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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

 石切大明神
 大阪府東大阪市東石切町1丁目1-1  電話:072-982-3621
   神道石切教の神社、駐車場は有料です。
 祭神:饒速日尊、可美真手命

 神社の由緒によりますと、饒速日は布都御魂の剣を持ち、日の御子の証である天羽羽矢を携えて天磐船に乗り、大部隊で筑紫の遠賀川から東遷してきました。瀬戸内海を通って大和に向かい、神武東遷に先立って大和建国の任務を受けて天磐船に乗り、哮ヶ峰(生駒山)に着きました。
 そのころ、大和にはすでに勢力を拡大している先住の長髄彦がいました。饒速日は長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚し、可美真手が生まれました。その後、神武天皇の東遷で饒速日は大和の支配権を神武天皇に譲りました。(私見ですが、饒速日東遷は185年頃で初期の纏向遺跡、神武東遷は204年頃と見ています。)
 可美真手命は大和の治政に協力し、物部一族を率いて武力と祭祀で貢献しました。当神社の祭祀は代々、木積氏が司ってきましたが木積氏は物部氏の最有力氏族のひとつ「穂積(ほづみ)」から転じたものです。木積氏は本来は穂積氏で、物部氏の伊香色雄(いかがしこお)が穂積姓を名のり、9代開化天皇と10代祟神天皇に仕えました。このころ物部氏の勢力が増大してゆきました。その物部氏の祖先である饒速日尊と可美真手命を石切の地に祭神として祀りました。木積家は代々神職として朝夕、皇室の安泰、国家の興隆、崇敬者の無事繁栄を祈祷し、加護をお願いしています。
   絵馬殿の屋根の上に剣が天を指し、矢が六本据えられています。
   向こうに正面鳥居が見えます。
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)_d0287413_23572255.jpg

   正面鳥居(石の鳥居)
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)_d0287413_23574617.jpg

   正面鳥居の裏側に「106代神主 木積一仁」と彫られています。
   饒速日から106代神主までは1,810年程経っていますから、
   1代平均17年の年齢差になります。
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)_d0287413_2358764.jpg

   本殿、左の楠は神木(樹齢は500年弱らしい)。本殿に千木と鰹木はありません。
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)_d0287413_23591246.jpg

 当神社も中世の神仏習合の影響が色濃く残っています。八坂神社のように拝殿と本殿が一体型になっています。本殿の後ろには仏教施設が残っています。
 また、当社は古くから「いしきりさん」「でんぼの神さん」として知られ、昭和時代からは腫れ物などを治して下さる神様としても有名ですが、 この「でんぼ」(関西の言葉で腫れ物)は、本来「伝法」であると言われております。「伝法」とはすなわち、 古より社家である木積家に伝わる禁厭の秘法をさしており、これもまた当社の境内から人の絶えることのない理由であります。
 本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りの人がたくさんおられ、庶民信仰の深い神社だなと実感します。
 境内に神武社があり、祭神は神倭磐余彦尊(初代神武天皇)です。
               * **
 私事ですが、今月初めに私の3人目の孫が生まれました。
 「こいつぁ春から縁起がいいわぇ!」



印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2013-01-16 00:19