2014年 07月 02日
建部大社(たけべたいしゃ、滋賀県大津市)①
滋賀県大津市神領(じんりょう)1-16-1 電 077-545-0038 無料駐車場あります。
近江国一宮、建部大明神、延喜式内名神大社。
瀬田唐橋(せたのからはし)の東600mに鎮座。名神高速瀬田西インター北へ550m。
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)、幼名は小碓命(おうすのみこと)
相殿に天明玉命(あまのあかるたまのみこと、伊弉諾尊の子、玉作連等祖)
天明玉命は先代旧事本紀によると高皇産霊尊の子とあります。
権殿に大己貴命(おおなむちのみこと、大和三輪の大神神社から勧請)
創建 12代景行天皇の時代(4世紀前半)
日本書紀によると、12代景行天皇は皇子・日本武尊を遣わせて九州の熊襲を討った。このとき、日本武尊の年令は16才。日本武尊は11代垂仁天皇の皇女・両道入姫(ふたじのいりひめ)を妃とし、足仲彦(たらしなかつひこ、14代仲哀天皇)などが生まれた。
古事記の表記は倭建命(やまとたけるのみこと)で、妃は意富多牟和気(淡海の安国造)の娘・布多遅能伊理毘売命とある。
建部大社の由緒によると、日本武尊の妃であった近江安国造の娘・布多遅比売命が、子の稲依別王と共に住まわれた神崎郡建部の御名代の地に、日本武尊の神霊を建部大神として奉斎したのが当社の起源という。その後、675年に現在地に遷座して近江国一宮になったという。
日本書紀によると景行天皇は、更に東国の東夷、蝦夷を平らげるために日本武尊を征夷将軍とした。このとき、天皇は日本武尊を褒めて「形はわが子だが、本当は神人(かみ)である。天下も位もお前のもの同然である。」と言われた。
日本武尊は東国と北陸を制圧し、尾張まで戻ってきて尾張氏の女・宮簀媛(みやずひめ)を娶った。そこで近江の五十葺山(いぶきやま、伊吹山)の荒ぶる神を征伐に行ったが体調が悪くなり、伊勢の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で亡くなった。時に年令30才。
三重県亀山市田村町1409に能褒野神社と能褒野陵(前方後円墳、全長90m)がある。大阪府堺市西区には大鳥大社、大阪府羽曳野市と奈良県御所市に白鳥陵がある。
景行天皇は日本武尊の死を悼み、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました。これが建部の起源です。
平安末期の平治の乱(1160年)で敗れた源頼朝が平家に捕らえられ、14才で伊豆に流される途中に建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をしました。見事に願いが叶ったことから日本武尊は武運の神として信仰を集めました。開運出世・必勝・厄除・災難除の神として崇敬されています。
一の鳥居を振り返る
二の鳥居と由緒書き
社号標
神門と神紋
手水舎、人が近づくと水が出てスピーカーから音頭が流れる。
拝殿とご神木の三本杉(神紋になっている)
拝殿内
拝殿の狛犬
幻の千円札に日本武尊と建部大社が描かれている。
重要文化財の石燈篭(鎌倉時代)
昭和天皇お手植えの松
本殿拝所、前に「男みくじ」と「女みくじ」がある。
左が本殿、右が権殿。当社の権殿は「仮の社殿」ではなく大己貴命が祀られている。
本殿の後ろからも参拝することができます。自然の化石らしい。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp
近江国一宮、建部大明神、延喜式内名神大社。
瀬田唐橋(せたのからはし)の東600mに鎮座。名神高速瀬田西インター北へ550m。
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)、幼名は小碓命(おうすのみこと)
相殿に天明玉命(あまのあかるたまのみこと、伊弉諾尊の子、玉作連等祖)
天明玉命は先代旧事本紀によると高皇産霊尊の子とあります。
権殿に大己貴命(おおなむちのみこと、大和三輪の大神神社から勧請)
創建 12代景行天皇の時代(4世紀前半)
日本書紀によると、12代景行天皇は皇子・日本武尊を遣わせて九州の熊襲を討った。このとき、日本武尊の年令は16才。日本武尊は11代垂仁天皇の皇女・両道入姫(ふたじのいりひめ)を妃とし、足仲彦(たらしなかつひこ、14代仲哀天皇)などが生まれた。
古事記の表記は倭建命(やまとたけるのみこと)で、妃は意富多牟和気(淡海の安国造)の娘・布多遅能伊理毘売命とある。
建部大社の由緒によると、日本武尊の妃であった近江安国造の娘・布多遅比売命が、子の稲依別王と共に住まわれた神崎郡建部の御名代の地に、日本武尊の神霊を建部大神として奉斎したのが当社の起源という。その後、675年に現在地に遷座して近江国一宮になったという。
日本書紀によると景行天皇は、更に東国の東夷、蝦夷を平らげるために日本武尊を征夷将軍とした。このとき、天皇は日本武尊を褒めて「形はわが子だが、本当は神人(かみ)である。天下も位もお前のもの同然である。」と言われた。
日本武尊は東国と北陸を制圧し、尾張まで戻ってきて尾張氏の女・宮簀媛(みやずひめ)を娶った。そこで近江の五十葺山(いぶきやま、伊吹山)の荒ぶる神を征伐に行ったが体調が悪くなり、伊勢の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で亡くなった。時に年令30才。
三重県亀山市田村町1409に能褒野神社と能褒野陵(前方後円墳、全長90m)がある。大阪府堺市西区には大鳥大社、大阪府羽曳野市と奈良県御所市に白鳥陵がある。
景行天皇は日本武尊の死を悼み、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました。これが建部の起源です。
平安末期の平治の乱(1160年)で敗れた源頼朝が平家に捕らえられ、14才で伊豆に流される途中に建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をしました。見事に願いが叶ったことから日本武尊は武運の神として信仰を集めました。開運出世・必勝・厄除・災難除の神として崇敬されています。
一の鳥居を振り返る
二の鳥居と由緒書き
社号標
神門と神紋
手水舎、人が近づくと水が出てスピーカーから音頭が流れる。
拝殿とご神木の三本杉(神紋になっている)
拝殿内
拝殿の狛犬
幻の千円札に日本武尊と建部大社が描かれている。
重要文化財の石燈篭(鎌倉時代)
昭和天皇お手植えの松
本殿拝所、前に「男みくじ」と「女みくじ」がある。
左が本殿、右が権殿。当社の権殿は「仮の社殿」ではなく大己貴命が祀られている。
本殿の後ろからも参拝することができます。自然の化石らしい。
by enki-eden
| 2014-07-02 00:07