2013年 07月 02日
播磨国と大和国の製鉄
古事記では火明(ほあかり)は邇邇芸(ににぎ)の子となっていますが、播磨国風土記では大国主の子となっています。大国主の播磨国における妻は弩都比売(ぬつひめ、のつひめ)です。
私見ですが、天火明は素戔嗚と同世代で、伊弉諾・伊弉冉の子ではないかと見ています。尤も、古代の親子関係は実際の親子とは違う場合が多いですがね。1月2日投稿の「盟酒(うけいざけ)」をご参照ください。
大国主命は各地の土地の娘と結婚してその地方を勢力下に治めていったといわれます。正妻は素戔嗚の子の須世理姫で、妃は因幡国の八上姫、越国の沼河姫、宗像か出雲の神屋楯姫(かむやたてひめ)、宗像の多紀理姫などです。大国主命の子供は181人と言われますので、妃も全国に多数いたことでしょうが、181人の内の何人が大国主の本当の子なのでしょう。半分ほどではないでしょうか。多くの子は誓約(うけい)や占いにより認知した場合が多いと考えられます。大らかな社会だったようです。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)には1,500人の子がいましたが、いかに超能力のマレビトにしても1,500人は不可能だと思います。その多くは配下の同族や家来だったのでしょう。
砂鉄を含む山は「鉄穴山(かんなやま)」と呼ばれ、砂鉄を選り分ける作業を「鉄穴流し(かんなながし)」と言い、そこで働く人々を「鉄穴師(かんなし)」と呼びます。古代の「穴」は「鉄穴」の意から「鉄」のことで、大己貴命は「大穴持命」・「大穴牟遅命」ですから「偉大な鉄穴師」という意味です。
大己貴命は「鉄穴」の神でしたが、大己貴命という名は製鉄の技術を持った族長が代々継承した名前だと考えられ、播磨国における大己貴命とその一族は、市川、夢前川(ゆめさきがわ)、揖保川(いぼがわ)、千種川(ちぐさがわ)などの砂鉄を使って鉄を作り、武器や農具を生産して播磨国を治めていきました。
5月の終わり頃に投稿しました兵庫県立考古博物館の「たたら製鉄再現」に使用された砂鉄は千種川で採取してきたものだと聞いています。
播磨風国土記に大己貴命とともに少日子根(少彦名命)が登場し、2人が市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれています。製鉄の神である大己貴命に対して、少彦名命は、薬、養蚕、酒造りなどの神です。
古代の製鉄に関する地名には鉄の意味を持つ「穴」や、鉄を溶かすタタラを意味する「室」という字がよく使われています。
私見ですが、アナ(穴)と同じくイナ(稲)も鉄だと考えられます。稲佐山、稲佐の浜、稲荷、稲妻など。人名でも「穴」「稲」が使われることがあります。5世紀後半に蘇我石川宿禰(蘇我氏の祖)が河内で製鉄族を配下に治めて勢力を拡大、4代後に蘇我稲目(570年没)、6代後に穴穂部皇子(587年没、稲目の孫)などがいます。素戔嗚の妃に奇稲田姫がいます。
奈良県桜井市の三輪山西南麓には金屋遺跡があり、この遺跡からは弥生時代の遺物とともに、製鉄関係の遺物が発見され、三輪山の北に鎮座の穴師坐兵主神社にも製鉄の跡があります。三輪山は古代の製鉄に関わる山であり、この山を御神体とする大神神社の祭神は大物主大神です。大神神社の由来では、大物主大神は大己貴神の和魂(にぎみたま)となっていますが、私見では饒速日命と見ています。
奈良盆地は周囲を山に囲まれ、古代には盆地の中央部は湖(大和湖)や湿地帯でした。34代舒明天皇(641年崩御)の国見の歌です。
大和には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ
海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ
美(うま)し国ぞ 蜻蛉(あきつ)島 大和の国は
奈良盆地は7世紀でもまだ湖が存在していました。明日香の枕詞も「飛ぶ鳥の」で、湿地帯の明日香には水鳥が飛び交っていました。
奈良盆地の周囲の山々では鉄穴流し(かんなながし)が盛んだったのでしょう。三輪山の狭井川の畔で生まれた媛蹈鞴五十鈴媛もいました。周囲の山々での鉄穴流しの結果、奈良盆地には大量の土砂が流れ込み、湖の底は平らに均(なら)した状態になりました。それで地名が奈良になったという説もあります。
その後、大和川の治水で排水が進み、湿地帯は無くなって大きく平らな盆地が出現しました。奈良は鉄以外にも水銀朱が宇陀で採掘され、神武天皇の東征は水銀が目的だったとも考えられます。神武天皇は東征途上に紀伊半島で辰砂を採掘する一族の女酋を殺害して採掘権を奪い、宇陀にも行って採掘権を手に入れています。
私見ですが、天火明は素戔嗚と同世代で、伊弉諾・伊弉冉の子ではないかと見ています。尤も、古代の親子関係は実際の親子とは違う場合が多いですがね。1月2日投稿の「盟酒(うけいざけ)」をご参照ください。
大国主命は各地の土地の娘と結婚してその地方を勢力下に治めていったといわれます。正妻は素戔嗚の子の須世理姫で、妃は因幡国の八上姫、越国の沼河姫、宗像か出雲の神屋楯姫(かむやたてひめ)、宗像の多紀理姫などです。大国主命の子供は181人と言われますので、妃も全国に多数いたことでしょうが、181人の内の何人が大国主の本当の子なのでしょう。半分ほどではないでしょうか。多くの子は誓約(うけい)や占いにより認知した場合が多いと考えられます。大らかな社会だったようです。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)には1,500人の子がいましたが、いかに超能力のマレビトにしても1,500人は不可能だと思います。その多くは配下の同族や家来だったのでしょう。
砂鉄を含む山は「鉄穴山(かんなやま)」と呼ばれ、砂鉄を選り分ける作業を「鉄穴流し(かんなながし)」と言い、そこで働く人々を「鉄穴師(かんなし)」と呼びます。古代の「穴」は「鉄穴」の意から「鉄」のことで、大己貴命は「大穴持命」・「大穴牟遅命」ですから「偉大な鉄穴師」という意味です。
大己貴命は「鉄穴」の神でしたが、大己貴命という名は製鉄の技術を持った族長が代々継承した名前だと考えられ、播磨国における大己貴命とその一族は、市川、夢前川(ゆめさきがわ)、揖保川(いぼがわ)、千種川(ちぐさがわ)などの砂鉄を使って鉄を作り、武器や農具を生産して播磨国を治めていきました。
5月の終わり頃に投稿しました兵庫県立考古博物館の「たたら製鉄再現」に使用された砂鉄は千種川で採取してきたものだと聞いています。
播磨風国土記に大己貴命とともに少日子根(少彦名命)が登場し、2人が市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれています。製鉄の神である大己貴命に対して、少彦名命は、薬、養蚕、酒造りなどの神です。
古代の製鉄に関する地名には鉄の意味を持つ「穴」や、鉄を溶かすタタラを意味する「室」という字がよく使われています。
私見ですが、アナ(穴)と同じくイナ(稲)も鉄だと考えられます。稲佐山、稲佐の浜、稲荷、稲妻など。人名でも「穴」「稲」が使われることがあります。5世紀後半に蘇我石川宿禰(蘇我氏の祖)が河内で製鉄族を配下に治めて勢力を拡大、4代後に蘇我稲目(570年没)、6代後に穴穂部皇子(587年没、稲目の孫)などがいます。素戔嗚の妃に奇稲田姫がいます。
奈良県桜井市の三輪山西南麓には金屋遺跡があり、この遺跡からは弥生時代の遺物とともに、製鉄関係の遺物が発見され、三輪山の北に鎮座の穴師坐兵主神社にも製鉄の跡があります。三輪山は古代の製鉄に関わる山であり、この山を御神体とする大神神社の祭神は大物主大神です。大神神社の由来では、大物主大神は大己貴神の和魂(にぎみたま)となっていますが、私見では饒速日命と見ています。
奈良盆地は周囲を山に囲まれ、古代には盆地の中央部は湖(大和湖)や湿地帯でした。34代舒明天皇(641年崩御)の国見の歌です。
大和には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ
海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ
美(うま)し国ぞ 蜻蛉(あきつ)島 大和の国は
奈良盆地は7世紀でもまだ湖が存在していました。明日香の枕詞も「飛ぶ鳥の」で、湿地帯の明日香には水鳥が飛び交っていました。
奈良盆地の周囲の山々では鉄穴流し(かんなながし)が盛んだったのでしょう。三輪山の狭井川の畔で生まれた媛蹈鞴五十鈴媛もいました。周囲の山々での鉄穴流しの結果、奈良盆地には大量の土砂が流れ込み、湖の底は平らに均(なら)した状態になりました。それで地名が奈良になったという説もあります。
その後、大和川の治水で排水が進み、湿地帯は無くなって大きく平らな盆地が出現しました。奈良は鉄以外にも水銀朱が宇陀で採掘され、神武天皇の東征は水銀が目的だったとも考えられます。神武天皇は東征途上に紀伊半島で辰砂を採掘する一族の女酋を殺害して採掘権を奪い、宇陀にも行って採掘権を手に入れています。
by enki-eden
| 2013-07-02 00:07