古代史探訪

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猿田彦命

 猿田彦命は白鬚(しらひげ)大明神として、航海安全、長寿、農耕の神として全国的に信仰されている。比良明神、岐神(ふなとがみ)、白日神とも言われる。
 猿田彦命の系図を見ると、猿田彦命と白日神が同一とは考えにくいですがねぇ・・・
 それとも麻須羅神は大歳神でしょうか。
 
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 佐太大神の母親は枳佐加比売ですが、父親が判らないので占い(誓約)をして決めた。誓約については2013年1月2日投稿の「盟酒、うけいざけ」をご参照ください。

 猿田彦を祀る神社は猿田彦神社(三重県伊勢市宇治浦田町)、椿大神社(三重県鈴鹿市山本町)、都波岐奈加等神社(三重県鈴鹿市一ノ宮)、伏見稲荷大社(京都市伏見区深草薮之内町)などがあり、全国各地に塞(さえ)の神・道祖神として祀られている。道祖神は猿田彦と妻の天鈿女が対になって石に刻まれることが多い。
 猿田彦神社の1.4km南に伊勢神宮内宮が鎮座しています。

 猿田彦は伊勢の海人族・宇治土公家が祖神として祀っていた太陽神である。現在でも宇治土公家は三重県伊勢市の猿田彦神社の宮司家として続いている。
 同じように鈴鹿市の椿大神社の山本宮司も猿田彦の子孫と称している。

 また、猿田毘古神は、出雲国風土記に登場する佐太大神であると考えられている。生まれたのは加賀の潜戸(くけど、松江市島根町加賀)という海岸の洞窟の中で、母は神魂神(出雲の祖神で伊弉奈彌命か)の娘の枳佐加比売です。
 その佐太大神を祀るのは島根県松江市鹿島町佐陀宮内に鎮座の出雲国二の宮・佐太神社(神在の社、かみありのやしろ)で、主祭神が佐太大神(猿田毘古大神)となっている。明治政府から祭神を猿田彦命と明示するように言われた時には拒否しているが、その後、政府に押し切られたのか同意した。
 神社の伝承にないということは、佐太大神と猿田毘古大神は別神かもしれない。
    赤のアイコンが佐太神社、黄が加賀の潜戸。


 日本書紀によると、出雲の国譲りが決まった時(西暦200年頃)に、大己貴神(おおあなむちのかみ)は岐神(ふなとのかみ、猿田彦神)を、経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)の二神に勧め、「これが私に代わってお仕え申し上げるでしょう。私は今ここから退去します。」と云って隠れたとある。
 猿田彦は大国主と少彦名を先導して各地を巡り、国土開発の協力をしていたが、国譲りの後は経津主神が猿田彦神(岐神)を先導役として、各地を巡り平定した。

 邇邇芸(ににぎ)命の天孫降臨の時、猿田毘古神が天の八衢(あめのやちまた)で待ち受けて、高天原と葦原中津国を照らしながら、天孫を日向へ先導した。

 日本書紀、古語拾遺や伊勢市の猿田彦神社由緒によると、猿田彦は岐(ふなど、くなど)神・塞の神と同神としている。更に中国から伝来した「道の神」である道祖神とも習合していった。
 黄泉比良坂(よもつひらさか)は、あの世とこの世の境界にある。猿田彦が比良明神と云われるのは、境界の神、塞の神であるからだと思われる。
 海人族に阿曇比羅夫、阿倍比羅夫がいるが、「比羅夫」は「比良」の「男」で、境界を塞ぐ海人だから、そう呼ばれたのでしょう。

 猿田彦は中世には庚申信仰とも結びついた。庚申信仰は中国の道教・陰陽道・仏教や日本の神道などの習合した信仰。
 猿田彦の「猿」と庚申の「申」が同じということ、また猿田彦が「幸神、さいのかみ、こうしん」と言われていた事から「こうしん」が同じということなどで習合されたのか。

 猿田彦大神を祀る三重県伊勢市の二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)では、『古来より、人々は当二見浦に詣で、夫婦岩の間から差し昇る「日の大神」と、夫婦岩の沖合700mの海中に鎮まる猿田彦大神縁りの霊石と伝えられる「興玉神石(おきたましんせき)」 を拝してまいりました。
 この伊勢の海清き渚より富士の山影を望み、その背から輝き昇る朝日、取り分け夏至の朝日を拝する神厳しさは筆舌に尽し難い感動を覚えます。』と伝えている。
 摂社に竜宮社(綿津見大神)があり、古来、伊勢神宮参拝の前に二見浦で禊を行うのが慣わしであった。

 猿田毘古神を祀る白鬚神社(しらひげじんじゃ)の総本社は、滋賀県高島市鵜川にあり、高島市には「鴨」という地名や鴨川も流れていて、鴨氏との関係が窺える。
 鵜川の隣りは「安曇川町、あどがわちょう」で、安曇氏とも関係がある。更に琵琶湖は息長氏の本拠地でもある。
 琵琶湖畔に鎮座する白鬚神社では、広島の厳島神社のように琵琶湖の中に赤い大きな両部鳥居が立っている。祭神は猿田彦大神で、この神社を本社とする白鬚神社は、全国各地で150社以上を数える。
 社伝によれば、11代垂仁天皇25年(4世紀前半)、倭比売命がこの地に来て社殿を創建とあり、その後、38代天智天皇(7世紀後半)の勅旨によって比良明神の神号を賜った。

 古事記によると、猿田彦神は伊勢国阿邪訶(あざか、阿坂村)の海(現:松阪港付近)で漁をしていた時、大きな比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れ死ぬ。西暦230年頃でしょうか。
 大阿坂村と小阿坂村にはそれぞれ阿射加神社(あざかじんじゃ)が鎮座している。祭神は猿田彦神で、猿田彦神の3つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)の3座を祀り、本殿は3棟になっている。海人族は3を聖数とする。(住吉3神、綿津見3神、宗像3神など)
 比良明神の猿田彦が比良夫貝に手を挟まれて亡くなった。比良夫貝の話は本当でしょうか、それとも後付けの付会でしょうかねぇ。昔の人は言葉遊びが上手です。

 伊勢湾に面した当地は猿田彦の領地だったと思われる。4世紀初めに三重県多気郡明和町に伊勢の斎宮が設けられることになる。
   赤のアイコンが阿坂の海、黄が伊勢斎宮跡、青が伊勢神宮内宮。


 田彦神と八島士奴美神(清之湯山主三名狭漏彦八嶋野)の共通点は、狭漏(さろ)が猿に似ている。八島士奴美は八嶋(国土)を照らす神である。猿田彦は「上は高天原を照らし、下は葦原の中つ国を照らす神」である。

 佐太大神(猿田彦)の父親である麻須良神(ますらのかみ)は益荒神(ますらがみ、荒く猛々しい神)である。
「マシ」「マシラ」の古語であるので、佐太大神(田彦)の父親である麻須良神も猿。
 岐阜県瑞波市には明治30年まで爪(ましづめ)村があった。地名は変えない方が良いですねぇ。
 山ふかみ 苔のむしろの 上にゐて なに心なく 啼くましら(猿)かな   (山家集)
 心すむ 柴のかり屋の 寝覚めかな 月ふく風に ましら(猿)鳴くなり   (御室五十首)

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by enki-eden | 2015-03-28 00:09