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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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古代史探訪のブログを「アメーバブログ」でも立ち上げました。
先ほど、「道意神社(どいじんじゃ、尼崎市)」を投稿しましたので
ご覧ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp

# by enki-eden | 2020-01-21 14:04

箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある定形型前方後円墳(280m、西暦280年頃築造)で、この築造を画期として弥生時代から古墳時代に入っていく。

被葬者は、宮内庁により「大市墓」として7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓に治定され、周濠が国の史跡に指定されている。

箸墓古墳について、奈良県立橿原考古学研究所と名古屋大学の研究チームは19日、物質を透過する素粒子「ミューオン」を利用し、箸墓古墳内部の構造を解明するための科学調査を実施したと発表した。調査結果は来年度に公表される。

赤のアイコンが箸墓古墳、黃が纏向遺跡。

2015418日投稿の「斎槻岳(ゆづきがだけ)」をご参照ください。

   

「ミューオン」は、宇宙線が大気と衝突してできる素粒子の1種で、地上に大量に降り注いでいる。 X線よりも高い透過力を持ち、厚さ1kmの岩盤も通過するが、高密度の物質に当たると透過量が減少する。そのため透過量を計測すれば物質などの内部構造を推定できる。

エジプトのピラミッドでは、この計測により未知の空間が内部にあることが分かった。

研究チームは平成30年、「ミューオン」で奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西の「春日古墳」に石室の空間があることを計測している。春日古墳は6世紀後半から7世紀初めに築造された30mの円墳で、藤ノ木古墳のすぐ近くにある。

 研究チームの調査は、201812月から箸墓古墳の前方部と後円部の近くに、墳丘を通過したミューオンを捉える2基の検出装置を設置して実施した。 ミューオンの痕跡を解析し、今年4月までの予定で、石室などの存在を確認する作業が続けられる。

 箸墓古墳は宮内庁が管理しており、発掘調査はできないが、橿原考古学研究所が2012年に実施した3次元航空レーザー計測で、後円部の最上段に直径約39m、高さ約4.7mの特殊な円丘がある。

 橿原考古学研究所の西藤清秀・技術アドバイザー(1953年生、元奈良県立橿原考古学研究所副所長・付属博物館館長)は、「被葬者が埋葬された竪穴式石室と推定される空間の存在が確認できる可能性がある。この調査方法は人が入れない古墳などに有効で、多くの古墳に応用できる」と云う。

私見ですが、倭国(九州)の女王臺與(235年頃-295年頃)は西暦266年に西晋に朝貢したが、大陸の内乱と北方異民族の侵入により、交易できなくなってきた。

臺與は列島統一を目指して270年頃に大和国に東遷。そのとき、卑弥呼(179年-247年)の遺骸を大和国に移し、280年頃に箸墓古墳が完成、卑弥呼を後円部に埋葬した。

 臺與も295年頃に亡くなり、前方部に埋葬された。箸墓古墳の後円部と前方部は厚い石積みで覆われており、盗掘されていないと考えられる。

 研究チームの調査結果が出れば、埋葬施設の状況がある程度分かるので楽しみです。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2020-01-18 11:08

三国志の筆法

孔子(BC551年-BC479年)の著書や、孔子が編纂したと云われる中国春秋時代(BC770年-BC403年)の歴史書「春秋」には、孔子が厳しい批判や指摘を展開している。

「春秋」は魯(ろ)国のBC722年からBC481年までの歴史的・社会的な記事を中心として年表で記されている。

魯はBC1055年からBC249年に山東省南部に存在し、魯の北にある斉との境界には石積みの長城があり、「千里の長城」と云われ、「万里の長城」よりも古い。孔子は魯の出身で各国を逍遥し、「儒教」の祖となった。

魯はBC249年に楚に滅ぼされ、山東省南部は楚の領地となった。楚の都は郢(えい)と呼ばれ、都がどこに移っても郢と呼ばれた。

魯の都・曲阜(山東省曲阜市、孔子の生地)の南方にある徐州(江蘇省徐州市)を楚は郢とした。徐州は項羽が楚の都とし、劉邦の出身地であった。

前漢の初代皇帝(高祖)となった劉邦(BC247年-BC195年)の出身地は江蘇省徐州市で、劉邦は楚の武将である項羽(BC232年-BC202年、妃は虞美人)に仕えていたので、私は劉邦が項羽と同じ楚人であると考えています。項羽の出身地は徐州市の東隣りの江蘇省宿遷市で、どちらも楚の領土であった。

孔子は直接的な表現で批判を述べるのではなく、間接的な表現を使い、ありのままの事実だけを述べているように見せるなど、暗号的な表現方法をとる場合がある。この表現方法を「春秋の筆法(孔子の筆法)」と云って、一定のルールが分かれば暗号を理解できるしくみになっている。

孔子の政治的・道徳的思想を「春秋」から研究しようとする「春秋学」も起こった。古来より種々の解説書があるが、魏と西晋に仕えた政治家・軍人・学者である名門の杜預(とよ、西暦222年-284年)が註釈した「春秋経伝集解」が春秋学の基本となった。

杜預は魏の司馬懿(179年-251年)の娘・高陸公主を妻とし、西晋に仕えてからは西暦280年に鎮南将軍として呉を滅ぼしている。「破竹の勢い」と云う言葉は、この時の杜預の進軍ぶりを云う。

孔子が「筆法」を用いたことにより中国の正史は、史実に加えて間接的な批判を記すようになった。

3世紀に蜀(蜀漢)と西晋に仕えた陳寿(233年-297年)が魏・呉・蜀の三国志を著したが、三国志にも春秋の筆法が使われている。陳寿が仕えた蜀漢や西晋を直接的には批判できないからである。

遼東半島と朝鮮を治めて燕王と称していた公孫淵が西暦238年に魏の司馬懿(しばい、179年-251年)により滅ぼされ、卑弥呼(179年-247年)が魏に使者を派遣できるようになった。新撰姓氏録によると、「左京 諸藩 漢 常世連 燕国王公孫淵之後也」とあり、常世氏(赤染氏)は燕王公孫淵の末裔と記している。司馬懿と卑弥呼は殆ど同じ時期を生きた。

春秋の筆法では国名や姓名の漢字を分解して筆法に使う場合がある。例えば魏に仕え、軍功により大将軍に昇進した司馬懿が西暦249年にクーデターにより王族の曹一族を皆殺しにして魏を簒奪したと云う史実がある。これを陳寿は立場上直接的に批判できないので魏書東夷伝倭人条に間接的に批判している。

陳寿は魏書東夷伝倭人条に「邪馬国(邪馬台国)」をわざと間違えて「邪馬国(邪馬壱国)」と記している。同じように西暦266年に晋に朝貢した與(とよ、235年頃-295年頃)も與(いよ、壱与)と表記し、整合性をとっている。

クーデターを起こした司馬懿の懿を分解すると、壹と恣に分けられる。司馬懿は「司馬壹恣」となり、邪馬臺国は「邪馬壹国」にわざと間違える。

共通文字の「馬壹」を省いて繋ぐと「司恣邪国」となり、「恣」と「国」を入れ替えると「司国邪恣」となる。「邪(よこしま)な恣意でもって国を支配する」と云う意味になり、司馬懿が魏を簒奪した事件を暗に批判した。

陳寿は司馬懿を批判するために邪馬臺国の「臺」を「壹」に代え、臺與を壹與に代えたのであった。後世の他の史書には正しく「臺與」と記され、筆法が理解されていたことが分かる。

陳寿の筆法は直ぐに解読され、陳寿は山東省の太守に左遷されたが、杜預の擁護により中央政府に職を得た。この擁護は「春秋学つながり」なのかもしれない。

臺與(西暦235年頃-295年頃)も杜預(西暦222年-284年)も日本語の発音は、「とよ」であるが、生きた時代もほぼ同じであった。

日本書紀においても孔子の筆法が頻繁に使われている。誰が読んでも間違いと分かる異常な記事が頻発するが、このような部分は筆法で、記紀の編纂者が何を言おうとしているのかを探る必要がある。

例えば、日本書紀の神武天皇紀に「天孫が降臨されてから、1792470年余になる。」とあるのは、天孫とは天照大神②(卑弥呼)で、初代奴国王生誕から179年後に生まれ、247年後に亡くなったと云う意味になる。

卑弥呼は西暦179年に生まれ、247年に亡くなっているので、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと)の生年は偶然にも西暦元年と云うことになる。

そして、初代奴国王の国常立尊は西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」となった。私見ですが、日本の皇室は初代奴国王から始まるとすれば、西暦元年が日本の皇室の始まりとなる。

宮廷公卿の大伴家持(おおとものやかもち、718年?-785年)は、「万葉集」を単なる和歌集ではなく、敗者や一般人の立場から「歴史」を暗示できる歌集として編纂していった。

      

藤原定家(1162年-1241年)は二つの勅撰集「新古今和歌集」と「新勅撰和歌集」、その他多くの作品を残したが、万葉集を研究し、和歌に政治的・歴史的な意味を見いだそうとしたのではないか。

小倉百人一首にも藤原定家の意図が見られるので、今後調べていきたい。

戦前の皇国史観では、神武天皇即位を紀元前660年にしている。その時期は縄文時代です。私見ですが、神武天皇(西暦181年-248年)の即位は西暦211年です。皇国史観に反発した戦後史学は日本の古代史を抹消してしまった。

日本の古代史は、皇国史観によって歪められ、戦後史学によって抹消されてしまったので、古代史を復活・復元する必要がある。

戦後史学により古代史が抹消されたが、多くの考古学者は、「発掘遺跡や出土品」と「古文書や伝承」との関りについて有意義な説を述べておられるので、古代史の将来に希望が持てる。

イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー(1889年-1975年)は、滅亡した民族について研究し、その共通点を見つけた。

自国の歴史を忘れた民族は滅びる。

すべての価値をお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる。

理想を失った民族は滅びる。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2020-01-17 19:27

出雲の西谷墳墓群②

西谷墳墓群がある古代の地名は出雲国神門郡(かんどぐん)で、出雲大社のある出雲郡の南に位置する。神門郡は大己貴命(大国主命)と深い関係があり、出雲国風土記神門郡条によると、

朝山郷(あさやまごう)

神魂命(かみむすひのみこと、出雲の祖神)の御子・真玉著玉之邑日女(またまつくたまのむらひめ)が鎮座していた。

所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大己貴命)が真玉著玉之邑日女を娶り、朝毎に通ってきた。だから、朝山という。

出雲市朝山町の朝山神社には真玉著玉之邑日女命(神魂命の娘、大己貴命の妻)が祀られている。西谷墳墓群の4.4km南に鎮座している。

八野郷(やのごう)

須佐能袁命(すさのおのみこと)の御子・八野若日女(やのわかひめ)が鎮座していた。

所造天下大神(大己貴命)が八野若日女を娶り、屋を造らせた。だから、八野という。

滑狭郷(なめさごう)

須佐能袁命の御子・和加須世理比売(わかすせりひめ)が鎮座していた。

所造天下大神が和加須世理比売を娶り、通ってきた時に岩があり、非常に滑らかだった。そこで所造天下大神が「滑らかな岩だ」と云われたので南佐(なめさ)→滑狭(なめさ)という。

多伎郷(たきごう)

所造天下大神と多紀理比売の御子・阿陀加夜努志多伎吉比売(あだかやぬしたききひめ)が鎮座していたので、多吉(たき)→多伎という。

西谷墳墓群から東の方向に目を向けると、

仏経山(ぶっきょうざん、366m)が西谷古墳群のほぼ真東4.3kmにある。出雲市斐川町神氷(かんび)にある仏経山は、出雲国風土記出雲郡条に「神名火山(かんなびやま)」と記されている。麓に御井神社(木俣神、八上姫命)。

出雲国に神名火山は4か所あり、他の三山は、

意宇郡の神名樋野(茶臼山、171m、松江市山代町)、麓に真名井神社(伊弉諾神)。

秋鹿郡の神名火山(朝日山、342m、松江市東長江町)、麓に多芸神社(速玉之男命)と

弥多仁神社(大己貴命)。

楯縫郡の神名樋山(大船山、327m、出雲市多久町)、麓に多久神社(多伎都彦命、天御梶姫命)と熊野神社(伊邪那美命)。

西谷古墳群のほぼ真東9kmの雲南市加茂町岩倉には国史跡の加茂岩倉遺跡がある。1996年に発見され、日本最多の39口の銅鐸が出土・国宝に指定された。

出雲市斐川町神庭の神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき)は、西谷墳墓群の6.4km北東にあり、1984年から1985年に出土した358本の銅剣・6個の銅鐸・16本の銅矛は国宝に指定され、荒神谷博物館が併設されている。

西谷墳墓群から「夏至の日没方向」を見ると、出雲国一宮の出雲大社と日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)が鎮座している。出雲大社から見ると、冬至の日の出方向に西谷墳墓群がある。

出雲大社の祭神は大国主大神、日御碕神社の祭神は天照大御神と神素戔嗚尊。

雲南市三刀屋町(みとやちょう)給下(きゅうした)に三屋神社(みとやじんじゃ)が鎮座、祭神は大穴牟遅命(大己貴命)、素戔嗚尊、稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命。神紋は「二重亀甲に剣花菱」。

以前は、300m南の旧跡地に鎮座しており、飯石郡一宮と云われた。周りには松本古墳群3号墳など古墳が多い。

三刀屋町の10.5km北西に西谷墳墓群がある。

出雲国風土記飯石郡条の三屋郷(みとやごう)に、所造天下大神(大己貴命)の宮(御殿)がここにあるので三刀矢(みとや)と云うと記されている。後に三刀屋(みとや)と改めた。

三屋神社は、出雲国風土記に「御門屋社(みとやのやしろ)」、延喜式には「三屋神社(みとやじんじゃ)」と記されている古社で、大己貴命の御殿は三刀屋にあった。従って出雲大社の神紋も同じ「二重亀甲に剣花菱」になったと考えられる。

三刀屋は斐伊川と三刀屋川が合流することにより、扇状地(盆地)になっている。大己貴命の生誕地も飯石郡熊谷郷(くまたにごう、雲南市三刀屋町下熊谷)で、三屋神社の直ぐ南東の川向こうにある。

素戔嗚命の妃・久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ、奇稲田姫)が、出産しようとするときに、ここに来て「とても奥深い谷である。」と云われた。だから熊谷という。生まれた子の名は出雲国風土記には記されていない。

赤のアイコンが三屋神社、黃が下熊谷。

奇稲田姫が当地で産んだのは、素戔嗚尊の長男・八島士奴美(やしまじぬみ)だと考えられるが、先代旧事本紀の地祇本紀には大己貴神と記されている。亦の名を八島士奴美神、亦の名を大国主神、亦の名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠などと記されている。

大国主命は素戔嗚尊の末娘・須世理比売を妻としたから、末子相続で大国主命が素戔嗚尊の跡を継いだ。大国主命が八島士奴美であれば素戔嗚尊の長男になり、須世理比売とは母違いの兄妹になる。多重婚の古代ではよくある現象であった。

大国主命が生まれた地も、奇稲田姫が長男を産んだ地も、同じ飯石郡熊谷郷であることにより、大国主命が八島士奴美の可能性はある。201949日投稿の「八島士奴美と大国主」をご参照ください。      

近くの雲南市木次町新市に八岐大蛇公園(やまたのおろちこうえん)がある。

大己貴命(大国主命)は出雲の三刀屋で生まれ、三刀屋で育ち、成長すると出雲平野に出て活躍し、多くの女性を妻にした。活動範囲は北陸の新潟県から九州にまで広がり、近畿地方にも事績が多く残っている。

大己貴命は沖ノ島から対馬を経て朝鮮、遼東、後漢までも行ったでしょう。子は181人もいると云う。

九州では「葦原の中津国(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)」を治めていたが、西暦200年頃に素戔嗚命が亡くなると、201年に倭国の女王に即位した卑弥呼(天照大神②、179年-247年)と高皇産霊尊に国譲りを強制され、出雲国(島根県)に帰ってしまった。

そして、大国主命は西暦220年頃に亡くなり、西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓に埋葬された。3号墓に埋葬されたのであれば、隣りに埋葬された女王は須世理比売でしょうか。3号墓には、それ以外にも数人が埋葬されているが、妃や子でしょうか。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2020-01-10 07:30

出雲の斐伊川(ひいかわ)は船通山(せんつうざん、1,142m)から流れ出し、奥出雲の横田盆地をゆるやかに流れるが、山間部になると急流となって北へ下っていく。

中流域になると支流がいくつも合流し、盆地が点在するようになる。

下流域になると、上流からの土砂流入により出雲平野が出現した。土砂流入は上流で行われていた踏鞴製鉄による「鉄穴流し(かんなながし)」の影響も大きいでしょう。20131030日投稿の「三木市立金物資料館」に鉄穴流しの風景を載せています。 

斐伊川は出雲平野に入ると北東に流れを変え、宍道湖(しんじこ)に注ぐ。

西谷墳墓群は、島根県出雲市大津町(おおつちょう)にあり、2世紀末から3世紀(弥生時代後期)の墳墓群。斐伊川下流の西岸沿いの高さ40mほどの丘陵にある。

弥生時代後期の墳墓群であるが、7号墓は古墳時代初期の築造で、方墳に「造り出し」がついている。

墳墓の数は27基プラス5基(倍塚か)の32基、及び横穴墓群が3か所確認されており、国の史跡になっている。

墳墓のうち6基は「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」で、1号墓(20m)、2号墓(28m×45m)、3号墓(40m×55m、男女二人の木棺)、4号墓(26m×32m)、6号墓(8m×16m)、9号墓(55m×60m)である。

17基が方墳、4基が円墳になっている。

四隅突出型墳丘墓は、正方形の墳墓の四隅が突出していると理解していたが、長方形が多い。四隅突出部は儀式の時に昇り降りするためのようだ。

西谷墳墓群の南端に「出雲弥生の森博物館」がある。

四隅突出型墳丘墓の2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は、弥生時代後期の2世紀から3世紀に出雲国を支配した王の墓と考えられており、築造順は3号→2号→4号→9号となっている。

その中でも大きな3号墓か9号墓が大己貴命(大国主命、160年頃-220年頃)の墳墓ではないかと考えられる。

3号墓からは300個以上の土器が出土し、墳丘上での儀式に使われた。土器の産地は出雲、吉備、越(北陸)のもので、遠方からも葬儀に集まった。墳墓は貼石で覆われていた。

3号墓の男王の木棺からは、厚くしかれた朱、鉄剣、ガラスのネックレスが出土、4本の太い柱跡がある。東5mに埋葬された女王の木棺からは朱や、ガラス玉・ガラス勾玉・石の玉を組み合わせたネックレスなどのアクセサリーが出土している。

3号墓、グーグルの地図で見ると左(西)の男王墓にはっきりと4本の柱跡が見える。
  右(東)は女王墓。

出雲の西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)①_d0287413_11363898.jpg

出雲市がドローンで墳墓群を撮影した「PR動画」をご覧ください。

   

一番大きな9号墓の上には三谷神社が鎮座、祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)、別名は阿蘇大神、阿蘇津彦命など。

健磐龍命は、神武天皇の第2皇子・神八井耳命の皇子と云われ、神武天皇の勅により阿蘇一帯を統治し、阿蘇神社の祭神になっている。東向き社殿の楼門前に陵墓もある。

三谷神社は元々、500mほど南東の大津町上来原(かみくりはら)の三谷山にあって三谷権現と称していたが、池ノ内杓子山の式内阿須利神社を元禄13年(1700年)に合祀したので式内三谷大明神と称した。

しかし、明治5年に阿須利神社が再び独立・遷座したので三谷神社は荒廃した。更に昭和36年の水害によって社殿が流失したので、翌年に現在地の9号墓上に遷座した。

遷座した時には古墳であることは分かっていなかった。

三谷神社の神紋は「二重亀甲に三柏」で、境内(墳墓上)に稲荷社や祠も構えている。

現在の阿須利神社は、出雲市大津町3668に鎮座、主祭神は豊玉比古神、玉依比女神、豊玉比女神、大己貴神で、合祀神も多く境内社も多い。三谷神社の1.2km北西になる。

次回の「出雲の西谷墳墓群②」に続く

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2020-01-04 11:38


素戔嗚尊の父の実名は布都、素戔嗚尊の子の大歳(饒速日命、165年頃-225年頃)は布留(ふる)、同じく子の倉稲魂(うかのみのたま、稲荷神)は宇迦(うか)。

大国主命(大己貴命、160年頃-220年頃)の実名は美具久留(みくくる)。

素戔嗚尊は主に出雲国東部を拠点にし、大国主命は西部を拠点にして全国展開した。素戔嗚尊は北部九州の倭王兼奴国王の伊弉諾尊(125年頃-190年頃)と西暦155年頃に親子の契りを結び、出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」と記されている。

素戔嗚尊と大日孁貴(天照大神①、比売大神)は西暦160年頃に誓約(うけい)により53女が生まれ、素戔嗚尊は3女を引き取った。3女は後に宗像三女神として宗像大社に祀られる。

大日孁貴は5男を引き取ったが、素戔嗚尊は大日孁貴から次男の天穂日命を預けられ、出雲国に連れて帰り、出雲国東部の統治を任せる。天穂日命は出雲国造の祖となる。

   

素戔嗚尊と櫛稲田姫は「八岐大蛇(やまたのおろち)」退治の後、八重垣神社(島根県松江市佐草町227)に一時、籠もった。地名が佐草(さくさ)とあるように、当地は素戔嗚尊の子の青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)の地盤だった。

 当地で詠んだ素戔嗚尊の歌

   八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を

 

八重垣神社は元々、佐草神社と称していたが、青幡佐久佐日古命が両親(須佐之男命、櫛名田比売命)を祀り、八重垣神社になったと考えられる。  

 「八重垣神社のサイト」に本殿内の壁画(素戔嗚尊と稲田姫命)が載っている。神紋は「二重亀甲に剣花菱(素戔嗚尊の紋)」。

 稲田姫命の名は、出雲国風土記の飯石郡熊谷郷には「久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめのみこと)」と記されている。

 

 

 素戔嗚尊と櫛稲田姫は、出雲国意宇郡(おうぐん)の佐久佐から須賀に移り宮を建てた。宮の跡は須我神社(島根県雲南市大東町須賀260)になっている。祭神は須佐之男命と櫛稲田比売命。

 

 

 大日孁貴(天照大神①)は西暦180年代に亡くなり(天岩戸に隠れる)、倭国乱となる。この頃、「ニュージーランドのタウポ山の大噴火」により、地球規模の天候異変が起き、世界的に混乱が続いた。     

西暦190年にローマで穀物危機が発生した際、ローマ帝国は民衆に十分な食料を供給できなかった。結果、それまでコンモドゥス皇帝を支持してきた民衆が各地で暴動を起こすようになった。

皇帝は独裁暴君となり、多くの元老院議員の処刑を計画したが、事前に発覚し31才で暗殺されてしまい、ネルファ・アントニヌス朝の崩壊となった。

2世紀後半の気候異常により、ドイツ北東部に住んでいたゴート族・ブルグント族・サルマディア族のゲルマン人が寒冷の北欧から南欧に侵入し始めた。やがてこれが4世紀後半のフン族の侵入やゲルマン人の大移動(大侵入)に繋がり、ローマ帝国の東西分裂に繋がっていく。

ローマ皇帝の16代と17代の時代は、日本列島では倭国王兼7代目奴国王の伊弉諾尊(125年頃-190年頃)や素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と同じ時代であった。

西暦181年にニュージーランドの「タウポ火山の巨大噴火」により、世界的な気候変動が起き、日本列島も例外ではなく、地球規模の動乱・戦争が起きた。タウポ火山は現在でも火山活動が活発に起きている。

 素戔嗚尊の墳墓は熊野山(天狗山、610m、島根県松江市八雲町)の磐座だと云われる。出雲国一宮の熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)の元宮斎場跡になっている。秀麗な神奈備山です。

  赤のアイコンが熊野大社、黃が天狗山


 天穂日命の墳墓は意宇郡(宍道湖と中海の南地域)にあると考えられるが、中海に面する安来市には「古代出雲王陵の丘(国の史跡)」や多くの墳墓群がある。

北部九州倭国の飢餓を避けるために、饒速日命が西暦185年頃に大部隊を率いて物部系、高皇産霊系、海人系などが大挙して大和国(奈良県)に東遷した。耕作地が広く、金属鉱脈も豊富な大和国に移住してきた。

伊弉諾尊は西暦180年代の倭国乱で失墜し、淡路島に隠遁、素戔嗚尊が200年頃に亡くなると、卑弥呼(179年-247年、天照大神②)が倭国の女王として201年に即位(天岩戸から再臨)した。

天照大神②(卑弥呼)と高皇産霊尊は、素戔嗚尊の後を継いだ大国主命に対して、北部九州の「葦原の中津国(古賀市、福津市、宗像市、遠賀郡、北九州市)」を放棄させ、倭国乱は治まった。

大国主命は出雲国(島根県)に帰り、少彦名命(すくなひこなのみこと)と共に播磨国など各地を開拓し、西暦220年頃に亡くなった。大国主命の墳墓については、次回に投稿します。

 

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# by enki-eden | 2019-12-30 00:49

日本書紀によると、12代景行天皇40年夏、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺した。

時代は西暦330年頃と考えられる。皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと、302年頃-332年頃)は西国の熊襲退治から帰って来て数年しか経っていなかったが、東国の蝦夷征討の将軍として再び出発した。

日本武尊は伊勢神宮に詣で、神宮斎主で叔母の倭媛命(やまとひめのみこと)に挨拶した。倭媛は日本武尊に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、無事を祈った。

駿河の焼津(やいず)に着いた日本武尊は、賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で逃れた。それで天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云われた。

日本武尊は相模から上総(かみつふさ、千葉県)に船で渡ろうとして、暴風に遭い漂流した。その時、日本武尊に同行していた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に飛び込み、人身御供として嵐を鎮めた。

弟橘媛は穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘で、日本武尊の船団運用は穂積氏が担っていたと考えられる。全体の指揮官は物部大咩布(もののべのおおめふ)であった。20181225日投稿の「物部大咩布命」をご参照ください。   

日本武尊は陸奥国(みちのくのくに)に入り、蝦夷の支配地に入ると賊は恐れて服従した。

陸奥国の前方後円墳を調べると、3世紀から4世紀の古墳時代前期に築造されたものが多いが、後期にも大型古墳が築造されている。

東北最大の雷神山古墳(宮城県名取市植松山1)が墳丘全長168m、4世紀末の築造、

亀ケ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町青津)が全長127m、4世紀後半築造、

会津大塚山古墳(福島県会津若松市一箕町)が全長114m、4世紀末築造、鉄製品に加え三角縁神獣鏡が出土している。

玉山古墳(福島県いわき市四倉町玉山)が全長112m、4世紀半ばの築造。

杵ガ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町稲荷塚)は3世紀末から4世紀初頭の築造で、墳丘長45.6mと小さいが、東北地方最古級の前方後円墳。

岩手県奥州市胆沢区(いさわく)南都田(なつだ)の角塚古墳(つのづかこふん)も、墳丘長45mと小さいが、列島最北端の前方後円墳で、5世紀後半築造、国の史跡になっている。

山形県にも稲荷森古墳(南陽市長岡稲荷森)があり、墳丘長96m、4世紀末築造。

日本武尊の東国遠征の結果として、東北地方が大和政権と密接に繋がり、前方後円墳が築造されていったことが分かる。

日本武尊は蝦夷平定後、各地を巡り、尾張国造の娘の宮簀媛(みやずひめ)を娶り長く留まった。日本武尊は草薙剣を宮簀媛の家に置いたまま、大和に帰る途中に伊勢の能褒野(のぼの)で病死した。2016111日投稿の「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。

草薙剣は三種の神器の一つとして祀られ、熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)の御神体となっている。    

10代崇神天皇(251年-301年)の皇子である豊城入彦(とよきいりひこ)を祖とする皇別氏族があり、その中の毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県と栃木県)を本拠地とした古代豪族である。

豊城入彦は崇神天皇の命により東国を治め、子孫の毛野氏の支配地より北は蝦夷地(えぞち)であった。豊城入彦の母は遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)、紀伊国荒河戸畔(あらかわとべ)の娘で、崇神天皇の妃になった。

日本武尊が東国遠征に行った時には、毛野氏は豊城入彦の孫・彦狭島王(ひこさしまのみこ、初代上毛野国造)か、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのみこ)だったと考えられるので、日本武尊にとっては大いに手助けになったのではないか。作戦や道案内、援軍の加勢もあったであろう。

御諸別王の名が、出雲の大国主命と少彦名命に縁のあるような気がする。群馬県前橋市三夜沢町の赤城神社(上毛野国二宮)の祭神が、豊城入彦命と大己貴命になっている。栃木県宇都宮市の二荒山神社(下毛野国一宮)の祭神が、豊城入彦命・大物主命(大国主命)・事代主命となっている。

豊城入彦命が出雲の大己貴命を信仰していたようだ。

日本武尊の蝦夷征討後も毛野氏は、蝦夷地の支配・管理運営に勤め、善政をしいたと日本書紀に記されている。

毛野国は16代仁徳天皇の時代に、上毛野国(かみつけぬのくに、群馬県)と下毛野国(しもつけぬのくに、栃木県)に分かれた。後には上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)と呼ばれるようになる。

7世紀半ばの飛鳥時代に越国の国司であった阿倍比羅夫が、蝦夷征討の将軍として活躍し、658年には水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、660年には粛慎(みしはせ、北海道か樺太の蝦夷)とも交戦して勝利した。しかし、白村江の戦いでは662年に第二次派遣の征新羅将軍として水軍を率いたが、663年に大敗した。

唐は白村江の後、高句麗を攻撃した。668年に高句麗は滅び、唐に吸収された。

阿倍比羅夫の孫に阿倍仲麻呂(698年-770年)がおり、遣唐留学生として717年に長安に渡り高官として働いたが、帰国せず唐で亡くなった。

阿倍仲麻呂が753年に唐の都・長安で、故郷の大和を想って詠んだ歌、

   天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

阿倍比羅夫の生没年は分からないが、阿倍比羅夫と阿倍仲麻呂の活躍時期の違いを考えると、仲麻呂は比羅夫の孫ではなく、4世孫か5世孫くらいの開きがある。

日本列島では、8世紀から9世紀にかけても蝦夷との戦いは続き、坂上田村麻呂(758年-811年)が征夷大将軍として蝦夷征伐を行った。

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# by enki-eden | 2019-12-23 00:07

九州には、筑紫大宰(たいさい)と筑紫総領(そうりょう)があり、筑紫大宰は外交と国防を担い、筑紫総領は内政を担って九州各地の国宰(くにのみこともち、後の国司)を統括していた。7世紀には王族が地方官として筑紫大宰(後の大宰帥、だざいのそち)に就いた場合が多い。

宰(みこともち)とは、天皇の御言(みこと)を持ち(受け)、任地で政治を行う地方長官で、律令時代(7世紀後半~10世紀)になると「国司」と称される。王族や有力豪族が任命されて赴任した。

大宰(たいさい)と総領(そうりょう)は、筑紫国と吉備国に置かれ、それぞれの地方諸国を治め、外交・軍事にも対応していた。周防国と伊予国には総領が置かれて当地を治めていた。

日本は66310月の「白村江の戦い」で敗れ、博多湾沿岸に置かれていた筑紫大宰を内陸の大宰府(だざいふ)に移し、防御した。

41代文武天皇(683年-707年)の大宝元年(701年)に大宝律令(たいほうりつりょう)が施行されてからは、大宰府だけに絞られ権力が集中した。

筑紫国の大宰と総領を統合して大宰府(福岡県太宰府市)が成立し、西海道諸国の統括と、半島・大陸との外交・軍事を取り仕切った。税も一旦、大宰府に納められたので、大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれた。

   

大和朝廷は大宰府を、西国の支配と外交・防衛の拠点とした。大宰府の街には、41代持統天皇(645年-703年)の藤原京(694年)と同じように「条坊制」が敷かれていたと云う。大宰府跡は国の特別史跡になっている。

そして、663年の白村江の戦いで大敗したことにより、唐・新羅軍が攻めてくるのを防ぐために「防人(さきもり)」を各地に置いて防御を固めた。701年の大宝律令により、「防人」が制度的にも整備・運用された。各地から集められた防人が故郷を偲ぶ歌や家族の歌が万葉集に「防人の歌」として収録されている。  

大宰府の長官は大宰帥(だざいのそち)と呼ばれ、副官(権官・代理)は大宰権帥(だざいのごんのそち)と呼ばれた。平安時代になると、大宰帥は皇族から選ばれたので、大宰権帥が実質的には大宰帥の役職を行い、藤原氏の出身者に任命されることが多くなった。また、左遷された貴族が任命されることもあった。

右大臣の菅原道真(845年-903年)が左大臣の藤原時平(871年-909年)に讒訴(ざんそ)され、901年に太宰府へ大宰員外帥として左遷され、太宰府政庁の南の榎社(浄妙院、太宰府市朱雀6丁目18-1)で謹慎していたが病死した。私見ですが、暗殺かもしれない。

都では菅原道真の祟りだと思われる事件が多発し、藤原時平も39才で病死。道真は天満大自在天神として祀られるようになった。墓所には太宰府天満宮が建立され、都には朝廷が北野天満宮を建立した。

201647日投稿の「太宰府天満宮の飛び梅ちぎり」をご参照ください。

      

今年の41日から元号が「令和」になったが、その典拠は、約1300年前に太宰府で行われた「梅花の宴(ばいかのえん)」を記した、「万葉集」の「梅花の歌」32首の序文にある。(巻5815

初春月 氣淑風 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

(初春の令月にして 氣淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す)

この「梅花の宴」を催したのは、万葉集の選者である大伴家持(718年-785年)の父である大伴旅人(665年-731年)だと云う。

旅人は、神亀4年(727年)頃、大宰帥として赴任し、天平2年(730年)に大納言に昇進し都に戻ることになるが、その前の正月13日(現在の28日)に、大宰府が管轄した西海道の官人達32名を自らの邸宅に招き、梅を題材に歌を詠んだ。

旅人の邸宅は現在の坂本八幡宮(太宰府市坂本)にあったと云う説があるが可能性は低いらしい。大宰府政庁跡のすぐ北にあります。その他、可能性のあるのは政庁跡の東か南らしい。

万葉集の「梅花の歌」は、主賓の大宰大弐の紀卿(紀朝臣男人、682年-738)が宴の開始にあたり、挨拶として詠んだ。大弐(だいに)は最上位の次官で、大宰権帥が欠けるときの代理役を務める。

大和朝廷は東国の拠点としては、神亀元年(724年)に塩釜丘陵上(宮城県多賀城市)に多賀城を築城し、陸奥国府・鎮守府として蝦夷の支配・東北の政治・経済を担当した。

多賀城は11世紀半ばまで存在し、多賀国府の街も条坊制が敷かれていた。多賀城跡は国の特別史跡となっている。

大和朝廷は平城京を中心として、西に大宰府、東北に多賀城(陸奥国府・鎮守府)を設けて拠点とした。

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# by enki-eden | 2019-12-17 09:14

秋田物部文書

唐松神社(からまつじんじゃ)が秋田県大仙市(だいせんし)協和境(きょうわさかい)下台(しただい)84に鎮座している。

唐松神社は、神功皇后(321年-389年)が363年の新羅遠征後、物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)と共に創建したので「韓服宮(からまつのみや)」と呼ばれていたと云う。

祭神は、息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)と軻遇突命(かぐつちのみこと)、軻具突命の別名は愛子大神で、当地の物部氏が祀る火結神(ほむすびのかみ)となっている。

当社は女性の生涯を守る「女一代守神」で、縁結び、子宝、安産の神として「境の唐松さま」と呼ばれ親しまれている。

江戸時代の中期に、子授け・安産を願って唐松講(八日講)が結成され、出羽国で知られていたが、やがて全国に広がったと云う。

当社は、中世より地元の豪族の後ろ盾を持たず、近世は氏子・個人・一般人に崇敬され支えられている。

神功皇后の新羅遠征に従軍した物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)が、神功皇后の腹帯を作り、出産後に腹帯を拝受し、当社のご神体にした。

新羅遠征の帰路、神功皇后は男鹿半島から当地に立寄り、岩見川から船岡に上陸し、船玉の大神を祀った。唐松神社の北東5kmに船玉神社が鎮座(大仙市協和船岡向小沢)、祭神は神功皇后の新羅遠征を守った住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)。

地図赤のアイコンが唐松神社、黃が元宮、青が船玉神社。

男鹿半島の形は、地元では「グッドジョブ」の親指を立てた形だと云っているらしい。グッドジョブを日本語に訳し、「開運 なんでも鑑定団」鑑定士の中島誠之助氏が「いい仕事してますね~」と言って褒め言葉として使っている。

私見ですが、「男鹿半島」の「おが」は、北部九州の遠賀川(おんががわ)から当地にやってきた物部氏に因んで名付けられた「おんが半島」が由来だと考えています。

秋田県でも遠賀川式土器が発見されており、遠賀川地区から搬入した土器と、模倣して当地で作成した土器がある。

先代旧事本紀の天皇本紀神武天皇元年1115日の記事によると、

「宇摩志麻治命は御殿の内に天璽瑞宝を斎祀り、天皇と皇后のために御魂を鎮めて、御命の幸福たることを祈った。いわゆる鎮魂祭はこの時に始まった。

およそ天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父・饒速日尊が天神から授けられて来た天つしるしの十種の瑞宝のことである。」とあり、天皇皇后の御魂を鎮める鎮魂祭で、現在にまで続いている。

物部氏の「石上神宮」の「鎮魂祭」が秋田の物部氏にも残っている。十種の神宝、天津祝詞、神宝をもって「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」と唱える古代の神事である。

唐松神社の鎮魂方法は、身振りと呼吸を整える神事で、十種の神宝の一つである「生玉」を掌に包んで振り、ヒフミの天津祝詞(あまつのりと)を呪言する。

鎮魂祭は、越後国一宮の弥彦神社(天香山命)、石見国一宮の物部神社(宇摩志麻遅命)でも行われている。  

唐松神社の秋田物部氏は、代々の当主が「物部文書」を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきた。「宇佐家伝承」と同じである。     

1984年、唐松神社の物部長照名誉宮司が物部文書を公開した。それを進藤孝一氏(1934年生)が「秋田物部文書伝承」として無明舎から出版した。

物部文書は、①韓服宮(からまつのみや)物部氏記録、②韓服神社祈祷禁厭之伝 物部氏、

③物部家系図からなっている。

物部文書では、神武天皇(181年-248年)が大和に入る以前に、物部氏の祖神である「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が、秋田県と山形県の境にある鳥見山(鳥海山、2236m)に降臨し、日殿山(唐松岳)に「日の宮」を建てて居住し、現在の「日の宮」は唐松神社境内に遷り、「唐松山天日宮(からまつさん あまつひのみや)」として祀られている。

その後、饒速日命は、新天地を目指して大和国(奈良県)へ移住したと云う。

   

私見ですが、饒速日命が北部九州から東北へ行き、次に大和へやってきたと云うのは逆で、饒速日命東遷は西暦185年頃で、西暦209年に神武天皇(181年-248年)に大和国(奈良県)を譲ってから東北(秋田県)に移住した可能性が高いと考えています。

「天村雲命」は筑紫→大和→伊勢へ行き、天香語山命は更に尾張→越後へ行った。饒速日命は更に東北まで行ったのかもしれない。      

或いは、饒速日は大和で亡くなったが、後裔の物部氏が東北へ行ったことは間違いないでしょう。

唐松神社の宮司を務める秋田物部氏の伝承では、「物部文書」の1つ「韓服宮 物部氏記録」によると、物部守屋(587年戦死)の一子、那加世(なかよ、秋田物部初代)が、物部尾輿(守屋の父)の家来の捕鳥男速(ととりのおはや)に匿われ大和から東北地方へ逃れた。

出羽国逆合(協和境)で櫃(ひつ)が動かなくなって立ち往生したので、土地の由緒を尋ねると、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)を祭る韓服林(からまつばやし)という場所であると教えられ、社殿を修復した。

那加世は饒速日命と物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)が住んだ出羽国の逆合(協和町境)に定住した。

「物部家系図」では、物部氏が逆合(協和境)に定着したのは天元5年(982年)の23代物部長文の時で、同年に天地創成の神や天神地祇を祀り、長徳2年(996年)に氏神である火結神(迦具土神)を祀ったと云う。現在の宮司は63代目の物部長仁(さきひと)氏。

物部氏の職業は祭祀、鉱物の採掘、金属器製造、馬の飼育などであった。饒速日命(165年頃-225年頃)を祖として祀る物部氏は、金属職人が多かった。

鉱山には職人が集まり、集落を形成していった。東北の神社や鉱山の多くに、物部氏の伝承が残っている。北部九州でも同じ。

その後、崇仏戦争に敗れた物部守屋(587年戦死)の一子那加世(なかよ)が東北の地に移住し、数代の後、元宮である唐松山頂に饒速日命を祀ったとされる。

延宝8年(1680年)に、藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。 今でも、唐松岳に元宮が鎮座している。

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# by enki-eden | 2019-12-11 21:14

神武天皇の国造・県主

初代神武天皇(西暦181年-248年)は、天村雲命(天五多底)と丹波の伊加里姫との間に生まれた椎根津彦(185年頃出生、倭宿禰)を水先案内人とし、204年に遠賀郡の岡水門(おかのみなと)を出発、安芸・吉備などに寄り、大阪湾に入ってからは戦闘があったが、209年に紀伊国から大和国に到着した。

当初は御所市柏原の「神武天皇社」付近に宮を構えていたが、橿原市の畝傍山麓に都を造り、満30才の211年に即位した。

  

椎根津彦は、父の天村雲と祖父の天香語山が饒速日東遷(185年頃)に従って大和国に来てから生まれたと考えられる。海人族の椎根津彦は大和国と筑紫国の間の瀬戸内海を往来して交易に従事していたと考えられる。従って、神武天皇の水先案内人としては最適任者であった。

先代旧事本紀の国造本紀によれば神武天皇は、東征に功績のあった者を褒めて、国造と県主を定めたと云う。

初代神武天皇の御世に定められた国造・県主として国造本紀に名前が記されているのは、

大倭国造(やまとのくにのみやつこ)

椎根津彦命をはじめて大倭国造とした。大和直(やまとのあたい)の祖である。

葛城国造(かずらきのくにのみやつこ)

剣根命(つるぎねのみこと、170年頃出生か)をはじめて葛城国造とした。葛城直の祖である。

天村雲命と阿俾良依姫の子である天忍人命は、天村雲命と伊加里姫との子である角屋姫

(葛木出石姫)を妻とする。天忍男命は葛木剣根命の娘・葛木賀奈良知姫を妻とする。
     図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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新撰姓氏録の「大和国 神別 天神 葛木 忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也」とあるが、

剣根命(170年頃出生)は高皇産霊尊(140年頃出生)の五世孫ではなく、年代的には孫と考えられる。

私見ですが、剣根命は上の系図の熊野高倉下かもしれない。熊野高倉下は神武天皇が東征中に紀伊半島の熊野で倒れたが、熊野高倉下が霊剣の布都御魂剣を渡すと助かった。

霊剣で助かったので、熊野高倉下は神武天皇から「剣根」と呼ばれたのかもしれない。

凡河内国造(おおしこうちのくにのみやつこ)

彦己蘇根命(ひここそねのみこと)を凡河内国造とした。凡河内忌寸(いみき)の祖である。

天津彦根命の子である天之御影命(鍛冶の神)は、西暦185年頃の饒速日東遷に従って、

滋賀県野洲市(やすし)三上(みかみ)の三上山(御影山、近江富士、432m)に降臨、嫡流の三上氏より分かれて彦己蘇根命が凡河内国造となった。

凡河内氏一族が治めた国は、和泉、河内、摂津、播磨である。

天照大神→天津彦根命→天御影命→意富伊我都命→彦己蘇根命

(凡河内氏、広峯氏へ)

神戸市灘区の「河内国魂神社」は摂津国で凡河内氏が奉祀する神社で、広峯氏は姫路市の「廣峯神社」の社家となる。

   

国造本紀に記されている国造で人名の語尾に「根」、「祢」、「尼」が付くのは30人ほどいる。

後の時代になるにつれて、「根」が「足尼(すくね)」や「宿祢(すくね)」になっていく。

山代国造  天一目命(あまのまひとつのみこと)を山代国造とした。山代直の祖である。

阿多振命(あたふりのみこと)を山代国造とした。

伊勢国造  天降る神・天牟久努命(あまのむくぬのみこと)の孫の天日鷲命を、伊勢国造に定め

られた。伊賀・伊勢国造の祖である。

素賀国造(そがのくにのみやつこ)、静岡県掛川市周辺、蘇我町・曽我村がある。

神武朝の御世、はじめて天下が定められたときに、天皇のお供として侍ってきた人で、

名は美志印命(うましいにのみこと)を国造に定められた。

紀伊国造(きいのくにのみやつこ)

神皇産霊命(かむむすひのみこと)の五世孫の天道根命(あまのみちねのみこと)を国造に

定められた。紀河瀬直(きのかわせのあたい)の祖である。

宇陀県主の兄猾(えうかし)を誅した弟猾(おとうかし)を、建桁県主(たけたのあがたぬし)とした。

志貴県主(しきのあがたぬし)の兄磯城(えしき)を誅した弟磯城(おとしき)を、志貴県主とした。

宇佐国造(うさのくにのみやつこ)

高魂尊(たかみむすひのみこと)の孫の宇佐都彦命(うさつひこのみこと)を国造に定めた。

津嶋県直(つしまのあがたのあたい)

高魂尊の五世孫の建弥己己命(たけみここのみこと)を、改めて直にした。

高魂尊(高皇産霊尊)は対馬、壱岐に関係が深い。

神武天皇は全部で144の国に国造を任命したと記されている。西暦201年の「葦原の中津国平定」の一環として神武天皇が204年に遠賀郡の岡水門(おかのみなと)を出発し、211年に大和国橿原で即位したが、当時はまだ全国制覇できておらず、10代崇神天皇(251年-301年)が物部氏と結託して全国制覇を目指した。13代成務天皇の御世(4世紀中頃)に定められた国造が多い。

14代仲哀天皇(320年頃-362年)の神功皇后(321年-389年)の時に、ほぼ全国制覇が実現し、神功皇后が朝鮮半島に出兵するまでになった。

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# by enki-eden | 2019-12-05 09:34

奈良市教育委員会埋蔵文化財調査センターは1128日、奈良市丸山1丁目の国内最大の円墳「富雄丸山古墳」で、墳頂部から中国製銅鏡「斜縁神獣鏡」の破片が見つかったと発表した。

今月初めの発掘調査体験会で参加者の男性が発見したと云う。

富雄丸山古墳は奈良市の北西を流れる富雄川右岸に築造された大型円墳(4世紀後半、110)で、明治時代に盗掘を受けている。

1972年の団地造成の際に発掘調査が実施された。2017年度から奈良市教育委員会により史跡整備に向けた調査が実施されている。


墳形は円形で3段築成、墳丘表面には葺石・埴輪片があり、墳丘北東部には「ハの字形」の造出がある。主体部の埋葬施設は粘土槨で、内部には割竹形木棺(推定長6.9m)が据えられた。

伝出土品として石製品・鍬形石・合子・管玉・銅製品など(京都国立博物館所蔵)や、三角縁神獣鏡3面(天理大学附属天理参考館所蔵)があり、発掘調査出土品として武器類・鉄製品類・巴形銅器・形象埴輪がある。

京都国立博物館所蔵の伝出土品は1957年(昭和32年)に国の重要文化財に指定されている。北東側には小古墳の丸山2号墳と丸山3号墳も認められており、丸山古墳と合わせて現状保存されている。

10月中旬から約255平方メートルを調査、出土した斜縁神獣鏡の破片は長さ約3cm、

幅約1.5cm、厚さ約1mm。

仙人像の一部と丸い突起(鈕)があり、直径約16cmの斜縁神獣鏡の一部とみられる。

斜縁神獣鏡は3世紀頃に中国北東部で製作されたと考えられ。国内で45面出土しているが、円墳では金比羅山古墳(京都府宇治市、40mの円墳)など数例しかない。

1.5km南東の奈良市石木町に登彌神社(とみじんじゃ)が鎮座、祭神は東本殿に高皇産霊神、誉田別命(応神天皇)、西本殿に神皇産霊神、登実饒速日命、天児屋命。2殿が東西に並んでいる。

初代神武天皇がこの地に皇祖天神を祀ったのが始まりで、その後、登美連が祖神の饒速日命の居住地の近くのこの地に奉祀した。

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# by enki-eden | 2019-11-29 17:00

和邇(わに、鰐)

14代仲哀天皇(320年頃-362年)が筑紫国に来られる時、岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の「熊鰐」が、白銅鏡(ますみのかがみ)、十握剣(とつかのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を船の舳に立てて、周芳(すわ)の沙麼(さば、山口県防府市佐波)の浦に迎えた。

和邇族の岡県主の拠点は、遠賀川河口流域(福岡県遠賀郡芦屋町)にある崗之水門(おかのみなと、岡水門)が中心で、崗地方(遠賀郡)を治めていた。

遠賀川の河口には岡湊神社(おかのみなとじんじゃ)が鎮座。遠賀川流域には物部氏の領地も多いので、和邇族と物部氏は共同関係にあったと考えられる。

福岡県北九州市八幡西区岡田町に、熊族が祖先を祀った岡田神社が鎮座。岡田神社の北側の地名は八幡西区熊手(やはたにしく くまで)になっている。

祭神は中殿(岡田宮)に神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと、神武天皇)、

右殿(熊手宮)には大国主命、少名彦命、県主熊鰐命(あがたぬしくまわにのみこと)、

左殿(八所宮)には高皇産霊神、神皇産霊神、玉留産霊神(たまつめむすびのかみ)、生産霊神(いくむすびのかみ)、足産霊神(たるむすびのかみ)、大宮売神(おおみやのめのかみ)、事代主神、御膳神(みけつかみ)が祀られている。

八所宮の祭神は八神殿と同じで、現在は皇居の神殿(宮中三殿の1つ)にも祀られている。

岡田宮、熊手宮、八所宮はそれぞれ別の神社であったが、江戸時代初めに当地に遷座して一つの神社になったと云う。

熊族が最初に祖先を祀った場所(熊手)は、八幡西区山寺町の一宮神社がある所で、神武天皇(181年-248年)が204年に大和国へ出発する前に当地に立ち寄り、八神(八所神)を祀った。

 赤のアイコンが岡田神社、黄が一宮神社。

神武天皇の母は玉依姫で「和邇族」、祖母の豊玉姫も「和邇族」、神武天皇も「和邇族」であったので、崗(遠賀郡)に住む同族たちも東遷に加わった。

大和国においても歴代の天皇は「和珥氏(和邇族)」から妃を娶っている場合が多い。

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和邇(わに、鰐)_d0287413_09211143.jpg

大国主命(160年頃出生)と「和邇族」の神屋楯比売(かむやたてひめ)の子が事代主命で、事代主命は「八尋熊鰐(やひろのくまわに)」と云われる。大国主の領域・宗像と和邇族の領域・岡水門は隣接している。

大国主命の子で、周芳(すわ)を支配していた建御名方(たけみなかた)が、201年頃の「出雲国譲り」を拒否し、建御雷(たけみかづち)と力競べをして負け、逃げ込んだ所を諏訪(すわ、長野県諏訪市)と云う。周芳と諏訪は、漢字は違うが発音は同じ。

周芳(すわ、山口県東南部)は、7世紀に周芳国(すわのくに)となり、7世紀末に周防国(すおうのくに、すわのくに)と改称した。

対馬最北端の「鰐浦(わにうら)」は、朝鮮半島まで53km、天然の良港になっており、神功皇后(321年-389年)の新羅遠征時(363年)にも「鰐浦から出発した」と記されている。

対馬では大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と云うので、「鰐浦」の地名由来は、大型の舟が出入りしていた港だからか。

それとも鰐族が運営管理していた港なのか。海神の娘である豊玉姫が鰐族だったから、鰐族が使う港を「鰐浦」としたのか。

海人族の和珥氏と賀茂氏の族名由来もこれかもしれない。和珥氏は大型の舟を使って遠距離交易、賀茂氏は小型の舟を使って近距離交易で住み分けていたのか。

大和国における和珥氏(わにうじ)の拠点は、奈良盆地東北部の添上郡(そえかみぐん)和邇にあった。現在は天理市になっている。

奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)の古墳群は和珥氏の墓所と考えられ、「東大寺山古墳」の出土物には後漢の霊帝の中平(184– 189年)銘鉄刀がある。

列島では倭国乱、大陸では黄巾の乱の時代に筑紫の和邇族は大陸と交易をしていた。乱が起きる寸前だったかもしれない。この鉄刀は和邇族の子孫が伝世し、4世紀末頃に東大寺山古墳に副葬・埋納された。

東大寺山古墳の近くには和邇氏(和珥氏)の氏神「和爾下(わにした)神社」が鎮座している。

   

和珥氏は4世紀に難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま、330年頃出生)などが、大和朝廷の海外出兵や国内の争いにおいて実績を上げた。難波根子武振熊は和珥氏であるが、丹波・但馬・若狭の長となり、海部氏の系図にもはめ込まれている。

和珥氏は部族から天皇家に妃を出し、外戚として勢力を高めた。

6世紀になると和珥氏の中から春日氏、小野氏、粟田氏、柿本氏、櫟井氏などが分岐し、春日氏が中心となっていく。

和珥氏は琵琶湖南西部にも領地を有し、和邇・小野などの地名を残した。和邇川が琵琶湖に注ぎ、JRの和邇駅、湖岸の和邇漁港がある。

小野氏出身者には、小野妹子・小野篁・小野小町・小野道風などがいる。小野には小野神社、小野道風神社、小野妹子神社もある。   

小野の和邇大塚山古墳は、全長72m、後円部径50mの前方後円墳で、4世紀末から5世紀初めの築造。琵琶湖や小野地域を一望できる曼陀羅山(185.8m)の山頂にあり、和邇氏の首長の墳墓と考えられている。

被葬者は難波根子武振熊の子かもしれない。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
  


# by enki-eden | 2019-11-28 09:34

御所市中西遺跡の水田跡

奈良県立橿原考古学研究所が1120日に発表したのは、弥生時代前期(約2400年前)の水田跡が確認されていた奈良県御所市(ごせし)室(むろ)の中西遺跡で、新たに約3,500㎡の水田跡がみつかった。

水田跡面積は隣の秋津遺跡とあわせると、約43,000㎡にもなり、弥生前期の水田跡では全国最大規模のようだ。江南人(倭人)が日本列島にやってきて、水田稲作を始め弥生時代になった頃、奈良盆地では灌漑用水を使った大規模な稲作が行われていた。


 橿原考古学研究所によると、京奈和自動車道の建設工事に伴い、今年4月から約6,000㎡を発掘調査した。出土した水田跡の数は410区画、1区画あたりの面積は平均約9㎡と小さい。当時としては一般的な大きさらしい。

区画の間を幅30cm前後の小さなあぜがあみだくじの線のように走っている。緩やかな傾斜のある地形を利用し、水があぜを越えて水田全域に及ぶ仕組みになっている。

表面には人の足跡も残っている。川とみられる跡もみつかり、川の両側に水田がつくられている。弥生前期(約2400年前)に洪水の土砂で埋まったとみられ、一帯の水田の広さは約10万㎡を超えていたと推定される。

 中西遺跡の近くには「室宮山古墳」や「條ウル神古墳」があり、東方山裾(御所市大字冨田)には「日本武尊白鳥陵」がある。

   

現地説明会は23日午前10時~午後3時、小雨決行、駐車場あり。

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# by enki-eden | 2019-11-21 13:24

宇佐家伝承③

宇佐家伝承①②からの続き。

宇佐公康(きみやす、1915年-?)氏が「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」に続いて、「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」を1989年に木耳社から出版した。

阿蘇族と菟狭族(宇佐族)は同族の関係にあった。古代の阿蘇国は「日の国」で、菟狭国(宇佐国)は「月の国」であった。

初代神武天皇(181年-248年)の皇子と考えられる常津彦耳命(とこつひこみみのみこと)は、阿蘇都媛命を妃として菟狭国造となり、二人の墳墓は大尾山(宇佐神宮の東)にあると宇佐家古伝にある。

宇佐神宮の案内図

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阿蘇都彦命と阿蘇都媛命は、阿蘇国を造り治めていた。神武天皇の皇子・神八井耳命の皇子である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が阿蘇国に侵略し、阿蘇都彦命を殺し、阿蘇都媛命を妃にしようとして、領土を奪ったと古伝は云う。

この部分は、他の文献とはかなり違うのでややこしい。健磐龍命の別名に阿蘇都彦命がある。神武天皇の子孫には九州東部に伝説が多い。

健磐龍命が阿蘇神社(熊本県阿蘇市一の宮町、肥後国一之宮)の「一の神殿」に一宮として祀られ、阿蘇都比咩命が「二の神殿」に二宮として祀られている。阿蘇都彦命は祀られていない。

健磐龍命に追われた阿蘇都媛命は日向国三田井高千穂に逃れ、阿蘇山を「火の国」の「火」として拝した。「阿蘇」の意味は「燃える岩」。

阿蘇神社の38km南東の宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1037に高千穂神社が鎮座。祭神は皇祖神と配偶神で、天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫命、神武天皇の兄・三毛入野命とその妻子9柱。

阿蘇神社と高千穂神社

阿蘇都媛命の直系子孫の女性は代々阿蘇都媛を襲名し、憧賢木厳之御魂(つきさかきいつのみたま)となり、更に天疎向津比売命(あめさかるむかつひめのみこと)となり、天照大日霊女命(あまてらすおおひるめのみこと)に至ったと云う。

  

阿蘇から播磨にやってきて、針間(播磨)阿宗君の祖となった息長日子王(神功皇后の弟、針間阿宗君の祖、吉備品遅君の祖)が、「阿宗神社」(あそうじんじゃ、兵庫県たつの市誉田町広山)に祀られており、全国に阿宗、安蘇、阿曽などの氏族となった。

本来の阿蘇氏は阿蘇都彦と阿蘇都媛を氏神とした。

魏志倭人伝に記載の「対蘇国」は「阿蘇国」の間違いで、「蘇奴国」は「豊国(菟狭国)」、「華奴蘇奴国」も古(いにしえ)の「豊国(古の菟狭国)」であると云う。

昔は華奴蘇奴国と蘇奴国は一体であったが、その後に分かれたと云うことかな? 

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-11-19 00:36

宇佐家伝承②

宇佐家伝承①からの続き。

宇佐家古伝によると、「14代仲哀天皇(320年頃-362年)は武内宿祢(310年頃-390年頃)に殺された。誉田天皇は応神天皇ではなく、神功皇后(321年-389年)と武内宿祢の子である。仲哀天皇陵は香椎宮にある」と伝わる。

香椎宮(福岡市東区香椎)の170m東の森に、古宮(仲哀天皇橿日宮跡)と仲哀天皇大本営御旧蹟碑(仲哀天皇崩御の地)がある。ここに仲哀天皇の宮があり、天皇は西暦362年にこの宮で崩御した。神功皇后が仲哀天皇廟として祀った。

その後、44代元正天皇の養老7年(723年)に神功皇后の神託が下り、香椎宮(かしいぐう)の社殿が建てられ、祭神は仲哀天皇と神功皇后になっている。

宇佐家の古伝では、「宇佐稚屋(うさのわかや)の弟である御諸別命(みもろわけ)が神功皇后、誉田天皇、武内宿祢を打ち破り、武内宿祢は行方知らずになり、神功皇后と誉田天皇は香原岳の南の勾金(まがりかね)に幽閉されてこの地で亡くなったと云う。誉田天皇は4才であった。八幡大神の天罰を受け、御諸別命の天誅によって追放された」と云う。

私見ですが、宇佐公康氏は津田左右吉(1873年-1961年)の意見を重視しているので、戦後史学の古代史歪曲に影響されていると強く感じる箇所があります。

宇佐神宮由緒記によると、「宇佐神宮上宮(じょうぐう)は45代聖武天皇(701年-756年)の神亀2年(725年)に造営され、これが現在の一之御殿の創建である」とある。

祭神は応神天皇になっているが、宇佐家は宇佐押人(おしと)を祀ったと云う。だから宇佐押人を応神天皇に仮託したのかも知れない。

聖武天皇の天平3年(731年)に神託により現在の二之御殿を造営、比売大神を御許山(おもとやま、647m)の頂上(宇佐神宮奥宮)から勧請し、宇佐家の母系祖神の菟狭津媛を祀った。現在は三女神とされている。御許山は比売大神の降臨した神山。

天平勝宝4年(752年)、宇佐神宮は45代聖武天皇(701年-756年)の東大寺盧舎那仏の造立事業に協力し、宇佐神宮の神輿に八幡大神を鎮座して都に向かった。大仏殿近くの鏡池(八幡池)の東に、手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を建立し鎮座した。

そして大仏開眼会に八幡大神の神輿が大仏に礼拝したので、神仏習合を目指す聖武天皇に喜ばれた。

東大寺大仏殿建立に際し、宇佐神宮は香原岳の銅を供出、鍍金のために金を輸入する必要があったので、金の調達について八幡大菩薩に御加護をお願いした。尼僧の禰宜(巫女)が託宣を下し、「黄金は陸奥国金華山にあり」と云った。実際に現地で調べてみると金鉱石が見つかった。

これで無事に盧舎那仏が完成することになる。以降、宇佐神宮は朝廷との繋がりが深くなり、勅使が神託を得るために、西参道に架かる屋根付きの朱塗りの「呉橋」を渡ってやってくることになった。

八幡大神は奈良の都から帰還すると、神託により765年に亀山の東向いの大尾山(おおやま、57m)に鎮座したが、782年に亀山(小椋山、38m)の古墳の上に遷座したと云う。大尾山の跡地は大尾神社(おおじんじゃ)となり、宇佐神宮の摂社となった。かなり山深い。

従って、和気清麻呂(733年-799年)が769年に弓削道鏡(700年-772年)の事件に関し、勅使として神託を受けたのは、大尾山に鎮座の宇佐神宮であった。

52代嵯峨天皇(786年-842年)の824年に神託により現在の三之御殿を建て、大帯姫を祀った。大帯姫は神功皇后と云われるが、宇佐家は宇佐押人(応神天皇)の母・常世織姫を祀ったと云う。

常世織姫の墳墓は宇佐市橋津の貴船神社だと云う。

貴船神社はかなり荒廃しているが、近くに和気清麻呂の「船つなぎ石」がある。

宇佐家の古伝によると、宇佐神宮の一之御殿祭神の応神天皇は宇佐押人、二之御殿祭神の比売大神は菟狭津媛、三之御殿祭神の神功皇后は常世織姫命となる。

藤原氏と宇佐氏の姻戚関係により八幡信仰が全国に広まっていった。そして石清水八幡宮や鶴岡八幡宮の建立により武家にも浸透していった。

宇佐家は平家との外戚関係もあり、源平合戦では平家の味方になった。宇佐家当主の宇佐公通(きんみち、1144年に大宮司)は、1183年に都落ちした安徳天皇(1178年-1185年)を自邸に迎えた。

宇佐公通が七日七夜祈ったところ、「嫡男の宇佐公仲を安徳天皇の身代わりとして守れ」と神託を得た。公仲の母は清盛(1118年-1181年)の娘浄子で、建礼門院徳子(1155年-1213年)の妹であるから安徳天皇と宇佐公仲は同年の従兄弟であった。

公仲は安徳天皇として壇ノ浦の戦いで入水した。その後、宇佐神宮では、宇佐公仲と称した安徳天皇が1214年に大宮司となり、以降は子孫が大宮司を務めたと云う。

宇佐公康氏によると、大分県の国東(くにさき)は「木の国」で、魏志倭人伝記載の「鬼国」、玖珠郡の玖珠川周辺が「躬臣(くす)国」、宇佐が「為吾(いご)国」、山国川周辺が「耶馬国」、山口県防府市大崎の玉祖(たまのおや)神社付近が「投馬国」と云う。

また、奈良県橿原市の神武天皇陵の被葬者は饒速日命だと云う。宇佐家の伝承によると、物部氏の原郷は筑後平野で、氏神は高良大社である。

宇佐神宮の大宮司は、宇佐神宮を顕した大神比義(おおがひぎ)の子孫の大神氏が務めたが、平安時代中頃から菟沙津彦 (うさつひこ) らの子孫である宇佐氏に譲り、宇佐氏一族の宮成氏、到津(いとうづ)氏、岩根氏、安心院(あじむ)氏が大宮司を世襲した。その後、一族で大宮司を争うことになる。

鎌倉時代末期の宇佐公世の代から宇佐氏は2家に分かれ、兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称した。両家が交互に大宮司を継いだ。一時、宇佐氏一族の出光氏も大宮司となったことがある。

戦後は、到津氏が継承し祭祀を行っていた。平成16年(2004年)頃より到津氏に代わって代務者が置かれるようになったので、神社庁、到津家、氏子総代が争いを続けている。

到津家の末裔到津克子(よしこ)氏は、神社庁から権宮司を解任され訴訟を起こしたが女性宮司は認められず、訴訟を取り下げた。境内の立派な住宅兼祭祀の場を維持するためであった。

私見ですが、神社庁を改革する必要があるのではないか。神社は神社庁のものではなく、氏子や社家のものだと思いますがねぇ・・・

***

私事ですが、私たち夫婦は196911月に結婚し、今年は2019年ですから50年が過ぎました。娘夫婦、息子夫婦、孫たちが「金婚式」を祝ってくれました。孫の成長ぶりを楽しんでいます。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-11-13 00:09

宇佐家伝承①

宇佐公康(きみやす、1915年-?)氏が、著書「宇佐家伝承 古伝が語る古代史」を1987年に木耳社から出版している。

宇佐公康氏は高魂尊(たかみむすひのみこと)の125代目とされ、宇佐家本系図によると、菟狭津彦命の72世の孫(そん)、宇佐公池守の57代目、宇佐相規の42代目、宇佐公通(きんみち)の36代目にあたり、昭和31年(1956年)に先代から一子相伝の「口伝書」と「備忘録」を引き継いだ。

宇佐族について、先代旧事本紀の天神本紀に「高魂尊の子の天三降命(あめのみくだりのみこと、豊国の宇佐国造の祖)が饒速日東遷に従った」とあり、国造本紀には「宇佐国造は神武朝の御世に、高魂尊の孫の宇佐都彦を国造に定められた」とある。

高魂尊(高皇産霊尊)→天三降命→菟狭津彦(宇佐都彦)

 

菟狭族(宇佐族)は、宇佐家伝承が記紀の記述とは違う事をはばかって、族長の世継ぎが一子相伝の伝承として代々、口述・記憶・暗唱してきたが、中世以降に「口伝書(くでんがき)」と云われる門外不出の極秘文書となった。

宇佐公康氏は先祖伝来の口伝書・備忘録を読み、記紀・風土記・皇統譜令・陵墓要覧・神社名鑑などを研究し、私見も入れた本書を出版することにした。我田引水の批判もあると思うが、宇佐家の古伝をありのままに開陳しているので寛容を願いたいと云っておられる。

高魂尊(西暦140年頃出生)の子の天三降命(あめのみくだりのみこと、宇佐国造の祖)が、市杵島姫(西暦160年頃出生)を妻とし、菟狭津彦(西暦175年頃出生)が生まれた。

天三降命(西暦155年頃出生)は西暦185年頃の饒速日東遷に従い、大和国へ行った。

菟狭族(宇佐族)の天職とする天津暦(あまつこよみ)は、月の動きを見て月日を数える月読(つきよみ)や、日知・聖(ひじり)などにより、満月の月面に見える模様をウサギに見立て、月を「ウサギ神」として崇拝し、「ウサ族」と称した。

宇佐族は島根県の隠岐の島で漁業を中心に生業としていたが、和邇族との取引に失敗して丸裸になってしまった。大国主命(160年頃-220年頃)に「新しい土地に行って再起せよ」と云われ、大国主命からもらった因幡国八上(鳥取県八上郡)の地を開拓して成功した。

この地の巫女は八上比売で大国主命の妻となった。(「因幡の白兎」の神話となる)

宇佐神宮の33年毎の式年遷宮では、中央の二之御殿の屋根は少しずれているが、位置を動かすことは絶対にまかりならぬと口伝されている。

二之御殿の真下には御量石(みはかりいし)があり、この石を中心に二之御殿が建てられている。この御量石は石棺で、比売大神が埋葬された。

宇佐家伝承によると、大神比義(おおがひぎ)の心眼に童子の姿で「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、神功皇后(西暦321年-389年)と武内宿祢(西暦310年頃-390年頃)の密通によって生まれ、4才で早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊であると云う。

宇佐家古伝によると、本当の応神天皇は神武天皇(西暦181年-248年)の皇孫で、神武天皇が東遷する時(204年出発)、菟狭(宇佐)の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや、足一騰宮)に4年間滞在し、菟狭津彦の妹(実は妻)の菟狭津媛を娶って、宇佐津臣亦の名は宇佐稚家(わかや)が生まれた。

宇佐稚家が越智宿祢の女(むすめ)常世織姫(とこよのおりひめ)を略奪して娶って宇佐押人(おしと)が生まれたが、宇佐稚屋は越智氏に恨まれ、戦闘の中で負傷し、27才で亡くなったと云う。

宇佐稚屋は宇佐の小椋山(おぐらやま、亀山)に葬られた。宇佐押人は西日本を統一して中央(大和国)に進出し、応神天皇となって国家が成立したと云う。

私見ですが、宇佐押人(西暦220年頃出生)が15代応神天皇(西暦363年-403年)では時代が全く合わない。宇佐押人に該当する年代は5代孝昭天皇の頃になる。

一柱騰宮の伝承地は宇佐氏古伝によると、宇佐神宮の寄藻川(よりもがわ)にかかる朱塗りの「呉橋」の南にある。一柱騰宮跡の石碑があり、その東には弥勒寺跡がある。

弥勒寺は西暦738年(45代聖武天皇の天平時代)に宇佐神宮境内に建立された神仏習合文化発祥の寺院。明治の神仏分離令により廃寺となった。

また、宇佐市上拝田(かみはいた)に一柱騰宮跡地とする石碑がある。宇佐市安心院(あじむ)の妻垣神社(宇佐神宮摂社)にも伝承地がある。安心院は宇佐氏の発祥の地と云う。

神武天皇の東遷に菟狭津媛が随伴し、筑紫国岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋町)に1年留まったが、宇佐族の岡氏が岡県主(おかのあがたぬし)となり、大陸との交易で栄えたと云う。

次に神武天皇は安芸国の多祁理宮(たけりのみや)に6年留まり、菟狭津媛は巫女として奉仕、神武天皇(181年-248年)との間に第2子の御諸別命(みもろわけ、宇佐稚家の弟)が生まれた。御諸別命の子か孫が卑弥呼(179年-247年)で、安芸国が「邪馬台国」だと云う。

私見ですが、これは年代が合わないし、邪馬台国は安芸ではなく、九州の筑後川周辺だと考えられる。筑後川の北に「秋月」と云う地名はあるが・・・

神武天皇が亡くなった後、兄の景行天皇が熊襲退治に出かけたが、病気になり阿蘇で亡くなったので、「智保の高千穂嶺」に葬った。当地には熊本県阿蘇郡蘇陽町大野の幣立神社(へいたてじんじゃ、日の宮)が鎮座しており、景行天皇の御陵になっていると云う。

初代神武天皇が12代景行天皇の弟と云うのは時代が合わない。景行天皇は近江国の志賀高穴穂宮で崩御、大和国の山辺道上陵(渋谷向山古墳、300mの前方後円墳)に埋葬された。

菟狭津媛は多祁理宮の南西20kmにある伊都岐島(広島県佐伯郡宮島町厳島)に宇佐族の母系祖神・市杵島姫命を祀っていた。推古天皇の時代に社殿が造営され、平清盛が安芸国守護職となってからは社殿が大きく拡充整備された。

菟狭津媛は間もなく亡くなり、神武天皇も1年後に亡くなったと云う。二人は伊都岐島(厳島)の御山(弥山、みせん、530m)山上の岩屋に葬られたと云う。

多祁理宮の別名は埃宮(えのみや)で、現在は多家神社(たけじんじゃ、安芸郡府中町)となっている。祭神は神武天皇、安芸津彦命(安芸国の開祖)。

赤のアイコンが多家神社、黄が厳島神社、青が御山。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-11-07 09:20

2016117日投稿の「市杵島姫」を、もう一度見直してみたいと思います。

天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)により、「比売大神」が宇佐神宮(宇佐嶋の御許山、647m)に降臨、次に福岡県宮若市の六ケ岳(むつがたけ、339m)に遷座、更に宗像に遷座して道主貴(みちぬしのむち)として宗像大社に祀られた。   

当初は「比売大神」として一柱の神であったが、宗像大社は、辺津宮・中津宮・沖津宮の三宮に分かれているので、「三柱の比売大神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)」として祀られるようになったと云う説がある。

また、海人族の祀る神は、住吉大神も綿津見大神も「三柱の神」として祀られているので、宗像大神も三柱の神となったか。

大分県宇佐市の宇佐神宮では、三女神が「比売大神」として、二之御殿(3つ並んだ御殿の真ん中)に祀られている。   

京都府八幡市の「石清水八幡宮」でも同様に、比咩大神として左御前に祀られている。

京都市西京区嵐山宮町の「松尾大社」では、中津島姫命の別名で、主祭神二柱の一柱として祀られている。  

元伊勢として知られる京都府宮津市の「籠神社」では、主祭神である彦火明命と市杵嶋姫神が夫婦であるとしている。   

奈良県桜井市の大神神社摂社・「市杵嶋姫神社」に見られるように、市杵嶋姫を祀る神社は池に囲まれていることが多い。

市杵島姫命は、美人の「水の神様」と云われ、神仏習合時には弁才天と同じにされた。

図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)②_d0287413_20051588.jpg

大国主大神(大己貴命)を主祭神として祀る出雲大社(島根県出雲市)には、本殿瑞垣内に向かって左に摂社の「神魂御子神社(筑紫社)」があり、三女神の内の多紀理毘売命(たきりひめ、田心姫命)が大己貴命の「九州の妻」として祀られている。


初代神武天皇(彦火火出見、181年-248年)の母・玉依姫も、「比売大神」や「三女神」として祀られている神社がある。玉依姫も「一柱の比売大神」から「三柱の神」に別けられた経緯がある。

福岡県飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社の由緒には、『豊前国宇佐島より筑前国宗像郡沖津島に鎮座のとき、当村日尾山(ひのおさん)、現在の日王山(ひのおうさん)を越え給う古実をもって、12代景行天皇の御宇(4世紀前半)に「三女神」を祀り、今に社殿・神石・柱石等残れり』とある。

福岡県鞍手郡(くらてぐん)鞍手町室木(むろき)の六嶽(むつがたけ)神社の由緒には、『この地は「宗像三女神」が降臨したゆかりの地で、7代孝霊天皇の御宇(3世紀後半)に宗像三所に遷幸され、宗像大神あらわれ給う』とある。

福岡県福津市津丸の神輿(みこし)神社では、『宗像社縁起に曰く、宗像三女神、始め室木の六ヶ嶽に御着、その後此の地に留り給う、この村に於て神威輝耀を以って神興と称す、その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり、「三女神遷幸の地」と伝承されている。』と伝わる。

三女神は、宇佐神宮→六嶽神社→神輿神社→宗像大社に遷座して祀られることになったと云う。



福岡県太宰府市に宝満山(ほうまんざん、829)、別名御笠山(みかさやま)、竈門山(かまどやま)があり、霊山として国史跡に指定されている。

宝満山の山頂に宝満宮竃門(かまど)神社の上宮が北向きに鎮座、麓に下宮が鎮座しており、玉依姫命(神武天皇の母)を主祭神にお祀りしている。太宰府天満宮の鬼門方角になる。

由緒によると、『按ずるに玉依姫を中央主祭の神とし、神功皇后、八幡大神を左右に配祀せしは、宇佐神宮三座の神と御同神にして玉依姫は同神宮の比売大神と御同体にますなり』とある。

宇佐神宮の比売大神も玉依姫だと伝わっている。玉依姫を宝満神、宝満大神として祀る神社もある。

比売大神(三女神)が玉依姫であるならば、私見では市杵島姫命と天火明命(140年頃出生)の子が卑弥呼(179年-247年)であると考えているので、玉依姫(市杵島姫命)と鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず)の皇子である神武天皇(181年-248年)は卑弥呼と姉弟になる。

それが事実であれば、天照大神(大日孁貴)と豊玉姫が同一神ではないかと思えてくるが、頭が混乱してきました。古代の結婚は複婚(多数婚)なので複雑でややこしい。

福岡県宗像市神湊951の津加計志(つかけし)神社は宗像大社の境外摂社で、祭神は宗像三女神の市杵嶋姫神、田心姫神、湍津姫神。近くの神湊(こうのみなと)の守護神である。


津加計志神社の元宮は、『神湊(こうのみなと)草崎に鎮座の綱掛神社(現在、宗像大社頓宮)で、御祭神は市杵島姫命、相殿に宗像大宮司の遠祖・吾田片隅命(別名:赤坂比古命)を併せ祀る』と伝わる。

吾田片隅命(阿田賀田須命)は、大国主命(160年頃-220年頃)の6世孫で、宗像氏の祖、和邇一族であるから、響灘の海域を拠点にして海外交易も盛んに営んでいた。

大国主命は、西暦201年の「葦原の中津国の国譲り」により、北部九州の支配地(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)を天孫族に譲り、出雲国(島根県)に隠遁したが、配下の海人族である宗像氏は、天照大神と素戔嗚尊の誓約により生まれた三女神を宗像大社に祀り、天孫族に従ったと考えられる。

宗像大社で祀られているのは三女神であるが、本来祀られていたのは大国主命と考えられる。「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。

宗像大社辺津宮の周辺は「秋郷(あきのさと)」と呼ばれていたが、秋郷に住んでいた人々が、各地に移り住んで、その土地に「あき(安芸・安木)」と名付け、「市杵島姫」を祀った。

「安芸の宮島」の厳島神社(国宝・世界遺産)の祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命。安芸の地名は、広島県の安芸国、高知県の安芸市などがある。

日本の国土を「秋津洲(あきつしま)」というのは、日本書紀の神武紀に、天皇が巡幸し掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘で、「なんと素晴らしい国を得たことだ。狭い国ではあるけれど、蜻蛉(あきつ)がトナメしているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ」といったので秋津洲(あきつしま)と呼ぶようになったとある。

「秋津洲」の地名由来は、宗像の「秋郷」(葦原の中津国、豊葦原の瑞穂の国)が語源かもしれない。宗像大社周辺はそのような景色が広がっている。

或いは、神武天皇の出生地である遠賀郡もよく似た景色が広がる。大国主命が支配した響灘周辺の土地(葦原の中津国)を表現した言葉かもしれない。

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# by enki-eden | 2019-10-29 00:30

44400万年前に、当時地球上に生息していた生物種の85%が絶滅するという「大量絶滅」があったと考えられている。

2005年、アメリカ航空宇宙局(NASA)とカンザス大学の研究によると、この大量絶滅は地球から6000光年以内で起こった超新星爆発によるガンマ線バーストを地球が受けたことが引き金になったという。

超新星爆発が起きると、ブラックホールが形成され、強力なガンマ線バーストが生じ、それが地球方向に放出されるとオゾン層が破壊され地球の生物に影響を与え、大量絶滅すると考えられている。

その後、生物種は回復していくが、25100万年前に最大の大量絶滅が起こり、生物種の90%以上が絶滅した。

19960万年前にも大量絶滅が起き、全生物種の76%が絶滅し、火山の大噴火や隕石の衝突が原因ではないかと云われている。その後は恐竜が地球上に拡散していく。

6550万年前にも大量絶滅が起き、恐竜・アンモナイトなど生物種の70%が絶滅した。隕石の衝突か火山の大噴火が原因と考えられている。鳥類・哺乳類・爬虫類・両生類などは生き延びた。

このように、超新星爆発、隕石の衝突、火山の大噴火などにより、地球上の生物は大量絶滅したり、生き延びたり、新種が発生したりすることを何回も繰り返してきている。

現代では、人類が他の生物を減少させる原因になっている。

  

星座のオリオン座は有名で、多くの人に好まれており、中央の三ツ星と周りの六角形又は七角形があり見つけ易い。古代から船乗りが目印としてきた。

エジプトのギザの三大ピラミッドの配置も、オリオン座の三ツ星を地上に復元したと云う説がある。20131220日投稿の「京都の結界」2014116日投稿の「難波宮、大津宮から飛鳥宮へ」をご参照ください。

オリオン座のベテルギウス(Betelgeuse)は642光年先にあり、赤色超巨星なので超新星爆発が迫っていると云う。直径は太陽の千倍もあり、大きさが変化する「変光星」である。

大きさが変わる原因は、熱により表面のガスが膨張し大きくなる、膨張すれば温度が下がり収縮するのを繰り返す。

超新星爆発すると、温度が急上昇し3ヶ月くらい昼でも見える明るさになり、赤色巨星が青白く変化する。4ヶ月すると温度が下がりオレンジ色になる。やがて元の赤い色に戻り、4年後には暗くなって見えなくなる。数百年経つとガスが見えるようになる。

ベテルギウスの自転軸が地球に対して20度外れているので、超新星爆発してもガンマ線の直撃は避けられ、地球への影響は少ないと見られている。高エネルギーのガンマ線は磁場の影響を受けずに直進するからである。

ただ、ガンマ線バーストが巨星の自転軸方向の狭い範囲だけに放射されるかどうかは分からないのではないでしょうか? ガンマ線バーストに幅があれば、20度外れている地球にも届く可能性はあるのではないか。広範囲に放射された場合は地球に届いても放射線量が少ないので影響が少なくなる。

また、超新星爆発があるとニュートリノのバーストも起きる。岐阜県飛騨市神岡町の「スーパーカミオカンデ」(宇宙素粒子観測装置)は、超新星爆発によるニュートリノを観測する体制ができている。


日本では、オリオン座のベテルギウスの赤色とリゲルの白色による色の違いで、リゲルを源氏星、ベテルギウスを平家星と使い分けられている。その逆に使っている人もいる。

源平合戦(1177年-1185年)では、源氏が白い旗、平家が赤い旗を掲げたので、源氏がリゲル(白星)、平家がベテルギウス(赤星)と見られている。

源平合戦に勝利した源氏の白い旗には太陽の赤丸が描かれていた。西暦1056年に70代後冷泉天皇(1023年-1068年)が源頼義(998年-1082年)に日章旗が下賜され、「御旗(みはた)」として甲斐源氏の甲斐武田家に家宝として伝えられた。

「日の丸の御旗」は、現在は山梨県甲州市塩山の裂石山雲峰寺(さけいしざん うんぽうじ)が寺宝として保存している。雲峰寺は甲斐守護武田氏の祈願所であった。

源頼朝(1147年-1199年)が征夷大将軍(1192年-1199年)となり、鎌倉幕府が全国を制圧したことにあやかって、日章旗が統一の旗として使われるようになった。

1870年(明治3年)に日章旗(日の丸)が日本の国旗となったが、1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」が公布・施行され国旗と国歌が定められた。

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# by enki-eden | 2019-10-21 00:05

条坊制は、古代から中世にいたる都の都市計画で、都の中央南北に朱雀大路(すざくおおじ)を通し、東西の大路と南北の大路で碁盤の目状に造った都市計画である。東西の大路を「条」と呼び、南北の大路を「坊」と呼ぶ。

藤原京、平城京、長岡京、平安京で条坊制が敷かれたが、福岡県太宰府市の太宰府や宮城県多賀城市の多賀城でも設けられた。

日本で最初の条坊制を敷いたのは藤原京で、唐風に造られた都である。日本書紀には新益京(しんやくのみやこ)と記されている。

藤原京は、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代(592年-710年)の都で、694年から710年まで16年間、平城京に遷されるまでの都となる。

41代持統天皇(西暦645年-703年)、42代文武天皇(683年-707年)、43代元明天皇(661年-721年)の時代である。

儒教の教典「周礼(しゅらい)」に、

「王城は一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つの門を開く。

城内には、南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、幅は車の轍(わだち、8尺)の9倍とする。

中央に天子の宮、その東に祖先の霊を祀る宗廟、西に土地の神を祀る社稷(しゃしょく)を置く。

前方、南には朝廷、後方、北には市場を置く。」とある。

中国では、この周礼の記述を基に王城ができた。東西南北を直線の道路で結ぶのが都市機能として効率的だという考え方は、日本にも「周礼」とともに「条坊制」として伝わってきた。

最初の条坊制を敷いた藤原京では、皇宮は都の中央に設けられたが、平城京からは都の北側中央に宮が設けられるようになった。

橿原考古学研究所が、藤原京跡で130m四方の貴族の邸宅跡が出土したと102日に発表した。門を構え、中央に正殿がある立派な構造の邸宅になっている。現場は「右京59坊東北坪(とうほくのつぼ)」で、神武天皇陵の北、藤原京の西端に近い。


日本書紀の41代持統天皇5年の藤原京造営記事に、「新益京(しんやくのみやこ、藤原京)での右大臣に賜る宅地は四町、直広弐(じきこうに、一二階)以上には二町、大参(五位の貴族)以下には一町、上戸(かみつへ)には一町、中戸には半町、下戸には四分の一町」とあり、五位の貴族には一町(130m四方)の宅地を賜るとの記述があり、出土した邸宅跡はこれに一致している。

奈良時代の平城京(710年-784年)は唐(618年-907年)の長安城をモデルに造られたので構造は良く似ていて、都は碁盤目状の直線道路で整備され、北側中央に宮(大内裏)があった。

中央の南北に朱雀大路が通り、幅74m、朱雀門から羅城門までの距離は3.6kmあった。朱雀大路の東が左京、西が右京に分けられた。

皇宮の北に庭園が広がり、都の東西に官営市場、東南角に苑池(えんち)があることも長安城と同じであった。

但し、平城京には長安城のような都を取り囲む城壁はなかった。日本では、都を城壁で厳重に防衛する必要がなかった。

都の大きさは、平城京は南北4.8km、東西4.3km+外京で、長安城は南北8.6km、東西9.7kmあったので、都の面積は四分の一であった。

201347日投稿の「平城宮大極殿」をご参照ください。

東西の大路は一条北大路、一条南大路、二条大路~九条大路、南北の大路は中央の朱雀大路の東に東一坊大路~東四坊大路、朱雀大路の西に西一坊大路から西三坊大路まであり、東北隅には外京が張り出ていた。

朱雀大路の幅は74mであったが、他の大路は24m、小路は8mであった。

平城京では、「条」と「坊」の大路に囲まれた地域を「坊」と呼び、1つの坊の大きさは道路の幅も含み530m四方である。

「坊」に3本ずつの小路を東西と南北に通し、16の「坪」を設けた。1つの坊の中には東西に4つの坪と南北に4つの坪ができるので、全部で16の「坪」ができる。1つの坪は130m四方で、16の坪が1つの坊をつくる。


現在で云う住所の表示は、例えば、「平城京左京三条一坊十四坪」などとした。坪が最小の単位(区画)になっている。

長屋王の邸宅は「左京二条東二坊」にあった。平城宮の東南前である。2014119日投稿の「長屋王と吉備内親王」をご参照ください。

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# by enki-eden | 2019-10-13 10:05

素戔嗚命(西暦140年頃-200年頃)は、神大市姫との間に生まれた第5子の饒速日命(大歳、西暦165年頃出生)と共に山陰地方・瀬戸内地方・四国地方を統率した。

そして、宇佐(大分県)を拠点として九州を統率、北部九州の倭国王・伊弉諾尊(西暦125年頃-190年頃)とは政略結婚で同族となった。伊弉諾尊は倭王兼7代目奴国王で海人族を統率していた。

宇佐市には宇佐神宮が鎮座、八幡神社の総本社で比売大神・八幡大神(応神天皇)・神功皇后を祀っている。

八幡大神は15代応神天皇(西暦363年-403年)になっているが、本来は素戔嗚命だったのではないか。

宇佐は瀬戸内海から九州への拠点となる地で、素戔嗚命と饒速日命(大歳)は宇佐を拠点にして九州東部を統率したと考えられる。統率の象徴は中広銅矛で、祭祀には銅鐸が用いられた。

神功皇后(西暦321年-389年)も363年の新羅遠征において、新羅王の門に銅矛をたて後世への印とした。

素戔嗚命は、筑紫紀氏の大矢女命との間に生まれた第2子の五十猛命(160年頃出生)に九州西部(伊都国・志摩国・紀伊国・対馬国・壱岐国・肥前国など)を統率させた。

素戔嗚命と五十猛命は、肥前国(佐賀県・長崎県)の統率には有明海沿岸を拠点とした。朝鮮・中国との交易には対馬と壱岐を拠点とした。

しかし、西暦180年代に倭国乱が勃発、伊弉諾尊は失脚して淡路島に隠遁、饒速日命は西暦185年頃に物部氏など大部隊を率いて大和国(奈良県)に東遷した。

素戔嗚命が西暦200年頃に亡くなると、後を継いだ大国主命(西暦160年頃-220年頃)が高皇産霊尊と天照大神(倭王・卑弥呼、179年-247年)に「国譲り」を強制され、「葦原の中津国」(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)を放棄して出雲国(島根県)に隠遁してしまった。

また、西暦204年には磐余彦(神武天皇、西暦181年-248年)が東遷を開始、209年に大和国(奈良県)に到着、211年に橿原で即位して「神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)」となる。

素戔嗚命は、新羅との縁が強かったので、記紀が成立した8世紀は「白村江の戦(663年)」から50年余りしか経過しておらず、新羅への憎しみから素戔嗚命も悪役に仕立て上げられ、記紀には素戔嗚命が大悪人として表現されることになった。

しかし、それから90年ほど経った52代嵯峨天皇(西暦786年-842年)は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」として素戔嗚命を称え、名誉を回復した。そして、愛知県津島市神明町の津島神社を「日本の総社」と崇めた。津島神社の主神は建速須佐之男命(素戔嗚命)、相殿に大穴牟遅命(大国主命)を祀っている。

卑弥呼の跡を継いだ倭王の臺與(西暦235年頃-295年頃)は、西暦270年頃に大和国に東遷し、日本列島の中心地は北部九州から大和国に移ることになる。

2世紀に製鉄系の素戔嗚一族が列島の西半分を統率し皇室の基礎を創り上げたが、3世紀に海人族系(安曇氏・海部氏・尾張氏・和邇氏など)の天皇家が大和国に都を遷した。

3世紀終わりに弥生時代から古墳時代に移行、列島の大部分が統一された。

卑弥呼の系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

2世紀の日本列島は素戔嗚命が掌握し統率した_d0287413_09393582.jpg

天体のヒミコ

ヒミコ(Himiko)は、くじら座の方向、129億光年の彼方にある巨大な天体(星)。ハワイのすばる望遠鏡で大内正己特別研究員が率いる日米英の国際研究チームによって発見され、卑弥呼に因んで名づけられた。

宇宙の始まりから9億年後にできた巨大なガスの塊である。直径は55千光年もある。我々の天の川銀河の直径が10万光年だから、ヒミコは天の川銀河の半分以上の直径がある。

天の川銀河も外縁部のハローを含むと直系104万光年ほどになる。

ヒミコは太陽の400億倍の質量をもち、三つの銀河が繋がっており、全体は巨大な水素ガスに包まれている。

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# by enki-eden | 2019-10-07 09:40

デニソワ人

デニソワ人はシベリアやチベットで僅かな化石が見つかっている。ロシア・アルタイ地方(シベリア南西地域)の「デニソワ洞窟」に約41,000年前に住んでいたので、デニソワ人と名付けられた。

デニソワ洞窟(Denisova Cave、標高700m)は、ロシア、カザフスタン、モンゴルの国境が交わる辺りのロシア領山中にある。

現生人類の祖先は、デニソワ人と混血したことがDNA分析で分かっている。異人種の祖先同士が混血するのは普通のことだったようだ。 2015113日投稿の「人類とネアンデルタール人の混血」をご参照ください。

   

絶滅した旧人「デニソワ人」の姿を再現できたと、イスラエルのヘブライ大学の研究チームが919日付の米科学誌セル電子版に発表した。

顔の横幅が広いなど、同時代を生きていた現生人類やネアンデルタール人とは異なる特徴が56個あるという。

デニソワ人の化石は数万~十数万年前の指や歯、顎の一部が見つかっているだけだったが、ヘブライ大学のリラン・カルメル教授のチームは、化石から抽出したDNAを分析した。

「AFP通信の日本語ニュース」をご覧ください。

   

DNAの解析によると、80万年以上前に現生人類(ホモ・サピエンス)との共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の祖先が分岐し、64万年前にネアンデルタール人とデニソワ人に分岐した。35万年前との説もある。

現在のメラネシア人(ソロモン諸島、ニューヘブリディーズ諸島、フィジー諸島、ニューカレドニア島など)にデニソワ人の遺伝子が継承されている。

中国南部に住む人々の遺伝子の一部がデニソワ人由来という。

ジョージ・ワシントン大学の古人類学者のブライアン・リッチモンドは、デニソワ洞窟で見つかった巨大臼歯からデニソワ人はがっしりした顎を持っており、体格はネアンデルタール人と同じか、それよりも大きいとみている。

2018年、ドイツのビビアン・スロン博士(古遺伝学者)は、2012年にデニソワ洞窟で発見された5万年前の10代の少女の化石をDNA鑑定した結果、母はネアンデルタール人、父はデニソワ人であったと科学誌「ネイチャー」で発表した。同じ時期にネアンデルタール人はユーラシア大陸の西側で、デニソワ人は東側で生存していたが、ネアンデルタール人が東方に移住して、デニソワ人や現生人類のアジア人祖先と出会ったのではないか。

そして、ネアンデルタール人もデニソワ人も4万年前に滅んだが、その遺伝子の一部が我々現代人にも継承されている。

日本人の遺伝子には、ネアンデルタール人とデニソワ人の遺伝子も残っているようである。読売新聞の「縄文人の姿遺伝子で再現」をご覧ください。

 

チベット高原の白石崖溶洞(甘粛省甘南チベット族自治州夏河県)は、旧石器時代の遺物が多く出土している。チベットの人々が昔から祈祷と病気療養のためにやってくる聖なる洞窟で、近くに住む僧侶が1980年に洞窟の中で2本の大きな歯が付いた人の顎(あご)を発見した。

中国の研究チームがそのタンパク質を抽出して調べたところ、16万年前のデニソワ人の下顎と判明した。

デニソワ人のDNAはアジア全域とメラネシアの現代人に広く継承されており、デニソワ人が広範囲に拡散していたことが分かる。

白石崖溶洞の標高は3,280mで、チベット人やネパール人はデニソワ人遺伝子を継承したことにより、高地適応力を持つことになった。

デニソワ人は、数十万年前にネアンデルタール人と分岐し、東方のアジアへ向かったと考えられている。ネアンデルタール人は、ヨーロッパと西アジアに広がった。

現生人類が最初にアフリカを出たのはおよそ20万年前のことだが、中東でネアンデルタール人と出会い、交配した。さらに一部は東へ向かい、アジアへ入ると、そこに住んでいたデニソワ人と交わった。それで、現代のアジア人のなかにデニソワ人のDNAが残されることになった。

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# by enki-eden | 2019-09-30 09:56

対馬国     対馬   千余戸、大官は卑狗、副は卑奴母離。

一大国     壱岐   3千許家、官は卑狗、副は卑奴母離。

末盧国     肥前国松浦郡(佐賀県唐津市)    4千余戸。

伊都国     福岡県糸島市南部   千余戸、官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚、王あり。

奴国       福岡市東部、太宰府市、春日市   2万余戸、

官は兕馬觚、副は卑奴母離。

不弥国     福岡県糟屋郡   官は多摸、副は卑奴母離  千余家。  この3国は一体

投馬国     福岡県古賀市、福津市、宗像市、遠賀郡、北九州市、

官は彌彌、副は彌彌那利    5万余戸。

邪馬臺国    筑後川流域周辺、官は伊支馬、次は弥馬升、次は弥馬獲支、次は奴佳鞮

7万余戸。

斯馬国     筑前国志摩郡(福岡県糸島市北部の半島)

已百支国    福岡県直方市、宮若市。

伊耶国     福岡県飯塚市

都支国     福岡県田川郡

弥奴国     山口県下関市

好古都国    福岡県京都郡(みやこぐん)

不呼国     福岡県行橋市、豊前市。

姐奴国     大分県中津市

対蘇国     阿蘇国(熊本県阿蘇市)

蘇奴国     菟狭国(大分県宇佐市)

呼邑国     大分県国東半島

華奴蘇奴国  大分市、別府市、由布市。

鬼国       大分県臼杵市、津久見市、佐伯市。

為吾国     福岡県嘉麻市

鬼奴国     大分県由布市、竹田市、豊後大野市。

耶馬国     耶馬渓、山国川上流域。

躬臣国     大分県玖珠町

巴利国     福岡県筑紫野市(ちくしのし)

支惟国     肥前国基肄郡(佐賀県三養基郡)、鳥栖市。

烏奴国     佐賀県佐賀市、小城市。

奴国

最後の奴国は5番目に記された奴国と同じだと考えています。倭国の中心は「奴国」だと云う強調の意味で、最後にもう一度記されたのでしょう。

狗奴国     邪馬台国の南、熊本県、男王有り、女王に属さず倭国と対立。

  

2年前の投稿で、「投馬国」の比定地は、福岡県東部、大分県、山口県としましたが、今回修正して、201年の「出雲の国譲り」で獲得した大国主命の支配地であった「葦原の中津国」(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)を投馬国として改めました。

「葦原の中津国」とは、葦の茂った原野を大国主命が開拓していったもので、大国主命が開拓する際に、葦を刈り取った穂をうず高く積み上げてそれが山のようになった。

この由来により、「葦引きの」が「山」の枕詞になった。

  あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む

柿本人麻呂

記紀の記述では、本来の出雲国(島根県)とは別に、当地も「出雲」としており、出雲族(大国主命)の北部九州支配地のことです。

以上のように倭国は、現在の福岡県、佐賀県、大分県及び長崎県の対馬と壱岐の範囲に収まる28ヵ国で、1国は現在の市町村程度の大きさです。その中心は奴国で、現在に至るまで福岡市が九州の中心として発展してきています。

3世紀の倭国の政治・経済は奴国を中心として行われ、伊都国には税関・検察・迎賓館などが置かれ、不弥国には倭王(卑弥呼)の宮があって、祭祀・儀式が行われていたと考えられる。

奴国・伊都国・不弥国の3ヵ国は一体として運用され、倭国を治めていた。

卑弥呼(親魏倭王、179年-247年)の在位は、201年から247年までの46年間で、卑弥呼の宮は次の三か所が考えられる。

香椎宮   福岡県福岡市東区香椎4丁目16-1(奴国)

伊野天照皇大神宮   福岡県糟屋郡久山町猪野604(不弥国)

小山田斎宮   福岡県古賀市小山田346(投馬国)

「倭王卑弥呼の宮」は、奴国(福岡市東部)の東隣りの不弥国(福岡県糟屋郡)にあったと考えられるので、②の伊野天照皇大神宮周辺が宮跡ではないかと考えています。

当地は、奴国の聖地である志賀島(「漢委奴国王」金印出土地)の18km真東にある。

皇大神宮の近くの久山町山田232に神功皇后小山田邑斎宮跡があるので、当地も有力です。

糟屋郡には、「伊弉諾尊が禊祓いをした」“日向の川の落ち口の橘の檍原”があり、海人族が航海のランドマークにした立花山もあります。      

糟屋郡粕屋町の航空写真を見ていると、賀与丁公園(かよいちょうこうえん、駕輿丁池遺跡群)が「倭王卑弥呼の宮」かもしれないなと思いました。福岡空港の4.5km北東にあります。

糟屋郡には、その他にも引き付けられる地形が幾つかあります。

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-09-25 10:37

丹波道主命は川上麻須の娘・川上麻須郎女を妃とし、日葉酢媛を産んだ。日葉酢媛は11代垂仁天皇(西暦265年頃-310年頃)の皇后となった。

「丹後旧事記」によると、「川上麻須(麻須良)は丹後国熊野郡川上庄須郎(すら)に館を造る」とあるが、現在の地名では京都府京丹後市久美浜町須田(すだ)と考えられている。

当地の久美浜町須田天王谷132には衆良(すら)神社が鎮座しており、祭神は河上摩須。川上麻須はここに住んでいた丹後海部氏の豪族であろう。当地を丹後海部氏の本拠地とした。

川上麻須は3世紀後半に、海岸に近い久美浜町甲山亀石に丸田神社を創建、宇氣母智命(豊受大神)を祀った。川上麻須は海部氏8世孫の日本得魂命(やまとえたま、本拠地葛城高尾張)とほぼ同じ時代の丹後国の海部氏である。

更に、川上麻須は久美浜町海士(あま)に矢田神社を創建、建田背命(海部氏6世孫)、和田津見命、武諸隅命(海部氏7世孫)を祀った。地名の「海士」が示すように、当地は海部氏が住んでいた。

   

海部氏は京都府宮津市大垣にも進出し、丹後国一宮・「籠神社(このじんじゃ)」を創建、祖神の天火明命を祀った。宮津市と京丹後市は丹後半島を挟んで東西に隣接している。

赤のアイコンが衆良神社、黄が籠神社。


京都府京丹後市久美浜町に鎮座の神谷太刀宮神社(かみたにたちのみやじんじゃ)は丹波道主命を祀る。当社は丹波道主命の宝剣「国見の剣」を祀ったので、「国見」から地名の「久美」・「久美浜」が生じた。


  

丹波道主命の墳墓は丹波篠山市東本荘の「雲部車塚古墳」140m)と考えられている。


   図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

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10代崇神天皇(251年-301年)が四道将軍の一人として丹波に派遣した「丹波道主」は日本得魂(丹波道主、海部氏8世孫)だと私は考えています。

「勘注系図」によると、崇神の時代(3世紀末)、京都府舞鶴市と福井県高浜町の境の青葉山(693m)に土蜘(つちぐも)の陸耳御笠(くがみみのみかさ)と匹女(ひきめ)がおり、人々を苦しめた。それで、日子坐王と日本得魂が勅命によりこれを討った。

日本得魂の妹は竹野媛(大倭姫、天豊姫)で、臺與と同一人と云う説もありますが、名前はよく似ていても年代と拠点が臺與とは違っている。

竹野媛は西暦250年から260年頃の出生、拠点は大和国葛城高尾張、臺與は235年頃出生、拠点は筑紫の倭国。

4代懿徳天皇(211年頃-262年頃)の皇后もよく似た名で、天豊津媛と云う。

日本得魂の娘に日葉酢媛など4人の娘がおり、垂仁天皇の皇后や妃となったのではないか。

「丹波道主」は個人名ではなく、丹波国を治める官職名だと考えられ、丹波道主を称する豪族は代替わりで複数いたのでしょう。日本得魂命、彦湯産隅命、丹波道主命(彦坐王の皇子)などが「丹波道主」の職を継承していったのでしょう。

日葉酢媛の母親は川上麻須郎女で、父親は日本得魂ではないかと私は考えています。

   

山代之大筒木真若王は日本得魂の同族だと考えています。山代之大筒木真若王と丹波能阿治佐波毘売との皇子が「迦邇米雷王」で、その孫が神功皇后です。系図の年代はその後に変更したものもあります。

印南神吉    メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp   


# by enki-eden | 2019-09-17 09:31

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)井中20   無料駐車場あります。

祭神 沖津比古命(おきつひこのみこと)、沖津比売命(おきつひめのみこと)。

    大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の子神で、神道の

    「かまどの神様」、「台所の神様」。

    「産霊の火」と「祭神の水」の二つの力のある生産発展の神様。

    沖津比売は大戸比売(おおへひめ)と云う別名があり、沖津比古の妹。

    竈(かまど)の燃え残り火を熾き(おき)と云ったので、沖津比古・沖津比売の名が生まれた。

    竈を「ヘッツイ」と云うので、大戸(おおへ)比売の名が生まれたとも云う。


創建 97499日、元今瀧寺満慶上人の勧請による。

神仏習合時には、「竈の神」は「荒神」と呼ばれるようになって一般家庭に浸透していき、

当社は「天一位三宝大荒神」と称していたが、明治になって火産霊神社と改称した。

三宝荒神については、「清荒神(きよしこうじん)」をご参照ください。

  


   鳥居

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   拝殿と右に日向稲荷社(日向山頂より遷座)、日向山は7.5km南東の向山(569m)か。

その右に末社、菅原道真の天満天神社と大山祇命の山ノ神社を合祀した。

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   本殿

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   本殿左の末社は、三社を合祀した。

御霊神社(吉備真備等八所神で、病と天変地変から守る神)、

於米神社(米作豊熟の神)、

道祖神(村の外からの病と災いを遮る神)。

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


# by enki-eden | 2019-09-09 08:40

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町新郷(ひかみちょう しんごう)1860  電0795-82-0018

鳥居前に無料駐車場。

丹波国氷上郡、白山の麓に鎮座。

祭神 彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと、天照大神の孫)、

     穀霊大市姫命(たなつみたまおおいちひめのみこと、神大市姫命)。

事業成功、五穀豊穣。

瓊瓊杵尊は古来より領主や武将の崇敬が篤かった。

神大市姫は大山祇神の娘で、素戔嗚尊の妻として饒速日命と宇迦之御魂を産んだ。

カーナビの誘導でははっきりしなかったが、何とか到着。神社の西には氷上カントリークラブがあり、昔、ここで友人とゴルフをしたことを思い出しました。


古代には、加古川は氷川(ひかわ)と呼ばれ、当地名の由来は氷川の上流にあるので氷上町(氷上郡)になったと考えられる。

加古川(氷川)下流域にある岡は日岡と呼ばれ、「日岡神社」が鎮座、JRの駅は日岡駅、村の名は氷丘村と云われていた。現在でも氷丘小学校、氷丘中学校がある。

伊尼神社は29代欽明天皇(509-571年)の6世紀半ばの創建で、伊知宮大明神(一宮大明神)と称していた。また、氷上郡沼貫村(ぬぬきむら)にあったので、沼貫神社・奴々岐神社(ぬぬきじんじゃ)とも称していたが、1941年に伊尼神社に改称した。

2km東南の氷上町稲畑(旧・氷上郡沼貫村)にも奴々岐神社(ぬぬきじんじゃ、高皇産霊神)があるが・・・

   灯篭、社号標、石の大鳥居。

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鳥居を入って右手に鐘楼。神仏習合時の名残か。

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拝殿

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本殿、春日造り銅板葺き。

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左から、春日神社(伊波比主命、天児屋根命、比売神)、恵比寿神社(事代主命)を合祀。

     山神神社(大山祇命)、豊村稲荷神社を合祀。

     風神ノ社。

伊波比主命は経津主命の別名で、千葉県香取市の香取神宮の祭神。

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右は、祓戸神社(瀬織津比売神、速開都比売神、氣吹戸主神、速佐須良比売神)、

左は、日向神社(天照大神)。

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# by enki-eden | 2019-09-03 01:30

兵庫県丹波市山南町谷川3557  電0795-77-0456  無料駐車場あります。

丹波国氷上郡鎮座の式内社、丹波の守護神として9世紀頃に丹波国造が創建。

16世紀半ばに3km北西の山南町金屋から現在地に遷座した。

当社の前を流れる山田川は篠山川に注いで合流し、篠山川は加古川に合流する。

祭神 

高倉下命(たかくらじのみこと)、

天火明命(あめのほあかりのみこと)、建田背命(たけたせのみこと)、

比売命(ひめのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、

建御雷命(たけみかつちのみこと)、伊邪那美命、保食命(うけもちのみこと)、

菅原道真命、品陀別命(ほんだわけのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、

大国主命、大雀命(おおさざきのみこと、仁徳天皇)。

1911年に近くの8神社を合祀したので祭神が多くなった。


主祭神の高倉下命は神武東征に登場する。神武軍が紀伊の熊野で大熊の毒気に冒されたので、天照大神と高木神が高倉下に霊剣を授け、高倉下は神武天皇(181-248年)に献上する。

神武軍はたちまち力を取り戻し、敵を従えた。この霊剣が布都御魂剣で「石上神宮」に奉納されている。   

高倉下命は天香語山命(西暦155年頃出生)と大屋津比売命の子で、丹波国造の祖。

天香語山は子の天村雲(天牟良雲)と共に、饒速日の東遷(185年頃)に従って、大和国にやって来た。天村雲の子孫は伊勢に移り、度会氏(わたらいし)となり、伊勢神宮外宮の神主を世襲した。

天香語山は大和国から尾張国に行き尾張国の基礎を造り、越国まで行って開拓した。越後国一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ、やひこじんじゃ、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2)に祀られ、奥の宮に妃神の塾穂屋姫命(うましほやひめのみこと)と共に埋葬された。

天香語山命(伊夜比古大神)は越後国開拓の祖神として信仰されており、神体山の弥彦山(634m)に奥の宮(神廟)がある。

海部氏系図   図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。

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先代旧事本紀の国造本紀によると、初代丹波国造は13代成務天皇の御世(4世紀)に、建稲種命(たけいなだねのみこと)の四世孫の大倉岐命(おおくらきのみこと)を国造に定めたとある。

丹後一宮(元伊勢)の「籠神社(このじんじゃ)」の宮司は代々海部氏が務め、海部直(丹波国造)の後裔を称している。

海部氏系図(国宝)によると、大倉岐命は彦火明命の16世孫となっているが、10世孫の間違いです。海部氏系図に青字で1610)と記したように、16世孫ではなく10世孫です。

8世孫から13世孫までは尾張氏の系図で、14世孫から22世孫までは海部氏の系図です。そして、8世孫の日本得魂命(川上真若命)と14世孫の川上真稚命は同一人物か、兄弟・従弟だと思います。つまり、並列する同族の尾張氏の系図と海部氏の系図を直列に繋いでいます。

海人族の彦火明命(彦火火出見命)の8世孫(3世紀後半)あたりから尾張氏と海部氏に分岐し、尾張氏は尾張国造となり、海部氏は丹波国造となった。

   高座神社は神仏習合時には「高座大明神」と称していた。

入口の大鳥居と社号標、奥に随神門。

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   参道を進むと、石の鳥居(丹波市指定文化財)と拝殿。

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本殿(1706年築造)、桧皮葺きの流れ造り、兵庫県指定の重要文化財。

今年になって国の重要文化財にも指定された。解体修理されたので美しい。

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本殿の右に二宮神社(大己貴命と少彦名命、医薬の神)とその右に皇大神宮(厄除け)。

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 本殿の左に五大神社(八幡大神と春日大神)

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 樹齢400年、樹高20mのフジキ、兵庫県の天然記念物。

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 本殿左後方の山道(参道)を登って行くと奥の宮が鎮座、登りが結構きつかった。

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# by enki-eden | 2019-08-27 01:21

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)賀茂1

神社南の細い道を入ると駐車場があります。

祭神 別雷神(わけいかづちのかみ、賀茂別雷神)

    京都の「上賀茂神社」(賀茂別雷神社、山城国一之宮)から勧請。

 

創建 8世紀末頃

県道109号線沿いに鎮座。


(賀茂)別雷神の系図

賀茂建角身命

       |-------------賀茂玉依比売命

神伊可古夜比売命     |-------------------賀茂別雷神

(丹波国神野の国神)   火雷神(ほのいかづちのかみ)

火雷神については、「角宮神社」「向日神社」をご覧ください。

 

入口の灯篭と鳥居

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   二の鳥居にかかる神額は「両部額」になっている。私はこの形が好きです。

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社殿

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   境内社は、大森神社、廣峯神社、貴船神社、大神宮神社・高宮神社、天満神社、山祇神社。

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  境内左奥に蛇石神社、

  境内に蛇池があり、龍の彫刻の神石を埋納していた。雨乞い祈願の時に掘り出した。

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# by enki-eden | 2019-08-20 08:34

兵庫県丹波市(たんばし)氷上町(ひかみちょう)御油(ごゆ)40-2

鳥居の向かいに駐車できます。

丹波国氷上郡の延喜式内社、加古川上流西の山裾に鎮座。

祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)、

    嵯峨天皇(52代天皇、786-842年)。

    元は、神野伊加許也姫神(かんのいかこやひめがみ)を祀っていた。

創建は59代宇多天皇(867-931年)の時代の9世紀末頃。 氷上に滞在した左大臣源融(みなもとのとおる、822-895年)が創建、賀茂別雷命と源融の父・嵯峨天皇を奉斎したと云う。

源融は紫式部(978-1016年)の源氏物語の主人公・光源氏のモデルの一人と云われる。小倉百人一首には、源融が「河原左大臣」として歌が残っている。

陸奥(みちのく)の  しのぶもぢずり  誰ゆゑに  乱れそめにし  我ならなくに

 

当社は1424年頃に円通寺に土地を譲り、450m北の現在地に遷座、賀茂野神社と称した。丹波市には賀茂神社が多い。


賀茂郡は全国にあるが、播磨国賀茂郡(小野市、加西市、加東市、西脇市、多可郡多可町)は丹波国氷上郡(丹波市)の西南に隣接しているので、氷上郡と同じように賀茂氏の支配・影響を受けて賀茂国となり、後に播磨国賀茂郡になったと考えています。

氷上郡は加古川上流にあり、氷上郡の地名由来は、加古川は古代には「氷川、日川」と呼ばれていたので、氷川の上流域にある地を「氷上」と呼んだと考えています。

加古川(氷川、日川)下流域の岡を「日岡、氷丘」と呼び、日岡神社、氷丘小学校、氷丘中学校もある。

 

当社の元の祭神・神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)は丹波国神野の国神で、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に嫁ぎ、玉依比古命(たまよりひこのみこと)と玉依比売命を生む。

玉依比古命は賀茂県主(かものあがたぬし)となり、京都にある賀茂神社の社家となる。賀茂神社は賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称である。

玉依比売命は父の賀茂建角身命とともに「下鴨神社」に祀られている。玉依比売は男子を産むが、祖父の賀茂建角身命が男子に「汝の父と思う人に酒を注げ」と言ったところ男子は天に向かって昇天した。そこで賀茂建角身命は男子を賀茂別雷神と命名し、「上賀茂神社」に祀られている。

201312日投稿の「盟酒(うけいざけ)」をご参照ください。

 

賀茂建角身命を祖とする賀茂県主(賀茂氏・鴨氏)は山城国へ進出、丹波国にも進出した。当地丹波は京都賀茂神社の荘園となったので、盛大に祀られている。

和珥(わに)氏は大和春日から山城国へ進出、近江へと進出した。賀茂氏と和珥氏は皇室とも縁の深い海人族である。

鳥居と社号標、鳥居をくぐると山から流れる小川に石橋が架かっている。

鳥居の後方に大きなご神木の檜があり、樹齢500年、幹回り2.86m、高さ41m、市指定文化財。

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本殿は兵庫県と氷上町の指定文化財、室町時代末期に建てられた。

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   本殿右に稲荷大神

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# by enki-eden | 2019-08-14 09:22

兵庫県丹波市山南町和田138  電0795-76-0059  駐車場は鳥居の奥に進む。

丹波国氷上郡鎮座の延喜式内社、

往古は和田村下河原に鎮座していたが、1640年頃に現在地に遷座した。

当地は「薬草の里」で、1月の第3日曜日に行われる厄除大祭の宵宮祭(土曜日)に地元の薬草で作った茅の輪をくぐって1年の平穏を祈願する。

当社の1km南西に丹波市立の「薬草薬樹公園」がある。

 

祭神 若沙那売命(わかさなめのみこと、子授け、安産、健康長寿、大歳神の孫)、

    八幡大神(厄除け、1700年に白川神祇伯王より勧請)。

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若沙那売命の祖父は大歳神、祖母は天知迦流美豆比売神(あめちかるみずひめのかみ)、父は羽山戸神(はやまとのかみ)、母は大気都比売神(おおげつひめのかみ、阿波国・徳島県)。

若沙那売命は稲(いね、のちの)を司り、早乙女のように若くて清らかな少女神。

  入口の灯篭、社号標、鳥居。 ここから車で進み駐車場に停める。

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参道の階段を登ると拝殿。 健康長寿、交通安全、厄除け開運、心願成就。

拝殿の左に一の宮・猿田彦神社(方除け、鬼門除け、縁結び)。

境内社は7社あり、一の宮から七の宮まで順番に巡るようになっている。

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本殿、1758年の再建。入母屋造りの桧皮葺き。

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   二の宮・恵比寿神社(商売繁盛、社運隆昌、立身出世)と

   三の宮・稲荷神社(商売繁盛、家内安全、開運招福、病気平癒)、2月に稲荷祭。

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   四の宮・弁財天(水の恵み、水難除け、芸事上達)と

   五の宮・愛宕神社(火難除け、火の恵み、防災)。

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六の宮・厄除神社(須佐之男神、厄除け、無病息災)、

1月第3土・日は厄除け大祭が執り行われる。

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七の宮・天満宮(学業守護、合格祈願、スポーツ上達)

725日の天神祭(夏祭)は多数の参拝者で賑わう。

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   丹波猿楽の面掛神事能の舞堂。

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印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-08-07 00:36

壱岐の弥生時代

壱岐市教育委員会社会教育課文化財班の松見裕二氏が、720日(土)に「魏志倭人伝に記された一支国の世界」について、兵庫県立考古博物館で講演されました。

松見氏は佐賀県生まれ、別府大学文学部史学科卒業後、福岡県小郡市嘱託職員として、壱岐市芦辺町役場に学芸員として勤務。

2006年に長崎県文化・スポーツ振興部に出向、2009年より「壱岐市立一支国博物館」の学芸員として業務をされています。

スポーツマンらしく、はつらつとした好感の持てる方で、各地で講演会に出演されています。

長崎県壱岐市は、人口26,500人の4町で構成され、九州と朝鮮半島の間の玄界灘にある島で、対馬島とともに古代より東アジアとの交流の拠点として重要な役割を担っている。

壱岐市は、本島に加え、4島の有人島、17島の無人島からなり、東西15km、南北17kmの島である。

阿蘇カルデラは東西18km、南北25kmなので、いかに大きなカルデラか分かる。屈斜路カルデラは更に大きい。(青い文は印南神吉の意見です。)

壱岐島は対馬島の5分の1の大きさで、玄武岩質でできているので地盤は比較的安定している。

壱岐島への交通手段は船が主で、芦辺港と郷ノ浦港から博多港(76km)もしくは対馬島厳原港(76km)まで高速船で60分、フェリーで130分、石田印通寺港から佐賀県唐津東港までフェリーで100分かかる。

飛行機は壱岐空港から長崎空港まで30分で行ける。

壱岐島は、平戸藩「松浦氏(松浦水軍)」の所領であったので、明治の廃藩置県で「平戸県」となり、府県統合で「長崎県」となった。

対馬島は、厳原藩「宗氏」の所領であったので、廃藩置県では「厳原県」となり、1871年に佐賀県と統合して「伊万里県」となる。翌年に、長崎県に転県した。

対馬も壱岐も福岡県が近く、関係も深いので転県を希望している住民もいるが、政治的圧力で実現していない。

対馬は男性の島と云われるのに対し、壱岐は女性の島と云われる。


魏志倭人伝には一大国(一支国)について、57文字が記されている。「対馬国から南に千余里、海を渡ると一大国に至る。一大国も対馬国と同じく主官の卑狗、副官の卑奴母離がいる。

島の大きさは三百里ほど、竹木が茂り、林が多い。三千ばかりの家があり、島内には米を作る田地があるが、みんなが食べるだけの量はなく、南や北と交易をして暮らしている。」

国特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡

長崎県壱岐市芦辺町・石田町

弥生時代全般~古墳時代初頭の遺跡(2200年前から1600年前)。

原の辻遺跡は壱岐島の南東側、長崎県で2番目に広い平野である「深江田原(ふかえたばる)」にある「一大国(一支国)の王都」、「海の王都」。

遺跡の近くを幡鉾川(はたほこがわ)が流れ、流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原」といった平野部が広がり、下流には「内海湾(うちめわん)」が広がっている。

原の辻遺跡は丘陵の最頂部(標高18m)にある祭儀場を中心にして、標高10m前後の丘陵上に居住域が広がり、その周りを多重の環濠で取り囲んだ大規模環濠集落跡である。

海を渡る渡来人とそれを迎える倭人との対外交流の拠点となった舞台が「原の辻遺跡」だった。幡鉾川の横に船着き場があった。大きな船でやってきて、内海湾で小さな船に乗り換えて幡鉾川に入り、船着き場に到着、すぐ前に「原の辻遺跡」がある。


「原の辻遺跡」出土の鉄製品は、農機具、工具、武器など実用品である。青銅製品は、青銅鏡、銅剣、銅銭、鋤先、権(棹秤のおもり)、銅鏃、銅釧などがあり、祭器が多い。

中国から占いが伝わり、ト骨が出土しており、ヒビの方向で吉凶を占った。

出土した「人面石」は祖霊祭祀の場で使われた祭器と考えられる。

カラカミ遺跡

長崎県壱岐市勝本町立石東触・仲触(ひがしふれ・なかふれ)、壱岐島の北西部。

2200年前~1700年前の遺跡で、原の辻遺跡とは対照的に30mから90mの高台にある環濠集落で、現在の香良加美神社を中心にして、扇形に拡がっている。漁業や交易に従事していた。

V字型の環濠(大溝)で囲まれていた。

炉跡や鉄製品加工用石製道具が発見されており、鍛冶作業が行われていた。

遼東系の瓦質土器が出土し、「周」と云う文字が書かれていた。周は人名と考えられる。

日本最古の家猫の骨が出土、弥生時代に渡来人が家猫を持ち込んだ。

一支国の王都として、交易の盛行とともに栄えた「原の辻遺跡」も古墳時代になると衰退し、滅亡したと考えられる。交易の海路が変更され、壱岐島を経由せずに対馬島から直接博多湾岸の奴国へ航行するようになった。

潮待ちや暴風避けのために壱岐島に立ち寄ることはあったと考えられるが、単なる通過点に過ぎなかった。海上交易都市ならではの盛衰の歴史である。

対馬国は奴国と連携し、一支国(壱岐国)は伊都国と連携していたので、北部九州の中心国である奴国との繋がり方に違いがあった。

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印南神吉の意見

弥生時代から現代にいたるまで2300年間、九州の中心地は常に博多(筑前国)であった。博多湾岸一帯には揚子江(長江)周辺からやってきた呉人が奴国を建国、紀元前1世紀の首長である「五柱の別天神(ことあまつかみ)」と1世紀から2世紀の奴国王である「神世7代」が基盤を築いた。

初代奴国王の国常立尊は偶然にも西暦元年出生で、奴国の始まりは西暦元年となる。4代目奴国王の角杙尊(西暦60年頃出生)が北部九州28ヵ国を統率し、倭王帥升となり7代目の伊弉諾尊まで続く。呉人のY染色体ハプログループはO1b2(O2b)である。

西暦180年代の倭国乱の責任を取り、伊弉諾尊が淡路島に隠遁した後の倭王は、卑弥呼(179年-247年)と臺與(235年頃-295年頃)の女王が務めた。

倭国乱の影響により、西暦185年頃の饒速日東遷、彦火火出見が204年に筑紫を出発し、211年に大和国で初代神武天皇として即位、270年頃に臺與が五十瓊殖(いにえ、10代崇神天皇)を伴って大和国に東遷、列島の中心地が北部九州から大和国(奈良県)に遷った。

臺與は280年頃に箸墓古墳を完成、九州から運んだ卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。臺與も295年頃に亡くなり、前方部に埋葬された。

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古代史と関係ありませんが、大丸須磨店で企画されていた「夏休みパラダイスin須磨」で予定の「防衛省 自衛隊の車両がやってくる」(7/2728開催)イベントが中止されました。

大丸須磨店は「諸般の事情により、急遽中止させていただくこととなりました。お客様には大変ご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳ございません。」と云っている。

中止させたのは「新日本婦人の会 兵庫県本部」で、須磨支部は「朗報」だと投稿した。これに対して賛成意見、反対意見のネット議論が起きている。

「神戸は震災復興で自衛隊に助けられた」、「子どもから老人まで自衛隊を知ってもらう機会が大切」と批判する声もある。

中止を申し入れた新日本婦人の会は「災害救助に当たる自衛隊を批判しているのではない。私たちは安保法制成立や改憲の動きの中で、自衛隊の在り方に危機感を持っている」と云っている。

美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長は、「実に情けない。みんな自衛隊には感謝しているんだよ」。

「ヒゲの隊長」として知られる元自衛官の佐藤正久参院議員(自民)は「国民から自衛隊を遠ざけるのではなく、自衛隊を国民に知ってもらうことは極めて大事」と投稿し、“イイネ”が多数寄せられたと云う。

私の個人的な意見は、賛成するも自由、反対するも自由だと思いますが、大丸須磨店が偏ったイデオロギーの10名の中止要求に応じ、中止してしまったことが大問題だと考えています。

大丸須磨店長の事なかれ主義は自己保身の表れで、夏休みの子どもの楽しみを奪われた母親からクレームを受けていることでしょう。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


# by enki-eden | 2019-07-31 00:02