古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

8代孝元天皇(大日本根子彦国牽天皇、おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)

 日本書紀によると孝元天皇の母は、細姫(ほそひめ)命で磯城県主(しきのあがたぬし)大目の女(むすめ)です。古事記では十市県主祖大目の女、細媛(くわしひめ)命となっています。
 磯城氏は初期天皇家に多くの妃を出しており、製鉄・辰砂関係の豪族で、大国主命・事代主命系です。本拠地は大和三輪山麓です。
 孝元天皇は宮を軽(かる)の地に定め、境原宮(さかいはらのみや)という。軽は奈良県橿原市大軽(おおかる)町付近で、古代には交通の要衝で「軽の市」がありました。境原宮跡に牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)が建てられたという伝承があります。
   赤のアイコンが牟佐坐神社、青が見瀬丸山古墳、黄が孝元天皇陵


 孝元天皇は7代孝霊天皇を片丘馬坂陵(かたおかうまさかのみささぎ、奈良県王寺町)に葬った。この頃には天皇家は大和盆地だけではなく、畿内周辺から吉備国東部までを治めていたと考えられます。

 孝元天皇の皇后は物部氏の欝色謎(うつしこめ)命で、欝色雄命(穂積臣の先祖)の妹です。天皇の第一子は大彦命。大彦は10代崇神天皇の北陸将軍となり、日本書紀には子孫は阿倍臣・膳臣(かしわでのおみ)・阿閉臣(あへのおみ)・狭狭城山君(ささきのやまのきみ)・筑紫国造・越国造・伊賀臣だと記されています。
 私見ですが、大彦の墳墓は桜井茶臼山古墳だと考えています。大彦の子の建沼河別(たけぬなかわわけ)命は東海将軍となり、墳墓はメスリ山古墳だと考えています。

 孝元天皇の第二子は9代開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇、わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)、第三子は倭迹迹姫(やまとととひめ)命。

 孝元天皇の妃には皇后の欝色謎命の姪である伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、その子は彦太忍信(ひこふつおしのまこと)命です。この頃に物部氏の勢力は大きく進展することになります。彦太忍信命の孫または曾孫が武内宿禰(たけしうちのすくね)です。武内宿禰は13代成務天皇と同じ日に生まれたとありますから、私見では西暦310年頃の出生です。

 武内宿禰の「内」は地名で大和国有智郡です。宇智郡は大和国の南西の端にあり紀伊国に接しており、内臣(うちのおみ)の出身地です。大和国宇智郡に宇智神社(現在の地名は奈良県五條市今井4-6-12)が鎮座しています。また、神社の400m北には宇智野保育所があり、900m北東には五條市立宇智小学校もあります。近くには宇智川が流れ、吉野川に注いでいます。
 武内宿禰の異母弟・味師内宿禰(うましうちのすくね)は山代内臣(やましろのうちのおみ)の祖で、京都府八幡市の内(うち)神社に祀られている。
 物部氏の欝色謎は古事記では内色許売(うつしこめ)と記されていますから、内(うち、うつ)は物部の部族名になったのでしょう。越智(おち)も物部大小市(もののべのおおおち、饒速日の9世孫、成務天皇に仕える)が祖です。

 更に孝元天皇の妃があり、河内青玉繫の女(かわちのあおたまかけのむすめ)埴安媛(はにやすひめ)で、武埴安彦(たけはにやすひこ)命を生んだとあります。武埴安彦は謀反の罪で滅ぼされました。

 孝元天皇の御陵は奈良県橿原市石川町にある剣池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)で、剣池は後の15代応神天皇の時代(120年後)に灌漑用に造った。現在は石川池と呼び、同じく灌漑用の池になっています。拝所は階段を登った上にあります。
 私見ですが孝元天皇の生年は230年頃、崩御年は283年頃と見ています。
 御陵は中山塚1~3号墳と呼ばれ、小さな前方後円墳1基、円墳2基の3古墳が一括されて陵とされています。


d0287413_1716279.jpg

d0287413_1716145.jpg

d0287413_17162386.jpg

d0287413_1716322.jpg

d0287413_17164221.jpg

 次回は孝元天皇境原宮伝承地の牟佐坐神社へ参拝しましょう。
[PR]
by enki-eden | 2014-05-12 00:12