古代史探訪

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関門海峡は陸だったのか

 穴門・穴戸(あなと)は関門海峡のことであり7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半には長門国と改めた。関門海峡は元々陸続きであった。

 本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
 それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

 平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。

 船島(ふなしま)の住所は山口県下関市大字彦島字船島となっている。巌流島と云った方が判りやすいでしょう。1612年、船島で宮本武蔵(1584年?-1645年)と決闘をした佐々木小次郎(1585年?-1612年)が「巌流」を名乗ったことから、船島は巌流島とも云われる。
   赤のアイコンが船島、黄が彦島。


 山口県下関市彦島迫町に鎮座の彦島八幡宮(祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇)の由緒説明によると、
 『古代は、関門海峡は門司と下関の間は陸続きで、下の方に小さな穴が開いていて外海と内海の潮が行き来していた。
 いわば洞穴(ほらあな)のような状態で、それで穴の門と書いて、「穴門、あなと」と呼んだ。日本書紀の仲哀記にも「穴門の国 引島」と記載されている。後に山口県の西半分を長門の国と云うようになりますが、それは、この「あなと」が「ながと」に訛ったのだと云われている。
 約千八百年前、九州に向われるため長府の豊浦宮を出発された仲哀天皇と神功皇后のお船が穴門にさしかかると、不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来たと云われている。このとき、海に落ちた下関と門司の間の山は、激しい急流に押し流されて西へ流れ一つの島になった。ちょうどそのありさまが、海峡を作るために山が引きさかれたように見えたので「引島、ひこしま(彦島)」と名づけたそうである。』とあります。

 「不思議な事に下関と門司の間の山が突然海に落ち込んで水路が出来た」というのは旧約聖書の出エジプト記に、モーゼ率いるユダヤの民が潮の引いた紅海を渡りきると、エジプトの追討軍が渡り始めたが、たちまち潮が溢れてエジプト兵が溺れるという記述を思い浮かべます。
 聖書の知識は6世紀にやってきた波斯人(ペルシャ人)によってもたらされたので、574年出生の聖徳太子の厩戸皇子(うまやどのみこ、キリストは馬屋で生まれた)の幼名が名付けられた。
 記紀の成立した8世紀には更にペルシャ人がやってきた。736年にやってきた李密医(翳)は光明皇后に仕えた。正倉院御物にペルシャ系文物が多い。
 ペルシャ商人によりキリスト教(景教)やゾロアスター教(マズダー教)も伝えられた。

 応神天皇の時、西暦400年前後に秦氏がやってきたが、秦氏はユダヤ系ペルシャ人だったかもしれない。 聖徳太子(574年-622年)に仕えた秦氏に秦河勝がいる。聖徳太子が亡くなると秦河勝は身の危険を避けるために、播州赤穂に逃れ当地の発展に尽くした。河勝は大避神社に祀られている。
 大避神社については2012年12月29日投稿の記事をご覧ください。

 関門海峡の話に戻ると、一説では「14代仲哀天皇は5年余りの歳月を掛けて、舟が通過できるように穴戸の開削工事を行った。」と云われている。
 仲哀天皇の父は日本武尊で、熊襲退治や東国遠征で活躍した英雄です。仲哀天皇もその血を引いているのか、熊襲退治に執念を燃やしている。軍事的に本州と九州の間の交通を便利にする必要があった。引き潮になると通行できない海では軍の機動性を発揮できない。
 関門海峡がいつでも航行できるようになって制海権を握ると、多くの豪族が仲哀天皇(320年頃-362年頃)・神功皇后(321年-389年)に靡くようになり、熊襲退治に専念できた。

 神功皇后系図、図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
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 仲哀天皇・神功皇后の宮は「穴門豊浦宮」(下関市)と「香椎宮」(福岡市)である。
 豊浦宮は関門海峡を統制できる立地にある。当地には忌宮神社(いみのみやじんじゃ、祭神は仲哀天皇・神功皇后・応神天皇)が鎮座している。
 前の海には忌宮神社の飛び地境内である満珠島、干珠島があり、海峡の干満を管理するに相応しい。豊浦宮周辺は邪馬台国女王臺與(235年頃-295年頃)一族の本拠地であった可能性がある。

 1185年の長門国赤間関壇ノ浦(下関市)の海戦では、源氏側が満珠島・干珠島を拠点としたように軍事拠点に適している。平家がこの海戦に敗れて滅亡し、源頼朝(1147年-1199年)が1192年に征夷大将軍となり鎌倉幕府が成立した。
   赤のアイコン忌宮神社、黄が満珠島、緑が干珠島、紫が壇ノ浦。


 博多湾に面した香椎宮は北と東が山、西が海、南は多々良川で天然の要塞に相応しい。香椎宮近辺の山沿いの高台には奴国王兼邪馬台国女王卑弥呼(179年頃-247年頃)の宮があった可能性が非常に高い。


 神武天皇(180年頃-245年頃)が宇佐(大分県宇佐市)から岡水門(おかのみなと、福岡県遠賀郡芦屋町)へ行く際、日本書紀には難関の穴門(関門海峡)を通過したことは記されず、宇佐から岡水門へ陸行したような書き方になっている。
 岡水門から大和へ東征を始めた時も穴門の難関は記されず、安芸国・吉備国へ行ったと記されているだけである。
 これは神武天皇の東征開始当時(西暦204年頃)には穴門(関門海峡)を船では行けなかったことを物語っているのかもしれない。

 その後、12代景行天皇(285年頃出生)が熊襲退治に向かったが、関門海峡を航行した記録がない。南方経由で襲国(日向、宮崎県)から火国(熊本県)へ行っている。帰りも襲国から大和国へ戻っている。
 景行天皇の皇子・日本武尊(300年頃出生)も熊襲退治に向かったが、関門海峡を航行した記録がない。 当時は碩田国(おおきたのくに、大分県)か襲国から火国へ行ったのか。

 関門海峡の一番狭い所は壇ノ浦と和布刈(めかり)の間の「早鞆(はやとも)の瀬戸」で、約600mである。海峡の狭さ、潮流の速さ・方向、船舶の混雑により、現在でも関門海峡を通過する船舶は水先案内人の同乗が義務付けられている。それだけ難所ということで事故も発生し易い。
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by enki-eden | 2015-02-22 00:08