古代史探訪

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東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)

 奈良県天理市櫟本町(いちのもとちょう)2525の天理教城法大教会の敷地内にあります。駐車場に車を停めて教会事務所に挨拶、古墳の解説書を頂いて登りました。解説書によりますと、「東大寺山古墳は盆地部を見おろすことのできる南北に連なった丘陵上に立地する。古墳群中最も時期の遡る盟主的古墳である。墳丘には葺石が敷きつめられ、墳頂部と中段・下段には埴輪が巡らしてあった。」とあります。

 東大寺山古墳は4世紀後半頃に築造された全長140m、前方部幅50m、後円部径84m、高さ15mの前方後円墳です。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ鉄刀がありました。
 天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては和邇氏の本拠地であり、関連一族が築造した古墳が丘陵上に点在しており、東大寺山古墳群をなしています。同規模の前方後円墳が他に3基あり東大寺山古墳→赤土山古墳→和爾下神社古墳→墓山古墳の順で築造されています。その一つが当古墳で、後円部を南に向け前方部を北に向けて築造されています。
 この丘陵には奈良県では最大規模の弥生時代後期の高地性遺跡があります。東西約400m、南北300mの範囲内に竪穴式住居があり、二重の空堀が巡っています。
 東大寺山古墳群は、この高地性遺跡と重複するようにして存在し、その遺跡の役割が終わって150~200年ほど後に築造されています。
     黄色のアイコンが東大寺山古墳


 後円部の埋葬施設の主体部は、墳丘主軸に平行する大型木棺(7.4m)を覆った粘土槨があり、長さ推定9.4mの大規模なもので、棺内は盗掘を受けていた。粘土槨の東西に豊富な武器や武具が副葬されていた。東側から「中平」の年号を持つ鉄刀が出土した。古墳からは通常、銅鏡が多数出土するが、当古墳からは1枚も出ていない。全部盗掘されてしまったのか、最初から無かったのか。
 副葬品は鉄刀20本、鉄剣9本、鉄槍10本、320本の鉄鏃・銅鏃、漆塗りの楯・短甲などの武器類、玉類、石製模造品などが出土している。「中平」銘鉄刀を含む5本の鉄刀の環頭は三葉環の鉄刀で、福岡市西区徳永下引地の若八幡宮古墳(4世紀)からも出土している。
 24文字を金象嵌で表した長さ110cmの鉄刀の銘文は、「中平■年 五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 下避不■」と記されている。意味は「中平■年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀であるから、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることができる」。
 中平とは後漢の霊帝の年号で184~189年を指し、184年には「黄巾の乱」により群雄割拠して後漢の国力が衰え末期的症状であった。220年には後漢が滅亡、魏・呉・蜀の三国時代に突入していった。倭国では2世紀終わりごろに「倭国乱」が起こり、争乱状態であった。
 この鉄刀がいつどこで入手され、当古墳に副葬されたのかは分かりませんが、筑紫の鰐族が楽浪郡との交易で入手したのでしょう。
 私見ですが、西暦200年前後に鰐族が筑紫から大和に東遷、現在の天理市に拠点を置く。約200年後の4世紀末に刀剣などを東大寺山古墳に副葬したのでしょう。鰐族が大和に東遷したのは西暦185年頃の饒速日の時か、204年頃開始の神武天皇の時か、何れかだと考えられますが、和珥氏の本拠地が物部氏の領地内であることで、饒速日と共に大和へやってきたと見ています。饒速日東遷には安曇・海部・尾張などの海人族が多数協力していますから、鰐族も一緒だったのでしょう。
 鉄刀に着けられていた環頭は鳥文飾りであり、刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有の直刀とは違い、中平の年号が示すように後漢製です。
 中国では2世紀後半に後漢の権威が衰え争乱状態になり、184年遼東太守となった公孫度(こうそんたく)は、この地域の実質的な支配者となります。189年に独立政権を樹立し「燕王」を名乗ります。山東半島や朝鮮半島の楽浪郡まで勢力を伸ばしました。西暦190年には後漢の都洛陽が炎上し廃墟となりました。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置します。和珥氏(鰐族)が交易した相手は楽浪郡の公孫度でしょう。この時期の後漢の記録は争乱のため多くが失われています。
 東大寺山古墳の被葬者は難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の可能性が高いと思います。副葬されていたおびただしい武器や武具により埋葬者は武人です。難波根子建振熊は神功皇后新羅遠征時(363年)、丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍。帰国後の忍熊王との戦いでも活躍しました。建振熊は和珥氏ですが、丹波・但馬・若狭の長となり、海部氏の系図(国宝)にも記載されています。
 建振熊は神功皇后と15代応神天皇時代の功労者として、和珥氏の墓域に全長140mの比較的大型の前方後円墳を出現させたのでしょう。生年は4世紀前半、没年は4世紀末頃です。
 
 難波根子建振熊の系図
  5代孝昭天皇-天足彦国押人命-和爾日子押入-彦国姥津-彦国葺-大口納-
  難波根子建振熊-大矢田宿禰

     東大寺山古墳
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     登り口の説明
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     登り口
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     竹林の中を登る
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     墳頂(周囲は大きな竹林になっている)
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by enki-eden | 2013-07-04 00:19