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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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吉田大塚古墳(桧笠岡古墳、神戸市西区)

 兵庫県神戸市西区大塚台3丁目(王塚公園内)、 宮内庁の玉津陵墓参考地。
 前方後円墳で周壕があり全長100m、墳丘長69m、後円部径38m、高さ8m。
  墳丘には埴輪列がありました。
 築造時期:5世紀から6世紀頃の古墳時代後期。陪塚があったが宅地開発で消滅した。
 被葬者: 舎人皇女(とねりのひめみこ)


 舎人皇女の父は29代欽明天皇、母は蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ、蘇我稲目の娘)です。舎人皇女は31代用明天皇の皇子・当麻皇子(たいまのみこ)の妃となる。
 当麻皇子は、33代推古天皇が新羅を討つ軍の将軍となり、難波から船出した。妃の舎人皇女も同行したが、途中の明石で亡くなった(西暦603年)。そこで舎人皇女を明石の桧笠岡(ひかさのおか)に葬った。当麻皇子は引き返し、征討はとりやめた。この桧笠岡陵が当古墳であるといわれています。古墳の築造は5世紀から6世紀頃となっていますので、時代があいませんねぇ。よくあることですが・・・
 そして、前方後円墳は物部守屋が587年に滅ぼされ中央では築造廃止となり、以降は蘇我氏の方墳に替わっていますので、603年に亡くなった蘇我系の舎人皇女の墳墓ではなさそうです。

 築造の5世紀から6世紀が正しいのであれば、弘計(をけ、23代顕宗天皇、487年崩御)と億計(おけ、24代仁賢天皇、498年崩御)が21代雄略天皇の粛清を恐れて播磨国に逃亡しますが、匿った豪族がいますので、その豪族の墓かもしれません。日本書紀には、その豪族を縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと、三木市志染)の忍海部造細目(おしぬみべのみやつこほそめ)と記しています。何人もの豪族が連携して二人の皇子を匿ったと考えられますが、この時代の豪族であれば5世紀から6世紀頃に亡くなっています。豪族たちも雄略天皇に逆らう行為をするわけですから命がけだったでしょう。
 弘計と億計の逃亡伝承地は播磨国に何箇所かあり、その近くには顕宗天皇と仁賢天皇を祀る宗賢神社(そうけんじんじゃ)があります。神社名は顕宗の宗と仁賢の賢を使っているのでしょうね。
 吉田大塚古墳の近くにも宗賢神社が3社あります。
        逃亡伝承について、昨年8月16日(金)投稿の「押部谷住吉神社」をご参照ください。

       大塚公園
吉田大塚古墳(桧笠岡古墳、神戸市西区)_d0287413_10563746.jpg

吉田大塚古墳(桧笠岡古墳、神戸市西区)_d0287413_10564954.jpg

       神戸市玉津土地区画整理事業完成記念碑
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       大塚古墳
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       前方部西側面
吉田大塚古墳(桧笠岡古墳、神戸市西区)_d0287413_10573162.jpg

       前方部西から後円部を望む
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       前方部
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       前方部東から後円部を望む
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       鴨の群れが周壕に
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       後円部
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       後円部から西側前方部を望む
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               *****
魔鏡現象
 1月29日(水)の夜のテレビ番組で、三角縁神獣鏡の魔鏡現象について報道していました。翌日には新聞でも大々的に報道されています。
 3Dプリンターで重要文化財の三角縁神獣鏡を素材・大きさ・模様などを現物と同じように造り、表面を丁寧に磨き上げる。その鏡に太陽の光を受けて壁に反射させると、鏡の裏の模様が浮かび上がる。これを魔鏡現象と言っています。中国前漢時代の銅鏡にも魔鏡現象があるようです。
 鏡の裏には模様があって凹凸があるので、表面を丁寧に磨くことにより表面の場所によって1,000分の1ほどの窪みの違いが出来る。裏の分厚い部分の表側を磨くと磨り減りやすく、薄い部分は磨り減りにくいので、裏の模様が表に現れる。これを反射させると鏡の裏の模様が壁に浮かび上がる。全体の肉厚が分厚い鏡ではこの現象が起きないので、薄くしなければならない。古代人はこの現象が分かって薄い銅鏡を造っていたのでしょうか。古代人はこの現象を見て、神に対する畏敬の念と支配者の偉大さを感じたのでしょう。
 私見ですが、三角縁神獣鏡は10代崇神天皇の時代(3世紀後半から4世紀前半)に大和の磯城郡田原本町で製造され、各地に交易品として出回ったと考えています。舶載鏡ではないと思います。

 印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2014-01-31 00:15