2013年 05月 08日
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)と金峯山寺(きんぷせんじ)
吉野水分神社
奈良県吉野郡吉野町吉野山1612 電:0746‐32‐3012 駐車場あります。
主祭神: 正殿(中央)に天之水分大神
(水を司る、水を配る神様。子守明神で子授けの神様。)
配祀: 左殿に高皇産霊神・少名彦神・御子神
右殿に天萬栲幡千幡比咩命・玉依姫命・天津彦火瓊瓊杵命
吉野水分神社は神仏習合時代には金峯山寺の蔵王権現に属する神社でした。修験道の行場の一つとなっていましたが、明治政府の神仏分離によって独立しました。
吉野山(858m)の中腹(吉野山上千本)にある吉野水分神社への道中、吉野川を渡ったところに後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮があります。山を登り始めると途中で山崩れのため道路閉鎖中の看板があり、別ルートで行きましたが車1台がやっと通れる細くて急勾配の道を登って行きます。やっと到着したと思ったら、まだ神社がない。また車に乗って登って行く。今度こそは到着かと思えば、まだまだ先だ。 3度目の正直でやっと辿りつきました。
車を降りると、さすがに景色はすばらしく、山すその方に金峯山寺が小さく見えます。春の桜のシーズンは観光客であふれかえるようです。途中には土産物屋が多い。ただし、私が行ったのは6月でしたので、このシーズンはすいていました。
朱の鳥居をくぐり階段を上ると朱の楼門があります。楼門を入ると左手に拝殿、奥に幣殿(へいでん)、中央が中庭になっており、右の階段上に本殿があります。社殿は1604年に豊臣秀頼の再建ですが、豊臣秀吉が水分の神様に祈願して秀頼を授かった縁からだそうです。社殿は、桃山建築で重要文化財になっています。
楼門
本殿(中央が春日造り、左右が流れ造りの三殿で檜皮葺)
本殿の右殿(向かって左側)にご神体である木造玉依姫命坐像(国宝)が
安置されていますが、公開されていません。
金峯山寺
奈良県吉野郡吉野町吉野山 電:0746‐32‐8371 駐車場あります。
次は金峯山寺(きんぷせんじ)へと下っていきます。このあたり一帯を金峯山(きんぷせん)と称し、古代から修験道の聖域でした。この金峯山に7世紀後半に役行者(えんのぎょうじゃ)が修行に入り、金剛蔵王大権現を会得、修験道を開きました。本堂の蔵王堂は重層入母屋造り、桧皮葺きで国宝です。現在の建物は1592年頃に完成しました。
役行者(役小角 えんのおづぬ、634年~701年)の出自は加茂氏で、大和国葛城上郡茅原村(奈良県御所市茅原)に生まれ、金剛山と葛城山で修行し様々な験力(げんりき)をもっていました。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて、片足を高く上げて虚空を踏むものです。日本独自の尊像で、密教彫像などの影響を受けたものと考えられています。
金峯山寺の山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えます。(ざーんげ ざんげー ろっこんしょうじょうー) テレビでその様子を報道していました。危険な修行に見えましたが、私の知人数人も何度か参加したそうです。
当寺の解説によりますと、明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、明治19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。
続日本紀によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生。名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山にて金剛蔵王大権現を感得、修験道の基礎を開いたと伝えられています。
金峯山寺
国宝蔵王堂
私見ですが、587年に物部守屋が蘇我氏に滅ぼされ、物部神道(古神道)が本道から外れてしまいます。古神道を固持する人々が山伏の姿で山岳修行をし、同じように古代から日本中の山岳を徘徊して生業を営んでいた人々(弥生人に追いやられた縄文人か?)とも協調して隠れた大きな組織になっていったのではないでしょうか。その山伏の開祖ともいうべき人が役行者だったと考えています。役行者は仏教をも取り入れ神仏融合を説いていました。それに空海の密教が加わって神仏習合が広まっていったのだと思います。
賀茂氏の祖は鴨建角身ですが、賀茂氏の役小角にも名前に「角」がついていますね。鴨建角身は熊野の山を軽々と飛び跳ねて神武天皇軍を大和に誘導した八咫烏だと言われています。賀茂氏の始祖も山伏の才能があったようですね。
奈良県吉野郡吉野町吉野山1612 電:0746‐32‐3012 駐車場あります。
主祭神: 正殿(中央)に天之水分大神
(水を司る、水を配る神様。子守明神で子授けの神様。)
配祀: 左殿に高皇産霊神・少名彦神・御子神
右殿に天萬栲幡千幡比咩命・玉依姫命・天津彦火瓊瓊杵命
吉野水分神社は神仏習合時代には金峯山寺の蔵王権現に属する神社でした。修験道の行場の一つとなっていましたが、明治政府の神仏分離によって独立しました。
吉野山(858m)の中腹(吉野山上千本)にある吉野水分神社への道中、吉野川を渡ったところに後醍醐天皇を祭神とする吉野神宮があります。山を登り始めると途中で山崩れのため道路閉鎖中の看板があり、別ルートで行きましたが車1台がやっと通れる細くて急勾配の道を登って行きます。やっと到着したと思ったら、まだ神社がない。また車に乗って登って行く。今度こそは到着かと思えば、まだまだ先だ。 3度目の正直でやっと辿りつきました。
車を降りると、さすがに景色はすばらしく、山すその方に金峯山寺が小さく見えます。春の桜のシーズンは観光客であふれかえるようです。途中には土産物屋が多い。ただし、私が行ったのは6月でしたので、このシーズンはすいていました。
朱の鳥居をくぐり階段を上ると朱の楼門があります。楼門を入ると左手に拝殿、奥に幣殿(へいでん)、中央が中庭になっており、右の階段上に本殿があります。社殿は1604年に豊臣秀頼の再建ですが、豊臣秀吉が水分の神様に祈願して秀頼を授かった縁からだそうです。社殿は、桃山建築で重要文化財になっています。
楼門
本殿(中央が春日造り、左右が流れ造りの三殿で檜皮葺)
本殿の右殿(向かって左側)にご神体である木造玉依姫命坐像(国宝)が
安置されていますが、公開されていません。
金峯山寺
奈良県吉野郡吉野町吉野山 電:0746‐32‐8371 駐車場あります。
次は金峯山寺(きんぷせんじ)へと下っていきます。このあたり一帯を金峯山(きんぷせん)と称し、古代から修験道の聖域でした。この金峯山に7世紀後半に役行者(えんのぎょうじゃ)が修行に入り、金剛蔵王大権現を会得、修験道を開きました。本堂の蔵王堂は重層入母屋造り、桧皮葺きで国宝です。現在の建物は1592年頃に完成しました。
役行者(役小角 えんのおづぬ、634年~701年)の出自は加茂氏で、大和国葛城上郡茅原村(奈良県御所市茅原)に生まれ、金剛山と葛城山で修行し様々な験力(げんりき)をもっていました。
金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で、火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて、片足を高く上げて虚空を踏むものです。日本独自の尊像で、密教彫像などの影響を受けたものと考えられています。
金峯山寺の山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えます。(ざーんげ ざんげー ろっこんしょうじょうー) テレビでその様子を報道していました。危険な修行に見えましたが、私の知人数人も何度か参加したそうです。
当寺の解説によりますと、明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、明治19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。
続日本紀によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生。名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山にて金剛蔵王大権現を感得、修験道の基礎を開いたと伝えられています。
金峯山寺
国宝蔵王堂
私見ですが、587年に物部守屋が蘇我氏に滅ぼされ、物部神道(古神道)が本道から外れてしまいます。古神道を固持する人々が山伏の姿で山岳修行をし、同じように古代から日本中の山岳を徘徊して生業を営んでいた人々(弥生人に追いやられた縄文人か?)とも協調して隠れた大きな組織になっていったのではないでしょうか。その山伏の開祖ともいうべき人が役行者だったと考えています。役行者は仏教をも取り入れ神仏融合を説いていました。それに空海の密教が加わって神仏習合が広まっていったのだと思います。
賀茂氏の祖は鴨建角身ですが、賀茂氏の役小角にも名前に「角」がついていますね。鴨建角身は熊野の山を軽々と飛び跳ねて神武天皇軍を大和に誘導した八咫烏だと言われています。賀茂氏の始祖も山伏の才能があったようですね。
by enki-eden
| 2013-05-08 00:10