古代史探訪

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八咫鏡(やたのかがみ)

 ウィキペディアによると、咫(あた)は円周の単位で、1咫は8寸(0.8尺)である。直径1尺の円の円周を4咫(3.2尺)としていた。後漢の尺は約23cm。
 従って、八咫鏡は直径2尺(約46cm)の鏡になる。
 円周率は3.14159・・・であるが、古代日本の円周率は3.2だったようですね。

 手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さを咫としており、これは尺の元々の定義と同じである。記紀には、八咫鏡、八咫烏(やたがらす)など「八咫」という長さが登場してくる。
 咫(あた)は尺(さか)とも言う。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、「尺」の字があてられているが本来は咫(あた)である。

 福岡県糸島市有田の平原(ひらばる)遺跡1号墓(長方形の周溝墓)出土の超大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡、5面、国宝)は直径46.5cm、重さ約8kgの国産鏡で、これは正しく八咫鏡です。西暦200年頃に築造の1号墓(女王の墓、又は巫女の墓)から出土した。
 木棺は頭部を西に脚部を東の方向に埋葬され、朝日が射し込んでくる日向峠(ひなたとうげ)を向いている。「伊都国の女王又は巫女」と「日の神」との交合をイメージしているのでしょう。
 この特大鏡には内行花文帯(八個の弧形)と八葉の模様があるが、文字や図柄は描かれておらず素朴な鏡である。3世紀末から4世紀に大和国で大量に鋳造された三角縁神獣鏡(直径約20cm)の派手な文様とは大きく違っている。
 平原遺跡については2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。

   平原遺跡


   平原遺跡1号墓出土の内行花文鏡(伊都国歴史博物館)
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 伊勢神宮の御神体である八咫鏡も平原遺跡の超大型内行花文鏡とほぼ同じ大きさ、形状と考えられるが、明治天皇天覧後は誰も見ていないことになっている。
 八咫鏡は天照大神が神霊を込めて瓊瓊杵(ににぎ)命に授け、草薙剣(天叢雲剣)と八尺瓊勾玉と共に三種の神器として祀られた。

 10代崇神天皇が3世紀末に天照大神(八咫鏡)を磯城の瑞籬宮(みずかきのみや、奈良県桜井市金屋)に祀ったが災いが起こり、八咫鏡は外に出され各地を転遷し、最終的に海人族の地である伊勢に奉安された。 草薙剣は尾張(名古屋)の熱田神宮の御神体として祀られている。伊勢も尾張も海人族尾張氏の本拠地である。
     伊勢神宮


 大和国で大物主神(三輪山の磐座)を祀る出雲族や、倭大国魂(やまとおおくにたま)神を祀る地元民が、天照大神(八咫鏡)を祀る崇神天皇に反発した結果を、記紀は「災いが起こった」と表現しているのでしょう。90年前に国譲りをさせられた出雲族(大国主)の子孫の反発かもしれない。

 崇神天皇は八咫鏡を皇女の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命に託し笠縫邑(かさぬいむら)に祀った。倭大国魂神を皇女の渟名城入姫(ぬなきいりひめ)命に預けて祀らせたが、渟名城入姫は髪が落ち、体が痩せてお祀りする事ができなかった。
 そこで崇神天皇は大物主神の子孫の大田田根子に大物主神を祀らせ、倭大国魂神の子孫の市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祀らせることによって天下が治まった。

 天照大神は崇神天皇の皇女が祀ることができたが、倭大国魂神は皇女が祀ることができなかったということは、崇神天皇一族は地元大和国出身ではなく、天照大神の海人族出身(筑紫)で、3世紀後半に大和へ東遷して物部氏の支持を受け、大王になったと考えられる。
 ただし、皇室のシステムはそのまま継承され、崇神天皇は皇族の御間城姫に入り婿の形をとった。
 ただ、記紀には10代崇神天皇は9代開化天皇の皇子となっているので、引き続き研究する必要があります。

 崇神天皇の和風諡号は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇で、皇子の名は活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)尊、彦五十狭茅(ひこいさち)命、五十日鶴彦(いかつるひこ)命などがいる。「五十」を「い」と読んでいるが、本来は「いそ=磯」である。
 つまり、崇神天皇一族は筑紫の磯国(伊都国、筑前国怡土郡)出身だと考えられないでしょうか。伊都国出身者には五十迹手(いとて)や五十猛(いたける、いそたける)も存在する。

 崇神天皇から400年後(7世紀末)、天照大神は40代天武天皇と41代持統天皇によって復活し、皇祖神となった。宮中では三種の神器の複製品(レプリカ)が祀られ、皇位のしるしとなった。

 現在、皇居の賢所(かしこどころ)に奉安されている神鏡は八咫鏡の複製品(レプリカ)だが、天皇の儀式に使われるので大きさは半分程になっているようだ。天皇でもこの神鏡を直接見ることができない。草薙剣の形代(かたしろ、複製品)と八尺瓊勾玉は皇居吹上御所に安置されている。
 皇居は何度か火災にあっているので、三種の神器は傷んでしまい11世紀に新たに鋳造された。1185年に81代安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んだこともある。このとき神鏡と八尺瓊勾玉は回収されたが、剣は見つからなかったので新たに造られた。

 安徳天皇を祀る赤間神宮(山口県下関市)に神鏡が奉鎮されているという。拝殿横に「八咫鏡奉鎮」の石碑がある。

 皇居賢所の神鏡については、明治時代に第一次伊藤内閣の文部大臣の森有礼(1847-1889年)が皇居の神鏡を見て、「神鏡にはヘブライ文字が記されていた」という伝承がある。
 青山学院ヘブライ語学者の左近義弼(よしすけ、1865-1944年)が宮中に呼ばれ、神鏡の文様を見て、ヘブライ語で「我は有りて在るものなり」と記されているという伝承がある。
 この伝承は最早確認できないし、日ユ同祖論には賛成できないが、私は皇室と神社はイスラエルやオリエントの影響を受けていると考えています。
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by enki-eden | 2014-09-10 00:10