2015年 05月 18日
八岐大蛇(やまたのおろち)
八岐大蛇(やまたのおろち)の話は出雲国風土記には記されていないが、「大穴持命(大国主命)、越の八口を平らげ賜ひて還り坐す」との記述がある。八口の口(くち)は蛇のことであるから、この伝承から八岐大蛇の話に展開していったのでしょうか。
出雲の斐伊川周辺には八岐大蛇伝承があり、神楽にもなっている。これは記紀に影響を受けた後付けによる伝承なのか・・・
そして、出雲国風土記に記されている神須佐乃烏命(素盞嗚尊、140年頃~200年頃)は、記紀に記されているような荒々しい神ではない。これも8世紀の記紀の編者によって一方的に決め付けられた性質なのか。
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日本書紀によると、高天原を追放されて出雲国へ帰った素戔嗚は、簸の川(ひのかわ)の上流の鳥上(とりかみ)の山に降り立った。そこには脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)の夫婦がいて、娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)が八岐大蛇に呑まれるのを恐れて悲しんでいた。
そこで素戔嗚は奇稲田姫を妻としてもらい、奇稲田姫を爪櫛(つまぐし)に変えて髪に挿した。そして脚摩乳と手摩乳に酒を用意させて八岐大蛇が来るのを待った。
案の定、八岐大蛇がやってきた。酒を見つけると八つの頭を八つの桶に入れて酒を飲んだ。八岐大蛇が寝込んだところを素戔嗚は十握の剣(蛇の麁正、おろちのあらまさ)でズタズタに斬った。
尾を斬る時に剣の刃が少し欠けた。尾を割いてみると剣が出てきた。これが天の叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙の剣)である。この剣は天つ神に献上して三種の神器の一つになり、尾張の熱田神宮のご神体になっている。
そして素戔嗚は奇稲田姫との新婚の住まいを探して出雲の須賀に宮を建てた(現:須我神社、島根県雲南市大東町須賀260)。 その時に素戔嗚が詠んだ歌、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
八岐大蛇は「川の氾濫」を古代人なりに表現したものでしょう。八岐大蛇は多くの支流を集めた川(龍)で、毎年氾濫により被害をもたらす。八岐大蛇が毎年娘をさらうのは、村の娘が生贄(人身御供、人柱)にされ氾濫を鎮める祈祷が行われたと考えられる。
氾濫などの自然災害があると、古代人は神に生贄を捧げて被害を避けようとした。12代景行天皇の皇子の日本武尊が東国遠征の際(4世紀前半)、相模の海で暴風が起こり、船が沈みそうになった。つき従ってきた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投げて嵐を鎮めた。
八岐大蛇の退治は川の治水工事のことで、素戔嗚が治水工事に取り掛かり、工事が成功したことを表現している。
八岐大蛇の現場は出雲国ではなく、伯耆国、吉備国、安芸国などとも云われるが、九州筑豊平野の遠賀川(おんががわ)沿いにも素戔嗚尊と八岐大蛇に関する伝承が残っている。
素戔嗚が八岐大蛇を退治した簸の川(ひのかわ)とは出雲の斐伊川ではなく、福岡県宗像地方東端の六ヶ岳(むつがたけ、338.9m)の麓を流れる犬鳴川か遠賀川でしょうか。
天照大神と素戔嗚の誓約(うけい)により生まれた宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵島姫)が六ヶ岳に降臨したとの伝承があり、麓の六嶽神社(むつがたけじんじゃ、福岡県鞍手郡鞍手町室木)に「三女神、三柱様」として祀られている。三女神はここから宗像へ移り住んだと云われ、宗像大社(福岡県宗像市)の祭神となっている。
また、六ヶ岳に天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、天照大神の孫)の御陵があるとも云う。
素戔嗚が八岐大蛇を斬った時に遠賀川が血のように赤く染まったという伝承がある。これは蹈鞴製鉄による鉄穴流し(かんなながし)のことでしょう。
中国地方では山砂鉄を原料として鉄穴流しで鉄を採掘していた。美作国(みまさかのくに、岡山県北部)の鉄穴流しのため旭川の川床が土砂で埋まって高くなり、洪水の危険性が高くなったので川の整備が行われた。この整備(治水工事)が記紀で云う八岐大蛇退治です。
岡山県西部の高梁川も3年に1度は洪水を引き起こす暴れ川だった。九州の筑後川も筑紫次郎と云われる暴れ川だったので、その原因の一つが鉄穴流しだったのかもしれない。太郎は利根川で坂東太郎、三郎は吉野川で四国三郎です。
鉄穴流し

鉄穴流しは砂鉄を多く含む山を崩して土砂を水路に落とし、それを下流に流すことで比重の軽い土砂と重い砂鉄を分離する。
鉄穴流しの水路は砂鉄の採掘場から蹈鞴場まで長さは500mから数㎞もあります。蹈鞴場近くでは、流れてきた水を撹拌して軽い土砂を分離させて更に砂鉄の比率を高めた。
この鉄穴流しが全国的に行われていたが、昭和45年成立の水質汚濁防止法により鉄穴流しは禁止された。禁止されてから45年になるが、現在でも大雨の後の山崩れや地すべりなどの災害があり、その内の幾つかは土砂採掘と鉄穴流しの後遺症かと思われる。
記紀の出雲神話では出雲国(島根県)の地名・神名・人名が使われているが、神話の現場は島根県ではなく北部九州にある出雲族支配地(葦原中津国)を指しているように感じます。
高皇産霊(140年頃出生)は西暦185年頃に饒速日(165年頃出生)を大部隊で大和国に東遷させた。西暦200年頃に素戔嗚が亡くなると、高皇産霊は後継者の大国主(160年頃出生)に葦原中津国(北部九州の出雲族支配地)の国譲りを武力で強制した。
高皇産霊は国譲りの後に引き続き、彦火火出見(初代神武天皇、180年頃出生)にも東遷させ、大和朝廷の基礎造りを行った。
これで倭国(北部九州の29ヶ国)は高皇産霊の支配下に入り、高皇産霊亡き後の後継者は天孫族の天忍穂耳が継ぐ。その次は天忍穂耳の子・瓊瓊杵が執行する。祭祀については201年頃に即位した卑弥呼(179年~247年頃)と、248年頃に即位した臺與(235年頃~295年頃)が執り行った。
邪馬台国(筑後川周辺)と投馬国(豊国、福岡県東部と大分県)が倭国を統治した。
出雲族は天孫族に武力で国を奪われ、その子孫が今でも存在しているようです。興味のある方は次の書籍を図書館などでご覧ください。ネット販売でも購入できますが値段は高いです。
吉田大洋著 「謎の出雲帝国」、副題「天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り」
1980年徳間書店
内容に同調できない部分もありますから、その部分は飛ばし読みでいいと思います。勝者が書いた記紀とは違う敗者の歴史が理解できるのではないでしょうか。
インターネットで要約をブログしている人もいるので、「謎の出雲帝国」で検索できます。
出雲の斐伊川周辺には八岐大蛇伝承があり、神楽にもなっている。これは記紀に影響を受けた後付けによる伝承なのか・・・
そして、出雲国風土記に記されている神須佐乃烏命(素盞嗚尊、140年頃~200年頃)は、記紀に記されているような荒々しい神ではない。これも8世紀の記紀の編者によって一方的に決め付けられた性質なのか。
図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

日本書紀によると、高天原を追放されて出雲国へ帰った素戔嗚は、簸の川(ひのかわ)の上流の鳥上(とりかみ)の山に降り立った。そこには脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)の夫婦がいて、娘の奇稲田姫(くしいなだひめ)が八岐大蛇に呑まれるのを恐れて悲しんでいた。
そこで素戔嗚は奇稲田姫を妻としてもらい、奇稲田姫を爪櫛(つまぐし)に変えて髪に挿した。そして脚摩乳と手摩乳に酒を用意させて八岐大蛇が来るのを待った。
案の定、八岐大蛇がやってきた。酒を見つけると八つの頭を八つの桶に入れて酒を飲んだ。八岐大蛇が寝込んだところを素戔嗚は十握の剣(蛇の麁正、おろちのあらまさ)でズタズタに斬った。
尾を斬る時に剣の刃が少し欠けた。尾を割いてみると剣が出てきた。これが天の叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙の剣)である。この剣は天つ神に献上して三種の神器の一つになり、尾張の熱田神宮のご神体になっている。
そして素戔嗚は奇稲田姫との新婚の住まいを探して出雲の須賀に宮を建てた(現:須我神社、島根県雲南市大東町須賀260)。 その時に素戔嗚が詠んだ歌、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
八岐大蛇は「川の氾濫」を古代人なりに表現したものでしょう。八岐大蛇は多くの支流を集めた川(龍)で、毎年氾濫により被害をもたらす。八岐大蛇が毎年娘をさらうのは、村の娘が生贄(人身御供、人柱)にされ氾濫を鎮める祈祷が行われたと考えられる。
氾濫などの自然災害があると、古代人は神に生贄を捧げて被害を避けようとした。12代景行天皇の皇子の日本武尊が東国遠征の際(4世紀前半)、相模の海で暴風が起こり、船が沈みそうになった。つき従ってきた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投げて嵐を鎮めた。
八岐大蛇の退治は川の治水工事のことで、素戔嗚が治水工事に取り掛かり、工事が成功したことを表現している。
八岐大蛇の現場は出雲国ではなく、伯耆国、吉備国、安芸国などとも云われるが、九州筑豊平野の遠賀川(おんががわ)沿いにも素戔嗚尊と八岐大蛇に関する伝承が残っている。
素戔嗚が八岐大蛇を退治した簸の川(ひのかわ)とは出雲の斐伊川ではなく、福岡県宗像地方東端の六ヶ岳(むつがたけ、338.9m)の麓を流れる犬鳴川か遠賀川でしょうか。
天照大神と素戔嗚の誓約(うけい)により生まれた宗像三女神(田心姫、湍津姫、市杵島姫)が六ヶ岳に降臨したとの伝承があり、麓の六嶽神社(むつがたけじんじゃ、福岡県鞍手郡鞍手町室木)に「三女神、三柱様」として祀られている。三女神はここから宗像へ移り住んだと云われ、宗像大社(福岡県宗像市)の祭神となっている。
また、六ヶ岳に天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、天照大神の孫)の御陵があるとも云う。
素戔嗚が八岐大蛇を斬った時に遠賀川が血のように赤く染まったという伝承がある。これは蹈鞴製鉄による鉄穴流し(かんなながし)のことでしょう。
中国地方では山砂鉄を原料として鉄穴流しで鉄を採掘していた。美作国(みまさかのくに、岡山県北部)の鉄穴流しのため旭川の川床が土砂で埋まって高くなり、洪水の危険性が高くなったので川の整備が行われた。この整備(治水工事)が記紀で云う八岐大蛇退治です。
岡山県西部の高梁川も3年に1度は洪水を引き起こす暴れ川だった。九州の筑後川も筑紫次郎と云われる暴れ川だったので、その原因の一つが鉄穴流しだったのかもしれない。太郎は利根川で坂東太郎、三郎は吉野川で四国三郎です。
鉄穴流し

鉄穴流しは砂鉄を多く含む山を崩して土砂を水路に落とし、それを下流に流すことで比重の軽い土砂と重い砂鉄を分離する。
鉄穴流しの水路は砂鉄の採掘場から蹈鞴場まで長さは500mから数㎞もあります。蹈鞴場近くでは、流れてきた水を撹拌して軽い土砂を分離させて更に砂鉄の比率を高めた。
この鉄穴流しが全国的に行われていたが、昭和45年成立の水質汚濁防止法により鉄穴流しは禁止された。禁止されてから45年になるが、現在でも大雨の後の山崩れや地すべりなどの災害があり、その内の幾つかは土砂採掘と鉄穴流しの後遺症かと思われる。
記紀の出雲神話では出雲国(島根県)の地名・神名・人名が使われているが、神話の現場は島根県ではなく北部九州にある出雲族支配地(葦原中津国)を指しているように感じます。
高皇産霊(140年頃出生)は西暦185年頃に饒速日(165年頃出生)を大部隊で大和国に東遷させた。西暦200年頃に素戔嗚が亡くなると、高皇産霊は後継者の大国主(160年頃出生)に葦原中津国(北部九州の出雲族支配地)の国譲りを武力で強制した。
高皇産霊は国譲りの後に引き続き、彦火火出見(初代神武天皇、180年頃出生)にも東遷させ、大和朝廷の基礎造りを行った。
これで倭国(北部九州の29ヶ国)は高皇産霊の支配下に入り、高皇産霊亡き後の後継者は天孫族の天忍穂耳が継ぐ。その次は天忍穂耳の子・瓊瓊杵が執行する。祭祀については201年頃に即位した卑弥呼(179年~247年頃)と、248年頃に即位した臺與(235年頃~295年頃)が執り行った。
邪馬台国(筑後川周辺)と投馬国(豊国、福岡県東部と大分県)が倭国を統治した。
出雲族は天孫族に武力で国を奪われ、その子孫が今でも存在しているようです。興味のある方は次の書籍を図書館などでご覧ください。ネット販売でも購入できますが値段は高いです。
吉田大洋著 「謎の出雲帝国」、副題「天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り」
1980年徳間書店
内容に同調できない部分もありますから、その部分は飛ばし読みでいいと思います。勝者が書いた記紀とは違う敗者の歴史が理解できるのではないでしょうか。
インターネットで要約をブログしている人もいるので、「謎の出雲帝国」で検索できます。
by enki-eden
| 2015-05-18 00:22

