2014年 10月 09日
神功皇后の年代
前回は神功皇后由来の敏馬神社(みぬめじんじゃ、神戸市)を訪ねたので、今回は神功皇后の活躍年代について考えてみようと思います。
日本書紀の神功皇后紀に魏志倭人伝を引用して卑弥呼と臺與の事績が記されているので、日本書紀は神功皇后を卑弥呼として記しているとか、神功皇后は架空の人物だという説がありますが、どうなっているのか調べてみましょう。
38代天智天皇の死後、672年の「壬申の乱」を制した大海人皇子が翌年に40代天武天皇となり、皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、13才で結婚、41代持統天皇)と共にそれまでの日本とは違う質の高い政治・経済・社会・文化を築き上げた。天武天皇は飛鳥浄御原宮を造営し白鳳文化が華咲いた。飛鳥浄御原令の制定、更に持統天皇が694年に藤原京を造営。
藤原宮跡から耳成山を望む。

710年に43代元明天皇(女帝)による平城京遷都など国家意識が極度に高揚された時期であった。日本は東アジアの中心国家であるという誇りがみなぎっていた。
平城宮跡


しかも皇祖神を天照大神とし、持統天皇はその生まれ変わりとしての自覚を持っていた。藤原京の真東の伊勢に伊勢神宮内宮を整備拡大した。持統天皇の和風諡号は高天原広野姫天皇となっている。
そのような時代背景の中で古事記が編纂され712年に成立、日本書紀が720年に成立したので、卑弥呼が239年に中国の魏に朝貢して冊封(さくほう)体制に入り、親魏倭王として従属国家になっていたというのは、どうしても認められないことであった。
しかし事実は隠せないから、暗示してあいまいにする必要がある。そこで活動時期が卑弥呼より120年後となる神功皇后の記事の中に、年代基準を変えて卑弥呼の事績の一部を魏志倭人伝から引用したのだと考えます。
卑弥呼の基準年は日本書紀の神功皇后年に200年をプラス、神功皇后の基準年は神功皇后年に320年をプラスしています。両者の活動時期が120年違うからです。
日本書紀に記されている神功皇后の年代を確認してみたいと思います。日本書紀の記述順序に従って表を作りました。表をクリックして、更にプラスマークをクリックすると拡大します。

表の一番上の囲いで、神功皇后の摂政元年(辛巳)は神功皇后の生年(辛巳 321年)と考えています。卑弥呼の女王即位元年(辛巳、201年)も表しているのでしょう。
14代仲哀天皇崩御を庚辰(380年)、神功皇后の摂政元年を辛巳(381年)とするのでは前後の流れに合わない。古事記では仲哀天皇崩御は壬戌(362年)になっており、神功皇后摂政元年は翌年の癸亥(363年)だと考えられます。
神功皇后年の元年から13年までは362年出生の誉田別皇子(15代応神天皇)の年齢を表しています。13才で成人式(元服)をしたようです。現代の成人式は20才ですが、古代の成人式は11才から15才の間に行われ、結婚も家と家の政略結婚で、成人式の頃(10代前半)に行われた。
次の3行の囲いは倭王卑弥呼の事績年代です。
その次の囲いは神功皇后の事績年代です。
その次は倭王臺與の西晋への朝貢年です。
最後が神功皇后の崩御年です。
神功皇后年は元年から69年まで連続した年月のように記されていますが、囲いによって時代も人物も違うので年代基準を変えています。しかし、日本書紀は4ヶ所に太歳(干支の辛巳、己未、壬午、己丑)を記しているので年代の特定ができるようになっています。しかも中国と百済の記事も併記しているので更に年代の確認ができるようになっています。
日本書紀の筆法(暗号)は難しいですが、1,300年も後の我々に理解できることもたくさんあります。
神功皇后陵(五社神古墳 ごさしこふん、奈良市山陵町宮ノ谷)
全長275mの前方後円墳、佐紀盾列古墳群の中で最大、4世紀後半に築造。


古墳時代も中期に入り、応神天皇陵が河内に巨大古墳として出現するようになります。15代応神天皇陵(403年崩御)は425m、16代仁徳天皇陵(427年崩御)は486m、17代履中天皇陵(432年崩御)は360mなどです。
応神天皇陵(誉田御廟山古墳、大阪府羽曳野市誉田6丁目)
応神天皇系図

以上のように日本書紀は卑弥呼と臺與の事績の一部を神功皇后の記事に挟んで、倭王卑弥呼と臺與の存在を小さくし、あいまいに記した。
同じように卑弥呼と臺與の各地の伝承も大和朝廷(持統天皇と藤原不比等)により、神功皇后伝承に変更させられた可能性が高い。持統天皇は691年に豪族18氏の系図や石上神宮、大神神社の古文書を提出させ没収している。
私見ですが、神功皇后伝承には3世紀の卑弥呼と臺與の伝承及び4世紀の神功皇后の伝承が混在しているのではないか。
神功皇后と常に行動を共にしている武内宿禰についても、2世紀・3世紀の素戔嗚・五十猛・饒速日の伝承を4世紀の武内宿禰の伝承に混在させているのではないか。
次の表は武内宿禰の系図です。一般的な系図は、彦太忍信命―家主忍男武雄心命―武内宿禰ですが、私見では彦太忍信命―( ? )―家主忍男武雄心命―武内宿禰と考えていました。
ところが紀氏系図や寛永諸家系図伝などによると彦太忍信命―家主忍男命―武雄心命―武内宿禰となっているのがあるので少し修正しました。図をクリックしてから、プラスマークをクリックすると拡大します。

系図によると当時の中心豪族の多くが武内宿禰の子孫として纏められている。しかし紀氏の裏系図では、紀氏の祖神で初代紀伊国造の天道根の妃は素戔嗚の娘であるという。
素戔嗚の娘で五十猛と共に紀の国へ行ったのは大屋津姫と抓津姫である。大屋津姫は天香語山の妃になっているので、天道根の妃になったのは抓津姫でしょうか。古代は今のように一夫一妻制ではなく複数制ですから断定はできませんがね。
天道根は饒速日東遷(私見では185年)に従ったと先代旧事本紀に記されており、和歌山市の日前宮境内に天道根神社があります。天道根は神武東遷(私見では204年に東遷開始)にも協力して紀伊国造に任ぜられた。
日前宮については2013年2月1日投稿の「日前宮」をご参照ください。
紀氏だけでなく葛城氏、蘇我氏なども素戔嗚と繋がっているようだ。素戔嗚・五十猛・饒速日の出雲系は天皇家に先んじて栄えているので、その事績・伝承をあいまいにするために武内宿禰に習合させられたのか? 武内宿禰の先祖も素戔嗚・五十猛・饒速日に繋がっている。
有力豪族の本拠地も筑紫と大和の両方にある。紀氏であれば肥前国基肄郡と紀伊国。武内宿禰の誕生地も佐賀県武雄市の武雄神社と和歌山市松原の武内神社がある。墳墓は複数あってもいいが誕生地は一ヶ所なので、どちらかが間違っているか別人でしょう。
今後充分に調べて日本書紀や伝承の元を明らかにしたいと考えています。
葛城氏、平群氏、物部氏、蘇我氏など有力豪族は5世紀から7世紀の間に失脚し弱体化する。天皇家は8世紀に唯一絶対の孤高の存在となった。そして日本書紀は41代持統天皇(645年‐702年)で終わる。次の万葉歌は持統天皇の勝利宣言です。(巻1-29)
春過ぎて 夏来たるらし 白栲(しろたへ)の 衣干したり 天の香具山
藤原宮跡から天香具山を望む。

印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp
日本書紀の神功皇后紀に魏志倭人伝を引用して卑弥呼と臺與の事績が記されているので、日本書紀は神功皇后を卑弥呼として記しているとか、神功皇后は架空の人物だという説がありますが、どうなっているのか調べてみましょう。
38代天智天皇の死後、672年の「壬申の乱」を制した大海人皇子が翌年に40代天武天皇となり、皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、13才で結婚、41代持統天皇)と共にそれまでの日本とは違う質の高い政治・経済・社会・文化を築き上げた。天武天皇は飛鳥浄御原宮を造営し白鳳文化が華咲いた。飛鳥浄御原令の制定、更に持統天皇が694年に藤原京を造営。
藤原宮跡から耳成山を望む。

710年に43代元明天皇(女帝)による平城京遷都など国家意識が極度に高揚された時期であった。日本は東アジアの中心国家であるという誇りがみなぎっていた。
平城宮跡


しかも皇祖神を天照大神とし、持統天皇はその生まれ変わりとしての自覚を持っていた。藤原京の真東の伊勢に伊勢神宮内宮を整備拡大した。持統天皇の和風諡号は高天原広野姫天皇となっている。
そのような時代背景の中で古事記が編纂され712年に成立、日本書紀が720年に成立したので、卑弥呼が239年に中国の魏に朝貢して冊封(さくほう)体制に入り、親魏倭王として従属国家になっていたというのは、どうしても認められないことであった。
しかし事実は隠せないから、暗示してあいまいにする必要がある。そこで活動時期が卑弥呼より120年後となる神功皇后の記事の中に、年代基準を変えて卑弥呼の事績の一部を魏志倭人伝から引用したのだと考えます。
卑弥呼の基準年は日本書紀の神功皇后年に200年をプラス、神功皇后の基準年は神功皇后年に320年をプラスしています。両者の活動時期が120年違うからです。
日本書紀に記されている神功皇后の年代を確認してみたいと思います。日本書紀の記述順序に従って表を作りました。表をクリックして、更にプラスマークをクリックすると拡大します。

表の一番上の囲いで、神功皇后の摂政元年(辛巳)は神功皇后の生年(辛巳 321年)と考えています。卑弥呼の女王即位元年(辛巳、201年)も表しているのでしょう。
14代仲哀天皇崩御を庚辰(380年)、神功皇后の摂政元年を辛巳(381年)とするのでは前後の流れに合わない。古事記では仲哀天皇崩御は壬戌(362年)になっており、神功皇后摂政元年は翌年の癸亥(363年)だと考えられます。
神功皇后年の元年から13年までは362年出生の誉田別皇子(15代応神天皇)の年齢を表しています。13才で成人式(元服)をしたようです。現代の成人式は20才ですが、古代の成人式は11才から15才の間に行われ、結婚も家と家の政略結婚で、成人式の頃(10代前半)に行われた。
次の3行の囲いは倭王卑弥呼の事績年代です。
その次の囲いは神功皇后の事績年代です。
その次は倭王臺與の西晋への朝貢年です。
最後が神功皇后の崩御年です。
神功皇后年は元年から69年まで連続した年月のように記されていますが、囲いによって時代も人物も違うので年代基準を変えています。しかし、日本書紀は4ヶ所に太歳(干支の辛巳、己未、壬午、己丑)を記しているので年代の特定ができるようになっています。しかも中国と百済の記事も併記しているので更に年代の確認ができるようになっています。
日本書紀の筆法(暗号)は難しいですが、1,300年も後の我々に理解できることもたくさんあります。
神功皇后陵(五社神古墳 ごさしこふん、奈良市山陵町宮ノ谷)
全長275mの前方後円墳、佐紀盾列古墳群の中で最大、4世紀後半に築造。


古墳時代も中期に入り、応神天皇陵が河内に巨大古墳として出現するようになります。15代応神天皇陵(403年崩御)は425m、16代仁徳天皇陵(427年崩御)は486m、17代履中天皇陵(432年崩御)は360mなどです。
応神天皇陵(誉田御廟山古墳、大阪府羽曳野市誉田6丁目)
応神天皇系図

以上のように日本書紀は卑弥呼と臺與の事績の一部を神功皇后の記事に挟んで、倭王卑弥呼と臺與の存在を小さくし、あいまいに記した。
同じように卑弥呼と臺與の各地の伝承も大和朝廷(持統天皇と藤原不比等)により、神功皇后伝承に変更させられた可能性が高い。持統天皇は691年に豪族18氏の系図や石上神宮、大神神社の古文書を提出させ没収している。
私見ですが、神功皇后伝承には3世紀の卑弥呼と臺與の伝承及び4世紀の神功皇后の伝承が混在しているのではないか。
神功皇后と常に行動を共にしている武内宿禰についても、2世紀・3世紀の素戔嗚・五十猛・饒速日の伝承を4世紀の武内宿禰の伝承に混在させているのではないか。
次の表は武内宿禰の系図です。一般的な系図は、彦太忍信命―家主忍男武雄心命―武内宿禰ですが、私見では彦太忍信命―( ? )―家主忍男武雄心命―武内宿禰と考えていました。
ところが紀氏系図や寛永諸家系図伝などによると彦太忍信命―家主忍男命―武雄心命―武内宿禰となっているのがあるので少し修正しました。図をクリックしてから、プラスマークをクリックすると拡大します。

系図によると当時の中心豪族の多くが武内宿禰の子孫として纏められている。しかし紀氏の裏系図では、紀氏の祖神で初代紀伊国造の天道根の妃は素戔嗚の娘であるという。
素戔嗚の娘で五十猛と共に紀の国へ行ったのは大屋津姫と抓津姫である。大屋津姫は天香語山の妃になっているので、天道根の妃になったのは抓津姫でしょうか。古代は今のように一夫一妻制ではなく複数制ですから断定はできませんがね。
天道根は饒速日東遷(私見では185年)に従ったと先代旧事本紀に記されており、和歌山市の日前宮境内に天道根神社があります。天道根は神武東遷(私見では204年に東遷開始)にも協力して紀伊国造に任ぜられた。
日前宮については2013年2月1日投稿の「日前宮」をご参照ください。
紀氏だけでなく葛城氏、蘇我氏なども素戔嗚と繋がっているようだ。素戔嗚・五十猛・饒速日の出雲系は天皇家に先んじて栄えているので、その事績・伝承をあいまいにするために武内宿禰に習合させられたのか? 武内宿禰の先祖も素戔嗚・五十猛・饒速日に繋がっている。
有力豪族の本拠地も筑紫と大和の両方にある。紀氏であれば肥前国基肄郡と紀伊国。武内宿禰の誕生地も佐賀県武雄市の武雄神社と和歌山市松原の武内神社がある。墳墓は複数あってもいいが誕生地は一ヶ所なので、どちらかが間違っているか別人でしょう。
今後充分に調べて日本書紀や伝承の元を明らかにしたいと考えています。
葛城氏、平群氏、物部氏、蘇我氏など有力豪族は5世紀から7世紀の間に失脚し弱体化する。天皇家は8世紀に唯一絶対の孤高の存在となった。そして日本書紀は41代持統天皇(645年‐702年)で終わる。次の万葉歌は持統天皇の勝利宣言です。(巻1-29)
春過ぎて 夏来たるらし 白栲(しろたへ)の 衣干したり 天の香具山
藤原宮跡から天香具山を望む。

by enki-eden
| 2014-10-09 00:07

