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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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応神天皇の時、秦氏一族が渡来

 15代応神天皇の時代(4世紀末から5世紀初め)に、「弓月君(ゆづきのきみ)」が120県(あがた)の人民(1万人以上)を率いて大陸から渡ってきた。新撰姓氏録によると融通王(弓月君)は秦始皇帝(BC259年-BC210年)の五世孫となっているが、秦始皇帝の650年後に5世では計算が合わない。
 650年間では30世代以上が必要になるので時代が全く合わない。弓月君の遠い先祖が秦始皇帝だというのでしょうかねぇ・・・
 この渡来した弓月君の大集団が秦氏一族と考えられる。

 秦氏は日本に来ると豊前国を拠点として、摂津国、河内国(大阪府寝屋川市太秦)、大和国、山背国葛野郡太秦、山背国紀伊郡(伏見)などに拡がり、土木・金属工芸・機織・養蚕などに従事した。
 当初から天皇家に協力し、大和朝廷に関わった。 応神天皇時代から急に古墳が巨大化したのは秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。
 また、山背国では秦氏と鴨氏は密接に繋がっている。

 秦氏は日本書紀によると百済から来たとあるが、新羅経由で日本に来たというのが一般説である。新羅は中国大陸からの逃亡民(秦人)で構成されており、弓月君の渡来時期は列島では神功皇后と15代応神天皇の時代である。
 中国北部では3世紀末から5世紀半ばにかけて匈奴など北方遊牧民族が定住して、多くの国が並立し「五胡十六国(東晋十六国)時代」となる。
 五胡とは匈奴、鮮卑、羯、氐(てい)、羌(きょう)の諸族で、その中のチベット系の前秦(氐、351年-394年)が秦を名乗り、華北を手中に入れた。前秦は高句麗と新羅を朝貢国としており、前秦は弓月君の国であった可能性がある。前秦が衰えると、やがて後秦(羌、384年-417年)が強大になっていく。

 弓月君は紀元前3世紀の秦始皇帝の子孫ではなく、紀元4世紀の前秦(チベット系の氐)の子孫でしょう。前秦の初代皇帝は苻健(ふけん、317年~355年)ですから、400年頃に列島に渡来した弓月君は前秦の皇帝苻健の三世孫か4世孫に当たるかもしれません。
 華北では五胡十六国時代に仏教が拡がりましたが、秦氏の秦河勝が603年に京都最古の寺・広隆寺を太秦に建立して氏寺としています。

 天皇家を援助した秦氏一族は、仏教以外にユダヤ教的でもあり、原始キリスト教(景教)的でもあったという説があります。 秦氏が関わった宗教的な建物や習慣に、ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ文化、新約聖書的な教理が知られています。
 そういえば、旧約聖書の天地創造の書き出しと、古事記・日本書紀の天地開闢の書き出しは良く似ていると思います。日ユ同祖論には賛成できませんがね。
 神社の仕組みがユダヤ教の幕屋(神殿)と良く似ているとも云われます。

 3、4世紀当時の西アジア(アフガニスタン、キルギス)に弓月国が存在したので、佐伯好郎氏はこれが弓月君の出身地だという。

 十字架上のイエス・キリストの頭の上に、ラテン語の頭文字で「INRI」と書かれている。 これは「インリ」、「イナリ」、「稲荷」となって秦氏の稲荷神は霊験あらたかで日本全国に広がったと云われます。
 秦氏と関係が深い寺社は、松尾大社(大山咋神、秦氏の氏神)、伏見稲荷大社(宇迦之御魂大神)、木嶋坐天照御魂神社(天御中主命)、大避神社(大避大神=秦河勝、兵庫県赤穂市)、広隆寺(本尊は聖徳太子=上宮王院本尊)などがあります。

 50代桓武天皇の平安遷都(794年)には秦氏の所有地、財力、技術、宗教がサポートの中心となりました。

 秦氏の著名人としては聖徳太子のブレーンだった秦河勝(6世紀半ば~7世紀半ば)、現在雅楽演奏で活躍している東儀秀樹氏がいる。薩摩の島津氏 対馬の宗氏、土佐の長曽我部氏も秦氏の子孫であるという。
by enki-eden | 2014-06-29 00:10