置や建物の構造を特定することができた。2本の梁は地中50cmから80cmほどの深さに、幅3mほどの間隔をあけて並行に敷設されていた。

 松原田中遺跡では2013年、国道9号線の改築に伴う発掘調査で15棟の高床倉庫の建物跡が確認され、そのうち8棟から地中梁が出土していた。

 その他、石川県金沢市大友西遺跡からも3世紀前半頃の地中梁が1本(8mほど)出土していた。金沢市近岡遺跡からは2本揃って出土、新潟県佐渡市蔵王遺跡からも2本揃って出土していた。
# by enki-eden | 2018-12-29 14:36
 物部の祖・饒速日(にぎはやひ、165年頃出生)から7代目の「伊香色雄命」(いかがしこお、255年頃出生)は9代開化天皇(244年-294年)と10代崇神天皇(251年-301年)に仕えた。
 伊香色雄は「石上神宮」を建て、氏神として祖神・素戔嗚の父の布都を祀った。
 
 物部大咩布命(290年-364年)は伊香色雄命の末の息子で、11代垂仁天皇(265年-310年)に仕え、若湯坐連(わかゆえのむらじ)などの祖とされている。

 兵庫県宝塚市売布(めふ)山手町に鎮座する売布神社(めふじんじゃ)は、近世まで貴船神社と称していたが、延喜式神名帳の摂津国河辺郡に記載の「売布神社」と判明したので、18世紀に社名を変更した。
 社伝によると、605年の創建で、里人が下照姫神(高比売神)と天稚彦神を祀ったと云う。
当地周辺は物部若湯坐連(もののべのわかゆえのむらじ)が拠点としており、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が若湯坐連らの始祖になっているので、当社の本来の祭神は意富売布命(大咩布命)ではないか。

 兵庫県三田市酒井宮ノ脇に鎮座の高売布神社(たかめふじんじゃ)の祭神は、下照比売命と天稚比古命になっている。
 物部大咩布命を祭神とする説もある。
 赤のアイコンが宝塚市の売布神社、黄が三田市の高売布神社



 物部大咩布命の系図は、
 饒速日→宇摩志麻治→彦湯支→出石心→大矢口宿祢→大綜麻杵→伊香色雄→大咩布
 となっている。
 新撰姓氏録の「山城国 神別 天神 真髪部 造 神饒速日命7世孫大賣布乃命之後也」とあり、「和泉国 神別 天神 志貴 県主 饒速日命7世孫大賣布命之後也」とある。

 9世紀に編纂された但馬故事記(但馬国司文書)によると、
 『物部大売布命は日本武尊(やまとたけるのみこと)に従い、東夷(あづまえびす)を征伐したことを賞し、摂津の川奈辺(川辺郡)、多遅麻の気多(けた)郡、黄沼前(きぬさき、城崎郡)の三県を与えられた。
 大売布命は多遅麻の気多郡に入り、気多の射楯(いだて)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。』
と記されている。

 射楯宮は但馬国気多郡高田郷石立(射楯)村にあったが、現在の地名は兵庫県豊岡市日高町国分寺797となっており、売布神社が鎮座、祭神は「気多の大県主」と呼ばれた物部連大売布命である。大売布命は神功皇后2年(西暦364年)に当地で亡くなり、射楯宮の後方にある射楯丘に埋葬された。


  
 日本武尊の東国征伐は妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が同行したので、船団を運用したのは弟橘媛の属する穂積氏だったと考えられる。穂積氏は物部一族であるので、その船団を大売布命が指揮したのでしょう。「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp   
# by enki-eden | 2018-12-25 11:38

但馬国(たじまのくに)

 但馬地方は兵庫県の北部の地域で、北は日本海、南は播磨地方と丹波地方、東は京都府、西は鳥取県と接している。
 但馬は全体に山が多いが、兵庫県の面積(8,396㎢)の25%(2,134㎢)を占め、東京都の面積(2,188㎢)に近い。
 山口県から兵庫県まで続く東西500㎞の中国山地は標高1,000m前後で、磁鉄鉱系の花崗岩が多く砂鉄が豊富で、川も多いので、古代から吉備国を中心として踏鞴製鉄が盛んに行われた。
 但馬では高い山もあり、氷ノ山(ひょうのせん、1,510m)が一番高い。但馬の冬は雪が降って寒く、スキー場が賑わう。夏は逆にフェーン現象で暑い。

 但馬地方は但馬北部(北但)の豊岡市と美方郡(みかたぐん)、但馬南部(南但)の養父市(やぶし)と朝来市(あさごし、一部は播磨地方)からなっている。
 豊岡市に但馬飛行場(コウノトリ但馬空港)があるが、播磨から行くにはJR播但線か播但連絡道路が便利。私はよく播但連絡道路を利用します。途中、道の駅「ようか但馬蔵」で休憩します。
 
 但馬国総社は氣多神社(けたじんじゃ、大己貴命、豊岡市日高町上郷)、一宮は「出石神社」(いずしじんじゃ、天日槍命、豊岡市出石町宮内)、二宮は「粟鹿神社」(あわがじんじゃ、日子坐王、朝来市山東町粟鹿)であるが、粟鹿神社も但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。
  
 但馬国風土記は残っていないが、9世紀から10世紀にかけて編纂された「但馬故事記(但馬国司文書)」は残っているので、但馬の旧事を知ることができる。

 先代旧事本紀の国造本紀によると、但遅馬国造(たじまのくにのみやつこ)は13代成務天皇の時代(4世紀前半)に、竹野君と同祖の彦坐王(ひこいますのきみ、9代開化天皇の皇子)の五世孫の船穂足尼(ふなほのすくね)を国造に定めたとある。
 朝来市桑市の船宮古墳(ふなのみやこふん)が船穂足尼の墳墓と伝わるが、5世紀後半築造で少し年代が合わない。前方部に船宮神社が鎮座している。
 船宮古墳は但馬地方で2番目に大きな前方後円墳で、総長117m、墳丘長91m、後円部径49m、高さ6mの三段築成。   
 但馬地方最大の前方後円墳は墳丘長136mの「池田古墳」(朝来市和田山町平野)で、5世紀初め頃の築造。原型を留めていないが、兵庫県では4番目の大きさ。こちらが船穂足尼の墳墓かもしれない。
 但遅馬国造は但馬国東部(現在の豊岡市、養父市、朝来市)を治めた。

 同じく先代旧事本紀の国造本紀によると、成務天皇の時代に、二方国造(ふたかたのくにのみやつこ)を定め、出雲国造と同祖の遷狛一奴命(うつしこまひとぬのみこと)の孫の美尼布命(みねふのみこと)に任じた。二方国造は但馬国西部(現在の美方郡)を治めた。
 兵庫県美方郡新温泉町竹田1に鎮座の面沼(めぬま)神社は二方地方の総社で、二方国造の美尼布命を主祭神としている。

 但馬の地名由来は、確かなものはないが、私見では「田島」だと考えている。つまり、九州の「田島(たしま)」からの移住者が多かったのではないか。「たしま」→「たじま」に変化した。
 福岡県宗像市田島(たしま)2331に鎮座の宗像大社は宗像氏の本拠地。佐賀県唐津市呼子加部島に鎮座の田島神社(たしまじんじゃ、宗像三女神)は宗像大社から勧請した。
 宗像氏の祖神は大国主命(大穴持命、160年頃出生)で、大穴持命が但馬巡視をして田島と名付け、その後多遅摩→但馬に変化したか。

 但馬開発の祖神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)となっている。天日槍命は新羅の王子と云われており、私見ですが、230年頃の出生。
 天日槍命は多遅摩俣尾(たじまのまたお)の娘・前津見(さきつみ)を妻とする。或いは、太耳の娘の麻多烏(またお)を妻とするとも云う。
 天日槍命の7代目に息長帯比売命(神功皇后、321年-389年)がいる。私は、天日槍命は新羅人ではなく、任那(みまな、562年滅亡)の倭人であると見ています。

 大分県日田市田島(たしま)の東隣りは日高町で、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)で有名なダンワラ古墳があった。2017年3月30日投稿の「比多国造」をご参照ください。
      
 日田市の田島にも兵庫県の但馬にも日下部氏の本拠地がある。船穂足尼の子孫に但馬国造の日下部君がおり、その後裔が日下部氏となっている。日下部氏は全国に広がっている。
Innami Kanki    メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-12-19 11:03
 淡路島の南端沖に兵庫県南あわじ市沼島がある。私は沼島に渡ったことはないが、淡路島を車で一周した時に海岸沿いの道路から良く見えた。
 周囲9.5kmの島で、500人弱が住んでいるが、都市部への人口流出で大きく減少した。



 日本書紀によると、『伊弉諾尊と伊弉冉尊が「天の浮橋」に立って、天瓊矛(あめのぬぼこ)で青海原をかき回して引き上げると、矛の先からしたたり落ちる潮がかたまって島となった。それを名付けて「おのころ島」と云った。
 二柱の神は「おのころ島」に降りて大きな御殿を造り、「天に届く柱」を立てた。』とある。

 沼島が「おのころ島」だと云われているので、沼島の東海岸にそそり立つ30mの上立神岩(かみたてがみいわ)が「天に届く柱」なのかもしれない。天の御柱(あめのみはしら)とも云う。
 沼島のパンフレット

 淡路島の北端の岩屋漁港に小さな「絵島」があるが、私は子どもの頃から絵島が「おのころ島」だと思っていた。ちょっと小さすぎるかな?

 沼島(おのころ島)には神社も数社あり、西海岸の山の上に自凝神社(おのころじんじゃ)が鎮座している。祭神は勿論、伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。

 淡路島内の南あわじ市榎列(えなみ)下幡多(しもはだ)には自凝島神社(おのころじまじんじゃ)が鎮座、祭神は同じく伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。
 立派な赤い大鳥居が目立つ。

 大和朝廷にとって瀬戸内海を西へ遠征・進出するには、拠点として淡路島は重要な立地にあった。淡路島の海人族は優秀な水軍をもっており、造船も得意で、大規模の金属工房もあった。
 明石海峡を抑える部族もあり、阿波国(徳島県)・淡路島・和泉国(大阪府南西部)を交流して活躍する部族などもあり、朝廷にとっては淡路海人族を味方に取り込む必要があった。

 淡路島は古代から大和政権と強く結びついており、海産品などを献ずる御食国であった。先代旧事本紀の国造本紀によれば、16代仁徳天皇(386年-429年)の御代に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼(やぐちのすくね)を淡道国造に定めたとある。
 仁徳天皇は頻繁に淡路島へ行っている。淡路島には良い狩場があり、伊弉諾命が国生みで最初に造ったのがおのころ島(沼島)と淡島(淡路島)であり、伊弉諾命(西暦125年頃出生)が淡路島の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)で余生を送った地であることが仁徳天皇を引き付けたのでしょう。

 堺市の仁徳天皇陵(墳丘長486m)を宮内庁と堺市が共同調査した。周濠の堤(つつみ)に石敷きがあり、その上に円筒埴輪がびっしりと1列に並んでいたことが分かった。
 埴輪は5世紀前半から半ばの特徴を持っているので、429年に崩御した仁徳天皇の陵墓に間違いないと私は思います。多くの人は仁徳天皇が4世紀末頃に崩御したので、埴輪の年代と数十年ほど合わないと云っているが、崩御年の推定を間違えているのが原因だと思います。
 今回の調査は天皇陛下の承諾が得られたので実現したが、今後も宮内庁管理の陵墓の調査を進めてほしいと思います。2019年5月1日に次期天皇に即位される皇太子殿下にも陵墓の調査にご理解を深めていただきたいですね。
Innami Kanki  メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-12-13 09:32
 兵庫県加西市(かさいし)西剣坂町(にしけんざかちょう)818  電0790-46-0215
 神社の前に車を停められます。 加西市の西端で、姫路市との境の山麓に鎮座。

 祭神 国常立尊(くにのとこたちのみこと)、
 配祀 伊弉諾尊、伊弉冉尊、素戔嗚命。



 私見ですが、祭神の国常立尊は西暦元年生まれの初代奴国王で、西暦57年に後漢に朝貢した「漢委奴国王」だと見ています。
 奴国は博多湾周辺の国で、国常立尊の時に倭国(北部九州)の海外交易を代表する国になった。
 国常立尊の生年は西暦元年と云いましたが、西暦元年は西暦1年で、その前年は紀元前1年です。その間の「紀元0年」と云うのは存在しません。
 従って、紀元前から紀元後に亘る期間の年数を計算するには1年を引く必要があって、ややこしい。
 日本の元号も同じで、平成元年(1989年)は平成1年であって、平成0年ではありません。人の年令も現在では生まれた時は0才ですが、昔は1才でした。
 天文学では「紀元0年」を仮に設けて計算しやすくしているようです。

 少彦名神(すくなひこなのかみ)が当地を治めていた時、剣が出土したので、この剣を「十束の剣」と名付けて祀ったのが当社の初めと云う。播磨鑑(はりまかがみ)には「剣の宮」と記されている。
 貞永元年(1232年)に刀鍛冶が参拝して詠んだ歌、
   いく代々の ためしともなれ 神代より たえず祀れる みつるぎの宮

 天正の頃(16世紀後半)、社殿が兵火により焼失したので再建した。「天下賦武」の信長軍は多くの寺社を破壊した。宗教中心の社会を変える「宗教改革」の役割も果たしたことになるが、犠牲が大きかった。

   石の鳥居と参道の灯篭
d0287413_9485955.jpg

   絵馬殿
d0287413_9491469.jpg

   拝殿
d0287413_9493094.jpg

   本殿の前に小さな狛犬と少し右に石の祠
d0287413_9494247.jpg

   本殿の左にも小さな狛犬と石の祠
d0287413_9495633.jpg

  鳥居の左奥に大歳神社、兵庫県には大歳神社が400社近くもある。
d0287413_950827.jpg

Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-12-05 09:54
兵庫県姫路市山田町多田920   神社の北に車を停めるスペースがあります。
祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)



 当社は、6世紀前半築造の前方後円墳(全長40m)の横穴式石室が神座となっており、羨道入口に神殿が鎮座している。拝殿からは石室の入り口が見える。
 この古墳の石室は「諏訪の岩穴(いわあな)」と云われ、県指定重要有形文化財(史跡)になっている。地名をとって多田古墳とも呼ばれる。

 神社の説明によると、古墳の軸はほぼ東西向きで、後円部の南側に石室が開口し、入口前面に拝殿が造られている。石室内に石祠を置き、建御名方神を祀っている。

   石の鳥居と奥に拝殿、鳥居は北東にある。
d0287413_9202490.jpg

d0287413_9204231.jpg

d0287413_92148.jpg

d0287413_9212119.jpg


 建御名方神は出雲族の大国主命(160年頃出生)と高志国(越後)の沼河比売(ぬなかわひめ)の子で、武神、軍神として崇敬されている。

 建御名方神は、倭王の卑弥呼(天照大神②、179年-247年)が201年頃に強制した「国譲り」に反対して敗れ、信濃国(長野県)の諏訪湖に逃れたと古事記には記されている。
 建御名方神は諏訪の地を開拓して、信濃国一之宮の諏訪大社に祀られた。御名方(みなかた)の名は父・大国主命の本拠地・宗像(むなかた)が由来かもしれない。

 大国主命と神屋楯比売の子である事代主神は国譲りに賛成したので、現在でも宮中三殿の八神殿に高皇産霊神などと共に祀られている。

 出雲国風土記には、大穴持命(大国主命)と奴奈宜波比売命(ぬながわひめのみこと)の子に御穂須須美命(みほすすみのみこと)が記されており、建御名方神と同じと云われる。
 建御名方神は母・沼河比売の里(糸魚川市)からヒスイで有名な姫川を遡り、諏訪湖に落ち着いたのではないか。
 妃は八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、安曇氏と云われる。安曇氏が開拓した安曇野(あづみの)は諏訪湖の北30kmほどにある。
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-11-29 09:23
兵庫県姫路市豊富町豊富1375   電079-264-4747   無料駐車場あります。
祭神 品陀別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)
配祀 息長足比女尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
   比咩大神(ひめおおかみ)



 15代応神天皇(363年-403年)が播磨国を巡幸の時、甲山(かぶとやま、107m)に登り、四方を視察した。播磨国風土記には甲山は冑山と記されている。
 応神天皇は灌漑用水路や道路を造らせて農業振興を図った。里人たちはその徳に感謝し、秋の収穫時には甲山に登り、初穂を供え都の方(東)に向かって遙拝した。
 応神天皇や神功皇后(321年-389年)が播磨国を巡幸した記録は各地に多い。

 859年(貞観元年)、甲山に社殿を造営し八幡神社とした。
 当社のすぐ西を流れる市川沿いにある神崎郡福崎町、姫路市船津町、姫路市砥堀(とほり)の地域には、平安時代末期に蔭山荘という荘園があり、当社はこの蔭山荘の総氏宮であったと云う。
 蔭山荘に因んで豊富町御蔭(みかげ)の地名ができたと考えられる。また、当地は踏鞴製鉄が盛んな地域であった。

 当社の3.2km南の豊富町御蔭に兼務社の新次神社(にすきじんじゃ)が鎮座、祭神は阿遅須伎高比古尼命(味耜高彦根神)。大和葛城から役行者(えんのぎょうじゃ、634年-706年頃)が来て祀ったと云う。近くに行者堂がある。

 甲八幡神社は歴代の姫路城主からも崇敬され、社領を寄進されたが、社殿は明治27年(1894年)に焼失し、明治34年(1901年)に再建された。
 入口の赤い大鳥居は平成2年(1990年)に再建された。

  入口の大きな赤鳥居、甲山の上にあるので遠方からもよく目立つ。
d0287413_20375395.jpg

   赤い大鳥居の左奥に牛の像と天満宮。
d0287413_20381611.jpg

   階段を登ると、社号標と拝殿。
d0287413_20383757.jpg

d0287413_20385095.jpg

   幣殿と本殿
d0287413_2039732.jpg

   八幡神社では「神使いの鳩」が向かい合って「八の字」を象っている。
d0287413_20392158.jpg

   拝殿右手前の境内社(市杵島神社かな?)
d0287413_2039388.jpg

   拝殿右に手前から、藤原社、荒神社(竈神)、豊富命社、皇太神宮。
d0287413_20401488.jpg

   本殿裏に稲荷神社
d0287413_204030100.jpg

Innami Kanki  メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-11-24 20:43
 兵庫県神戸市中央区下山手通1-2-1   電078-321-3851  駐車場は有料。
 祭神 稚日女尊(わかひるめのみこと)
 創建者 神功皇后(321年-389年)
 初詣は150万人ほどの参詣者で賑わう。

 生田神社会館で株式セミナーがありましたので、久しぶりに生田神社に参拝しました。
 弁財天のご朱印をいただきました
d0287413_1725281.jpg


 
 拝殿と本殿
d0287413_1724628.jpg

d0287413_17243246.jpg

 本殿の西にある「生田の池」に市杵島神社(生田弁財天)、祭神は市杵島姫命。
d0287413_17245559.jpg

 2013年4月17日投稿の「生田神社」をご覧ください。  
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-11-20 17:28
 兵庫県神戸市灘区高羽町(たかはちょう)4-2-2  電078-851-2309
 車を境内に停められるが、通路は狭い。

 祭神 罔象売神(みつはのめのみこと、天照大神の姉妹)、
 明治42年5月5日に八幡大神と須佐男命を合祀。
d0287413_1101890.jpg

 通称・水神さん、「丹生川上神社」が本社。(奈良県吉野郡東吉野村小968)
   
 日本書紀によると、「伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神の軻遇突智(かぐつち)を生んだ時に火傷をして亡くなった。その亡くなろうとするときに、土の神・埴山姫(はにやまひめ)と水の神・罔象女(みつはのめ)を生んだ」とある。

 神戸市の当地は古代には「覚美の郷(かがみのごう)」と云われ、鏡作部(かがみつくりべ)の人たちが住み、水神さんを祀った。
 昔は1.5km北にある六甲山中腹の「滝の奥」(標高約240m)に祀られていた。
   赤のアイコンが丹生神社、黄が「滝の奥」


 この山の尾根の東斜面にある桜ケ丘町の通称・神岡(かみか)より14個の銅鐸と7本の銅戈が出土し、国宝として神戸市立博物館に保存展示されている。 2013年7月31日投稿の「摂津の国の考古学」をご参照ください。

   鳥居と拝殿
d0287413_119815.jpg

d0287413_1192331.jpg

 拝殿右手前には樹齢500年余りの「高羽丹生の楠」があり、神戸市の「市民の木」に指定されている。一願成就のご神木となっている。
 拝殿左横には境内社の磐春稲荷神社と天照皇大神宮が鎮座している。
d0287413_1193696.jpg

Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2018-11-13 11:12