古代史探訪

enkieden.exblog.jp
ブログトップ

奴国から倭国へ

 今回は私見が多いですから、歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる方にはご容赦願いますね。

 魏志倭人伝の云う倭国は対馬・壱岐・松浦・志摩・伊都・奴・投馬・邪馬台など九州北部の29カ国です。
 西暦57年に「奴国王」が後漢に朝貢して金印紫綬を受け、「貿易に関して」倭国を代表するようになった。 107年には「奴国王」帥升が後漢に「倭王」と認められ、貿易だけでなく政治的にも29ヶ国の倭国を統括するようになった。
 しかし後漢では、184年に太平道の教祖・張角らが農民反乱を起こし黄巾の乱が勃発、群雄割拠して後漢が衰退、220年に魏、221年に蜀、222年に呉が起こり三国時代に移っていく。

 倭王兼7代目奴国王の伊弉諾(125年頃出生)は博多湾から唐津に至る海人族を纏めていた。この地域には甕棺墓の江南人(呉人が中心)が多く住み着いた。紀元前4世紀頃から波状的にやってきて、縄文時代から弥生時代へと移ることになる。

 2世紀後半から大陸の戦乱で倭国は後漢と貿易ができない状態となり、後漢の後ろ盾がなくなった奴国王の倭国統率力が低下した。海人族で奴国王兼倭王の伊弉諾は権威失墜、製鉄王の伊弉冉とも争いが発生し184年頃に倭国乱となる。伊弉諾は淡路島に隠遁し、伊弉諾神宮の地で亡くなる。

 伊弉諾の子の綿津見豊玉彦または他の有力王族が倭国(九州北部)の王として立ち上がるが、諸国の反発を受け頓挫し、倭国乱は治まらない。
 201年頃に倭国は再び奴国中心の纏まりを発揮して、奴国王族の卑弥呼(179年~247年頃)が女王に就任。後漢に代わって邪馬台国と投馬国が後ろ盾となり、両国が実質的に倭国を主導する。

 狗奴国(火の国)と邪馬台国は領土紛争や有明海の制海権などで争っていた。この争いは稲作地の争奪、有明海の漁業・海洋交易航路の覇権争いなどであった。

 九州北部を含む全国に影響力を発揮していた素戔嗚が200年頃に亡くなると、末娘・須世理姫の婿である大国主(160年頃~220年頃)が後継者となる。しかし、高皇産霊の強引な圧力により葦原中津国(北部九州の出雲族支配地)の国譲りを強制され、大国主は出雲国(島根県)に戻る。

 図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
d0287413_1065584.jpg

 大陸では黄巾の乱に乗じて、後漢の地方官だった公孫度が2世紀末に遼東地方で政権を築いた。後漢も次の魏も公孫度政権があった為、遼東以東を絶域として、東夷諸国との交易を行えなかった。
 公孫氏は山東半島と楽浪郡にも勢力を伸ばし、204年には公孫度の子公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置、韓を勢力下に置いた。

 236年、公孫淵は魏に反旗を翻し、燕王と称した。しかし238年、魏の司馬懿(179年~251年)の討伐を受け、国都襄平に包囲され、一族ともに滅ぼされた。司馬懿は卑弥呼と同じ時代を生きた。
 新撰姓氏録には、「左京、諸藩、漢、常世連、燕国王公孫淵之後也」、「河内国、諸藩、漢、常世連、燕国王公孫淵之後也」と記されている。渡来人の常世連(とこよのむらじ)は公孫淵の子孫であると主張した。大阪府八尾市神宮寺に常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)が鎮座、常世氏が祖神を祀った。

 3世紀初め、倭国は公孫と交易を行っていたが、公孫が魏に滅ぼされると、卑弥呼は直ちに239年に魏に朝貢し、親魏倭王の金印紫綬を受ける。248年に臺與が卑弥呼の後を継いで女王となる。
 265年に魏が滅び、臺與が266年に晋に朝貢するのを最後に朝貢貿易は途絶える。大陸は内乱と北方民族の侵入により動揺が続いた。

 素戔嗚の第5子・饒速日は185年頃に大和国へ大挙して移住、204年頃に東遷を開始した神武(180年頃~245年頃)も大和国へやってきた。その後も大和国には全国から人々が集まり、政治・経済・文化の中心地となっていった。
 臺與は270年頃(7代孝霊天皇の時代)に大和国へ移住したのか。或いは東遷せずに筑紫国で亡くなったのか。大和国に移住したのであれば臺與が祭祀を司り、10代祟神天皇(250年頃~318年)に全国を支配させたのであろう。

 大陸は戦乱状態で、300年には八王の乱、304年には五胡十六国の乱、国の興亡を繰り返し、貿易は成り立たなかった。倭王讃(16代仁徳天皇か)が413年に東晋に朝貢するまで交易は行われなかった。
                          ***

 記紀では邪馬台国、卑弥呼などについては直接的には触れていない。しかし、神功皇后の記事の中に魏志倭人伝について簡単に触れている。
 なぜ記紀に直接的に書けないのか? それは記紀成立の時期と大きく関わっている。663年に唐と新羅連合軍との白村江の戦いで倭人は1万名も戦死して大敗した。目指した百済復興は不可能となり、百済王族は大和国に亡命した。ここに強烈な反新羅感情が生まれた。記紀の成立はその50年から60年後のことである。従って記紀には反新羅思想が充満している。

 皇室の先祖のことは神話の中に暗号として事実が盛り込まれている。更に、4世紀の神功皇后(321年~389年)の行動に3世紀の邪馬台国の記事を多く含ませている。
 12代景行天皇(285年頃~350年頃)の筑紫巡幸の記事でも、狗奴国は大牟田を中心として肥前と肥後が領域であったと暗号で書いている。(高さ970丈のクヌギ、杵島山から阿蘇山に木の陰が届く。)
 そして、記紀の成立した8世紀の国家意識は非常に旺盛で、中華思想の中国に朝貢した過去の実績を快く思わなかった。日本こそが中心の国家であると考えた。
                              ***

 淡路島の南あわじ市松帆地区で初期の小型銅鐸が7点発見されました。
d0287413_1094210.jpg

 紀元前3世紀から紀元前2世紀の銅鐸7個と青銅の舌(ぜつ、振り子)3本が発見された。高さは20cmから31.8cmで初期の音を聞く銅鐸。重さは1kgから2kg。7個のうち6個は3組の「入れ子」になっており、良好な状態であった。単独の1個は壊れていた。「松帆銅鐸」と名付けられ、島根県の加茂岩倉遺跡出土の銅鐸と似たものがある。
 発見されたのは玉砂利製造販売会社の工場の砂置き場で、松帆地区の農地などから砂利を採取している。銅鐸は丘の傾斜地から発見されることが多いが、今回は平地からの発見です。
 兵庫県の銅鐸出土数はこれで68個になるが、その内21個が淡路島からの出土。松帆地区は淡路島の西南の海岸沿いに立地する。
 2013年9月3日投稿の「淡路国の考古学」をご参照ください。
[PR]
by enki-eden | 2015-05-21 00:04