古代史探訪

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物部麁鹿火(もののべのあらかひ)

 物部麁鹿火大連(おおむらじ)は饒速日尊14世孫、536年没。
 父は物部麻佐良大連、母は須羽直(すわのあたい)の女(むすめ)・妹古(いもこ)。
 物部麁鹿火は25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇、28代宣化天皇に仕えた大連で、武烈天皇崩御の後、507年に継体天皇を擁立した。

 麁鹿火は527年の筑紫国「磐井(いわい)の乱」で討伐将軍として出征、翌年に磐井を討って処刑した。磐井の子・筑紫君葛子(くずこ)は父の連座から逃れる為、「糟屋の屯倉(かすやのみやけ、福岡県糟屋郡)」を献上し、死罪を免れた。
 継体天皇は「長門より東の方は自分が治めよう。筑紫以西は麁鹿火が統括せよ」と云った。
 西暦201年頃の国譲りで、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)が卑弥呼(天照大神②)に献上されたが、今回の物部麁鹿火の武勲により、国譲りから330年後に再び出雲族出自の物部氏が九州を治めることになった。

 前回の投稿「下照姫」の最後に、『先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・』と記したが、物部麁鹿火が九州を統括することになったので、麁鹿火と同じ饒速日尊14世孫で従弟の阿遅古(あじこ)に筑後川南部一帯を治めさせたと考えられる。
 その結果、水沼氏は阿遅古の配下となり、先代旧事本紀には「阿遅古は水沼氏の祖」と云う表現が使われたと考えられる。姻戚関係を結んで物部氏に取り込んでいった。
 物部氏はこのようにして、配下に「物部八十氏」或いは「物部百八十氏」と云われる大きな集団となった。諸国の多くの国造家としても繁栄した。

 物部麁鹿火の墳墓は大和国の大和川周辺にあると考えられるが、麁鹿火の墳墓の可能性があるのは奈良県天理市豊田町の豊田トンド山古墳。7世紀前半の築造で、直径約30mの円墳。
 石上神宮の1.3km北西にあり、物部氏の本拠地の布留遺跡を見下ろす位置にある。
 天理市教育委員会は「当地周辺を拠点にした豪族・物部氏の首長クラスの墓だった可能性がある」としている。



 福岡県嘉穂郡(かほぐん)桂川町(けいせんまち)寿命(じゅめい)の「桂川大塚古墳」が麁鹿火の墳墓と云う説がある。  
 桂川大塚古墳は、復元すると全長86mの前方後円墳で、遠賀川流域では最大、6世紀中頃築造の装飾古墳になっている。時代は麁鹿火と合うが・・・
 円形埴輪が出土し、斜面には葺石があり、二重の周濠が巡らされていたようだが、前方部は住宅などになっており形が少し残るのみ。すぐ横には大塚装飾古墳館があり、穂波川(ほなみがわ)が流れている。穂波川は少し下流になると遠賀川に合流する。
 王塚古墳は未盗掘だったので多くの副葬品が出土、重要文化財に指定され京都国立博物館に保管されている。



 物部氏は軍事、刑罰、祭祀に優れ、10代崇神天皇以降は天皇家と共に発展してきた。物部守屋が587年に蘇我氏に敗れ、物部氏の勢力に陰りが見えたが、40代天武天皇(686年崩御)の時に朝臣となり、石上(いそのかみ)氏と改めた。
 物部氏は軍事と祭祀には優れていたが、政治力がやや弱かったのではないだろうか。それに比べて蘇我氏や中臣氏(藤原氏)は政治力に長けていた。

 継体天皇から九州以西の統括を任された物部麁鹿火は、朝鮮半島南部の任那運営には消極的で、大伴金村の失敗もあり、任那は新羅によって滅亡する。
 任那の滅亡は562年とされているが、663年の「白村江の戦」で日本が敗れたことにより、任那は新羅によって滅ぼされたと考えられる。
 白村江の戦の指揮官は、安曇比羅夫(あずみのひらふ)であったが戦死した。安曇比羅夫は穂高神社(長野県安曇野市)に祀られている。海人族は実行部隊であって、戦略・戦術を駆使する指揮官には向かない。
 「白村江の戦」では、日本軍に戦略・戦術がなく、突撃により大敗した。太平洋戦争の敗北に似ている。
 白村江で物部氏が将軍として指揮を執っておれば違う結果になったであろうが、物部の勢力が弱まっており活躍の場がなかった。
 当時の最有力豪族は中臣氏で政治と祭祀は得意であったが、軍事には疎かった。
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# by enki-eden | 2018-10-14 11:19

下照姫(したてるひめ)

 下照姫は高姫(たかひめ)、稚国玉(わかくにたま)とも云う。
 父は大国主命(160年頃-220年頃、出雲・宗像)、母は田心姫(たごりひめ、宇佐・宗像)、兄は味耜高彦根命(あじすきたかひこね、迦毛大御神)。

 日本書紀によると、大国主命に国譲りを迫るために、高皇産霊尊が天津国玉神の子・天稚彦(あめのわかひこ)を遣わしたが、天稚彦は大国主命の娘の下照姫を妻として帰って来なかった。

 天稚彦は味耜高彦根命とも仲が良く、二人は風貌が似ていたが、やがて天稚彦は高天原により殺されてしまう。
 天稚彦の喪中に下照姫が詠んだ歌がある。最初の和歌と云われるが、素戔嗚の「八雲立つ」歌の方が古い。
 あめ(天)なるや おとたなばた(弟織女)の うながせる たまのみすまる(御統)の 
 あなたま(穴玉)はや みたにふたわたらす あぢすきたかひこね

   高天原にいる弟織女(おとたなばた)が頸にかけている玉の御統(みすまる)、
   穴玉は美しいが、谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神と同じだ。
 弟織女は卑弥呼(179年-247年)のことかもしれない。私見ですが、下照姫は卑弥呼と従妹(いとこ)で、同じ時代を生きた。
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 高皇産霊尊は次に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を遣わして大国主命に国譲りを迫る。事代主命が国譲りを認めたこともあり、大国主命は承諾した。
 国譲りは西暦201年頃に成立したと私は考えています。但し、国譲りの地域は出雲国ではなく、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)であった。
 出雲国(島根県)は大国主命の本拠地であり、出雲国を譲ることはなかった。

 海人族の宗像(むなかた)氏は、大国主命の筑紫の本拠地である宗像大社(宗像三女神)を祀る。宗像氏は大国主命の後裔で、宗像国(宗像市)と刺国(福津市)を中心として玄界灘と響灘を支配する豪族であった。大陸との交易で財を成した。
 宗像徳善(胸形君徳善)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)は40代天武天皇(686年崩御)の妃となり、高市皇子(654年-696年)を生む。徳善は684年に宗像朝臣を賜い、高市皇子は690年に太政大臣にまで出世する。
 平安時代には宗像氏は平家と関係が深かったが、その後は源氏と密接に繋がり、10世紀になると宗像氏が太宰府の高官に任命されるようになる。更に宗像氏は武士としても発展していく。

 出雲国風土記に、大穴持命(大国主命)の子として記されている「阿陀加夜努志多伎吉比売命、あだかやぬしたききひめ」が下照姫ではないかと云うが、違うと云う説もある。

 鳥取県東伯郡(とうはくぐん)湯梨浜町(ゆりはまちょう)宮内に鎮座の倭文神社(しとりじんじゃ、伯耆国一宮)の由緒によると、
 「下照姫は大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励んだ。しかし、高天原から天稚彦が遣わされ国譲りを要求したが、天稚彦は下照姫と結婚して帰らなかった。そこで高天原から遣わされたキジを天稚彦が射殺したことが原因で天稚彦は殺されてしまう。
 下照姫は海路で伯耆国宇野にやってきて、当地に住み着き、安産の指導、農業開発、医療普及などに努めた」とある。「倭文神社のHP」
   
 福岡県久留米市大善寺町宮本に鎮座の大善寺玉垂宮(だいぜんじたまだれぐう)の祭神は玉垂命、八幡大神、住吉大神になっている。「大善寺玉垂宮のHP」  
 水沼(みぬま)氏が始祖を玉垂神として祀った。玉垂神の末裔が当社宮司の隈氏で、現宮司の隈正實氏のご先祖は、ミマキイリヒコイニエ(後の10代崇神天皇、251年-301年)に仕え、その後に大善寺玉垂宮の宮司になった。当社は1,800年以上も続いている古社。
 それであれば、西暦270年頃に臺與(235年頃-295年頃)と共に大和国へ東遷したミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)に隈氏も随行し、やがて故郷に戻り玉垂宮の宮司になったと云うことでしょうか。崇神天皇は東遷する前は、伊都国と紀伊国の王だったと私は見ています。

 大善寺玉垂宮の当初の祭神は、下照姫が玉垂姫神として祀られたと云う。玉垂姫神の墳墓は2km南西の久留米市三潴町(みづままち)高三潴139に鎮座の月読神社にある高良御廟塚古墳(20mの円墳)と云う説があるが・・・
 大善寺玉垂宮は三潴(みずま)の総社で、9km北東に鎮座の筑後国一宮・高良大社(こうらたいしゃ、高良玉垂宮)の元宮と云う。 「高良大社」のHP
     
 大善寺玉垂宮は広川沿いに鎮座しており、広川は八女山地から流れ出て上流には岩戸山古墳がある。広川は当社の前を過ぎて筑後川に注ぐ。
 当社の近くには御塚古墳(おんつかこふん、5世紀築造、国指定史跡)と権現塚古墳(ごんげんづかこふん、6世紀築造)があり、水沼氏の墳墓と見られる。



 海人族は高三潴、高尾張、高鴨、高天原などと本拠地に「高」を付ける。
 天津国玉神と天稚彦の本拠地は耳納山地から高三潴(たかみずま)一帯だった可能性が高い。玉垂命については諸説あるが、本来は天津国玉神ではないか。
 大善寺玉垂宮も高良玉垂宮も水沼氏が祀っていたと考えられるが、天稚彦が大国主命に加勢した為に、高皇産霊尊に耳納山地と高良玉垂宮を取り上げられてしまった。
 しかし、天津国玉神が玉垂宮を一夜だけ貸してほしいと高皇産霊尊に頼み込んで、そのまま居座ってしまったと考えられる。
 神社の祭神と斎主(いわいぬし)は時代と共に変遷していくことになる。

 三潴は筑後川の南部にあり、耳納山地(みのうさんち)を東に仰ぐ地域で、筑後川を北に渡れば高天原も近い。水路で奴国(博多)にも近いし、有明海から出ると大陸にも行ける。
 耳納(みのう)の地名は岐阜県の美濃(みの)と似ているので、美濃と間違えた伝承があるのではないか。日本書紀に「天稚彦の殯(もがり)で味耜高彦根が喪屋を切り倒した。その小屋が下界に落ちて山となった。これが美濃国の喪山である」とある。美濃は耳納の間違いと考えられる。
 耳納国は魏志倭人伝記載の「彌奴国(みなこく)」かもしれない。

 天稚彦が亡くなった後、国譲りも成立し、下照姫が伯耆国に去って行ったが、水沼氏は宗像三女神も祀ることになる。
 私見ですが、水沼氏の祖神は玉垂命(天津国玉神)で、子神の天稚彦が田心姫(宗像三女神)の娘・下照姫を妻としたので宗像三女神も祀るようになったと考えています。天津国玉神は筑後川南部周辺を治めていた海人族であったと見ています。

 大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼(みぬま)を 都と成しつ
   万葉集4261  作者不明  壬申の乱が治まった後の歌
 この歌の水沼(みぬま)は久留米市の水沼ではなく、奈良の明日香(飛鳥)のことだと思います。壬申の乱(672年)の後、40代天武天皇は飛鳥を都にしたので、この歌が詠まれた。
 「飛ぶ鳥の明日香」と云うように、飛鳥の地は「水鳥が飛び交う湿地帯」であったので、歌では「水沼」と詠んだのでしょう。
 古代の大和は中央に大和湖があり、その南部の湿地帯に飛鳥が位置している。飛鳥川や曽我川が大和湖に注いでいた。

 水沼君とよく似た名前に「水沼別(みぬまのわけ)」があるが、水沼君とは別系統の氏族。水沼別の始祖は12代景行天皇の皇子で国乳別皇子(くにちわけのおうじ)と云うが、はっきりしない。氏神は弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)となっている。

 先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・
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# by enki-eden | 2018-10-08 12:04

布都(ふつ)

 布都は素戔嗚(すさのお、140年頃-200年頃)の父の名。布都が所持していた剣は布都御魂(ふつのみたま)で、「石上神宮」のご神体となっている。
 布都御魂剣は全長85cmの鉄刀で内反り(逆反り)になっている。
  
 布都斯(ふつし)は素戔嗚の実名で、布都斯魂剣(天羽々斬、あめのははきり)も石上神宮に奉安されている。素戔嗚がこの剣で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。
 布都は「真実の男」と云う意味だろうか。「素戔嗚と楚」をご参照ください。
   
 真経津鏡(まふつのかがみ)は三種の神器のひとつである「八咫鏡(やたのかがみ)」の別名。「真実の宝鏡」と云う意味だと考えられる。
   
 経津主神(ふつぬしのかみ)は日本書紀に登場し、藤原氏の香取神宮、春日大社で祀られる。
出雲国風土記には布都怒志命と記す。
 経津主神は本来物部氏の祖神であるが、物部氏の勢力が衰えた後は中臣氏(藤原氏)に取り込まれてしまい、日本書紀には伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち)を斬った際に経津主が生まれたとある。また、大国主命に国譲りを迫った武神としても記されている。

 8代孝元天皇(238年-293年)と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の皇子に、彦太忍信命(ひこふつおしのまこと)がいる。古事記では比古布都押之信命と記される。「誠に偉大な、真実の皇子」と云う意味でしょうか。

 物部布都久留(もののべのふつくる)は21代雄略天皇(432年-479年)と22代清寧天皇(484年崩御)に仕えた。

 布都姫(ふつひめ)は物部尾輿(6世紀半ば)の娘。

 布都御魂の剣から連想して、布都(ふつ)は「剣で物を切る音」や「断ち切る様」とする説が多いが、上にあげた人名・神名などから、フツは「全く、本当の、真実の」と云う意味ではないかと私は考えています。
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# by enki-eden | 2018-10-02 00:07

石野先生講演会「淡路の初期銅鐸群と鉄器工房群―国生み神話の原郷」

 9月29日(土)の午後1時半から3時まで、兵庫県立考古博物館で石野先生の講演会がありました。淡路の銅鐸と鉄器工房のお話でした。
 本日の講演は当初7月7日に予定されていましたが、台風の影響で今日に延期されました。ところが今回も明日には台風が来ると云うタイミングになり、石野先生は、私は「嵐を呼ぶ男」ですと挨拶され、会場は大笑い。これは石原裕次郎主演の映画で1957年に公開されました。
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 兵庫県は旧五カ国が一つの県になっていることもあり、銅鐸の出土数が全国で一番多い。全国で500個余りの出土数があるが、兵庫県では70個ぐらい出土している。
 淡路島から出土する銅鐸は古い形ばかりである。しかも舌(ぜつ)も一緒に埋納している。これは、淡路では他地域よりも早く銅鐸祭祀が終了して新しい祭祀に変わったのか?
 国生み神話には、オノコロ島と淡路島が最初にできたと云う記事があるが、それとの関連性があるのかもしれない。
 皇室と淡路島の関係も深い。

 銅鐸の埋納方法は、鰭の部分を上下にして埋納する。これは、銅鐸両面の模様が上下になることを避け、左右に並ぶ形にしていると考えられる。それは何故か?

 銅鐸が出土すると、中には土が入っている。土は自然に入ってくるが、土が充満していることはない。土が入った部分と入っていない部分では錆び方が違うので、土を出した後でもすぐに分かる。
 ところが、淡路の銅鐸はぎっしり一杯土が入っているので、これは埋納する時に土を詰めているのだと思う。
 舌(ぜつ)を付けたまま、土を一杯詰めて、もう2度と使わないぞと云うことか。
 とにかく、淡路の文化は多地域とは違う、特別だ。

 五斗長(ごっさ)垣内(かいと)鉄器工房群は大量の鉄器を制作し、他地域へ出荷していた。舟木遺跡も膨大な遺物が出てくるが、全体像はまだこれからだ。
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# by enki-eden | 2018-09-29 20:46

厳島神社(神戸市中央区花隈町)

 兵庫県神戸市中央区花隈町(はなくまちょう)6-5
 境内に車を停められるが、狭いので道向かいの有料駐車場を利用する。

 祭神 市杵島姫命(弁天さん)、大物主命(金毘羅さん)。
 航海安全、芸能向上。



 平清盛(1118年-1181年)が福原京造営時(1180年)に安芸国宮島から勧請した厳島神社七社(清盛七弁天)の一社。
 清盛が七社と決めたのは、『安芸の宮島 回れば里 浦は浦 恵比須』と謡われていたので、七は縁起のいい数字だからと云う。

 当社は花隈村清水にあったので「花隈弁天」と呼ばれたが、1568年に花隈城が造営されたので花隈弁天は「生田神社」境内に遷された。 
 その後、六甲山から神戸港に注ぐ宇治川河口に遷されたので「浜の弁天」と呼ばれ、海岸は弁天浜と呼ばれた。現在でもJR神戸駅前のハーバーランドに神戸市中央区弁天町と云う地名が残っている。
 更に明治元年に栄町6丁目に遷り、その後最初にあった花隈町に戻り、花隈城跡(花隈公園)の北に「花隈弁天」として遷座した。

   入口の赤鳥居、神額には「神戸最初船場鎮守」。
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   拝殿、前の灯篭は嘉永3年(1850年)建立。
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 私見ですが、祭神の市杵島姫命(西暦160年頃出生)は卑弥呼(西暦179年-247年)の母ではないかと考えています。4月6日投稿の「天月神命」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-09-26 08:50

三王神社(さんのうじんじゃ、神戸市東灘区)

 兵庫県神戸市東灘区田中町2-2-1  電078-411-4648  無料駐車場あります。
 通称「さんのうさん」
 祭神 大山咋命(おおやまくいのみこと)

 当地は徳川幕府直轄の天領であった。


   
 大山咋命は近江国の日技の山(比叡山、848m)に坐し(日吉大社の東本宮)、また葛野の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を持つ神(松尾大社)とある。
 大山咋命は主として山城と丹波の開拓事業に専念し、土木技術にすぐれた神として尊崇をうけ、殖産興業、農業・醸造・安産・治病・学芸等幅広い守護神として信仰されている。

 大山咋命(山末之大主神)の父は大歳神、母は天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)。
山王信仰で「山王さん」と呼ばれている。

   山王鳥居と拝殿
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   山王稲荷神社(宇迦之御魂=大歳神の妹)
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# by enki-eden | 2018-09-20 09:12

エキサイトメール中止

エキサイトメールが閉鎖されましたので、今後のメールはこちらにお願いします。
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# by enki-eden | 2018-09-18 16:59

福應神社(ふくおうじんじゃ、西宮市)

 兵庫県西宮市今津大東町1-28  電0798-26-0769  車を境内に停められます。
 祭神 八重事代主命
 福の宮、えべっさん。

 名神高速道路建設のために、昭和41年に少し南の現在地に遷座した。
 700m東南に甲子園球場、1km南西に勝海舟が計画した今津砲台跡記念碑がある。



 神社の由緒によると、かつて今津の浦に神霊が降臨し、『この浦のすがすがしき地に我を斎き祀れ。されば万人守護し諸願成就を得さしむ。』という神託があった。
 そこで人々が大和国三輪の古社(「三輪恵比須神社」と思われる)から勧請して奉斎したのが始まりと云う。   

 文禄の頃(16世紀終わり頃)、107代後陽成(ごようぜい)天皇(1571年-1617年)の名代参拝があり、「福に應ずる宮」すなわち「福應神社」の社号を賜った。

 福の神として、「西宮神社」「越木岩神社」と共に「西宮三福神」と称され信仰を集めている。

   鳥居と拝殿
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   金刀比羅神社と松尾神社
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   穴尾稲荷神社、白髭稲荷神社
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# by enki-eden | 2018-09-14 09:48

越木岩神社(こしきいわじんじゃ、西宮市)

 兵庫県西宮市甑岩町(こしきいわちょう)5-4  電0798-31-0009 無料駐車場あります。
 六甲山麓に鎮座
  
 3km南に鎮座の「えびす宮」・西宮神社に対して、当社は「北の戎」。
 祭神 蛭子大神(えびすおおかみ、えべっさん、福の神)
 御神徳は女性守護、子宝、安産、商売繁盛。

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 ゑびす宮総本社の西宮神社の西の県道82号線を北に向かったが、正面に甲山(かぶとやま、309m)が見えて良かった。
 しかし、この82号線は渋滞が酷く、兵庫県も西宮市も渋滞対策を怠っている。

 土社(大地主大神、おおとこぬしのおおかみ)、旧・大国主西神社と云われる。
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 拝殿(神額には蛭子太神宮と記されている)
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 本殿、六甲山麓の境内は天然記念物の森に覆われている。
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 本殿後方に古代からの磐座信仰(いわくらしんこう)の岩社があり、祭神は市杵島姫大神。
 ご神体の甑岩(こしきいわ、甑岩大神)は高さ10m、周囲40mの花崗岩。岩の形状が酒米を蒸す時の甑(こしき)に似ているので名付けられた。
 鹿児島県薩摩川内市の沖合に甑島列島があり、甑(蒸籠)の形をした巨石が甑大明神として信仰されているのは、当神社の甑岩と共通している。どちらも、古代からの磐座信仰。
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 大崎稲荷社(除災招福・鎮火)と白玉稲荷社(伏見稲荷大神を勧請)
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 本殿左後方に六甲山社(菊理姫大神)。
 日本書紀の一書によると、菊理姫(くくりひめ)は泉津平坂(よもつひらさか)で喧嘩をしている伊弉諾命と伊弉冉命をとりなしたことにより、縁結びの神とされる。
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 水神社、太古より湧き出る霊水があり、罔象免(みずはのめ)大神を祀る。
 左横に不動明王がある。
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 拝殿の右手前に大きな相撲場がある。毎年秋季例大祭として恒例の相撲大会があり、赤ちゃんの「泣きずもう」も行われる。
 泣きずもうは、土俵の真ん中に立って邪気を払うと云うもので、参加者が大変多い。お子様を授かったことに感謝すると共に、健康に育つように祈願する行事で、テレビでも報道されている。
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# by enki-eden | 2018-09-07 13:50

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の禊祓い(みそぎはらい)

 伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)は倭王兼7代目奴国王であったが、「タウポ火山の噴火」による地球規模の天候異変の影響で、西暦180年代に起きた倭国大乱により権威失墜し、淡路島に隠遁した。神陵に「伊弉諾神宮」が建立されている。
  
 日本書紀によると伊弉諾尊が、亡くなった伊弉冉命(いざなみのみこと)を黄泉の国(よみのくに、出雲)まで追いかけて行ったが、約束を守らず喧嘩別れになり、島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の泉津平坂(よもつひらさか、黄泉比良坂・伊賦夜坂)で縁切りして、逃げて還った。
 泉津平坂は35mほどの小高い山間にあり、この世と黄泉の国との境界になっている。小さな池と少し大きな池の間にあり、大きな岩が行く手を遮る。
 800mほど北西に揖夜神社(いやじんじゃ)が鎮座しており、伊弉冉命を祀っている。



 伊弉諾尊は筑紫に帰還して、「日向(ひむか)の川の落ち口の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」で穢れ(けがれ)を清める禊祓い(みそぎはらい)をした。
 この時期は西暦170年から180年頃ではないかと思います。

 出雲から筑紫に船で帰ってくるときに、ランドマークとして立花山(たちばなやま、367m)を目指して船を漕いでくる。
 立花山に近づくと、新宮海岸(しんぐうかいがん)に着き、港もある。現在は新宮漁港として整備されている。伊弉諾尊が出雲から帰還して上陸したのはこの新宮海岸だったのではないか。
 立花山の麓からは湊川が流れ、新宮海岸に注いでいる。伊弉諾尊が「日向の川の落ち口の橘の檍原」で禊祓いをした川はこの湊川と考えられる。
 檍原(あわきはら)は立花山から新宮海岸までの雑木林を云うのでしょう。現在は開発されて市街地になっている。
 伊弉諾尊が禊祓いをした時に、多くの神々が生まれている。伊弉諾尊は湊川で禊祓いを終えると、博多湾に入り王宮に戻っていった。
  赤が新宮海岸、黄が湊川、青が立花山。


 新宮海岸の松林(楯の松原)の中の福岡県糟屋郡(かすやぐん)新宮町(しんぐうまち)下府(しものふ)に新宮神社が鎮座。
 祭神は墨江三前神(すみのえみまえのかみ)で、底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神の三柱の神(住吉三神)。住吉三神は伊弉諾尊が禊祓いをした時に生まれた。
 福岡市博多区住吉に筑前国一宮の住吉神社が鎮座しており、当地を檍原(あわきはら)に比定する説もある。

 新宮神社の2kmほど東南の糟屋郡新宮町上府(かみのふ)にも新宮神社が鎮座。祭神は熊野楠日命(くまのくすひのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
 新宮神社は元々湊川河口に鎮座していたが、上府村と下府村が神社運営に関して意見が分かれたので、上府村と下府村に分社して二社に分かれたと云う。

 湊川の河口付近には、糟屋郡新宮町新宮に磯崎神社が鎮座、祭神は大己貴命、少彦名命、素戔嗚命。糟屋郡新宮町湊には綿津見神社が鎮座、祭神は綿津見三神で、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神。1.2km南西の福岡市東区三苫(みとま)にも綿津見神社が鎮座。
 綿津見三神は阿曇連(あずみのむらじ)がお祀りしており、伊弉諾尊が禊祓いをした時に住吉三神と共に生まれた。

 立花山の麓の糟屋郡新宮町立花口に六所神社が鎮座。立花口と云う地名が示すように、駐車場に車を停めて立花山に登れるようになっている。
 祭神は加茂大神、春日大神、天照大御神、宇賀大神、熱田大神、木舟大神。伊弉諾尊の禊祓いの由来により、天照大神が鎮座されたと云う。
 伊弉諾尊が禊祓いの時に、左の眼を洗うと天照大神が生まれ、右の眼を洗うと月読尊(つくよみのみこと)が生まれ、鼻を洗うと素戔嗚尊(すさのおのみこと)が生まれた。

 六所神社より600mほど下った糟屋郡新宮町原上(はるがみ)に川上神社が鎮座。祭神は豊玉姫命、玉依姫命、神功皇后、伊弉册命(いざなみのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)。
 昔は香椎宮の末社となっており、香椎宮の大宮司が参拝のため原上(はるがみ)の神功屋敷(現在は皇后屋敷)に宿泊し、貢物を奉納していた。

 福岡市中央区に鎮座の警固神社(けごじんじゃ)には、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、神直日神(かんなおひのかみ)、大直日神(おおなおひのかみ)が祀られている。この三柱の神(警固大神)は伊弉諾尊の禊祓いの時、最初に生まれた。
  
 伊弉諾尊の禊祓いを由来として、宮中では「大祓い」が行われてきた。全国の神社でも年中行事の一つとして6月に夏越(なごし)の祓い、12月に大祓いが執り行われている。
 黄泉の国から還ることを蘇る(よみがえる)として、穢れを禊祓いして新しく生まれ変わることが、神道では大変重要な儀式となっている。

 昨今のニュースを見ていると、指導的な立場にある人が欲深い悪だくみをし、大きく報道されても反省せずに、のうのうと暮らしているのは見苦しい限りです。禊(みそぎ)をしてもらわないといけません。
 こんな世情の中で、山口県周防大島で2才の男児を救助した尾畠春夫さん(78才)には全国民が感動しましたね。
Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-08-30 13:46

古代史の復元

 日本の古代史は、戦前の「皇国史観」によって大きく歪められ、戦後の「戦後史学」によって抹殺されてしまった。
 皇国史観に依らず、戦後史学に依らず、私は古代史をできるだけ史実に近づけたいと思い、6年前にこのブログを始めました。

 戦後史学が読んではいけないと云う日本書紀、古事記を私はよく読み、それを補完する他の古文書もよく読み、日々進歩する考古学の成果に学び、神社の由緒や土地の伝承を参考にし、博物館に通い、抹殺された古代史の復元に務めた。
 古代の人々の息づかいを感じるようになり、2,000年前のマレビトが家族か友達のように身近に感じるような氣がしてくる。

 歴史には人物、年代、場所の特定が必要であるが、日本書紀は特に「筆法」をふんだんに使っているので、解明には時間がかかる。
 そして21代雄略天皇が暦を統一したことにより、それ以降の年代は分かり易いが、それ以前の年代には色んな暦が使われているので非常に分かりにくくなっている。

 そんな環境の中で、初代奴国王(漢委奴国王)である「国常立尊」の生年が、偶然にも西暦元年だったことは驚きだった。
 そして、卑弥呼の生年が西暦179年、女王即位が西暦201年、没年が西暦247年、
 神武天皇の生年が西暦181年、即位年が西暦211年、崩御年が西暦248年、
 崇神天皇の生年が西暦251年、即位年が西暦295年、崩御年が西暦301年、
 神功皇后の生年が西暦321年、摂政元年が西暦363年、崩御年が西暦389年などと解明した。
 何度も修正を繰り返し、現在では次の図が最新になっています。今後も追加・修正は行います。
 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 2世紀の終わり頃に「タウポ火山の噴火」により地球規模の気候異変が起き、中国では西暦184年に「黄巾の乱」が起こり、群雄割拠して国が衰えていった。やがて西暦220年に後漢が滅亡、三国時代に入っていく。   

 日本列島では、西暦180年代に「倭国乱」が発生、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)が失脚して淡路島に隠遁。倭国とは北部九州の28カ国のことです。
 西暦140年頃出生の素戔嗚尊が西暦200年頃に亡くなり、大国主命(西暦160年頃出生)が後を継いだ。
 しかし、西暦201年に卑弥呼が倭王に就任して倭国乱が終息、大国主命に北部九州の出雲族支配地を譲るよう強制。出雲族支配地は投馬国(福岡県東部と大分県)と邪馬台国(筑後川周辺)だと考えられる。
 高皇産霊尊(西暦140年頃出生)が大和国(奈良県)の国譲りも目論んで、磐余彦を大和国に派遣、211年に神武天皇として橿原で即位した。
 
 卑弥呼の後を継いだ臺與(235年頃-295年頃)は西暦266年、西晋に朝貢するが、中国の内乱と北方民族の侵入で朝貢貿易を続けられず、270年頃に列島統一(全国の国譲り)を目指して伊都国王の五十瓊殖(いにえ、10代崇神天皇)を伴って大和国に東遷したと考えられる。
 東遷の際、臺與は卑弥呼の遺骸を取り出して大和国に運び、巨大な前方後円墳である箸墓古墳(278m)を築造、西暦280年頃に完成した。
 臺與は卑弥呼を後円部に埋葬、膨大な石積みで盗掘を防いだ。これにより、弥生時代から古墳時代に入っていく。
 祭祀は、弥生時代に楚人の出雲族が中心になって400年間ほど続いた銅鐸祭祀が消滅し、八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉の「三種の神器」で祭祀が行われるようになった。
 臺與は西暦295年頃に自らも箸墓古墳の前方部に埋葬されたと考えられる。
 崇神天皇は295年に即位し、物部氏と結託して全国制覇を目指すことになる。

 巨大な箸墓古墳が築造されてから100年も経たない西暦363年に、神功皇后は新羅に出兵する。これは国内が概ね鎮圧でき、「国譲り」が完成、国家の経済にも余裕が出てきたことを物語っている。
***
 私的な話ですが、私は75才になるので認知機能検査を受けて合格し、次に高齢者講習を受けて、自動車運転免許証の更新をしました。
 去年の年末に車を買い替えたのですが、娘が「74才で車を買う父」と言っていました。あと10年くらい安全運転で元気に乗れたらいいなと思っています。
Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-08-22 21:48

素戔嗚(すさのお)と楚(そ)

 中国戦国時代の楚の最後の王は「熊負芻(ゆう ふすう)」で、BC265年頃出生、BC223年没。
楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)、楚の最後の王は負芻(ふすう、fuchu)で、秦(BC221年-BC206年)に滅ぼされた。
 秦の人質になっていた昌平君が楚を建て直そうとして秦に背いたが、BC223年に戦死した。

 その秦が反秦連合によりBC206年に滅亡すると、西楚の項羽(こうう、BC232年-BC202年)と漢王の劉邦(りゅうほう、BC256年-BC195年)が楚漢戦争(BC206年からBC202年)で戦う。
 劉邦が勝利し、長安を都とする前漢時代(BC206年-AD8年)に入る。項羽と劉邦はどちらも同じ楚人だと考えられる。
 劉邦が中国を統一したので、本拠地としていた中国西方の「漢中(陝西省南西部)」が中国全体を表わす言葉の「漢」になっていく。漢民族、漢語、漢文、漢字、漢詩、漢土、漢方薬など。

 素戔嗚(布都斯、ふつし、西暦140年頃出生)の父・布都(ふつ)は、楚の最後の王・熊負芻(ゆう ふすう)の名を借用したのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
 素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記され、楚王の(ゆう)氏に因んでいるのか。

 地名・人名の熊本(隈本)、球磨川、熊襲、隈(筑紫野市、日田市など)、熊毛郡(山口県、鹿児島県)、熊鰐(事代主)、羽白熊鷲(はじろくまわし)、千熊長彦(ちくまながひこ)などは楚と関係が深いのではないか。

 私は熊襲の「襲」は「楚」ではないかと考えています。葛城津彦、倭迹迹日百姫もそうではないだろうか。

 素戔嗚系・大国主系は民族的には楚人だと私は考えています。楚人は縄文時代にも日本列島に来て吉備国や有明海地方に住み着いた。
 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。
 出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が中心で、開口部を上にして埋められた。戦争の時に銅鐃の取っ手を持って槌(鎚)で叩き、味方を鼓舞し、敵を威嚇したのでしょう。
 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。
 山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。
 同じように列島では、出雲系が中心になって全国に広まった銅鐸が、結界として傾斜地に埋納された。銅鐸の原型は銅鐃でしょう。2016年7月21日投稿の「銅鐸と銅鐃」をご参照ください。
 
 遺伝子調査は対象人数によって数値が変わるので確定的ではないが、日本人は世界でも少ない「Y遺伝子D系統」を36%ほど持っており、同系統は他にチベット人と一部の西アジア人しかいない。
 日本人にはD系統以外にC系統が6.6%ほどあり、D系統とC系統の42.6%が縄文系である。現在のアイヌ人はD系統を85%ほど持っている。琉球人はD系統とC系統を53.4%ほど持っている。

 日本人は東アジアに多いY遺伝子O系統を53.9%ほど持っている。
 O系統の内訳は、揚子江(長江)の呉系が32.1%ほど、越系が1.4%ほど、楚系が1.4%ほどになっており、これが弥生系である。圧倒的に呉系が多い。黄河系が19%ほどで、その内、漢族系が9%、漢族と交配した揚子江系が10%になっている。

 吉備地方のY遺伝子は日本全体の数値と大きく異なる。D系統は19%ほど、O系統が81%ほどで、縄文系が少ない。多くの縄文人が殺されたり、子孫を残せなかったか。
 O系統の中では、呉系が31%ほど、楚系が19%ほど、黄河系が31%ほどになっている。
 吉備国の地名由来に定説はないが、呉の国姓は姫(き)で楚の国姓は羋(び)なので、姫羋(きび)と呼んだのではないか。姫羋(きび)が吉備(きび)になったのではないかと考えています。
 2014年4月18日投稿の「楚辞」をご参照ください。   
Innami Kanki

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# by enki-eden | 2018-08-15 17:34

弥生時代(やよいじだい)の始まり

 ウィキペディアによると、『弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
 採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。
 当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。』とある。

 歴博は最後に、『これまでの弥生文化と同じ名称で論を進めると著しい混乱を招くので、その混乱を回避するには,弥生文化の農耕の様態を縄文文化の農耕と区別したうえで,全体枠を生活文化史的経済史的視点から「農耕文化複合」ととらえ,その後に階層分化にもとづく政治的社会の形成(農耕社会の成立)を据える二段構えで弥生文化を理解すべきではないだろうか。』と云っている。歴博の「農耕文化複合と弥生文化」をご覧ください。
  
 この歴博の論法により弥生時代の始まりを紀元前10世紀とすることに、私は同調できません。「時代の転換」を決めるのは、政治・経済・社会が大きく変貌することであって、小規模の稲作が一部地域で確認できただけでは縄文時代の転換にはならないと考えています。
 日本列島での稲作は古くから確認されており、縄文時代にも江南人(揚子江周辺の倭人)が列島へ交易にやってきたり、住み着いたりして稲作も行われている。その渡来数は少なく、列島全体の縄文人の生活が大きく変わるわけではなかった。

 土器から検出されたイネのプラント・オパールの最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5,000年前)の事例があり、このほかにも縄文時代後期中葉(約4,000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
 岡山県南部の総社市南溝手遺跡では縄文時代後期後葉(約3,500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
 吉備地方と有明海地方が江南地方と気候風土が似ていて、江南人(倭人)には住みやすかったと考えられる。
 縄文人も江南に行っていたと考えられ、縄文土器(中国名は拍印縄紋陶)が大量に発見されている。

 およそ2,400年前、列島には、縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの多くの人々が戦争難民として逃亡してきた。揚子江(長江)周辺からやってきた倭人(呉人、越人)である。
 倭人によって、造船技術や水田稲作の技術、金属器の文化などが伝えられ、列島全体に拡がり、政治・経済・社会が大きく変貌、人々の生活は大きく変化して、弥生時代に入っていった。
 その後も大陸の戦乱を避けて、楚人や漢人なども加わり、長期的・波状的に渡来人が増えてきた。 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」をご参照ください。
  
 明治維新の300年以上も前からオランダ人、スペイン人、ポルトガル人などが日本に来て、貿易が進み、キリスト教の布教も行われ、蘭学を真剣に学び、日本人もヨーロッパへ行っている。
 しかし、これで日本全体の政治・経済・社会が大きく変貌したわけではなく、1868年の明治維新により江戸時代から明治時代に大転換した。

 同じように、縄文時代から江南人(倭人)が列島にやってきて、一部の地域で稲作も行われていたが、縄文時代から弥生時代への大転換は、紀元前5世紀に戦乱を原因とする倭人の渡来数が増え、列島全体に弥生文化が急速に広まったことを画期とするのは間違いない。これを機に列島には小国家群が成立して弥生時代に入っていった。
 これは、紀元前473年に呉王夫差が越王勾践により滅ぼされ、難民が四散していったことに始まる。その後、紀元前334年に越王無彊は楚の威王に敗れ、紀元前223年に楚王負芻(ふすう)は秦始皇帝に敗れることになる。列島には波状的に戦争難民が逃れて来た。

 江南人は漢民族に江南を追われ、一部は雲南やインドシナ半島に逃れ、また一部は海路日本へやって来た。縄文人は戦闘的ではなく優しくて、江南人にとって日本の気候も住み易く、急速に日本中に広がって行った。そして水田稲作以外に、高床式住居、千木、鰹木、竹馬、下駄、歌垣、鵜飼等をもたらした。
 また、租税を取ると云う仕組みや、国家創設や政治のシステムをもたらした。

 江南人は銅剣と銅鏡の二種の神器による祭祀をした。従って銅剣は幅広、銅鏡は大型であった。これが弥生時代・古墳時代に日本全体に広がっていく。
 卑弥呼が中国北部の魏からもらった銅鏡は小型であった。三種の神器の一つである八咫の鏡は祭祀用に作られた江南様式の鏡で、大きいのは46cm以上もある。(八咫の鏡とは大きな鏡と云う意味。)
Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-08-09 09:53

稗田神社(ひえだじんじゃ、兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町鵤(いかるが)926   電079-276-0577
 祭神 稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)、素戔嗚命。

 旧祭神 豊受姫、素戔嗚命、猿田彦命、天鈿売命(あめのうずめのみこと)。

 古事記は40代天武天皇(622年-686年)の勅により、稗田阿礼が聞き覚え、太安万侶(723年没)が編纂し、和銅5年(712年)に43代元明天皇(660年-721年)に献上されたと云う。
 天鈿女命は猿女君の祖で、猿女君は代々「誦(しょう)と舞」により歴史を伝えてきた。天鈿女命の子孫である稗田阿礼の「誦」を太安万侶が筆録して古事記が編纂された。



 摂政の聖徳太子(574年-622年)が法華経・勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じたので、その褒美として33代推古天皇(554年-628年)より播磨国揖保郡の地を賜った。
 聖徳太子は大和の斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺(法隆寺の東隣り)、片岡僧寺(片岡山放光寺、7代孝霊天皇陵の東)の三寺にこの地を分け与えた。佐勢の地(鵤荘、いかるがのしょう)五十万代の内と云われる。

 このため、当地鵤荘には各寺より、寺領の管理や調物微収のため、多くの吏員が大和から派遣された。その吏員の中に稗田氏がおり、祖神を奉祀する媛田神社(売田神社)を奉祀した。それを当地の人々が氏神として尊崇した。神社の説明によると610年頃に山地から平地に遷された。

 創建当時の祭神は稗田氏の祖神である天鈿女命と猿田彦命の二神であったが、後世になって天鈿女命の子孫である阿礼比売命(稗田阿礼)を奉祀することになる。天鈿女命は西暦185年頃の饒速日東遷に従い大和にやってきた。
 奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)稗田319に鎮座の賣太神社(めたじんじゃ)は希代の語り部・稗田阿礼を祀っており、稗田氏(猿女君)の居住地であった。



 稗田阿礼の性別は諸説あるが、稗田神社では女性としている。猿女君の「誦と舞」は主として女性によって演じられたので、稗田阿礼は女性と見るのが妥当でしょう。
 古事記の内容・表現方法も女性の立場からの世界観が垣間見える。

 神仏習合時代には、当社の南600mにある播州斑鳩寺(いかるがでら)の権勢に押されて稗田神社は勢いがなかったが、明治の神仏分離により、明治7年(1874年)村社に列せられ、後に郷社に昇格した。
 当社を上宮とし、播州斑鳩寺の境内に稗田神社の御旅所(下宮)がある。斑鳩寺は揖保郡太子町にある聖徳太子開基の寺院で、奈良の法隆寺の荘園「鵤荘」として法隆寺の経済を支えてきたが、現在は比叡山天台宗系の寺院になっている。

   神門と拝殿、
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 拝殿と左右に大きな神木。
 拝殿前の柱には「神徳輝宇内」、「皇威洽四海」と刻まれている。(神徳により国内が明るく輝くように。皇威が世界に行き渡り、打ち解けあうように。)
 同じような言葉が各地の神社にあるが、福岡県糸島市芥屋3747に鎮座の綿積神社(綿積大神)の入り口鳥居前の注連柱にも「八紘一宇」、「皇威輝四海」と記されている。
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   本殿
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 境内社に太神社(天照大日霊命、太安万呂命)と金刀比羅神社(豊受姫命、事代主命)がある。

 鵤(いかるが)の地名由来は、聖徳太子に因んで奈良県生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)だと考えられるが、鳥の名前に鵤(イカル)がある。イカルは角のように丈夫で太い黄色の嘴(くちばし)を持つ。昔、奈良の斑鳩にたくさんいたからイカルと名付けたと云う説がある。
©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-08-01 09:18

黒岡稲荷神社(兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町太田250-1  無料駐車場あります。
 祭神 宇迦之御魂(うかのみたま)

 黒岡神社の御旅所となっている。



 宇迦之御魂(倉稲魂命)は通称「お稲荷さん」と呼ばれ、父は素戔嗚命(140年頃出生)、母は神大市姫(かむおおいちひめ、大山祇神の娘)、兄に饒速日命(大年神、165年頃出生)がいる。
 宇迦之御魂は全国の稲荷神社に祀られているが、稲荷神社の総本社は京都の伏見稲荷大社です。 

 宇迦之御魂の降臨地は伏見稲荷大社後方の稲荷山、饒速日命の降臨地は大阪府交野市(かたのし)の磐船神社
 両社間の直線距離は25kmほどで、宇迦之御魂も西暦185年頃の饒速日東遷に従って九州から来たのでしょうね。  
  赤が伏見稲荷大社、黄が磐船神社。


   拝殿
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 本殿、男神仕様になっているが宇迦之御魂は一般的には女神となっている。出雲系の神社では男神・女神にかかわらず、千木は外切り、鰹木は3本になることが多い。
 この日(5月27日)は天気が良く、参拝していると鶯の声も聞こえてきました。
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 私は3年前に、鰹木について島根県松江市八雲町熊野に鎮座の熊野大社に問い合わせました。そのご返事は、『鰹木ですが、全国的に見ますと奇数、偶数で陽と陰を表している事が多く、一般的には男神、女神で区別されている場合が多数ありますが、大社造り自体が基本的に3本であることが多く、鰹木だけでは性別が計れないことが多いです。』と云うものでした。
©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-07-24 08:47

黒岡神社(兵庫県揖保郡太子町)

 兵庫県揖保郡(いぼぐん)太子町太田917  電079-276-2251  無料駐車場あります。
 祭神 八幡大神(誉田別命、15代応神天皇)
 配祀 黒岡明神(藤原貞国)、天神(菅原道真)

 当初は黒岡八幡と称したが、明治7年に黒岡神社になった。



 神功皇后(321年-389年)が363年の新羅遠征の帰途、忍熊王(おしくまのみこ)が軍を率いて打ち破ろうと待ち構えているので、神功皇后は当地の太子町に上陸して作戦会議をしたことにより、住民が八幡神を祀るようになった。
 忍熊王は武内宿禰の攻撃を受け、「瀬田の唐橋」(滋賀県大津市)付近で入水自殺した。神功皇后は摂政となり、西暦363年を摂政元年とした。

 日本書紀の神功皇后紀に基づき、日本書紀に多用されている「筆法」を勘案して、神功皇后の年代・事績を作成しました。神功皇后だけではなく、卑弥呼と臺與の年代・事績も神功皇后紀に「筆法」により記されています。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 「峰相記(ほうそうき)」(南北朝時代の播磨国の地誌)によると、天平宝字8年(764年、47代淳仁天皇)、2万艘の軍船で播磨灘に攻め込んできた新羅に対して朝廷は、鉄の的をも射通すという藤原貞国に「的(いくわ)」の姓を与え、征討大将軍に任じ、新羅の大軍を討伐させた。
 (2万艘はオーバーだと思いますが・・・、2万人の間違いか)
 藤原貞国は大風に乗じて出陣し、敵将の首を取った。貞国はこの功績により播磨西五郡(揖保郡、飾磨郡、赤穂郡、佐用郡、宍粟郡)を賜り、的(いくわ)姓を名乗って太田郷楯鼓原に住所を構え長くこの地に栄えた。

 藤原貞国は没後、黒岡神社に祀られ、境内には彼の墓と伝えられる円墳があり、円墳入口の竜山石製の石碑には「藤原貞国掾(じょう)塚」と刻まれている。石碑は家形石棺の蓋を利用している。
 この古墳は6世紀後半頃の築造なので、藤原貞国の時代より200年ほど古い。

 また、菅原道真(845年-903年)が筑紫に向かう途中、広畑の高浜に滞留、当社へ参詣したので菅原道真も祀られている。

   神門
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 黒岡神社古墳(貞国塚)、藤原貞国の墓と云われる径15m、高さ5.3mの円墳。
 古墳前の赤鳥居は左が荒神社(素戔嗚命か)、右が琴平社(大物主命か)。
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 古墳には右片袖の横穴式石室に組み合わせ式石棺が残っている。
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    古墳の後方より
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   天神寝牛石
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   拝殿、拝殿前には左近の桜と右近の橘が植えられている。
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   本殿
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# by enki-eden | 2018-07-16 09:02

淳仁天皇の淡路陵

 兵庫県南あわじ市賀集(かしゅう)岡ノ前
 47代淳仁天皇(じゅんにんてんのう、733年-765年)の淡路陵(あわじのみささぎ)。

 普段は町の中に住んでいても、自然に恵まれた地域を旅するのはいいですねぇ。この日(6月21日の夏至)の南あわじ市では「玉ネギ小屋」に玉ネギをいっぱい吊り下げて、水田には水を張り、既に田植えを終えている所もありました。
 昔、車で淡路島を一周したことを思い出しました。

 淳仁天皇は40代天武天皇(622年頃-686年)の孫で、父は天武天皇の第7子舎人親王(とねりしんのう、676年-735年)。
 淳仁天皇は758年に即位する前は大炊王(おおいおう)と呼ばれ、藤原仲麻呂(706年-764年、恵美押勝)の長男・真従(まより)の未亡人・粟田諸姉を妃とした。
 淳仁天皇は藤原仲麻呂と関係が深かった。

 760年に太師(太政大臣)となった藤原仲麻呂は、764年に孝謙上皇(46代孝謙天皇、718年-770年、女帝)に叛乱を起こし、失敗して殺害される。
 藤原仲麻呂と関係が深かった淳仁天皇は、孝謙上皇により皇位を追われ、廃帝となって母親の当麻山背(たいまのやましろ)と数人のお供だけで淡路島に配流された。

 孝謙上皇は重祚して皇位に復帰し、48代称徳天皇となって弓削道鏡(700年-772年)と共に政治を行った。
 淳仁天皇は765年に淡路島で崩御、暗殺されたか。
 称徳天皇陵は神功皇后陵の近くにあり、2013年4月8日投稿の「神功皇后陵」の中に載せています。 



  赤のアイコンが淳仁天皇淡路陵、黄が当麻山背の墓。


   淳仁天皇淡路陵
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 天皇陵の横にある畑の「玉ねぎ小屋」。玉ねぎは吊り下げると、乾燥・熟成して栄養価が高くなり、甘くなる。
 淡路島は「おのころ島」でもあるが、「玉ねぎ島」でもある。玉ねぎの産地としては、兵庫県は北海道、佐賀県に次いで全国3番目の収穫量がある。
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 淳仁天皇淡路陵の1km南に淳仁天皇の母の墓「当麻夫人墓」が見える。
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 122代明治天皇(1852年-1912年)は、廃帝となっていた淳仁天皇の名誉を回復し、明治6年に京都の白峯神宮(しらみねじんぐう)(2014年1月25日投稿)に淳仁天皇を祀った。
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# by enki-eden | 2018-07-09 09:22

猪篠八幡神社(いざさはちまんじんじゃ、神崎郡神河町)

兵庫県神崎郡(かんざきぐん)神河町(かみかわちょう)猪篠(いざさ)1113
祭神 誉田別命(ほむたわけのみこと、15代応神天皇)、
   比売神(ひめのかみ)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)。

 鳥居横に車を停められます。

 地名の猪篠(いざさ)は八幡神を指す地名で、八幡神は2km西の八幡山(775m)頂上に祀られていたが当地に遷座したと云われている。八幡山は朝来市生野町と神崎郡神河町の境界にある。
  赤が八幡神社、黄が八幡山。


 応神天皇(363年-403年)が神功皇后(321年-389年)摂政13年(西暦375年)、立太子として氣比神宮(けひじんぐう、福井県敦賀市)にお参りし、氣比大神と太子が名前を交換した。それで氣比大神を去来紗別神(いざさわけのかみ)と云い、太子を誉田別尊と名付けたと云う。
 2017年10月27日投稿の「伊奢沙別命」をご参照ください。
 
 応神天皇に因んだ「イザサ」が当地の地名「猪篠(いざさ)」になったと考えられるが、姫路市安富町の伝承によると、凶暴な大鹿をイザサ王と呼んでいたとある。
 播磨国風土記託賀郡にも応神天皇と大鹿の記事がある。2015年12月26日投稿の「大津神社」をご参照ください。

 また、海部氏・尾張氏の祖である天火明命の別名を「イザサ王」とし、「火明命の荒ぶる神」と云う説がある。八幡神とは、火明命の死後の名前であり、イザサ王のことであると云う説もある。

 播磨北部に多い両部鳥居(神仏習合の名残)
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 当社参道には樹齢400年以上の杉の大木が林立する。幹回りは8m前後、高さは44m、48mなど50mに近い大杉である。
 音を立てて境内を流れる美しい急流の川を渡ると、拝殿前の大杉。伊勢神宮の参道で見るような神々しさであった。
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 本殿は享保5年(1720年)に建立、昭和6年(1931年)に改築。三間社流造の鉄板葺き。
 蛙が股を広げて踏ん張ったような形の「カエル股」で梁を支えている。カエル股で特に有名なのは、左甚五郎作の日光東照宮の「眠り猫」や三井寺の「龍」です。
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 本殿の左に稲荷神社(宇氣母智神、うけもちのかみ)と秋葉神社(迦具土神、かぐつちのかみ)。
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# by enki-eden | 2018-07-03 14:20

大歳神社(朝来市生野町)

兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)190
兵庫県有形文化財、境内に車を停められます。
兵庫県には大歳神社(大年神社)が400社近く存在し、神徳の大きさを物語っている。

祭神 大歳大神、
   天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命(くまのくすひのみこと)、
   田心姫、湍津姫、市杵島姫、
   埴安彦命(はにやすひこのみこと)。

創建 康保2年(965年、62代村上天皇の時代)、
    大正12年(1923年)に現在地に遷座し建立。



   入口の明神鳥居
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 背後の山を朝日山と云い、300m登ると大きな洞穴がある。大歳神社の縁起書によると、
『朝日山の磐座より夜ごとに火玉が閃くことがあった。里人が登ってみると美しい姫がおられた。
 姫が、吾は市杵島姫也。胎内に一子を孕んでいる。子が生まれたら当地の氏神としなさい。
 よく信仰すれば、必ず国家安全・万民豊楽になると云われた。』とある。
 出雲大社の千家尊福(せんげたかとみ、1845年-1918年)宮司の詠んだ歌、
   大空の よそに思わで 朝日山 のぼりてあおげ 神のひかりを

   拝殿
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   本殿
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 境内社、右から稲荷神社、当勝神社(まさかつじんじゃ、天忍穂耳命)、戎神社、
     三柱神社(天満神社、庚申神社、厄除神社)、粟島神社(少彦名命)。
 1月に戎神社の「ゑびす祭」が執り行われる。
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 生野町口銀谷は生野銀山で栄えた鉱山町独特の風情が漂う。「兵庫県景観形成地区」に指定されており、優れた景観を保全し、魅力ある街づくりと文化的な県民生活の確保を目的としている。

 生野銀山は平安時代初期の807年に銀が出たことに始まる。室町時代の1542年に但馬守護職である山名祐豊(すけとよ、1511年-1580年)が鉱山を開坑し、翌年に山名祐豊が八王子社を建立。八王子社は1698年(元禄11年)に当社に合祀された。従って、当社は多くの神を祀っている。

 生野銀山では1567年に日本最大の鉱脈が発見された。
 織田信長と豊臣秀吉は鉱山を直轄地とし、徳川家康は但馬金銀山奉行を設置した。佐渡金山、石見(いわみ)銀山と共に天領として徳川幕府の財政を支え、最盛期には月産560kgの銀を産出した。

 明治政府は生野銀山を政府直轄の官営鉱山とし、生野銀山と姫路の飾磨港の間約50kmの輸送を担う「馬車専用道」が造られた。現在は「銀の馬車道」と名付けられている。

 明治22年(1889年)に生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移された。生野鉱山は明治29年(1896年)に三菱に払い下げられたが、昭和48年(1973年)に閉山した。
 閉山翌年には観光施設として「史跡・生野銀山」が開業された。(JR生野駅から5km)
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# by enki-eden | 2018-06-27 09:47

稲荷神社(朝来市生野町)

兵庫県朝来市生野町口銀谷704
祭神 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)

創建 16世紀頃
 大正5年(1916年)現在地に遷座し、他の稲荷神社も合祀。
 姫宮神社が兼任しているようだ。

山神社を市川沿いに200mほど西に歩くと稲荷神社が鎮座している。



   鳥居と拝殿
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   拝殿
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   拝殿内
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 祭神の倉稲魂神(うかのみたまのかみ、宇迦之御魂神)は素戔嗚命と神大市姫との娘で、兄は大歳神である。稲倉を守護する穀物の神として信仰されており、京都の伏見稲荷大社の主祭神になっている。
 近年では商業の神としても篤く信仰され、多くの神社の境内に稲荷社が鎮座、「お稲荷さん」としてビルの屋上や商店街の一角にも祀られている。

 日本書紀の「国生み」の記述の中の一書には、伊弉諾命と伊弉冉命が飢えて気力のない時に生んだ子を倉稲魂命と云うとあり、伊勢神宮内宮のすぐ西隣に鎮座する御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)として祀られ、豊受大神と同じとされるが、素戔嗚命と神大市姫との子である倉稲魂神とは別神であろう。
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# by enki-eden | 2018-06-17 09:40

奈良平城宮跡の東院(とういん)

 平城宮跡の東の端に「東院(とういん)」と呼ばれる張り出し部があり、その東院地区の中に皇太子の東宮(とうぐう)もあった。
 皇太子の居所は皇宮の東に設けられるので東宮(春宮)と呼ばれる。

 奈良文化財研究所の6月14日の発表によると、その平城宮跡の東院で、奈良時代後半の施設跡として、東西6m、南北15mの掘立柱建物跡が見つかった。その中に火を用いた調理場(かまど)も見つかった。
 当時は女帝の46代孝謙天皇(重祚して48代称徳天皇、718年-770年)の時代。
 孝謙天皇(称徳天皇)は45代聖武天皇(701年-756年)と光明皇后(701年-760年)の皇女で、東院に「東院玉殿」を建て、宴や儀式を催していた。

 東院地区では昨年、大型の井戸跡や水路跡が出土しており、今回見つかった調理場はその東側にあり、宴の食膳を準備するために施設を機能的に配した大規模な厨(くりや)だったと推測される。

 調理場は東西に並んで4カ所あり、火を用いた痕跡があり炭も堆積していた。南側でも同様の痕跡が見つかっており、奈良文化財研究所は火を使った調理場が広がっていたと考えている。

 調理場のある建物の西側には階段跡があり、これより低い位置にある大型の井戸と階段でつないでいたとみられる。

 平城宮大極殿の北側には「大膳職(だいぜんしき)」があり、東側には「造酒司(みきのつかさ)」井戸跡がある。
 造酒司は宮内省直属の役所で、平城宮で使用する酒の醸造を司っており、造酒司井戸の水を酒醸造用に使っていた。
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# by enki-eden | 2018-06-15 15:00

山神社(さんじんじゃ、朝来市生野町)

 山神(さんじん)さん、無料駐車場あります。
 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)698

 祭神 金山彦命(かなやまひこのみこと、鉱山の神様)
     伊弉冉命(いざなみのみこと)が迦具土命(かぐつちのみこと)を生むときに
     火傷をして、苦しみながら吐いた物から金山彦命と金山姫命が生まれた。

 創建 大永元年(1521年)

 当社は口山神社と称していたが明治24年(1891年)に現在地に遷座し、奥山神社と合祀して山神社となった。

 奥山神社は但馬守護職・山名祐豊(すけとよ、1511年-1580年)が生野銀山の発展を祈願して天文22年(1553年)に大山祇神を勧請して創建していた。
 天正4年(1576年)に生野銀山の守護として神宮寺を建て毘沙門天を祀ったが、明治の神仏分離令により毘沙門天を仙遊寺に遷し、奥山神社には金山彦命が祀られた。

 生野銀山が稼働していた時代は大変賑わい、春の大祭には鉱山も休業となって「山神祭」が開かれ、立派な神輿が町内を練り歩いたようだ。
 昭和48年に生野銀山が閉山し、往年の賑わいはなくなった。



 日本の鉱山で働く人の安全と発展を祈願して、愛媛県大三島に鎮座する大山祇神(おおやまづみのかみ、山の神)が鉱山には祀られている。
 2016年9月5日投稿の「大山祇神」をご参照ください。
  
 生野銀山地区の北は「岩津地区」で、朝来市の特産品「岩津ねぎ」で有名。関東の白ネギと京野菜の九条ネギ(青ネギ)の自然交配でできたと考えられているが、品種改良されたとも云われている。
 岩津ねぎは19世紀初め頃に生野銀山労働者の冬の野菜として栽培され、今では朝来市全域で特産品として生産、商標登録されている。
 料理研究家の故・土井勝氏(1921年-1995年)が冬場の鍋料理に岩津ねぎが良く合うと絶賛した。

   鳥居と拝殿(北向き)
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 鳥居横に恩賜記念碑があり、説明文によると、
 『生野銀山は1542年の開坑以来400年の間、幕府や政府の庇護と町民の協力により繁栄してきた。明治22年からは宮内省所管の鉱山だったが、明治29年に三菱合資会社の経営に移った。
 その際、宮内省から町民の永年にわたる協力を称賛して、当時としては莫大な金額の69,000円が下賜された。
 町はこれを基金として町政の振興を図るとともに、この喜びを子孫に伝えるために記念碑を建立した。』

   本殿
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# by enki-eden | 2018-06-09 23:27

神明神社(朝来市生野町)

 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)2-303
 祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、
    倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、
    天目一箇神(あめのまひとつのかみ)。

 姫宮神社が兼任しているようだ。

 「朝来」の地名は志賀剛著「神名の語源辞典」によると、朝は麻、来は衣(こ)で麻衣(あさごろも)のような形の山々が多いからとある。

 当社の創建は、享保18年(1733年)に天照皇大神を鎮祭、玉翁院の鎮守社として宝暦7年(1757年)社殿を再建し、明治初年の神仏分離令により独立した。
 明治21年(1888年)社殿を再建。市川沿いに姫宮神社から300mほど歩いた所に神明神社が鎮座。

 江戸時代の生野銀山は幕府の直轄地であったので、元和2年(1616年)に徳川家康が亡くなると菩提を弔うため東照寺(後の玉翁院)を建立し、歴代将軍が亡くなるごとに位牌を祀った。
 昭和27年に玉翁院が廃寺になったので、位牌は東西寺(朝来市生野町口銀谷510)に移った。神明神社の550m北にある。
  赤が神明神社、黄が東西寺。


   拝殿
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# by enki-eden | 2018-06-01 09:12

姫宮神社(朝来市生野町)

 兵庫県朝来市(あさごし)生野町(いくのちょう)口銀谷(くちがなや)781
 電079-679-3191  無料駐車場あります。

 祭神 豊玉姫命、
    素戔嗚命、大己貴命、軻遇突智神(かぐつちのかみ、火之迦具土命)。

 創建 応永34年(1427年)

 山名時熙(ときひろ、1367年-1435年)が1427年、生野古城山(いくのこじょうざん、609m)の山頂に築城した際、城中鎮護の神として豊玉姫命を勧請した。
 天文3年(1534年)に大己貴命、慶長12年(1607年)に素戔嗚命を勧請した。
 当社は何度も遷座したが、昭和11年(1936年)に現在地に遷座し、その時に愛宕神社(軻遇突智神)を合祀した。

 当社の立地は市川が西向きの流れから南向きに変わる角に鎮座。市川はここから南方に50kmほど流れ、姫路城の東を通過し、瀬戸内海に注ぐ。
   赤が姫宮神社、黄が古城山


 駐車場に車を停め、市川に架かる橋を渡り、境内に向かう。
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 川沿いに銀山トロッコ道跡が残っている。
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 振り返ると古城山が正面に。
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 参道を行くと西向きの拝殿が見えてくる。
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 本殿と左に境内社(今宮社、春日社、川濯社、天神社、八幡社)。
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 本殿右に1708年創建の恵比須社、2月に「ゑびす祭」が行われる。
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 日本書紀によると、祭神の豊玉姫命は海神(わたつみ)の娘で、海宮(わたつみのみや)に釣り針を探しにやって来た彦火火出見尊(山幸彦・天孫)の妃となる。
 豊玉姫は出産間近となったが、彦火火出見が先に天孫の宮殿(奴国か伊都国)へ帰るので、帰ったら浜辺に産屋を作って待っていてくださいと云った。
 そして豊玉姫は妹の玉依姫を連れて浜辺の産屋までやって来た。豊玉姫は、私が子を生むときに見ないでくださいと彦火火出見に云ったが、彦火火出見はコッソリ覗いた。すると豊玉姫がワニになって這い回っていた。
 恥をかいた豊玉姫は生まれた子の名前を彦波瀲武盧茲草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と名付け、妹を留め置いて子を養育させ、自分は海宮に帰ってしまった。
 この時に彦火火出見が詠んだ歌が、
   沖つ鳥(おきつとり) 鴨着く島に(かもつくしまに) 我が率寝し(わがいねし)
   妹は忘らじ(いもはわすらじ) 世(よ)のことごとも

 豊玉姫の返歌は、
   赤玉の(あかたまの) 光はありと 人は言えど
   君が装いし(きみがよそいし) 貴く(とうとく)ありけり

 この贈答の二首を挙歌(あげうた)と云う。

 そしてウガヤフキアエズが成長すると玉依姫を妃として神日本磐余彦(かむやまといわれひこ、神武天皇)が生まれた。西暦181年のことである。

 長崎県対馬市豊玉町(とよたままち)仁位(にい)55に鎮座の「和多都美神社」の祭神は彦火火出見尊と豊玉姫命。
 神社の向きは正確に夏至の日没方向を向いている。これは参拝者が拝礼する方角としては冬至の日の出方向を拝むことになる。冬至の日の出方向を延長すると宗像大社辺津宮(市杵島姫神)の真上を通る。更にその先には宗像三女神降臨伝説の六ヶ岳(339m)がある。関連性について調べる必要がある。ワニ繋がりか・・・
 和多都美神社本殿裏の森に豊玉姫命の御陵があるが、そこは斎場跡の磐座で、御陵は「仁位の高山」にあるとも云う。仁位の高山は神社後方の「烏帽子岳(176m)」か。
 仁位の地名由来は、真珠の産地だったから「瓊(に、たま)」→仁位(にい)となったようで、今でも仁位では真珠の養殖が行われている。


 名前がよく似た山に新高山(にいたかやま)がある。1941年12月2日に海軍連合艦隊司令部から空母機動部隊(空母6隻)に対して出された電文は「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」であったが、このニイタカヤマは台湾の新高山(現在名は玉山、3,952m)であった。当時の日本の最高峰であったので新高山と名付けられた。

 海神・豊玉彦尊が仁位に宮殿(竜宮)を造ったと云う。この宮殿が「海宮(わたつみのみや)」で、彦火火出見尊の歌にある「鴨着く島」である。
 海宮が和多都美神社になり、拝殿前の海中の三柱鳥居の中に磯良恵比須(いそらえびす)のご神体岩が鎮まっており、干潮時に姿を現す。

 「いそら」と云う名前からイスラエルとの繋がりを主張する説もあるが、磯良は安曇氏の祖神の安曇磯良(あづみのいそら)で、安曇磯良丸、磯武良(いそたけら)などとも云い、海人系神社で祀られている。 
 関西では茨木市の磯良神社に磯良大神として祀られている。2013年1月10日投稿の「今城塚古墳・太田茶臼山古墳」の中に(疣水)磯良神社として投稿しているのでご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-05-26 18:05

杵築神社(きづきじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市夢前町(ゆめさきちょう)菅生澗(すごうだに)594-2
神社の隣の「すごう保育園」を目指して行く。

祭神 大国主神、野見宿弥、菅原道真。
創建 嘉祥3年(西暦850年)

 古くは多氣明神と云われたので、今は多氣宮(竹の宮、竹宮さん)とも呼ばれる。
 当社は300m東の田園地に鎮座していたが、大正3年(1914年)に山麓の現在地に遷座した。
  赤のアイコンが杵築神社、黄が伊和神社、青が廣峯神社。


 当社は12km南東に鎮座の廣峯神社(姫路市広嶺山、ひろみねやま)と関係が深いようだ。

 杵築神社の由緒によると、この地は菅原氏の所領だったことと、菅原氏の先祖が出雲大社(杵築大社、出雲国一宮)に仕えていたことで、大国主神及び菅原氏祖神の野見宿弥と菅原道真の三柱の神を祀った。

 また、飾磨郡誌によると、大国主命が勢力拡大のためこの地に一泊し、後年一社を創建、その偉業を追慕し「多氣の宮」(雄大敢為の意)と称した。
 当社の28km北西に鎮座する播磨国一宮の伊和神社の祭神が伊和大神で、播磨国風土記によると、伊和大神は大己貴命(大国主命)と同神で、出雲国からやって来たとある。
 私見ですが、この伊和大神が菅生澗にやって来て勢力を拡大し、子孫が多氣明神を祀ったと考えています。更に伊和神社の鎮座地が兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407。この「すぎょうめ」の地名が菅生澗の「すごう」になったのではないかと考えています。
 播磨国風土記によると、菅生澗の地名由来は菅(すげ)がたくさん生えていたからと云う。山の谷間の真ん中を菅生川が流れている。

 当社の祭神が相撲の神の野見宿弥であるので、秋祭りでは、村対抗の相撲大会が行われる。拝殿の前に土俵があり、青いシートで覆われている。
 当社は昔、異相撲(ことすもう、喧嘩相撲)と云う荒い相撲を行い、「多氣の宮の喧嘩相撲」として有名であった。昭和初期までは遠方からも地方力士が参加して盛大に行われ、当社は別名を「相撲社」とも呼ばれていた。

  石の鳥居
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  拝殿、左手前に土俵があり、青いシートで覆われている。
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 拝殿内の古い神額には「山王権現 牛頭天皇」とあるが、神仏習合時の名残で、廣峯神社との繋がりか。明治元年に神仏分離令が出たが、各地で神仏習合の名残を見ることができる。
 但し、鹿児島県(島津藩)の廃仏毀釈は徹底していたらしい。
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   本殿
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# by enki-eden | 2018-05-18 11:27

志方八幡神社(しかたはちまんじんじゃ、加古川市)

播磨三社八幡の一つ、志方の八幡さん。 車を境内に停められます。
兵庫県加古川市志方町志方町(しかたちょう しかたまち)301-2  電079-452-0052

祭神 応神天皇、神宮皇后、玉依比売命。
厄払い、安産、交通安全。 能楽が盛ん。

 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征(363年)の途中、当地の宮山に登り、多くの鹿が群れているのを見て、この地を「鹿田」と名付けた。後に志方と表示されるようになった。

 黒田官兵衛(1546年-1604年)の正室・光(てる、1553年-1627年)の実家櫛橋氏は志方城の城主であったので、志方町は「光姫の里」と呼ばれる。



創建
 1111年、宮谷で妙見大明神として創祀され、1492年に志方城主の櫛橋氏が城の1km東北(鬼門の方角)にある現在地の宮山に遷し、石清水八幡宮から八幡神を勧請し、志方城の守り神とした。この宮山には多くの古墳があったが、現在では5基が残っている。
 櫛橋氏は藤原氏の末裔で、代々赤松氏の家臣だったが、1492年に志方城を築いた。城跡は志方小学校になっている。
  
   石の鳥居
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   宮山稲荷神社
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   随神門
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   割拝殿
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   幣殿と本殿
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   えびす神社
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  境内には、この他、大地主神拝所、皇大神宮遥拝所、日読社(天照皇大神)、
 月読社(月読命)、市杵嶋姫社(弁天さん)が鎮座している。

   社務所主屋と門は登録有形文化財
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 能楽堂は伊勢神宮宇治橋の古木を拝領して再建された。10月の例大祭(秋祭り)における御旅所神幸式では地元の児童による「胡蝶の舞」が奉納される。
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 昔、境内に能満寺があった名残で、鐘楼が残っている。
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# by enki-eden | 2018-05-11 09:23

神吉八幡神社(かんきはちまんじんじゃ、加古川市)

 兵庫県加古川市西神吉町宮前979  電079-431-2130
 鳥居横にも車を停められるが、左手奥に参拝者用の駐車場があります。
 妙見大明神とも呼ばれる。

 祭神 誉田別尊(15代応神天皇、363年-403年)

 西神吉町大国(おおぐに)が発祥の地で、旧地は下の宮(御旅所)となっている。
 赤が神吉八幡神社、黄が御旅所、青が神吉城跡(東神吉町の常楽寺が神吉城本丸跡)


創建 
 1396年、神火(隕石か?)が天下原(あまがはら、加古川市東神吉町天下原)に落ちた。村人は八幡神の化身に違いないと考え、近くの大国に八幡大神を祀って「神吉の庄」の氏神にした。

 当社は1441年の嘉吉の乱(かきつのらん)で焼き討ちにあい、1468年に領主の神出元盛が宮山(聖武天皇の行宮、標高90m)に遷座・再建した。元の大国村には御旅所が再建され、下の宮となった。
 嘉吉の乱では播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(1381年-1441年)が6代将軍足利義教(1394年-1441年)を暗殺し、幕府討伐軍に敗れた。

 南北朝時代(1336年-1392年)の神出城主・神出範次は赤松氏の系統で、子の元頼に神吉庄を与えたので元頼は神吉元頼と名乗った。神吉元頼は神吉城を築城、代々が神吉城主となった。
 神吉氏は三木城の別所氏と繋がっていたので、1578年に織田信長(1534年-1582年)と別所長治(ながはる、1558年-1580年)が争った時に、神吉城は志方城と共に羽柴秀吉(1537年-1598年)に攻撃され、落城した。

 当社は1633年にも落雷で全焼したので、1683年に再建した。

   石の鳥居
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   随神門
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 神吉頼経(かんき よりつね、1543年-1570年)築造の石垣が一昨年の9月に
改修された。
 3段目の石垣に積まれた石に銘文があり、古いので見えにくいが看板には、
 「この石垣は、天文年中(16世紀中頃)に4代目神吉城主の中務少輔・神吉頼経公の
所築で、後世に願主の名が失われることを恐れ、ここに銘文を記す。」とある。
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   拝殿・幣殿・本殿
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  境内から3.3km西に高御座山が見える。(2017年9月6日投稿)
  いつもははっきり見える山々も、この日は春霞でぼんやり。
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 境内社は、天照皇大神宮(天照大神)、大年神社(大年神)、愛宕神社(武甕槌命)、
 大歳神社(大歳神)、稲荷神社、八坂神社(素戔嗚命)がある。

 秋祭りは大変な賑わいになるようですが、私が子どもの頃の当地では天狗の面をかぶり、
長い棒を持って暴れる「アカ」と云うものが怖かった記憶が今でも残っています。
 今から思えば猿田彦らしいですが、猿田彦であれば老人の姿で矛を持っているが・・・
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©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-05-03 09:32

御崎(みさき)厄除八幡神社(神戸市兵庫区)

旧・八部郡御崎村に鎮座する「御崎の厄神さん」。
兵庫県神戸市兵庫区御崎本町1-1-49   078-651-3298
祭神 神功皇后、
   応神天皇、
   姫大神(未詳だが、宗像三女神か)。

 創建 9世紀半ば。
 56代清和天皇の貞観年中(859年-876年)に山城国男山(京都府八幡市)に豊前国宇佐神宮より勧請し、石清水八幡宮(国宝)が創建された。   
 寛文8年(1668年)に石清水八幡宮公文所より当神社に下附された金幣に、石清水八幡宮と御崎厄除八幡宮は同時代(860年頃)の創建であると記されている。
 昭和20年の神戸大空襲により社殿焼失、昭和31年に現状に復興する。



 神功皇后(321年-389年)が新羅遠征の帰途(363年)、この地に滞在した。その時に村人が神功皇后の神馬に兵庫の津(兵庫港)で取れる海草を秣(まぐさ)として献上した。
 当神社は石清水八幡宮と古くから関係があり、公文所御鍵預かり役に任じられ、毎年春秋の大祭には男山へ鍵を持って行き奉仕し、御崎の神馬秣を奉っていたと神社古文書に記されている。

   石の鳥居と社号標
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   南向きの拝殿と豊賀稲荷神社(宇賀魂命)
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 当社の北を流れる新川運河に清盛橋が架かる。欄干には、平家に関わるレリーフ彫刻が施されている。
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 14代仲哀天皇(313年頃-362年)と神功皇后(321年-389年)の皇子が15代応神天皇(363年-403年)となった。
 応神天皇陵(2013年2月21日投稿)は大阪府羽曳野市誉田6丁目にある。神功皇后陵(2013年4月8日投稿)は奈良市山陵町にある。
 5年前の投稿で、その後に年代を修正しており、現在記している年代とは違いがあります。
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# by enki-eden | 2018-04-27 10:07

兵庫住吉神社(神戸市兵庫区)

兵庫の住吉さん
兵庫県神戸市兵庫区切戸町(きれとちょう)1-3  電078-671-4067
祭神 住吉四柱大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯比売命)。

 神社の説明によると、
 『兵庫の津は風浪を避ける場所がなく、地元では難儀をしていた。明治10年に新川運河が完成、船の通運が安全になったので、地元住民の熱望により、海の守護神である住吉大神を浪速の住吉大社より勧請、明治11年6月3日に創祀した。
 昭和20年の空襲により社殿は羅災したが、昭和39年に復興建立した。』



   石の鳥居と境内
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 手前から、清盛塚(1286年造立の高さ8.5mの十三重塔、墳墓ではなく供養塔)、
 平清盛(1118年-1181年)の銅像(柳原義達の作)、
 琵琶塚(平経正の墓、琵琶の名手で1184年没)。
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  東向きの拝殿、桜が咲き始めた(3月24日)。
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  橋本稲荷神社(宇賀魂大神)
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 神社の東を流れる新川運河(兵庫運河の一部)に架かる大輪田橋、後方の山は六甲山系。
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  大輪田橋と大輪田水門
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 平清盛は大輪田泊(おおわだのとまり、兵庫港)を使用して大陸の南宋(1127年-1279年)と貿易をしていた。そして、1180年(治承4年、81代安徳天皇、高倉上皇の時代)に都を京都から摂津国福原(神戸市)に移したが、この遷都は半年で頓挫した。

 「平氏にあらずんば、人にあらず」と云うほど栄華を誇った平氏(平家)も、その独裁ぶりに反発した勢力が各地に台頭し、やがて源氏の挙兵に繋がっていく。
 1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家が敗北、源頼朝(1147年-1199年)により鎌倉幕府が成立する。

 当神社の西向かいに時宗(じしゅう)の真光寺(しんこうじ)がある。宗祖は一遍上人(いっぺんしょうにん、1239年-1289年)で、念仏勧進の全国遊行(ゆぎょう)の途中にこの地に立ち寄り、真光寺の観音堂で入寂した。境内に一遍上人御廟所があり、兵庫県重要文化財になっている。
 観音堂の東に熊野権現社(紀州熊野坐大神)が鎮座、時宗は熊野権現を守護神として尊祟している。神仏習合時の名残か。
   一遍上人御廟所
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©2012 Innami Kanki
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# by enki-eden | 2018-04-19 09:39

小野八幡神社(おのはちまんじんじゃ、神戸市中央区)

兵庫県神戸市中央区八幡通(はちまんどおり)4丁目1-37  電078-221-5414
都会のビルの真ん中に鎮座の厄神さん・八幡さん。 交通安全厄除け祈願。
祭神  応神天皇(15代)
創建  887年(平安時代、58代光孝天皇の仁和3年)
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 当社宮司の新渡戸素(にとべ もとし)氏は親近感のある人です。新渡戸稲造(1862年—1933年)のご親戚だそうです。
 新渡戸宮司の次女である新渡戸涼恵(すずえ)さんは当社の権禰宜で、国内外で活躍する歌手でもあります。インターネットで「涼恵」を検索するとたくさんありますよ。
 
 当社は戦前まで大丸神戸店の北に鎮座していたが、源平合戦(1177年-1185年)の後、戦死した河原兄弟の功績に報いるために源頼朝(1147年-1199年)が建立した報恩寺の鎮守の神となった。
 太平洋戦争後、当社は現在地に遷座した。現在、大丸神戸店の北には三宮神社が鎮座しているが、三宮神社にも河原霊社が祀られている。



   鳥居と拝殿、後方の高いビルは神戸市役所。
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   本殿
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   手水舎、後方が社務所。
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   拝殿右に金刀比羅神社(金刀比羅大権現)
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   拝殿左に巳神社(白龍大明神)と白玉国高稲荷神社
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 当社は1995年の阪神淡路大震災で被害を受け23年経ったが、社殿を建て替える予定。境内に19階建てのマンションも建てる予定になっており、社務所はその1階と2階に入る。
 鳥居左に、本殿の竣工は今年10月の予定と掲示板が出ている。
     ***
 今年のヒノキ花粉の飛散量は昨年の400倍もあるらしいです。私は50年前から花粉症で、今月は特に厳しいです。今月の大量のヒノキ花粉で初めて花粉症になった人もいます。5月中頃までは注意が怠れません。
 ©2012  Innami Kanki

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# by enki-eden | 2018-04-11 08:44