古代史探訪

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怨霊

 古代史を研究していると、古代に一貫して流れている日本の精神を感じる事があります。その一つが「和の精神」であり、もう一つが「怨霊信仰」です。

①縄文時代から「怨霊」はあった。 屈葬、土偶。

②弥生時代
 出雲の国譲り
 大国主命の子孫と自称する人の言い伝えでは、大国主命は洞穴に閉じ込められて殺され、その子・事代主命は稲佐浜で天孫族に呪いをかけ、海に入って自殺した事になっています。その後、出雲族は北陸・信濃・東北に逃れる事になりますが、天孫族から蝦夷として執拗に討伐される。一部の出雲族は山窩(さんか)となって姿を消して行きます。
 この怨霊を鎮めるために天孫族は出雲の神を熱心に祀っているのではないか。出雲族が1700年以上もの長い間怨念を忘れずに語り継いできたと言う事は、その恨みの執念深さが窺がわれます。
 蘇我氏の擁立した29代欽明天皇は韓神(からかみ、大己貴神・少彦名神)と園神(そのかみ、大物主神)を祀っています。今でも宮中で韓神と園神は祀られているのです。

③古墳時代の10代祟神天皇
 祟神天皇の七年に天災地変が続き凶作となった。天皇の夢に三輪の大物主神が現れ祟りを告げる。大物主神の子孫の大田田根子に大物主神を祀らせたところ豊作になった。
 被征服者の祀っていた神を征服者が祀ることによって、征服側と非征服側の社会がまとまって安定する事になる。これが古代日本の基本原理で、怨霊神を祀る事は神道の伝統となっています。
 日本は「和の社会」でまとまっていますから、闘争が起きて勝者と敗者が生まれた場合、勝者は敗者の鎮魂をしなければならない。そうしなければ社会がまとまらず、勝者の支配は崩れていくのです。

④奈良時代
 長屋王(684年~729年2月)は藤原氏と対立し、無実の罪で死に追いやられる。「国家に反逆を企てている。」と言う密告で長屋王は捕らえられ、家族と共に自殺を命じられる。
 730年代に藤原氏が次々に天然痘で死んでいく事になって、45代聖武天皇の光明皇后は怨霊を鎮めるために、670年に消失(焼失)していた法隆寺を再建する。

⑤平安時代
 50代桓武天皇(737年~806年)は京都御所の鬼門に当たる方角に上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)を祀り、その延長上の比叡山には最澄に延暦寺建立を命じた。最澄(767年~822年)は近江の人で804年に空海と共に唐へ行き、翌年帰国後比叡山に根本中堂を建立した。諡は伝教大師で天台宗を広めていった。
 桓武天皇の死後も継続して様々な怨霊対策が講じられたが、怨霊や鬼の出没は阻止できなかった。
 そして59代宇多天皇(867年~931年)没後に執行された菅原道真の大宰府左遷と、これに続く彼の憤死により怨霊はいよいよ平安京に跳梁跋扈することになる。まさに百鬼夜行の様相を呈した京において活躍の場を得た人達、それが安倍晴明(921年~1005年)を始めとする陰陽師であった。
 こうして怨霊と戦いながらも千年の都となる京都が誕生したのである。それは桓武天皇の政治的・呪術的思惑に端を発したものであった。その背後には秦氏と賀茂氏がいました。
 怨霊の鎮魂が今でも祭りとして残っていますが、中でも人気の高いのは大阪の天神祭り(菅原道真)と東京の神田祭り(平将門)です。
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by enki-eden | 2013-12-16 00:05