古代史探訪

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嵯峨天皇と素戔嗚

西暦810年(大同5年)の正月、52代嵯峨天皇(786年-842年)は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、愛知県津島市神明町1「津島神社」に「日本総社」の号を奉られた。   

織田信長(1534年-1582年)も津島神社を崇敬していた。織田家の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋である。

津島神社(祭神・建速須佐之男命)は全国に3,000社ある津島神社・天王社の総本社になっている。祇園信仰の一つとして津島信仰・天王信仰と云われ、神仏習合時には津島牛頭天王社と称し、牛頭天王(素戔嗚尊)を祭神としていた。

津島神社の社伝によると、素戔嗚命が朝鮮半島から帰ってきた時に荒魂は出雲国に鎮まり、和魂(にぎみたま)は7代孝霊天皇45年(3世紀後半)に一旦対馬に鎮まった後、29代欽明天皇元年(540年)に現在地近くに移り鎮まった。

810年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られた。


記紀には、素戔嗚命(140年頃-200年頃)が猛々しい暴れ者として描かれている。これは、663年の「白村江の戦」により、日本軍が唐・新羅連合軍に敗れ、百済の再興に失敗、1万名もの戦死者を出したことによる。

古事記は712年の成立、日本書紀は720年の成立だから、白村江の戦から50年余りしか経っていない。新羅と強いつながりを持つと云われる素戔嗚命に対する反感が非常に高い時期に記紀が編纂された。

しかし、それから90年ほどが過ぎて、嵯峨天皇は歴史を冷静に見直し、素戔嗚命の名誉回復を図った。

尤も、一般庶民にとっては白村江の戦と素戔嗚命を結び付ける考え方など全くなく、相変わらず昔からと同じように素戔嗚命の人気は高く、全国の神社で祀られ崇敬されていた。

嵯峨天皇は50代桓武天皇(736年-806年)の第2皇子で、第1皇子が51代平城天皇(へいぜいてんのう、774年-824年)となった。平城天皇と嵯峨天皇の母は、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)。

809年に平城天皇が上皇となり、嵯峨天皇が即位した。しかし、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の関係は不穏な状態で、嵯峨天皇と平城上皇が対立し、「薬子の変(くすこのへん)」なども起きた。

薬子の変は坂上田村麻呂に鎮圧させたが、嵯峨天皇は情報漏洩の反省として、巨勢野足(こせののたり、749年-817年)や藤原冬嗣(ふじはらのふゆつぐ、775年-826年)らを採用し、蔵人頭(くろうどのとう)を設置して機密を守った。

更に、都の治安を守るために検非違使(けびいし)を設置した。

嵯峨天皇は、干ばつなどによる財政難や、皇族が増えすぎて官職に就けない皇族が多くなったことにより、皇族の人数を減らすための臣籍降下(しんせきこうか)を行った。

皇位継承の可能性がない皇族に姓を与えて臣籍降下させることは皇親賜姓(こうしんしせい)と云って、桓武天皇も100名ほどを対象に実施した。

更に、出家させることにより、皇族を減らす方法も取られた。

これは、皇位継承者を安定的に確保するために、多くの妃に皇子・皇女を産ませた結果でもある。現在の皇室が抱える皇族減少問題とは全く逆の現象になっていた。

第二次世界大戦後、皇籍離脱が行われたが、GHQによる皇室財産没収と共に、皇室弱体化が狙いであった。GHQが日本を支配するための新憲法もそのまま現在まで機能し続けている。

平安時代に皇親賜姓をした元皇族は、地方の武士や豪族になるのが通常であった。

「源氏」は嵯峨天皇が814年に皇子3名に皇親賜姓を行ったことに始まる。一番有名なのは56代清和天皇の清和源氏でしょうか。源頼朝(1147年-1199年)の時代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開いた。その他、59代宇多天皇の宇多源氏、62代村上天皇の村上源氏なども出現し、21の流派ができた。

「平氏」は50代桓武天皇の桓武平氏、54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の仁明平氏、55代文徳天皇(もんとくてんのう)の文徳平氏、58代光孝天皇(こうこうてんのう)の光孝平氏がある。

桓武平氏の嫡流である伊勢平氏の平清盛(1118年-1181年)が棟梁となり、日本初の武家政権を樹立した。

古代史研究でよく参考にされる「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」は嵯峨天皇が編纂を命じた氏族名鑑である。

嵯峨天皇は823年に53代淳和天皇(じゅんなてんのう、786年-840年、桓武天皇の第7皇子)に譲位し、上皇になってからも権威を発揮して、政治的な安定を図った。

淳和天皇の母は桓武天皇夫人の藤原旅子(758年-788年)で、平城天皇・嵯峨天皇は異母兄となる。

嵯峨天皇の信頼を得ていた空海(774年-835年)が、離宮の嵯峨院(京都御所の8km西)に五大明王を安置した。876年に淳和天皇の皇后が離宮を寺に改め、大覚寺(真言宗大覚寺派の本山)とした。淳和天皇の皇后は嵯峨天皇皇女の正子内親王(810年-879年)である。

大覚寺の西北650mの右京区北嵯峨朝原山町に円丘の嵯峨天皇御陵がある。

京都市右京区嵯峨朝日町23に鎮座の車折神社(くるまざきじんじゃ)は、嵯峨天皇と関係が深く、清原頼業(1189年没)が祭神で、境内社の芸能神社には天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-21 09:06

奴国は弥生末期の中心地

古代の長江(揚子江)流域の民は「江南人」、或いは「倭人」とも呼ばれ、呉(BC585年~BC473年)と越(BC600年頃~BC334年)を長江の下流域に建国する。中流域には楚(?~BC223年)を建国した。

江南人(倭人)は稲作、船舶による漁労・交易(南船北馬)、青銅器文明で栄えたが、呉と越の戦争(BC473年)、楚と越の戦争(BC334年)、秦の統一(BC221年)、楚漢戦争(BC206年~BC202年)などの結果により、紀元前5世紀から紀元前2世紀の間に長期波状的に呉人、越人、楚人、漢人が日本列島に避難・逃亡してきた。

これにより、14,000年前から始まった縄文時代が2,400年ほど前に終わり、弥生時代が始まる。江南人(倭人)と縄文人が混じって弥生人となり、列島全体に弥生文化が広まっていった。

江南人(倭人)が日本列島にやってきたので住民を倭人と云う。稲は江南から列島に直接もたらされたことが稲のプラントオパール分析で分かっている。

江南人の中でも呉人の渡来数が最も多く、北部九州と朝鮮南部に多くの小国家群を建てた。その中で博多湾周辺の「奴国」が中心的な役割を果たしていった。

晋書、梁書などに『倭は自ら「呉の太伯の後」という』とあるので、呉系の弥生人は呉から日本列島にやってきた倭人であると認識していた。

呉人が中心となって北部九州に建国した小国家群(倭国)の中の「奴国」が伝承する紀元前1世紀から紀元3世紀の歴史が、記紀の「神代の物語」として古代人の表現方法により記された。但し、列島では素戔嗚命や大国主命の出雲族の勢力が大きく、支配地も列島全体に拡がっていた。

私見ですが、素戔嗚命や大国主命の出自は「楚」であると考えています。楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)です。

紀元前1世紀の北部九州はまだ充分なまとまりがなかったが、既にクニとしての萌芽はできていた。その頃の王として記紀に記されたのが、別天神(ことあまつかみ)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、神皇産霊尊(かみむすひのみこと)、可美葦牙彦舅尊(うましあしかびひこじのみこと)、天常立尊(あめのとこたちのみこと)の五柱の神である。

紀元前1世紀の博多湾周辺には板付遺跡(いたつけいせき、)があり、縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥を裏付ける遺跡である。環濠集落、水田跡、墓地などが発掘されている。

また、博多湾は大陸に向かう天然の良港という地の利により、海人族の安曇氏を中心として交易により発展した先進地域であったので、奴国は小国家群(倭国)のリーダーとなっていった。そして、奴国の北部は海、東部・南部・西部は山に囲まれ、天然の軍事要塞としても恵まれていた。


紀元前1世紀には、列島各地の海人族は前漢(BC206年-AD8年)と交易をしていた。交易をするためには、各地の豪族は通訳と漢字を書ける役人を必要とした。文字は木簡か竹簡に筆で書いた。前漢の出先機関は楽浪郡(BC108年-AD313年)にあったので、各豪族は漢語と漢字を習う研修生を楽浪郡に派遣していた。

紀元前1世紀の日本の遺跡からは硯石の破片が出土する。福岡県糸島市の閏地頭給遺跡(うるうじとうきゅういせき)、三雲・井原遺跡(みくもいわらいせき)、佐賀県唐津市の中原遺跡(なかばるいせき)、福岡県筑前町の薬師ノ上遺跡、島根県松江市の田和山遺跡などから硯石の破片が出土している。その他、日田市などからも出土している。

紀元1世紀になると、奴国はクニとしての機能を整え、初代奴国王は国常立尊(くにのとこたちのみこと、西暦元年出生)が就任する。国常立尊は別天神の子孫と考えられ、西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」金印を受け、「大陸との交易」に関しては奴国が倭国を代表するようになった。

2代目奴国王は豊雲野尊(西暦20年頃出生)、3代目奴国王は宇比地邇尊(ういぢにのみこと、西暦40年頃出生)、4代目奴国王は角杙尊(つぬくいのみこと、西暦60年頃出生)で西暦107年に後漢に朝貢し、倭王帥升となり交易面に加えて政治的にも奴国王が倭国を代表するようになった。

5代目奴国王兼倭王は意富斗能地尊(おおとのぢのみこと、西暦80年頃出生)、6代目奴国王兼倭王は淤母陀流尊(おもだるのみこと、西暦100年頃出生)、そして7代目奴国王兼倭王が伊弉諾命(いざなぎのみこと、西暦125年頃出生)である。

福岡平野には博多湾に注ぐ那珂川と御笠川があり、川の間の地域の中流域から下流域にかけては、段丘が形成されている。

段丘の北には海岸沿いに砂地があり、博多遺跡群がある。2本の川の間の段丘には比恵遺跡群(博多駅の南)、那珂遺跡群(比恵遺跡の南)、板付遺跡(福岡空港南)、諸岡遺跡群(板付遺跡の南)、須玖岡本遺跡(春日市岡本、奴国の中心)ほか多くの遺跡が発掘されている。

いずれの遺跡も福岡平野の中で大きな役割を担ってきた地域で、現在は福岡市、春日市、大野城市にまたがっている。

板付遺跡は縄文時代晩期から弥生時代の稲作文化発祥の地で、奴国の重要な拠点であった。

1899年(明治32)、須玖岡本遺跡で巨石の下に発見された甕棺墓(かめかんぼ)は、前漢鏡30面のほか多数の副葬品があり、奴国王墓ではないかと云われている。

弥生時代終末期の西暦180年代に倭国29ヶ国が争っていたが、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊が倭国乱の責任を取り淡路島に隠遁、西暦201年に卑弥呼(179年-247年)が女王として就任し、238年に魏に朝貢、親魏倭王となった。倭国乱については、「三国志とタウポ火山の噴火」をご参照ください。 

楽浪郡は後漢末期に公孫氏が支配し、帯方郡を設置したので、倭人は後漢(西暦25-220年)やその後の魏(220-265年)と直接交易できなかった。しかし、魏が238年に楽浪郡・帯方郡を接収すると、倭の女王卑弥呼は「直ちに」魏と交易し、親魏倭王となった。これは楽浪郡や帯方郡に倭人の役人(研修生)が常駐していたから、公孫氏滅亡を報告してきたことによる。

公孫氏の末裔は列島に逃れ、常世連(とこよのむらじ)となった。

博多湾の海浜砂丘は箱崎砂層(はこざきさそう)と呼ばれる堆積層が基盤となって、弓状の砂丘が形成された。

弥生時代には砂丘に墓地が営まれるようになる。弥生時代前期は木棺や甕(かめ)棺で埋葬し、副葬品をもつ甕棺も発掘されている。

弥生前期後半から中期になると砂丘上にも集落が形成されるようになる。

奴国の支配者層は安曇氏を中心とする海人族で、船団による内外との交易・同盟、漁労、金属製品製造、農民に対する課税・課役などを行った。海人族の拠点は福岡市東区だったと考えられ、志賀島が海人族の聖地であった。

志賀島からは「漢委奴国王」金印も出土している。1世紀から3世紀にかけて存在したとされる「高天原」も東区のどこかにあったと考えられる。

高天原は志賀島にあったのか、或いは香椎宮後方の山裾にあったのか、もっと山間部に入った糟屋郡久山町(かすやぐん ひさやままち)だったのか。

私見ですが、天照大神としての卑弥呼と臺與は奴国王兼倭王で、高天原は奴国王の宮と倭王の宮の両方にあったと見ています。

奴国王の宮は博多湾に近い山沿い地域(福岡市東区)、倭王の宮は福岡県朝倉郡筑前町から朝倉市の山沿いではないでしょうか。小石原川が「天の安川(夜須川)」でしょう。

小石原川と佐田川の間には国史跡の平塚川添遺跡(福岡県朝倉市平塚)があり、紀元前1世紀(弥生時代中期)から4世紀(古墳時代)の集落跡です。私は筑後川流域の筑紫平野が魏志倭人伝の云う邪馬台国だと考えています。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-03-13 10:18

清荒神(きよしこうじん、宝塚市の三宝荒神社)

兵庫県宝塚市米谷字清シ1番地  電0797-86-6641  無料駐車場あります。

火の神、かまど(台所)の神で、清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)の鎮守社となっている。

  

「清荒神清澄寺」は真言三宝宗の大本山で、本尊は大日如来(国の重要文化財)。

896年に59代宇多天皇(867-931年)が、鎮護国家・万民豊楽のための勅願寺のひとつとして創建された。神仏習合になっているが、明治以降も「寺院」として継続している。

清荒神の天堂(拝殿)後方に「荒神影向(ようごう)の榊(さかき)」があり、開創の際、荒神が顕現したと伝えられる。この報告を受けた宇多天皇は「日本第一清荒神」の称号を与えた。

清荒神は、「家内安全」、「厄除開運」、「商売繁盛」のご利益で年間の参拝者は350万人に上る。私も31日に参拝し、古いお札を納め、新しいお札を頂きました。

毎月1日と28日の午前10時に太鼓の大きな音が「ドーン」と1回響き、天堂(拝殿)でご祈祷が始まる。

私が10時前に天堂(拝殿)に着くと、太鼓の大きな音と共に僧侶が7人並び、ご祈祷が始まった。今まで聴いたことのないとても感動的なご祈祷でした。荒神様の魂と迫力を感じました。お寺なので祝詞(のりと)ではなく読経です。

ご祈祷の時間帯と参拝の日時がうまく重なって、心が洗われ、感激し、ラッキーでした。

清荒神王ご朱印

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山門、石柱に「日本第一 清三宝大荒神王」と彫られている。

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   境内案内図、参拝経路も記されている。

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鳥居の手前右に護牛神堂(牛頭天王安置)と弘法大師の行脚像。

 

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鳥居と天堂(拝殿)

 

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天堂(拝殿)、一礼三拍手一礼。 三宝荒神王だから三拍手。

 

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   天堂後方に護法堂(本社)、

大勝金剛転輪王、歓喜童子、弁財天を安置。

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護法堂後方に荒神影向(ようごう)の榊

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天堂の右に岸壁をくり抜いた「行者洞」があり、修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年頃)を祀っている。

1799年に119代光格天皇(1771年-1840年)が、役小角没後1100年によせて神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)の諡(おくりな)を賜った。

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天堂右の石段を登ると途中の山腹に宝稲荷社(宝稲荷大明神)が鎮座、

明治時代に当山和上二人が同時に稲荷明神の霊夢を見たのでお祀りした。

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清荒神清澄寺本堂(大日如来、不動明王、弘法大師)と、手前の一願地蔵尊(水かけ地蔵)。

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本堂右奥に龍王滝、よく見ると滝の左の平らな所に不動明王の石像をお祀りしている。

不動明王が右手に剣を持っているのが見える。

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修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)は役行者(えんのぎょうじゃ)とも云われるが、大和の金剛山(1125m)で祈っていると「荒神」が初めて現れたと云う。荒神の姿は宝冠をつけ、腕が六本あった。

それで荒神様の像には三面六臂(さんめんろっぴ、顔が三つで腕が六本)が多い。奈良興福寺の国宝・「阿修羅像」は荒神ではないが、三面六臂になっている。

 

荒神は、悪人を懲らしめる神であるので「荒神」と呼ばれ、不浄を排除するので「火の神」・「かまどの神」とされている。神道の荒御魂(あらみたま)と共通する面がある。

関西で有名な荒神社は、清荒神、奈良県桜井市笠の笠山荒神社、奈良県吉野郡野迫川村の立里荒神社(たてりこうじんしゃ、高野山の奥社)、大阪府箕面市勝尾寺の勝尾寺、和歌山県橋本市神野々の光三宝荒神社などです。

荒神社の月次祭は毎月28日に執り行われるところが多い。

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# by enki-eden | 2019-03-07 09:17

駒林神社(こまがばやしじんじゃ、神戸市長田区)

兵庫県神戸市長田区駒ケ林町3丁目7-3  電078-611-4065

無料駐車場は、石の注連鳥居の手前を右に曲がる。

祭神 応神天皇、猿田彦大神、奇稲田姫命。

別称は駒ヶ林八幡宮で、厄除けの宮。

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毎年118日から20日までの厄除大祭は大いに賑わう。

当社は伊勢神宮で用いられた「丸三方」を所有しており、大事なお祭りの際に用いている。三方(さんぼう)は、四角形の台の三方向に眼象(げんじょう)と呼ばれる穴があいているので「三方」と呼ばれる。一般的には四角形の三方が多いが、丸三方、板足三方、長三方などもある。

丸三方には眼象が開いていない。

古代には、当社の前の海は要津(ようしん、重要な港)になっており、1178年に平清盛(1118-1181年)が上陸したとの記録が残っている。現在は長田漁港となっている。

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平安時代にこの港に来朝する外国人を検問する玄蕃寮(げんばりょう)の出先機関があり、災いが入らないように取り締まっていた。「玄」は僧侶、「蕃」は外国人で賓客のこと。

その役所内に「厄除けの宮」として当社が創建された。

1336年、足利尊氏(1305-1358年)が西国敗走の時、当社に奉詣して社前の浜より乗船したという。

1924年に社殿を修築し、若宮社と村内の小祠を合祀し、社名を「八王子八幡神社」から「駒林神社」と改称した。

長田漁港前の赤い大鳥居、

鳥居の右前に駒ヶ林が「いかなごのくぎ煮」発祥の地である事を記した石碑がある。

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  拝殿、注連鳥居の手前右に駐車場がある。

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  本殿

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本殿右に、天光玉勝稲荷神社と奥に神明鳥居の神明社(天照大御神)。

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  本殿左に三宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ、かまどの神様)、

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 荒神社の多い県は、多い順に岡山県、広島県、島根県、兵庫県である。

「三宝荒神」は仏教系であるが、「荒神さん」は複雑で、由来は多岐にわたり、日本での拡がりが瀬戸内地方と島根県を中心としていること、火の神・かまどの神・災難や不浄を除去する神であることを考えると、「素戔嗚尊(楚人)」や古代中国の「楚」との関連が考えられる。

中国神話の「炎帝(えんてい)」、「祝融(しゅくゆう)」と関係があるかもしれない。楚の王は祝融を祖先とする。

楚辞の言葉づかいについては、2014418日投稿の「楚辞」をご参照ください。


荒神信仰は修験道の役小角(えんのおづぬ)とも関係が深く、山岳信仰・密教・神道など様々な要素を含み、日本の民間信仰の中で拡がっていった。

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# by enki-eden | 2019-03-01 16:41

妙見社(明石市)

兵庫県明石市上ノ丸1丁目17-35  鳥居の横に本松寺の駐車場があります。

祭神は妙見尊(みょうけんそん)

北辰信仰(北極星と北斗七星)であり、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同一。

方位守護、人の運命守護。

毎朝、天下泰平・国土安穏・信徒並びに参拝者の所願成就を祈願している。

妙見社は、南に隣接する日蓮宗の本松寺が1691年(元禄4年)に船上(ふなげ、明石川河口西)から現在地に遷った際に鎮守社として創建された。日蓮宗の寺院では妙見菩薩を祀ることが多い。

明治の神仏分離令により、妙見社と本松寺に分離されたが、今でも関係は深い。境内のツツジが有名で、4月下旬から5月初旬が見頃。秋は萩の名所として有名。

本松寺には石田三成(1560年-1600年)に仕えた島左近(1540年-1600年)が崇拝していた妙見尊像が祀られていると云う。

島左近の後裔が本松寺の檀徒になり、妙見尊像が奉納された。

当地周辺は神社仏閣が多く、長寿院(黄のアイコン)、「柿本神社(人丸神社)」と月照寺(青)、雲晴寺(紫)、妙見社と本松寺(赤)、明石上ノ丸教会と大聖寺(緑)、明石神社(黒)が続いている。

観光客が明石城(喜春城、きしゅんじょう)から天文科学館まで「時の道」を散策する途中にあります。


入口の鳥居、右は本松寺。

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    拝殿と本殿

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拝殿には「妙見大菩薩」と書かれた提灯が見える。妙見尊は神仏習合時代の名残りで、運勢を切り開いて、信奉する人を助けようとする開運妙見大菩薩と云う。

額には「開運殿」と記されており、北の方角を示す北極星が人生を良い方向に導いてくれる。

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本殿の左に福寿明王(お稲荷さん)。

江戸時代に「ぼたん狐」の民話があり、狐が牡丹模様の服を着た美女に化け、悪さをした。

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妙見社にも本松寺にも立派な桜の木があり、本松寺には宮本武蔵作の庭園がある。

明石藩では、元和4年(1618年)に船上城(ふなげじょう)を廃し、明石城の築城が始まったが、宮本武蔵(1584年-1645年)が明石藩に来て藩主の小笠原家の客分となる。この時に武蔵は、明石城下の町割りとともに城や寺院などの作庭も行った。

天和2年(1682年)には、越前大野藩より松平直明(まつだいら なおあきら、1656年-1721年)が明石藩に転封し親藩となり、廃藩置県まで松平家の支配が続いた。明石城は瀬戸内海の海上交通監視、西国大名への押さえを担った。

明石神社には徳川家康(1543年-1616年)と松平直明が祀られている。長寿院は松平家の菩提寺。

  明石神社

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本松寺の墓域にはプロレスで活躍したジャイアント馬場(1938年-1999年)の墓もある。

ジャイアント馬場の使用した長靴にそっくりな石のモニュメントと似顔絵もユニーク。

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# by enki-eden | 2019-02-23 10:38

夜比良神社(やひらじんじゃ、たつの市)

兵庫県たつの市揖保町揖保上(いぼかみ)391   電0791678027

無料駐車場は、鳥居を過ぎて参道を進み、左手にあります。

祭神: 国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと、大国主命)

創建: 1200年以上前の平安時代初期。

農業神、病気平癒、福の神、縁結び、学業成就。

通称「やひろじんじゃ」、揖保川下流域の東岸に鎮座。 延喜式揖保郡七坐の一社。

中世の播磨国を支配した赤松氏は当社を守護神とし、「八尋(やひろ)の神」として敬った。

祭神の大己貴命(大国主命、160年頃出生)は、播磨国風土記(715年頃編纂)には葦原志許乎命(あしはらのしこおのみこと)、大汝命(おおなむちのみこと)などと記され、播磨国における多くの事績が記されている。小比古尼命(少彦名命)と協力して「国造り」をした。

播磨国には大己貴命(大国主命、大汝命)を祀る神社が多い。

出雲国(島根県)を開拓した大己貴命は、因幡国(鳥取県)を経て播磨国(兵庫県南部)に入り、「伊和神社」(宍粟市一宮町)に鎮座。

更に、大己貴命は揖保川上流の宍粟(しそう)から川下りで35km南下し、揖保川下流域の揖保郡(揖保郷)を開拓した。

播磨国一宮の伊和神社を「北方殿」と呼び、夜比良神社を「南方殿」と呼ぶ。

  

当社の800m北東には「中臣印達神社」(なかとみいたてじんじゃ、五十猛命)が鎮座しており、3km北には「粒坐天照神社」(いいぼにますあまてらすじんじゃ、天照国照彦火明神)が鎮座している。

 揖保川は、兵庫県の南西部を流れる川で、加古川、市川、夢前川(ゆめさきがわ)、千種川(ちぐさがわ)と共に播磨五川と呼ばれている。


鳥居と社号標

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拝殿、手前の注連柱に「莫鳳如在 供澤無疆」とある。

注連柱の前に一対の立砂(盛砂)がある。お清めか、魔除けか。

「京都上賀茂神社」の立砂が有名。 

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本殿

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本殿後方に境内社、

右が稲荷神社(倉稲魂命、天宇受売命、佐田比古命)、佐田比古は猿田彦。

左が建速神社(須佐之男命、140年頃-200年頃)

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島根県松江市東出雲町の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は、この世とあの世の境目にあるとされており、伊弉諾尊や大国主命の話に登場する。

大己貴命(大国主命)を祀る「夜比良神社」の社名が、「黄泉比良坂」と関係がありそうな気がします。或いは通称「やひろじんじゃ」と云うので、「八尋熊鰐(やひろくまわに)」のことでしょうか。

昔、神社に近い岩に八尋もある白い旗が立って、伊和大神が出現したと云う。

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# by enki-eden | 2019-02-16 10:05

神戸神社(かんべじんじゃ、たつの市)

兵庫県たつの市揖保川町神戸北山(かんべきたやま)222   電0791-72-2368

無料駐車場あります(広い砂利敷きのところに停める、アスファルト舗装は月極駐車場)。

国道2号線沿いに鎮座。

祭神: 大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。

農業振興、厄除開運、縁結び、安産成就、病気平癒、合格祈願、商売繁盛、交通安全。

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創建は1468年(応仁2年)に播磨国一宮の「伊和神社」より大己貴命と少彦名命を勧請した。

当地は、播磨国風土記(西暦715年頃編纂)に「この山に岩神あり、故に神山と名付けた」とあり、往古より山頂に巨岩があって神の宿る霊地として畏敬されてきた。現在の標高は23mほど。

昭和52年に本殿を新造営の際に巨岩が出現、「石神さま」として祀られている。

神社の由緒によると、

『弘法大師が全国行脚の途次、小川で菜を洗う老婆に菜を所望されたが老婆はこれを固辞、菜を食べた老婆は腹痛に苦しんだ。以後秋祭の日に菜を食すと腹痛をおこすという伝承との習合により葉物野菜を食さない風習があります。よって当社を別名「菜食わずの宮」ともいわれます。』

鳥居と、奥に拝殿。 鳥居の左手前に旧本殿跡地。

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拝殿

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拝殿に幸せを招く「撫で大国(大黒)」。

国内外を問わず、撫でてご加護を頂くと云うのは多いですね。社務所の前には、願いが叶う

「持ち上げ福槌(ふくづち)」があり、私も福槌を持ち上げてお願いをしました。

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本殿

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本殿に向かって右(東)に「奥之院」、

祭神は神戸大神(かんべのおおかみ)で、古来より祀られていた。

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拝殿に向かって左(西)に播磨風土記にも記されている「神山の石神」。

石神の左奥には「八幡宮」が鎮座、旧本殿を遷した。祭神は誉田別尊(15代応神天皇、厄除けの神、363年-403年)、息長帯比売命(神功皇后、321-389年)、比売大神(天照大神か)。

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八幡宮の奥に金刀比羅宮、桃山様式で祭神は大物主神。

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たつの市は素麺(揖保乃糸)と醤油が有名。また、童謡「赤とんぼ」を作詞した三木露風(1889年-1964年)は当地で生まれた。

「赤とんぼ」の歌詞に、「十五でねえやは嫁に行き」とあるが、露風の母は満15才で結婚している。私が古代人の年令を推測する時は、親と第一子の年令差を15才として計算しています。

露風は、たつの市・姫路市・赤穂市・東京三鷹市の小学校や高校の校歌を作詞している。露風は人生の後半を三鷹市で過ごし、三鷹市で亡くなったが、露風の縁でたつの市と三鷹市は姉妹都市となった。

たつの市の案内板やマンホールには赤トンボのマークがついている。

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# by enki-eden | 2019-02-08 11:10

三貴子(さんきし、みはしらのうずのみこ)

伊弉冉尊(いざなみのみこと)が亡くなったので、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が殯(もがり)に行っていたが、高天原に帰ってきた。

黄泉の国の穢れを払うために、「筑紫の日向の川の落ち口の、橘(たちばな)の檍原(あわぎはら)」で禊祓い(みそぎはらい)をした。

倭王兼7代目奴国王の伊弉諾尊(西暦125年頃出生)が禊祓いをした川は、福岡市と糟屋郡にまたがる立花山(367m)の麓から流れ出て玄界灘に注ぐ「湊川」だと考えられる。

立花山は連山になっているが、玄界灘からは2峰(二上山、二神山)に見え、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀っていたと云う。海人族が船で博多湾に戻ってくる時に、立花山は目印のランドマークとなった。伊弉諾尊が黄泉の国から船で戻ってきた時も、立花山を目指した。

檍原は立花山から海岸までの原野だと考えられるが、現在は開発され住宅地になっている。

赤のアイコンが立花山、黄が湊川の河口。


日本書紀によると、伊弉諾尊の禊祓いによって神が生まれ、八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と云う。次に神直日神(かんなおひのかみ)、次に大直日神(おおなおひのかみ)、次に底津少童命(そこつわたつみのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中津少童命(なかつわたつみのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表津少童命(うわつわたつみのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の9柱の神が生まれた。

それから、伊弉諾尊が左の眼を洗うと天照大神が生まれ、右の眼を洗うと月読尊(つくよみのみこと)が生まれ、鼻を洗うと素戔嗚尊が生まれた。この三柱の神を「三貴子」と云う。

私見ですが、

天照大神は対馬(左の眼)の「日の神」で高天原を治め、月読尊は壱岐(右の眼)の「月の神」で潮流を治め、素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)は玄界灘の海岸(鼻)の「海原の神」で天下(葦原の中つ国)を治めることとなった。日本書紀は二つの島と筑紫の海岸を両眼と鼻に例えている。

天照大神は対馬の出身で、宇佐で素戔嗚尊と出会い、三女神(田心姫、湍津姫、市杵島姫)が生まれた。田心姫(たごりひめ)と湍津姫(たぎつひめ)が大国主命(西暦160年頃出生)の妻となり、宗像を拠点とする。

市杵島姫(いちきしまひめ、天佐手依姫)が天火明命(西暦140年頃出生、海部氏・尾張氏の祖)の妻となり、卑弥呼(天照大神②、西暦179年-247年)を生む。


西暦180年代に倭国乱が勃発、倭王兼7代目奴国王の伊弉諾尊が失脚して淡路島に隠遁。

素戔嗚尊が西暦200年頃に亡くなり、大国主命が跡継ぎとなるが、西暦201年に高皇産霊尊が中心となって倭国(北部九州の29ヶ国)を取りまとめ、天照大神②(卑弥呼)が倭国の女王となり、倭国乱が終焉する。

そして、高皇産霊尊と天照大神②(卑弥呼)が大国主命に国譲りを強要し、北部九州の倭国は統一された。

西暦185年頃に素戔嗚尊の第5子である饒速日命(にぎはやひのみこと)が大部隊で大和国に東遷し、纒向を都とした。

高皇産霊尊と天照大神②(卑弥呼)は大和国(奈良県)とその周辺国を統一するために、初代神武(西暦181年-248年)を大和国に派遣する。

臺與(天照大神③、235年頃-295年頃)は、270年頃に10代崇神(251年-301年)を伴い倭国から大和国へ東遷したと考えられる。崇神天皇は物部氏と結託して全国の主要地を統一した。

600年ほど続いた弥生時代が終わり、箸墓古墳を画期とする古墳時代に入っていく。列島の中心地が倭国(北部九州)から大和国(奈良県)に遷っていった。

天照大神、月読尊、素戔嗚尊の三柱の神を祀る神社は数少ないが、東京都杉並区の都心に広大な「阿佐ヶ谷神明宮」(あさがやしんめいぐう)が鎮座している。   

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# by enki-eden | 2019-02-01 00:36

都久豆美命(つくつみのみこと)

天平5年(733年)、45代聖武天皇(701年-756年)に奏上されたと云われる出雲国風土記に、伊差奈枳命(いざなぎのみこと)の子と記されているのは、熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと、素戔嗚命)と都久豆美命(つくつみのみこと)がいる。

出雲国風土記、嶋根郡千酌駅家(ちくみのうまや)の由来に、『伊差奈枳命の御子、都久豆美命が千酌(ちくみ)に坐すので、地名は「都久豆美」と云うべきものを、今の人はまだ「千酌」と名付けたままである』と記されている。

都久豆美命は千酌の守護神、氏神であった。

都久豆美又は都久津美の語源は「月津美(つきつみ)」で、「月の神」だと考えられる。

月の位置によって潮の干満が発生するので、「月の神」は潮の干満を支配する航海安全の神となった。また、月齢による太陰暦(陰暦、lunar calendar)も造られた。

都久豆美命と月読命(つくよみのみこと)は同じと云う説もあるが、どちらも同じ月の神で伊弉諾命の子であっても、私は別神だと思います。「ツクツミ」と「ツクヨミ」はよく似た神名ですがねぇ・・・

島根県松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌に爾佐神社(にさじんじゃ)が鎮座、日本海に面した千酌湾の西側に位置し、祭神は都久豆美神、伊邪那岐命、伊邪那美命で、社殿は東向き。月の出る東を向いているのか。

当社は旧・出雲国嶋根郡に鎮座の式内社で、「注連縄の向きが向かって左が元となっているのは出雲大社に倣ったと考えられる。   

千酌湾の東側には、美保関町北浦にある稲倉山(30m)の麓の伊奈頭美神社(いなづみじんじゃ)が東向きに鎮座、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたま)。

当社も拝殿の注連縄は向かって左が元となっている。

伊奈頭美神社の東に円錐形をしたランドマークの麻仁曽山(まにそやま、172m)があり、麓に伊奈阿氣神社(いなあきじんじゃ)が鎮座している。

以前は麻仁曽山の山頂に鎮座していたので、神社の神体山となっている。祭神は天御中主尊と事代主命。拝殿の注連縄は当社も向かって左が元となっている。

  赤が爾佐神社、黄が伊奈頭美神社、青が伊奈阿氣神社。


千酌湾沿いの三神社は、それぞれ目の前に漁港があるので、古代から渡航者や漁民が航海安全・豊漁を神社に祈願したのでしょう。

現在、隠岐の島に行く港は千酌の8km東にある七類港(しちるいこう)と鳥取県の境港(さかいみなと)であるが、古代には千酌港から隠岐の島に渡った。それで、千酌に駅家(うまや)が設けられ、交通の要所になっていた。


日本書紀の「国生み」では、伊弉諾命・伊弉冉命が国生みしたのはオノコロ島、淡路洲(あわじのしま)、大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま、大和)、伊予の二名洲(ふたなのしま、四国)、筑紫洲(つくしのしま、九州)、次に億岐洲(おきのしま)と佐度洲(さどのしま)・・・とあり、隠岐島はかなり早くから倭国勢力と結びついている。

素戔嗚命や大己貴命は日本海を島根半島沿いに東に渡航し、千酌に上陸、天気の回復を待って60kmほど離れた隠岐島へ渡航していったと考えられる。隠岐島は日本海交易ルートの重要な拠点であった。

素戔嗚命が千酌に来た時には、都久豆美命も一緒に航海したかもしれない。

稲倉山、伊奈頭美神社(稲積)、伊奈阿氣神社(稲開き)は農業の稲関連の名になっているが、本来は古代のイナ(鉄)ではないでしょうか。

海人族と踏鞴製鉄は密接に関連しており、「イナ(鉄)」が古代の地名・社名に使われ、「伊奈、伊那、猪名、衣奈、猪野、伊野、伊根、井根、稲」になっている場合が多い。

稲佐山(いなさやま)、猪名川(いながわ)、猪野川(いのがわ)、稲荷(いなり)神社、稲爪(いなづめ)神社など。

「イナ(鉄)」は踏鞴製鉄(たたらせいてつ)に関連するが、博多湾に注ぐ川に多々良川(たたらがわ)があり、踏鞴製鉄に関連する川だったと考えられる。

素戔嗚の踏鞴製鉄の作業・鉄穴ながし(かんなながし)が川下の農業などに悪影響を与えたことが、記紀の素戔嗚と天照大神の争いとして描かれたように思います。

多々良川の上流は猪野川(いのがわ)と呼ばれ、「多々良」も「猪野」も製鉄関連の名です。上流には伊野天照皇大神宮(祭神は天照大神)が鎮座する。(福岡県糟屋郡久山町猪野604

猪野川中流の久山町立山田小学校前に、神功皇后小山田邑斎宮伝承地がある。奴国の都は当地かもしれないが、もっと下流の香椎宮の辺りの方が相応しいか。防備の面から考えると小山田の方が安全だ。

古賀市小山田346にも小山田斎宮(おやまだいつきのみや)がある。

中世になり、農業の重要性が認識されるようになると、イナ(鉄)はイネ(稲)に変化して農業用語になっていった。出雲の千酌米も人気があるようだ。

出雲国風土記に記される50柱ほどの神々の中で「大神」と云われるのは、熊野大神(素戔嗚尊)、佐太大神(猿田彦命)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大穴持命)、野城大神の4神である。

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# by enki-eden | 2019-01-26 10:54

豊受大神(とようけのおおかみ)

 古事記によると、伊邪那美命(いざなみのみこと)の尿(ゆまり)から弥都波能売神(みつはのめのかみ)と和久産巣日神(わくむすびのかみ)が生まれた。
 和久産巣日神の子が豊宇気毘売神(とようけひめのかみ)で、亦の名を豊受大神、登由宇気神(とゆうけのかみ)、止与宇可乃売神(とようかのめのかみ)などと云われる女神である。

 豊受大御神は三重県伊勢市豊川町の伊勢神宮外宮(豊受大神宮、とゆけだいじんぐう)に奉祀されており、食物・穀物を司る女神である。
 止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう、804年)によると、21代雄略天皇(432年-479年)の夢に天照大神が現れ、「等由気大神(豊受大神)を御饌都神(みけつかみ)として連れて参れ」と云われたので、478年に雄略天皇は伊勢国に外宮を建てたと云う。
 そして、丹波国で海部氏が祀る「籠神社」(このじんじゃ)の奥宮である真名井神社から豊受大神を遷座し、度会氏(わたらいうじ)を神官とした。
      
 伊勢神宮内宮(皇大神宮)は既に、11代垂仁天皇(265年-310年)の時に三重県伊勢市宇治館町(うじたちちょう)に建てられていた。

 籠神社奥宮の真名井神社の背後にある磐座の石碑には「塩土老翁(しおつちのおじ)、大綿津見神、亦名住吉同体、亦名豊受大神」とあるので、豊受大神は女神ではなく男神となるが・・・
 籠神社の説明によると、「豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)・御饌津神(みけつかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘女神・豊受比売とも云います」とあるので、豊受大神は男神であるが、顕現する姿は女神になっていると云う。

 この顕現の仕方は、奈良時代から始まり1,200年以上続いた神仏習合の名残でしょう。明治時代に入ると、神仏分離令により神仏習合は禁止されたが、神仏習合の名残は現代にも散見される。

 伊勢神宮内宮は天照大御神を祀るので正殿は女神仕様で、千木は内削、鰹木は10本の偶数、豊受大神を祀る外宮の正殿は男神仕様で、千木は外削、鰹木は9本の奇数になっている。

 外宮の禰宜を世襲で務めてきた度会氏は天牟良雲命(あめのむらくものみこと)の末裔。天牟良雲命(170年頃出生)の孫が天日別命(あめのひわけのみこと)で、天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)の12世孫と云われており、年代は合うが・・・
 天牟良雲命(天村雲命)は天香語山命(155年頃出生、尾張氏の祖)の子で、天火明命(140年頃出生)の孫。天香語山命と天村雲命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って大和国にやってきた。
   
 三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)は尾張国三宮の熱田神宮(あつたじんぐう、名古屋市熱田区)の神体であるが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも云う。
 この剣は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治した時に、大蛇の尾から出てきた霊剣で、天照大神に献上した。     

 天日別命は神武天皇(181年-248年)が大和国へ東遷してきた際に、伊勢国を平定し、伊勢国造の祖となった。
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# by enki-eden | 2019-01-17 16:12

愛宕山の天狗

 京都市右京区の愛宕山(あたごやま、あたごさん、924m)山頂に愛宕神社が鎮座。祭神は伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命。
 愛宕山は山城国と丹波国の国境に位置し、嵐山(381.5m)の6.5km北西にある。愛宕神社は、全国で火伏せの神様を祀る約900社の総本社になっている。
 愛宕山は神戸の六甲山(932m)とほぼ同じ標高ですが、六甲山のように車では登れないので参拝は「登山」になり、私には無理です。私が生まれた昭和18年頃にはケーブルカーで行けたようですが、戦時中に撤去され今はありません。




 修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年)が愛宕山(朝日峰)に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)に遭い、神廟を設けた。
 49代光仁天皇(709年-782年)の勅を受けた和気清麻呂(733年-799年)が、唐の五台山に倣って、781年に愛宕権現白雲寺などの愛宕五坊を愛宕山に建立し、神仏習合の山岳修業霊場となった。

 56代清和天皇(850年-880年)は愛宕山南麓にある水尾山(484m)との関係が深く、水尾天皇とも云われる。清和天皇は水尾山陵に埋葬され、500mほど東の清和天皇社に祀られている。



 愛宕山の山岳信仰と修験道による愛宕権現(あたごごんげん)は、愛宕山白雲寺において伊弉冉尊(いざなみのみこと)と将軍地蔵を神仏習合により融合したものであった。
 将軍地蔵は武装した姿で軍馬にまたがっており、武家が戦勝を祈って信仰した地蔵菩薩。天正10年(1582年)、明智光秀(1528年-1582年)が織田信長(1534年-1582年)を討つ前に愛宕山に登ったと云う。 「ときは今 あめが下知る 五月かな」

 江戸時代には白雲寺から発祥した愛宕信仰が全国に広まっていったが、明治の神仏分離令により、愛宕権現も白雲寺も廃止され、愛宕神社に改められた。
 明治5年には修験禁止令も出された。

 1889年(明治22年)に就役した海軍の砲艦「愛宕」は愛宕山に因んで命名され、日清戦争・日露戦争などに参加したが、1904年(明治37年)に座礁により沈没した。
 2代目の重巡洋艦「愛宕」は1932年(昭和7年)に就役、多くの戦績を残したが、1944年(昭和19年)にアメリカの潜水艦の攻撃で沈没した。艦内神社はもちろん愛宕神社であった。
 同じく愛宕山に因んだ海上自衛隊のイージス型護衛艦「あたご」が2007年(平成19年)に就役した。艦内神社は愛宕神社で、お賽銭箱もある。
 弥生時代にも、舟や丸木舟には航路の安全を守るために船魂神(ふなだまのかみ)を祀っていた。この信仰は連綿と現代まで続いている。

 毎年8月16日の京都五山の送り火の時は、広沢池(京都市右京区嵯峨広沢町)の真西2kmの水尾山(曼茶羅山、まんだらやま)では鳥居の形に松明が点火される。



 付近には52代嵯峨天皇陵(842年崩御)と91代後宇多天皇陵(1324年崩御)がある。
 また、近くには祇王寺(ぎおうじ)もあり、50年前に訪れたことを思い出しました。祇王寺は紅葉の美しい尼寺で、平家物語に登場します。

 愛宕神社の若宮社には伊弉冉尊の生んだ迦遇槌尊(かぐつちのみこと)が祀られており、迦遇槌尊の化身を愛宕修験の愛宕太郎坊天狗とした。
 愛宕太郎坊天狗は多くの眷属を従える「日本一の大天狗」となった。

日本八天狗
 1、愛宕山太郎坊(京都市右京区)、天狗の総大将。
 2、比良山次郎坊(滋賀県大津市)、比叡山に居たが、比良山に移った。
 3、飯綱三郎天狗(いづなさぶろう)、白狐に乗る長野県飯綱山のカラス天狗。
 4、大峰山前鬼坊(おおみねぜんき、奈良県大峰山)、前鬼は役小角(役行者)の高弟で、
   妻の後鬼(ごき)と共に役小角に従った。
 5、鞍馬山僧正坊(そうじょうぼう、京都市左京区)、牛若丸に武術を教えた鞍馬天狗。
 6、白峯相模坊(香川県坂出市)、崇徳上皇が配流地の讃岐国で1164年に憤死した時に、
   崇徳上皇を慰めるために、相模国から讃岐国の白峯山へ飛び移った。
 7、相模大山伯耆坊(神奈川県伊勢原市)、伯耆大山から相模国へ飛んだ。
 8、英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう、福岡県田川郡)、高住神社(英彦山神宮の摂社)。
   天津日子忍骨命(天忍骨命)が天降ったもので、役小角がこの山で修行した時、
   それを祝福して出現した。
 
 日本書紀によると、
『34代舒明天皇9年春(637年)、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。人々は「流れ星の音である」と云い、あるいはまた「地雷(つちのいかづち)である」と云った。
 新漢人(いまきのあやひと)の僧旻(そうみん、653年没)は「流れ星ではない。これは天狗(あまつきつね)である。その吠える声が雷に似ているだけだ」と云った。』
とあるが、これが天狗の初見となった。

 このあと、役小角(役行者)が大和葛城山、大峰山、吉野山などで山岳修業を行い、全国の山を修業して修験道を開始、各地に天狗が現れたと云う。
 2013年5月8日投稿の「吉野水分神社と金峯山寺」をご参照ください。
   
 「猿田彦命」が天狗であると云う説も有力だ。神社の祭りの行列で先導しているのは猿田彦命で、天狗の面をかぶっている。   
 猿田彦命(2世紀後半)と天狗(7世紀から8世紀以降)が結び付けられたのは、修験道により天狗が出現して猿田彦命の風貌と似ていることが原因と考えられる。
 猿田彦命の風貌は日本書紀によると、「その鼻の長さ七握(ななつか)、背の高さ七尺あまり、口の端が明るく光っている。目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで照り輝いていることは赤ほうずきに似ている」とある。  
 猿田彦命の風貌からすると、古代に日本へやってきたフェニキア人かもしれない。2017年1月1日投稿の「日本人とフェニキア人」をご参照ください。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-09 07:16

幸連5遺跡

 14,000年前から始まった縄文時代は、列島全体にほぼ均質な文化が広まり、広範囲の交易も行われていた。
 縄文人は、民族的にもY染色体ハプログループD2と云う世界でも数少ないDNAを特色としている。
列島全体に交易がおこなわれていたことは、考古学的出土物により証明される。

 津軽海峡に面した北海道上磯郡木古内町幸連(かみいそぐん きこないちょう こうれん)の「幸連5遺跡」は縄文時代前期から中期後半まで連続的に営まれていた。
 長期の遺構が複雑に絡み合って、100万点を超える遺物が発掘されている。
 竪穴住居跡から出土した4,300年前の石製品は、砂岩を正三角形の板状に削り、顔料で人の顔が描かれていた。三角形の一辺は12cmほどで、厚さは1.4cm、重さは218gあった。



 4,500年前の竪穴住居跡からの出土物には、長野県和田峠(1531m)で産出される黒曜石製の矢じり2点がある。和田峠と木古内町の直線距離は650kmも離れており、最も遠方での発見になった。和田峠産の黒曜石は透明感があり、元素の分析結果で判明した。

 和田峠周辺は縄文時代には黒曜石の産地で、石鏃に加工され交易品となった。筑摩山地の中央分水界にあり、峠の北側は千曲川から信濃川により日本海に通じ、峠の南側は諏訪湖から天龍川により太平洋に通じる。川と海の舟運により、ここから全国に流通していった。

 幸連遺跡の西にある木古内町札苅(さつかり)の札苅遺跡は縄文時代前期(6,000年前から5,000年前)から晩期の集落を代表する遺跡で、主に3,000年前から2,000年前の集落が多い。
 出土物に土偶があるが、高さ6cmから8cm、幅5cmの小型の板状のもので祭祀に使われた。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
# by enki-eden | 2019-01-07 08:44

天日槍(あめのひぼこ)は神武天皇の傍系か

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 兵庫県北部の但馬国(たじまのくに)は、2世紀に出雲国の大己貴命(大国主命、160年頃出生)一族が開拓したが、次に天火明命(あめのほあかり、140年頃出生)一族がやってきて開拓した。
 3世紀半ばになると天日槍命(あめのひぼこ、230年頃出生)が新羅から但馬国にやってきて開拓したと云う。

 但馬国の歴史書に「国史文書 但馬故事記」がある。記紀以外は偽書とされることが多いが、但馬国の歴史を詳しく述べている。

 「国司文書 但馬故事記」の第5巻出石郡故事記によると、6代孝安天皇(229年頃-270年頃)の時代に(269年頃)、新羅の王子・天日槍命が帰化したとある。
 天日槍命は神武天皇(181年-248年)の兄・稲飯命(いなひのみこと、稲氷命)の5世孫であると出石郡故事記に記されている。
 「新撰姓氏録」(815年)にも「右京 皇別 新良貴 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男 是出於新良国 即為国主 稲飯命者 新羅国王者祖合 稲飯命之後也」とあり、稲飯命は新羅王の祖とある。

 稲飯命は弟の磐余彦(いわれひこ、神武天皇)の東征に従い、西暦204年に九州を出発して大和国を目指したが、紀伊水道で暴風に逢い漂流した。
 稲飯命は新羅にたどり着いて国王となったと云う。子孫の天日槍命は王子であったが、先祖の国を目指し、筑紫国(九州)→穴門国(下関)→針間国(播磨国)の宍粟(しそう)郡に留まった。
 天日槍命の希望により孝安天皇は多遅摩国(但馬国)を与え、多遅摩国造にした。天日槍命は出石県主の天太耳命(あめのふとみみ)の娘・麻多烏(またお)を妻にし、但馬諸助(たじまもろすく)を生む。

 天日槍命は但馬国一宮の「出石神社」に祀られており、子孫には神功皇后(321年-389年)がいる。 2013年8月19日投稿の「但馬国考古学」をご参照ください。
  
 私見ですが、天日槍命の出自は新羅ではなく、朝鮮半島南部の任那(みまな、伽耶)ではないかと考えています。当時の九州北部と朝鮮南部は、揚子江(長江)からやってきた呉人の小国家群が多く、当時は同一文化の交流地域だったと考えています。
 3世紀において新羅(斯盧国)は任那(伽耶)の北方にあり、高句麗と接していたが、8世紀の記紀成立の頃には任那の地は新羅になっていたので、記紀では天日槍命を新羅の王子と呼んだのではないか。

 任那(伽耶)も九州北部と同じ倭人の小国家群であった。任那の王族は北部九州の奴国王などと同族関係にあったと考えられる。
 実際に、斯蘆国初代国王となった赫居世は倭(奴国)の王族と繋がっていたようである。

 そして、天日槍命の子孫や帰化人が、自らの出自を皇族につなげるために、新羅の王となった稲飯命の子孫であると主張したのかもしれない。
 日本書紀には、神武天皇の兄の稲飯命と三毛入野命(みけいりのみこと)は紀伊水道で暴風に遭った時に海中に没し、常世国(とこよのくに)にいったと記されているが・・・
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# by enki-eden | 2019-01-01 00:10

古代掘立柱建物の地中梁(ちちゅうばり)

 鳥取市の松原田中(まつばらたなか)遺跡(鳥取市松原字中田中)は、弥生時代から古墳時代の集落遺跡で、高床倉庫の基礎を補強するための「地中梁(ちちゅうばり)」が、平行して2本発掘されていた。
 3世紀後半頃に使われた地中梁で、鳥取県埋蔵文化財センターによると、2本が腐食や欠損のないほぼ完全な形で出土するのは異例で、今回出土した全長7.33mと7.22mの2本の地中梁(杉材)は国内最長級の梁である。


  パンフレット
 「地中梁」は地中に埋めた長い木材で、軟弱な地盤でも建物が傾かないように地中梁を平行に2本並べ、その上に建物の柱を立てることで安定させていた。
 それぞれに4本の柱を組み合わせた痕が残っており、柱の位置や建物の構造を特定することができた。2本の梁は地中50cmから80cmほどの深さに、幅3mほどの間隔をあけて並行に敷設されていた。

 松原田中遺跡では2013年、国道9号線の改築に伴う発掘調査で15棟の高床倉庫の建物跡が確認され、そのうち8棟から地中梁が出土していた。

 その他、石川県金沢市大友西遺跡からも3世紀前半頃の地中梁が1本(8mほど)出土していた。金沢市近岡遺跡からは2本揃って出土、新潟県佐渡市蔵王遺跡からも2本揃って出土していた。
# by enki-eden | 2018-12-29 14:36

物部大咩布命(もののべのおおめふのみこと)

 物部の祖・饒速日(にぎはやひ、165年頃出生)から7代目の「伊香色雄命」(いかがしこお、255年頃出生)は9代開化天皇(244年-294年)と10代崇神天皇(251年-301年)に仕えた。
 伊香色雄は「石上神宮」を建て、氏神として祖神・素戔嗚の父の布都を祀った。
 
 物部大咩布命(290年-364年)は伊香色雄命の末の息子で、11代垂仁天皇(265年-310年)に仕え、若湯坐連(わかゆえのむらじ)などの祖とされている。

 兵庫県宝塚市売布(めふ)山手町に鎮座する売布神社(めふじんじゃ)は、近世まで貴船神社と称していたが、延喜式神名帳の摂津国河辺郡に記載の「売布神社」と判明したので、18世紀に社名を変更した。
 社伝によると、605年の創建で、里人が下照姫神(高比売神)と天稚彦神を祀ったと云う。
当地周辺は物部若湯坐連(もののべのわかゆえのむらじ)が拠点としており、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が若湯坐連らの始祖になっているので、当社の本来の祭神は意富売布命(大咩布命)ではないか。

 兵庫県三田市酒井宮ノ脇に鎮座の高売布神社(たかめふじんじゃ)の祭神は、下照比売命と天稚比古命になっている。
 物部大咩布命を祭神とする説もある。
 赤のアイコンが宝塚市の売布神社、黄が三田市の高売布神社



 物部大咩布命の系図は、
 饒速日→宇摩志麻治→彦湯支→出石心→大矢口宿祢→大綜麻杵→伊香色雄→大咩布
 となっている。
 新撰姓氏録の「山城国 神別 天神 真髪部 造 神饒速日命7世孫大賣布乃命之後也」とあり、「和泉国 神別 天神 志貴 県主 饒速日命7世孫大賣布命之後也」とある。

 9世紀に編纂された但馬故事記(但馬国司文書)によると、
 『物部大売布命は日本武尊(やまとたけるのみこと)に従い、東夷(あづまえびす)を征伐したことを賞し、摂津の川奈辺(川辺郡)、多遅麻の気多(けた)郡、黄沼前(きぬさき、城崎郡)の三県を与えられた。
 大売布命は多遅麻の気多郡に入り、気多の射楯(いだて)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。』
と記されている。

 射楯宮は但馬国気多郡高田郷石立(射楯)村にあったが、現在の地名は兵庫県豊岡市日高町国分寺797となっており、売布神社が鎮座、祭神は「気多の大県主」と呼ばれた物部連大売布命である。大売布命は神功皇后2年(西暦364年)に当地で亡くなり、射楯宮の後方にある射楯丘に埋葬された。


  
 日本武尊の東国征伐は妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が同行したので、船団を運用したのは弟橘媛の属する穂積氏だったと考えられる。穂積氏は物部一族であるので、その船団を大売布命が指揮したのでしょう。「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-12-25 11:38

但馬国(たじまのくに)

 但馬地方は兵庫県の北部の地域で、北は日本海、南は播磨地方と丹波地方、東は京都府、西は鳥取県と接している。
 但馬は全体に山が多いが、兵庫県の面積(8,396㎢)の25%(2,134㎢)を占め、東京都の面積(2,188㎢)に近い。
 山口県から兵庫県まで続く東西500㎞の中国山地は標高1,000m前後で、磁鉄鉱系の花崗岩が多く砂鉄が豊富で、川も多いので、古代から吉備国を中心として踏鞴製鉄が盛んに行われた。
 但馬では高い山もあり、氷ノ山(ひょうのせん、1,510m)が一番高い。但馬の冬は雪が降って寒く、スキー場が賑わう。夏は逆にフェーン現象で暑い。

 但馬地方は但馬北部(北但)の豊岡市と美方郡(みかたぐん)、但馬南部(南但)の養父市(やぶし)と朝来市(あさごし、一部は播磨地方)からなっている。
 豊岡市に但馬飛行場(コウノトリ但馬空港)があるが、播磨から行くにはJR播但線か播但連絡道路が便利。私はよく播但連絡道路を利用します。途中、道の駅「ようか但馬蔵」で休憩します。
 
 但馬国総社は氣多神社(けたじんじゃ、大己貴命、豊岡市日高町上郷)、一宮は「出石神社」(いずしじんじゃ、天日槍命、豊岡市出石町宮内)、二宮は「粟鹿神社」(あわがじんじゃ、日子坐王、朝来市山東町粟鹿)であるが、粟鹿神社も但馬国一宮を称し、全国一の宮会に加盟している。
  
 但馬国風土記は残っていないが、9世紀から10世紀にかけて編纂された「但馬故事記(但馬国司文書)」は残っているので、但馬の旧事を知ることができる。

 先代旧事本紀の国造本紀によると、但遅馬国造(たじまのくにのみやつこ)は13代成務天皇の時代(4世紀前半)に、竹野君と同祖の彦坐王(ひこいますのきみ、9代開化天皇の皇子)の五世孫の船穂足尼(ふなほのすくね)を国造に定めたとある。
 朝来市桑市の船宮古墳(ふなのみやこふん)が船穂足尼の墳墓と伝わるが、5世紀後半築造で少し年代が合わない。前方部に船宮神社が鎮座している。
 船宮古墳は但馬地方で2番目に大きな前方後円墳で、総長117m、墳丘長91m、後円部径49m、高さ6mの三段築成。   
 但馬地方最大の前方後円墳は墳丘長136mの「池田古墳」(朝来市和田山町平野)で、5世紀初め頃の築造。原型を留めていないが、兵庫県では4番目の大きさ。こちらが船穂足尼の墳墓かもしれない。
 但遅馬国造は但馬国東部(現在の豊岡市、養父市、朝来市)を治めた。

 同じく先代旧事本紀の国造本紀によると、成務天皇の時代に、二方国造(ふたかたのくにのみやつこ)を定め、出雲国造と同祖の遷狛一奴命(うつしこまひとぬのみこと)の孫の美尼布命(みねふのみこと)に任じた。二方国造は但馬国西部(現在の美方郡)を治めた。
 兵庫県美方郡新温泉町竹田1に鎮座の面沼(めぬま)神社は二方地方の総社で、二方国造の美尼布命を主祭神としている。

 但馬の地名由来は、確かなものはないが、私見では「田島」だと考えている。つまり、九州の「田島(たしま)」からの移住者が多かったのではないか。「たしま」→「たじま」に変化した。
 福岡県宗像市田島(たしま)2331に鎮座の宗像大社は宗像氏の本拠地。佐賀県唐津市呼子加部島に鎮座の田島神社(たしまじんじゃ、宗像三女神)は宗像大社から勧請した。
 宗像氏の祖神は大国主命(大穴持命、160年頃出生)で、大穴持命が但馬巡視をして田島と名付け、その後多遅摩→但馬に変化したか。

 但馬開発の祖神は天日槍命(あめのひぼこのみこと)となっている。天日槍命は新羅の王子と云われており、私見ですが、230年頃の出生。
 天日槍命は多遅摩俣尾(たじまのまたお)の娘・前津見(さきつみ)を妻とする。或いは、太耳の娘の麻多烏(またお)を妻とするとも云う。
 天日槍命の7代目に息長帯比売命(神功皇后、321年-389年)がいる。私は、天日槍命は新羅人ではなく、任那(みまな、562年滅亡)の倭人であると見ています。

 大分県日田市田島(たしま)の東隣りは日高町で、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)で有名なダンワラ古墳があった。2017年3月30日投稿の「比多国造」をご参照ください。
      
 日田市の田島にも兵庫県の但馬にも日下部氏の本拠地がある。船穂足尼の子孫に但馬国造の日下部君がおり、その後裔が日下部氏となっている。日下部氏は全国に広がっている。
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# by enki-eden | 2018-12-19 11:03

淡路沼島(ぬしま、おのころ島)

 淡路島の南端沖に兵庫県南あわじ市沼島がある。私は沼島に渡ったことはないが、淡路島を車で一周した時に海岸沿いの道路から良く見えた。
 周囲9.5kmの島で、500人弱が住んでいるが、都市部への人口流出で大きく減少した。



 日本書紀によると、『伊弉諾尊と伊弉冉尊が「天の浮橋」に立って、天瓊矛(あめのぬぼこ)で青海原をかき回して引き上げると、矛の先からしたたり落ちる潮がかたまって島となった。それを名付けて「おのころ島」と云った。
 二柱の神は「おのころ島」に降りて大きな御殿を造り、「天に届く柱」を立てた。』とある。

 沼島が「おのころ島」だと云われているので、沼島の東海岸にそそり立つ30mの上立神岩(かみたてがみいわ)が「天に届く柱」なのかもしれない。天の御柱(あめのみはしら)とも云う。
 沼島のパンフレット

 淡路島の北端の岩屋漁港に小さな「絵島」があるが、私は子どもの頃から絵島が「おのころ島」だと思っていた。ちょっと小さすぎるかな?

 沼島(おのころ島)には神社も数社あり、西海岸の山の上に自凝神社(おのころじんじゃ)が鎮座している。祭神は勿論、伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。

 淡路島内の南あわじ市榎列(えなみ)下幡多(しもはだ)には自凝島神社(おのころじまじんじゃ)が鎮座、祭神は同じく伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。
 立派な赤い大鳥居が目立つ。

 大和朝廷にとって瀬戸内海を西へ遠征・進出するには、拠点として淡路島は重要な立地にあった。淡路島の海人族は優秀な水軍をもっており、造船も得意で、大規模の金属工房もあった。
 明石海峡を抑える部族もあり、阿波国(徳島県)・淡路島・和泉国(大阪府南西部)を交流して活躍する部族などもあり、朝廷にとっては淡路海人族を味方に取り込む必要があった。

 淡路島は古代から大和政権と強く結びついており、海産品などを献ずる御食国であった。先代旧事本紀の国造本紀によれば、16代仁徳天皇(386年-429年)の御代に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼(やぐちのすくね)を淡道国造に定めたとある。
 仁徳天皇は頻繁に淡路島へ行っている。淡路島には良い狩場があり、伊弉諾命が国生みで最初に造ったのがおのころ島(沼島)と淡島(淡路島)であり、伊弉諾命(西暦125年頃出生)が淡路島の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)で余生を送った地であることが仁徳天皇を引き付けたのでしょう。

 堺市の仁徳天皇陵(墳丘長486m)を宮内庁と堺市が共同調査した。周濠の堤(つつみ)に石敷きがあり、その上に円筒埴輪がびっしりと1列に並んでいたことが分かった。
 埴輪は5世紀前半から半ばの特徴を持っているので、429年に崩御した仁徳天皇の陵墓に間違いないと私は思います。多くの人は仁徳天皇が4世紀末頃に崩御したので、埴輪の年代と数十年ほど合わないと云っているが、崩御年の推定を間違えているのが原因だと思います。
 今回の調査は天皇陛下の承諾が得られたので実現したが、今後も宮内庁管理の陵墓の調査を進めてほしいと思います。2019年5月1日に次期天皇に即位される皇太子殿下にも陵墓の調査にご理解を深めていただきたいですね。
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# by enki-eden | 2018-12-13 09:32

劒之宮王子神社(つるぎのみやおうじじんじゃ、加西市)

 兵庫県加西市(かさいし)西剣坂町(にしけんざかちょう)818  電0790-46-0215
 神社の前に車を停められます。 加西市の西端で、姫路市との境の山麓に鎮座。

 祭神 国常立尊(くにのとこたちのみこと)、
 配祀 伊弉諾尊、伊弉冉尊、素戔嗚命。



 私見ですが、祭神の国常立尊は西暦元年生まれの初代奴国王で、西暦57年に後漢に朝貢した「漢委奴国王」だと見ています。
 奴国は博多湾周辺の国で、国常立尊の時に倭国(北部九州)の海外交易を代表する国になった。
 国常立尊の生年は西暦元年と云いましたが、西暦元年は西暦1年で、その前年は紀元前1年です。その間の「紀元0年」と云うのは存在しません。
 従って、紀元前から紀元後に亘る期間の年数を計算するには1年を引く必要があって、ややこしい。
 日本の元号も同じで、平成元年(1989年)は平成1年であって、平成0年ではありません。人の年令も現在では生まれた時は0才ですが、昔は1才でした。
 天文学では「紀元0年」を仮に設けて計算しやすくしているようです。

 少彦名神(すくなひこなのかみ)が当地を治めていた時、剣が出土したので、この剣を「十束の剣」と名付けて祀ったのが当社の初めと云う。播磨鑑(はりまかがみ)には「剣の宮」と記されている。
 貞永元年(1232年)に刀鍛冶が参拝して詠んだ歌、
   いく代々の ためしともなれ 神代より たえず祀れる みつるぎの宮

 天正の頃(16世紀後半)、社殿が兵火により焼失したので再建した。「天下賦武」の信長軍は多くの寺社を破壊した。宗教中心の社会を変える「宗教改革」の役割も果たしたことになるが、犠牲が大きかった。

   石の鳥居と参道の灯篭
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   絵馬殿
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   拝殿
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   本殿の前に小さな狛犬と少し右に石の祠
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   本殿の左にも小さな狛犬と石の祠
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  鳥居の左奥に大歳神社、兵庫県には大歳神社が400社近くもある。
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# by enki-eden | 2018-12-05 09:54

諏訪神社(すわじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市山田町多田920   神社の北に車を停めるスペースがあります。
祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)



 当社は、6世紀前半築造の前方後円墳(全長40m)の横穴式石室が神座となっており、羨道入口に神殿が鎮座している。拝殿からは石室の入り口が見える。
 この古墳の石室は「諏訪の岩穴(いわあな)」と云われ、県指定重要有形文化財(史跡)になっている。地名をとって多田古墳とも呼ばれる。

 神社の説明によると、古墳の軸はほぼ東西向きで、後円部の南側に石室が開口し、入口前面に拝殿が造られている。石室内に石祠を置き、建御名方神を祀っている。

   石の鳥居と奥に拝殿、鳥居は北東にある。
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 建御名方神は出雲族の大国主命(160年頃出生)と高志国(越後)の沼河比売(ぬなかわひめ)の子で、武神、軍神として崇敬されている。

 建御名方神は、倭王の卑弥呼(天照大神②、179年-247年)が201年頃に強制した「国譲り」に反対して敗れ、信濃国(長野県)の諏訪湖に逃れたと古事記には記されている。
 建御名方神は諏訪の地を開拓して、信濃国一之宮の諏訪大社に祀られた。御名方(みなかた)の名は父・大国主命の本拠地・宗像(むなかた)が由来かもしれない。

 大国主命と神屋楯比売の子である事代主神は国譲りに賛成したので、現在でも宮中三殿の八神殿に高皇産霊神などと共に祀られている。

 出雲国風土記には、大穴持命(大国主命)と奴奈宜波比売命(ぬながわひめのみこと)の子に御穂須須美命(みほすすみのみこと)が記されており、建御名方神と同じと云われる。
 建御名方神は母・沼河比売の里(糸魚川市)からヒスイで有名な姫川を遡り、諏訪湖に落ち着いたのではないか。
 妃は八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、安曇氏と云われる。安曇氏が開拓した安曇野(あづみの)は諏訪湖の北30kmほどにある。
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# by enki-eden | 2018-11-29 09:23

甲八幡神社(かぶとはちまんじんじゃ、姫路市)

兵庫県姫路市豊富町豊富1375   電079-264-4747   無料駐車場あります。
祭神 品陀別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)
配祀 息長足比女尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
   比咩大神(ひめおおかみ)



 15代応神天皇(363年-403年)が播磨国を巡幸の時、甲山(かぶとやま、107m)に登り、四方を視察した。播磨国風土記には甲山は冑山と記されている。
 応神天皇は灌漑用水路や道路を造らせて農業振興を図った。里人たちはその徳に感謝し、秋の収穫時には甲山に登り、初穂を供え都の方(東)に向かって遙拝した。
 応神天皇や神功皇后(321年-389年)が播磨国を巡幸した記録は各地に多い。

 859年(貞観元年)、甲山に社殿を造営し八幡神社とした。
 当社のすぐ西を流れる市川沿いにある神崎郡福崎町、姫路市船津町、姫路市砥堀(とほり)の地域には、平安時代末期に蔭山荘という荘園があり、当社はこの蔭山荘の総氏宮であったと云う。
 蔭山荘に因んで豊富町御蔭(みかげ)の地名ができたと考えられる。また、当地は踏鞴製鉄が盛んな地域であった。

 当社の3.2km南の豊富町御蔭に兼務社の新次神社(にすきじんじゃ)が鎮座、祭神は阿遅須伎高比古尼命(味耜高彦根神)。大和葛城から役行者(えんのぎょうじゃ、634年-706年頃)が来て祀ったと云う。近くに行者堂がある。

 甲八幡神社は歴代の姫路城主からも崇敬され、社領を寄進されたが、社殿は明治27年(1894年)に焼失し、明治34年(1901年)に再建された。
 入口の赤い大鳥居は平成2年(1990年)に再建された。

  入口の大きな赤鳥居、甲山の上にあるので遠方からもよく目立つ。
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   赤い大鳥居の左奥に牛の像と天満宮。
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   階段を登ると、社号標と拝殿。
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   幣殿と本殿
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   八幡神社では「神使いの鳩」が向かい合って「八の字」を象っている。
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   拝殿右手前の境内社(市杵島神社かな?)
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   拝殿右に手前から、藤原社、荒神社(竈神)、豊富命社、皇太神宮。
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   本殿裏に稲荷神社
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# by enki-eden | 2018-11-24 20:43

生田神社(いくたじんじゃ、神戸市中央区)

 兵庫県神戸市中央区下山手通1-2-1   電078-321-3851  駐車場は有料。
 祭神 稚日女尊(わかひるめのみこと)
 創建者 神功皇后(321年-389年)
 初詣は150万人ほどの参詣者で賑わう。

 生田神社会館で株式セミナーがありましたので、久しぶりに生田神社に参拝しました。
 弁財天のご朱印をいただきました
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 拝殿と本殿
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 本殿の西にある「生田の池」に市杵島神社(生田弁財天)、祭神は市杵島姫命。
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 2013年4月17日投稿の「生田神社」をご覧ください。  
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# by enki-eden | 2018-11-20 17:28

高羽丹生神社(たかはにぶじんじゃ、神戸市灘区)

 兵庫県神戸市灘区高羽町(たかはちょう)4-2-2  電078-851-2309
 車を境内に停められるが、通路は狭い。

 祭神 罔象売神(みつはのめのみこと、天照大神の姉妹)、
 明治42年5月5日に八幡大神と須佐男命を合祀。
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 通称・水神さん、「丹生川上神社」が本社。(奈良県吉野郡東吉野村小968)
   
 日本書紀によると、「伊弉冉尊(いざなみのみこと)が火の神の軻遇突智(かぐつち)を生んだ時に火傷をして亡くなった。その亡くなろうとするときに、土の神・埴山姫(はにやまひめ)と水の神・罔象女(みつはのめ)を生んだ」とある。

 神戸市の当地は古代には「覚美の郷(かがみのごう)」と云われ、鏡作部(かがみつくりべ)の人たちが住み、水神さんを祀った。
 昔は1.5km北にある六甲山中腹の「滝の奥」(標高約240m)に祀られていた。
   赤のアイコンが丹生神社、黄が「滝の奥」


 この山の尾根の東斜面にある桜ケ丘町の通称・神岡(かみか)より14個の銅鐸と7本の銅戈が出土し、国宝として神戸市立博物館に保存展示されている。 2013年7月31日投稿の「摂津の国の考古学」をご参照ください。

   鳥居と拝殿
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 拝殿右手前には樹齢500年余りの「高羽丹生の楠」があり、神戸市の「市民の木」に指定されている。一願成就のご神木となっている。
 拝殿左横には境内社の磐春稲荷神社と天照皇大神宮が鎮座している。
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# by enki-eden | 2018-11-13 11:12

権現宮證誠神社(しょうせいじんじゃ、神戸市)

 兵庫県神戸市須磨区権現町1-3-2  電078-731-2743   境内に車を停められます。
 祭神 五十猛尊
 通称「権現さん」、987年に紀伊熊野の大神を勧請。
 勝福寺(須磨区大手町、高野山真言宗)の地主神として祀られた。

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 紀伊熊野には熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)が鎮座し、神仏習合の影響を強く受けている。
 更に本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説により、仏や菩薩が本来の姿で、仮に神の姿をとって現れた神を権現(ごんげん)と云うようになった。
 しかし、明治元年(1868年)の神仏分離令により、熊野信仰は以前に比べると衰え、熊野を詣でる人は減少した。

 熊野本宮大社の縁起によると、「天火明命は熊野国造家の祖神で、天火明命の孫である熊野高倉下(たかくらじ)は神武東征に際し、布都御魂(ふつのみたま)の天剣を献じた。
 10代崇神天皇の御代、櫟(いちい)の巨木に三体の月が降臨した。熊野連が尋ねてみると、我は證誠大権現(家都美御子大神、けつみみこのおおかみ=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神と速玉之男大神)である。社殿を創って斎祀れと言われた。
 この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建された。」とある。

 素戔嗚尊の本地垂迹による名が證誠大権現(家都美御子大神)で、当社の社名は権現宮證誠神社であるので、祭神は素戔嗚尊かと思えば、素戔嗚尊の第2子「五十猛尊」になっている。
 尤も、家都美御子大神は諸説あって、素戔嗚、伊弉冉、五十猛などと云われている。
   
 当社は江戸時代には聖霊大権現(しょうりょうだいごんげん)と称していたが、神仏分離令後に祭神を五十猛尊とし、社名も證誠神社と改め、須磨一円の守護神となった。
 紀国造家(紀直氏)は神皇産霊尊の後裔氏族の代表で、「神産霊神三世孫で紀氏の大矢女命が、スサノオと結ばれ、五十猛命を生む」とある。五十猛命は筑紫紀氏と考えられる。

 熊野高倉下は父が天香語山(天火明命の子)で、母が大屋津姫(素戔嗚尊の娘)だから、素戔嗚系(物部氏)でもあり、火明系(海部氏・尾張氏)でもある。
 熊野高倉下の子孫の熊野直・熊野連・熊野国造は物部氏の後裔とされている。

   赤い鳥居
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   拝殿
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 境内社は拝殿右に末廣稲荷神社、拝殿左に大国主命、素戔嗚命と事代主命、大己貴命と蛭子命(えびすのみこと)が鎮座している。
               *****
 イギリスの歴史学者、アーノルド・トインビー(1889年-1975年)の言葉、
 「12才~13才くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる。
  文明が挫折する根本原因は内部の不和と分裂である。」
  2016年7月9日投稿の「戦後日本の反日思想」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-11-06 10:07

金屎・金糞(かなくそ)

 製鉄のときに生じる不純物を金屎・金糞(かなくそ)と云うが、鉱滓(こうさい)、スラグとも云う。

 滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山地(いぶきさんち)、その北部にある滋賀県長浜市と岐阜県揖斐郡(いびぐん)の境界に「金糞岳」(かなくそだけ、きんぷんだけ、1317m)があり、伊吹山(1377m)に次ぐ第2高峰となっている。
 金糞岳から流れ出る東俣谷川(ひがしまただにがわ)周辺に鉱山跡や製鉄遺跡がある。



 東俣谷川は草野川に合流、そして有名な姉川に合流して琵琶湖に注ぐ。琵琶湖周辺は弥生時代には有数の鉄の産地であったので、鉄と水運に関わる有力な諸豪族を輩出した。
 伊香氏(琵琶湖北部の伊香郡)、伊吹山西麓の息長氏(米原市、天野川流域)、坂田氏(姉川流域)、犬上氏(彦根市犬上郡・犬上川流域、子孫に犬上御田鍬)、海人族の和珥氏(大津市和邇)と安曇氏(高島市安曇川、あどがわ)など古代豪族がひしめいていた。

 金糞岳の山名由来が製鉄の「金糞(かなくそ)」だと云う。踏鞴製鉄(たたらせいてつ)の結果、山は禿げて、川は汚染された。
 川は踏鞴製鉄がなくなった今では清流となっているが、踏鞴製鉄が盛んだった頃は下流域の農業には大きな被害があり、農民と製鉄師の争いが頻発する。
 江戸時代の当地は争いを避けるために、「鉄穴流し(かんなながし)」は農閑期に農民によって行われた。農民にとっては良いシステムとなったのではないか。

 福井県と岐阜県の境界にある金草岳(かなくさだけ、1227m)も元は「金糞ヶ岳」で、山麓の鉱山跡に由来する名になっている。



 踏鞴製鉄により、森林が伐採され、大量の土砂が川に流れ出て川底が上がり、大雨の後には川の氾濫が起きる。鉄滓(てつさい)も大量に出て踏鞴製鉄の副作用は大きい。

 更に「金糞」地名を探してみると、
 滋賀県大津市の比良山地に金糞峠(880m)がある。
 愛知県一宮市木曽川町門間(かどま)金屎(かなくそ)と云う地名がある。
 青森県八戸市鮫町(さめまち)金屎(かなくそ)と云う地名もある。
 青森県三沢市金糞平(かなくそたい)は、出雲の製鉄集団が当地に来て踏鞴製鉄をした。たくさんの鉄滓(てつさい)が生じるので地名となったと云う。

 古代の踏鞴製鉄跡は全国各地で確認されている。製鉄炉跡、鉄器、鉄塊、鉄滓などが発見されており、弥生時代前期から踏鞴製鉄が行われていたことが分かる。
 2,400年ほど前から揚子江(長江)周辺から江南人(呉人、越人、楚人)が波状的に日本列島にやってきて弥生時代が始まるが、江南人が水田稲作と弥生土器に加え、砂鉄や褐鉄鉱を原料として踏鞴製鉄を行っていた。

 日本列島は砂鉄の宝庫であった。2,400年前の弥生時代の始まりから踏鞴製鉄が行われていた。しかし3,000年前の縄文時代に、鉄器はないが水田稲作を始めた一部の地域があったが、それは弥生時代とは呼べない。
 「水田稲作」、「弥生土器」、「踏鞴製鉄」が「広範囲の地域」に認められる2,400年前が「弥生時代」の始まりとなる。
 2013年5月に兵庫県立考古博物館で「踏鞴製鉄の再現」実演がありましたのでご覧ください。
「再現初回」「再現2回目」
   
 江南人の中でも渡来数の少ない楚人は文化程度も高く、武力も強大であった。楚人は出雲・吉備を中心として拡大していったが、青銅器と共に鉄器を製造・使用した。
 とりわけ、吉備国のY-DNAには縄文系が少なく、楚系・呉系・黄河系が多い。呉の国姓は姫(き)で、楚の国姓は羋(び)だから、合わせて姫羋(きび)→吉備(きび)になったと私は考えています。
 吉備の枕詞が「真金吹く(まがねふく)」であるように、吉備は踏鞴製鉄の盛んな鉄の産地であった。(真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ   古今和歌集)
 吉備国は黍(キビ)の産地だからと云う説が多いが・・・
 私見ですが、弥生時代末期の素戔嗚(140年頃-200年頃)は楚人の製鉄族だと考えています。

 弥生時代の金属器は青銅器が中心だったが、北部の黄河系の製鉄とは別系統で南部の長江系の踏鞴製鉄を行っていた。
 明治時代と同じで、弥生時代も「鉄は国家なり」であったようだ。記紀の2世紀頃の記事にも製鉄関連の物語が多いが、「製鉄」を「出産」の記事として間接的な比喩で描かれている。

 中国や朝鮮の製鉄は溶融法による銑鉄・鋳鉄から再度脱炭製錬をして「鋼」を造る溶融銑鉄製鉄法(間接製鉄法)であった。
 日本の踏鞴製鉄は、塊錬鉄製鉄法(直接製鉄法)であり、トルコ→インド→ミャンマー→雲南→揚子江(長江)の江南人へと伝わった製法で、江南人が日本列島に波状的に渡来して、踏鞴製鉄・弥生土器・水田稲作などが始まり、2,400年前の弥生時代に入っていった。
 踏鞴製鉄によりできた鉄は不純物を多く含むので、加熱してハンマーで折り返し打撃して不純物を除去する作業が必要になる。

 素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神①)の争いは日本書紀によると、「素戔嗚尊は春には田の畔を壊したり、秋には田の中を荒らした。また天照大神が新嘗祭(にいなめさい)を行っているときに、こっそりとその部屋に糞をした。また天照大神の御殿の屋根に穴をあけて馬の皮を投げ入れた。」などと記されている。

 「田を荒らした」と云うのは、素戔嗚が上流で踏鞴製鉄をしているので川が汚染されて、灌漑ができずに農作物が不作となったことを指すと考えられる。私見ですが、この川は福岡県粕屋郡を流れる猪野川(いのがわ)で、下流では多々良川(たたらがわ)となって博多湾に注ぐ。現在は清流になっている。

 「糞をした」と云うのは、踏鞴製鉄で生じる金糞(かなくそ)がたくさんできて困ったと云うことか。

 「御殿の屋根に穴をあけた」と云うのは、踏鞴製鉄により川の底に土砂が大量に堆積して氾濫がおき、建物が壊れたり、流されたと考えられる。
 このように、日本書紀の表現方法は間接的な比喩によることが多い。
             ***
 私事ですが、先週、買い物に行ってエレベーターに乗った時、後ろから大きな外人が乗ってきました。アメリカ人だと思われる彼はジーパンをはいていましたが、ファスナーが下がっていました。
 私は「前が開いているよ」と教えてあげましたが、彼は勘違いして持っている買い物袋を確認しようとしましたので、私は露骨ですが指をさして「前が開いているよ」と教えました。
 そうすると彼は慌ててファスナーを上げて、「英語ではXYZ(エックスワイジー)と言います」と云ったので大笑いになりました。
 エレベーターの中で英語の勉強をしました。「XYZ」と云えば良かったんですね。
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# by enki-eden | 2018-10-30 09:43

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

 三角縁神獣鏡は銅鏡の縁(ふち)の断面が三角の形になっている神獣鏡で、直径は20cm前後の大型鏡。これに対し、後漢(西暦25年-220年)や魏(220年-265年)から日本へ入ってきた銅鏡は小型と中型しかなかった。

 日本に前漢鏡が流入するのは弥生時代中期のBC2世紀頃からで、実用よりも祭祀用が主であった。墳墓の副葬品としても使われた。

 BC1世紀の前漢鏡は、文字を主要な文様とする「異体字銘帯鏡」を特色とする。これは、長年争っていた前漢と匈奴が和解した時期であるので、異民族向けに漢字を模様化して銅鏡に彫ったのではないか。北部九州の墓からも出土する。

 BC1世紀後半から紀元1 世紀前半頃になると動物を細線で描いた方格規矩四神鏡や細線式獣帯鏡が出現した。列島では100ほどの小国家群が成立しており、前漢・後漢と交易した。

 1 世紀中頃から後半にかけての後漢時代には、内行花文鏡、盤龍鏡、画象鏡が出現した。漢委奴国王の時代である。奴国が北部九州の倭国を代表して交易を進めた。
 西暦107年になると、奴国王帥升(4代目奴国王の角杙尊か)が後漢から倭王と認められ、交易的にも政治的にも倭国を代表するようになる。

 倭国でも3世紀頃から銅鏡が造られるようになった。卑弥呼(天照大神②、179年-247年)と臺與(天照大神③、235年頃-295年頃)の活躍時期である。
 天照大神が岩屋に隠れた時、石凝姥(いしこりどめ)が「八咫鏡」を造って天照大神を導き出した。これは卑弥呼が247年に亡くなり(岩屋に隠れる)、臺與が248年に2代目女王として就任する(岩屋から出てくる)ことを示している。

 石凝姥の父は天糠戸(あめのぬかと、鏡作連の祖)で、天糠戸は西暦185年頃の饒速日東遷の時に大和国へやってきた。
 大和では銅鐸を造っていたと考えられるが、10代崇神天皇(251年-301年)の時代になると銅鐸祭祀が廃止され、三角縁神獣鏡を大量に生産するようになる。
 三角縁神獣鏡は古墳時代前期の副葬品として大量に使用された。

 2世紀中頃までの遺跡から出土した中国鏡の分布は北部九州の倭国が中心であったが、饒速日東遷(185年頃)、神武東遷(204年頃)、臺與東遷(270年頃)などによって、北部九州の人々と文化が大和国に移動し、中国鏡の分布は近畿地方が中心に変わった。
 日本の政治・経済・社会の中心地が北部九州の倭国から近畿の大和国に移っていった。

 三角縁神獣鏡は4世紀から5世紀(古墳時代前期)築造の古墳から出土し、出土地は全国にあるが近畿地方に多い。これまでに500枚以上発見されている。
 鏡に彫られている神獣は、中国の神仙思想による仙人と霊獣である。

 卑弥呼が238年に魏に朝貢した時に100枚の銅鏡を受けたと魏志倭人伝に記載されており、三角縁神獣鏡がそれであると云う説が多い。
 故・森浩一先生(1928年-2013年)が、日本で大量に出土する三角縁神獣鏡が中国では1枚も出土していないのに魏からもらったと考えるのはおかしいと云われた。
 これに対して卑弥呼の特注品だから中国では出土しないと主張する人もいる。出土数が卑弥呼の100枚よりはるかに多いことについては、何度も朝貢交易したからだと云う。

 邪馬台国近畿説を唱える大阪大学大学院の福永伸哉教授(1959年生)は、三角縁神獣鏡の長方形鈕孔は魏の工房に特有な技術であるので三角縁神獣鏡は魏の工房で造られ、邪馬台国は近畿にあったと云っている。
 これに対しては、三角縁神獣鏡の鈕孔は8割ほどが不整形で紐を通しにくいので実用性はなく、副葬品として国内で造られたと云う反論がある。

 中国の考古学者の王仲殊氏(1925年-2015年)は、三角縁神獣鏡は呉(西暦222年-280年)の職人が日本で造ったもので、中国には三角縁神獣鏡は存在しないと述べている。また、平縁神獣鏡は長江流域の呉鏡で、黄河流域の魏鏡ではないとも云う。
 呉と交易している大和に呉の鏡職人が来たのか、280年に呉が滅んで、鏡職人が大和に亡命してきたのか。
 大阪府和泉市の黄金塚古墳出土の画文帯神獣鏡(径23cm)には、魏の年号である景初3年(329年)銘が彫られている。

 10代崇神天皇(西暦251年-301年)は、西暦300年頃に出雲大社の神宝を見たいと云って、物部武諸隅(280年頃出生)を出雲に遣わして、神宝を献上させた。
 その頃、丹波の氷上(ひかみ、加古川上流地域)の氷香戸辺(ひかとべ)が皇太子(11代垂仁天皇、265年-310年)に申し上げて、「子どもが神がかりして、出雲の神宝の鏡や玉について詠っています」と報告すると、崇神天皇は鏡を祀ることを命じた。

 これ以降、副葬品に大量の三角縁神獣鏡が使用されることになる。三角縁神獣鏡を大和で大量に製造し、各皇族・豪族に配布したと考えられる。
 大量に必要となった銅は中国から輸入したと考えられる。また、銅鐸祭祀を禁止したので、鋳つぶした銅鐸で鏡や矢じりを造ったようだ。銅鐸も原料は中国から輸入していたと考えられる。

 奈良県磯城郡田原本町八尾に「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)が鎮座、当地に鏡作部(かがみつくりべ)が居住して鏡を製造した。祖神は石凝姥(いしこりどめ)で神社の創建は崇神天皇6年。   



 このほか、当地周辺には鏡作麻気神社(小阪)、鏡作伊多神社(2社、宮古と保津)、石見鏡作神社(石見)も鎮座している。

 「黒塚古墳」からは画文帯神獣鏡1枚と三角縁神獣鏡が33枚出土した。    
 画文帯神獣鏡は3世紀中頃築造の「ホケノ山古墳」から出土、中国南部の呉で造られ、近畿地方に出土が多い。   
 北部九州の倭王・卑弥呼が「中国北部の魏」と交易していた3世紀に、近畿の大和・天皇家は魏と対決している「中国南部の呉」と交易をしていたかもしれない。
 画文帯神獣鏡(5世紀の国産鏡で橿原市新沢109号墳出土)、橿原考古学研究所付属博物館。
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 三角縁神獣鏡(奈良県北葛城郡広陵町にある4世紀築造の前方後方墳・新山古墳出土、レプリカ)、橿原考古学研究所付属博物館、本体は宮内庁蔵。
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 京都市左京区鹿ヶ谷(ししがたに)の泉屋博古館(せんおくはくこかん)は住友家の美術コレクションを保存展示しており、中国古代の青銅器が中心になっている。
 泉屋博古館は黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡を蛍光X線分析し、鏡に含まれる錫、銀、アンチモンの組成数値を調べたところ、古代中国の前漢後期から三国時代(紀元前1世紀~紀元3世紀)の鏡の組成数値の分布エリアに収まることが判明した。
 黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡と前漢後期から三国時代の中国鏡が、同様の原材料で作られている可能性がある。
 黒塚古墳から出土した画文帯神獣鏡1面も、同じ分布エリア内に収まっている。

 泉屋博古館は京都府城陽市の久津川車塚古墳出土の三角縁神獣鏡などを蛍光X線分析し、同様の結果を得ていた。広川守副館長は「黒塚古墳の鏡は材料的には中国産と考えられる。どこで作られたのかは分からないが、中国で製作された可能性もある」としている。
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# by enki-eden | 2018-10-21 11:15

物部麁鹿火(もののべのあらかひ)

 物部麁鹿火大連(おおむらじ)は饒速日尊14世孫、536年没。
 父は物部麻佐良大連、母は須羽直(すわのあたい)の女(むすめ)・妹古(いもこ)。
 物部麁鹿火は25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇、28代宣化天皇に仕えた大連で、武烈天皇崩御の後、507年に継体天皇を擁立した。

 麁鹿火は527年の筑紫国「磐井(いわい)の乱」で討伐将軍として出征、翌年に磐井を討って処刑した。磐井の子・筑紫君葛子(くずこ)は父の連座から逃れる為、「糟屋の屯倉(かすやのみやけ、福岡県糟屋郡)」を献上し、死罪を免れた。
 継体天皇は「長門より東の方は自分が治めよう。筑紫以西は麁鹿火が統括せよ」と云った。
 西暦201年頃の国譲りで、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)が卑弥呼(天照大神②)に献上されたが、今回の物部麁鹿火の武勲により、国譲りから330年後に再び出雲族出自の物部氏が九州を治めることになった。

 前回の投稿「下照姫」の最後に、『先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・』と記したが、物部麁鹿火が九州を統括することになったので、麁鹿火と同じ饒速日尊14世孫で従弟の阿遅古(あじこ)に筑後川南部一帯を治めさせたと考えられる。
 その結果、水沼氏は阿遅古の配下となり、先代旧事本紀には「阿遅古は水沼氏の祖」と云う表現が使われたと考えられる。姻戚関係を結んで物部氏に取り込んでいった。
 物部氏はこのようにして、配下に「物部八十氏」或いは「物部百八十氏」と云われる大きな集団となった。諸国の多くの国造家としても繁栄した。

 物部麁鹿火の墳墓は大和国の大和川周辺にあると考えられるが、麁鹿火の墳墓の可能性があるのは奈良県天理市豊田町の豊田トンド山古墳。7世紀前半の築造で、直径約30mの円墳。
 石上神宮の1.3km北西にあり、物部氏の本拠地の布留遺跡を見下ろす位置にある。
 天理市教育委員会は「当地周辺を拠点にした豪族・物部氏の首長クラスの墓だった可能性がある」としている。



 福岡県嘉穂郡(かほぐん)桂川町(けいせんまち)寿命(じゅめい)の「桂川大塚古墳」が麁鹿火の墳墓と云う説がある。  
 桂川大塚古墳は、復元すると全長86mの前方後円墳で、遠賀川流域では最大、6世紀中頃築造の装飾古墳になっている。時代は麁鹿火と合うが・・・
 円形埴輪が出土し、斜面には葺石があり、二重の周濠が巡らされていたようだが、前方部は住宅などになっており形が少し残るのみ。すぐ横には大塚装飾古墳館があり、穂波川(ほなみがわ)が流れている。穂波川は少し下流になると遠賀川に合流する。
 王塚古墳は未盗掘だったので多くの副葬品が出土、重要文化財に指定され京都国立博物館に保管されている。



 物部氏は軍事、刑罰、祭祀に優れ、10代崇神天皇以降は天皇家と共に発展してきた。物部守屋が587年に蘇我氏に敗れ、物部氏の勢力に陰りが見えたが、40代天武天皇(686年崩御)の時に朝臣となり、石上(いそのかみ)氏と改めた。
 物部氏は軍事と祭祀には優れていたが、政治力がやや弱かったのではないだろうか。それに比べて蘇我氏や中臣氏(藤原氏)は政治力に長けていた。

 継体天皇から九州以西の統括を任された物部麁鹿火は、朝鮮半島南部の任那運営には消極的で、大伴金村の失敗もあり、任那は新羅によって滅亡する。
 任那の滅亡は562年とされているが、663年の「白村江の戦」で日本が敗れたことにより、任那は新羅によって滅ぼされたと考えられる。
 白村江の戦の指揮官は、安曇比羅夫(あずみのひらふ)であったが戦死した。安曇比羅夫は穂高神社(長野県安曇野市)に祀られている。海人族は実行部隊であって、戦略・戦術を駆使する指揮官には向かない。
 「白村江の戦」では、日本軍に戦略・戦術がなく、突撃により大敗した。太平洋戦争の敗北に似ている。
 白村江で物部氏が将軍として指揮を執っておれば違う結果になったであろうが、物部の勢力が弱まっており活躍の場がなかった。
 当時の最有力豪族は中臣氏で政治と祭祀は得意であったが、軍事には疎かった。
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# by enki-eden | 2018-10-14 11:19

下照姫(したてるひめ)

 下照姫は高姫(たかひめ)、稚国玉(わかくにたま)とも云う。
 父は大国主命(160年頃-220年頃、出雲・宗像)、母は田心姫(たごりひめ、宇佐・宗像)、兄は味耜高彦根命(あじすきたかひこね、迦毛大御神)。

 日本書紀によると、大国主命に国譲りを迫るために、高皇産霊尊が天津国玉神の子・天稚彦(あめのわかひこ)を遣わしたが、天稚彦は大国主命の娘の下照姫を妻として帰って来なかった。

 天稚彦は味耜高彦根命とも仲が良く、二人は風貌が似ていたが、やがて天稚彦は高天原により殺されてしまう。
 天稚彦の喪中に下照姫が詠んだ歌がある。最初の和歌と云われるが、素戔嗚の「八雲立つ」歌の方が古い。
 あめ(天)なるや おとたなばた(弟織女)の うながせる たまのみすまる(御統)の 
 あなたま(穴玉)はや みたにふたわたらす あぢすきたかひこね

   高天原にいる弟織女(おとたなばた)が頸にかけている玉の御統(みすまる)、
   穴玉は美しいが、谷二つに渡って輝いている味耜高彦根神と同じだ。
 弟織女は卑弥呼(179年-247年)のことかもしれない。私見ですが、下照姫は卑弥呼と従妹(いとこ)で、同じ時代を生きた。
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 高皇産霊尊は次に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)を遣わして大国主命に国譲りを迫る。事代主命が国譲りを認めたこともあり、大国主命は承諾した。
 国譲りは西暦201年頃に成立したと私は考えています。但し、国譲りの地域は出雲国ではなく、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)であった。
 出雲国(島根県)は大国主命の本拠地であり、出雲国を譲ることはなかった。

 海人族の宗像(むなかた)氏は、大国主命の筑紫の本拠地である宗像大社(宗像三女神)を祀る。宗像氏は大国主命の後裔で、宗像国(宗像市)と刺国(福津市)を中心として玄界灘と響灘を支配する豪族であった。大陸との交易で財を成した。
 宗像徳善(胸形君徳善)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)は40代天武天皇(686年崩御)の妃となり、高市皇子(654年-696年)を生む。徳善は684年に宗像朝臣を賜い、高市皇子は690年に太政大臣にまで出世する。
 平安時代には宗像氏は平家と関係が深かったが、その後は源氏と密接に繋がり、10世紀になると宗像氏が太宰府の高官に任命されるようになる。更に宗像氏は武士としても発展していく。

 出雲国風土記に、大穴持命(大国主命)の子として記されている「阿陀加夜努志多伎吉比売命、あだかやぬしたききひめ」が下照姫ではないかと云うが、違うと云う説もある。

 鳥取県東伯郡(とうはくぐん)湯梨浜町(ゆりはまちょう)宮内に鎮座の倭文神社(しとりじんじゃ、伯耆国一宮)の由緒によると、
 「下照姫は大国主命と力を合わせて出雲の国づくりに励んだ。しかし、高天原から天稚彦が遣わされ国譲りを要求したが、天稚彦は下照姫と結婚して帰らなかった。そこで高天原から遣わされたキジを天稚彦が射殺したことが原因で天稚彦は殺されてしまう。
 下照姫は海路で伯耆国宇野にやってきて、当地に住み着き、安産の指導、農業開発、医療普及などに努めた」とある。「倭文神社のHP」
   
 福岡県久留米市大善寺町宮本に鎮座の大善寺玉垂宮(だいぜんじたまだれぐう)の祭神は玉垂命、八幡大神、住吉大神になっている。「大善寺玉垂宮のHP」  
 水沼(みぬま)氏が始祖を玉垂神として祀った。玉垂神の末裔が当社宮司の隈氏で、現宮司の隈正實氏のご先祖は、ミマキイリヒコイニエ(後の10代崇神天皇、251年-301年)に仕え、その後に大善寺玉垂宮の宮司になった。当社は1,800年以上も続いている古社。
 それであれば、西暦270年頃に臺與(235年頃-295年頃)と共に大和国へ東遷したミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)に隈氏も随行し、やがて故郷に戻り玉垂宮の宮司になったと云うことでしょうか。崇神天皇は東遷する前は、伊都国と紀伊国の王だったと私は見ています。

 大善寺玉垂宮の当初の祭神は、下照姫が玉垂姫神として祀られたと云う。玉垂姫神の墳墓は2km南西の久留米市三潴町(みづままち)高三潴139に鎮座の月読神社にある高良御廟塚古墳(20mの円墳)と云う説があるが・・・
 大善寺玉垂宮は三潴(みずま)の総社で、9km北東に鎮座の筑後国一宮・高良大社(こうらたいしゃ、高良玉垂宮)の元宮と云う。 「高良大社」のHP
     
 大善寺玉垂宮は広川沿いに鎮座しており、広川は八女山地から流れ出て上流には岩戸山古墳がある。広川は当社の前を過ぎて筑後川に注ぐ。
 当社の近くには御塚古墳(おんつかこふん、5世紀築造、国指定史跡)と権現塚古墳(ごんげんづかこふん、6世紀築造)があり、水沼氏の墳墓と見られる。



 海人族は高三潴、高尾張、高鴨、高天原などと本拠地に「高」を付ける。
 天津国玉神と天稚彦の本拠地は耳納山地から高三潴(たかみずま)一帯だった可能性が高い。玉垂命については諸説あるが、本来は天津国玉神ではないか。
 大善寺玉垂宮も高良玉垂宮も水沼氏が祀っていたと考えられるが、天稚彦が大国主命に加勢した為に、高皇産霊尊に耳納山地と高良玉垂宮を取り上げられてしまった。
 しかし、天津国玉神が玉垂宮を一夜だけ貸してほしいと高皇産霊尊に頼み込んで、そのまま居座ってしまったと考えられる。
 神社の祭神と斎主(いわいぬし)は時代と共に変遷していくことになる。

 三潴は筑後川の南部にあり、耳納山地(みのうさんち)を東に仰ぐ地域で、筑後川を北に渡れば高天原も近い。水路で奴国(博多)にも近いし、有明海から出ると大陸にも行ける。
 耳納(みのう)の地名は岐阜県の美濃(みの)と似ているので、美濃と間違えた伝承があるのではないか。日本書紀に「天稚彦の殯(もがり)で味耜高彦根が喪屋を切り倒した。その小屋が下界に落ちて山となった。これが美濃国の喪山である」とある。美濃は耳納の間違いと考えられる。
 耳納国は魏志倭人伝記載の「彌奴国(みなこく)」かもしれない。

 天稚彦が亡くなった後、国譲りも成立し、下照姫が伯耆国に去って行ったが、水沼氏は宗像三女神も祀ることになる。
 私見ですが、水沼氏の祖神は玉垂命(天津国玉神)で、子神の天稚彦が田心姫(宗像三女神)の娘・下照姫を妻としたので宗像三女神も祀るようになったと考えています。天津国玉神は筑後川南部周辺を治めていた海人族であったと見ています。

 大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼(みぬま)を 都と成しつ
   万葉集4261  作者不明  壬申の乱が治まった後の歌
 この歌の水沼(みぬま)は久留米市の水沼ではなく、奈良の明日香(飛鳥)のことだと思います。壬申の乱(672年)の後、40代天武天皇は飛鳥を都にしたので、この歌が詠まれた。
 「飛ぶ鳥の明日香」と云うように、飛鳥の地は「水鳥が飛び交う湿地帯」であったので、歌では「水沼」と詠んだのでしょう。
 古代の大和は中央に大和湖があり、その南部の湿地帯に飛鳥が位置している。飛鳥川や曽我川が大和湖に注いでいた。

 水沼君とよく似た名前に「水沼別(みぬまのわけ)」があるが、水沼君とは別系統の氏族。水沼別の始祖は12代景行天皇の皇子で国乳別皇子(くにちわけのおうじ)と云うが、はっきりしない。氏神は弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)となっている。

 先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・
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# by enki-eden | 2018-10-08 12:04

布都(ふつ)

 布都は素戔嗚(すさのお、140年頃-200年頃)の父の名。布都が所持していた剣は布都御魂(ふつのみたま)で、「石上神宮」のご神体となっている。
 布都御魂剣は全長85cmの鉄刀で内反り(逆反り)になっている。
  
 布都斯(ふつし)は素戔嗚の実名で、布都斯魂剣(天羽々斬、あめのははきり)も石上神宮に奉安されている。素戔嗚がこの剣で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。
 布都は「真実の男」と云う意味だろうか。「素戔嗚と楚」をご参照ください。
   
 真経津鏡(まふつのかがみ)は三種の神器のひとつである「八咫鏡(やたのかがみ)」の別名。「真実の宝鏡」と云う意味だと考えられる。
   
 経津主神(ふつぬしのかみ)は日本書紀に登場し、藤原氏の香取神宮、春日大社で祀られる。
出雲国風土記には布都怒志命と記す。
 経津主神は本来物部氏の祖神であるが、物部氏の勢力が衰えた後は中臣氏(藤原氏)に取り込まれてしまい、日本書紀には伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち)を斬った際に経津主が生まれたとある。また、大国主命に国譲りを迫った武神としても記されている。

 8代孝元天皇(238年-293年)と伊香色謎命(いかがしこめのみこと)の皇子に、彦太忍信命(ひこふつおしのまこと)がいる。古事記では比古布都押之信命と記される。「誠に偉大な、真実の皇子」と云う意味でしょうか。

 物部布都久留(もののべのふつくる)は21代雄略天皇(432年-479年)と22代清寧天皇(484年崩御)に仕えた。

 布都姫(ふつひめ)は物部尾輿(6世紀半ば)の娘。

 布都御魂の剣から連想して、布都(ふつ)は「剣で物を切る音」や「断ち切る様」とする説が多いが、上にあげた人名・神名などから、フツは「全く、本当の、真実の」と云う意味ではないかと私は考えています。
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# by enki-eden | 2018-10-02 00:07

石野先生講演会「淡路の初期銅鐸群と鉄器工房群―国生み神話の原郷」

 9月29日(土)の午後1時半から3時まで、兵庫県立考古博物館で石野先生の講演会がありました。淡路の銅鐸と鉄器工房のお話でした。
 本日の講演は当初7月7日に予定されていましたが、台風の影響で今日に延期されました。ところが今回も明日には台風が来ると云うタイミングになり、石野先生は、私は「嵐を呼ぶ男」ですと挨拶され、会場は大笑い。これは石原裕次郎主演の映画で1957年に公開されました。
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 兵庫県は旧五カ国が一つの県になっていることもあり、銅鐸の出土数が全国で一番多い。全国で500個余りの出土数があるが、兵庫県では70個ぐらい出土している。
 淡路島から出土する銅鐸は古い形ばかりである。しかも舌(ぜつ)も一緒に埋納している。これは、淡路では他地域よりも早く銅鐸祭祀が終了して新しい祭祀に変わったのか?
 国生み神話には、オノコロ島と淡路島が最初にできたと云う記事があるが、それとの関連性があるのかもしれない。
 皇室と淡路島の関係も深い。

 銅鐸の埋納方法は、鰭の部分を上下にして埋納する。これは、銅鐸両面の模様が上下になることを避け、左右に並ぶ形にしていると考えられる。それは何故か?

 銅鐸が出土すると、中には土が入っている。土は自然に入ってくるが、土が充満していることはない。土が入った部分と入っていない部分では錆び方が違うので、土を出した後でもすぐに分かる。
 ところが、淡路の銅鐸はぎっしり一杯土が入っているので、これは埋納する時に土を詰めているのだと思う。
 舌(ぜつ)を付けたまま、土を一杯詰めて、もう2度と使わないぞと云うことか。
 とにかく、淡路の文化は多地域とは違う、特別だ。

 五斗長(ごっさ)垣内(かいと)鉄器工房群は大量の鉄器を制作し、他地域へ出荷していた。舟木遺跡も膨大な遺物が出てくるが、全体像はまだこれからだ。
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# by enki-eden | 2018-09-29 20:46

厳島神社(神戸市中央区花隈町)

 兵庫県神戸市中央区花隈町(はなくまちょう)6-5
 境内に車を停められるが、狭いので道向かいの有料駐車場を利用する。

 祭神 市杵島姫命(弁天さん)、大物主命(金毘羅さん)。
 航海安全、芸能向上。



 平清盛(1118年-1181年)が福原京造営時(1180年)に安芸国宮島から勧請した厳島神社七社(清盛七弁天)の一社。
 清盛が七社と決めたのは、『安芸の宮島 回れば里 浦は浦 恵比須』と謡われていたので、七は縁起のいい数字だからと云う。

 当社は花隈村清水にあったので「花隈弁天」と呼ばれたが、1568年に花隈城が造営されたので花隈弁天は「生田神社」境内に遷された。 
 その後、六甲山から神戸港に注ぐ宇治川河口に遷されたので「浜の弁天」と呼ばれ、海岸は弁天浜と呼ばれた。現在でもJR神戸駅前のハーバーランドに神戸市中央区弁天町と云う地名が残っている。
 更に明治元年に栄町6丁目に遷り、その後最初にあった花隈町に戻り、花隈城跡(花隈公園)の北に「花隈弁天」として遷座した。

   入口の赤鳥居、神額には「神戸最初船場鎮守」。
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   拝殿、前の灯篭は嘉永3年(1850年)建立。
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 私見ですが、祭神の市杵島姫命(西暦160年頃出生)は卑弥呼(西暦179年-247年)の母ではないかと考えています。4月6日投稿の「天月神命」をご参照ください。
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# by enki-eden | 2018-09-26 08:50