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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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和邇氏と東大寺山古墳

 和邇氏は和珥、和迩、丸邇などとも称する古代豪族で、5代孝昭天皇の長男・天足彦国押人を始祖とする皇別氏族である。本拠地は奈良盆地東部の天理市和爾町である。四道将軍、遣隋使、遣唐使を多く輩出している海人系の氏族である。
 阿曇氏と共に綿津見豊玉彦系の海人族であるが、九州における本拠地は遠賀川の河口付近の岡の水門で、遠賀川、関門海峡や洞海湾を根城にしていたと考えられる。宗像と近いので宗像氏(大国主・事代主系)とも関係が深い。その他、各地に鰐、鰐浦、和仁、王仁などの地名を残している。
 和邇氏は神武東征に加わったが、饒速日東征の大部隊の中に和邇氏の名前が見えない。和邇氏は同じ素戔嗚系の饒速日ではなく五十猛の配下にあったのかもしれない。
 天理市の和爾下神社は祭神として素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命を祀る。和邇氏の氏神であった。和爾下神社古墳の後円部の上に建つ神社で社家は櫟井氏。北東1kmほどに、和爾坐赤阪比古神社が鎮座する。
 和邇氏は29代欽明天皇時代から春日姓に改姓し、神武天皇時代から天皇家に妃を出す氏族であった。4世紀後半から6世紀後半までが最盛期である。神功皇后時代に活躍した難波根子建振熊が記紀に記されている。神功皇后新羅遠征(363年)の時に丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍した。建振熊は和邇氏であるが丹波・但馬・若狭の長となった。従って海部氏の系図にも組み込まれている。
 和邇氏の系列子孫に柿本人麿、小野妹子、小野小町、小野道風、山上憶良などがおり、息長氏とも近い関係にあった。
 日本書紀に「豊玉姫が子を生む時に八尋鰐に変わっていた」とあり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合を産む。豊玉姫は海人の鰐族である。彦波瀲武鸕鶿草葺不合の妃は豊玉姫の妹の玉依姫(鰐)で、神武天皇を産む。つまり神武天皇も鰐族である。神武が東遷するときの出発点は和邇氏の本拠地の岡水門である。
 日本書紀に「事代主神が八尋の熊鰐になって三島溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛との間に媛蹈鞴五十鈴媛が生まれた。神武天皇は媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。」とある。つまり事代主は熊鰐であり、その子の媛蹈鞴五十鈴媛も熊鰐である。神武天皇も鰐族である。事代主神は現在でも宮中神殿に祀られている。皇室創設に大きな貢献があったためである。
 対馬では今でも、大型の舟を「ワニ」、小型の舟を「カモ」と言い、「ワニ・和邇氏」というのは大きな船を持って遠洋航海できる氏族という意味なのか。それに対して「カモ・鴨氏」は小さな舟で沿海や川を利用していたか。

東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)
 奈良県天理市に所在する古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ長さ110cmの鉄刀があった。「中平」の年号は184年から190年であり倭国乱の時期に含まれる。後漢では184年に起きた黄巾の乱をきっかけに、魏・呉・蜀の三国時代に突入する直前である。「中平」の頃、楽浪郡を支配していたのは公孫氏であるから、この鉄刀は和邇氏が公孫氏に朝貢して下賜された刀であろう。東大寺山古墳は和邇氏の領域にあり、4世紀後半築造を考えると埋葬者は建振熊の可能性が高い。
 この刀を発掘調査した天理大学名誉教授の金関恕氏(かなせきひろし・84才)は、鉄刀に刻まれた銘文の字体は、後漢の官営工房の字体とは異なる。後漢の官営工房の字体は様式化が進み整った隷書体である。この刀に刻まれた字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって銘文が刻まれたのは、後漢の官営工房以外の地ではないかと推理する。
 2世紀後半になると、後漢は衰退する。184年遼東太守となった公孫氏は、後に独立し燕王を自称する。西暦190年には後漢の都・洛陽が炎上し廃墟となった。修復できずに長安に遷都した。漢委奴国王を継いでいる女王卑弥呼は後漢と交易できる状態になく、公孫氏と交易したと考えられる。



 印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2012-12-23 12:08