2013年 07月 07日
和爾下神社(わにしたじんじゃ)
奈良県天理市櫟本(いちのもと)町2490 駐車場なし
西名阪自動車道路「天理インター」を出て直ぐです。
「上治道宮 かみはるみちのみや」とも称し、創建:769年。
祭神: 素盞鳴命 (すさのうのみこと) 中央、
大己貴命(おおなむちのみこと)左側、 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)右側。
江戸期の記録では、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、
若宮難波根子武振熊命が祭神になっています。
天足彦国押人命は和爾氏の祖で、父は5代孝昭天皇、
母は世襲足媛(よそたらしひめ、尾張氏)、弟は6代孝安天皇です。
和爾下神社の神紋は素戔嗚の木瓜紋。
3世紀半ばの皇室系図
東大寺山古墳群の中でも最大級の和爾下神社古墳(撥型前方後円墳、全長120m、後円部径70m、高さ5m、前方部を北に向け、4世紀末~5世紀初頭に築造)の後円部の上に建てられた神社で、古代豪族和爾氏の氏神です。
桃山時代の建築様式の本殿は切妻造りの檜皮葺きで重要文化財になっています。
西へ2kmの大和郡山市に鎮座の和爾下神社と共に延喜式内の古社です。
和爾氏は2~3世紀ごろからこの地を本拠地に栄えました。その同族である春日・小野・粟田・大宅・柿本・市井(櫟井)氏らがあり、5世紀末から6世紀前半に最も栄えました。息長氏も支族です。神社の麓に同族の柿本人麻呂の墓といわれる小古墳があります。
息長氏と和爾氏は非常に近い関係にあり、この両氏族の女系が「息長腹」と「和邇腹」として天皇家の血脈維持に重要な役割を果たしています。
「和爾氏、和邇氏、和珥氏、鰐氏」の語源は「鮫」のことですが、弥生人の故郷は揚子江(長江)ですから、彼らの先祖は実際に鰐を知っているわけで、語源は「鰐」でいいかもしれません。
筑紫における鰐族は大型船で列島を巡り、楽浪郡まで交易に行っていました。福岡県遠賀川の岡の湊を本拠地にし、関門海峡を押さえていました。祖神は安曇氏と同じく綿津見豊玉彦でしょう。
和爾下神社古墳
参道入り口の赤鳥居(国道169号線に面している)
伝・柿本人麻呂の墓(和爾下神社古墳の麓の公園)
参道の鳥居
古墳の天井石が麓に置かれている。
拝殿に向かう石段
拝殿
手前の拝殿から奥の本殿を望む(重要文化財)
神社の説明
本殿左横の若宮社(若宮は若宮難波根子武振熊か?)
和爾下神社古墳の説明
難波根子武振熊について私見ですが、「振」は「古、布留」で物部系との繋がりを示し、「熊」は「熊野大神=素戔嗚」で素戔嗚との繋がりを示していると考えています。
弥生人は揚子江(長江)の江南人(呉人、越人、楚人)の渡来集団ですが、BC4世紀頃から百年以上かけて波状的に列島へ渡来・逃亡してきました。
DNAのY染色体で見ると、江南人の中で楚人の渡来数は少ないですが、武力が強く文明度も高いので列島における影響度は大きかったと思います。楚の国姓は羋(び)で王族の氏は熊(ゆう)です。王名は例えば、熊繹、熊勝、熊楊、熊勇などです。
素戔嗚の「熊野」は楚の熊(ゆう)で、素戔嗚は楚人だと私は見ています。楚人の渡来経路は秦→新羅→出雲又は吉備でしょう。
「熊」に関しては、熊野・熊本県・球磨川・隅(くま)・熊襲・熊鰐・千熊長彦・羽白熊鷲など地名や人名に多く使われています。出雲の雲も熊と関係あるかもしれません。
「襲」に関しても、「楚」ではないでしょうか。葛城襲津彦(武内宿禰の子)・倭迹迹日百襲姫(7代孝霊天皇の皇女)・世襲足媛(よそたらしひめ、5代孝昭天皇の皇后)・襲武媛(そのたけひめ、12代景行天皇妃)などに使われています。
吉備国の人々のDNA(Y染色体)は日本の平均値に比べますと、縄文系が半分以下、江南系が平均値より35%多く、黄河系も平均値の倍あります。つまり、縄文系が少なく弥生系・黄河系が多いのです。縄文人は殺されたり、山奥へ逃げたりしたのでしょうか。
楚の国姓は羋(び)で呉の国姓は姫(き)です。吉備の名の由来は穀物の黍(きび)という説がありますが、定説はありません。私は呉と楚の姫羋(きび)ではないかと密かに考えています。
「古代史とDNA」については昨年の12月31日に投稿しましたが、私の母親系は吉備人で父親系は播磨人ですので、自分自身のDNAにも興味があります。Y染色体は父親から息子に伝わっていくものですから、私のY染色体は播磨系なのでしょう。
「魏略」逸文や「梁書」東夷伝には、倭人は「自ら呉の太伯の後と謂う」と記されています。後漢に交易・朝貢に行っていた奴国は西暦57年に「漢委奴国王」の金印を受けます。初代奴国王となりました。奴国王は呉人系だったようです。
西暦107年に後漢に朝貢した倭王帥升は奴国王兼倭王になっています。7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊は180年頃の倭国乱で淡路島に隠遁して多賀で亡くなりました。
西名阪自動車道路「天理インター」を出て直ぐです。
「上治道宮 かみはるみちのみや」とも称し、創建:769年。
祭神: 素盞鳴命 (すさのうのみこと) 中央、
大己貴命(おおなむちのみこと)左側、 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)右側。
江戸期の記録では、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、
若宮難波根子武振熊命が祭神になっています。
天足彦国押人命は和爾氏の祖で、父は5代孝昭天皇、
母は世襲足媛(よそたらしひめ、尾張氏)、弟は6代孝安天皇です。
和爾下神社の神紋は素戔嗚の木瓜紋。
3世紀半ばの皇室系図
東大寺山古墳群の中でも最大級の和爾下神社古墳(撥型前方後円墳、全長120m、後円部径70m、高さ5m、前方部を北に向け、4世紀末~5世紀初頭に築造)の後円部の上に建てられた神社で、古代豪族和爾氏の氏神です。
桃山時代の建築様式の本殿は切妻造りの檜皮葺きで重要文化財になっています。
西へ2kmの大和郡山市に鎮座の和爾下神社と共に延喜式内の古社です。
和爾氏は2~3世紀ごろからこの地を本拠地に栄えました。その同族である春日・小野・粟田・大宅・柿本・市井(櫟井)氏らがあり、5世紀末から6世紀前半に最も栄えました。息長氏も支族です。神社の麓に同族の柿本人麻呂の墓といわれる小古墳があります。
息長氏と和爾氏は非常に近い関係にあり、この両氏族の女系が「息長腹」と「和邇腹」として天皇家の血脈維持に重要な役割を果たしています。
「和爾氏、和邇氏、和珥氏、鰐氏」の語源は「鮫」のことですが、弥生人の故郷は揚子江(長江)ですから、彼らの先祖は実際に鰐を知っているわけで、語源は「鰐」でいいかもしれません。
筑紫における鰐族は大型船で列島を巡り、楽浪郡まで交易に行っていました。福岡県遠賀川の岡の湊を本拠地にし、関門海峡を押さえていました。祖神は安曇氏と同じく綿津見豊玉彦でしょう。
和爾下神社古墳
参道入り口の赤鳥居(国道169号線に面している)
伝・柿本人麻呂の墓(和爾下神社古墳の麓の公園)
参道の鳥居
古墳の天井石が麓に置かれている。
拝殿に向かう石段
拝殿
手前の拝殿から奥の本殿を望む(重要文化財)
神社の説明
本殿左横の若宮社(若宮は若宮難波根子武振熊か?)
和爾下神社古墳の説明
難波根子武振熊について私見ですが、「振」は「古、布留」で物部系との繋がりを示し、「熊」は「熊野大神=素戔嗚」で素戔嗚との繋がりを示していると考えています。
弥生人は揚子江(長江)の江南人(呉人、越人、楚人)の渡来集団ですが、BC4世紀頃から百年以上かけて波状的に列島へ渡来・逃亡してきました。
DNAのY染色体で見ると、江南人の中で楚人の渡来数は少ないですが、武力が強く文明度も高いので列島における影響度は大きかったと思います。楚の国姓は羋(び)で王族の氏は熊(ゆう)です。王名は例えば、熊繹、熊勝、熊楊、熊勇などです。
素戔嗚の「熊野」は楚の熊(ゆう)で、素戔嗚は楚人だと私は見ています。楚人の渡来経路は秦→新羅→出雲又は吉備でしょう。
「熊」に関しては、熊野・熊本県・球磨川・隅(くま)・熊襲・熊鰐・千熊長彦・羽白熊鷲など地名や人名に多く使われています。出雲の雲も熊と関係あるかもしれません。
「襲」に関しても、「楚」ではないでしょうか。葛城襲津彦(武内宿禰の子)・倭迹迹日百襲姫(7代孝霊天皇の皇女)・世襲足媛(よそたらしひめ、5代孝昭天皇の皇后)・襲武媛(そのたけひめ、12代景行天皇妃)などに使われています。
吉備国の人々のDNA(Y染色体)は日本の平均値に比べますと、縄文系が半分以下、江南系が平均値より35%多く、黄河系も平均値の倍あります。つまり、縄文系が少なく弥生系・黄河系が多いのです。縄文人は殺されたり、山奥へ逃げたりしたのでしょうか。
楚の国姓は羋(び)で呉の国姓は姫(き)です。吉備の名の由来は穀物の黍(きび)という説がありますが、定説はありません。私は呉と楚の姫羋(きび)ではないかと密かに考えています。
「古代史とDNA」については昨年の12月31日に投稿しましたが、私の母親系は吉備人で父親系は播磨人ですので、自分自身のDNAにも興味があります。Y染色体は父親から息子に伝わっていくものですから、私のY染色体は播磨系なのでしょう。
「魏略」逸文や「梁書」東夷伝には、倭人は「自ら呉の太伯の後と謂う」と記されています。後漢に交易・朝貢に行っていた奴国は西暦57年に「漢委奴国王」の金印を受けます。初代奴国王となりました。奴国王は呉人系だったようです。
西暦107年に後漢に朝貢した倭王帥升は奴国王兼倭王になっています。7代目奴国王兼倭王の伊弉諾尊は180年頃の倭国乱で淡路島に隠遁して多賀で亡くなりました。
by enki-eden
| 2013-07-07 00:08