2013年 04月 27日
伊和神社(いわじんじゃ)
伊和坐大名持御魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ、延喜式神名帳)
兵庫県宍粟(しそう)市一宮町須行名(すぎょうめ)407 電:0790-72-0075
主祭神: 大己貴神(大名持御霊神、大国主神、又は伊和大神とも申し上げる)
配祀: 少彦名神と下照姫神
播磨国一宮、創建は13代成務天皇の頃(350年頃)
祭神の大己貴神は播磨国開発の神で伊和大神(いわのおおかみ)とされる。播磨国風土記では、伊和大神と葦原醜男(大己貴神、大国主)を同神とみています。
出雲からやって来た伊和大神は播磨国風土記に登場する伊和君(いわのきみ)一族が祀る神です。播磨国風土記の讃用(佐用)郡(さようぐん、宍粟郡の西隣)の項で、伊和大神は賛用比賣命(さよひめのみこと)との国占めに負けて、宍粟郡へ行きます。
また、伊和大神と天日槍の争いは、非常に激しいものだったと記されています。宍粟は林業と蹈鞴製鉄の盛んな土地でしたから、鉄資源の争いだったのでしょう。製鉄遺跡は100ヶ所以上もあったそうです。私見ですが、大国主は160年頃の出生、天日槍は神功皇后(330年頃出生)の6代前の先祖ですから240年頃の出生になりますので、二人が戦争をすることは無いと思います。天日槍と戦争をしたのは伊和大神の5代ほど後の子孫ではないでしょうか。
伊和神社の16,000坪の境内には杉の大木などが1,650本以上もあり、太さ3m以上の大杉は84本もあるそうです。神社の西には揖保川が流れています。揖保川沿いは遺跡の多いところです。
播磨国風土記の宍禾郡(しさわのこおり、宍粟郡)の雲箇(うるか)の里(現在は宍粟市一宮町閏賀 うるか)には、伊和大神の妻・許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)が記されています。許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)は、その容姿が美麗しかったから宇留加(うるか=うるわしい)という。
日本書紀の木花開耶姫命は瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻ですから、瓊々杵尊と伊和大神(大汝・大国主・葦原醜男)は同一神なのでしょうか。それとも木花開耶姫は瓊々杵尊と伊和大神の両方の妻だったのでしょうか。日本書紀では木花開耶姫は瓊々杵尊と一夜で妊娠したので、瓊々杵尊がそれはわが子ではないだろうと疑います。
母親が自分の子の父親が誰かを盟酒(うけいざけ)で占うという記事を1月2日に投稿しました。播磨国風土記託賀の郡荒田村の項に道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父親の分からない子を生んだので盟酒により天目一神が父親であると判明しました。このように古代では子の父親はなかなか正確には分からない場合が多いのです。
伊和大神には多くの妻子がいますが、播磨国風土記託賀郡の袁布山では、宗形の奥津嶋比売命(多紀理毘売命)が伊和大神の御子を生んだとあります。
宮崎県西都市妻1の都万(つま)神社には木花開耶姫が祀られています。当社の記録が「続日本後紀」巻六、承和四年(837年)条にあって、「承和四年、官社に列し、延喜式に載す。蓋(けだ)し都農(つの)神の妻神なり」とあります。都農神とは日向国一の宮都農神社(宮崎県児湯郡都農町川北13294)の祭神大己貴命(おおなむち、大国主)であって、木花開耶姫と大己貴命が夫婦であったと記されています。
日本書紀の少彦名命は播磨国風土記では、少日子根、小比古尼と表記されています。
伊和神社西の山腹から明治41年に銅鐸一個が出土し、磐座もあって三輪山の祭祀に近いようですので、伊和神社は出雲系の神社になります。縄文遺跡・弥生遺跡も境内や周辺にあり、古代からの祭祀場であったのでしょう。当地は周りを山に囲まれた盆地で、古代から磐座信仰や山岳信仰が行われていたようです。
61年に一度行われる三つ山祭では、揖保川の河原にある御旅所で、白倉山(東)・高畑山(西)・花咲山(北)の伊和三山の磐座を祀る神事を執り行います。そして20年に一度行われる宮山(みやま、東北)の一つ山祭は、宮山近くの御旅所で山頂の祠を遥拝します。これらは古代の磐座信仰を今に伝える神事になっています。
伊和神社の駐車場は国道沿いの道の駅「播磨いちのみや」になっています。神社に参拝した後、この道の駅で昼食をいただきました。道の駅は何かと便利でいいですね。国道は29号線で、山陽地方と山陰地方を連絡する路線になっており、古くから播磨(兵庫県)と因幡(鳥取県)の交通を担ってきました。兵庫県では因幡街道と呼ばれ、鳥取県では若桜街道(わかさかいどう)とか播州街道と呼ばれています。道の駅播磨いちのみやは国道の東沿いにあり、国道を渡って西側の神社に入ります。少し西向きに進み、鳥居と神門を過ぎると、左(南)に曲がります。すると拝殿が北向きに鎮座しているのが見えてきます。
駐車場の「道の駅播磨いちのみや」は元々伊和神社の参拝者用でした。
神社石碑
神社入り口
鳥居の扁額には「正一位伊和大明神」とあります。
社務所横にある神木の大杉
拝殿(お祓いの祈祷待ちの車が止まっている。)
拝殿内
本殿(入母屋造桧皮葺、元々は大社造りだったそうです。)
千木は垂直切りで鰹木は5本、16弁菊花紋がついています。
本殿裏に鶴石がありました。二羽の大きな鶴が、北向きに眠っていたのでそこに
北向きの社殿を建てたという。鶴石は、その鶴が居た石であるという。
夫婦杉
この後、宍粟市歴史資料館(宍粟市一宮町三方町字家原633)へ行きました。
宍粟市歴史資料館
宍粟は古来より播磨地方と但馬・因幡地方を結ぶ交通の要衝として歴史的に重要な役割を果たしてきました。町内には播磨国一宮伊和神社や国指定重要文化財の本殿を持つ御形神社をはじめ多くの歴史遺産を伝えています。また前方後円墳を含む伊和中山古墳群や大規模な複合集落跡である家原遺跡などが発掘されました。
***
古代史・播磨国風土記に関する特別講演会が予定されています。
兵庫県立考古博物館にて、5月11日(土)13:30~15:00、
「伊和大神と天日槍」と題して、上田正昭京都大学名誉教授が講演されます。
兵庫県宍粟(しそう)市一宮町須行名(すぎょうめ)407 電:0790-72-0075
主祭神: 大己貴神(大名持御霊神、大国主神、又は伊和大神とも申し上げる)
配祀: 少彦名神と下照姫神
播磨国一宮、創建は13代成務天皇の頃(350年頃)
祭神の大己貴神は播磨国開発の神で伊和大神(いわのおおかみ)とされる。播磨国風土記では、伊和大神と葦原醜男(大己貴神、大国主)を同神とみています。
出雲からやって来た伊和大神は播磨国風土記に登場する伊和君(いわのきみ)一族が祀る神です。播磨国風土記の讃用(佐用)郡(さようぐん、宍粟郡の西隣)の項で、伊和大神は賛用比賣命(さよひめのみこと)との国占めに負けて、宍粟郡へ行きます。
また、伊和大神と天日槍の争いは、非常に激しいものだったと記されています。宍粟は林業と蹈鞴製鉄の盛んな土地でしたから、鉄資源の争いだったのでしょう。製鉄遺跡は100ヶ所以上もあったそうです。私見ですが、大国主は160年頃の出生、天日槍は神功皇后(330年頃出生)の6代前の先祖ですから240年頃の出生になりますので、二人が戦争をすることは無いと思います。天日槍と戦争をしたのは伊和大神の5代ほど後の子孫ではないでしょうか。
伊和神社の16,000坪の境内には杉の大木などが1,650本以上もあり、太さ3m以上の大杉は84本もあるそうです。神社の西には揖保川が流れています。揖保川沿いは遺跡の多いところです。
播磨国風土記の宍禾郡(しさわのこおり、宍粟郡)の雲箇(うるか)の里(現在は宍粟市一宮町閏賀 うるか)には、伊和大神の妻・許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)が記されています。許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)は、その容姿が美麗しかったから宇留加(うるか=うるわしい)という。
日本書紀の木花開耶姫命は瓊々杵尊(ににぎのみこと)の妻ですから、瓊々杵尊と伊和大神(大汝・大国主・葦原醜男)は同一神なのでしょうか。それとも木花開耶姫は瓊々杵尊と伊和大神の両方の妻だったのでしょうか。日本書紀では木花開耶姫は瓊々杵尊と一夜で妊娠したので、瓊々杵尊がそれはわが子ではないだろうと疑います。
母親が自分の子の父親が誰かを盟酒(うけいざけ)で占うという記事を1月2日に投稿しました。播磨国風土記託賀の郡荒田村の項に道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父親の分からない子を生んだので盟酒により天目一神が父親であると判明しました。このように古代では子の父親はなかなか正確には分からない場合が多いのです。
伊和大神には多くの妻子がいますが、播磨国風土記託賀郡の袁布山では、宗形の奥津嶋比売命(多紀理毘売命)が伊和大神の御子を生んだとあります。
宮崎県西都市妻1の都万(つま)神社には木花開耶姫が祀られています。当社の記録が「続日本後紀」巻六、承和四年(837年)条にあって、「承和四年、官社に列し、延喜式に載す。蓋(けだ)し都農(つの)神の妻神なり」とあります。都農神とは日向国一の宮都農神社(宮崎県児湯郡都農町川北13294)の祭神大己貴命(おおなむち、大国主)であって、木花開耶姫と大己貴命が夫婦であったと記されています。
日本書紀の少彦名命は播磨国風土記では、少日子根、小比古尼と表記されています。
伊和神社西の山腹から明治41年に銅鐸一個が出土し、磐座もあって三輪山の祭祀に近いようですので、伊和神社は出雲系の神社になります。縄文遺跡・弥生遺跡も境内や周辺にあり、古代からの祭祀場であったのでしょう。当地は周りを山に囲まれた盆地で、古代から磐座信仰や山岳信仰が行われていたようです。
61年に一度行われる三つ山祭では、揖保川の河原にある御旅所で、白倉山(東)・高畑山(西)・花咲山(北)の伊和三山の磐座を祀る神事を執り行います。そして20年に一度行われる宮山(みやま、東北)の一つ山祭は、宮山近くの御旅所で山頂の祠を遥拝します。これらは古代の磐座信仰を今に伝える神事になっています。
伊和神社の駐車場は国道沿いの道の駅「播磨いちのみや」になっています。神社に参拝した後、この道の駅で昼食をいただきました。道の駅は何かと便利でいいですね。国道は29号線で、山陽地方と山陰地方を連絡する路線になっており、古くから播磨(兵庫県)と因幡(鳥取県)の交通を担ってきました。兵庫県では因幡街道と呼ばれ、鳥取県では若桜街道(わかさかいどう)とか播州街道と呼ばれています。道の駅播磨いちのみやは国道の東沿いにあり、国道を渡って西側の神社に入ります。少し西向きに進み、鳥居と神門を過ぎると、左(南)に曲がります。すると拝殿が北向きに鎮座しているのが見えてきます。
駐車場の「道の駅播磨いちのみや」は元々伊和神社の参拝者用でした。
神社石碑
神社入り口
鳥居の扁額には「正一位伊和大明神」とあります。
社務所横にある神木の大杉
拝殿(お祓いの祈祷待ちの車が止まっている。)
拝殿内
本殿(入母屋造桧皮葺、元々は大社造りだったそうです。)
千木は垂直切りで鰹木は5本、16弁菊花紋がついています。
本殿裏に鶴石がありました。二羽の大きな鶴が、北向きに眠っていたのでそこに
北向きの社殿を建てたという。鶴石は、その鶴が居た石であるという。
夫婦杉
この後、宍粟市歴史資料館(宍粟市一宮町三方町字家原633)へ行きました。
宍粟市歴史資料館
宍粟は古来より播磨地方と但馬・因幡地方を結ぶ交通の要衝として歴史的に重要な役割を果たしてきました。町内には播磨国一宮伊和神社や国指定重要文化財の本殿を持つ御形神社をはじめ多くの歴史遺産を伝えています。また前方後円墳を含む伊和中山古墳群や大規模な複合集落跡である家原遺跡などが発掘されました。
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古代史・播磨国風土記に関する特別講演会が予定されています。
兵庫県立考古博物館にて、5月11日(土)13:30~15:00、
「伊和大神と天日槍」と題して、上田正昭京都大学名誉教授が講演されます。
by enki-eden
| 2013-04-27 00:25