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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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宇佐家伝承③

宇佐家伝承①②からの続き。

宇佐公康(きみやす、1915年-?)氏が「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」に続いて、「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」を1989年に木耳社から出版した。

阿蘇族と菟狭族(宇佐族)は同族の関係にあった。古代の阿蘇国は「日の国」で、菟狭国(宇佐国)は「月の国」であった。

初代神武天皇(181年-248年)の皇子と考えられる常津彦耳命(とこつひこみみのみこと)は、阿蘇都媛命を妃として菟狭国造となり、二人の墳墓は大尾山(宇佐神宮の東)にあると宇佐家古伝にある。

宇佐神宮の案内図

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阿蘇都彦命と阿蘇都媛命は、阿蘇国を造り治めていた。神武天皇の皇子・神八井耳命の皇子である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇国に侵略し、阿蘇都彦命を殺し、阿蘇都媛命を妃にしようとして、領土を奪ったと古伝は云う。

この部分は、他の文献とはかなり違うのでややこしい。健磐龍命の別名に阿蘇都彦命がある。神武天皇の子孫には九州東部に伝説が多い。

健磐龍命が阿蘇神社(熊本県阿蘇市一の宮町、肥後国一之宮)の「一の神殿」に一宮として祀られ、阿蘇都比咩命が「二の神殿」に二宮として祀られている。阿蘇都彦命は祀られていない。

健磐龍命に追われた阿蘇都媛命は日向国三田井高千穂に逃れ、阿蘇山を「火の国」の「火」として拝した。「阿蘇」の意味は「燃える岩」。

阿蘇神社の38km南東の宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1037に高千穂神社が鎮座。祭神は皇祖神と配偶神で、天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命、神武天皇の兄・三毛入野命とその妻子9柱。

阿蘇神社と高千穂神社

阿蘇都媛命の直系子孫の女性は代々阿蘇都媛を襲名し、憧賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)となり、更に天疎向津比売命(あめさかるむかつひめのみこと)となり、天照大日霊女命(あまてらすおおひるめのみこと)に至ったと云う。

  

阿蘇から播磨にやってきて、針間(播磨)阿宗君の祖となった息長日子王(神功皇后の弟、針間阿宗君の祖、吉備品遅君の祖)が、「阿宗神社」(あそうじんじゃ、兵庫県たつの市誉田町広山)に祀られており、全国に阿宗、安蘇、阿曽などの氏族となった。

本来の阿蘇氏は阿蘇都彦と阿蘇都媛を氏神とした。

魏志倭人伝に記載の「対蘇国」は「阿蘇国」の間違いで、「蘇奴国」は「豊国(菟狭国)」、「華奴蘇奴国」も古(いにしえ)の「豊国(古の菟狭国)」であると云う。

昔は華奴蘇奴国と蘇奴国は一体であったが、その後に分かれたと云うことかな? 

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-11-19 00:36

宇佐家伝承②

宇佐家伝承①からの続き。

宇佐家古伝によると、「14代仲哀天皇(320年頃-362年)は武内宿祢(310年頃-390年頃)に殺された。誉田天皇は応神天皇ではなく、神功皇后(321年-389年)と武内宿祢の子である。仲哀天皇陵は香椎宮にある」と伝わる。

香椎宮(福岡市東区香椎)の170m東の森に、古宮(仲哀天皇橿日宮跡)と仲哀天皇大本営御旧蹟碑(仲哀天皇崩御の地)がある。ここに仲哀天皇の宮があり、天皇は西暦362年にこの宮で崩御した。神功皇后が仲哀天皇廟として祀った。

その後、44代元正天皇の養老7年(723年)に神功皇后の神託が下り、香椎宮(かしいぐう)の社殿が建てられ、祭神は仲哀天皇と神功皇后になっている。

宇佐家の古伝では、「宇佐稚屋(うさのわかや)の弟である御諸別命(みもろわけ)が神功皇后、誉田天皇、武内宿祢を打ち破り、武内宿祢は行方知らずになり、神功皇后と誉田天皇は香原岳の南の勾金(まがりかね)に幽閉されてこの地で亡くなったと云う。誉田天皇は4才であった。八幡大神の天罰を受け、御諸別命の天誅によって追放された」と云う。

私見ですが、宇佐公康氏は津田左右吉(1873年-1961年)の意見を重視しているので、戦後史学の古代史歪曲に影響されていると強く感じる箇所があります。

宇佐神宮由緒記によると、「宇佐神宮上宮(じょうぐう)は45代聖武天皇(701年-756年)の神亀2年(725年)に造営され、これが現在の一之御殿の創建である」とある。

祭神は応神天皇になっているが、宇佐家は宇佐押人(おしと)を祀ったと云う。だから宇佐押人を応神天皇に仮託したのかも知れない。

聖武天皇の天平3年(731年)に神託により現在の二之御殿を造営、比売大神を御許山(おもとやま、647m)の頂上(宇佐神宮奥宮)から勧請し、宇佐家の母系祖神の菟狭津媛を祀った。現在は三女神とされている。御許山は比売大神の降臨した神山。

天平勝宝4年(752年)、宇佐神宮は45代聖武天皇(701年-756年)の東大寺盧舎那仏の造立事業に協力し、宇佐神宮の神輿に八幡大神を鎮座して都に向かった。大仏殿近くの鏡池(八幡池)の東に、手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を建立し鎮座した。

そして大仏開眼会に八幡大神の神輿が大仏に礼拝したので、神仏習合を目指す聖武天皇に喜ばれた。

東大寺大仏殿建立に際し、宇佐神宮は香原岳の銅を供出、鍍金のために金を輸入する必要があったので、金の調達について八幡大菩薩に御加護をお願いした。尼僧の禰宜(巫女)が託宣を下し、「黄金は陸奥国金華山にあり」と云った。実際に現地で調べてみると金鉱石が見つかった。

これで無事に盧舎那仏が完成することになる。以降、宇佐神宮は朝廷との繋がりが深くなり、勅使が神託を得るために、西参道に架かる屋根付きの朱塗りの「呉橋」を渡ってやってくることになった。

八幡大神は奈良の都から帰還すると、神託により765年に亀山の東向いの大尾山(おおやま、57m)に鎮座したが、782年に亀山(小椋山、38m)の古墳の上に遷座したと云う。大尾山の跡地は大尾神社(おおじんじゃ)となり、宇佐神宮の摂社となった。かなり山深い。

従って、和気清麻呂(733年-799年)が769年に弓削道鏡(700年-772年)の事件に関し、勅使として神託を受けたのは、大尾山に鎮座の宇佐神宮であった。

52代嵯峨天皇(786年-842年)の824年に神託により現在の三之御殿を建て、大帯姫を祀った。大帯姫は神功皇后と云われるが、宇佐家は宇佐押人(応神天皇)の母・常世織姫を祀ったと云う。

常世織姫の墳墓は宇佐市橋津の貴船神社だと云う。

貴船神社はかなり荒廃しているが、近くに和気清麻呂の「船つなぎ石」がある。

宇佐家の古伝によると、宇佐神宮の一之御殿祭神の応神天皇は宇佐押人、二之御殿祭神の比売大神は菟狭津媛、三之御殿祭神の神功皇后は常世織姫命となる。

藤原氏と宇佐氏の姻戚関係により八幡信仰が全国に広まっていった。そして石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の建立により武家にも浸透していった。

宇佐家は平家との外戚関係もあり、源平合戦では平家の味方になった。宇佐家当主の宇佐公通(きんみち、1144年に大宮司)は、1183年に都落ちした安徳天皇(1178年-1185年)を自邸に迎えた。

宇佐公通が七日七夜祈ったところ、「嫡男の宇佐公仲を安徳天皇の身代わりとして守れ」と神託を得た。公仲の母は清盛(1118年-1181年)の娘浄子で、建礼門院徳子(1155年-1213年)の妹であるから安徳天皇と宇佐公仲は同年の従兄弟であった。

公仲は安徳天皇として壇ノ浦の戦いで入水した。その後、宇佐神宮では、宇佐公仲と称した安徳天皇が1214年に大宮司となり、以降は子孫が大宮司を務めたと云う。

宇佐公康氏によると、大分県の国東(くにさき)は「木の国」で、魏志倭人伝記載の「鬼国」、玖珠郡の玖珠川周辺が「躬臣(くす)国」、宇佐が「為吾(いご)国」、山国川周辺が「耶馬国」、山口県防府市大崎の玉祖(たまのおや)神社付近が「投馬国」と云う。

また、奈良県橿原市の神武天皇陵の被葬者は饒速日命だと云う。宇佐家の伝承によると、物部氏の原郷は筑後平野で、氏神は高良大社である。

宇佐神宮の大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義(おおがひぎ)の子孫の大神氏が務めたが、平安時代中頃から菟沙津彦 (うさつひこ) らの子孫である宇佐氏に譲り、宇佐氏一族の宮成氏、到津(いとうづ)氏、岩根氏、安心院(あじむ)氏が大宮司を世襲した。その後、一族で大宮司を争うことになる。

鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。両家が交互に大宮司を継いだ。一時、宇佐氏一族の出光氏も大宮司となったことがある。

戦後は、到津氏が継承し祭祀を行っていた。平成16年(2004年)頃より到津氏に代わって代務者が置かれるようになったので、神社庁、到津家、氏子総代が争いを続けている。

到津家の末裔到津克子(よしこ)氏は、神社庁から権宮司を解任され訴訟を起こしたが女性宮司は認められず、訴訟を取り下げた。境内の立派な住宅兼祭祀の場を維持するためであった。

私見ですが、神社庁を改革する必要があるのではないか。神社は神社庁のものではなく、氏子や社家のものだと思いますがねぇ・・・

***

私事ですが、私たち夫婦は196911月に結婚し、今年は2019年ですから50年が過ぎました。娘夫婦、息子夫婦、孫たちが「金婚式」を祝ってくれました。孫の成長ぶりを楽しんでいます。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-11-13 00:09

宇佐家伝承①

宇佐公康(きみやす、1915年-?)氏が、著書「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」を1987年に木耳社から出版している。

宇佐公康氏は高魂尊(たかみむすひのみこと)の125代目とされ、宇佐家本系図によると、菟狭津彦命の72世の孫(そん)、宇佐公池守の57代目、宇佐相規の42代目、宇佐公通(きんみち)の36代目にあたり、昭和31年(1956年)に先代から一子相伝の「口伝書」と「備忘録」を引き継いだ。

宇佐族について、先代旧事本紀の天神本紀に「高魂尊の子の天三降命(あめのみくだりのみこと、豊国の宇佐国造の祖)が饒速日東遷に従った」とあり、国造本紀には「宇佐国造は神武朝の御世に、高魂尊の孫の宇佐都彦を国造に定められた」とある。

高魂尊(高皇産霊尊)→天三降命→菟狭津彦(宇佐都彦)

 

菟狭族(宇佐族)は、宇佐家伝承が記紀の記述とは違う事をはばかって、族長の世継ぎが一子相伝の伝承として代々、口述・記憶・暗唱してきたが、中世以降に「口伝書(くでんがき)」と云われる門外不出の極秘文書となった。

宇佐公康氏は先祖伝来の口伝書・備忘録を読み、記紀・風土記・皇統譜令・陵墓要覧・神社名鑑などを研究し、私見も入れた本書を出版することにした。我田引水の批判もあると思うが、宇佐家の古伝をありのままに開陳しているので寛容を願いたいと云っておられる。

高魂尊(西暦140年頃出生)の子の天三降命(あめのみくだりのみこと、宇佐国造の祖)が、市杵島姫(西暦160年頃出生)を妻とし、菟狭津彦(西暦175年頃出生)が生まれた。

天三降命(西暦155年頃出生)は西暦185年頃の饒速日東遷に従い、大和国へ行った。

菟狭族(宇佐族)の天職とする天津暦(あまつこよみ)は、月の動きを見て月日を数える月読(つきよみ)や、日知・聖(ひじり)などにより、満月の月面に見える模様をウサギに見立て、月を「ウサギ神」として崇拝し、「ウサ族」と称した。

宇佐族は島根県の隠岐の島で漁業を中心に生業としていたが、和邇族との取引に失敗して丸裸になってしまった。大国主命(160年頃-220年頃)に「新しい土地に行って再起せよ」と云われ、大国主命からもらった因幡国八上(鳥取県八上郡)の地を開拓して成功した。

この地の巫女は八上比売で大国主命の妻となった。(「因幡の白兎」の神話となる)

宇佐神宮の33年毎の式年遷宮では、中央の二之御殿の屋根は少しずれているが、位置を動かすことは絶対にまかりならぬと口伝されている。

二之御殿の真下には御量石(みはかりいし)があり、この石を中心に二之御殿が建てられている。この御量石は石棺で、比売大神が埋葬された。

宇佐家伝承によると、大神比義(おおがひぎ)の心眼に童子の姿で「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、神功皇后(西暦321年-389年)と武内宿祢(西暦310年頃-390年頃)の密通によって生まれ、4才で早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊であると云う。

宇佐家古伝によると、本当の応神天皇は神武天皇(西暦181年-248年)の皇孫で、神武天皇が東遷する時(204年出発)、菟狭(宇佐)の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや、足一騰宮)に4年間滞在し、菟狭津彦の妹(実は妻)の菟狭津媛を娶って、宇佐津臣亦の名は宇佐稚家(わかや)が生まれた。

宇佐稚家が越智宿祢の女(むすめ)常世織姫(とこよのおりひめ)を略奪して娶って宇佐押人(おしと)が生まれたが、宇佐稚屋は越智氏に恨まれ、戦闘の中で負傷し、27才で亡くなったと云う。

宇佐稚屋は宇佐の小椋山(おぐらやま、亀山)に葬られた。宇佐押人は西日本を統一して中央(大和国)に進出し、応神天皇となって国家が成立したと云う。

私見ですが、宇佐押人(西暦220年頃出生)が15代応神天皇(西暦363年-403年)では時代が全く合わない。宇佐押人に該当する年代は5代孝昭天皇の頃になる。

一柱騰宮の伝承地は宇佐氏古伝によると、宇佐神宮の寄藻川(よりもがわ)にかかる朱塗りの「呉橋」の南にある。一柱騰宮跡の石碑があり、その東には弥勒寺跡がある。

弥勒寺は西暦738年(45代聖武天皇の天平時代)に宇佐神宮境内に建立された神仏習合文化発祥の寺院。明治の神仏分離令により廃寺となった。

また、宇佐市上拝田(かみはいた)に一柱騰宮跡地とする石碑がある。宇佐市安心院(あじむ)の妻垣神社(宇佐神宮摂社)にも伝承地がある。安心院は宇佐氏の発祥の地と云う。

神武天皇の東遷に菟狭津媛が随伴し、筑紫国岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋町)に1年留まったが、宇佐族の岡氏が岡県主(おかのあがたぬし)となり、大陸との交易で栄えたと云う。

次に神武天皇は安芸国の多祁理宮(たけりのみや)に6年留まり、菟狭津媛は巫女として奉仕、神武天皇(181年-248年)との間に第2子の御諸別命(みもろわけ、宇佐稚家の弟)が生まれた。御諸別命の子か孫が卑弥呼(179年-247年)で、安芸国が「邪馬台国」だと云う。

私見ですが、これは年代が合わないし、邪馬台国は安芸ではなく、九州の筑後川周辺だと考えられる。筑後川の北に「秋月」と云う地名はあるが・・・

神武天皇が亡くなった後、兄の景行天皇が熊襲退治に出かけたが、病気になり阿蘇で亡くなったので、「智保の高千穂嶺」に葬った。当地には熊本県阿蘇郡蘇陽町大野の幣立神社(へいたてじんじゃ、日の宮)が鎮座しており、景行天皇の御陵になっていると云う。

初代神武天皇が12代景行天皇の弟と云うのは時代が合わない。景行天皇は近江国の志賀高穴穂宮で崩御、大和国の山辺道上陵(渋谷向山古墳、300mの前方後円墳)に埋葬された。

菟狭津媛は多祁理宮の南西20kmにある伊都岐島(広島県佐伯郡宮島町厳島)に宇佐族の母系祖神・市杵島姫命を祀っていた。推古天皇の時代に社殿が造営され、平清盛が安芸国守護職となってからは社殿が大きく拡充整備された。

菟狭津媛は間もなく亡くなり、神武天皇も1年後に亡くなったと云う。二人は伊都岐島(厳島)の御山(弥山、みせん、530m)山上の岩屋に葬られたと云う。

多祁理宮の別名は埃宮(えのみや)で、現在は多家神社(たけじんじゃ、安芸郡府中町)となっている。祭神は神武天皇、安芸津彦命(安芸国の開祖)。

赤のアイコンが多家神社、黄が厳島神社、青が御山。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-11-07 09:20

2016117日投稿の「市杵島姫」を、もう一度見直してみたいと思います。

天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)により、「比売大神」が宇佐神宮(宇佐嶋の御許山、647m)に降臨、次に福岡県宮若市の六ケ岳(むつがたけ、339m)に遷座、更に宗像に遷座して道主貴(みちぬしのむち)として宗像大社に祀られた。   

当初は「比売大神」として一柱の神であったが、宗像大社は、辺津宮・中津宮・沖津宮の三宮に分かれているので、「三柱の比売大神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)」として祀られるようになったと云う説がある。

また、海人族の祀る神は、住吉大神も綿津見大神も「三柱の神」として祀られているので、宗像大神も三柱の神となったか。

大分県宇佐市の宇佐神宮では、三女神が「比売大神」として、二之御殿(3つ並んだ御殿の真ん中)に祀られている。   

京都府八幡市の「石清水八幡宮」でも同様に、比咩大神として左御前に祀られている。

京都市西京区嵐山宮町の「松尾大社」では、中津島姫命の別名で、主祭神二柱の一柱として祀られている。  

元伊勢として知られる京都府宮津市の「籠神社」では、主祭神である彦火明命と市杵嶋姫神が夫婦であるとしている。   

奈良県桜井市の大神神社摂社・「市杵嶋姫神社」に見られるように、市杵嶋姫を祀る神社は池に囲まれていることが多い。

市杵島姫命は、美人の「水の神様」と云われ、神仏習合時には弁才天と同じにされた。

図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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大国主大神(大己貴命)を主祭神として祀る出雲大社(島根県出雲市)には、本殿瑞垣内に向かって左に摂社の「神魂御子神社(筑紫社)」があり、三女神の内の多紀理毘売命(たきりひめ、田心姫命)が大己貴命の「九州の妻」として祀られている。


初代神武天皇(彦火火出見、181年-248年)の母・玉依姫も、「比売大神」や「三女神」として祀られている神社がある。玉依姫も「一柱の比売大神」から「三柱の神」に別けられた経緯がある。

福岡県飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社の由緒には、『豊前国宇佐島より筑前国宗像郡沖津島に鎮座のとき、当村日尾山(ひのおさん)、現在の日王山(ひのおうさん)を越え給う古実をもって、12代景行天皇の御宇(4世紀前半)に「三女神」を祀り、今に社殿・神石・柱石等残れり』とある。

福岡県鞍手郡(くらてぐん)鞍手町室木(むろき)の六嶽(むつがたけ)神社の由緒には、『この地は「宗像三女神」が降臨したゆかりの地で、7代孝霊天皇の御宇(3世紀後半)に宗像三所に遷幸され、宗像大神あらわれ給う』とある。

福岡県福津市津丸の神輿(みこし)神社では、『宗像社縁起に曰く、宗像三女神、始め室木の六ヶ嶽に御着、その後此の地に留り給う、この村に於て神威輝耀を以って神興と称す、その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり、「三女神遷幸の地」と伝承されている。』と伝わる。

三女神は、宇佐神宮→六嶽神社→神輿神社→宗像大社に遷座して祀られることになったと云う。



福岡県太宰府市に宝満山(ほうまんざん、829)、別名御笠山(みかさやま)、竈門山(かまどやま)があり、霊山として国史跡に指定されている。

宝満山の山頂に宝満宮竃門(かまど)神社の上宮が北向きに鎮座、麓に下宮が鎮座しており、玉依姫命(神武天皇の母)を主祭神にお祀りしている。太宰府天満宮の鬼門方角になる。

由緒によると、『按ずるに玉依姫を中央主祭の神とし、神功皇后、八幡大神を左右に配祀せしは、宇佐神宮三座の神と御同神にして玉依姫は同神宮の比売大神と御同体にますなり』とある。

宇佐神宮の比売大神も玉依姫だと伝わっている。玉依姫を宝満神、宝満大神として祀る神社もある。

比売大神(三女神)が玉依姫であるならば、私見では市杵島姫命と天火明命(140年頃出生)の子が卑弥呼(179年-247年)であると考えているので、玉依姫(市杵島姫命)と鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の皇子である神武天皇(181年-248年)は卑弥呼と姉弟になる。

それが事実であれば、天照大神(大日孁貴)と豊玉姫が同一神ではないかと思えてくるが、頭が混乱してきました。古代の結婚は複婚(多数婚)なので複雑でややこしい。

福岡県宗像市神湊951の津加計志(つかけし)神社は宗像大社の境外摂社で、祭神は宗像三女神の市杵嶋姫神、田心姫神、湍津姫神。近くの神湊(こうのみなと)の守護神である。


津加計志神社の元宮は、『神湊(こうのみなと)草崎に鎮座の綱掛神社(現在、宗像大社頓宮)で、御祭神は市杵島姫命、相殿に宗像大宮司の遠祖・吾田片隅命(別名:赤坂比古命)を併せ祀る』と伝わる。

吾田片隅命(阿田賀田須命)は、大国主命(160年頃-220年頃)の6世孫で、宗像氏の祖、和邇一族であるから、響灘の海域を拠点にして海外交易も盛んに営んでいた。

大国主命は、西暦201年の「葦原の中津国の国譲り」により、北部九州の支配地(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)を天孫族に譲り、出雲国(島根県)に隠遁したが、配下の海人族である宗像氏は、天照大神と素戔嗚尊の誓約により生まれた三女神を宗像大社に祀り、天孫族に従ったと考えられる。

宗像大社で祀られているのは三女神であるが、本来祀られていたのは大国主命と考えられる。「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。

宗像大社辺津宮の周辺は「秋郷(あきのさと)」と呼ばれていたが、秋郷に住んでいた人々が、各地に移り住んで、その土地に「あき(安芸・安木)」と名付け、「市杵島姫」を祀った。

「安芸の宮島」の厳島神社(国宝・世界遺産)の祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命。安芸の地名は、広島県の安芸国、高知県の安芸市などがある。

日本の国土を「秋津洲(あきつしま)」というのは、日本書紀の神武紀に、天皇が巡幸し掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘で、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれど、蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」といったので秋津洲(あきつしま)と呼ぶようになったとある。

「秋津洲」の地名由来は、宗像の「秋郷」(葦原の中津国、豊葦原の瑞穂の国)が語源かもしれない。宗像大社周辺はそのような景色が広がっている。

或いは、神武天皇の出生地である遠賀郡もよく似た景色が広がる。大国主命が支配した響灘周辺の土地(葦原の中津国)を表現した言葉かもしれない。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-10-29 00:30

44400万年前に、当時地球上に生息していた生物種の85%が絶滅するという「大量絶滅」があったと考えられている。

2005年、アメリカ航空宇宙局(NASA)とカンザス大学の研究によると、この大量絶滅は地球から6000光年以内で起こった超新星爆発によるガンマ線バーストを地球が受けたことが引き金になったという。

超新星爆発が起きると、ブラックホールが形成され、強力なガンマ線バーストが生じ、それが地球方向に放出されるとオゾン層が破壊され地球の生物に影響を与え、大量絶滅すると考えられている。

その後、生物種は回復していくが、25100万年前に最大の大量絶滅が起こり、生物種の90%以上が絶滅した。

19960万年前にも大量絶滅が起き、全生物種の76%が絶滅し、火山の大噴火や隕石の衝突が原因ではないかと云われている。その後は恐竜が地球上に拡散していく。

6550万年前にも大量絶滅が起き、恐竜・アンモナイトなど生物種の70%が絶滅した。隕石の衝突か火山の大噴火が原因と考えられている。鳥類・哺乳類・爬虫類・両生類などは生き延びた。

このように、超新星爆発、隕石の衝突、火山の大噴火などにより、地球上の生物は大量絶滅したり、生き延びたり、新種が発生したりすることを何回も繰り返してきている。

現代では、人類が他の生物を減少させる原因になっている。

  

星座のオリオン座は有名で、多くの人に好まれており、中央の三ツ星と周りの六角形又は七角形があり見つけ易い。古代から船乗りが目印としてきた。

エジプトのギザの三大ピラミッドの配置も、オリオン座の三ツ星を地上に復元したと云う説がある。20131220日投稿の「京都の結界」2014116日投稿の「難波宮、大津宮から飛鳥宮へ」をご参照ください。

オリオン座のベテルギウス(Betelgeuse)は642光年先にあり、赤色超巨星なので超新星爆発が迫っていると云う。直径は太陽の千倍もあり、大きさが変化する「変光星」である。

大きさが変わる原因は、熱により表面のガスが膨張し大きくなる、膨張すれば温度が下がり収縮するのを繰り返す。

超新星爆発すると、温度が急上昇し3ヶ月くらい昼でも見える明るさになり、赤色巨星が青白く変化する。4ヶ月すると温度が下がりオレンジ色になる。やがて元の赤い色に戻り、4年後には暗くなって見えなくなる。数百年経つとガスが見えるようになる。

ベテルギウスの自転軸が地球に対して20度外れているので、超新星爆発してもガンマ線の直撃は避けられ、地球への影響は少ないと見られている。高エネルギーのガンマ線は磁場の影響を受けずに直進するからである。

ただ、ガンマ線バーストが巨星の自転軸方向の狭い範囲だけに放射されるかどうかは分からないのではないでしょうか? ガンマ線バーストに幅があれば、20度外れている地球にも届く可能性はあるのではないか。広範囲に放射された場合は地球に届いても放射線量が少ないので影響が少なくなる。

また、超新星爆発があるとニュートリノのバーストも起きる。岐阜県飛騨市神岡町の「スーパーカミオカンデ」(宇宙素粒子観測装置)は、超新星爆発によるニュートリノを観測する体制ができている。


日本では、オリオン座のベテルギウスの赤色とリゲルの白色による色の違いで、リゲルを源氏星、ベテルギウスを平家星と使い分けられている。その逆に使っている人もいる。

源平合戦(1177年-1185年)では、源氏が白い旗、平家が赤い旗を掲げたので、源氏がリゲル(白星)、平家がベテルギウス(赤星)と見られている。

源平合戦に勝利した源氏の白い旗には太陽の赤丸が描かれていた。西暦1056年に70代後冷泉天皇(1023年-1068年)が源頼義(998年-1082年)に日章旗が下賜され、「御旗(みはた)」として甲斐源氏の甲斐武田家に家宝として伝えられた。

「日の丸の御旗」は、現在は山梨県甲州市塩山の裂石山雲峰寺(さけいしざん うんぽうじ)が寺宝として保存している。雲峰寺は甲斐守護武田氏の祈願所であった。

源頼朝(1147年-1199年)が征夷大将軍(1192年-1199年)となり、鎌倉幕府が全国を制圧したことにあやかって、日章旗が統一の旗として使われるようになった。

1870年(明治3年)に日章旗(日の丸)が日本の国旗となったが、1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」が公布・施行され国旗と国歌が定められた。

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# by enki-eden | 2019-10-21 00:05

条坊制は、古代から中世にいたる都の都市計画で、都の中央南北に朱雀大路(すざくおおじ)を通し、東西の大路と南北の大路で碁盤の目状に造った都市計画である。東西の大路を「条」と呼び、南北の大路を「坊」と呼ぶ。

藤原京、平城京、長岡京、平安京で条坊制が敷かれたが、福岡県太宰府市の太宰府や宮城県多賀城市の多賀城でも設けられた。

日本で最初の条坊制を敷いたのは藤原京で、唐風に造られた都である。日本書紀には新益京(しんやくのみやこ)と記されている。

藤原京は、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代(592年-710年)の都で、694年から710年まで16年間、平城京に遷されるまでの都となる。

41代持統天皇(西暦645年-703年)、42代文武天皇(683年-707年)、43代元明天皇(661年-721年)の時代である。

儒教の教典「周礼(しゅらい)」に、

「王城は一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つの門を開く。

城内には、南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、幅は車の轍(わだち、8尺)の9倍とする。

中央に天子の宮、その東に祖先の霊を祀る宗廟、西に土地の神を祀る社稷(しゃしょく)を置く。

前方、南には朝廷、後方、北には市場を置く。」とある。

中国では、この周礼の記述を基に王城ができた。東西南北を直線の道路で結ぶのが都市機能として効率的だという考え方は、日本にも「周礼」とともに「条坊制」として伝わってきた。

最初の条坊制を敷いた藤原京では、皇宮は都の中央に設けられたが、平城京からは都の北側中央に宮が設けられるようになった。

橿原考古学研究所が、藤原京跡で130m四方の貴族の邸宅跡が出土したと102日に発表した。門を構え、中央に正殿がある立派な構造の邸宅になっている。現場は「右京59坊東北坪(とうほくのつぼ)」で、神武天皇陵の北、藤原京の西端に近い。


日本書紀の41代持統天皇5年の藤原京造営記事に、「新益京(しんやくのみやこ、藤原京)での右大臣に賜る宅地は四町、直広弐(じきこうに、一二階)以上には二町、大参(五位の貴族)以下には一町、上戸(かみつへ)には一町、中戸には半町、下戸には四分の一町」とあり、五位の貴族には一町(130m四方)の宅地を賜るとの記述があり、出土した邸宅跡はこれに一致している。

奈良時代の平城京(710年-784年)は唐(618年-907年)の長安城をモデルに造られたので構造は良く似ていて、都は碁盤目状の直線道路で整備され、北側中央に宮(大内裏)があった。

中央の南北に朱雀大路が通り、幅74m、朱雀門から羅城門までの距離は3.6kmあった。朱雀大路の東が左京、西が右京に分けられた。

皇宮の北に庭園が広がり、都の東西に官営市場、東南角に苑池(えんち)があることも長安城と同じであった。

但し、平城京には長安城のような都を取り囲む城壁はなかった。日本では、都を城壁で厳重に防衛する必要がなかった。

都の大きさは、平城京は南北4.8km、東西4.3km+外京で、長安城は南北8.6km、東西9.7kmあったので、都の面積は四分の一であった。

201347日投稿の「平城宮大極殿」をご参照ください。

東西の大路は一条北大路、一条南大路、二条大路~九条大路、南北の大路は中央の朱雀大路の東に東一坊大路~東四坊大路、朱雀大路の西に西一坊大路から西三坊大路まであり、東北隅には外京が張り出ていた。

朱雀大路の幅は74mであったが、他の大路は24m、小路は8mであった。

平城京では、「条」と「坊」の大路に囲まれた地域を「坊」と呼び、1つの坊の大きさは道路の幅も含み530m四方である。

「坊」に3本ずつの小路を東西と南北に通し、16の「坪」を設けた。1つの坊の中には東西に4つの坪と南北に4つの坪ができるので、全部で16の「坪」ができる。1つの坪は130m四方で、16の坪が1つの坊をつくる。


現在で云う住所の表示は、例えば、「平城京左京三条一坊十四坪」などとした。坪が最小の単位(区画)になっている。

長屋王の邸宅は「左京二条東二坊」にあった。平城宮の東南前である。2014119日投稿の「長屋王と吉備内親王」をご参照ください。

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# by enki-eden | 2019-10-13 10:05

素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)は、神大市姫との間に生まれた第5子の饒速日命(大歳、西暦165年頃出生)と共に山陰地方・瀬戸内地方・四国地方を統率した。

そして、宇佐(大分県)を拠点として九州を統率、北部九州の倭国王・伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)とは政略結婚で同族となった。伊弉諾尊は倭王兼7代目奴国王で海人族を統率していた。

宇佐市には宇佐神宮が鎮座、八幡神社の総本社で比売大神・八幡大神(応神天皇)・神功皇后を祀っている。

八幡大神は15代応神天皇(西暦363年-403年)になっているが、本来は素戔嗚命だったのではないか。

宇佐は瀬戸内海から九州への拠点となる地で、素戔嗚命と饒速日命(大歳)は宇佐を拠点にして九州東部を統率したと考えられる。統率の象徴は中広銅矛で、祭祀には銅鐸が用いられた。

神功皇后(西暦321年-389年)も363年の新羅遠征において、新羅王の門に銅矛をたて後世への印とした。

素戔嗚命は、筑紫紀氏の大矢女命との間に生まれた第2子の五十猛命(160年頃出生)に九州西部(伊都国・志摩国・紀伊国・対馬国・壱岐国・肥前国など)を統率させた。

素戔嗚命と五十猛命は、肥前国(佐賀県・長崎県)の統率には有明海沿岸を拠点とした。朝鮮・中国との交易には対馬と壱岐を拠点とした。

しかし、西暦180年代に倭国乱が勃発、伊弉諾尊は失脚して淡路島に隠遁、饒速日命は西暦185年頃に物部氏など大部隊を率いて大和国(奈良県)に東遷した。

素戔嗚命が西暦200年頃に亡くなると、後を継いだ大国主命(西暦160年頃-220年頃)が高皇産霊尊と天照大神(倭王・卑弥呼、179年-247年)に「国譲り」を強制され、「葦原の中津国」(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)を放棄して出雲国(島根県)に隠遁してしまった。

また、西暦204年には磐余彦(神武天皇、西暦181年-248年)が東遷を開始、209年に大和国(奈良県)に到着、211年に橿原で即位して「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」となる。

素戔嗚命は、新羅との縁が強かったので、記紀が成立した8世紀は「白村江の戦(663年)」から50年余りしか経過しておらず、新羅への憎しみから素戔嗚命も悪役に仕立て上げられ、記紀には素戔嗚命が大悪人として表現されることになった。

しかし、それから90年ほど経った52代嵯峨天皇(西暦786年-842年)は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」として素戔嗚命を称え、名誉を回復した。そして、愛知県津島市神明町の津島神社を「日本の総社」と崇めた。津島神社の主神は建速須佐之男命(素戔嗚命)、相殿に大穴牟遅命(大国主命)を祀っている。

卑弥呼の跡を継いだ倭王の臺與(西暦235年頃-295年頃)は、西暦270年頃に大和国に東遷し、日本列島の中心地は北部九州から大和国に移ることになる。

2世紀に製鉄系の素戔嗚一族が列島の西半分を統率し皇室の基礎を創り上げたが、3世紀に海人族系(安曇氏・海部氏・尾張氏・和邇氏など)の天皇家が大和国に都を遷した。

3世紀終わりに弥生時代から古墳時代に移行、列島の大部分が統一された。

卑弥呼の系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

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天体のヒミコ

ヒミコ(Himiko)は、くじら座の方向、129億光年の彼方にある巨大な天体(星)。ハワイのすばる望遠鏡で大内正己特別研究員が率いる日米英の国際研究チームによって発見され、卑弥呼に因んで名づけられた。

宇宙の始まりから9億年後にできた巨大なガスの塊である。直径は55千光年もある。我々の天の川銀河の直径が10万光年だから、ヒミコは天の川銀河の半分以上の直径がある。

天の川銀河も外縁部のハローを含むと直系104万光年ほどになる。

ヒミコは太陽の400億倍の質量をもち、三つの銀河が繋がっており、全体は巨大な水素ガスに包まれている。

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# by enki-eden | 2019-10-07 09:40

デニソワ人

デニソワ人はシベリアやチベットで僅かな化石が見つかっている。ロシア・アルタイ地方(シベリア南西地域)の「デニソワ洞窟」に約41,000年前に住んでいたので、デニソワ人と名付けられた。

デニソワ洞窟(Denisova Cave、標高700m)は、ロシア、カザフスタン、モンゴルの国境が交わる辺りのロシア領山中にある。

現生人類の祖先は、デニソワ人と混血したことがDNA分析で分かっている。異人種の祖先同士が混血するのは普通のことだったようだ。 2015113日投稿の「人類とネアンデルタール人の混血」をご参照ください。

   

絶滅した旧人「デニソワ人」の姿を再現できたと、イスラエルのヘブライ大学の研究チームが919日付の米科学誌セル電子版に発表した。

顔の横幅が広いなど、同時代を生きていた現生人類やネアンデルタール人とは異なる特徴が56個あるという。

デニソワ人の化石は数万~十数万年前の指や歯、顎の一部が見つかっているだけだったが、ヘブライ大学のリラン・カルメル教授のチームは、化石から抽出したDNAを分析した。

「AFP通信の日本語ニュース」をご覧ください。

   

DNAの解析によると、80万年以上前に現生人類(ホモ・サピエンス)との共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人とデニソワ人に分岐した。35万年前との説もある。

現在のメラネシア人(ソロモン諸島、ニューヘブリディーズ諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島など)にデニソワ人の遺伝子が継承されている。

中国南部に住む人々の遺伝子の一部がデニソワ人由来という。

ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯からデニソワ人はがっしりした顎を持っており、体格はネアンデルタール人と同じか、それよりも大きいとみている。

2018年、ドイツのビビアン・スロン博士(古遺伝学者)は、2012年にデニソワ洞窟で発見された5万年前の10代の少女の化石をDNA鑑定した結果、母はネアンデルタール人、父はデニソワ人であったと科学誌「ネイチャー」で発表した。同じ時期にネアンデルタール人はユーラシア大陸の西側で、デニソワ人は東側で生存していたが、ネアンデルタール人が東方に移住して、デニソワ人や現生人類のアジア人祖先と出会ったのではないか。

そして、ネアンデルタール人もデニソワ人も4万年前に滅んだが、その遺伝子の一部が我々現代人にも継承されている。

日本人の遺伝子には、ネアンデルタール人とデニソワ人の遺伝子も残っているようである。読売新聞の「縄文人の姿遺伝子で再現」をご覧ください。

 

チベット高原の白石崖溶洞(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)は、旧石器時代の遺物が多く出土している。チベットの人々が昔から祈祷と病気療養のためにやってくる聖なる洞窟で、近くに住む僧侶が1980年に洞窟の中で2本の大きな歯が付いた人の顎(あご)を発見した。

中国の研究チームがそのタンパク質を抽出して調べたところ、16万年前のデニソワ人の下顎と判明した。

デニソワ人のDNAはアジア全域とメラネシアの現代人に広く継承されており、デニソワ人が広範囲に拡散していたことが分かる。

白石崖溶洞の標高は3,280mで、チベット人やネパール人はデニソワ人遺伝子を継承したことにより、高地適応力を持つことになった。

デニソワ人は、数十万年前にネアンデルタール人と分岐し、東方のアジアへ向かったと考えられている。ネアンデルタール人は、ヨーロッパと西アジアに広がった。

現生人類が最初にアフリカを出たのはおよそ20万年前のことだが、中東でネアンデルタール人と出会い、交配した。さらに一部は東へ向かい、アジアへ入ると、そこに住んでいたデニソワ人と交わった。それで、現代のアジア人のなかにデニソワ人のDNAが残されることになった。

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# by enki-eden | 2019-09-30 09:56

対馬国     対馬   千余戸、大官は卑狗、副は卑奴母離。

一大国     壱岐   3千許家、官は卑狗、副は卑奴母離。

末盧国     肥前国松浦郡(佐賀県唐津市)    4千余戸。

伊都国     福岡県糸島市南部   千余戸、官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚、王あり。

奴国       福岡市東部、太宰府市、春日市   2万余戸、

官は兕馬觚、副は卑奴母離。

不弥国     福岡県糟屋郡   官は多摸、副は卑奴母離  千余家。  この3国は一体

投馬国     福岡県古賀市、福津市、宗像市、遠賀郡、北九州市、

官は彌彌、副は彌彌那利    5万余戸。

邪馬臺国    筑後川流域周辺、官は伊支馬、次は弥馬升、次は弥馬獲支、次は奴佳鞮

7万余戸。

斯馬国     筑前国志摩郡(福岡県糸島市北部の半島)

已百支国    福岡県直方市、宮若市。

伊耶国     福岡県飯塚市

都支国     福岡県田川郡

弥奴国     山口県下関市

好古都国    福岡県京都郡(みやこぐん)

不呼国     福岡県行橋市、豊前市。

姐奴国     大分県中津市

対蘇国     阿蘇国(熊本県阿蘇市)

蘇奴国     菟狭国(大分県宇佐市)

呼邑国     大分県国東半島

華奴蘇奴国  大分市、別府市、由布市。

鬼国       大分県臼杵市、津久見市、佐伯市。

為吾国     福岡県嘉麻市

鬼奴国     大分県由布市、竹田市、豊後大野市。

耶馬国     耶馬渓、山国川上流域。

躬臣国     大分県玖珠町

巴利国     福岡県筑紫野市(ちくしのし)

支惟国     肥前国基肄郡(佐賀県三養基郡)、鳥栖市。

烏奴国     佐賀県佐賀市、小城市。

奴国

最後の奴国は5番目に記された奴国と同じだと考えています。倭国の中心は「奴国」だと云う強調の意味で、最後にもう一度記されたのでしょう。

狗奴国     邪馬台国の南、熊本県、男王有り、女王に属さず倭国と対立。

  

2年前の投稿で、「投馬国」の比定地は、福岡県東部、大分県、山口県としましたが、今回修正して、201年の「出雲の国譲り」で獲得した大国主命の支配地であった「葦原の中津国」(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)を投馬国として改めました。

「葦原の中津国」とは、葦の茂った原野を大国主命が開拓していったもので、大国主命が開拓する際に、葦を刈り取った穂をうず高く積み上げてそれが山のようになった。

この由来により、「葦引きの」が「山」の枕詞になった。

  あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

柿本人麻呂

記紀の記述では、本来の出雲国(島根県)とは別に、当地も「出雲」としており、出雲族(大国主命)の北部九州支配地のことです。

以上のように倭国は、現在の福岡県、佐賀県、大分県及び長崎県の対馬と壱岐の範囲に収まる28ヵ国で、1国は現在の市町村程度の大きさです。その中心は奴国で、現在に至るまで福岡市が九州の中心として発展してきています。

3世紀の倭国の政治・経済は奴国を中心として行われ、伊都国には税関・検察・迎賓館などが置かれ、不弥国には倭王(卑弥呼)の宮があって、祭祀・儀式が行われていたと考えられる。

奴国・伊都国・不弥国の3ヵ国は一体として運用され、倭国を治めていた。

卑弥呼(親魏倭王、179年-247年)の在位は、201年から247年までの46年間で、卑弥呼の宮は次の三か所が考えられる。

香椎宮   福岡県福岡市東区香椎4丁目16-1(奴国)

伊野天照皇大神宮   福岡県糟屋郡久山町猪野604(不弥国)

小山田斎宮   福岡県古賀市小山田346(投馬国)

「倭王卑弥呼の宮」は、奴国(福岡市東部)の東隣りの不弥国(福岡県糟屋郡)にあったと考えられるので、②の伊野天照皇大神宮周辺が宮跡ではないかと考えています。

当地は、奴国の聖地である志賀島(「漢委奴国王」金印出土地)の18km真東にある。

皇大神宮の近くの久山町山田232に神功皇后小山田邑斎宮跡があるので、当地も有力です。

糟屋郡には、「伊弉諾尊が禊祓いをした」“日向の川の落ち口の橘の檍原”があり、海人族が航海のランドマークにした立花山もあります。      

糟屋郡粕屋町の航空写真を見ていると、賀与丁公園(かよいちょうこうえん、駕輿丁池遺跡群)が「倭王卑弥呼の宮」かもしれないなと思いました。福岡空港の4.5km北東にあります。

糟屋郡には、その他にも引き付けられる地形が幾つかあります。

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# by enki-eden | 2019-09-25 10:37

丹波道主命は川上麻須の娘・川上麻須郎女を妃とし、日葉酢媛を産んだ。日葉酢媛は11代垂仁天皇(西暦265年頃-310年頃)の皇后となった。

「丹後旧事記」によると、「川上麻須(麻須良)は丹後国熊野郡川上庄須郎(すら)に館を造る」とあるが、現在の地名では京都府京丹後市久美浜町須田(すだ)と考えられている。

当地の久美浜町須田天王谷132には衆良(すら)神社が鎮座しており、祭神は河上摩須。川上麻須はここに住んでいた丹後海部氏の豪族であろう。当地を丹後海部氏の本拠地とした。

川上麻須は3世紀後半に、海岸に近い久美浜町甲山亀石に丸田神社を創建、宇氣母智命(豊受大神)を祀った。川上麻須は海部氏8世孫の日本得魂命(やまとえたま、本拠地葛城高尾張)とほぼ同じ時代の丹後国の海部氏である。

更に、川上麻須は久美浜町海士(あま)に矢田神社を創建、建田背命(海部氏6世孫)、和田津見命、武諸隅命(海部氏7世孫)を祀った。地名の「海士」が示すように、当地は海部氏が住んでいた。

   

海部氏は京都府宮津市大垣にも進出し、丹後国一宮・「籠神社(このじんじゃ)」を創建、祖神の天火明命を祀った。宮津市と京丹後市は丹後半島を挟んで東西に隣接している。

赤のアイコンが衆良神社、黄が籠神社。


京都府京丹後市久美浜町に鎮座の神谷太刀宮神社(かみたにたちのみやじんじゃ)は丹波道主命を祀る。当社は丹波道主命の宝剣「国見の剣」を祀ったので、「国見」から地名の「久美」・「久美浜」が生じた。


  

丹波道主命の墳墓は丹波篠山市東本荘の「雲部車塚古墳」140m)と考えられている。


   図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

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10代崇神天皇(251年-301年)が四道将軍の一人として丹波に派遣した「丹波道主」は日本得魂(丹波道主、海部氏8世孫)だと私は考えています。

「勘注系図」によると、崇神の時代(3世紀末)、京都府舞鶴市と福井県高浜町の境の青葉山(693m)に土蜘(つちぐも)の陸耳御笠(くがみみのみかさ)と匹女(ひきめ)がおり、人々を苦しめた。それで、日子坐王と日本得魂が勅命によりこれを討った。

日本得魂の妹は竹野媛(大倭姫、天豊姫)で、臺與と同一人と云う説もありますが、名前はよく似ていても年代と拠点が臺與とは違っている。

竹野媛は西暦250年から260年頃の出生、拠点は大和国葛城高尾張、臺與は235年頃出生、拠点は筑紫の倭国。

4代懿徳天皇(211年頃-262年頃)の皇后もよく似た名で、天豊津媛と云う。

日本得魂の娘に日葉酢媛など4人の娘がおり、垂仁天皇の皇后や妃となったのではないか。

「丹波道主」は個人名ではなく、丹波国を治める官職名だと考えられ、丹波道主を称する豪族は代替わりで複数いたのでしょう。日本得魂命、彦湯産隅命、丹波道主命(彦坐王の皇子)などが「丹波道主」の職を継承していったのでしょう。

日葉酢媛の母親は川上麻須郎女で、父親は日本得魂ではないかと私は考えています。

   

山代之大筒木真若王は日本得魂の同族だと考えています。山代之大筒木真若王と丹波能阿治佐波毘売との皇子が「迦邇米雷王」で、その孫が神功皇后です。系図の年代はその後に変更したものもあります。

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# by enki-eden | 2019-09-17 09:31

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)井中20   無料駐車場あります。

祭神 沖津比古命(おきつひこのみこと)、沖津比売命(おきつひめのみこと)。

    大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の子神で、神道の

    「かまどの神様」、「台所の神様」。

    「産霊の火」と「祭神の水」の二つの力のある生産発展の神様。

    沖津比売は大戸比売(おおへひめ)と云う別名があり、沖津比古の妹。

    竈(かまど)の燃え残り火を熾き(おき)と云ったので、沖津比古・沖津比売の名が生まれた。

    竈を「ヘッツイ」と云うので、大戸(おおへ)比売の名が生まれたとも云う。


創建 97499日、元今瀧寺満慶上人の勧請による。

神仏習合時には、「竈の神」は「荒神」と呼ばれるようになって一般家庭に浸透していき、

当社は「天一位三宝大荒神」と称していたが、明治になって火産霊神社と改称した。

三宝荒神については、「清荒神(きよしこうじん)」をご参照ください。

  


   鳥居

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   拝殿と右に日向稲荷社(日向山頂より遷座)、日向山は7.5km南東の向山(569m)か。

その右に末社、菅原道真の天満天神社と大山祇命の山ノ神社を合祀した。

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   本殿

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   本殿左の末社は、三社を合祀した。

御霊神社(吉備真備等八所神で、病と天変地変から守る神)、

於米神社(米作豊熟の神)、

道祖神(村の外からの病と災いを遮る神)。

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# by enki-eden | 2019-09-09 08:40

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町新郷(ひかみちょう しんごう)1860  電0795-82-0018

鳥居前に無料駐車場。

丹波国氷上郡、白山の麓に鎮座。

祭神 彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと、天照大神の孫)、

     穀霊大市姫命(たなつみたまおおいちひめのみこと、神大市姫命)。

事業成功、五穀豊穣。

瓊瓊杵尊は古来より領主や武将の崇敬が篤かった。

神大市姫は大山祇神の娘で、素戔嗚尊の妻として饒速日命と宇迦之御魂を産んだ。

カーナビの誘導でははっきりしなかったが、何とか到着。神社の西には氷上カントリークラブがあり、昔、ここで友人とゴルフをしたことを思い出しました。


古代には、加古川は氷川(ひかわ)と呼ばれ、当地名の由来は氷川の上流にあるので氷上町(氷上郡)になったと考えられる。

加古川(氷川)下流域にある岡は日岡と呼ばれ、「日岡神社」が鎮座、JRの駅は日岡駅、村の名は氷丘村と云われていた。現在でも氷丘小学校、氷丘中学校がある。

伊尼神社は29代欽明天皇(509-571年)の6世紀半ばの創建で、伊知宮大明神(一宮大明神)と称していた。また、氷上郡沼貫村(ぬぬきむら)にあったので、沼貫神社・奴々岐神社(ぬぬきじんじゃ)とも称していたが、1941年に伊尼神社に改称した。

2km東南の氷上町稲畑(旧・氷上郡沼貫村)にも奴々岐神社(ぬぬきじんじゃ、高皇産霊神)があるが・・・

   灯篭、社号標、石の大鳥居。

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鳥居を入って右手に鐘楼。神仏習合時の名残か。

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拝殿

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本殿、春日造り銅板葺き。

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左から、春日神社(伊波比主命、天児屋根命、比売神)、恵比寿神社(事代主命)を合祀。

     山神神社(大山祇命)、豊村稲荷神社を合祀。

     風神ノ社。

伊波比主命は経津主命の別名で、千葉県香取市の香取神宮の祭神。

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右は、祓戸神社(瀬織津比売神、速開都比売神、氣吹戸主神、速佐須良比売神)、

左は、日向神社(天照大神)。

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# by enki-eden | 2019-09-03 01:30

兵庫県丹波市山南町谷川3557  電0795-77-0456  無料駐車場あります。

丹波国氷上郡鎮座の式内社、丹波の守護神として9世紀頃に丹波国造が創建。

16世紀半ばに3km北西の山南町金屋から現在地に遷座した。

当社の前を流れる山田川は篠山川に注いで合流し、篠山川は加古川に合流する。

祭神 

高倉下命(たかくらじのみこと)、

天火明命(あめのほあかりのみこと)、建田背命(たけたせのみこと)、

比売命(ひめのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、

建御雷命(たけみかつちのみこと)、伊邪那美命、保食命(うけもちのみこと)、

菅原道真命、品陀別命(ほんだわけのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、

大国主命、大雀命(おおさざきのみこと、仁徳天皇)。

1911年に近くの8神社を合祀したので祭神が多くなった。


主祭神の高倉下命は神武東征に登場する。神武軍が紀伊の熊野で大熊の毒気に冒されたので、天照大神と高木神が高倉下に霊剣を授け、高倉下は神武天皇(181-248年)に献上する。

神武軍はたちまち力を取り戻し、敵を従えた。この霊剣が布都御魂剣で「石上神宮」に奉納されている。   

高倉下命は天香語山命(西暦155年頃出生)と大屋津比売命の子で、丹波国造の祖。

天香語山は子の天村雲(天牟良雲)と共に、饒速日の東遷(185年頃)に従って、大和国にやって来た。天村雲の子孫は伊勢に移り、度会氏(わたらいし)となり、伊勢神宮外宮の神主を世襲した。

天香語山は大和国から尾張国に行き尾張国の基礎を造り、越国まで行って開拓した。越後国一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ、やひこじんじゃ、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2)に祀られ、奥の宮に妃神の塾穂屋姫命(うましほやひめのみこと)と共に埋葬された。

天香語山命(伊夜比古大神)は越後国開拓の祖神として信仰されており、神体山の弥彦山(634m)に奥の宮(神廟)がある。

海部氏系図   図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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先代旧事本紀の国造本紀によると、初代丹波国造は13代成務天皇の御世(4世紀)に、建稲種命(たけいなだねのみこと)の四世孫の大倉岐命(おおくらきのみこと)を国造に定めたとある。

丹後一宮(元伊勢)の「籠神社(このじんじゃ)」の宮司は代々海部氏が務め、海部直(丹波国造)の後裔を称している。

海部氏系図(国宝)によると、大倉岐命は彦火明命の16世孫となっているが、10世孫の間違いです。海部氏系図に青字で1610)と記したように、16世孫ではなく10世孫です。

8世孫から13世孫までは尾張氏の系図で、14世孫から22世孫までは海部氏の系図です。そして、8世孫の日本得魂命(川上真若命)と14世孫の川上真稚命は同一人物か、兄弟・従弟だと思います。つまり、並列する同族の尾張氏の系図と海部氏の系図を直列に繋いでいます。

海人族の彦火明命(彦火火出見命)の8世孫(3世紀後半)あたりから尾張氏と海部氏に分岐し、尾張氏は尾張国造となり、海部氏は丹波国造となった。

   高座神社は神仏習合時には「高座大明神」と称していた。

入口の大鳥居と社号標、奥に随神門。

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   参道を進むと、石の鳥居(丹波市指定文化財)と拝殿。

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本殿(1706年築造)、桧皮葺きの流れ造り、兵庫県指定の重要文化財。

今年になって国の重要文化財にも指定された。解体修理されたので美しい。

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本殿の右に二宮神社(大己貴命と少彦名命、医薬の神)とその右に皇大神宮(厄除け)。

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 本殿の左に五大神社(八幡大神と春日大神)

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 樹齢400年、樹高20mのフジキ、兵庫県の天然記念物。

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 本殿左後方の山道(参道)を登って行くと奥の宮が鎮座、登りが結構きつかった。

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# by enki-eden | 2019-08-27 01:21

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)賀茂1

神社南の細い道を入ると駐車場があります。

祭神 別雷神(わけいかづちのかみ、賀茂別雷神)

    京都の「上賀茂神社」(賀茂別雷神社、山城国一之宮)から勧請。

 

創建 8世紀末頃

県道109号線沿いに鎮座。


(賀茂)別雷神の系図

賀茂建角身命

       |-------------賀茂玉依比売命

神伊可古夜比売命     |-------------------賀茂別雷神

(丹波国神野の国神)   火雷神(ほのいかづちのかみ)

火雷神については、「角宮神社」「向日神社」をご覧ください。

 

入口の灯篭と鳥居

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   二の鳥居にかかる神額は「両部額」になっている。私はこの形が好きです。

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社殿

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   境内社は、大森神社、廣峯神社、貴船神社、大神宮神社・高宮神社、天満神社、山祇神社。

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  境内左奥に蛇石神社、

  境内に蛇池があり、龍の彫刻の神石を埋納していた。雨乞い祈願の時に掘り出した。

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# by enki-eden | 2019-08-20 08:34

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)御油(ごゆ)40-2

鳥居の向かいに駐車できます。

丹波国氷上郡の延喜式内社、加古川上流西の山裾に鎮座。

祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)、

    嵯峨天皇(52代天皇、786-842年)。

    元は、神野伊加許也姫神(かんのいかこやひめがみ)を祀っていた。

創建は59代宇多天皇(867-931年)の時代の9世紀末頃。 氷上に滞在した左大臣源融(みなもとのとおる、822-895年)が創建、賀茂別雷命と源融の父・嵯峨天皇を奉斎したと云う。

源融は紫式部(978-1016年)の源氏物語の主人公・光源氏のモデルの一人と云われる。小倉百人一首には、源融が「河原左大臣」として歌が残っている。

陸奥(みちのく)の  しのぶもぢずり  誰ゆゑに  乱れそめにし  我ならなくに

 

当社は1424年頃に円通寺に土地を譲り、450m北の現在地に遷座、賀茂野神社と称した。丹波市には賀茂神社が多い。


賀茂郡は全国にあるが、播磨国賀茂郡(小野市、加西市、加東市、西脇市、多可郡多可町)は丹波国氷上郡(丹波市)の西南に隣接しているので、氷上郡と同じように賀茂氏の支配・影響を受けて賀茂国となり、後に播磨国賀茂郡になったと考えています。

氷上郡は加古川上流にあり、氷上郡の地名由来は、加古川は古代には「氷川、日川」と呼ばれていたので、氷川の上流域にある地を「氷上」と呼んだと考えています。

加古川(氷川、日川)下流域の岡を「日岡、氷丘」と呼び、日岡神社、氷丘小学校、氷丘中学校もある。

 

当社の元の祭神・神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)は丹波国神野の国神で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に嫁ぎ、玉依比古命(たまよりひこのみこと)と玉依比売命を生む。

玉依比古命は賀茂県主(かものあがたぬし)となり、京都にある賀茂神社の社家となる。賀茂神社は賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称である。

玉依比売命は父の賀茂建角身命とともに「下鴨神社」に祀られている。玉依比売は男子を産むが、祖父の賀茂建角身命が男子に「汝の父と思う人に酒を注げ」と言ったところ男子は天に向かって昇天した。そこで賀茂建角身命は男子を賀茂別雷神と命名し、「上賀茂神社」に祀られている。

201312日投稿の「盟酒(うけいざけ)」をご参照ください。

 

賀茂建角身命を祖とする賀茂県主(賀茂氏・鴨氏)は山城国へ進出、丹波国にも進出した。当地丹波は京都賀茂神社の荘園となったので、盛大に祀られている。

和珥(わに)氏は大和春日から山城国へ進出、近江へと進出した。賀茂氏と和珥氏は皇室とも縁の深い海人族である。

鳥居と社号標、鳥居をくぐると山から流れる小川に石橋が架かっている。

鳥居の後方に大きなご神木の檜があり、樹齢500年、幹回り2.86m、高さ41m、市指定文化財。

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本殿は兵庫県と氷上町の指定文化財、室町時代末期に建てられた。

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   本殿右に稲荷大神

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# by enki-eden | 2019-08-14 09:22

兵庫県丹波市山南町和田138  電0795-76-0059  駐車場は鳥居の奥に進む。

丹波国氷上郡鎮座の延喜式内社、

往古は和田村下河原に鎮座していたが、1640年頃に現在地に遷座した。

当地は「薬草の里」で、1月の第3日曜日に行われる厄除大祭の宵宮祭(土曜日)に地元の薬草で作った茅の輪をくぐって1年の平穏を祈願する。

当社の1km南西に丹波市立の「薬草薬樹公園」がある。

 

祭神 若沙那売命(わかさなめのみこと、子授け、安産、健康長寿、大歳神の孫)、

    八幡大神(厄除け、1700年に白川神祇伯王より勧請)。

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若沙那売命の祖父は大歳神、祖母は天知迦流美豆比売神(あめちかるみずひめのかみ)、父は羽山戸神(はやまとのかみ)、母は大気都比売神(おおげつひめのかみ、阿波国・徳島県)。

若沙那売命は稲(いね、のちの)を司り、早乙女のように若くて清らかな少女神。

  入口の灯篭、社号標、鳥居。 ここから車で進み駐車場に停める。

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参道の階段を登ると拝殿。 健康長寿、交通安全、厄除け開運、心願成就。

拝殿の左に一の宮・猿田彦神社(方除け、鬼門除け、縁結び)。

境内社は7社あり、一の宮から七の宮まで順番に巡るようになっている。

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本殿、1758年の再建。入母屋造りの桧皮葺き。

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   二の宮・恵比寿神社(商売繁盛、社運隆昌、立身出世)と

   三の宮・稲荷神社(商売繁盛、家内安全、開運招福、病気平癒)、2月に稲荷祭。

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   四の宮・弁財天(水の恵み、水難除け、芸事上達)と

   五の宮・愛宕神社(火難除け、火の恵み、防災)。

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六の宮・厄除神社(須佐之男神、厄除け、無病息災)、

1月第3土・日は厄除け大祭が執り行われる。

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七の宮・天満宮(学業守護、合格祈願、スポーツ上達)

725日の天神祭(夏祭)は多数の参拝者で賑わう。

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   丹波猿楽の面掛神事能の舞堂。

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# by enki-eden | 2019-08-07 00:36

壱岐の弥生時代

壱岐市教育委員会社会教育課文化財班の松見裕二氏が、720日(土)に「魏志倭人伝に記された一支国の世界」について、兵庫県立考古博物館で講演されました。

松見氏は佐賀県生まれ、別府大学文学部史学科卒業後、福岡県小郡市嘱託職員として、壱岐市芦辺町役場に学芸員として勤務。

2006年に長崎県文化・スポーツ振興部に出向、2009年より「壱岐市立一支国博物館」の学芸員として業務をされています。

スポーツマンらしく、はつらつとした好感の持てる方で、各地で講演会に出演されています。

長崎県壱岐市は、人口26,500人の4町で構成され、九州と朝鮮半島の間の玄界灘にある島で、対馬島とともに古代より東アジアとの交流の拠点として重要な役割を担っている。

壱岐市は、本島に加え、4島の有人島、17島の無人島からなり、東西15km、南北17kmの島である。

阿蘇カルデラは東西18km、南北25kmなので、いかに大きなカルデラか分かる。屈斜路カルデラは更に大きい。(青い文は印南神吉の意見です。)

壱岐島は対馬島の5分の1の大きさで、玄武岩質でできているので地盤は比較的安定している。

壱岐島への交通手段は船が主で、芦辺港と郷ノ浦港から博多港(76km)もしくは対馬島厳原港(76km)まで高速船で60分、フェリーで130分、石田印通寺港から佐賀県唐津東港までフェリーで100分かかる。

飛行機は壱岐空港から長崎空港まで30分で行ける。

壱岐島は、平戸藩「松浦氏(松浦水軍)」の所領であったので、明治の廃藩置県で「平戸県」となり、府県統合で「長崎県」となった。

対馬島は、厳原藩「宗氏」の所領であったので、廃藩置県では「厳原県」となり、1871年に佐賀県と統合して「伊万里県」となる。翌年に、長崎県に転県した。

対馬も壱岐も福岡県が近く、関係も深いので転県を希望している住民もいるが、政治的圧力で実現していない。

対馬は男性の島と云われるのに対し、壱岐は女性の島と云われる。


魏志倭人伝には一大国(一支国)について、57文字が記されている。「対馬国から南に千余里、海を渡ると一大国に至る。一大国も対馬国と同じく主官の卑狗、副官の卑奴母離がいる。

島の大きさは三百里ほど、竹木が茂り、林が多い。三千ばかりの家があり、島内には米を作る田地があるが、みんなが食べるだけの量はなく、南や北と交易をして暮らしている。」

国特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡

長崎県壱岐市芦辺町・石田町

弥生時代全般~古墳時代初頭の遺跡(2200年前から1600年前)。

原の辻遺跡は壱岐島の南東側、長崎県で2番目に広い平野である「深江田原(ふかえたばる)」にある「一大国(一支国)の王都」、「海の王都」。

遺跡の近くを幡鉾川(はたほこがわ)が流れ、流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原」といった平野部が広がり、下流には「内海湾(うちめわん)」が広がっている。

原の辻遺跡は丘陵の最頂部(標高18m)にある祭儀場を中心にして、標高10m前後の丘陵上に居住域が広がり、その周りを多重の環濠で取り囲んだ大規模環濠集落跡である。

海を渡る渡来人とそれを迎える倭人との対外交流の拠点となった舞台が「原の辻遺跡」だった。幡鉾川の横に船着き場があった。大きな船でやってきて、内海湾で小さな船に乗り換えて幡鉾川に入り、船着き場に到着、すぐ前に「原の辻遺跡」がある。


「原の辻遺跡」出土の鉄製品は、農機具、工具、武器など実用品である。青銅製品は、青銅鏡、銅剣、銅銭、鋤先、権(棹秤のおもり)、銅鏃、銅釧などがあり、祭器が多い。

中国から占いが伝わり、ト骨が出土しており、ヒビの方向で吉凶を占った。

出土した「人面石」は祖霊祭祀の場で使われた祭器と考えられる。

カラカミ遺跡

長崎県壱岐市勝本町立石東触・仲触(ひがしふれ・なかふれ)、壱岐島の北西部。

2200年前~1700年前の遺跡で、原の辻遺跡とは対照的に30mから90mの高台にある環濠集落で、現在の香良加美神社を中心にして、扇形に拡がっている。漁業や交易に従事していた。

V字型の環濠(大溝)で囲まれていた。

炉跡や鉄製品加工用石製道具が発見されており、鍛冶作業が行われていた。

遼東系の瓦質土器が出土し、「周」と云う文字が書かれていた。周は人名と考えられる。

日本最古の家猫の骨が出土、弥生時代に渡来人が家猫を持ち込んだ。

一支国の王都として、交易の盛行とともに栄えた「原の辻遺跡」も古墳時代になると衰退し、滅亡したと考えられる。交易の海路が変更され、壱岐島を経由せずに対馬島から直接博多湾岸の奴国へ航行するようになった。

潮待ちや暴風避けのために壱岐島に立ち寄ることはあったと考えられるが、単なる通過点に過ぎなかった。海上交易都市ならではの盛衰の歴史である。

対馬国は奴国と連携し、一支国(壱岐国)は伊都国と連携していたので、北部九州の中心国である奴国との繋がり方に違いがあった。

***

印南神吉の意見

弥生時代から現代にいたるまで2300年間、九州の中心地は常に博多(筑前国)であった。博多湾岸一帯には揚子江(長江)周辺からやってきた呉人が奴国を建国、紀元前1世紀の首長である「五柱の別天神(ことあまつかみ)」と1世紀から2世紀の奴国王である「神世7代」が基盤を築いた。

初代奴国王の国常立尊は偶然にも西暦元年出生で、奴国の始まりは西暦元年となる。4代目奴国王の角杙尊(西暦60年頃出生)が北部九州28ヵ国を統率し、倭王帥升となり7代目の伊弉諾尊まで続く。呉人のY染色体ハプログループはO1b2(O2b)である。

西暦180年代の倭国乱の責任を取り、伊弉諾尊が淡路島に隠遁した後の倭王は、卑弥呼(179年-247年)と臺與(235年頃-295年頃)の女王が務めた。

倭国乱の影響により、西暦185年頃の饒速日東遷、彦火火出見が204年に筑紫を出発し、211年に大和国で初代神武天皇として即位、270年頃に臺與が五十瓊殖(いにえ、10代崇神天皇)を伴って大和国に東遷、列島の中心地が北部九州から大和国(奈良県)に遷った。

臺與は280年頃に箸墓古墳を完成、九州から運んだ卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。臺與も295年頃に亡くなり、前方部に埋葬された。

***

古代史と関係ありませんが、大丸須磨店で企画されていた「夏休みパラダイスin須磨」で予定の「防衛省 自衛隊の車両がやってくる」(7/2728開催)イベントが中止されました。

大丸須磨店は「諸般の事情により、急遽中止させていただくこととなりました。お客様には大変ご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳ございません。」と云っている。

中止させたのは「新日本婦人の会 兵庫県本部」で、須磨支部は「朗報」だと投稿した。これに対して賛成意見、反対意見のネット議論が起きている。

「神戸は震災復興で自衛隊に助けられた」、「子どもから老人まで自衛隊を知ってもらう機会が大切」と批判する声もある。

中止を申し入れた新日本婦人の会は「災害救助に当たる自衛隊を批判しているのではない。私たちは安保法制成立や改憲の動きの中で、自衛隊の在り方に危機感を持っている」と云っている。

美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長は、「実に情けない。みんな自衛隊には感謝しているんだよ」。

「ヒゲの隊長」として知られる元自衛官の佐藤正久参院議員(自民)は「国民から自衛隊を遠ざけるのではなく、自衛隊を国民に知ってもらうことは極めて大事」と投稿し、“イイネ”が多数寄せられたと云う。

私の個人的な意見は、賛成するも自由、反対するも自由だと思いますが、大丸須磨店が偏ったイデオロギーの10名の中止要求に応じ、中止してしまったことが大問題だと考えています。

大丸須磨店長の事なかれ主義は自己保身の表れで、夏休みの子どもの楽しみを奪われた母親からクレームを受けていることでしょう。

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# by enki-eden | 2019-07-31 00:02

壱岐の古代文化展

兵庫県立考古博物館で、「壱岐の古代文化 海をめぐる生業と交流」と題して展示会が開かれています。720日から91日までの開催で、長崎県壱岐市立「一支国(いきこく)博物館」と兵庫県立考古博物館の連携企画展になっています。

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長崎県壱岐市教育委員会教育長の久保田良和氏の開催のことば、

『壱岐島は、太古より海上交通の要衝、対外交流の拠点として重要な役割を果たしてきました。

旧石器時代より現代に至るまで、途切れることなく東アジア諸国との交流の歴史を刻み続けてきた壱岐島には、その歴史を垣間見ることができる史跡や文化財が島内各地に残っています。

島内に残る①国特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡、②国史跡 壱岐古墳群、③国史跡 勝本城跡、④生池城跡(なまいけじょうあと)、⑤カラカミ遺跡、⑥岳の辻、⑦内海湾(うちめわん)、⑧国重要文化財 原の辻遺跡出土品1670点、⑨国重要文化財 双六古墳出土品412点、⑩国重要文化財 笹塚古墳出土品162点の計10件の史跡や文化財が平成27424日に「日本遺産」として認定されました。

今回は、令和元年度離島活性化交付金を活用し、壱岐島の日本遺産及び島の魅力を広く情報発信する企画展を兵庫県立考古博物館にて開催いたします。本企画展を通じて、兵庫県と壱岐島の繋がりを知っていただくと同時に、国境を越えた東アジア諸国との交流によって構築された“壱岐島の歴史”を見ていただき、今まで以上に皆様が壱岐島への関心と興味を持っていただければ幸甚に存じます。

おわりに、本企画展に格別なご指導・ご協力をいただきましたすべての皆様に心からの感謝を申し上げ、開催のことばといたします。』

人面石(じんめんせき、国重要文化財)、国特別史跡の「原の辻遺跡」出土。

弥生時代後期(2000年前~1700年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

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左は碇石(いかりいし)、右は石錘(せきすい、漁網に使うおもり、国重要文化財)。

いずれも「原の辻遺跡」出土、壱岐市立一支国博物館所蔵、弥生時代(2300年前~1700年前)。

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甕棺(かめかん)、「原の辻遺跡」出土、弥生時代後期(2000年前~1700年前)、

壱岐市立一支国博物館所蔵。甕棺は北部九州海人族と共通。

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石斧(せきふ、国重要文化財)、「原の辻遺跡」出土、弥生時代(2300年前~1700年前)、

壱岐市立一支国博物館所蔵。

右端は柱状片刃石斧(ちゅうじょうかたばせきふ)、神戸市西区の「玉津田中遺跡」出土、

弥生時代(2300年前~1700年前)、兵庫県立考古博物館所蔵。

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銅鏃(どうぞく)と鉄鏃(てつぞく)、いずれも国重要文化財、「原の辻遺跡」出土、

壱岐市立一支国博物館所蔵、弥生時代(2300年前~1700年前)。

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金銅製パルメット文飾金具(パルレットもんかざりかなぐ)、国重要文化財、

国史跡「双六(そうろく)古墳」出土、壱岐市立一支国博物館所蔵、古墳時代後期(1400年前)。

パルメット文は鞍金具によく使われた。古代メソポタミアで始まり、シュロ(palm)が語源。

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金銅製心葉形杏葉(しんようがたぎょうよう)、国重要文化財、国史跡「笹塚古墳」出土、

壱岐市立一支国博物館所蔵、古墳時代後期(1400年前)。

馬具を装着するための革帯から垂下する杏葉(ぎょうよう)。

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左は金銅製貝飾付辻金具(つじかなぐ)、右は金銅製雲珠(うず)、いずれも国重要文化財、

辻金具も雲珠も馬具の革帯が交差する部分を留める金具。

国史跡「笹塚古墳」出土、古墳時代後期(1400年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

右端は、貝製飾金具、三木市の「窟屋1号墳」出土、古墳時代、兵庫県立考古博物館所蔵。

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中国北斉製二彩陶器(にさいとうき)、国重要文化財、国史跡「双六(そうろく)古墳」出土、

古墳時代後期(1400年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

北斉(550年-577年)は南北朝時代に東魏の実権者・高洋が帝位を奪って建国した。

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金銅製亀形飾金具、国重要文化財、笹塚古墳出土、古墳時代後期(1400年前)、

壱岐市立一支国博物館所蔵。

馬具の金具に亀形(スッポン?)を使うのは他に例がないのでは。

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「周」文字線刻遼東系瓦質土器、「カラカミ遺跡」出土、壱岐市立一支国博物館所蔵、

弥生時代後期(2000年前~1700年前)。「カラカミ」は「加羅神」のこと。

文字付の土器は日本最古の発見で、「周」は人名だと考えられる。

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上は中広形銅矛、「天ケ原セジョウ神遺跡」出土、壱岐で出土の銅矛3本の内の1本、

下は鉄製剣(国重要文化財)、「原の辻遺跡」出土、

いずれも弥生時代後期(2000年前~1700年前)、壱岐市立一支国博物館所蔵。

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土器の展示も多く、壱岐の土器はベンガラ着色の赤い土器が多い。鉄素材や鉄製品も展示されていた。ガラス玉、ガラス製勾玉、銅鏡なども展示されていた。

720日(土)に、壱岐市教育委員会社会教育課文化財班の学芸員松見裕二さんの講演会がありましたので、次回に内容を投稿いたします。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-07-24 00:10

兵庫県神戸市西区天が岡676  電078-917-1923  鳥居の向かいに無料駐車場あります。

祭神 23代顕宗天皇(けんぞうてんのう、450年-487年)、

    24代仁賢天皇(にんけんてんのう、449年-498年)、

    27代安閑天皇(あんかんてんのう、466年-536年)。

神社の由緒によると、

『当地は近畿地方で一番早く弥生文化が開け、田を拓いた。

この地の先祖が、紀元前3世紀頃に原始信仰である夫婦和合の謦境をこの峰に祀ったのが創始で、大宮売命(おおみやのめのみこと)を祭る奉上神社として山上に在り、多くの人々に崇拝されていた。

当地は5世紀頃には明石の大王時代に繁栄し、村民はこの峰に古墳を築き、この麓の地に磐座を降ろした。

7世紀以降に天皇の治下になり、子種と安産を祈ると共に天皇家の神を祀り、天文2年(1533年)には天照大神の父、伊弉諾尊を祭る若王子権現として神殿を建てた。

江戸時代に稲の神も合祀したが、明治維新の祭政一致の大政官布告で稲荷の小社を併合し、この地の伝説の3天皇を祭神として稲荷・若宮神社となった。

ここに子々孫々の安らぎと幸せを願い、最新の工法の春日造りの社殿を新築した。』とある。

「大宮売命」は天太玉命の娘で商売繁盛の神。本来は宮殿の平安を守る女神。天太玉命と大宮売命は奈良県橿原市の「天太玉命神社」に親子で祀られている。

 


境内の現在の標高は50mほど。神社の東を櫨谷川(はぜたにがわ)が流れ、1.9km下流で明石川に合流する。

神戸市西区には顕宗天皇と仁賢天皇を祀る神社(顕宗仁賢神社)が多い。21代雄略天皇の粛清により、2皇子は播磨国に逃れ、後の23代、24代天皇となった。

   鳥居と社号標

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   階段を登ると拝殿

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中央が拝殿、

左神殿(向かって右)は高良社(武内宿禰、310年頃-395年頃)、

右神殿(向かって左)は天王社(素戔嗚命、140年頃-200年頃)。

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   本殿

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八幡神社、

向かって右に誉田別尊(15代応神天皇、363年-403年)を祀る。

    中央に伊弉諾尊(125年頃出生)と伊弉冉尊を祀る。

    向かって左に倉稲魂尊(うかのみたまのみこと、165年頃出生)を祀る。

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   磐座

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巌上神社(いわかみじんじゃ、大宮売命)、

弥生時代に山の峰に磐座(いわくら)を祀ったのが始まりで、昭和50年に現在地に遷座した。

子宝、安産、夫婦、家内円満。

 

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    子供がすくすく育つように桃太郎とかぐや姫の石像が奉納されている。

    手前には古代から信仰されている磐座。

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   拝殿の向かいに能舞台

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# by enki-eden | 2019-07-16 02:02

フリーメーソン

フリーメーソンは、キリスト教の最も重要な教理「三位一体」に反対している。三位一体とは、父(神)、御子(イエスキリスト)、御魂(聖霊)が一体であるとする教えで、イエスキリストは神であるとしている。

イエスは人の子ではなく「神の子」で絶対神と同じだと云う教理に対してフリーメーソンは、イエスは偉大な預言者ではあるが神ではないと反対している。

イエスは紀元前4年頃にユダヤのベツレヘムに生まれ、ユダヤ教の会派のひとつ、エッセネ派クムラン教団の信者であったので、イエスの説話はユダヤ教から派生し、キリスト教として誕生した。

西暦30年頃、イエスはエルサレムの「ゴルゴタの丘」で十字架に磔にされ、ゴルゴタの丘とされる地には聖墳墓教会が建てられている。当地には旧約聖書の「アダム」の墓もあったと云われている。

十字架で亡くなったイエスは3日後に復活し、弟子たちの前に現れ、神の国の教えを広く布教するように伝え、オリーブ山から昇天し神となった。

弟子たちはイエスの教えを布教し始めた。布教・伝道活動は、最初はユダヤ教の地域に限られ、信者も大部分がユダヤ人であった。

弟子たちはイエスをメシア(キリスト、救世主)と信じ、「神の子」としたことにより、ユダヤ教と分離対立したので、ユダヤ教ではなくキリスト教としてローマ帝国各地で布教・伝道することになった。

ユダヤ教とキリスト教の影響を受けて、610年頃にアラビアでイスラム教が成立。イスラム教も同じく一神教であるが、預言者で開祖であるムハンマド(571年-632年)は、絶対神と同格になっていないので、キリスト教はイスラム教とも対立することになった。

中世の十字軍遠征により、キリスト教とイスラム教は更に対立が深まった。また、第二次世界大戦後のイスラエル建国(1948年)により、ユダヤ教のイスラエル人とイスラム教のアラブ人の戦いが繰り返されることになる。中近東は、宗教、人種、領土の争いとなり、常に地政学的リスクにより不安定になっている。

やがて、キリスト教徒の中にも、イエスは偉大な預言者であるが神ではないと云う信徒が現れてきた。それは「ユニテリアン主義」と云われ、「三位一体」を否定、「神は唯一絶対」であると主張する。

ユニテリアンは古代の動きもあるが、確かなものは1556年にポーランドにおいて活動を開始している。その後、世界各地に広まっていき、様々な組織・宗派ができた。

正統派のキリスト教徒からはユニテリアンは三位一体を認めないので異端として扱われ、対立している。とりわけ、カトリックとは不仲である。

フリーメーソン(Freemasonry)はこのユニテリアン主義に基づいて16世紀末頃に組織され、「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の基本理念をもつ。会員数は全世界で600万人を超えると云われるが、はっきりしない。現在はもっと少ないかもしれない。

20171219日投稿の「三位一体の否定」をご覧ください。

   

アメリカの大統領でフリーメーソンになった人は、ジョージ・ワシントン(1732年-1799年)を始め多くいる。世界の王族・貴族・芸術家・政治家や有名人にもフリーメーソンが多い。GHQのダグラス・マッカーサー(1880年-1964年)はフリーメーソンであった。

幕末に長崎へ来たスコットランド出身の武器商人・トーマス・ブレーク・グラバー(1838年-1911年)はフリーメーソンで、その影響を受けた岩崎弥太郎(1835年-1885年)、坂本龍馬(1836年-1867年)が入会したと云われ、クラバーの支援で大きな仕事を成し遂げた。

最近では小泉純一郎氏(1942年出生)、高須クリニック院長の高須克弥氏(1945年出生、2012年入会)などがフリーメーソンに入会した。これにより、高須院長の言動が大きく変わっていった。フリーメーソンの堅い友愛と社会的なボランティア活動をする組織であることから影響を受けた結果と考えられる。日本人のフリーメーソンは200人から300人ほどいるらしい。

フリーメーソンが用いるシンボルは「定規とコンパス」、「プロビデンスの目」などがあるが、アメリカの1ドル札のピラミッドの図に「プロビデンスの目」が描かれているのは有名。プロビデンスの意味は「神意・摂理」で、キリスト教において「すべては神の配慮によって起こっている」と云う概念。

「定規とコンパス」のマークは、上にコンパス、下に直角定規のマークで、石工職人のギルドのマークだったことを示している。この「職人団体」としてのフリーメーソンは、近代に「友愛団体」に変わり、大きく変貌して世界中に拡大することになる。会員相互の助け合い精神が会員を勇気づけ、ビジネスの成功に導いていった。

日本の千円札には野口英世(1876年-1928年)が描かれているが、妻のユダヤ系アメリカ人メリー・ロレッタ・ダージス(1876年-1947年)はフリーメーソンだったらしく、野口英世もフリーメーソンと繋がりが深い。千円札を透かして見ると、野口英世の左目が富士山に重なっている。これはプロビデンスの目を意識した図案なのかもしれない。

日銀を造ったのは大蔵大臣の松方正義(1835年-1924年)であるが、ロスチャイルドの意向によって設立された。やがてアメリカのロックフェラー財団が日銀に関わるようになるが、ロックフェラー財団はフリーメーソンである。現在でも日銀に発言力があり、日銀券の発行にも注文を付けているのかもしれない。

一万円紙幣の福沢諭吉(1835年-1901年)、五千円紙幣の新渡戸稲造(1862年-1933年)、千円紙幣の伊藤博文(1841年-1909年)もフリーメーソンであったと考えられる。

また、日本の経済が1990年から30年近く足踏みしているのも、アメリカが日銀の金融政策や為替政策を通じて日本の経済成長を抑え込んでいるのかもしれない。

日銀について、山本正樹氏(1959年出生)のブログ「地方からの情報発信」を少し長いですがご覧ください。   

ヨーロッパの建物にはフリーメーソンのシンボルマークの彫刻が付いていることがある。チェコの首都プラハのマラー・ストラナ広場に建つ「聖ミクラーシュ教会」は、フリーメーソンであったモーツァルト(1756-1791年)と関係があり、教会の青いドームの上に「プロビデンスの目」が金色に輝いている。

フリーメーソンのシンボルマークと云うよりは、多くの組織が「神の全能の目」としてこのマークを使っている。フリーメーソンもこのマークをシンボルマークにした。

このシンボルマークを付けた「バッグ」が販売されており、人気があるようだ。シャツ、帽子、コーヒーカップなども販売されている。    

最近は、トランプ大統領(1946年出生)が一方的にイスラエル寄りの言動をとり、戦争の危険性が高まった。安倍首相(1954年出生)がアメリカとイランの争いを仲介すべく6月にイランを訪問し、ローハニ大統領(1948年出生)と最高指導者のハメネイ師(1939年出生)に会ったが、期待した成果は得られなかった。

そして今度は、日本が韓国に制裁を科すことになった。その理由は、韓国が条約、法律、約束を守らず安全保障上の危険性が増してきたからである。日本が韓国に輸出している半導体製造過程に必要な高純度フッ化水素などが軍事利用できるもので、ウランの濃縮に使われる。従って厳重な管理を義務付けているが、大量のフッ化水素などが行方不明になっている。行く先は北朝鮮やイランに間違いない。

直ちに規制しても、既に行方不明になっているものは軍事利用されてしまっている。今後日韓関係も最悪の状態が続いていく。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-07-09 00:11

チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアに古代のメソポタミア文明が発祥した。最初に、「ウバイド文化」がBC5,500年頃に発生し、BC3,500年頃まで続いた。現在のイラク南部から発生して中部、北部へと発展していった。

ウバイド(Ubaid)では灌漑農業が行われ、銅器が使われたが文字はなかったと考えられる。川や海岸での移動には「葦舟(あしぶね)」が使われた。

楔形文字の発明・使用は、ウバイド文化の次に始まった「シュメール文明」からになる。


メソポタミア南部は川の氾濫による肥沃な土地があるが、雨量の少ない乾燥地帯で森林がなく、鉱物資源もなかったので、人類が生活するには厳しかった。

そんなメソポタミアでウバイド人は灌漑農業を始めて、運河を造り、農具を改良、余剰農産物を輸出して必要な物資を輸入した。これにより、ウバイド文化が開化し、人口も増大していった。

また、集落の中心に神殿を設け、宗教的儀礼が行われた。ウバイド文化は周辺地域に拡散し、現在のシリア、トルコ、レバノン、イスラエル、アラビア半島沿岸部まで拡がった。

ウバイド人は土器を造る時に「ろくろ」を使ったが、ろくろを起源としてBC5,000年以上前に車輪が発明された。

車輪から水車が発明され、灌漑や粉ひきなどに使われた。更に、荷車の発明により物資の運搬が楽になった。

BC2,500年頃になると、牛馬に引かせる荷車を改良した戦車(チャリオット)が造られた。戦車も改良が進み、シュメール、ヒッタイト、イスラエル、アッシリア、エジプト、ペルシャ、ローマ、インドなどでは、戦車で戦いが行われるようになった。

イラク南部のテル・アル・ウバイドという遺丘(いきゅう、テル)で遺跡が発見された。「遺丘」とは同じ場所に何度も繰り返し集落や都市が築かれ、層が重なって丘のように盛り上がった状態の遺跡である。

ウバイド文化初期の「ウバイド1期(エリドゥ期)」のBC5,500年-BC4,800年には、海岸線周辺に集落を築いた。

次の「ウバイド2期(ハッジ・ムハンマド期)」のBC4,800年-BC4,500年には、運河網が張り巡らされ、灌漑農業により効率的に収穫が増大した。

そして、「ウバイド3期、4期」のBC4,500年-BC4,000年には、急速に都市化が進み、メソポタミア全体に拡がっていった。

農業、遊牧、漁労が分業で行われ、中東各地と盛んに貿易を行った。

また、集落の中央には大きな定型的神殿が築かれ、神官が祭祀を執り行い、集落の中枢になっていった。神殿は日干しレンガで造られたが、集落の家は葦を束ねてその上に泥を塗って乾かして造った。集落の家もやがて日干しレンガで作られるようになる。

ウバイドの政治的・経済的・文化的拡大は、周辺地域を支配したり闘争したりせず、平和的・協調的な思想により拡がったと考えられる。女系社会だったようだ。

しかし、BC3,800年頃から気候の乾燥が始まり、メソポタミアでは農業効率が悪くなり、BC3,500年頃にウバイド人はメソポタミアを去っていった。

ウバイド文化のあとのメソポタミアには、シュメール人がBC3,500年頃に最古の「都市文明」であるウルク文化を始め、楔形文字や青銅器を発明し、多数の都市国家を造った。

古代都市ウルク(Uruk)は旧約聖書の創世記にはエレク(Erech、「私は行く」と云う意味)と記されている。ウルクは現在のイラク(Iraq)の国名由来になっている。

ウバイド人は域内でも周辺地域でも協調的・平和的に振る舞ったが、シュメール人は闘争的で、都市国家間の紛争が絶えず、力が衰え、BC2,350年頃にはアッカドのサルゴン王に支配された。シュメール人はBC2,000年頃に東方のインダス川流域に逃亡する。メソポタミアでは多くの国家・民族の興亡が繰り返された。

私見ですが、シュメール人はメソポタミアに来る前はインダス川流域にいたと考えています。シュメール人はインダス川の洪水伝説をメソポタミアに引き継ぎ、シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」、旧約聖書の「ノアの箱舟」などが記されたのではないか。

メソポタミアから逃亡したシュメール人は元のインダス川流域に戻った。「エデンの園」はインダス川流域のことか。

インダス文明はBC2,500年頃からBC1,500年頃までの古代都市文明で、モヘンジョダロやハラッパーの遺跡が有名。民族はドラビダ系と考えられ、縄文人との関連性もある。

BC3,500年頃にメソポタミアから去っていったウバイド人はどこへ行ったのか。

落合莞爾氏(おちあい かんじ、1941年~)によると、ウバイド人はメソポタミアを出て東西に分散し、西へ向かった集団が現在の英国に落ち着いてケルト人(スコットランド人、アイルランド人など)になり、東に向かった集団が日本までやってきて、皇室との縁が深いと云う。

ウバイド人が列島に来たのかどうか、古代ケルトと縄文の共通点を調べてみよう。

霊魂不滅、生贄(人身御供、人柱)、渦巻き紋、アニミズム、太陽信仰、神話・民話の類似、土偶、女系社会、文字がないので語り部の口承など、共通点は多い。

縄文を色濃く引くアイヌの「熊祭り」が古代ケルトにもあったようだ。

縄文時代よりも新しいと思うが、民謡の音階が似ている。日本の家紋「結三柏(むすびみつかしわ)紋」とケルトの「トリケトラ」は、驚くほどよく似ている。

考古学者・歴史学者の松木武彦氏(1961年~)はテレビにもよく出演して歴史の解説をしているが、著書に「縄文とケルト-辺境の比較考古学、なぜか似ている日本とイギリスの遺跡たち」がある。

ウバイド人がメソポタミアを去った頃の日本列島は縄文時代中期で、ウバイド人が列島に来たのであれば縄文文化にも影響を与えたと考えられる。

この頃の縄文集落は規模が大きくなり、土器も大型になる。祭祀用の道具が作られ、祭壇も登場する。

更に時代が下ると、壺に海水を入れて煮沸する製塩が盛んになり、職として専業化する。物々交換の交易も専業化する。この専業化・分業化はウバイドの文化を取り入れた結果かもしれない。

縄文遺跡から環状列石や巨大木柱も発見されている。

18世紀に始まった民主主義と自由主義の体制は、最近少々くたびれた感じがしないでもない。しかし、それに代わる体制を提示できる人もいないので、世界は行き詰まっているように見える。この情勢の中で、ケルトと縄文の「古代ウバイド思想」に基づいた「新しいアイディア」が、日本から発生することを期待できるのではないか。

戦争に負けた国は、王や支配者が抹殺されるか、国外へ逃亡する。第二次世界大戦で敗北したドイツのヒトラー(1889年-1945年)は自殺した。

無条件降伏した日本では、昭和天皇(1901年-1989年)が占領軍の最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880年-1964年)に会い、全ての責任は私にあると云った。それでも日本の皇室は、弱体化されながらも滅ぶことなく、2,000年も連綿と続いている。

それは、日本の皇室がヨーロッパの皇室と「ウバイド繋がり」だからでしょうか。占領軍のマッカーサー元帥がスコットランド貴族の血筋であることも関係するのでしょうか。

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# by enki-eden | 2019-07-03 00:38

紀直氏(きのあたいし)

紀氏に関しては多くの書籍が出版されているが、古文書を見ると、先代旧事本紀の国造本紀に、「神武朝の御世に、神皇産霊命(かみむすひのみこと)の5世孫の天道根命(あまのみちねのみこと)を紀伊国造に定められた。すなわち、紀河瀬直(きのかわせのあたい)の祖である。」として紀伊国造が記載されている。

私見ですが、初代神武天皇(西暦181年-248年)の大和国橿原での即位は、西暦211年と見ているので、「神武朝の御世」とは211年から248年の間(3世紀前半)になります。

 

天道根命は、西暦185年頃の饒速日東遷に従って筑紫からやってきた。祖神の「神皇産霊尊」は出雲国風土記の「神魂命(かみむすひのみこと)」、或いは「伊弉奈彌命(いざなみのみこと)」と同じと云う。

それであれば、天道根命は神皇産霊尊の5世孫ではなく、孫(2世孫)になるが・・・

紀国造家系譜では、素戔嗚尊(西暦140年頃—200年頃)の女(むすめ)地道女命が、神産霊神4世孫の天御鳥命と結ばれ、初代紀国造の天道根命を生む。

出雲国風土記では、神魂命(神産霊神)の子が天御鳥命となっているので、天道根命は神産霊神の孫となり、こちらの方が年代に合う。

紀国造家系譜によると、神皇産霊神の3世孫の大矢女命(筑紫紀氏、海人族)が素戔嗚尊の妃となり五十猛命(西暦160年頃出生)を産んだ(御合 素戔嗚命坐而生 五十猛命)とある。大矢女命は神皇産霊神の3世孫ではなく、年代的には子か孫だと思います。

筑紫紀氏の本拠地「基山」は木山、「紀氏」は木氏で、五十猛の植林に携わっている。海人族の紀氏は造船用の木が必要であった。筑紫紀氏は東遷して紀ノ国(木の国、紀伊国)を造る。

   

神皇産霊尊を祖神とする紀直氏(きのあたいし)は、神武天皇の時代に紀伊国造家となり、紀伊国(和歌山県)の延喜式内社で紀伊国一宮の「日前宮」(日前神宮と国懸神宮)を祀った。

和歌山市伊太祈曽(いだきそ)の「伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)」も紀伊国一宮で、祭神は五十猛命。

和歌山市和田の「竈山神社(かまやまじんじゃ)」は、祭神が彦五瀬命(神武天皇の兄)。

日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社に参詣することを「三社参り」と言う。

  

紀直氏は後に紀宿祢、紀朝臣と称するようになる。

斎部宿祢廣成(いんべのすくねひろなり、平安時代初期)が、西暦803年(延暦22年)に忌部(いんべ)から斎部(いんべ)に改姓した。

斎部廣成が西暦807年に編纂した「古語拾遺」に、「神産霊神、此れ紀直祖也」と記されている。

筑紫紀氏は、福岡県糸島市(伊都国)、佐賀県東部の基肄郡(きいぐん、支惟国)、佐賀県北部の唐津市(末盧国)を拠点としていた海人族と考えられ、素盞鳴命と五十猛命を祖としている。

五十猛命は、対馬国、一大国(壱岐)、末盧国(唐津市)、伊都国・斯馬国(糸島市)、支惟国(基肄郡)の王だったと考えています。五十猛命は素戔嗚尊から九州北西部の統治を任されていた。

五十猛命の子孫の五十迹手(いとて)が、14代仲哀天皇と神功皇后(西暦321年-389年)を三種の神器で穴門の引島(彦島)に迎えると、天皇は五十迹手をほめて伊蘇志(いそし)と云われた。

神産霊神8世孫の紀伊国造・智名曽の妹、中名草姫が尾張氏の建斗米命(天火明命5世孫)と結ばれ、建田背命や建宇那比命等、六男一女を生む。

神産霊神10世孫の紀伊国造・荒河戸畔命の女(むすめ)、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)が、10代崇神天皇(西暦251年-301年)の妃となり、豊鋤入姫命(伊勢斎宮)を生む。

神産霊神12世孫の紀国造宇遅彦命の妹、山下影日売命が武雄心(たけおごころ)命の妻となり、武内宿祢を生む。

紀国造宇遅彦命の女(むすめ)宇之媛命が武内宿祢の妻となり、紀角宿祢(紀臣、紀朝臣の祖)を生む。

紀氏が大和国で祀る神社は、平群坐紀氏神社(奈良県生駒郡平群町上庄5-1-1)で、紀角宿祢は大和国平群県紀里に居住したとある。紀氏と平群氏は密接につながっている。

武内宿祢の系図は、8代孝元天皇―彦太忍信命―家主忍男武雄心命―武内宿禰ですが、私見では彦太忍信命―(   ?   )―家主忍男武雄心命―武内宿禰と考えていました。

紀氏系図や寛永諸家系図伝などによると、彦太忍信命―家主忍男命―武雄心命―武内宿祢となっており、こちらの方が年代に合う。

図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

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神功皇后と武内宿祢の時代は4世紀。15代応神天皇(西暦363年-403年)と16代仁徳天皇は4世紀後半から5世紀前半で、この頃に国内の鎮圧が完成し、治安が維持されたので、大和から盛んに朝鮮半島へ出兵するようになる。

紀氏は、4世紀から6世紀における大和朝廷の朝鮮出兵に重要な役目を担う。中国では南北朝時代(西暦420年-589年)であった。

  

「宋書」の夷蛮伝倭国条によると、「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)が南朝の宋(西暦420年-478年)に朝貢し、官位を求めたとある。宋の都は建康(南京)。

倭の五王が求めた官位とは、「安東大将軍」、「征東大将軍」、「鎮東大将軍」などで、高句麗・百済・新羅・任那・加羅など朝鮮半島における倭の支配権・権益を宋に認めさせたかったが、宋は倭が百済と高句麗を配下に置くことを認めなかった。

その後、百済は倭の配下に入り、人質を差し出した。新羅も倭に人質を出すことがあった。高句麗は北朝との結びつきが強く、倭とは対立関係にあった。(好太王碑)

海人系・軍事系の紀氏も、平安時代になると公家系・文人系も輩出し、紀貫之(西暦872年頃-945年)が最も有名になっている。奈良県桜井市の長谷寺で詠んだ歌、

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける   (百人一首35番)

紀貫之は、西暦905年に60代醍醐天皇(西暦885年-930年)の勅による古今和歌集で仮名文化を立ち上げ、61代朱雀天皇(西暦923年-952年)の西暦935年頃に土佐日記を漢文ではなく仮名で書き、世の中に和の文学を拡げた。後に女流作家の日記文学が出現することになる。

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# by enki-eden | 2019-06-26 00:18

出光商会の創業者・出光佐三(1885年-1981年)の生家は、福岡県宗像市赤間4-11-28(現存し国有形文化財)で藍玉(染料)問屋をしていた。

次男の佐三は地域愛が強く、物心両面で地域振興に尽くした。

出光佐三は神戸高等商業学校(現・神戸大学経済学部)で学び、初代校長の水島銕也(てつや、1864年-1928年)が「士魂商才をもって事業を営め」と説いたのを実践し、人間尊重、大家族主義、消費者本位、真心などを理念として出光興産の前身・出光商会を1911年に創業した。

百田尚樹(ひゃくた なおき、1956年生)の歴史経済小説「海賊と呼ばれた男」は出光佐三をモデルにしており、映画化された。

先日、安倍首相がイランを訪問したが、それに合わせて日本のタンカーがホルムズ海峡付近で攻撃された。

1953年に出光興産社長の出光佐三はタンカー日章丸をイランに出航させ、イギリス海軍の海上封鎖を回避して石油を積んで帰国させた。

イギリスの石油メジャーは出光を処分する提訴をしたが、出光の勝利に終わり、これが石油の自由貿易が始まるきっかけとなった。

出光佐三は子どもの頃から宗像大社を信仰していたが、佐三が多額の寄進をして荒廃した社殿・境内が修復された。

また、沖ノ島に鎮座する宗像大社沖津宮の神宝を学術調査する事業の全資金を出光佐三が提供し、事業の運営にも責任を持って協力した。「出光佐三と宗像大社」YouTubeをご覧ください。

  

大分県宇佐市南宇佐2859に鎮座の宇佐神宮(宇佐八幡宮)は、豊前国一宮の式内社で、八幡宮の総本社になっている。

創建は45代聖武天皇の神亀2年(725年)で、祭神は一之御殿が八幡大神(誉田別尊=15代応神天皇)、二之御殿が比売大神(宗像三女神)、三之御殿が神功皇后となっている。

素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)と天照大神の誓約(うけい)により、西暦160年頃に三柱の比売大神が宇佐で生誕(降臨)、やがて宇佐から宗像(むなかた)に遷り、福岡県宗像市の宗像大社に宗像三女神として祀られた。

宗像大社辺津宮(市杵島姫神)が宗像市田島に鎮座、中津宮(湍津姫神)が宗像市大島に鎮座、沖津宮(田心姫神)が宗像市沖ノ島に鎮座している。

図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

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別の伝承では、三柱の女神は福岡県鞍手郡鞍手町(くらてまち)の六ケ岳(むつがたけ、339m)に降臨、その後、宇佐を経て宗像市赤間(あかま)へ遷ったあと、宗像大社の地に落ち着いたと云う。

日本書紀の「天照大神と素戔嗚尊の誓約」において、「日神(天照大神①)が、生まれた三柱の女神を葦原の中つ国の宇佐嶋に降らせられた。今、北の海路の中においでになる。名付けて道主貴(ちぬしのむち)という」とある。

これは、天照大神①が宇佐で生んだ三女神が、宇佐神宮の二之御殿で祀られている比売大神で、その後、宗像大社でも祀られていると云う記事です。

宇佐神宮由緒記に、「比売大神は天照大神と素戔嗚尊の誓約によって顕れた三柱の女神で、宇佐国造(宇佐氏)らが大元山(御許山、647m)の奥宮・大元神社を中心にして祀った」とある。

2016425日投稿の「八幡神」をご覧ください。  

御許山の西麓から寄藻川が流れ出し、宇佐神宮境内を流れて周防灘に注ぐ。

宗像三女神は、日本から朝鮮・大陸への海上交通の安全を守護する神で、神功皇后の新羅遠征(西暦363年)以降、頻繁に渡海するようになったために大和朝廷により重視され、祭祀が行われた。2014226日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。


京都御苑内の南端にも九條池に囲まれて厳島神社(池の弁天さん)が鎮座している。珍しい唐破風鳥居があり、宗像三女神を祀っている。明治以前は九条家の邸内であった。

その直ぐ北には宗像神社が鎮座、宗像三女神が祀られている。延暦14年(795年)に50代桓武天皇(737年-806年)の勅命により、皇居鎮護の神として宗像三女神が祀られたと云う。

宇佐神宮の3.5kmほど東にある宇佐市出光(いでみつ)を本拠とした出光家は、古代から宇佐神宮の神官を務めてきた宇佐氏の一族で、出光家から宇佐神宮の大宮司が出たこともあった。

江戸時代に出光家は、豊前国宇佐郡から筑前国宗像郡赤間に移ってきた。佐三の自宅から宗像大社辺津宮までは、釣川沿いに9kmほどで、出光佐三は宗像大社を崇敬していた。

辺津宮の社殿は、大島の中津宮と沖ノ島の沖津宮の方角を一直線に向いている。

古代史とは関係ありませんが、お隣さんから頂いたアジサイで「ダンスパーティー」と云う名の種類です。

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# by enki-eden | 2019-06-18 00:39

天伊岐志邇保命(あめのいきしにほのみこと)とも云う。

先代旧事本紀によると、饒速日尊(165年頃出生)が十種の神宝を父・素戔嗚尊(140年頃-200年頃)から授けられ、三十二人の防衛(ふさぎもり)、五部人(いつとものひと)、五部造(いつとものみやつこ)、天物部(あまつもののべ)等二十五部人、船長(ふねのをさ)など大部隊を従えて九州北部から大和国(奈良県)へ東遷した。

私見ですが、饒速日東遷は西暦185年頃のことです。そして、饒速日は纒向(まきむく)を都にした。纏向遺跡で発掘された大型建物を含む3棟の跡に柱が立てられ、建物の軸方向がはっきりと分かる。その方角には穴師山(夏至山、409m)があり、奈良盆地周囲の山には珍しく三角形に尖っている。穴師山は三輪山(467m)の真北にある。

穴師山の山麓には11代垂仁天皇の纏向珠城宮跡があり、少し山を登ると12代景行天皇の纏向日代宮伝承地がある。

箸墓古墳の軸線は穴師山に向いており、しかも「夏至の日の出方向」と一致している。10代崇神天皇陵の軸線も穴師山に向いており、しかも「冬至の日の出方向」と一致している。

大和の霊山・聖地である三輪山だけではなく、穴師山も弥生時代末期から古墳時代にかけて特別な存在であったと考えられる。2015418日投稿の「斎槻岳」をご参照ください。


伊岐志邇保命は饒速日東遷に随伴した三十二人の防衛の一人。高魂尊(たかみむすひのみこと)の孫(高魂尊-思兼命-伊岐志邇保命)で、高皇産霊尊の多くの子や孫が饒速日東遷に随伴した。

西暦180年代の倭国乱、185年頃の饒速日東遷、倭国王・伊弉諾命の淡路島への隠遁、200年頃の素戔嗚の死、201年に卑弥呼の倭国王即位とそれに続く「出雲の国譲り」、204年頃に崗水門(おかのみなと)を出発し211年に大和橿原で即位した初代神武天皇、これに加えて私見ですが270年頃の臺與の東遷、これらはニュージーランドのタウポ火山大噴火による地球規模の異常気象が原因の可能性が高い。

列島の中心地が北部九州から大和(奈良県)に移ることになり、弥生時代から古墳時代に入っていく。2018315日投稿の「タウポ火山の噴火」をご参照ください。 


伊岐志邇保命は山代国造等の祖になっている。壱岐県主の祖「忍見宿祢(おしみのすくね)」が西暦487年に壱岐から月読神社を京都に勧請して祀り、山城国に移り住んだ。46日投稿の「天月神命」をご参照ください。    

伊岐志邇保命の「伊岐」は元々「壱岐」かもしれない。祖父の高皇産霊尊も対馬と壱岐に深い関係がある。

兵庫県立考古博物館では、7月に壱岐市教育委員会の方が来られて「壱岐の弥生時代」について講演会があります。8月には石野博信先生が「壱岐とヤマト」について、更に壱岐市教育委員会の方の「古墳時代の壱岐」について講演会があります。

伊岐志邇保命は物部連の祖・五十研丹穂命(いきしにほ)と同一神で、素戔嗚命と天照大神の誓約により生まれたとする天津彦根命ではないかとも云う。

古事記には天津日子根命は山代国造の祖先とあり、神皇正統記(じんのうしょうとうき)には山代直の祖は天津彦根命とある。山代直は天火明命の後裔とする別系統の一族もある。

伊福部氏の系図では大己貴命の子が五十研丹穂命(伊伎志爾富命)となっているが・・・

先代旧事本紀の天孫本紀に饒速日命の別名を胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほ)と記されており、この別名は伊岐志邇保命とよく似ているが同一神ではない。

島根県松江市山代町(出雲国意宇郡山代郷)に真名井神社が鎮座、祭神は伊弉諾神と天津彦根命。山代直の一族は天津彦根命の後裔で、当地に移住したので山代郷となったか。

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# by enki-eden | 2019-06-11 08:42

漢族(漢人)とは

漢族は、漢の時代以前には「華夏族(かかぞく)」と称していた。「漢族」という名称は漢王朝(紀元前206年から紀元220年)の時代から使われ、今日まで続いている。

夏王朝(紀元前20世紀 紀元前17世紀)を創建した禹王(うおう、紀元前1900年頃)の末裔が「中原(ちゅうげん)」に居住し、「夏族」と称していた。

そして、次の殷王朝(紀元前18世紀 紀元前11世紀)の紂王(ちゅうおう、紀元前1105年-紀元前1046年)を滅ぼして周王朝(紀元前1046年頃 紀元前256年)を創建した武王(紀元前1043年没)が「中原」に定住し、その一族は「華族」と称した。

従って、「中原」に居住する部族を「華夏族」と呼ぶようになった。

「中原」の位置は、黄河に接する河南省を中心として、山西省と河北省の南部、山東省の西部、安徽省(あんきしょう)の北部地域のことである。

 

華夏文化、華夏文明は周辺の他民族にも移入されていった。華夏族は他民族を吸収したり、他民族に華夏文化の影響を与えながら、多民族国家となり、版図も四方へ拡大していった。

日本は2,000年前から奴国王が後漢に朝貢し、卑弥呼が魏に朝貢し、大和朝廷が遣隋使・遣唐使を送り、中国文化を取り入れた。

紀元前221年、秦の始皇帝(BC259年-BC210年)が中国を統一し、続く漢王朝は400年以上も継続して、文化・文明が大きく発展し、版図も拡大した。

漢時代になると、「華夏族」は「漢族・漢人」と称するようになった。漢時代以降では、中原が異民族に支配される時期も長くなり、鮮卑族、契丹人、モンゴル人、女真族(満州族)などが侵入し、混血も進んだ。

現在の中国は漢族と56以上の少数民族からなる。14億人の多民族と広大な領土を共産党一党独裁によって維持している。

外国にも多くの漢人が華僑・華人として住み着いている。

現在では、DNA調査により、純粋で中原由来の黄河系漢族はいないことが判明し、黄河系のDNA比率が高い華北地域でも66%ほどになっている。「漢族」は民族ではなく、文化的な概念になってきた。

ただ、中国には虐げられた異民族も多いのは事実で、将来の不安定要素になっている。一党独裁制に対する不満も大きい。

共産党の中華思想(中国中心主義)に基づき、国内少数民族や周辺国に対する政治的・軍事的圧力が大きい。日本も経済とは別に、中国の覇権主義・反日政策に対して政治的・軍事的な対抗策をとっている。

インドの人口は2024年に中国を上回る予測になっている。インドも人口が多く、国土も広いが、中国と違って民主主義国家として開かれているので、政治・経済・社会の将来性は明るい。

アメリカはトランプ大統領になってからは、アメリカ・ファースト(米国第一主義)を世界中に推し進めている。

将来、習近平の中華思想とトランプの米国第一主義が軍事衝突して大きな災いが起きるかもしれない兆候が表れている。それに先立つ貿易戦争は既に世界中を騒然とさせ、中国も強硬策を取って引かない。

また、プーチン大統領のゴリ押しや、EUの欧州中心主義も絡んで、世界の政治情勢は混沌としてきた。

世界をまとめる大物政治家の出現が必要となっている。機能しない国連も新たに造り直した方が良いでしょう。

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# by enki-eden | 2019-06-05 08:34

難升米(なしめ)

陳寿(233年-297年)は三国時代の蜀(221年-263年)の官僚となり、蜀が滅亡した後は西晋(280年-316年)に仕え、297年に「三国志」を編纂した。

陳寿の生きた時代に倭国では臺與(とよ235年頃-295年頃)が卑弥呼(179年-247年)の後継として、248年に女王となった。

陳寿が西晋で左遷の辞令を受けた時に、陳寿を検察秘書官に推薦して助けたのは武将の杜預(とよ222年-285年)であった。

陳寿の魏志倭人伝(三国志 魏書東夷伝倭人条)によると、卑弥呼は景初2年(238年)に魏の2代目の皇帝である明帝(曹叡、204年-239年)に使者を送り、「親魏倭王」となった。

卑弥呼の使者は大夫の難升米と次使の都市牛利で、生口(奴隷)10人と班布(はんぷ、麻布)22丈を献じた。22丈とは、長さ2丈(4.7m)の麻布を2匹(4反)。

明帝は卑弥呼に金印紫綬を授け、銅鏡100枚など莫大な品を与えた。難升米を率善中郎将に任じ、都市牛利を率善校尉に任じ、銀印青綬を授けた。

239年に明帝が34才で崩御し、曹芳(231年-274年)が8才で3代目の皇帝となった。

正始元年(240年)に帯方郡太守の弓遵が倭国に使者を送り、皇帝の詔書と印綬を渡した。

正始4年(243年)に皇帝の曹芳は元服し、卑弥呼は大夫の伊聲耆、掖邪狗を使者として魏の洛陽に送り、生口や布を献じた。皇帝の曹芳は使者を率善中郎将とした。

正始8年(247年)に卑弥呼は載斯・烏越らを使者として魏に派遣。倭国と狗奴国の紛争解決のために帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されてきた。張政は皇帝の詔書と黃幢を難升米に渡した。

247年に卑弥呼が亡くなり、男王が立つが争いとなり千人ほどが死んだ。卑弥呼の一族の臺與が女王になり争いは収まった。

張政は臺與を諭し、臺與は魏に20人の使者を送り、生口30人、白珠(真珠)5000孔、青大句珠(ヒスイの勾玉)2枚、雑錦20匹を献じた。

魏と交渉をした難升米は一般的には「ナシメ」と云われているが、2世紀・3世紀当時の豪族の呼び方を考慮すると、難は奴国のこと、升米は斗米(斗目、とめ)ではないでしょうか。はかりの単位の升と斗を間違えたように感じます。

日本書紀の「神功皇后39年」には、「大夫難斗米」と記されている。

図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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嘉平元年(249年)に、魏の将軍・司馬懿(しばい、179年-251年)がクーデターで皇帝一族を暗殺、国の実権を握った。卑弥呼は司馬懿と同じ179年に生まれ、同時代を生きた。

魏が265年に滅び、司馬懿の孫である司馬炎(236年-290年)が西晋を起こし、武帝として全土を統一、洛陽を都とする。泰始2年(266年)に臺與は西晋の武帝(司馬炎)に朝貢した。司馬炎も臺與と同じ時代を生きた。

西晋が全土を統一したが、内乱が頻発し、北方異民族の侵入により、国中の動揺が続いた。朝鮮半島も反乱が続いた。そのために倭国は大陸と交易ができなくなった。

私見ですが、大陸との交易ができなくなった倭王の臺與は列島全土を統一するために、本拠地を九州から大和国(奈良県)に遷し、西暦270年頃に大王家(天皇家)に籍を入れた。270年頃の大王(天皇)は7代孝霊天皇であった。皇女とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は臺與のことかもしれない。三輪山(467m)の大物主大神の妃になる。

臺與は九州から東遷する時に、卑弥呼の遺骸を運び、纏向(まきむく)に前方後円墳の築造を始め、280年頃に箸墓古墳が完成した。卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬し、自らは295年頃に亡くなり前方部に埋葬された。これで弥生時代から古墳時代に入っていく。

臺與は東遷する時に、伊都国王のイニエ(五十瓊殖、251-301年)も伴った。イニエは大和国で10代崇神天皇となり、全国支配を開始した。

210年頃出生の難升米も年老いていたが東遷に従い、黒塚古墳に埋葬されたのではないかと考えています。伝崇神天皇陵の西向かいにあります。20121225日投稿の「黒塚古墳」をご参照ください。  

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# by enki-eden | 2019-05-30 09:24

兵庫県宍粟市(しそうし)山崎町与位129   無料駐車場あります。

祭神 主神 素戔嗚命(すさのおのみこと)、

    配神 稲田姫命(いなだひめのみこと)。

播磨国宍粟郡に鎮座の式内與比神社。

当社は延喜式(927年)にも記されているので、創建はそれよりも古く4世紀末頃か。

当地の宍粟郡は播磨国の中で最も面積が大きかった。


 

素戔嗚命の実名は布都斯(ふつし)で、父は布都と云う。

2018102日投稿の「布都(ふつ)」2016317日投稿の「素戔嗚の系図」をご参照ください。投稿してから3年が経過しましたので、最近の私見とは違う部分もあります。

素戔嗚命は、出雲国風土記には櫛御氣奴命(くしみけぬのみこと)、熊野加武呂命(くまのかむろのみこと)などと記されている。

稲田姫命は素戔嗚命の妃で、奇稲田姫命、櫛名田比売(くしなだひめ)とも云う。出雲国風土記には久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめのみこと)と記されている。

與位神社の由緒によると、伊和大神(大国主命)が国土経営をなされた時、父の素戔嗚命を與位大神として與位山の地に奉斎し、母の稲田姫命を子勝大神として丸山の地に奉斎したのが始まりと云う。

明治42年(1909年)に、與位神社の北にある丸山に鎮座していた子勝神社を合祀した。

與位神社は伊和神社の境外末社の時期があった。

18世紀に編纂された播磨鑑(はりまかがみ)に、

八乙女の 鈴やふりつつ 祈るにぞ 神も願を よるの夢みせ

と記されており、現在でも八名の氏子の子女が巫女として10月の大祭に奉仕している。

両部鳥居と社号標。

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参道を進むと杉の巨木が並び、拝殿が見えてくる。

 

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拝殿前にも大杉のご神木、

注連柱には「天壌」「無窮」(天地とともに永遠に続く)と彫られている。

 

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    拝殿右にライオンが。

 

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流れ造りの本殿

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拝殿左に境内社の大歳神社、祭神は猿田彦命と「大年神」

子勝神社境内の佐田神社であったが、子勝神社と共に当地に遷座した。

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大年神は、素戔嗚尊(140年-200年頃)の第5子である饒速日命(165年頃-225年頃)の別名ではないかと考えています。

大年神のもう一つの別名は布留(ふる)。母は「大山祇神(おおやまづみのかみ)」の娘である神大市姫。  

大年神の妹に宇迦之御魂(お稲荷さん)がいる。

大年神社は兵庫県では非常に多く、400社近くもあり、篤く信仰されている。

大年神の妃の天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の子は大山咋命など10名、

妃の伊怒比売(いのひめ、出雲)の子が5名、

妃の香用比売(かぐよひめ、かよひめ)の子が2名いる。

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# by enki-eden | 2019-05-23 22:47

縄文土器

兵庫県で発見されている縄文遺跡は756ヶ所あり、土器などの出土物は、他の地域で作られたものや、影響を受けて県下で作られたものもある。

兵庫県加古郡播磨町大中の兵庫県立考古博物館で、「縄文土器とその世界-兵庫の1万年」と題し、特別展が420日から623日まで開催されており、250点の縄文土器や土偶などが展示されている。

縄文人は1万年以上にわたり縄文土器を作り続けた。製作時期や地域によって特色があるので、年代の特定や交易の拡がりが分かる。

石器時代に替わって縄文時代(14,000年前~2,400年前)になると、竪穴住居に定住し、縄文土器の製作・使用、農耕、狩猟、漁労、舟による交易など生活に大きな変化が起きた。

「煮炊き」に必要な土器は、形や文様に時代と地域の違いがあり、考古学にとって非常に重要な出土物である。

兵庫県立考古博物館の展示解説文を見ながら、土器の写真を撮りました。(フラッシュは不可)

最初の土器は無文であったが、順に、粘土ひもによる隆起線文土器、爪形をつけた爪形文土器、縄で文様を描く多縄文土器と変わっていく。

次の写真の右側の土器は、縄文時代草創期の土器で、新潟県津南町(つなんまち)の卯ノ木南遺跡出土の深鉢形土器(爪形文+押圧縄文土器)。

次の土器は、縄文時代早期の土器で、兵庫県豊岡市の山宮遺跡(やまのみやいせき)出土の深鉢形土器(ポジティブ楕円文)と石器。

次の土器は、同じく山宮遺跡出土で、縄文早期の山形文の深鉢形土器、

兵庫県立考古博物館蔵。

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縄文時代早期には、西日本を中心に底が尖った押型文土器(おしがたもんどき)が作られる。

前期になると、土器の底が平らになり、縄文様が複雑になる。土器の厚さは薄くなり、煮炊き効率が良くなる。

次の写真の右側の土器は、神戸市の都賀遺跡(とがいせき)出土の深鉢形土器、縄文早期で底が尖っている、神戸市教育委員会蔵。

次の土器は、豊岡市の神鍋遺跡(かんなべいせき)出土の深鉢形土器、縄文前期で底が平らになっている、豊岡市教育委員会蔵。

次の土器は、神戸市の雲井遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、神戸市教育委員会蔵。

次の小さい土器は、兵庫県洲本市の武山遺跡出土の深鉢形土器、縄文前期、洲本市教育委員会蔵。

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縄文時代中期になると、東日本で遺跡数が急増し、造形も大胆になる。後期には土器の種類が増え、浅鉢、注口、台付鉢(高杯)などが出現して多様化する。土器の口縁部は平らなものへと変化する。文様も変化し、縄文の一部をすり消す「磨消縄文(すりけしじょうもん)」が描かれる。

「火焔型土器」は新潟県を中心に縄文時代中期(5,000年ほど前)に作られた深鉢形土器。

新潟県津南町(つなんまち)の諏訪前遺跡出土の火焔型土器、津南町教育委員会蔵。

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右の土器は、兵庫県南あわじ市の神子曽遺跡(みこそいせき)出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、神戸市の本山遺跡出土の深鉢形土器、神戸市教育委員会蔵。

次は、兵庫県揖保郡太子町の平方遺跡(ひらかたいせき)出土の深鉢形土器、太子町教育委員会蔵。

奥の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、兵庫県立考古博物館蔵。

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右の土器は、兵庫県姫路市の丁(よろ)・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、

次も丁・柳ヶ瀬遺跡出土の深鉢形土器、どちらも縄文中期、兵庫県立考古博物館蔵。

次は、姫路市の今宿丁田遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

左手前の土器は、姫路市内出土の鉢形土器、縄文時代後期、姫路市教育委員会蔵。

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右は、神戸市の原野・沢遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代後期、神戸市教育委員会蔵。

左は、揖保郡太子町の東南遺跡出土の深鉢形土器、縄文後期、兵庫県立考古博物館蔵。

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東日本では縄文時代晩期まで土器に縄文が付けられたが、西日本では後期後葉から次第に縄文が使われなくなり、晩期には無文となる。その原因はまだはっきり分かっていない。

私見ですが、揚子江周辺の江南人(倭人)が縄文時代中期から後期にかけて吉備地方や有明地方に渡来していたので、その影響で西日本の土器はシンプルになり、無文になったと見ています。

だからといって、弥生時代の始まりが紀元前10世紀になるわけではありません。201889日投稿の「弥生時代の始まり」をご参照ください。

兵庫県加古川市の坂元遺跡出土の深鉢形土器、縄文時代晩期、兵庫県立考古博物館蔵。

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右の大きな土器は、兵庫県伊丹市の口酒井遺跡(くちさかいいせき)出土の凸帯文壺、その手前に稲の籾痕付きの浅鉢形土器。縄文時代晩期の伊丹地域では稲作が行われていた。

次は、口酒井遺跡出土の凸帯文の深鉢形土器、縄文晩期。

その奥も口酒井遺跡出土の波状口縁になっている深鉢形土器、縄文晩期。

左手前は口酒井遺跡出土の浅鉢形土器、縄文晩期。

伊丹市教育委員会蔵。

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左は岩手県一関市出土の土製品(土面)、縄文時代晩期、西宮市の辰馬考古資料館蔵、

右は淡路市の富島遺跡(としまいせき)出土の土面、縄文時代後期、兵庫県立考古博物館蔵。

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「遮光器土偶」、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡出土、縄文時代晩期、辰馬考古資料館蔵。

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手前の黒い木製品は「掘り棒」で、神戸市の玉津田中遺跡出土、縄文時代晩期。

その奥は、弥生土器の壺、甕、鉢で玉津田中遺跡出土、弥生時代前期、

兵庫県立考古博物館蔵。

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弥生時代前期の木製の彩文鉢と彩文土器壺、姫路市の丁・柳ヶ瀬遺跡出土、上の彩色図は復元図、兵庫県立考古博物館蔵、兵庫県指定文化財。

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博物館の南に隣接する農業用水の狐狸ヶ池にカワウソのような動物がいたが、盛んに水草を食べていたので、ヌートリアでしょう。

タイワンドジョウも数匹見える。アカミミガメが大量に繁殖したので数年前から駆除しているようだ。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-17 01:07

庭田神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町能倉(よくら)1286  電0790-72-0315  無料駐車場あります。

祭神 事代主命

 2015331日投稿の「事代主神」をご参照ください。

  

播磨国宍粟郡に鎮座の式内社。

13代成務天皇の時代、4世紀半ばに神託により創建。

当社の東方の山裾を染河内川(そめごうちがわ)が流れており、揖保川に注ぐ。


    石の鳥居

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鳥居の右に一宮遥拝所、

当社は伊和神社(播磨国一宮)の境外末社であった時期がある。

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    随神門

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    拝殿前に絵馬殿と土俵(青いカバー)がある。

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    拝殿

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拝殿右に霊石の「亀石」。

伊和神社の本殿後ろに「鶴石」があり、合わせて「鶴亀」になっている。

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本殿、入母屋造り銅板葺き。

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本殿左に五社五行神、手前から水分神、加具土神、大歳神、大山津見神、火魂神、

宍粟市では火魂神を祀る神社が多い。

次の境内社は荒神社、八幡社、祇園社、出雲社。

こちら向きの境内社は稲荷社と皇大神宮。

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   後ろの参道を行くと弁天社。

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   更に進むと、湧き水の霊地「ぬくいの泉」。

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大国主命(160年頃出生)と天日槍命(230年頃出生)が国占め争いをしたが交渉が終わり、大国主命は当地で酒を醸して酒宴をしたと云う。それで、当地は庭酒(にわき)村と云われたが、庭音(にわと)村と云うように変わった。庭田神社の元の名称は庭酒神社であった。

私見ですが、国占め争いの時期は3世紀後半だったと見ています。従って、大国主命の4代ほど後の子孫が大国主命を襲名して播磨を開拓していたと思います。そして4世紀になると当社が創建された。

また、播磨国風土記の宍粟郡の条に酒造りの話がある。大国主神が国造りの大業を終え、景色が良く清水が湧き出る「ぬくい」の水辺に大業に係わった諸神を集め、もてなしの宴を行った。

その時大国主神が持参した干飯(かれい)を「ぬくい」の水で戻した時に一部の飯にカビ(麹)が生え、酒成分が生じて酒の発見になった。米飯を材料にして造った日本酒の庭酒(にわき)である。

それまでの古代の酒造りは、米を噛んで瓶(かめ)に入れて発酵させていた。噛んで入れる器だから「かめ(瓶)」と云ったのかな?

当地は酒造りに縁が深く、「日本酒発祥の地」と云われている。現在でも「庭酒(にわざけ)」ブランドの日本酒が販売されている。

酒米を品種改良してできた「山田錦」を使って、播磨では日本酒がたくさん醸造されている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-11 00:12

伊和神社(宍粟市)

兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407  電0790-72-0075

道向かいの「道の駅 播磨いちのみや」に車を停める。

播磨国一宮、伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)。

祭神 大己貴神(大名持御魂神、大国主神、伊和大神)、

    少彦名神(大己貴神の国造りに協力した)、

    下照姫神(大己貴神の子神)。

創建 13代成務天皇の時代、4世紀半ば。

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 当社では「三つ山祭」が61年に1度行われる。伊和神社の北の花咲山(637m)、西の高畑山(470m)、東の白倉山(841m)の磐座信仰・山岳祭祀である。山頂まで長い行列ができると云う。

 伊和神社の東北(鬼門)の宮山(みやま、514m)にも多くの磐座があり、「一つ山祭」が21年に1度行われる。宮山が伊和神社の元宮とも云われる。

伊和神社から少し東へ歩いた所から写した宮山(みやま)。

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三つ山と一つ山の神事が姫路市の播磨国総社「射楯兵主神社」にも引き継がれている。

  

西参道に行くと、境内末社の市杵島姫神社(祭神は市杵島姫命)、通称弁天さん。

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北参道に行くと、三山乙女の泉。

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  周辺には磐座がたくさんあるので古代に磐座信仰があったのか。

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2013427日投稿の「伊和神社」をご参照ください。

   

播磨国風土記によると、大汝命(大己貴命)の妃に「許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめのみこと)」がいる。

日本書紀に記載の木花開耶姫(このはなさくやひめ)は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、皇孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃になった。

木花開耶姫は瓊瓊杵尊と大己貴命の妃になったことになる。妃になったのは同時期ではなく、時間差があると思われるが、古代は一夫一婦制ではなく、お互いに気に入った男女が一緒になり、イヤになったら別れると云う「自然な現象?」であった。

同時期に数人の豪族が、日を変えて姫の所に通ってくることも多かった。それで、姫が出産しても子の父親が誰なのか分からない場合があった。それで父親を決めるために「盟酒(うけいざけ)」が行われた。   

伊和神社の1.2km北の一宮町閏賀(うるか)279に川崎稲荷神社が鎮座。主神は宇賀魂神(うかのみたまのかみ)であるが、配神は大山祇神と木華咲耶姫命の親子になっている。地名の閏賀は、播磨国風土記によると、大汝神(大己貴命)の妻になった許乃波奈佐久夜比売命が美麗であったので、雲箇(うるか、宇留加)里になったとある。

   

伊和神社は「海神社」「粒坐天照神社」とともに播磨三大社の一社となっている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-05-03 00:07